◆ なぜ「道徳」を教科にしようとするのか
◆ 「道徳」の教科化と・読売「教育」世論調査
現在、小・中学校に週1単位時間(学習指導要領によると、小学校は45分、中学校は50分)設けられている「道徳」は、教科とは区別して「道徳の時間」と呼ばれている。
この「道徳」を「新たな枠組みによって教科化」しようとの提言が、去る2月26日に発表された教育再生実行会議第一次提言「いじめ問題等への対応について」の中でなされている。
今後、中央教育審議会で審議されることになる。
ところで、去る3月末、読売新聞社が実施した「教育」世論調査によると、「道徳」の教科化に賛成する人が84%、反対する人が10%であった。
賛成の理由としては「他人を思いやる心が育つ」を選んだ人がもっとも多い(賛成と答えた人の52%。読売新聞4月18日朝刊)。
しかし、筆者の理解するところ、「道徳」の教科化に賛成した人の多くは「他人を思いやる心が育つ」などの理由で、要するに子どもに必要な道徳教育の充実を求めているということであろう。
学校の道徳教育に寄せるそれらの人々の願いと「道徳」を教科化しようとしている安倍内閣の意図とは、はたして同じものだろうか。
◆ 「道徳」教科化のねらい
2006年10月、第一次安倍内閣のもとに設置された教育再生会議以来の経過を含めていうと、「道徳」教科化のねらいは、
①「授業時数の確保」の名による「道徳」授業実施への強制力の強化、
②「教材の充実」の名による授業内容への規制の強化、
③「効果的な指導方法の明確化」の名による指導方法への規制の強化、
つまるところは、いじめ問題にこと寄せて政府のいう「愛国心」をかなめとする国家主義的な道徳教育のいっそうの徹底をはかろうとするもの、と筆者は考えている。
あるいは、「規範意識」と称して、その実は、戦後、文部省が従来の道徳教育を批判して述べた「いかに既成の秩序に服従するかという個人の心術(『岩波国語辞典』によると「行為の発するもと」一筆者注)」(『中等学校・青年学校公民教師用書』1946年)を今また作り上げようとするものともいえる。
◆ 政府の考える道徳教育と「愛国心」
上記のような「道徳」教科化のねらいについて、以下、若干の補足をしておきたい。
まず、政府のいう「愛国心」とは、拙著『学校教育と愛国心戦前・戦後の「愛国心」教育の軌跡」』(学習の友社、2008年)でも述べたように、
①1950年当時の天野文相発言をはしりとして1966年、中央教育審議会「期待される人間像」の中でもいわれたような「天皇への敬愛」と不可分なものとしての愛国心」、
②1953年、池田・ロバートソン会談日本側議事録草案要旨にいう「自衛のための自発的精神」、さらには防衛庁「第2回防衛白書」(1976年)等にいう「国を守る気概」としての「愛国心」、
③1980年代、臨時教育審議会の一連の答申のなかであらためて強調された日本の伝統・文化の理解と尊重、それにもとづく「日本人としての自覚」としての「愛国心」、少なくともこの三つの「顔」をもつものである。
ただし、日本教育会研修事業委員会編著『愛国心と教育』(1987年)に「天皇制こそがわが国の伝統の中心である」とあるように、①と③は重なり合っている。
このような「愛国心」を作り上げることこそ、「道徳」特設当初からの政府の道徳教育政策の基本的なねらいであった。その特設(1958年4月から)に先立ち、1957年8月4日、松永文相は記者会見で「民族意識、愛国心高揚のために小・中学校に道義に関する独立教科を早急に設けたい」と表明している(同日、朝日新聞夕刊参照)。
降って2006年の教育基本法改定は「愛国心」の法定を最大の焦点としていた。その翌年、日本経済団体連合会も「美しい薔薇が健やかな枝に咲くように、美徳や公徳心は愛国心という肥沃な大地から萌え出る」(『希望の国、日本』2007年1月)と述べている。
◆ 道徳副読本から道徳教科書へ
政府の道徳教育政策が「思いやり」をいうとしても、その「思いやり」とは、かつて修身徳目「博愛」が「皇運扶翼」という至高の価値に従属するものであったように、政府のいう「愛国心」に従属するものというべきであろう。
特設当初の「道徳」は、これを修身科の復活とする批判を考慮し、「時間」という名称を採用するとともに「なるべく児童生徒の具体的な生活に即しながら、種々の方法を用いて指導すべきであって、教師の一方的な教授や単なる徳目の解説におわることのないように、特に注意しなければならない」(文部省「小・中学校「道徳」実施要綱』1958年3月)とされるものであった。
