★ 生徒を知る現場の教員より文科省の通達が大事?
~「あんたは正しいだけで心がない」と言いたくなる「ふてほど」教育の実情(集英社オンライン)
教育の現場に介入し、マニュアル的な教育を押し付けようとする行政と、子どもにとってのベストを考える教育現場との対立が明らかになった奈良教育大附属小学校の「不適切指導」事件。2024年の流行語にもなったドラマ、『不適切にもほどがある!』にも言及しながら、実態なき正義に晒されてしまう教育現場の不憫な様子をレポートする。
【画像】逗子市教育委員会が、警察と連携する旨を保護者に通知した資料
本記事は書籍『崩壊する日本の公教育』より一部を抜粋・再構成したものです。
★ 奈良教育大附属小学校「不適切指導」事件(『クレスコ』2024年4月号)
「奈良教育大学附属小学校では、今年(2024年)1月に、学習指導要領に基づく授業時間が不足するなど、不適切な指導が明らかになりました」
ネットやテレビでそんな報道を目にしたのではないだろうか。国が定めている、教えるべき内容を奈良教育大附属小(以下、附属小)では教えていなかったことが発覚。新任の校長が教職員に是正を求めたが受け入れられなかった……。そんな内容を聞いたら、それはダメだよね、となるのが普通なのかもしれない。
実は、「不適切指導」が指摘されている附属小には、私は少しだけご縁がある。ちょうど1年前の2023年4月に、附属小の教員研修に講師として招かれたのだ。
講演を引き受けた時、「どんな学校づくりをしたいか」を綴った教員たちの文章がメールで送られてきた。聞こえてきたのは、「評価」という名の行政介入に苦しむ教員たちの願いだった。
一人の教員はこう書いていた。
「わたしたちは、ただ子どもたちのために教育をしたい、それだけだ。子どもをすこやかにかしこくしたい。子どもが主人公の学校でありたい。目の前の子どもたちを一番知っているのは私だし、一番知りたいと思っているのも私だ。子どもを知らない誰かのいうことではなく、子どもたちを見て子どもたちとともに授業をつくりたい」
教員たちの声を聞き、彼ら彼女らの綴った実践録*1から私が感じたのは、附属小には、目の前の子らのニーズに合わせて最善を尽くす教育のプロたちがいて、自らの頭で考えることのできる子どもたちがちゃんと育っているということだ。
そして、それをわかっているからこそ、保護者たちは教員を守ろうと署名活動まで始めたのだ。
今回の事件は突き詰めれば、教育現場への介入でマニュアル的な教育を押し付けようとする行政と、子どもにとってのベストを考え、上からの圧力に抗う教育現場との対立なのだと思う。
文科省の支配が全国隅々の公立小中学校にまで行き渡ったところで、従来は研究・実験的な役割を担ってきた国立大学附属校にまでその触手が伸びてきたのだ。
実際、附属小の件が発覚してすぐ、文科省は全国の附属校を置く国立大学に通知を出し、ガバナンスや学習指導要領遵守の状況などを点検するよう求めている。
だからこそ、これを許せば他の国立大学附属小中学校にも影響が及ぶのは間違いないし、私立校にまで波及するかもしれない。そうなれば、子どものニーズが多様化する今日、その受け皿となり得る教育の多様性は失われてしまう。
★ 「法令違反」という言葉が一人歩き
多くの人は、メディアが垂れ流す報道を鵜呑みにする。「そういう決まりだから」「政府がそう言っているから」という理由で、常識を問うこと、考えることを放棄する。そうやって人は思考停止に陥り、マニュアルに従うことが「正義」となり、社会そのものがマニュアル化されていく。
奈良教育大学学長が会見で謝罪した「法令違反」という言葉が、メディアに拡散され一人歩きする。そんなことがあったのか、そりゃひどいね、と。
一方で、附属小の実践を知る者、今日の教育のゆくえに危機感を抱く専門家は声を上げる。
