子どもの生きづらさに寄り添って-支えるおとなたち
◆ 遊びが育てる、人間の「根っこ」
子どもが思いのままに自分たちで遊びを生み出せることをめざした冒険遊び場「プレーパーク」。1940年代、デンマークで始まり、ヨーロッパを中心に世界に広がりました。日本でも、「日本冒険遊び場づくり協会」が把握しているプレーパークは現在、全国で260カ所を超えます。
天野さんは1979年、地域住民の手によって開設された「羽根木プレーパーク」(東京・世田谷区)で、日本第1号の職業プレーリーダーとして活動を開始しました。この30年、遊び場づくりをひろめてきた天野さんに話を聞きました。
◆ 仮面付けて
ーいまの子どもたちの姿をどんなふうに感じていますか。
プレーパークプレーパークに遊びにきていた小学校4年生の男の子がこう言ったんです。
「オレ、学校じゃ仮面1放付けてんだ」。
びっくりして「えっ」と聞き返すと、「家じゃ2枚だけどね」と言うんです。
「じゃあ、ここ(プレーパーク)では何放付けてるの?」と聞いたら、「ここじゃ付けなくていい」と。
彼は「仮面を付けない自分」を知ったことで、学校でも家でも仮面を付けている自分に気づいたのだろうと思いました。
いまの子どもたちは自分が自分であっていいという感覚,"仮面を付けない"素の自分が楽しいという感覚が薄いと感じますね。もっと言えば、生きている実感がかなり希薄になっています。
それは大学生でも同じことを感じます。私の大学の授業はワークショップやフィールドワークを中心におこなっていますが、「人からどう思われるか」とか「正しい答え」にこだわって、自分の考えや思いを言えない学生が少なくありません。
◆ 「ねばならない」の積み重ね
その理由は、社会が子どもたちから遊びを奪ってきたからだと思っています。
いまの子どもは幼いころからたくさんの習い事、塾などに通っています。たとえ子どもの希望から始まったとしてもそれ自体が同調圧力の結果である可能性も高いし、実際通い始めれば「いかなければならないところ」になります。
その日はちょっといきたくないと思ってもサボれない。「~ねばならない」ことをくりかえして積み重ねていくうちに、いやだという意思をきちんと表明できなくなってきます。
一方、遊び場はきてもこなくてもいい場所です。遊び場に集まって遊んでいるうちに、子どもたちはさっきの小4の子のような変化をするんですね。
「オレ、自分のこといいやつだと思えてきた」とか「最近生きてるって感じがする」と話す中高生がたくさんいます。
◆ 「遊び」の力
-それはプレーパークが子どもたちにとって居心地のいい居場所になっているからでしょうか。
それもあるでしょうが、その根っこは「遊び」そのもののもつカだと思います。
遊びの世界がほかと根源的に違うのは、主体が自分であるということです。自分がやってみたいと思わないと遊びにならないのです。
他人からの刺激で遊びだしてみるということもあるでしょうが、自分の内側からわいてくる「やってみたい」という動機が遊びの本質です。
やりたいことをしているとき、人の心はもっとも生き生きと活性化します。やってみたいことにくりかえし挑戦しながら、自分自身を育て、自分の限界もうちやぶって大きく成長します。
◆ 「快」の情動育てよう
やってみたいという気持ちはどこからくるのかー。もともと人間は、「正・誤」「善・悪」といった理屈や価値観ではなく、「快・不快」といった情動をもとに生きていますよね。
赤ちゃんは「快・不快」を表現しなければ命があぶないですから、生きるうえでは根源的な感覚なのです。とくに子どもは社会規範や価値観は身に着けていませんから、「快・不快」がストレートに行動基準となります。
人間は「快」を予感するときに「やってみたい」と思うのです。「快」の情動をたくさん育てることが、意欲をのばし、人を成長させます。
ー「快」ばかりでは子どもを甘やかすことになる、という意見もありますが。
自分の「快」が他人を「不快」にさせるような場面はよくあります。それがぶつかることで、人間関係の距離を覚えていくのです。
