原田敏章裁判長は控訴を棄却。
高裁不当判決を糾弾する!
◎ 上告しました。 ◎
上告し,最高裁で闘うことに決めました。
手続きは,期限があるので,1月5日にとりましたが,さんざん悩み抜きました。体調を崩した程でしたから苦しかったです。
3人の弁護士からは,この厳しい司法の状況下,即棄却され危険な判決が出ると,後続裁判にも,運動にも影響を及ぼすので上告はやめるように言われました。
しかし,地裁三代川判決も,高裁原田判決も,学習指導要領について同様の解釈であり,最高裁がこれを全く無視し,新判例となるような判決を出すというのは,相当な無理も考えられ,私の裁判で出す位なら先行裁判で当然にも出すのではないだろうか,決定的に悪い判例の出る危険性は少ないのではないか,という疑念を消し去ることができませんでした。
もちろん,教育基本法が改悪され,司法反動のすさぶこの時代です、危険性がないとは言えません。だからといって,悪い判例がでるから,と闘いを自粛すれば,次の何がしかの裁判に良い結果をもたらすのだろうか、むしろ堂々と立ち向かって,いろんな人がいろんな角度から闘いを最高裁に挑んでいった方が,運動的な意味合いでもよいのではないだろうか,と判断するに至りました。
独善的でよい,とは思っていません。全体的視野と相互批判と冷静な分析は,しばりではなく,運動的発展のために必要であり,究極は一人の闘おうとする思いなのだと思うのです。
1999年.「国旗国歌法」が制定されると,強制しないと言った舌の根も乾かないうちに,10月通達が出され,これまでグラウンドのポールに引き下ろされないように掲揚していた「日の丸」は,会場に持ち込まれ,「君が代」テープまで流されるという事態になりました。自分の3m先の三脚に垂らされた「日の丸」。教頭の足下のカセットデッキ。奪い取りたい衝動が抑え難く,手がブルブル震えていたことをよく覚えています。
職員会議の「総意」も空しく,校長の一存で,子どもたちの前に強制されてしまう「日の丸・君が代」。奪い去ることもできない職場の力,自分の力の無さ。私は反対を表明すべくゼッケンをつけました。卒業学年の担任でしたから注目を浴びましたが,会場の参加者の中,「日の丸」の目の前で,自分の意志を表すことこそ必要であり,教員としてせめてなすべきことだ,と思ったのです。
いくら全教員が反対していようと,目の前に「日の丸・君が代」がやられていて,何の意思表示もなければ,賛成して学校としてやっているとさえ思われてしまう。取り去る力がないなら,せめて反対を表明すべきだ,と必死の思いでした。
それからわずかの歳月の間に,どんどんと強制が強まり,私の反対の表明もどんどん後退させられ,ブラウスに絵のみ描く,というところまできてしまいました。これ以上もう引き下がるまい,そう思っていたのに10・23通達が出され,遂に自分の内心の自由を守るために静かに坐る,というのが”果敢な闘争”と呼ばれるまでに至ってしまいました。
今,私は不起立の処分撤回闘争を,ブラウス裁判と同時にやっていますが,ブラウス裁判闘争は,私にとって,その時代,その時代に,最大限のNO!を突きつけよう,と努力してきた闘いそのものなのです。
ひるまず,己に正直に生きたいと,挑んできた私の精神の象徴なのです。簡単には投げ捨てられません。
私は最後まで,納得できる闘いをしていきたい。
私は上告して闘い続けます。
渡辺厚子
■ 東京高裁原田判決は本当にひどい内容だ
12月26日当日,原田法廷では5件の判決言い渡しがあり,渡辺さんの件は最後でした。
つめかけた傍聴者は80名近くで,傍聰席のうしろに立っている方が大勢いました。ほとんどすべての方が渡辺さん関係でした。
原田裁判長は,一言,「棄却する」といって,すぐ立ち上がりました。と,同時に法廷がどよめき,私も含めて何人もの人が,「裁判長はそんなに出世したいのですか」「不当判決!」「判決理由はどうした?」と,怒りの声をあげました。が,そのまま裁判長は法廷の後ろへ身をひるがえして姿を消しました。
判決後,記者クラブで記者会見をした後,4時半から弁護士会館で短時間の集会を持ちました。50名ぐらいの参加でした。
最高裁に上告するかどうか,その判断の期限が休み明けの1月9日までとのこと。
ところが,担当の3名の弁護士さんの意見は上告すべきでないとのこと。弁護士さんの考えでは,最高裁の判断が出てしまうと,下級審のすべての判決に影響あるからということでした。
渡辺さん自身は,このブラウス裁判の他にも「日の君」裁判を抱えてはいるが,なんらかの形でこのブラウス裁判を継続して行きたいと表明していました。
原田敏章裁判長はどのような論理で控訴を棄却したのか。判決文から抜粋する。
