【法律時評】土屋英雄教授
◆ 「国旗・国歌」は「強制可能な公的利益」か/[後半]
法律時報2011年83巻 8・9月号 日本評論社 定価1600円
1 訴訟の概観
2 「起立・斉唱」事件の三つの最高裁判決の判断基準/[以上前半]
3 事件類型ごとの判断枠組みの存在/[以下後半]
4 国旗・国歌と「国際常識」
[前半 http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/21271137.html の続き]
3 事件類型ごとの判断枠組みの存在
もっとも、ここではピアノ判決が下敷きにした判断基準があったか否かは重要ではない。当面、重要なのは、ピアノ・テスト及び3件の最高裁判決が提示した比較衡量の基準が適切かどうかである。ピアノ・テスト及び比較衡量の基準は、政府の側に伴奏・起立斉唱行為を強制しうる公的利益が存在していることを前提にしている。しかし、そもそもこの前提は、日本国憲法および普遍性を有する国際基準等の法理上でいかなる根拠があるのかという根本的な疑念がある。根拠がない、又は論証されないとすれば、様相は全く異なってくる。
国旗・国歌関係で、政府に「強制可能な公的利益」の存在を前提とする論は、思想・良心等を理由とするあらゆる拒否行為の事件を一緒くたに審査し、事件類型ごとの判断枠組みの存在に考えが及ばないことに基づいている。そしてこの事件類型ごとの枠組みの存在は、都教委「10・23通達」関係の訴訟の判決で多くの裁判官が語る「思想・良心等を理由とするあらゆる拒否行為を認めると社会が成り立たない」という主旨の危惧を払しょくするものでもある。
事件類型ごとの判断枠組みは、日本の判例、自由権規約委員会の決定、アメリカ連邦最高裁の判例いずれにも存在する。
例えば、良心等を理由とする納税の義務の拒否の事件類型では、そもそもその拒否は「個人的権利」の問題ではないとされ、よって本人の良心等の主張の内容が顧慮されることはない(1988年の東京地裁判決、1991年の東京高裁判決〔最高裁はこれを是認〕、1991年の自由権規約委員会決定、1982年のアメリカ連邦最高裁判決等)。
兵役の義務の拒否の事件類型では、良心等の主張の内容(真摯さ等)が審査されるが、それらの主張のみによって拒否が容認されることはなく、そこでは比較衡量のテストが用いられる。そのテストは、「政府の強制可能な利益(権限)」と「個人の利益(権利)」の間での利益衡量である(2006年の自由権規約委員会決定、1970年のアメリカ連邦最高裁判決等)
義務教育の拒否は類型的には兵役の義務の拒否の事件類型の判断枠組みで処理される(1972年のアメリカ連邦最高裁決定、及び近似的に必修科目拒否事件の日本の1996年の最高裁判決)。
これらと類型が異なる「国旗・国歌」関係の事件(教師の事件を含む)では、強制の有無に焦点があてられる。これはいわば「強制禁止」テストである。
アメリカを例にとると、納税の義務、兵役の義務及び義務教育は、政府の強制可能な利益とする連邦憲法上の根拠があるが、「国旗・国歌」関係の行為は、政府の強制可能な利益とする連邦憲法上の根拠はないので、「強制」がある限り、違憲とされる。これは、1943年のアメリカ連邦最高裁判決以来、今日までの確立された判例法理であり、アメリカでの「国旗・国歌」関係の事件類型において、比較考量の基準が適用されたことはない。
また、「強制禁止」テストの趣旨は、1993年の自由権規約委員会の思想・良心の自由についての「一般的意見」及び1996年のザンビア政府報告書に対する当該委員会の「最終見解」においても示されている。
日本でも、「国旗・国歌」関係の行為を強制可能とする憲法上の根拠がなく、かつ、国旗・国歌関係の行為が、強制可能な政府の利益(権限)であることが憲法法理上で論証されたこともない。「国旗・国歌」だから強制できるとするのは錯覚に基づく。
これらのことからして、日本の「国旗・国歌」関係の事件類型の審査においては、日本国憲法に適合的な、普遍性を有する国際基準としての「強制」の有無の判断枠組み(「強制禁止」テスト)を適用するのが妥当と言える。(以上の趣旨を詳細に論証した意見書を最高裁及び下級審に6月末、提出)。
4 国旗・国歌と「国際常識」
「国旗・国歌」関係の事件で、1940年のゴビティス事件連邦最高裁判決を3年後の1943年に是正したバーネット事件連邦最高裁判決ほど劇的でなくとも、日本においても1977年の地鎮祭最高裁大法廷判決を1997年の玉串料最高裁大法廷判決は、形式的には維持しつつ実質的には是正した(両判決の比較検討は、拙著『思想の自由と信教の自由〔増補版〕』164頁以下参照)。誤った判決は、時間がかかってもいずれは是正されることになろう。
また、ほとんどの先進国が加入している個人通報の自由権規約選択議定書(2011年3月現在、加入国数は113か国)に日本はいまだ加入していないが、いつまでも加入拒否し続けることは困難である。最高裁が、仮に都教委「10・23通達」関係の全ての事件において、原告らの主張を否定することで終結した場合、将来的には次の舞台は自由権規約委員会になると思われる。その場合、当該委員会が「国旗・国家」関係の強制事件を審査するとすれば、普遍性を有する国際基準として、「強制禁止」テストを適用する可能性が高い。
