★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 1月28日(金)第8回最高裁要請行動を行いました ■□■
「ベニヒワ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
最高裁判所 第一小法廷
櫻 井 龍 子 裁判長 殿
宮 川 光 治 裁判官 殿
金 築 誠 志 裁判官 殿
横 田 尤 孝 裁判官 殿
白 木 勇 裁判官 殿
板橋高校卒業式事件は、公権力による国旗国歌を強制する教育政策に反対する一市民の、憲法に保障された「言論・表現の自由」権利行使の問題であると同時に、教育を受ける権利の主体である生徒たちの思想・良心の自由や意見表明権という、重大な人権保障に関わる問題です。
加えて、学校行事における言論行為が、求刑懲役8月という刑事罰の対象になったことも「君が代」を強制する卒業式でなければ考えられないような異例なことであり、このような刑事事件における事実認定は、法と証拠に基づいた厳密かつ公正なものでなければならないことは言うまでもありません。そして、人権保障ないし制限の判断基準は、国際標準に合致するものであることも重要です。
以下において、本事件に対するこれまでの裁判所の判断の問題点等について、具体的に指摘させていただきます。
1,国際人権関係諸条約の裁判規範性
(1)威力業務妨害罪の適用は自由権規約違反
わが国が『自由権規約』を批准して32年になります。これまで自由権規約委員会からたびたび「規約の規定を直接適用した国内裁判所の裁判例に関する情報が…乏しい」と懸念を表明されてきました(2008/10/30)。その勧告に前向きに応えるためにも、最高裁が率先して規約を判決文に適用することが望まれます。
威力業務妨害罪の適用に当たっては、『刑法』の上位規範にあたる『自由権規約』に準拠しなければなりません。自由権規約19条3項(添付資料1参照)に示される、締約国が表現の自由を制限できる条件は、明文化された立法による2つの限定的な領域(他人の権利の尊重、緊急の国家的必要性)にかぎられています。その規定に照らすなら、「藤田さんの訴追及び有罪判決は表現の自由の権利に対する不当な介入と見なされる」というのが、フォルホーフ教授の鑑定意見書の結論でした。即ち、国際条約の裁判規範性から、本件での威力業務妨害罪の適用は自由権規約違反で無効とみなされるのです。
(2)国際人権先例の一例
フォルホーフ意見書に引用された判例の一つ「Coleman対Australia」(UNHCR)の中に、コールマン氏が通行モールで無許可で演説したのに対して、現場の警察官がビデオを撮りながら演説を続けることを許していたことを、「脅威・破壊・危険を示唆しない」と認定する下りがあります。
同様に、本件では、藤田さんの呼びかけを指導主事がICレコーダに録音しながら制止しなかったことは、急迫性が無かったことの証明ではないでしょうか。後に「威力業務妨害罪」で起訴したのは萎縮効果を狙った「見せしめ」に当たります。
藤田さんの呼びかけは、コールマン氏と同様、公共の利益に関わる社会的関心事について、人に脅威を与えたり不当に破壊的になったりすることなく、公衆に向かって呼びかけた、正当な権利の行使と見なされるべきです。
(3)最新の自由権規約委員会「一般的意見34草案」 (添付資料2参照)
ごく最近、規約19条(言論・表現の自由)に関して、権利の及ぶ範囲をより明確にして最新の言論状況にも対応した「一般的意見34(草案)」が、国連自由権規約委員会により公開されました(2010/10/22)。
そのパラグラフ9には「意見を有する権利」は「意見を交換する権利まで及ぶ」とあり、その上で権利の制限に関しては、パラグラフ23で「表現の自由への制限は正当性に関しての厳格な検査基準を満たさなければならない」、パラグラフ26で「自由裁量を与えることはない」、パラグラフ28で「制限についての法的基盤を明らかにするのは締約国である」と解説しています。
この最新の解釈に照らしても、藤田さんに対する有罪判決は、表現の自由に対する許されない制限であることは明らかです。
2,表現の内容規制は許されるのか
(1)本件は「表現内容規制」である
本件は、「表現内容」の規制に及んでいます。地裁判決文には、「その内容は国歌斉唱に当たって全員に起立を求める方針でいた北爪らの立場からは、とうてい許容できない内容であるといえる。」(p20)、「卒業式を執り行おうとする北爪ら関係者の意思を制圧するに足りる勢力の行使として、威力業務妨害罪の『威力』に該当することは明らかである。」(p20)と、表現内容を「威力」と認定しています。この規制が憲法に適合するかどうか明確な判断が求められます。