でもそれは「快」の情動を自分でしっかりと感じ、表現できることが前提です。その情動にふたをかぶせてしまったら、他人との距離感もコミュニケーション能力も育ちません。
情動が大切にされる「成熟した子ども期」を過ごした子は、自分が自分であっていいと思えるようになり、人間としての根っこを太くします。
むしろ、情動をおさえてきた子は、年齢的にはおとなになっても、自分を承認してほしいという気持ちがつよく、生きづらい。現代はそんな若者が増えてきたのではないでしょうか。
それは子どもから遊びを奪い、子どもの「快」を奪っているおとな社会の側の問題だと思います。
ー子どもが公園で遊んでいると近所からうるさいと苦情がくることもある、というお母さんたちの声もあります。
◆ おとなに求められる寛容さ
昔は、カミナリオヤジもいましたが(笑い)、もっと子どもに鷹揚でしたよね。
現代はおとな自身も「快」を奪われて、「~すべきこと」に追われ、寛容さを失ってしまったのかもしれません。
おとなたちには、子どもにとって遊びの意味を理解し、もっと寛容になってほしいと思います。
昔は自分も子どもだったのだし。おとなでも子どもでも、他人に迷惑をかけずに生きられる人間なんていない。互いにそれを受けとめ、支え合う中で生きられるのです。
「お互い様」精神こそがつながりある社会づくりの一歩ではないでしょうか。
それは、子どもだけでなくおとなにとっても居心地のいい社会になるはずです。
◆ 爆竹騒動
あるとき、プレーバークにきている子どもたちが「爆竹をやりたい」と言いに来ました。手には爆竹の箱が…。いくらプレーパークが自由だとはいえ、まちがいなく周辺から苦情がきます。
「爆発音が嫌いな人はたくさんいるよ。せめて近所の人がいいって言ってくれれば考えようもあるけど・・・」と言ったところ、子どもたちは「近所の人がいいって言えばいいんだね」と、走って出かけていきました。しばらくして「いいってよー」と戻ってきたのでびっくりしました。
「時間を決めてって言われたの。だからいまから30分って決めたんだ」。近所を回って説得してきちゃったのですー
爆竹が許された理由はおそらく二つ。時間を決めたことでいつまで続くのかという住民の不安が解消されたこと。そして、爆竹をやりたいという子どもを直接知ったことで、「まあ、大目にみよう」という気持ちがわいたから…、だと思っています。
地域社会の中で、そんな関係がつくれたらいいなーと思いますね。
◆ 価値観変わっても
よく、最近の子どものことは理解できないと言うおとながいます。それは理屈や価値競で子どもをとらえているからなんです。
価値観は時代とともに変わる。子どもの遊びも時代とともに変わる。
ぼく自身にしたってテレビも電話もない子ども時代でしたから、携帯電話を持ってゲームをして塾に通うようなイマドキの子どものことは理解しようがない(笑い)。
でも、子どもの情動はまったく変わっていないんです。
「快」を求めてゲームに夢中になる今の子どもと、メンコに夢中になった昔の子どもは同じです。
ゲームをしながら大騒ぎしている子どもを見ると、ぼくにはゲームの中身は全然分からないけど、その姿は楽しそうで心がうきうきしてきますよ。
ただ、遊びの質は違います。キーワードは「体」でしょうね。五感を使うことがないし、やはりゲームはおとなが砕組みを決めている。そういうものからも解放されて、自分が主役になる体験が本当は必要でしょう。
◆ 自分の「快」思い出して
「子ども」を体験せずにおとなになった人はいないのだから、子どもを理解したいのならまずは自分の子ども時代の「快・不快」を思い出してみることですね。
おとなになると自分の子ども時代の「事柄」は覚えているのですが、案外「そのときどう感じたか」は忘れているようです。それを丁寧に患い出すことが、子ども理解の最大のヒントであり、子どもたちを支える地域づくりの第一歩になると思います。
『女性のひろば』(2010年9月号)
◆ 遊びが育てる、人間の「根っこ」
天野秀昭さんに聞く
大正大学教授 NPO法人日本冒険遊び場づくり協会副代表
