【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<3>
3,公教育は、個人のためか、国家のためか
(1)佐々木流国家主義教育論
佐々木論文のもう一つおかしな点が、「教育の公共性」や「社会権」についての通俗的な誤解である。どうやら佐々木氏は、教育とは私のものではなく、公のもの(だから国家の営み)と信じて疑わないらしい(公共と公権力の同一視)。
<式次第に国歌斉唱部分を含めることは、国家=学校の正当な権眼の範囲内の事柄だ、>(p70)
<「教師の教育権」の語が、教師という機関に委託された公の権限ではなく教師個人の権利として理解されたなら、それは間違っていたと言うしかない。>(p66)
<他の場面では認められる「人権」主張が、学校現場における教育公務員との関係では、「人権」主張に対立する公共利益の強さのために、認められない、ということがあるかもしれない。>(p66)
佐々木氏は、国家と学校を等式で結びつけ、さらに教員を国家から教育を委託された機関と定義づける。
その結果、具体的には職務としての国旗国歌への忠誠儀式は「外面的行為(y)」に当たるから、教員の「人権」より優先する「公共利益」としてしまうのだ。
ここで検討が必要なのは、まず佐々木氏が自明のように扱う、「国家=学校」の等式や、「教師機関説」が、戦後の教育論の通説と言えるのかどうかであり、次に「起立斉唱」は「公共利益」と言えるか、である。
戦後の教育の民主化とは、佐々木氏にとっては一体何だったのだろうか。
(2)個人のための教育~教育史を振り返れば
①「学問は身を立つるの財本」
日本の近代教育は、「個人のための教育」からスタートした。明治になって最初の『学制』(1872年)は、天下国家の為の学問を「空理虚談」と否定し、「個人のため」の実学主義を明確な目標として掲げていた。
それがほどなく、自由民権運動の高まりへの当局の恐怖から、封建道徳を復活させた「国家主義教育」に転換していき、「実学主義」に対して「徳育主義」、「個人のため」に対して「国家のため」に方向転換したことは周知の事実である。しばらく国家主義的教育が続く。
教育は国民の「義務」とされ(『小学校令』1886)、戦前の憲法に「教育」の文言はなく、『教育勅語』や『国民学校令』に代表される勅令主義による、文字通り天皇のため国家のための教育が展開されていった。
②義務としての教育から、権利としての教育へ
敗戦により神権天皇制は崩壊し、国家主義教育は否定される。戦後教育改革の原理的転換とは、教育が「国民の義務」から「国民の権利」になったこととされる。
戦後は憲法26条に「教育」が国民の権利として明記され、勅令主義から法律主義に変わった。「教育を受ける権利」は、「法律の定めるところ」により保障される。その法律は、法律で行政をコントロールするために、教育内容規制法ではなく、教育条件整備立法であることが要求されている。
教育は国民の側の「権利」であって、国家による国民に対する「恩恵」ではない。またその権利は、個人が国家に保障を要求できる「社会権」であることも見逃してはならない。
(3)社会権である教育
教育の権利が「社会権」であること(自由権ではない)という観点が欠けたまま、佐々木氏は次のように問いかける。
<公権力が学校教育を通じて、何を、どのように教えることが憲法上、要請され許容されまた禁止されているか、という、未だ十分な解明がなされていない難問がある。>(p56)
この問いは、個人と国家が逆立ちしている。権利の主体は国民であって公権力ではない。問題の立て方は、国民の「教育を受ける権利」は国によってどこまで保障されるか、でなければならない。
①学校教育の公共性
「学校教育の公共性」とは、伝統的な国家(ないし行政)が独占する「公」ではなく、市民的自由を有する主権者が、客体ではなく主体として教育という「社会権」を国家に要求していくこととされる。
「公教育」とは「公権力」が統制することではない。「公共の福祉」の実現である。その主体は主権者である。「教育行政」は統治機構の一環であって権力的性格を持つから、条件整備にしか関われないというのが通説である。
教育内容の憲法上の許容範囲を確定するのは、裁判官でも、憲法学者でも、行政権力でもない。直接的に国民である。それが戦後の民主化であって、「教育を受ける権利」を保障するのは、公権力(教育行政)ではなく、国民全体に対し直接的に責任を負う「公共」でなければならない。佐々木氏には憲法学者なのに国民主権の視点が希薄である。
②社会権の常識的理解
自由権が国家の干渉を極力排除して成立する権利であるのに対して、社会権は国の施策によって個人に保障される権利とされる。すなわち「公共」の名において一部強者の無制限の自由を制限することによって社会全体に平等に保障される権利である。
教育もその意味の「社会権」であって、国の責務で国民に保障される「権利」である。間違っても、国から施される「恩恵」でもなければ、まして佐々木氏の言う「義務免除」の範疇のものではない。
