●5・30腰砕け村瀬判決文が☆ダウンロード☆できます。
かわむらひさこのHP http://www.sinsyakaibunka.com/ トップページから、
教育裁判重要判決「板橋高校卒業式「日の丸・君が代」刑事弾圧事件」をクリック。
PDFファイルで18ページあります。
(文中、A~Eは弁護側証人〔教師・保護者〕、P~Rは検察側証人〔教師〕)
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2006年7月1日(土曜日) 徐勝①
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一つの本で目を覚まされることはしばしばある。 私はこの本に騙されているのであろうか。 以下、書き写していく。
「徐勝(ソ・スン)、 英雄にされた北朝鮮のスパイ、(金日成親子の犯罪を隠した日本の妖怪たち) 元・朝鮮総聯幹部 張 明秀(チャン・ミョンス)、宝島社」 1994、12、10、初版発行
p、27・・・兄・勝の控訴審は、取調べ中に負った火傷の治療のため、弟と分離して行われた。(72年)11月2日からの徐勝の公判には日本から「救う会」の延べ40人が傍聴に押しかけて激しく抗議の声を上げ、「救う会」自身の報告によれば、法廷は「騒然とした空気に包まれた」。
しかし、11月23日の徐勝の最終陳述は、傍聴席の彼らに激しい動揺をもたらした。彼らの目前で徐勝は、二度にわたる「入北」の事実についてはっきりと認めてしまったのである。傍聴していた「徐兄弟を守る京大有志の会」は、活動報告のなかで「兄弟が『入北』の事実を明らかにした際に若干の動揺が起き」と、その衝撃を認めている。また、この公判で、日本から来た救援運動支援者たちは、「入北」に長兄・善雄が関与していたこと、徐勝が北朝鮮でで労働党に入党していたことも初めて知らされたのである。・・・
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2006年7月2日(日曜日) 徐勝②
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p、41・・・・その写真は71年10月22日の第一審公判で撮られたものでAP配信で翌日の日本の新聞紙面を飾った。産経新聞などは、その火傷を「電気拷問」による火傷だと決め付けた。焼けただれて識別もつかなくなった徐勝の顔と、死刑という極刑の判決は、分断された朝鮮半島の状況について知識も関心もない日本人に対しても有無を言わせぬ衝撃を与えるものだった。そして、江川氏の言葉を借りれば「より感性的、肉体的であるところに根ざした」ものとして、日本における救援活動は広がりを見せていった。
ところが、実は、この火傷は拷問の跡ではなかったのだ。90年に釈放された徐勝は、ソウルのプレスセンターでの記者会見で告白した。
「(自分がオルグしようとした)親しい学友も連行され、拷問を受ける悲鳴を聞いた。自責の念と恐怖感から、精神的にも肉体的にも自信を失った。『死んだほうがましだ』と思い、捜査官が席を立った間に石油ストーブの石油をかぶり、火をつけた」
しかし、日本人の多くの人々にはいまだに、徐勝といえば「ガスバーナーで」拷問された政治犯として記憶されているのが現状だろう。そして「ガスバーナー云々」を語り、韓国捜査当局の非人道的行為を激しく糾弾していた文化人のひとりが李恢成である。
実は、彼は、徐勝の対南工作に非常に密接に関わっているのである。ここでは、李恢成をからめて、徐兄弟が金日成のスパイになっていく過程を追っていこう。・・・
p、44・・・・とにかく、李が真相を知っていたのは確実だ。なぜなら、高校生だった徐勝を総聯にオルグしたのは李なのがから。・・・
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2006年7月3日(月曜日) 徐勝③
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p、44・・・・独裁者を父と慕う李恢成の教育
徐兄弟に関して李恢成が数多く行った講演のうち、74年6月29日の「徐勝君の青春」と題するものに、李と徐勝の関係が語られていた。
「ぼくが在日朝鮮人の教育機関に携わっていた頃、徐勝君は京都の堀川高校の学生でした」
その教育機関とは、河出書房の『李恢成集』の年賦によれば朝鮮総聯中央教育部学生課のことである。総聯の教育部は毎年夏休みに「夏季講習会」を行なう。李恢成は、そこで参加した徐勝と出会ったと語っている。
