◆ 日本は韓国を笑えない!
「五輪ファシズム」の仕掛人はマスコミだ (週刊ダイヤモンド)
韓国で文在寅大統領肝いりのアイスホッケー「南北合同チーム」が物議をかもしているが、実は日本でも事情は似たり寄ったり。五輪をスポーツイベントではなく、「国威を見せつけるための政治イベント」として捉えている人が多いからだ。これは韓国や中国、旧ソ連圏などと同様に、日本人が今でも抱えている醜悪な考え方である。(ノンフィクションライター 窪田順生)
◆ スポーツ選手は二の次!
五輪は「政治の祭典」である
今月24日、安倍首相が平昌五輪開会式に出席する意向を固めた、という報道があった。
現時点でまだ正式な発表はされていないが、「従軍慰安婦」に関する日韓合意のちゃぶ台返しにはらわたが煮えくり返っている「ネトウヨ」のみなさんからは、「なぜボイコットしない!」「このまま国交断絶すべきだ!」という怒りの声が上がっている。
このあたりの是非については立派な評論家やジャーナリストの方々が論じていらっしゃるが、個人的にそれよりも興味深いのは、多くの人が薄々勘づいていながらも目をそらし続けきた「現実」が、今回のドタバタによって、図らずも浮かび上がってきてしまったことだ。
それは、五輪が「スポーツの祭典」というのは建前的な理想論であって、その実態は脂ギッシュなおじさんたちが駆け引きを行う、コテコテの「政治の祭典」に過ぎない――という「醜悪な現実」である。
本来はアスリートという「個人」が競い合い、「国家」はそれを応援するものなのに、いつの間にやら当事者よりも、「国家」の方が前のめりになって、「五輪で友好」「五輪で景気回復」「五輪で世界中にこの国の素晴らしさを誇示するチャンス」などというスケベ心が大きくなっていく。
自民党の二階幹事長が16日の記者会見で首相開会式出席について、「大変重要な政治課題」と述べたが、この言葉からもわかるように、ほとんどの政治家は、五輪を国家の威信やメッセージを表明する政治的パフォーマンスの場だと思い込んでいる。
それの何が悪いという愛国心溢れる方もいるかもしれないが、大変マズい。
◆ 韓国大統領の鶴の一声で韓国人選手3人が涙を飲んだ
「国家」が何よりも優先されると、そのしわ寄せは必ず、本来の主役であるはずのアスリートにもたらされる。つまり、「全体の利益のため」という掛け声のもと、力のない個人が犠牲にされる「五輪ファシズム」ともいうべき現象が起きてしまうからだ。
分かりやすいのが、開催国・韓国の文在寅大統領が、アイスホッケーの女子代表チームに北朝鮮の選手を「友好枠」として最低3人起用するようにねじ込んだ「南北合同チーム」だ。代表監督を務めるカナダ人女性は、メディアのインタビューでこんな風に述べている。
「政治的な目的に自分たちのチームが使われていることはつらい。韓国の選手が3人出られなくなると聞いた時もつらかった」
4年間、必死に頑張ってきたアスリートの権利より「南北融和」。「個人、団体の選手間の競争であり、国家間の競争ではない」というオリンピック憲章などハナから存在しないような国家主義、全体主義である。
いやいや、それは韓国という国がアレだから、という人もいるかもしれないが、五輪の歴史を振り返ってみると、「全体主義」に毒されていない大会を探す方が骨が折れる。
1936年、IOCが「政治利用しないから」と説得してアメリカなど西側諸国の参加にこぎつけたベルリン五輪も結局、ヒトラーの「PRイベント」となったのは有名な話だが、このノリは戦後もみっちり続いている。
冷戦時代には、アメリカとソ連が自国の優位性をメダル数で競った。国家の威信を示すために、時にはドーピングも辞さず、その悪しき伝統はロシアに受け継がれている。
また、ソ連崩壊後は、ウクライナなどの国々が開会式で、統一旗ではなく独自の旗を掲げることで、自分たちの正当性をアピールしたように、自国民のナショナリズム発揚の場にもされてきた。
◆ マスコミ総出で自国勢を応援する
世界でも珍しい日本のカルチャー
どんなに「スポーツに国境はない」と美辞麗句を謳ったところで、「国別対抗」という、一部の国や民族のナショナリズムを刺激する大会コンセプトを続けている以上、どうしても「五輪ファシズム」という問題が引き起こされてしまう構造なのだ。
しかも、もっと言ってしまうと、実は我々日本はお隣の韓国に負けず劣らず、「五輪ファシズム」に陥ってしまう危険性がある。
それを如実に示しているのが、日本の「五輪報道」の異常性だ。
テレビでは大会期間中、日本人選手の活躍を朝から晩まで放映して、アナウンサーは「がんばれ日本!」と絶叫する。選手の地元などでは、日の丸を振ってみんなで観戦することも多い。新聞やニュースでも、今日まで日本勢がいくつのメダルを獲得しました、という話題がトップを飾って、前回よりも多い少ないと一喜一憂する。
ごく普通のことじゃないかと思うかもしれないが、実は世界的に見ると、五輪をマスコミ総出で大騒ぎする国はかなり珍しい。たとえば、アメリカやヨーロッパでは五輪に無関心な人も多く、その競技を過去にやっていたとかの熱心なファンでなければ、徹夜でテレビにかじりつくなんて人の方が少ない。
なぜか。詳しくは拙著『「愛国」という名の亡国論 日本人スゴイ!が日本をダメにする』(さくら舎)を読んでいただきたいが、ひとつの大きな理由としては、「スポーツ」というものに対する基本的な考え方の違いがある。
多くの国では、その国のメジャースポーツに国民の関心が集まって、そのスポーツなら海の向こうのパフォーマンスも見てみたいとなる。だから、高い技術を持つプレーヤーは、国籍や人種を問わずリスペクトされ、国を超えてファンもできる。
こういうカルチャーの人たちに、五輪の「国別対抗運動会」という座組みは正直、ピンとこない。国によってはほとんどなじみのないスポーツも多いので、自国の「代表」といっても顔も知らないし、感情移入も難しい。もちろん、自分の国なので応援をしたい気持ちはあるだろうが、パフォーマンスの良し悪しもわからないので、徹夜して国旗を振るまでの熱意は持てないのだ。
◆ 五輪ファシズムが蔓延するのは日本や一部アジア、旧ソ連圏など
これと対照的なのが、日本や一部アジア諸国、旧ソ連圏などの国々である。普段は観客席がガラガラというマイナースポーツであっても、「自国勢が強い」ということになった途端、国民の関心が急に集まり、「五輪」の期間中は「にわか熱狂ファン」が大量発生するのだ。
つまり、我々が五輪にここまで熱狂しているのは、「スポーツ」を愛しているからではなく、「日本人の活躍」を愛しているから、とも言えるのだ。
なんてことを言うと、「日本人を侮辱する反日ライターめ!」とまた激しいバッシングにさらされそうだが、私が問題視しているのは日本人ではなく、マスコミだ。我々の頭に「五輪=日本人同胞の活躍を見ていい気分になる愛国イベント」という常識が刷り込まれているのは、近代オリンピックが始まってから、日本のマスコミが延々と続けてきた「五輪報道」による弊害なのだ。
前述したように、ほとんどの国では、純粋に「スポーツ」であり、アスリート個人のパフォーマンスの成果だと捉える。だから、評価されるのは個人の能力であり、個人の努力だ。当然、世界の「五輪報道」では個人を讃える。
しかし、日本のマスコミは最初に大きなボタンの掛け違いをする。スポーツの評価を「個人」ではなく「日本人全体」にすり替えてしまったのだ。
分かりやすいのが、1936年10月30日の「読売新聞」に出た大きな見出しだ。
「諸君喜べ 日本人の心臓は強い強い、世界一 オリムピツクに勝つのも道理 統計が語る新事実」
これは当時の「国民体力考査委員会」の調査で、心臓病と癌が原因で亡くなる人の割合が欧米人と比較して少ないということを報じたものなのだが、なぜか強引にこの年開催されたベルリン五輪で、日本人選手がマラソンや水泳で金メダルを獲得したことに結び付けている。
◆ 五輪の重圧が関係者を追いつめる
自殺や犯罪に走る人も