少数者(例えば障害者でも高齢者でも)に「特別扱い」を認めることは、「義務を免除する」のではなく「権利を保障する」のである。前者の言い方だと「少数者の特権」に聞こえてしまうが、生きる権利を社会の中で平等に保障するために「ノーマライゼーション」を実現するのが国家の役割であって、そのために「多数者」の権利を一定抑制することこそが福祉国家の仕事なのではないか。ナショナルミニマムの実現は国の責務である。施される者が、注文をつけたり、自己主張するなんてとんでもない、つべこべ言わずに施された教育をありがたく頂戴しなさい、では「国家主権・国民奴隷」なのである。
国民は教育について、政府言論の受動的客体ではなく、一人一人が主権者として能動的主体なのである。
③個性の尊重に有害な俗流多数決万能論
佐々木氏は「多数決」を持ち出して、一律的な公権力の介入を憲法問題の外に置こうとするかのようである。
<『君が代』を歌うことに特に問題を感じない児童・生徒との関係では、憲法上の問題を生じない。>(p3)
これではまるで、多数派に問題が無ければ、「憲法問題」が存在しないかの如くである。人種差別は米国内の白人には憲法上の問題を生じないとか、政府が踏み絵をやってもキリシタン以外の国民には憲法上の問題を生じないという言い方を強いて行うことに何か意味があるのだろうか。「人権」を少数者の個別の問題に矮小化してみせる詐術としか思えない。
人権を保障するとは、例外の少数者を個別に救うことではなく、差別する「制度」を作らない、廃止することである。人権の領域に、多数決は無縁である。
<足のサイズが人各々のように、精神の構造も皆同じと言うことはあり得ない。…それだけで人間を一つの型にはめようとしてはいけない理由として十分である>〔J.S.ミル『自由論』〕
世界中60億人の人々の誰一人として同一(same)の人間はいないのであって、どんな人でも自らの個性を尊重されるのが人間の尊厳である。同じサイズのお仕着せは、個性の否定であり「平等」とは呼ばない(画一化=悪平等)。
佐々木氏の言い方を借りれば、Mサイズの体操着しか用意しなかった場合、Mサイズの生徒たちに「憲法問題は発生していない」、SサイズやLサイズの個別の問題とされてしまいそうだが、Mサイズの服に体を合わせさせるような画一的な押しつけが生徒全体にとっての「憲法問題」なのである。
卒業式での「君が代」強制も、抵抗感を持つ一部の生徒だけの問題ではなく、参列する生徒全員へ画一的に強制する儀式そのものが「憲法問題」なのである。
もし一義的な「政府言論(government speech)」の一方的注入が教育であると称するなら、それは民主社会ではなく、全体主義国家の教育なのである。国が「教育権」を保障するとは、教育内容の統制のことではないのである。
(続)
【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<4>
http://wind.ap.teacup.com/people/4575.html
3,公教育は、個人のためか、国家のためか
(1)佐々木流国家主義教育論
佐々木論文のもう一つおかしな点が、「教育の公共性」や「社会権」についての通俗的な誤解である。どうやら佐々木氏は、教育とは私のものではなく、公のもの(だから国家の営み)と信じて疑わないらしい(公共と公権力の同一視)。
<式次第に国歌斉唱部分を含めることは、国家=学校の正当な権眼の範囲内の事柄だ、>(p70)
<「教師の教育権」の語が、教師という機関に委託された公の権限ではなく教師個人の権利として理解されたなら、それは間違っていたと言うしかない。>(p66)
<他の場面では認められる「人権」主張が、学校現場における教育公務員との関係では、「人権」主張に対立する公共利益の強さのために、認められない、ということがあるかもしれない。>(p66)
佐々木氏は、国家と学校を等式で結びつけ、さらに教員を国家から教育を委託された機関と定義づける。
その結果、具体的には職務としての国旗国歌への忠誠儀式は「外面的行為(y)」に当たるから、教員の「人権」より優先する「公共利益」としてしまうのだ。
ここで検討が必要なのは、まず佐々木氏が自明のように扱う、「国家=学校」の等式や、「教師機関説」が、戦後の教育論の通説と言えるのかどうかであり、次に「起立斉唱」は「公共利益」と言えるか、である。
戦後の教育の民主化とは、佐々木氏にとっては一体何だったのだろうか。
(2)個人のための教育~教育史を振り返れば
①「学問は身を立つるの財本」
日本の近代教育は、「個人のための教育」からスタートした。明治になって最初の『学制』(1872年)は、天下国家の為の学問を「空理虚談」と否定し、「個人のため」の実学主義を明確な目標として掲げていた。
それがほどなく、自由民権運動の高まりへの当局の恐怖から、封建道徳を復活させた「国家主義教育」に転換していき、「実学主義」に対して「徳育主義」、「個人のため」に対して「国家のため」に方向転換したことは周知の事実である。しばらく国家主義的教育が続く。
教育は国民の「義務」とされ(『小学校令』1886)、戦前の憲法に「教育」の文言はなく、『教育勅語』や『国民学校令』に代表される勅令主義による、文字通り天皇のため国家のための教育が展開されていった。
②義務としての教育から、権利としての教育へ
敗戦により神権天皇制は崩壊し、国家主義教育は否定される。戦後教育改革の原理的転換とは、教育が「国民の義務」から「国民の権利」になったこととされる。