校長の卒業式遂行業務に、保護者も含む全員に起立を求めることは含まれず(校長の主観的願望以上の法的根拠は存在しない)、藤田さんの呼びかけ内容は、違法行為の推奨は一切含まない、社会的関心事、すなわち、憲法で保障された思想・良心の自由の権利や、学校行事等における国旗称揚・国歌斉唱の強制に対する開かれた議論でした。これに威力業務妨害罪を適用することは、言論の内容への不当な弾圧に当たるのではないでしょうか。
(2)教育現場への萎縮効果
卒業式それ自体の中における「喧騒状態」は、国歌斉唱時に着席した約9割の卒業生の「意見表明」に対して、それをまるでいけないことのように決めつけて一方的に大声で起立を命じた来賓都議・管理職の行為によりもたらされました。それが多くの参列者の顰蹙をかった喧噪であったことは、何人もの保護者証人が法廷で証言しています。このように画一的な「日の丸・君が代への起立斉唱」を命令により公的な場で強制することは、『子どもの権利条約』12条に規定された「意見表明権」の頭ごなしの否定です。
また刑事罰による萎縮効果は、教育現場で「日の丸・君が代」が神聖視されるにとどまらず、一つの価値観しか許さない硬直した状態を作り上げています。教員の世界では、「10・23通達」や人事考課制度の導入から、一つの価値観による管理統制と序列化が進行しています。それは必然的に子どもの世界にも、一つの価値観だけで序列化する画一的教育をもたらしています。教育現場に、多様な価値観を認めない個性に応じた弾力的な教育が許されない息苦しい雰囲気が広まりつつあります。
現憲法下で不可侵なものは「日の丸・君が代」ではなく「基本的人権」であることを銘記しなければなりません。
3,物的証拠の信頼性と事実誤認
本件の物的証拠であるICレコーダについて、『東京新聞』(2010年11月5日朝刊)は、「同一音源の報告書、起訴前後で相違」として、「証拠改ざんの疑い」との見出しで報じました。大阪地検特捜部が自らに都合良く物的証拠に改ざんを行ったことが明るみに出て、検察無謬神話は崩壊しています。今裁判所に求められているのは、検察の証拠を鵜呑みにしないでキチンと検証する姿勢です。
本件ICレコーダの記録については、法廷で検察官が、「操作ミスで消えてしまったとか、そういうことは考えられませんかね」と警察官証人に誘導していたほど曖昧な記録でした(平成17年6月21日東京地裁第4回公判速記録)。『起訴状』に「何で追い出すんだ、おい」という、証拠音源にはない文言が記載されている事実をどう解釈したらよいのでしょうか。
このように不確かな物的証拠を基に、原審では判決文の前半分を費やして一見精緻な立証を試みましたが、時間を逆戻りさせなければ成立しないような自己矛盾に陥っています。藤田さんが「制止を振り切った」とする妨害行為の根拠である、教頭による唯一の制止行為の不存在が逆に証明されたようなものです。そもそも、検察側証人は、学校管理者と都教委関係者のみで、保護者・卒業生は全くいなかったことも想起されるべきでしょう。
ICレコーダの証拠能力を根本から問い直すことなしに、正確な事実認定を行うことは不可能ではないでしょうか。
4,最後に
表現の自由は、民主主義社会成立の前提条件である多元的共存、寛容性、偏見のない心のあり方に貢献している重要な権利と言われます。
昨今のわが国における「市民の表現の自由の危機的な状況」については、2009年の日弁連人権擁護大会の第1分科会のテーマにもなりました。そんな中、昨年末人権NGOによる国連特別報告者への訴えがありました(添付資料3参照)。社会的関心は、国際レベルまで広がりつつあります。
秩序を守ることは警察にも出来ても、人権を守ることは裁判所にしかできません。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、わが国の憲法において「侵すことのできない永久の権利」とうたわれている基本的人権の理念に基づいて、口頭弁論を開き、公正な審判をされることを強く要望いたします。
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 1月28日(金)第8回最高裁要請行動を行いました ■□■