「道徳教科書」の使用については否定的であった。
しかし、1962年当時の「道徳教科書をつくりたい」とする荒木文相の発言と検討の指示、これを受けた1963年7月の教育課程審議会答申「学校における道徳教育の充実方策について」を転機として、「道徳」の目標内容の具体化と徹底があらためて図られるにいたった。
答申にもとづき文部省は1964年から66年にかけて『道徳の指導資料』(第1集~第3集、小・中学校各学年別)を発行するとともに、1965年1月、道徳の読み物資料についての通達を発し、副読本の基準を示している。
以来、民間会社による、さらには都道府県教育委員会等による道徳副読本の作成とその利用が次第にひろがるにいたった。
しかし、「道徳」の内容に対する規制を強化する立場からは、現状は満足できるものとはいえない。
現在、道徳教育の充実に関する懇談会によって進められている文部科学省『心のノート』の全面改訂を手始めに、教科書検定制度の強化とあいまって道徳教科書を検定の対象とすることも検討課題にのぼっている。
ちなみに、その道徳教科書のパイロット版と自称して道徳教育をすすめる有識者の会編『13歳からの道徳教科書』(育鵬社、2012年)が出版されている。八木秀次氏(教育再生実行会議委員)らがその編集に当たって中心的な価値としたという「清明心」とは、文部省『国体の本義』(1937年)に「君民一体の肇(ちよう)国(こく)以来の道に生きる心」としていわれている言葉である(雑誌『教育』今年6月号所収の拙稿を参照されたい)。
◆ 教育活動全体の「道徳教育」化
問題は「道徳」を教科にすることだけにあるのではない。「道徳」は学校における道徳教育の要(かなめ)としての地位を受け継いで、学校における道徳教育のための「特別教科」(道徳教育の充実に関する懇談会・押谷由夫副座長)にもされようとしている。
学校の教育活動全体の「道徳教育」化(お説教とおしつけ)を推進する、いわば司令塔としての役割を見込んでのことであろう。(ふじたまさし)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 91号』(2013.8)
藤田昌士(元立教大学教授)
◆ 「道徳」の教科化と・読売「教育」世論調査
現在、小・中学校に週1単位時間(学習指導要領によると、小学校は45分、中学校は50分)設けられている「道徳」は、教科とは区別して「道徳の時間」と呼ばれている。
この「道徳」を「新たな枠組みによって教科化」しようとの提言が、去る2月26日に発表された教育再生実行会議第一次提言「いじめ問題等への対応について」の中でなされている。
今後、中央教育審議会で審議されることになる。
ところで、去る3月末、読売新聞社が実施した「教育」世論調査によると、「道徳」の教科化に賛成する人が84%、反対する人が10%であった。
賛成の理由としては「他人を思いやる心が育つ」を選んだ人がもっとも多い(賛成と答えた人の52%。読売新聞4月18日朝刊)。
しかし、筆者の理解するところ、「道徳」の教科化に賛成した人の多くは「他人を思いやる心が育つ」などの理由で、要するに子どもに必要な道徳教育の充実を求めているということであろう。
学校の道徳教育に寄せるそれらの人々の願いと「道徳」を教科化しようとしている安倍内閣の意図とは、はたして同じものだろうか。
◆ 「道徳」教科化のねらい
2006年10月、第一次安倍内閣のもとに設置された教育再生会議以来の経過を含めていうと、「道徳」教科化のねらいは、
①「授業時数の確保」の名による「道徳」授業実施への強制力の強化、
②「教材の充実」の名による授業内容への規制の強化、
③「効果的な指導方法の明確化」の名による指導方法への規制の強化、
つまるところは、いじめ問題にこと寄せて政府のいう「愛国心」をかなめとする国家主義的な道徳教育のいっそうの徹底をはかろうとするもの、と筆者は考えている。
あるいは、「規範意識」と称して、その実は、戦後、文部省が従来の道徳教育を批判して述べた「いかに既成の秩序に服従するかという個人の心術(『岩波国語辞典』によると「行為の発するもと」一筆者注)」(『中等学校・青年学校公民教師用書』1946年)を今また作り上げようとするものともいえる。
◆ 政府の考える道徳教育と「愛国心」
上記のような「道徳」教科化のねらいについて、以下、若干の補足をしておきたい。
まず、政府のいう「愛国心」とは、拙著『学校教育と愛国心戦前・戦後の「愛国心」教育の軌跡」』(学習の友社、2008年)でも述べたように、