当時(62、3年頃)の彼は日本の学校にいながら朝鮮文化研究会をつくって、一生懸命オルグ活動をしていたわけです。徐勝君は各高校の朝文研のリ-ダーたちと定期的な連絡会を持って、朝鮮全体の歴史や文化の研究をやっていました。そういうなかで自発的に、待つ休みを利用して祖国を知るための講習会を開こうというプランが持ち上がり、その話が僕なんかのところにきやわけです」
李恢成は、徐勝の兄・善雄と同じく総聯の学生運動組織・留学同に入っており、二人は顔見知りだった。そのつてで徐勝は李恢成の講習を受けたようだ。総聯は今もこの講習会を行っているが、その目的は日本学校に通う在日学生をオルグするためのものである。
当時、在日同胞の若者たちは過酷な民族差別のなかで生きる希望を失い、李珍宇という少年が日本の女子学生を殺した『小松川事件』を起こしたりしていたが、講習会では、そのような問題を題材にして「民族の主体性を確立する」という「主体(チュチェ)思想、そして、金日成への崇拝を叩き込まれた。」・・・
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2006年7月4日(火曜日) 徐勝④
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p、46 ・・・総聯に乗っ取られた民団学生組織
徐勝は64年前後に高校を出て、兄・善雄と同じ東京教育大学に入学した。彼は総聯中央教育部の李恢成にオルグされたにもかかわらず、兄のように総聯系の留学同には入らなかった。彼はなぜか民団側の学生組織である「韓学同(韓国学生同盟)」に加盟したのである。
実はこれが「工作」のはじまりだったのだ。
64年から65年にかけて、韓学同の委員長を務めたことのあるF氏に会って、当時の状況を聞くことができた。
「当時、民団側の学生組織には、学生のみを対象とする韓学同と、勤労者も含む韓青同(韓国青年同盟)の二つがありましたが、実はどちらの執行部も密かに総聯側に牛耳られていたのです。あの頃は世界的に左翼運動の嵐が吹き荒れていた頃で、韓国においては李承晩政権を倒した60年の四・一九学生蜂起の余波さめやらぬ時期でしたから、総聯系の運動家も堂々と韓学同に出入りしていました。徐勝の兄の善雄も、私の下宿に懐柔工作に来たことがあります」
前述したように兄の善雄は、徐勝の大学入学の頃、すでに総聯の裏組織、つまり対南工作部に移っていた。その関係で徐勝は韓学同に「浸透」するよう指示されたものと思われる。
「そんな状況ですから、韓学同では韓国に革命を起こす理想が公然と語られていました。それが北の労働党指導による革命か、それともマルクス・レーニン主義による独自の革命か、という論争に発展し、私は独自の革命を主張したのですが、徐勝は『北の指導』による革命を唱える派に属していました」・・・
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2006年7月5日(水曜日) 徐勝⑤
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p、47 ・・・韓日条約締結は、日本が韓国に対して過去の植民地支配について謝罪と償いをし、両国が正式に国交関係を結ぶためのものだが、北は「日本が南だけと結ぶこの条約は、南北分断を固定化するものだ」と、激しく反対した。もちろん総聯に牛耳られてた韓学同もそれに従い、徹底抗戦の構えだった。前述のように徐勝も韓国外相に卵を投げようとするなど、積極的に反対闘争に参加した。
ところが条約締結直前になって、総聯は唐突に「反対運動は、在日同胞の法的地位の部分に限定するように」との路線転換を韓学同に指示したのである。当時の韓学同委員長のF氏は次のように話してくれた。
「総聯のこの指示をめぐって、韓学同内部で激しい戸惑いと混乱が生じました。そして、総聯の指示にあっさり従う『条件闘争派』と、最後まで筋を通そうとする『徹底抗戦派』に分裂したのです。徐勝はもちろん条件闘争派に属していました」
実は、この路線変更には、北の企みがあった。反対闘争にもかかわらず韓日条約の締結が確実になってくると、それ以上突っ張るのをやめて、韓学同を表向き穏健な組織にすることで、それを韓国に在日学生を「留学」させるための土台にしたほうが有益だと判断したのだ。もちろん留学生に偽装した北側の工作員を韓国に送り込むためである。
その企みを知らない民団は、その年(65年)9月の中央委員会で、韓日条約に反対した韓学同を民団の直轄処分とし、徹底抗戦派を過激分子として排除し、逆に、総聯に忠実な条件闘争派のほうを穏健派として抱え込んでしまった。そのおかげで、徐勝たち穏健派学生は合法的に韓国に留学するのだが、彼らが工作員として次々に摘発されるに及び、72年、やっと民団は彼らを追放した。 ・・・
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(文中、A~Eは弁護側証人〔教師・保護者〕、P~Rは検察側証人〔教師〕)
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2006年7月1日(土曜日) 徐勝①
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一つの本で目を覚まされることはしばしばある。 私はこの本に騙されているのであろうか。 以下、書き写していく。
「徐勝(ソ・スン)、 英雄にされた北朝鮮のスパイ、(金日成親子の犯罪を隠した日本の妖怪たち) 元・朝鮮総聯幹部 張 明秀(チャン・ミョンス)、宝島社」 1994、12、10、初版発行
p、27・・・兄・勝の控訴審は、取調べ中に負った火傷の治療のため、弟と分離して行われた。(72年)11月2日からの徐勝の公判には日本から「救う会」の延べ40人が傍聴に押しかけて激しく抗議の声を上げ、「救う会」自身の報告によれば、法廷は「騒然とした空気に包まれた」。
しかし、11月23日の徐勝の最終陳述は、傍聴席の彼らに激しい動揺をもたらした。彼らの目前で徐勝は、二度にわたる「入北」の事実についてはっきりと認めてしまったのである。傍聴していた「徐兄弟を守る京大有志の会」は、活動報告のなかで「兄弟が『入北』の事実を明らかにした際に若干の動揺が起き」と、その衝撃を認めている。また、この公判で、日本から来た救援運動支援者たちは、「入北」に長兄・善雄が関与していたこと、徐勝が北朝鮮でで労働党に入党していたことも初めて知らされたのである。・・・
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2006年7月2日(日曜日) 徐勝②
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p、41・・・・その写真は71年10月22日の第一審公判で撮られたものでAP配信で翌日の日本の新聞紙面を飾った。産経新聞などは、その火傷を「電気拷問」による火傷だと決め付けた。焼けただれて識別もつかなくなった徐勝の顔と、死刑という極刑の判決は、分断された朝鮮半島の状況について知識も関心もない日本人に対しても有無を言わせぬ衝撃を与えるものだった。そして、江川氏の言葉を借りれば「より感性的、肉体的であるところに根ざした」ものとして、日本における救援活動は広がりを見せていった。
ところが、実は、この火傷は拷問の跡ではなかったのだ。90年に釈放された徐勝は、ソウルのプレスセンターでの記者会見で告白した。
「(自分がオルグしようとした)親しい学友も連行され、拷問を受ける悲鳴を聞いた。自責の念と恐怖感から、精神的にも肉体的にも自信を失った。『死んだほうがましだ』と思い、捜査官が席を立った間に石油ストーブの石油をかぶり、火をつけた」
しかし、日本人の多くの人々にはいまだに、徐勝といえば「ガスバーナーで」拷問された政治犯として記憶されているのが現状だろう。そして「ガスバーナー云々」を語り、韓国捜査当局の非人道的行為を激しく糾弾していた文化人のひとりが李恢成である。
実は、彼は、徐勝の対南工作に非常に密接に関わっているのである。ここでは、李恢成をからめて、徐兄弟が金日成のスパイになっていく過程を追っていこう。・・・
p、44・・・・とにかく、李が真相を知っていたのは確実だ。なぜなら、高校生だった徐勝を総聯にオルグしたのは李なのがから。・・・
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2006年7月3日(月曜日) 徐勝③
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p、44・・・・独裁者を父と慕う李恢成の教育
徐兄弟に関して李恢成が数多く行った講演のうち、74年6月29日の「徐勝君の青春」と題するものに、李と徐勝の関係が語られていた。
「ぼくが在日朝鮮人の教育機関に携わっていた頃、徐勝君は京都の堀川高校の学生でした」
その教育機関とは、河出書房の『李恢成集』の年賦によれば朝鮮総聯中央教育部学生課のことである。総聯の教育部は毎年夏休みに「夏季講習会」を行なう。李恢成は、そこで参加した徐勝と出会ったと語っている。
当時(62、3年頃)の彼は日本の学校にいながら朝鮮文化研究会をつくって、一生懸命オルグ活動をしていたわけです。徐勝君は各高校の朝文研のリ-ダーたちと定期的な連絡会を持って、朝鮮全体の歴史や文化の研究をやっていました。そういうなかで自発的に、待つ休みを利用して祖国を知るための講習会を開こうというプランが持ち上がり、その話が僕なんかのところにきやわけです」