「いや、それは当時の軍国主義が…」とかいう話に持っていく人がいるが、今でも五輪代表の活躍を実況中継するアナウンサーが「見たか、競泳日本の底力!!」などと叫ぶように、高いパフォーマンスを見せた「個人」を褒め称えるのではなく、「みんなの勝利」にすり替える、という基本的なマスコミのスタンスは、戦争を挟んでもこの80年、一貫して変わっていない。
つまり、我々が五輪を純粋なスポーツイベントではなく、「日本人の活躍」に熱狂する愛国イベントとして楽しむようになってしまったのは、「個人」の業績を「日本全体」の業績にうまく拡大解釈するマスコミの報道姿勢からなる「教育」によるものなのだ。
このあたりこそ「五輪ファシズム」に陥りがちな最大の理由だが、実は残念なことに、すでにその兆候が出てきている。
東京五輪は3つの基本コンセプトに基づいているが、その中のひとつに「全員が自己ベスト」とある。アスリートはもちろんのこと、『ボランティアを含むすべての日本人が、世界中の人々を最高の「おもてなし」で歓迎』するというのだ。
素晴らしいと思う一方で、五輪に対して特に思い入れのない人まで、「みんなのため」に死力を尽くせ、さもなくば日本人にあらず、みたいなノリにも聞こえて、一抹の不安がよぎる。
昨年、新国立競技場建設に携わっていた、若い現場監督が過労自殺をした。
最近では、一度引退を決意したアスリートが妻や周囲に応援されて復帰。「どうしても五輪に出ねば」という重圧に苛まれ、ライバルに違法薬物を飲ませるという卑劣な犯罪に走った。
誰に命じられたわけではないのに、「五輪」という言葉に急き立てられ、「自己ベスト」を尽くした結果、疲弊して自分自身を見失ってしまったのだろうか。彼らもある意味、「五輪ファシズム」の犠牲者ではないのか。
◆ 「景気回復五輪」「復興五輪」…
過大な期待はアスリートの重荷に
戦後、日本最大の「政治イベント」だった1964年の東京五輪で銅メダルを取り、国民的スターになったマラソン選手の円谷幸吉氏は、続くメキシコシティ五輪では「金」を期待される中で、その重圧に苦しみ、最後は自ら命を絶った。遺書にはこう書かれていた。
「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
「自己ベストを尽くせ」という声は時に、「個人」をここまで追い詰める。走るのはあくまで「個人」であり、我々は単なる傍観者にすぎないのだが、この大事な基本を忘れた論調が、今の日本には多すぎる。
ある人は「景気回復五輪」だと思っているし、「最後の建設バブル五輪」と算盤をはじく人もいる。「日本人のすごさを世界に見せつける五輪」だと勘違いしている人もいれば、そうではなく「復興五輪」にしてほしいと願う人もいる。
それぞれの人たちに、そう望むのも無理ないような理由があるのだろうが、外野の思惑が多ければ多いほど、主役であるアスリートに犠牲を強いることになる。
日本人の繁栄のための国威発揚イベントだと捉えたところから、「五輪ファシズム」の罠は始まる。我々はあまりにも多くのことを「五輪」に期待しすぎてはいないか。アスリート個人だけが評価されるべきことなのに、彼らに日本人全体の評価を背負わせてはいないか。
韓国の「南北合同チーム」の醜悪さを他山の石として、「五輪」とはいったい誰のものなのかを、改めて考えたい。
『週刊ダイヤモンド』(2018年1月25日)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180125-00157079-diamond-soci
「五輪ファシズム」の仕掛人はマスコミだ (週刊ダイヤモンド)
韓国で文在寅大統領肝いりのアイスホッケー「南北合同チーム」が物議をかもしているが、実は日本でも事情は似たり寄ったり。五輪をスポーツイベントではなく、「国威を見せつけるための政治イベント」として捉えている人が多いからだ。これは韓国や中国、旧ソ連圏などと同様に、日本人が今でも抱えている醜悪な考え方である。(ノンフィクションライター 窪田順生)
◆ スポーツ選手は二の次!
五輪は「政治の祭典」である
今月24日、安倍首相が平昌五輪開会式に出席する意向を固めた、という報道があった。
現時点でまだ正式な発表はされていないが、「従軍慰安婦」に関する日韓合意のちゃぶ台返しにはらわたが煮えくり返っている「ネトウヨ」のみなさんからは、「なぜボイコットしない!」「このまま国交断絶すべきだ!」という怒りの声が上がっている。
このあたりの是非については立派な評論家やジャーナリストの方々が論じていらっしゃるが、個人的にそれよりも興味深いのは、多くの人が薄々勘づいていながらも目をそらし続けきた「現実」が、今回のドタバタによって、図らずも浮かび上がってきてしまったことだ。
それは、五輪が「スポーツの祭典」というのは建前的な理想論であって、その実態は脂ギッシュなおじさんたちが駆け引きを行う、コテコテの「政治の祭典」に過ぎない――という「醜悪な現実」である。
本来はアスリートという「個人」が競い合い、「国家」はそれを応援するものなのに、いつの間にやら当事者よりも、「国家」の方が前のめりになって、「五輪で友好」「五輪で景気回復」「五輪で世界中にこの国の素晴らしさを誇示するチャンス」などというスケベ心が大きくなっていく。
自民党の二階幹事長が16日の記者会見で首相開会式出席について、「大変重要な政治課題」と述べたが、この言葉からもわかるように、ほとんどの政治家は、五輪を国家の威信やメッセージを表明する政治的パフォーマンスの場だと思い込んでいる。
それの何が悪いという愛国心溢れる方もいるかもしれないが、大変マズい。
◆ 韓国大統領の鶴の一声で韓国人選手3人が涙を飲んだ
「国家」が何よりも優先されると、そのしわ寄せは必ず、本来の主役であるはずのアスリートにもたらされる。つまり、「全体の利益のため」という掛け声のもと、力のない個人が犠牲にされる「五輪ファシズム」ともいうべき現象が起きてしまうからだ。
分かりやすいのが、開催国・韓国の文在寅大統領が、アイスホッケーの女子代表チームに北朝鮮の選手を「友好枠」として最低3人起用するようにねじ込んだ「南北合同チーム」だ。代表監督を務めるカナダ人女性は、メディアのインタビューでこんな風に述べている。
「政治的な目的に自分たちのチームが使われていることはつらい。韓国の選手が3人出られなくなると聞いた時もつらかった」
4年間、必死に頑張ってきたアスリートの権利より「南北融和」。「個人、団体の選手間の競争であり、国家間の競争ではない」というオリンピック憲章などハナから存在しないような国家主義、全体主義である。
いやいや、それは韓国という国がアレだから、という人もいるかもしれないが、五輪の歴史を振り返ってみると、「全体主義」に毒されていない大会を探す方が骨が折れる。
1936年、IOCが「政治利用しないから」と説得してアメリカなど西側諸国の参加にこぎつけたベルリン五輪も結局、ヒトラーの「PRイベント」となったのは有名な話だが、このノリは戦後もみっちり続いている。
冷戦時代には、アメリカとソ連が自国の優位性をメダル数で競った。国家の威信を示すために、時にはドーピングも辞さず、その悪しき伝統はロシアに受け継がれている。
また、ソ連崩壊後は、ウクライナなどの国々が開会式で、統一旗ではなく独自の旗を掲げることで、自分たちの正当性をアピールしたように、自国民のナショナリズム発揚の場にもされてきた。
◆ マスコミ総出で自国勢を応援する
世界でも珍しい日本のカルチャー
どんなに「スポーツに国境はない」と美辞麗句を謳ったところで、「国別対抗」という、一部の国や民族のナショナリズムを刺激する大会コンセプトを続けている以上、どうしても「五輪ファシズム」という問題が引き起こされてしまう構造なのだ。
しかも、もっと言ってしまうと、実は我々日本はお隣の韓国に負けず劣らず、「五輪ファシズム」に陥ってしまう危険性がある。
それを如実に示しているのが、日本の「五輪報道」の異常性だ。
テレビでは大会期間中、日本人選手の活躍を朝から晩まで放映して、アナウンサーは「がんばれ日本!」と絶叫する。選手の地元などでは、日の丸を振ってみんなで観戦することも多い。新聞やニュースでも、今日まで日本勢がいくつのメダルを獲得しました、という話題がトップを飾って、前回よりも多い少ないと一喜一憂する。
ごく普通のことじゃないかと思うかもしれないが、実は世界的に見ると、五輪をマスコミ総出で大騒ぎする国はかなり珍しい。たとえば、アメリカやヨーロッパでは五輪に無関心な人も多く、その競技を過去にやっていたとかの熱心なファンでなければ、徹夜でテレビにかじりつくなんて人の方が少ない。
なぜか。詳しくは拙著『「愛国」という名の亡国論 日本人スゴイ!が日本をダメにする』(さくら舎)を読んでいただきたいが、ひとつの大きな理由としては、「スポーツ」というものに対する基本的な考え方の違いがある。
多くの国では、その国のメジャースポーツに国民の関心が集まって、そのスポーツなら海の向こうのパフォーマンスも見てみたいとなる。だから、高い技術を持つプレーヤーは、国籍や人種を問わずリスペクトされ、国を超えてファンもできる。
こういうカルチャーの人たちに、五輪の「国別対抗運動会」という座組みは正直、ピンとこない。国によってはほとんどなじみのないスポーツも多いので、自国の「代表」といっても顔も知らないし、感情移入も難しい。もちろん、自分の国なので応援をしたい気持ちはあるだろうが、パフォーマンスの良し悪しもわからないので、徹夜して国旗を振るまでの熱意は持てないのだ。
◆ 五輪ファシズムが蔓延するのは日本や一部アジア、旧ソ連圏など
これと対照的なのが、日本や一部アジア諸国、旧ソ連圏などの国々である。普段は観客席がガラガラというマイナースポーツであっても、「自国勢が強い」ということになった途端、国民の関心が急に集まり、「五輪」の期間中は「にわか熱狂ファン」が大量発生するのだ。
つまり、我々が五輪にここまで熱狂しているのは、「スポーツ」を愛しているからではなく、「日本人の活躍」を愛しているから、とも言えるのだ。
なんてことを言うと、「日本人を侮辱する反日ライターめ!」とまた激しいバッシングにさらされそうだが、私が問題視しているのは日本人ではなく、マスコミだ。我々の頭に「五輪=日本人同胞の活躍を見ていい気分になる愛国イベント」という常識が刷り込まれているのは、近代オリンピックが始まってから、日本のマスコミが延々と続けてきた「五輪報道」による弊害なのだ。
前述したように、ほとんどの国では、純粋に「スポーツ」であり、アスリート個人のパフォーマンスの成果だと捉える。だから、評価されるのは個人の能力であり、個人の努力だ。当然、世界の「五輪報道」では個人を讃える。
しかし、日本のマスコミは最初に大きなボタンの掛け違いをする。スポーツの評価を「個人」ではなく「日本人全体」にすり替えてしまったのだ。
分かりやすいのが、1936年10月30日の「読売新聞」に出た大きな見出しだ。
「諸君喜べ 日本人の心臓は強い強い、世界一 オリムピツクに勝つのも道理 統計が語る新事実」
これは当時の「国民体力考査委員会」の調査で、心臓病と癌が原因で亡くなる人の割合が欧米人と比較して少ないということを報じたものなのだが、なぜか強引にこの年開催されたベルリン五輪で、日本人選手がマラソンや水泳で金メダルを獲得したことに結び付けている。
