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東京「君が代」裁判・第五次訴訟/第四回口頭弁論原告側意見陳述要旨②日本人らしさの画一化

2022年04月30日 | 日の丸・君が代関連ニュース
  【五次訴訟/第四回口頭弁論原告側意見陳述から】
 ◆ 原告 鈴木 毅 意見陳述要旨
   (2022年4月28日 東京地裁709号法廷)


 原告の鈴木たけしです。私は「10・23通達」発出直後の2004年に卒業式での「君が代」不起立による戒告処分を受けて以来、これまで4回の懲戒処分を受けてきました。そのうち、減給処分1件が2015年1月の三次訴訟判決で取り消されましたが、3ヶ月後に再処分を受けています。
 本日は、なぜ私がくりかえし処分を受けてきたのかということについて、述べさせていただきます。
 私が教師となって4年目の1989年。学習指導要領が改訂され、国旗国歌に関する条項の文言が「入学式、卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」に変えられました。
 そして各学校は、都教委から「日の丸」掲揚を徹底するよう求められるようになりました。
 当時の卒入学式は、職員会議で十分に議論され、合意に至った内容で実施されていました。
 当時私が勤務していた学校では、1990年度の卒業式の実施に向けて、都教委の意を受けた校長から、「日の丸」掲揚を加える修正提案があり、議論が行われました。
 会議では掲揚に反対する意見がほとんどでしたが、会議終了前に校長は「掲揚は教職員の意向とは関係なくやる」と宣言して、それまでの合意の上で卒業式を実施するというやり方が否定されることになりました。
 校長は、卒業式の当日朝、教頭を使って「日の丸」を屋上のポールに掲揚させようとしたので、私を含めた教員たちが、校長に話し合いを続けるよう求めました。すると校長は、やおら「あなたたちは公務員か?」「公務員は法令に従う義務がある」と言い出しました。
 そののち、話し合いは始まったのですが、その中で校長は唐突に、「あなたたちは日本人か?」と言ってきました。話はあまり噛み合わず、校長がその場を立ち去ったことで打ち切りになりました。
 この出来事について私は、「論争があり、合意を得られないことを独断専行でやろうとした校長の行為はおかしい」という、教員集団の教育指導に関する意思決定のあり方が問われた一つの課題として、とらえていました。
 「日の丸」掲揚については、個人的には「日の丸」に愛着もありましたが、嫌悪感を持つ人も多いし、別に「日の丸」がなくても卒業式の進行には何の支障もないのだから、無理して掲揚することはないだろう、というのが率直な思いでした。
 しかしこの時校長に、「あなたたちは日本人か?」言われたことは、私の頭の中にずっと残っていきました。そして「日の丸・君が代」が話題となるたびに、この時のシーンがよみがえり、考えさせられました。
 やがてその後、「10・23通達」体制下で「君が代」起立斉唱の強制が進められていく中で、この言葉こそ、実は「日の丸・君が代」強制問題の本質を象徴する言葉だったのだと確信を持つようになりました。
 「日の丸」「君が代」といった「日本」のシンボルを受け容れ、敬愛する者が「日本人」である。逆に「日本人」であれば、「日本」のシンボルを敬愛すべきである。このことを学校は生徒に教え込まなければならない。このことに疑義を挟む教員などはもってのほかで、排除されて当然だ、例外は許さない…という、全体主義にもつながる論理です。
 シンボルにどういう態度を取るかという問題は、きわめて個人的な問題、つまり個人の思想や良心の問題です。
 しかし、それを求める側、つまり国旗などのシンボルへの尊重や服従を強要する側に立つとなると、それは全く別の問題になります。
 私は、学校現場における「日の丸・君が代」指導の問題は、公権力の側にある教師が、シンボルへの隷従を強要する側に立つか否かが問われる問題としてとらえなければならない、と考えるようになりました。
 1990年以降、「日の丸」は、ほどなく全学校で掲揚されるようになりました。するとその後、都教委は「君が代」斉唱の実施を求めるようになりました。
 しかし「君が代」は、天皇を称賛する歌詞を持つため、個人の内心の自由の保障の観点からすると、「日の丸」掲揚よりも大きな問題をはらんでいます。
 職員会議では、生徒や保護者に「内心の自由は保障される。起立斉唱を強制するものではない」と、事前の説明を行うことを条件として、「君が代」斉唱の実施が合意され、卒業式などでの「君が代」斉唱が実施されるようになりました。
 私も担任をするクラスで、「式場では、国歌斉唱で起立や斉唱を求められるが、イヤだなと思う人は起立や斉唱をしなくても問題はない」ということを生徒に伝え続けました。
 しかし、2003年に「10・23通達」が出されてから、「国旗」に向かって起立し、「国歌」を斉唱すること、という職務命令が全教職員に出されるようになりました。
 これは、教職員が率先垂範して国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを求め、生徒に同様の行為を一律に行わせるという狙いがありました。
 その証拠に、都教委は生徒・保護者に対する「内心の自由」に関する事前の説明を禁止し、のちには、卒業式の進行台本に「起立しない生徒には、起立を促す」という指示を、書き込ませるようになったことからも明らかです。
 これを「生徒に対する起立斉唱の強制」と言わずして、どう表現できるでしょうか?
 そして公権力の末端の位置に立つ教員が、このような行為をすること、あるいはこのような行為に加担することが、憲法上許されるものでしょうか?
 私は社会科の教員です。「個人の尊重」が憲法上の原理として、いかに優位に立つものであるかについての理解もあります。そして教師は生徒の人権を擁護する使命を負っているとの自覚もあります。
 私は、教師としての信念からも、また憲法の理念に照らしても、生徒の思想・良心の自由を侵すおそれのある行為をすることは、できませんでした。
 私は、命令と処分を背景に、教職員のみならず、生徒に起立斉唱を強いるやり方を是認することはできません。
 「10・23通達」発出以降、欠かさず職務命令を出す校長に対して、私はその都度異議を申立ててきましたが、職務命令が撤回されたことは一度もありませんでした。
 このような状況下で行われる式に際して、私は、生徒の人権を侵すおそれのある「国歌斉唱」の業務においては、「協力しない」「加担しない」という態度で臨むほかはありませんでした。
 通達が出てから18年間に渡って行われきた卒入学式において私は、多くの場合は「国歌斉唱」時に式場外での警備や受付などの業務にあたっていましたが、卒業学年の担任として式場内で「国歌斉唱」に臨んだ際は、起立せず、斉唱しなかったため、これまでに戒告処分を2回、減給処分を2回の計4回の懲戒処分を受けてきたのです。
 生徒に対する「国歌」斉唱の圧力が強まり、絶望的な状況に至らないよう、裁判所には「10・23通達」の持つ本質的問題について十分吟味していただき、賢明なる判断を求めるものです。
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