戦後は憲法26条に「教育」が国民の権利として明記され、勅令主義から法律主義に変わった。「教育を受ける権利」は、「法律の定めるところ」により保障される。その法律は、法律で行政をコントロールするために、教育内容規制法ではなく、教育条件整備立法であることが要求されている。
教育は国民の側の「権利」であって、国家による国民に対する「恩恵」ではない。またその権利は、個人が国家に保障を要求できる「社会権」であることも見逃してはならない。
(3)社会権である教育
教育の権利が「社会権」であること(自由権ではない)という観点が欠けたまま、佐々木氏は次のように問いかける。
<公権力が学校教育を通じて、何を、どのように教えることが憲法上、要請され許容されまた禁止されているか、という、未だ十分な解明がなされていない難問がある。>(p56)
この問いは、個人と国家が逆立ちしている。権利の主体は国民であって公権力ではない。問題の立て方は、国民の「教育を受ける権利」は国によってどこまで保障されるか、でなければならない。
①学校教育の公共性
「学校教育の公共性」とは、伝統的な国家(ないし行政)が独占する「公」ではなく、市民的自由を有する主権者が、客体ではなく主体として教育という「社会権」を国家に要求していくこととされる。
「公教育」とは「公権力」が統制することではない。「公共の福祉」の実現である。その主体は主権者である。「教育行政」は統治機構の一環であって権力的性格を持つから、条件整備にしか関われないというのが通説である。
教育内容の憲法上の許容範囲を確定するのは、裁判官でも、憲法学者でも、行政権力でもない。直接的に国民である。それが戦後の民主化であって、「教育を受ける権利」を保障するのは、公権力(教育行政)ではなく、国民全体に対し直接的に責任を負う「公共」でなければならない。佐々木氏には憲法学者なのに国民主権の視点が希薄である。
②社会権の常識的理解
自由権が国家の干渉を極力排除して成立する権利であるのに対して、社会権は国の施策によって個人に保障される権利とされる。すなわち「公共」の名において一部強者の無制限の自由を制限することによって社会全体に平等に保障される権利である。
教育もその意味の「社会権」であって、国の責務で国民に保障される「権利」である。間違っても、国から施される「恩恵」でもなければ、まして佐々木氏の言う「義務免除」の範疇のものではない。
少数者(例えば障害者でも高齢者でも)に「特別扱い」を認めることは、「義務を免除する」のではなく「権利を保障する」のである。前者の言い方だと「少数者の特権」に聞こえてしまうが、生きる権利を社会の中で平等に保障するために「ノーマライゼーション」を実現するのが国家の役割であって、そのために「多数者」の権利を一定抑制することこそが福祉国家の仕事なのではないか。ナショナルミニマムの実現は国の責務である。施される者が、注文をつけたり、自己主張するなんてとんでもない、つべこべ言わずに施された教育をありがたく頂戴しなさい、では「国家主権・国民奴隷」なのである。
国民は教育について、政府言論の受動的客体ではなく、一人一人が主権者として能動的主体なのである。
③個性の尊重に有害な俗流多数決万能論
佐々木氏は「多数決」を持ち出して、一律的な公権力の介入を憲法問題の外に置こうとするかのようである。
<『君が代』を歌うことに特に問題を感じない児童・生徒との関係では、憲法上の問題を生じない。>(p3)
これではまるで、多数派に問題が無ければ、「憲法問題」が存在しないかの如くである。人種差別は米国内の白人には憲法上の問題を生じないとか、政府が踏み絵をやってもキリシタン以外の国民には憲法上の問題を生じないという言い方を強いて行うことに何か意味があるのだろうか。「人権」を少数者の個別の問題に矮小化してみせる詐術としか思えない。
人権を保障するとは、例外の少数者を個別に救うことではなく、差別する「制度」を作らない、廃止することである。人権の領域に、多数決は無縁である。
<足のサイズが人各々のように、精神の構造も皆同じと言うことはあり得ない。…それだけで人間を一つの型にはめようとしてはいけない理由として十分である>〔J.S.ミル『自由論』〕
世界中60億人の人々の誰一人として同一(same)の人間はいないのであって、どんな人でも自らの個性を尊重されるのが人間の尊厳である。同じサイズのお仕着せは、個性の否定であり「平等」とは呼ばない(画一化=悪平等)。
佐々木氏の言い方を借りれば、Mサイズの体操着しか用意しなかった場合、Mサイズの生徒たちに「憲法問題は発生していない」、SサイズやLサイズの個別の問題とされてしまいそうだが、Mサイズの服に体を合わせさせるような画一的な押しつけが生徒全体にとっての「憲法問題」なのである。
卒業式での「君が代」強制も、抵抗感を持つ一部の生徒だけの問題ではなく、参列する生徒全員へ画一的に強制する儀式そのものが「憲法問題」なのである。
もし一義的な「政府言論(government speech)」の一方的注入が教育であると称するなら、それは民主社会ではなく、全体主義国家の教育なのである。国が「教育権」を保障するとは、教育内容の統制のことではないのである。
(続)
【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<4>
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