◆ 五輪の重圧が関係者を追いつめる
自殺や犯罪に走る人も
「いや、それは当時の軍国主義が…」とかいう話に持っていく人がいるが、今でも五輪代表の活躍を実況中継するアナウンサーが「見たか、競泳日本の底力!!」などと叫ぶように、高いパフォーマンスを見せた「個人」を褒め称えるのではなく、「みんなの勝利」にすり替える、という基本的なマスコミのスタンスは、戦争を挟んでもこの80年、一貫して変わっていない。
つまり、我々が五輪を純粋なスポーツイベントではなく、「日本人の活躍」に熱狂する愛国イベントとして楽しむようになってしまったのは、「個人」の業績を「日本全体」の業績にうまく拡大解釈するマスコミの報道姿勢からなる「教育」によるものなのだ。
このあたりこそ「五輪ファシズム」に陥りがちな最大の理由だが、実は残念なことに、すでにその兆候が出てきている。
東京五輪は3つの基本コンセプトに基づいているが、その中のひとつに「全員が自己ベスト」とある。アスリートはもちろんのこと、『ボランティアを含むすべての日本人が、世界中の人々を最高の「おもてなし」で歓迎』するというのだ。
素晴らしいと思う一方で、五輪に対して特に思い入れのない人まで、「みんなのため」に死力を尽くせ、さもなくば日本人にあらず、みたいなノリにも聞こえて、一抹の不安がよぎる。
昨年、新国立競技場建設に携わっていた、若い現場監督が過労自殺をした。
最近では、一度引退を決意したアスリートが妻や周囲に応援されて復帰。「どうしても五輪に出ねば」という重圧に苛まれ、ライバルに違法薬物を飲ませるという卑劣な犯罪に走った。
誰に命じられたわけではないのに、「五輪」という言葉に急き立てられ、「自己ベスト」を尽くした結果、疲弊して自分自身を見失ってしまったのだろうか。彼らもある意味、「五輪ファシズム」の犠牲者ではないのか。
◆ 「景気回復五輪」「復興五輪」…
過大な期待はアスリートの重荷に
戦後、日本最大の「政治イベント」だった1964年の東京五輪で銅メダルを取り、国民的スターになったマラソン選手の円谷幸吉氏は、続くメキシコシティ五輪では「金」を期待される中で、その重圧に苦しみ、最後は自ら命を絶った。遺書にはこう書かれていた。
「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
「自己ベストを尽くせ」という声は時に、「個人」をここまで追い詰める。走るのはあくまで「個人」であり、我々は単なる傍観者にすぎないのだが、この大事な基本を忘れた論調が、今の日本には多すぎる。
ある人は「景気回復五輪」だと思っているし、「最後の建設バブル五輪」と算盤をはじく人もいる。「日本人のすごさを世界に見せつける五輪」だと勘違いしている人もいれば、そうではなく「復興五輪」にしてほしいと願う人もいる。
それぞれの人たちに、そう望むのも無理ないような理由があるのだろうが、外野の思惑が多ければ多いほど、主役であるアスリートに犠牲を強いることになる。
日本人の繁栄のための国威発揚イベントだと捉えたところから、「五輪ファシズム」の罠は始まる。我々はあまりにも多くのことを「五輪」に期待しすぎてはいないか。アスリート個人だけが評価されるべきことなのに、彼らに日本人全体の評価を背負わせてはいないか。
韓国の「南北合同チーム」の醜悪さを他山の石として、「五輪」とはいったい誰のものなのかを、改めて考えたい。
『週刊ダイヤモンド』(2018年1月25日)
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