「本件職務命令1(上着有用命令)に裁量権の逸脱濫用があったか否か」
学習指導要領と国旗・国歌法を根拠として,公立学校の入学式において,国旗掲揚’国歌斉唱を実施すること自体が憲法に違反するとは解されない。江崎校長が教職員の多数意見に反して国旗掲揚`国歌斉唱を実施したとしても,職員会議は職務の円滑な執行に資するために校長が定めるところにより校長が置くことができる機関にすぎないので,違法ではない。
残念ながら法律自体はここまで来てしまった。しかしそうだとしても,渡辺さんのような自律の絵ブラウスを着るというだけの静かな意思表示それ自体が違法といえるのだろうか。
控訴人がブラウスを着用したままの姿で入学式に出席することは,儀式的行事である入学式の趣旨に反するばかりか,教職員間における国旗掲揚・国歌斉唱に関する対立状況をそのまま児童・生徒・保護者及び来賓の面前に持ち込むものであって,これにより入学式の出席者に不快感や不信感を生じさせ,さらには,控訴人が国旗掲揚・国歌斉唱を拒否することを入学式の出席者に煽っているものと捉えられかねないことにもなって,入学式の円滑な進行を妨げ混乱を招くおそれがあることも否定できない。
「日の丸・君が代」強制についての意見対立があるのは当然であろう。なぜ反対の意思表明を禁じることができるのか。また混乱のおそれがあるということだけで,我務命令が正当化されるのであろうか。
職務命令1は,そのこと自体が控訴人の思想及び良心の自由を直接に侵害するものとはいえず,表現の自由といえども国民全体の共同の利益のために合理的でやむを得ない制限を受けることは,憲法自体がこれを許容するところである。
「国民全体」とはだれのことなのか。反対する人は国民ではないの?自作の絵ブラウスを着るという意思表示を職務命令によってやめさせるのは,思想及ぴ良心の自由,表現の自由を直接に侵害することではないだろうか。
原田裁判長の考える「思想及び良心の自由」「表現の自由」とはなにか。このようなめちゃくちゃ判決を放置してはいけない。(出版労連・籠島史郎)
『ほっととーく 49』より
「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会
〒176-0012 練馬区豊玉北5-17-7-303 サポートねりまねりま全労協気付
高裁不当判決を糾弾する!
◎ 上告しました。 ◎
上告し,最高裁で闘うことに決めました。
手続きは,期限があるので,1月5日にとりましたが,さんざん悩み抜きました。体調を崩した程でしたから苦しかったです。
3人の弁護士からは,この厳しい司法の状況下,即棄却され危険な判決が出ると,後続裁判にも,運動にも影響を及ぼすので上告はやめるように言われました。
しかし,地裁三代川判決も,高裁原田判決も,学習指導要領について同様の解釈であり,最高裁がこれを全く無視し,新判例となるような判決を出すというのは,相当な無理も考えられ,私の裁判で出す位なら先行裁判で当然にも出すのではないだろうか,決定的に悪い判例の出る危険性は少ないのではないか,という疑念を消し去ることができませんでした。
もちろん,教育基本法が改悪され,司法反動のすさぶこの時代です、危険性がないとは言えません。だからといって,悪い判例がでるから,と闘いを自粛すれば,次の何がしかの裁判に良い結果をもたらすのだろうか、むしろ堂々と立ち向かって,いろんな人がいろんな角度から闘いを最高裁に挑んでいった方が,運動的な意味合いでもよいのではないだろうか,と判断するに至りました。
独善的でよい,とは思っていません。全体的視野と相互批判と冷静な分析は,しばりではなく,運動的発展のために必要であり,究極は一人の闘おうとする思いなのだと思うのです。
1999年.「国旗国歌法」が制定されると,強制しないと言った舌の根も乾かないうちに,10月通達が出され,これまでグラウンドのポールに引き下ろされないように掲揚していた「日の丸」は,会場に持ち込まれ,「君が代」テープまで流されるという事態になりました。自分の3m先の三脚に垂らされた「日の丸」。教頭の足下のカセットデッキ。奪い取りたい衝動が抑え難く,手がブルブル震えていたことをよく覚えています。
職員会議の「総意」も空しく,校長の一存で,子どもたちの前に強制されてしまう「日の丸・君が代」。奪い去ることもできない職場の力,自分の力の無さ。私は反対を表明すべくゼッケンをつけました。卒業学年の担任でしたから注目を浴びましたが,会場の参加者の中,「日の丸」の目の前で,自分の意志を表すことこそ必要であり,教員としてせめてなすべきことだ,と思ったのです。
いくら全教員が反対していようと,目の前に「日の丸・君が代」がやられていて,何の意思表示もなければ,賛成して学校としてやっているとさえ思われてしまう。取り去る力がないなら,せめて反対を表明すべきだ,と必死の思いでした。
それからわずかの歳月の間に,どんどんと強制が強まり,私の反対の表明もどんどん後退させられ,ブラウスに絵のみ描く,というところまできてしまいました。これ以上もう引き下がるまい,そう思っていたのに10・23通達が出され,遂に自分の内心の自由を守るために静かに坐る,というのが”果敢な闘争”と呼ばれるまでに至ってしまいました。
今,私は不起立の処分撤回闘争を,ブラウス裁判と同時にやっていますが,ブラウス裁判闘争は,私にとって,その時代,その時代に,最大限のNO!を突きつけよう,と努力してきた闘いそのものなのです。
ひるまず,己に正直に生きたいと,挑んできた私の精神の象徴なのです。簡単には投げ捨てられません。
私は最後まで,納得できる闘いをしていきたい。
私は上告して闘い続けます。
渡辺厚子
■ 東京高裁原田判決は本当にひどい内容だ
12月26日当日,原田法廷では5件の判決言い渡しがあり,渡辺さんの件は最後でした。
つめかけた傍聴者は80名近くで,傍聰席のうしろに立っている方が大勢いました。ほとんどすべての方が渡辺さん関係でした。
原田裁判長は,一言,「棄却する」といって,すぐ立ち上がりました。と,同時に法廷がどよめき,私も含めて何人もの人が,「裁判長はそんなに出世したいのですか」「不当判決!」「判決理由はどうした?」と,怒りの声をあげました。が,そのまま裁判長は法廷の後ろへ身をひるがえして姿を消しました。
判決後,記者クラブで記者会見をした後,4時半から弁護士会館で短時間の集会を持ちました。50名ぐらいの参加でした。
最高裁に上告するかどうか,その判断の期限が休み明けの1月9日までとのこと。
ところが,担当の3名の弁護士さんの意見は上告すべきでないとのこと。弁護士さんの考えでは,最高裁の判断が出てしまうと,下級審のすべての判決に影響あるからということでした。
渡辺さん自身は,このブラウス裁判の他にも「日の君」裁判を抱えてはいるが,なんらかの形でこのブラウス裁判を継続して行きたいと表明していました。
原田敏章裁判長はどのような論理で控訴を棄却したのか。判決文から抜粋する。
「本件職務命令1(上着有用命令)に裁量権の逸脱濫用があったか否か」
学習指導要領と国旗・国歌法を根拠として,公立学校の入学式において,国旗掲揚’国歌斉唱を実施すること自体が憲法に違反するとは解されない。江崎校長が教職員の多数意見に反して国旗掲揚`国歌斉唱を実施したとしても,職員会議は職務の円滑な執行に資するために校長が定めるところにより校長が置くことができる機関にすぎないので,違法ではない。
残念ながら法律自体はここまで来てしまった。しかしそうだとしても,渡辺さんのような自律の絵ブラウスを着るというだけの静かな意思表示それ自体が違法といえるのだろうか。
控訴人がブラウスを着用したままの姿で入学式に出席することは,儀式的行事である入学式の趣旨に反するばかりか,教職員間における国旗掲揚・国歌斉唱に関する対立状況をそのまま児童・生徒・保護者及び来賓の面前に持ち込むものであって,これにより入学式の出席者に不快感や不信感を生じさせ,さらには,控訴人が国旗掲揚・国歌斉唱を拒否することを入学式の出席者に煽っているものと捉えられかねないことにもなって,入学式の円滑な進行を妨げ混乱を招くおそれがあることも否定できない。
「日の丸・君が代」強制についての意見対立があるのは当然であろう。なぜ反対の意思表明を禁じることができるのか。また混乱のおそれがあるということだけで,我務命令が正当化されるのであろうか。
職務命令1は,そのこと自体が控訴人の思想及び良心の自由を直接に侵害するものとはいえず,表現の自由といえども国民全体の共同の利益のために合理的でやむを得ない制限を受けることは,憲法自体がこれを許容するところである。
「国民全体」とはだれのことなのか。反対する人は国民ではないの?自作の絵ブラウスを着るという意思表示を職務命令によってやめさせるのは,思想及ぴ良心の自由,表現の自由を直接に侵害することではないだろうか。
原田裁判長の考える「思想及び良心の自由」「表現の自由」とはなにか。このようなめちゃくちゃ判決を放置してはいけない。(出版労連・籠島史郎)
『ほっととーく 49』より
「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会
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