某新聞は、5月の最高裁判決によって、「憲法論争は決着した」と断じたが、マスコミらしい浅薄な論である。
最高裁判決は、起立・斉唱は儀礼的所作であるという。しかし、儀礼的所作と強制可能な行為とは法的には次元が異なる。両者を区分するのが国際常識である。儀礼的所作だから強制できるとするのは法理的にありえない。欧州では、強制している国は一つもなく、そもそも卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない国が多い。都教委は、裁判で、国際常識の例として起立・斉唱を強制している中国を持ち出している。その中国は、自由権規約を1998年に署名したまま批准していない。
外務官僚出身の竹内行夫裁判官は、5月30日の最高裁判決の補足意見で、先年、「ある外国」での国際サッカー試合の前に「君が代」が演奏された際、その国の観客が起立をしなかったことが、「国際マナーに反するとして我が国を含め国際世論から強く批判された」が、「他の国の国旗、国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身に付けるためにも、まず自分の国の国旗、国歌に対する敬意が必要であり、学校教育においてかかる点についての配慮がされることはいわば当然である」と述べる。
ここでの「ある外国」とは中国をさす。中国の国歌は「義勇軍行進曲」であり、これは、抗日戦争を鼓舞する歌である。その抗日戦争の時期、日本を象徴していたのは「日の丸」と「君が代」である。中国では「国旗・国歌」が強制されており、そして日本もその強制を合憲とした。自国内で「国旗・国歌」を強制することは、排外主義を強める機能を有する。「国旗・国歌の強制」を競い合うことが「国際常識」ではあり得ない。最高裁は、いかなるアジアを展望しているのであろうか。
国旗焼却の行為に対する処罰を違憲とした1989年のアメリカ連邦最高裁判決に衝撃を受けた連邦議会は同年、上院97対3、下院441対5という圧倒的多数で、当該判決を非難する決議を採択し、併せて国旗保護法を成立させた。翌年、連邦最高裁は当該法の適用も違憲と判じた。多数者意志を背景とする政治と行政の暴走を司法がチェックしなくなるとき、社会の閉塞状況は極まる。
(つちや・ひでお 筑波大学教授)
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2011/9/2)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/21271139.html
◆ 「国旗・国歌」は「強制可能な公的利益」か/[後半]
法律時報2011年83巻 8・9月号 日本評論社 定価1600円
1 訴訟の概観
2 「起立・斉唱」事件の三つの最高裁判決の判断基準/[以上前半]
3 事件類型ごとの判断枠組みの存在/[以下後半]
4 国旗・国歌と「国際常識」
[前半 http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/21271137.html の続き]
3 事件類型ごとの判断枠組みの存在
もっとも、ここではピアノ判決が下敷きにした判断基準があったか否かは重要ではない。当面、重要なのは、ピアノ・テスト及び3件の最高裁判決が提示した比較衡量の基準が適切かどうかである。ピアノ・テスト及び比較衡量の基準は、政府の側に伴奏・起立斉唱行為を強制しうる公的利益が存在していることを前提にしている。しかし、そもそもこの前提は、日本国憲法および普遍性を有する国際基準等の法理上でいかなる根拠があるのかという根本的な疑念がある。根拠がない、又は論証されないとすれば、様相は全く異なってくる。
国旗・国歌関係で、政府に「強制可能な公的利益」の存在を前提とする論は、思想・良心等を理由とするあらゆる拒否行為の事件を一緒くたに審査し、事件類型ごとの判断枠組みの存在に考えが及ばないことに基づいている。そしてこの事件類型ごとの枠組みの存在は、都教委「10・23通達」関係の訴訟の判決で多くの裁判官が語る「思想・良心等を理由とするあらゆる拒否行為を認めると社会が成り立たない」という主旨の危惧を払しょくするものでもある。
事件類型ごとの判断枠組みは、日本の判例、自由権規約委員会の決定、アメリカ連邦最高裁の判例いずれにも存在する。
例えば、良心等を理由とする納税の義務の拒否の事件類型では、そもそもその拒否は「個人的権利」の問題ではないとされ、よって本人の良心等の主張の内容が顧慮されることはない(1988年の東京地裁判決、1991年の東京高裁判決〔最高裁はこれを是認〕、1991年の自由権規約委員会決定、1982年のアメリカ連邦最高裁判決等)。
兵役の義務の拒否の事件類型では、良心等の主張の内容(真摯さ等)が審査されるが、それらの主張のみによって拒否が容認されることはなく、そこでは比較衡量のテストが用いられる。そのテストは、「政府の強制可能な利益(権限)」と「個人の利益(権利)」の間での利益衡量である(2006年の自由権規約委員会決定、1970年のアメリカ連邦最高裁判決等)
義務教育の拒否は類型的には兵役の義務の拒否の事件類型の判断枠組みで処理される(1972年のアメリカ連邦最高裁決定、及び近似的に必修科目拒否事件の日本の1996年の最高裁判決)。
これらと類型が異なる「国旗・国歌」関係の事件(教師の事件を含む)では、強制の有無に焦点があてられる。これはいわば「強制禁止」テストである。
アメリカを例にとると、納税の義務、兵役の義務及び義務教育は、政府の強制可能な利益とする連邦憲法上の根拠があるが、「国旗・国歌」関係の行為は、政府の強制可能な利益とする連邦憲法上の根拠はないので、「強制」がある限り、違憲とされる。これは、1943年のアメリカ連邦最高裁判決以来、今日までの確立された判例法理であり、アメリカでの「国旗・国歌」関係の事件類型において、比較考量の基準が適用されたことはない。
また、「強制禁止」テストの趣旨は、1993年の自由権規約委員会の思想・良心の自由についての「一般的意見」及び1996年のザンビア政府報告書に対する当該委員会の「最終見解」においても示されている。
日本でも、「国旗・国歌」関係の行為を強制可能とする憲法上の根拠がなく、かつ、国旗・国歌関係の行為が、強制可能な政府の利益(権限)であることが憲法法理上で論証されたこともない。「国旗・国歌」だから強制できるとするのは錯覚に基づく。
これらのことからして、日本の「国旗・国歌」関係の事件類型の審査においては、日本国憲法に適合的な、普遍性を有する国際基準としての「強制」の有無の判断枠組み(「強制禁止」テスト)を適用するのが妥当と言える。(以上の趣旨を詳細に論証した意見書を最高裁及び下級審に6月末、提出)。
4 国旗・国歌と「国際常識」
「国旗・国歌」関係の事件で、1940年のゴビティス事件連邦最高裁判決を3年後の1943年に是正したバーネット事件連邦最高裁判決ほど劇的でなくとも、日本においても1977年の地鎮祭最高裁大法廷判決を1997年の玉串料最高裁大法廷判決は、形式的には維持しつつ実質的には是正した(両判決の比較検討は、拙著『思想の自由と信教の自由〔増補版〕』164頁以下参照)。誤った判決は、時間がかかってもいずれは是正されることになろう。
また、ほとんどの先進国が加入している個人通報の自由権規約選択議定書(2011年3月現在、加入国数は113か国)に日本はいまだ加入していないが、いつまでも加入拒否し続けることは困難である。最高裁が、仮に都教委「10・23通達」関係の全ての事件において、原告らの主張を否定することで終結した場合、将来的には次の舞台は自由権規約委員会になると思われる。その場合、当該委員会が「国旗・国家」関係の強制事件を審査するとすれば、普遍性を有する国際基準として、「強制禁止」テストを適用する可能性が高い。
某新聞は、5月の最高裁判決によって、「憲法論争は決着した」と断じたが、マスコミらしい浅薄な論である。
最高裁判決は、起立・斉唱は儀礼的所作であるという。しかし、儀礼的所作と強制可能な行為とは法的には次元が異なる。両者を区分するのが国際常識である。儀礼的所作だから強制できるとするのは法理的にありえない。欧州では、強制している国は一つもなく、そもそも卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない国が多い。都教委は、裁判で、国際常識の例として起立・斉唱を強制している中国を持ち出している。その中国は、自由権規約を1998年に署名したまま批准していない。
外務官僚出身の竹内行夫裁判官は、5月30日の最高裁判決の補足意見で、先年、「ある外国」での国際サッカー試合の前に「君が代」が演奏された際、その国の観客が起立をしなかったことが、「国際マナーに反するとして我が国を含め国際世論から強く批判された」が、「他の国の国旗、国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身に付けるためにも、まず自分の国の国旗、国歌に対する敬意が必要であり、学校教育においてかかる点についての配慮がされることはいわば当然である」と述べる。
ここでの「ある外国」とは中国をさす。中国の国歌は「義勇軍行進曲」であり、これは、抗日戦争を鼓舞する歌である。その抗日戦争の時期、日本を象徴していたのは「日の丸」と「君が代」である。中国では「国旗・国歌」が強制されており、そして日本もその強制を合憲とした。自国内で「国旗・国歌」を強制することは、排外主義を強める機能を有する。「国旗・国歌の強制」を競い合うことが「国際常識」ではあり得ない。最高裁は、いかなるアジアを展望しているのであろうか。
国旗焼却の行為に対する処罰を違憲とした1989年のアメリカ連邦最高裁判決に衝撃を受けた連邦議会は同年、上院97対3、下院441対5という圧倒的多数で、当該判決を非難する決議を採択し、併せて国旗保護法を成立させた。翌年、連邦最高裁は当該法の適用も違憲と判じた。多数者意志を背景とする政治と行政の暴走を司法がチェックしなくなるとき、社会の閉塞状況は極まる。
(つちや・ひでお 筑波大学教授)
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2011/9/2)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/21271139.html
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