①1950年当時の天野文相発言をはしりとして1966年、中央教育審議会「期待される人間像」の中でもいわれたような「天皇への敬愛」と不可分なものとしての愛国心」、
②1953年、池田・ロバートソン会談日本側議事録草案要旨にいう「自衛のための自発的精神」、さらには防衛庁「第2回防衛白書」(1976年)等にいう「国を守る気概」としての「愛国心」、
③1980年代、臨時教育審議会の一連の答申のなかであらためて強調された日本の伝統・文化の理解と尊重、それにもとづく「日本人としての自覚」としての「愛国心」、少なくともこの三つの「顔」をもつものである。
ただし、日本教育会研修事業委員会編著『愛国心と教育』(1987年)に「天皇制こそがわが国の伝統の中心である」とあるように、①と③は重なり合っている。
このような「愛国心」を作り上げることこそ、「道徳」特設当初からの政府の道徳教育政策の基本的なねらいであった。その特設(1958年4月から)に先立ち、1957年8月4日、松永文相は記者会見で「民族意識、愛国心高揚のために小・中学校に道義に関する独立教科を早急に設けたい」と表明している(同日、朝日新聞夕刊参照)。
降って2006年の教育基本法改定は「愛国心」の法定を最大の焦点としていた。その翌年、日本経済団体連合会も「美しい薔薇が健やかな枝に咲くように、美徳や公徳心は愛国心という肥沃な大地から萌え出る」(『希望の国、日本』2007年1月)と述べている。
◆ 道徳副読本から道徳教科書へ
政府の道徳教育政策が「思いやり」をいうとしても、その「思いやり」とは、かつて修身徳目「博愛」が「皇運扶翼」という至高の価値に従属するものであったように、政府のいう「愛国心」に従属するものというべきであろう。
特設当初の「道徳」は、これを修身科の復活とする批判を考慮し、「時間」という名称を採用するとともに「なるべく児童生徒の具体的な生活に即しながら、種々の方法を用いて指導すべきであって、教師の一方的な教授や単なる徳目の解説におわることのないように、特に注意しなければならない」(文部省「小・中学校「道徳」実施要綱』1958年3月)とされるものであった。
「道徳教科書」の使用については否定的であった。
しかし、1962年当時の「道徳教科書をつくりたい」とする荒木文相の発言と検討の指示、これを受けた1963年7月の教育課程審議会答申「学校における道徳教育の充実方策について」を転機として、「道徳」の目標内容の具体化と徹底があらためて図られるにいたった。
答申にもとづき文部省は1964年から66年にかけて『道徳の指導資料』(第1集~第3集、小・中学校各学年別)を発行するとともに、1965年1月、道徳の読み物資料についての通達を発し、副読本の基準を示している。
以来、民間会社による、さらには都道府県教育委員会等による道徳副読本の作成とその利用が次第にひろがるにいたった。
しかし、「道徳」の内容に対する規制を強化する立場からは、現状は満足できるものとはいえない。
現在、道徳教育の充実に関する懇談会によって進められている文部科学省『心のノート』の全面改訂を手始めに、教科書検定制度の強化とあいまって道徳教科書を検定の対象とすることも検討課題にのぼっている。
ちなみに、その道徳教科書のパイロット版と自称して道徳教育をすすめる有識者の会編『13歳からの道徳教科書』(育鵬社、2012年)が出版されている。八木秀次氏(教育再生実行会議委員)らがその編集に当たって中心的な価値としたという「清明心」とは、文部省『国体の本義』(1937年)に「君民一体の肇(ちよう)国(こく)以来の道に生きる心」としていわれている言葉である(雑誌『教育』今年6月号所収の拙稿を参照されたい)。
◆ 教育活動全体の「道徳教育」化
問題は「道徳」を教科にすることだけにあるのではない。「道徳」は学校における道徳教育の要(かなめ)としての地位を受け継いで、学校における道徳教育のための「特別教科」(道徳教育の充実に関する懇談会・押谷由夫副座長)にもされようとしている。
学校の教育活動全体の「道徳教育」化(お説教とおしつけ)を推進する、いわば司令塔としての役割を見込んでのことであろう。(ふじたまさし)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 91号』(2013.8)
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