大阪大学の髙橋哲は、おかしいのは、学習指導要領の法的性質を「大綱的な基準」のみと限定した最高裁判決に反し、あたかも学習指導要領を法規のごとく扱い遵守させようとする文科省の方だと指摘し、千葉工業大学の福嶋尚子は、「子どもたちの教育を受ける権利を十全に保障するには、子どもたちに相対する教師の教育権と教職員集団の自治が十分に確保されている必要があるということは、戦後日本の教育行政の大原則だったはず」と、今日の職員会議の形骸化に疑問を投げかける*2。
奈良教育大学は、附属小の現在の専任教員の約半数を、籍を残したまま出向させ、3年以内に復帰させるとの方針を打ち出している。
しかし、上記のような指摘を鑑みれば、それらの教員の出向を阻止することをきっかけに、もっと大きな展望も見えてくる。
私たちは声を上げることで、学習指導要領の「大綱」としての法的位置づけと、目の前の子どもを中心に教育課程を柔軟に編成するために認められているはずの現場裁量の認識を、社会で広く共有する機会にしなくてはならない。
そして、校長の権限を強め、教育現場における民主主義を奪った職員会議の形骸化にスポットライトを当てるチャンスにしなくてはならない。
「子どもが主人公」の学校をつくりたい……。そんな願いが広く共有されますように。そう願う教員が、処分されるのではなく、大事にされる社会でありますように。
【追記】
2024年4月、奈良教育大学は3名の教員の出向、2名の配転を強行した。同年6月、出向を命じられた3名の教員は、大学の設置法人である奈良国立大学機構を奈良地方裁判所に提訴。「奈良教育大附属小を守る会*3」などの有志が立ち上げた団体が支援している。
裁判の行方に注目したい。
★ 『不適切にもほどがある!』
「おい、そこのメガネ! 練習中に水飲んでんじゃねぇよ! バテるんだよ水飲むと! けつバットだー! 連帯責任!!」
時は昭和61年(1986年)、中学教師で野球部顧問の小川は、地元では「地獄の小川」として恐れられる存在だ。選手がエラーしたら「うさぎ跳び一周」、体罰は「愛のムチ」、教室でもタバコスパスパ……。そんな主人公がある日バスを降りたら、令和6年(2024年)にタイムスリップしていた……。これがTBS系ドラマ『不適切にもほどがある!』の設定だ。
「意識低い系タイムスリップコメディ!!昭和のダメおやじの『不適切』発言が令和の停滞した空気をかき回す!」という番組の宣伝文句通り、セクハラ、パワハラ、コンプライアンスなどという言葉すら聞いたことのない小川は、「不適切」発言を繰り返しては令和の人々をあきれさせ、正論を振りかざす相手には、「きもちわりぃ!」と吐き捨てる。
一方、サカエは、研究のためにタイムマシンに乗って、逆に令和から昭和にやってきた社会学者だ。体罰、セクハラ、パワハラ……。四方八方から浴びせられる「不適切」発言に驚愕し、正論で真っ向勝負する。
昭和から令和へ、令和から昭和へ。
半年にわたってタイムトラベルした二人の価値観はしだいに揺さぶられ、それぞれの「常識」が崩れていく。そして二人とも、元の時代に戻ってきた時には、それぞれの時代特有の生きづらさに気づかされるのだ。
昭和と令和、どっちが良い?という話ではない。また、『不適切にもほどがある!』というドラマに対して「不適切だ!」と正論を振りかざすような野暮なことはしたくない。ただ、昭和と令和、それぞれの時代特有の「生きづらさ」について考えてみたいと思う。
コンプライアンスという概念も、それによる規制も存在しなかった昭和を、「おおらかな時代だった」と評価する視聴者も少なくないと思う。ただ、言いたいことが言えたのは強者だけであり、弱者にとってはあからさまな差別に耐え忍んだ抑圧の時代だった。
令和ではあり得ないようなわいせつ映像や差別表現が地上波で飛び交っていた時代。そう考えると、SNSを通じて一市民がネット上で「それダメでしょ!」と批判の声を上げられるようになったのは間違いなく前進だ。
一方で、SNSが幅を利かせる令和は、人々のコミュニケーションのあり方が根本から変わり、人が人として出会うことが難しくなった時代でもある。昭和から令和に戻ったサカエは言う。