李恢成は、徐勝の兄・善雄と同じく総聯の学生運動組織・留学同に入っており、二人は顔見知りだった。そのつてで徐勝は李恢成の講習を受けたようだ。総聯は今もこの講習会を行っているが、その目的は日本学校に通う在日学生をオルグするためのものである。
当時、在日同胞の若者たちは過酷な民族差別のなかで生きる希望を失い、李珍宇という少年が日本の女子学生を殺した『小松川事件』を起こしたりしていたが、講習会では、そのような問題を題材にして「民族の主体性を確立する」という「主体(チュチェ)思想、そして、金日成への崇拝を叩き込まれた。」・・・
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2006年7月4日(火曜日) 徐勝④
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p、46 ・・・総聯に乗っ取られた民団学生組織
徐勝は64年前後に高校を出て、兄・善雄と同じ東京教育大学に入学した。彼は総聯中央教育部の李恢成にオルグされたにもかかわらず、兄のように総聯系の留学同には入らなかった。彼はなぜか民団側の学生組織である「韓学同(韓国学生同盟)」に加盟したのである。
実はこれが「工作」のはじまりだったのだ。
64年から65年にかけて、韓学同の委員長を務めたことのあるF氏に会って、当時の状況を聞くことができた。
「当時、民団側の学生組織には、学生のみを対象とする韓学同と、勤労者も含む韓青同(韓国青年同盟)の二つがありましたが、実はどちらの執行部も密かに総聯側に牛耳られていたのです。あの頃は世界的に左翼運動の嵐が吹き荒れていた頃で、韓国においては李承晩政権を倒した60年の四・一九学生蜂起の余波さめやらぬ時期でしたから、総聯系の運動家も堂々と韓学同に出入りしていました。徐勝の兄の善雄も、私の下宿に懐柔工作に来たことがあります」
前述したように兄の善雄は、徐勝の大学入学の頃、すでに総聯の裏組織、つまり対南工作部に移っていた。その関係で徐勝は韓学同に「浸透」するよう指示されたものと思われる。
「そんな状況ですから、韓学同では韓国に革命を起こす理想が公然と語られていました。それが北の労働党指導による革命か、それともマルクス・レーニン主義による独自の革命か、という論争に発展し、私は独自の革命を主張したのですが、徐勝は『北の指導』による革命を唱える派に属していました」・・・
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2006年7月5日(水曜日) 徐勝⑤
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p、47 ・・・韓日条約締結は、日本が韓国に対して過去の植民地支配について謝罪と償いをし、両国が正式に国交関係を結ぶためのものだが、北は「日本が南だけと結ぶこの条約は、南北分断を固定化するものだ」と、激しく反対した。もちろん総聯に牛耳られてた韓学同もそれに従い、徹底抗戦の構えだった。前述のように徐勝も韓国外相に卵を投げようとするなど、積極的に反対闘争に参加した。
ところが条約締結直前になって、総聯は唐突に「反対運動は、在日同胞の法的地位の部分に限定するように」との路線転換を韓学同に指示したのである。当時の韓学同委員長のF氏は次のように話してくれた。
「総聯のこの指示をめぐって、韓学同内部で激しい戸惑いと混乱が生じました。そして、総聯の指示にあっさり従う『条件闘争派』と、最後まで筋を通そうとする『徹底抗戦派』に分裂したのです。徐勝はもちろん条件闘争派に属していました」
実は、この路線変更には、北の企みがあった。反対闘争にもかかわらず韓日条約の締結が確実になってくると、それ以上突っ張るのをやめて、韓学同を表向き穏健な組織にすることで、それを韓国に在日学生を「留学」させるための土台にしたほうが有益だと判断したのだ。もちろん留学生に偽装した北側の工作員を韓国に送り込むためである。
その企みを知らない民団は、その年(65年)9月の中央委員会で、韓日条約に反対した韓学同を民団の直轄処分とし、徹底抗戦派を過激分子として排除し、逆に、総聯に忠実な条件闘争派のほうを穏健派として抱え込んでしまった。そのおかげで、徐勝たち穏健派学生は合法的に韓国に留学するのだが、彼らが工作員として次々に摘発されるに及び、72年、やっと民団は彼らを追放した。 ・・・
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