大正大学教授 NPO法人日本冒険遊び場づくり協会副代表
子どもが思いのままに自分たちで遊びを生み出せることをめざした冒険遊び場「プレーパーク」。1940年代、デンマークで始まり、ヨーロッパを中心に世界に広がりました。日本でも、「日本冒険遊び場づくり協会」が把握しているプレーパークは現在、全国で260カ所を超えます。
天野さんは1979年、地域住民の手によって開設された「羽根木プレーパーク」(東京・世田谷区)で、日本第1号の職業プレーリーダーとして活動を開始しました。この30年、遊び場づくりをひろめてきた天野さんに話を聞きました。
◆ 仮面付けて
ーいまの子どもたちの姿をどんなふうに感じていますか。
プレーパークプレーパークに遊びにきていた小学校4年生の男の子がこう言ったんです。
「オレ、学校じゃ仮面1放付けてんだ」。
びっくりして「えっ」と聞き返すと、「家じゃ2枚だけどね」と言うんです。
「じゃあ、ここ(プレーパーク)では何放付けてるの?」と聞いたら、「ここじゃ付けなくていい」と。
彼は「仮面を付けない自分」を知ったことで、学校でも家でも仮面を付けている自分に気づいたのだろうと思いました。
いまの子どもたちは自分が自分であっていいという感覚,"仮面を付けない"素の自分が楽しいという感覚が薄いと感じますね。もっと言えば、生きている実感がかなり希薄になっています。
それは大学生でも同じことを感じます。私の大学の授業はワークショップやフィールドワークを中心におこなっていますが、「人からどう思われるか」とか「正しい答え」にこだわって、自分の考えや思いを言えない学生が少なくありません。
◆ 「ねばならない」の積み重ね
その理由は、社会が子どもたちから遊びを奪ってきたからだと思っています。
いまの子どもは幼いころからたくさんの習い事、塾などに通っています。たとえ子どもの希望から始まったとしてもそれ自体が同調圧力の結果である可能性も高いし、実際通い始めれば「いかなければならないところ」になります。
その日はちょっといきたくないと思ってもサボれない。「~ねばならない」ことをくりかえして積み重ねていくうちに、いやだという意思をきちんと表明できなくなってきます。
一方、遊び場はきてもこなくてもいい場所です。遊び場に集まって遊んでいるうちに、子どもたちはさっきの小4の子のような変化をするんですね。
「オレ、自分のこといいやつだと思えてきた」とか「最近生きてるって感じがする」と話す中高生がたくさんいます。
◆ 「遊び」の力
-それはプレーパークが子どもたちにとって居心地のいい居場所になっているからでしょうか。
それもあるでしょうが、その根っこは「遊び」そのもののもつカだと思います。
遊びの世界がほかと根源的に違うのは、主体が自分であるということです。自分がやってみたいと思わないと遊びにならないのです。
他人からの刺激で遊びだしてみるということもあるでしょうが、自分の内側からわいてくる「やってみたい」という動機が遊びの本質です。
やりたいことをしているとき、人の心はもっとも生き生きと活性化します。やってみたいことにくりかえし挑戦しながら、自分自身を育て、自分の限界もうちやぶって大きく成長します。
◆ 「快」の情動育てよう
やってみたいという気持ちはどこからくるのかー。もともと人間は、「正・誤」「善・悪」といった理屈や価値観ではなく、「快・不快」といった情動をもとに生きていますよね。
赤ちゃんは「快・不快」を表現しなければ命があぶないですから、生きるうえでは根源的な感覚なのです。とくに子どもは社会規範や価値観は身に着けていませんから、「快・不快」がストレートに行動基準となります。
人間は「快」を予感するときに「やってみたい」と思うのです。「快」の情動をたくさん育てることが、意欲をのばし、人を成長させます。
ー「快」ばかりでは子どもを甘やかすことになる、という意見もありますが。
自分の「快」が他人を「不快」にさせるような場面はよくあります。それがぶつかることで、人間関係の距離を覚えていくのです。
でもそれは「快」の情動を自分でしっかりと感じ、表現できることが前提です。その情動にふたをかぶせてしまったら、他人との距離感もコミュニケーション能力も育ちません。
情動が大切にされる「成熟した子ども期」を過ごした子は、自分が自分であっていいと思えるようになり、人間としての根っこを太くします。
むしろ、情動をおさえてきた子は、年齢的にはおとなになっても、自分を承認してほしいという気持ちがつよく、生きづらい。現代はそんな若者が増えてきたのではないでしょうか。
それは子どもから遊びを奪い、子どもの「快」を奪っているおとな社会の側の問題だと思います。
ー子どもが公園で遊んでいると近所からうるさいと苦情がくることもある、というお母さんたちの声もあります。
◆ おとなに求められる寛容さ
昔は、カミナリオヤジもいましたが(笑い)、もっと子どもに鷹揚でしたよね。
現代はおとな自身も「快」を奪われて、「~すべきこと」に追われ、寛容さを失ってしまったのかもしれません。
おとなたちには、子どもにとって遊びの意味を理解し、もっと寛容になってほしいと思います。
昔は自分も子どもだったのだし。おとなでも子どもでも、他人に迷惑をかけずに生きられる人間なんていない。互いにそれを受けとめ、支え合う中で生きられるのです。
「お互い様」精神こそがつながりある社会づくりの一歩ではないでしょうか。
それは、子どもだけでなくおとなにとっても居心地のいい社会になるはずです。
◆ 爆竹騒動
あるとき、プレーバークにきている子どもたちが「爆竹をやりたい」と言いに来ました。手には爆竹の箱が…。いくらプレーパークが自由だとはいえ、まちがいなく周辺から苦情がきます。
「爆発音が嫌いな人はたくさんいるよ。せめて近所の人がいいって言ってくれれば考えようもあるけど・・・」と言ったところ、子どもたちは「近所の人がいいって言えばいいんだね」と、走って出かけていきました。しばらくして「いいってよー」と戻ってきたのでびっくりしました。
「時間を決めてって言われたの。だからいまから30分って決めたんだ」。近所を回って説得してきちゃったのですー
爆竹が許された理由はおそらく二つ。時間を決めたことでいつまで続くのかという住民の不安が解消されたこと。そして、爆竹をやりたいという子どもを直接知ったことで、「まあ、大目にみよう」という気持ちがわいたから…、だと思っています。
地域社会の中で、そんな関係がつくれたらいいなーと思いますね。
◆ 価値観変わっても
よく、最近の子どものことは理解できないと言うおとながいます。それは理屈や価値競で子どもをとらえているからなんです。
価値観は時代とともに変わる。子どもの遊びも時代とともに変わる。
ぼく自身にしたってテレビも電話もない子ども時代でしたから、携帯電話を持ってゲームをして塾に通うようなイマドキの子どものことは理解しようがない(笑い)。
でも、子どもの情動はまったく変わっていないんです。
「快」を求めてゲームに夢中になる今の子どもと、メンコに夢中になった昔の子どもは同じです。
ゲームをしながら大騒ぎしている子どもを見ると、ぼくにはゲームの中身は全然分からないけど、その姿は楽しそうで心がうきうきしてきますよ。
ただ、遊びの質は違います。キーワードは「体」でしょうね。五感を使うことがないし、やはりゲームはおとなが砕組みを決めている。そういうものからも解放されて、自分が主役になる体験が本当は必要でしょう。
◆ 自分の「快」思い出して
「子ども」を体験せずにおとなになった人はいないのだから、子どもを理解したいのならまずは自分の子ども時代の「快・不快」を思い出してみることですね。
おとなになると自分の子ども時代の「事柄」は覚えているのですが、案外「そのときどう感じたか」は忘れているようです。それを丁寧に患い出すことが、子ども理解の最大のヒントであり、子どもたちを支える地域づくりの第一歩になると思います。
『女性のひろば』(2010年9月号)
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