「言いたいことはSNS。気に入らない相手はブロックっていう風潮。なんかモヤモヤ。私も昭和で変わってしまったのかしら」
匿名で無責任な言葉の暴力をネット上で繰り返す人たちも現れた。
第8話では、バッシングを恐れ、いかなるリスクをも排除せざるを得ないテレビ局の苦悩が描かれた。番組を観てもいない関係のない人たちが、匿名で、自分の承認欲求を満たすためだけに、寄ってたかって個人を攻撃し、断罪する……。
人々が超多忙で、そのうえ情報過多の社会だ。だから「コスパ」(費用対効果)ならぬ「タイパ」(時間対効果)が重視され、誰かによって切り取られた情報がいとも簡単に拡散され、実体のない「世間」をつくりあげていく。
これは奈良教育大学附属小学校へのバッシング*4とも重なる。附属小に行ったこともない、生徒たちを見たこともない、教育の専門家でもない大勢の人たちが、一部メディアによって切り取られた報道を拡散し、附属小の指導は「不適切」と断罪した。
当事者は、反論しようにも相手がいないのだ。「世間」の関心はすでに他の「不適切」事案に移っているのだから。
★ 「あんたは、正しいだけで心がない」
世代や価値観の違う人と本音で語り合えば、誰かを傷つけてしまうこともある。「差別的だ」「不適切だ」と批判を受けることもある。
ましてや発言の一部が切り取られ、ネット上で拡散されるこの時代に、そのリスクは脅威だ。だから何も言えなくなるか、あたりさわりのないことしか言えなくなる。
心の中で思っていても言えないモヤモヤが一人ひとりの間に蔓延し、それが社会全体の閉塞感となる。
コロナ禍でも、集団感染に対するバッシングを恐れ、社会全体が自粛ムードになった。さまざまな行事が中止され、外に出ること、人が集まることに対する世間の目は厳しくなり、「少しでもリスクがあるならやらない方がマシ」という、ことなかれ主義が広がった。
ただ、行事や授業は止まっても、時間の流れは止まらない。そうして、多くの子どもや若者が、思い出もないまま学校を卒業し、一度しか来ない思春期を謳おう歌かできぬまま「社会」に押し出されていった。
起こらないかもしれない問題を恐れて何もせず、実体のない「世間」に萎縮して口をつぐむ……。
正論を言っていれば叩かれることはない。そうして人々はマニュアルやガイドラインに身を委ね、思考停止に陥っていく。ドラマの台詞が私の頭の中にこだまする。
「あんたは、正しいだけで心がない」
*1 奈良教育大学付属小学校編『みんなのねがいでつくる学校』クリエイツかもがわ、2021年。
*2 「先生方、子どもたち、保護者へのエール」「奈良教育大附属小を守る会」ホームページ。
*4 鈴木大裕「~マニュアル化する社会の中で:奈良教育大附属小学校『不適切指導』事件?」「先生が先生になれない世の中で(31)」大月書店note、2024年3月8日。
※ 『崩壊する日本の公教育』 鈴木 大裕
2024年10月17日発売 1,100円(税込) 新書判/288ページ ISBN: 978-4-08-721335-5
安倍政権以降、「学力向上」や「愛国」の名の下に政治が教育に介入し始めている。
その結果、教育現場は萎縮し、教育のマニュアル化と公教育の市場化が進んだ。
学校はサービス業化、教員は「使い捨て労働者」と化し、コロナ禍で公教育の民営化も加速した。
日本の教育はこの先どうなってしまうのか? その答えは、米国の歴史にある。
『崩壊するアメリカの公教育』で新自由主義に侵された米国の教育教育「改革」の惨状を告発した著者が、米国に追随する日本の教育政策の誤りを指摘し、あるべき改革の道を提示する!
『集英社オンライン』(2024年12月19日)
https://shueisha.online/articles/-/252427
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます