ノ大統領‘3・1節記念演説’教えて懲戒されたMasuda教師
“歪曲された歴史教育 悲劇呼ぶ”
朴重言記者
Masudaミヤコ(55)は、32年経歴のベテラン女教師だ。東京都内靖国神社近くの九段中学校に歴史教師で在職中だ。しかし彼女はこのごろ学校ではなく目黒にある東京都教職員研修センターに出勤する。指導主事の監視の中で、壁に向けた机に座って一日中報告書を作成するのが彼女の日課だ。彼女は去る8月末、都教育委員会から戒告処分とともに研修処分を受けた。
Masuda教師が授業を剥奪されたきっかけになったことは、ノ・ムヒョン大統領の3・1節記念演説だ。当時日本の言論人たちはこれを‘韓国国内用’と報道した。ところが良心的日本人たちの間では、日本の真正なお詫びと賠償を促した記念演説の真意をまともに理解しなければならない、という話とともに演説文全文がメールを通じて広がって行った。Masuda教師は韓-日のすぎ去った事をまともに教えるために、授業時間に学生たちに、この記念演説を読んで意見を書くようにした。
Masuda教師は‘紙上討論’という独特の授業方法を使ってきた。二・三カ月に一度ずつ学生たちが学んだ内容に対して文を書くようにして,この文と参照資料を集めて印刷した後、また配る。意見文を通じてお互いの考えを比べて見られるようにするという意味で紙上討論だと名付けた。3・1節記念演説とガンジー,原爆,戦争責任などが素材だった。
名誉毀損・信用低下が理由
88年長崎市長狙撃事件に反省
相次ぐ処罰に“私たちは勝利する”と
“日本人たちも拉致問題などで苦しいが、韓国人たちは、それ以上に傷ついたと思います。睦まじい両国関係のためには明らかなお詫びが必要です。”
“率直にお詫びをすることができないのは日本の政治家たちです。”
紙上討論に出た学生たちの大体の意見だ。
この印刷物を見た右翼性向の父兄が都教育委員会に‘申告’したため問題となった。都教育委員会は印刷物に載せられた‘ノ・ムヒョン大統領に送る手紙’というMasuda教師の文章に文句をつけた。そこには「日帝が周辺国を侵略した事実がない」という都議会文教委員の妄言と扶桑社歴史教科書を‘歴史偽造’と批判した文章が入っている。都教委は、これの言葉尻をとらえて、「Masuda教師が彼らの名誉を毀損して教師の信用を落とした」と懲戒処分を下した。
Masuda教師は“侵略不正を『間違ったこと』と指摘したのが、どうして懲戒事由にすることができるのか”、“この処分は、紙上討論のような方式で、子供達に真の歴史を教えることを阻もうとする意図”と駁した。彼女が紙上討論を始めたのは、1988年あたりだ。当時、昭和日王の戦争責任を主張した長崎市長が右翼に狙い撃ちされる事件が発生した。Masuda教師は「歴史をまともに教えなくて、こんな悲劇を生んだ」という自己反省をして、相当な努力が必要なこの方法を考え出した。
初めには学生たちも煩わしがった。二・三行書くのが精一杯だった。時間が経つと学生たちは自ら興味を見せ始めた。他の友達の考えを参考にするだけでなく、自分の考えを整理し、意見を作り上げる自分の成長に自信を持った。97年、彼女に学んだ卒業生代表は卒業の答辞で“Masuda教師の紙上討論は大いに助けになった”と言って彼女の心を感動でいっぱいにさせた。彼女は、この卒業答辞をコピーして最高の宝物としておさめている。
「研修」という名前の処罰が彼女に初めではない。紙上討論内容が問題になって、もう99年9月から、2年半の間苦痛を経験した。学校に復帰してから3年半ぶりに、また同じな境遇に置かれたのだ。「手に負えない闘いを、やめたくないのか」という問いに、彼女は楽しんで歌う歌で返事の代わりをした。彼女がベトナム戦争反対運動が盛んだった大学時代学んだ歌「WE SHALL OVERCOME(我らは勝利する)」であった。
東京/文・写真朴重言特派員 parkje@hani.co.kr
<ハンギョレ新聞、05年10月24日>(日本語HPはありません)
(仮訳 自動翻訳ソフトによる)
■増田教諭に対する処分撤回、即時現場復帰要求集会■
11月7日(月)18:30~ 豊島勤労福祉会館(池袋メトロポリタン口)
“歪曲された歴史教育 悲劇呼ぶ”
朴重言記者
Masudaミヤコ(55)は、32年経歴のベテラン女教師だ。東京都内靖国神社近くの九段中学校に歴史教師で在職中だ。しかし彼女はこのごろ学校ではなく目黒にある東京都教職員研修センターに出勤する。指導主事の監視の中で、壁に向けた机に座って一日中報告書を作成するのが彼女の日課だ。彼女は去る8月末、都教育委員会から戒告処分とともに研修処分を受けた。
Masuda教師が授業を剥奪されたきっかけになったことは、ノ・ムヒョン大統領の3・1節記念演説だ。当時日本の言論人たちはこれを‘韓国国内用’と報道した。ところが良心的日本人たちの間では、日本の真正なお詫びと賠償を促した記念演説の真意をまともに理解しなければならない、という話とともに演説文全文がメールを通じて広がって行った。Masuda教師は韓-日のすぎ去った事をまともに教えるために、授業時間に学生たちに、この記念演説を読んで意見を書くようにした。
Masuda教師は‘紙上討論’という独特の授業方法を使ってきた。二・三カ月に一度ずつ学生たちが学んだ内容に対して文を書くようにして,この文と参照資料を集めて印刷した後、また配る。意見文を通じてお互いの考えを比べて見られるようにするという意味で紙上討論だと名付けた。3・1節記念演説とガンジー,原爆,戦争責任などが素材だった。
名誉毀損・信用低下が理由
88年長崎市長狙撃事件に反省
相次ぐ処罰に“私たちは勝利する”と
“日本人たちも拉致問題などで苦しいが、韓国人たちは、それ以上に傷ついたと思います。睦まじい両国関係のためには明らかなお詫びが必要です。”
“率直にお詫びをすることができないのは日本の政治家たちです。”
紙上討論に出た学生たちの大体の意見だ。
この印刷物を見た右翼性向の父兄が都教育委員会に‘申告’したため問題となった。都教育委員会は印刷物に載せられた‘ノ・ムヒョン大統領に送る手紙’というMasuda教師の文章に文句をつけた。そこには「日帝が周辺国を侵略した事実がない」という都議会文教委員の妄言と扶桑社歴史教科書を‘歴史偽造’と批判した文章が入っている。都教委は、これの言葉尻をとらえて、「Masuda教師が彼らの名誉を毀損して教師の信用を落とした」と懲戒処分を下した。
Masuda教師は“侵略不正を『間違ったこと』と指摘したのが、どうして懲戒事由にすることができるのか”、“この処分は、紙上討論のような方式で、子供達に真の歴史を教えることを阻もうとする意図”と駁した。彼女が紙上討論を始めたのは、1988年あたりだ。当時、昭和日王の戦争責任を主張した長崎市長が右翼に狙い撃ちされる事件が発生した。Masuda教師は「歴史をまともに教えなくて、こんな悲劇を生んだ」という自己反省をして、相当な努力が必要なこの方法を考え出した。
初めには学生たちも煩わしがった。二・三行書くのが精一杯だった。時間が経つと学生たちは自ら興味を見せ始めた。他の友達の考えを参考にするだけでなく、自分の考えを整理し、意見を作り上げる自分の成長に自信を持った。97年、彼女に学んだ卒業生代表は卒業の答辞で“Masuda教師の紙上討論は大いに助けになった”と言って彼女の心を感動でいっぱいにさせた。彼女は、この卒業答辞をコピーして最高の宝物としておさめている。
「研修」という名前の処罰が彼女に初めではない。紙上討論内容が問題になって、もう99年9月から、2年半の間苦痛を経験した。学校に復帰してから3年半ぶりに、また同じな境遇に置かれたのだ。「手に負えない闘いを、やめたくないのか」という問いに、彼女は楽しんで歌う歌で返事の代わりをした。彼女がベトナム戦争反対運動が盛んだった大学時代学んだ歌「WE SHALL OVERCOME(我らは勝利する)」であった。
東京/文・写真朴重言特派員 parkje@hani.co.kr
<ハンギョレ新聞、05年10月24日>(日本語HPはありません)
(仮訳 自動翻訳ソフトによる)
■増田教諭に対する処分撤回、即時現場復帰要求集会■
11月7日(月)18:30~ 豊島勤労福祉会館(池袋メトロポリタン口)
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