〔初めに有罪ありき〕
◎ 権力がデッチ上げた「板橋高校卒業式」刑事弾圧<1>
「ツグミ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
〈藤田裁判って、何なのか〉
藤田さんの裁判には、とても個性的な人たちが、多く駆けつける。バックに組織があるわけでもないのに、一番大きな法廷はいつも一杯になる。そして、誰かが指令する訳でもないのに、繰り返された不当判決に、傍聴席は怒りの声が巻き上がる。何故だろうか。
テレビや新聞には、判決の都度、いかめしい藤田さんの大きな顔が写されるが、人をひきつける魅力があるから、"絵撮り"されるのだろう。そう、藤田裁判は、「板橋高校卒業式裁判」とか、「日の丸・君が代刑事裁判」とか、いろいろ言われるが、なにより、個性的で自由奔放な「藤田勝久」さんの裁判であり、彼の魅力に惹かれた人たちの裁判であった。
最高裁判決の日、社会文化会館で、弁護士さんや支援者を交えた打ち上げの集いがあった。そこで、藤田さんの教え子のK君が、若々しい声で、「自分は、日の丸・君が代はどうでもよいですが、藤田先生には大変感謝しています」、と挨拶した。この裁判が奥深く秘めている意味を、この挨拶は教えてくれている。
藤田さんが不当にも追い出された後で行われた卒業式では、「君が代」斉唱の際に、大多数の卒業生は「着席」したままであった。来賓の土屋都議が「起て」と怒鳴り散らしても、司会の教頭が「思想信念ある者以外は起ちなさい」と呼びかけても、卒業生らは「着席」のままであった。彼らは、何故、そうしたのだろう?「君が代」を歌いたくない、というのではなく、「学校側」が「力」で自分たちを抑えつけようとしている、そんな「意図」を敏感に感じ取ったためだろう。そして、そのような【学校側】とは対極にいた、【生徒を決して切り捨てない藤田先生】に、彼らが深く結ばれていたからだ。国家権力が無理やり藤田さんを起訴し、最高裁が「有罪判決」とした真の意味は、そのあたりにあるように思う。
〈初めから刑事弾圧ありきー都教委と公安警察の画策〉
2004年3月11日、板橋高校卒業式をめぐって、藤田さんが何をしたというのか。彼自身が次のように「声明」している。
「開式予定時刻10時の18分前、待ち時間の9時42分に 参加者の一人が 早く来場している人々に約30秒話して 最後5秒ほど呼び掛けた。これが何故に刑法の威力業務妨害罪に該当するのか。9時45分来賓入場予定の 3分前に到着した教頭・校長が 上告人を無理やり退場させた。そのことに抗議しつつも諦めて 9時45分に会場を立ち去った行為が 何故に威力業務妨害罪に該当するのか。主客は 転倒しているのではないか。」。
誰が聞いても、当然の訴えだ。
しかし、都教委は違った。ほとんどの卒業生が「着席」した卒業式には、都教委が前年出した「10.23通達」の"生みの親"の土屋敬之都議が参列していたのだ。「通達」を蹂躙されて頭に血がのぼった横山都教育長は、3月16日都議会予算特別委員会で土屋都議の求めに応じ「元教員の行為は重大な業務妨害であり、法的措置をとる」と答えた。これが、土屋・横山合作の「刑事弾圧事件」デッチ上げの始まりだった。直後から「卒業式、攪乱」と煽った産経新聞は、都教委・土屋の手足として、ウソをばら撒き続けた。
素早く、加担したのが警視庁公安二課であった。3月26日、板橋署は13名の警察官を動員して板橋高校に強制捜査に入った。目的は、「罪名」探しの資料入手だ。初めから、「威力業務妨害罪」がつけられていたのではない。「建造物侵入罪」「詐欺罪」なども想定していたのであり、だからこそ、警察は学校のコピー機まで持ち去ったのだ。
5月21日には、藤田さん宅の「家宅捜査」が行われた。さらに、板橋署は5月31日、藤田さん本人の「出頭」を求めてきた。その後8月まで、実に五回も「出頭」を求めたが弁護団の支援をうけて、藤田さんは「出頭」を拒否した。音を上げた板橋署は、弁護団の申し入れを受け、9月17日「任意出頭」「黙秘調書」作成でケリをつけた。このような経緯からみて、弾圧の本体(積極的主導者)は、板橋警察ではなかったことが読み取れる。首謀者は、警視庁公安と検察当局であった。彼らは、土屋都議、北爪校長、田中教頭などの証言調書をもとに、10月7日、藤田さんを地検に「書類送検」し、年末の12月3日、「威力業務妨害罪」で起訴した。「初めから起訴ありき」「弾圧ありき」のストーリーが書き込まれていたのだ。
それをうかがわせるのは、藤田さんを起訴した検察官「崎坂誠司」が、立川反戦ビラ入れ事件の起訴を行った検察官であり、葛飾マンションビラ入れ事件の起訴も担当していた、という歴然たる事実があるからだ。明らかに、これらの事件は、憲法21条「表現の自由」を形骸化する弾圧事件として国家権力がデッチ上げたものであり、藤田さんに対する弾圧も、検察全体の組織的な判断に基づくものであった、といえよう。
(続)
『藤田先生を応援する会通信』(2011/8/23 第49最終号)
◎ 権力がデッチ上げた「板橋高校卒業式」刑事弾圧<1>
藤田先生を応援する会・金子潔
「ツグミ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
〈藤田裁判って、何なのか〉
藤田さんの裁判には、とても個性的な人たちが、多く駆けつける。バックに組織があるわけでもないのに、一番大きな法廷はいつも一杯になる。そして、誰かが指令する訳でもないのに、繰り返された不当判決に、傍聴席は怒りの声が巻き上がる。何故だろうか。
テレビや新聞には、判決の都度、いかめしい藤田さんの大きな顔が写されるが、人をひきつける魅力があるから、"絵撮り"されるのだろう。そう、藤田裁判は、「板橋高校卒業式裁判」とか、「日の丸・君が代刑事裁判」とか、いろいろ言われるが、なにより、個性的で自由奔放な「藤田勝久」さんの裁判であり、彼の魅力に惹かれた人たちの裁判であった。
最高裁判決の日、社会文化会館で、弁護士さんや支援者を交えた打ち上げの集いがあった。そこで、藤田さんの教え子のK君が、若々しい声で、「自分は、日の丸・君が代はどうでもよいですが、藤田先生には大変感謝しています」、と挨拶した。この裁判が奥深く秘めている意味を、この挨拶は教えてくれている。
藤田さんが不当にも追い出された後で行われた卒業式では、「君が代」斉唱の際に、大多数の卒業生は「着席」したままであった。来賓の土屋都議が「起て」と怒鳴り散らしても、司会の教頭が「思想信念ある者以外は起ちなさい」と呼びかけても、卒業生らは「着席」のままであった。彼らは、何故、そうしたのだろう?「君が代」を歌いたくない、というのではなく、「学校側」が「力」で自分たちを抑えつけようとしている、そんな「意図」を敏感に感じ取ったためだろう。そして、そのような【学校側】とは対極にいた、【生徒を決して切り捨てない藤田先生】に、彼らが深く結ばれていたからだ。国家権力が無理やり藤田さんを起訴し、最高裁が「有罪判決」とした真の意味は、そのあたりにあるように思う。
〈初めから刑事弾圧ありきー都教委と公安警察の画策〉
2004年3月11日、板橋高校卒業式をめぐって、藤田さんが何をしたというのか。彼自身が次のように「声明」している。
「開式予定時刻10時の18分前、待ち時間の9時42分に 参加者の一人が 早く来場している人々に約30秒話して 最後5秒ほど呼び掛けた。これが何故に刑法の威力業務妨害罪に該当するのか。9時45分来賓入場予定の 3分前に到着した教頭・校長が 上告人を無理やり退場させた。そのことに抗議しつつも諦めて 9時45分に会場を立ち去った行為が 何故に威力業務妨害罪に該当するのか。主客は 転倒しているのではないか。」。
誰が聞いても、当然の訴えだ。
しかし、都教委は違った。ほとんどの卒業生が「着席」した卒業式には、都教委が前年出した「10.23通達」の"生みの親"の土屋敬之都議が参列していたのだ。「通達」を蹂躙されて頭に血がのぼった横山都教育長は、3月16日都議会予算特別委員会で土屋都議の求めに応じ「元教員の行為は重大な業務妨害であり、法的措置をとる」と答えた。これが、土屋・横山合作の「刑事弾圧事件」デッチ上げの始まりだった。直後から「卒業式、攪乱」と煽った産経新聞は、都教委・土屋の手足として、ウソをばら撒き続けた。
素早く、加担したのが警視庁公安二課であった。3月26日、板橋署は13名の警察官を動員して板橋高校に強制捜査に入った。目的は、「罪名」探しの資料入手だ。初めから、「威力業務妨害罪」がつけられていたのではない。「建造物侵入罪」「詐欺罪」なども想定していたのであり、だからこそ、警察は学校のコピー機まで持ち去ったのだ。
5月21日には、藤田さん宅の「家宅捜査」が行われた。さらに、板橋署は5月31日、藤田さん本人の「出頭」を求めてきた。その後8月まで、実に五回も「出頭」を求めたが弁護団の支援をうけて、藤田さんは「出頭」を拒否した。音を上げた板橋署は、弁護団の申し入れを受け、9月17日「任意出頭」「黙秘調書」作成でケリをつけた。このような経緯からみて、弾圧の本体(積極的主導者)は、板橋警察ではなかったことが読み取れる。首謀者は、警視庁公安と検察当局であった。彼らは、土屋都議、北爪校長、田中教頭などの証言調書をもとに、10月7日、藤田さんを地検に「書類送検」し、年末の12月3日、「威力業務妨害罪」で起訴した。「初めから起訴ありき」「弾圧ありき」のストーリーが書き込まれていたのだ。
それをうかがわせるのは、藤田さんを起訴した検察官「崎坂誠司」が、立川反戦ビラ入れ事件の起訴を行った検察官であり、葛飾マンションビラ入れ事件の起訴も担当していた、という歴然たる事実があるからだ。明らかに、これらの事件は、憲法21条「表現の自由」を形骸化する弾圧事件として国家権力がデッチ上げたものであり、藤田さんに対する弾圧も、検察全体の組織的な判断に基づくものであった、といえよう。
(続)
『藤田先生を応援する会通信』(2011/8/23 第49最終号)
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