「ベニヒワ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
最高裁判所 第一小法廷
櫻 井 龍 子 裁判長 殿
宮 川 光 治 裁判官 殿
金 築 誠 志 裁判官 殿
横 田 尤 孝 裁判官 殿
白 木 勇 裁判官 殿
2011年1月28日
藤田先生を応援する会一同
藤田先生を応援する会一同
◎ 都立板橋高校卒業式事件について口頭弁論を開き
人権の世界標準に基づいた公正な判断をされるよう要請します
人権の世界標準に基づいた公正な判断をされるよう要請します
板橋高校卒業式事件は、公権力による国旗国歌を強制する教育政策に反対する一市民の、憲法に保障された「言論・表現の自由」権利行使の問題であると同時に、教育を受ける権利の主体である生徒たちの思想・良心の自由や意見表明権という、重大な人権保障に関わる問題です。
加えて、学校行事における言論行為が、求刑懲役8月という刑事罰の対象になったことも「君が代」を強制する卒業式でなければ考えられないような異例なことであり、このような刑事事件における事実認定は、法と証拠に基づいた厳密かつ公正なものでなければならないことは言うまでもありません。そして、人権保障ないし制限の判断基準は、国際標準に合致するものであることも重要です。
以下において、本事件に対するこれまでの裁判所の判断の問題点等について、具体的に指摘させていただきます。
1,国際人権関係諸条約の裁判規範性
(1)威力業務妨害罪の適用は自由権規約違反
わが国が『自由権規約』を批准して32年になります。これまで自由権規約委員会からたびたび「規約の規定を直接適用した国内裁判所の裁判例に関する情報が…乏しい」と懸念を表明されてきました(2008/10/30)。その勧告に前向きに応えるためにも、最高裁が率先して規約を判決文に適用することが望まれます。
威力業務妨害罪の適用に当たっては、『刑法』の上位規範にあたる『自由権規約』に準拠しなければなりません。自由権規約19条3項(添付資料1参照)に示される、締約国が表現の自由を制限できる条件は、明文化された立法による2つの限定的な領域(他人の権利の尊重、緊急の国家的必要性)にかぎられています。その規定に照らすなら、「藤田さんの訴追及び有罪判決は表現の自由の権利に対する不当な介入と見なされる」というのが、フォルホーフ教授の鑑定意見書の結論でした。即ち、国際条約の裁判規範性から、本件での威力業務妨害罪の適用は自由権規約違反で無効とみなされるのです。
(2)国際人権先例の一例
フォルホーフ意見書に引用された判例の一つ「Coleman対Australia」(UNHCR)の中に、コールマン氏が通行モールで無許可で演説したのに対して、現場の警察官がビデオを撮りながら演説を続けることを許していたことを、「脅威・破壊・危険を示唆しない」と認定する下りがあります。
同様に、本件では、藤田さんの呼びかけを指導主事がICレコーダに録音しながら制止しなかったことは、急迫性が無かったことの証明ではないでしょうか。後に「威力業務妨害罪」で起訴したのは萎縮効果を狙った「見せしめ」に当たります。
藤田さんの呼びかけは、コールマン氏と同様、公共の利益に関わる社会的関心事について、人に脅威を与えたり不当に破壊的になったりすることなく、公衆に向かって呼びかけた、正当な権利の行使と見なされるべきです。
(3)最新の自由権規約委員会「一般的意見34草案」 (添付資料2参照)
ごく最近、規約19条(言論・表現の自由)に関して、権利の及ぶ範囲をより明確にして最新の言論状況にも対応した「一般的意見34(草案)」が、国連自由権規約委員会により公開されました(2010/10/22)。
そのパラグラフ9には「意見を有する権利」は「意見を交換する権利まで及ぶ」とあり、その上で権利の制限に関しては、パラグラフ23で「表現の自由への制限は正当性に関しての厳格な検査基準を満たさなければならない」、パラグラフ26で「自由裁量を与えることはない」、パラグラフ28で「制限についての法的基盤を明らかにするのは締約国である」と解説しています。
この最新の解釈に照らしても、藤田さんに対する有罪判決は、表現の自由に対する許されない制限であることは明らかです。
2,表現の内容規制は許されるのか
(1)本件は「表現内容規制」である
本件は、「表現内容」の規制に及んでいます。地裁判決文には、「その内容は国歌斉唱に当たって全員に起立を求める方針でいた北爪らの立場からは、とうてい許容できない内容であるといえる。」(p20)、「卒業式を執り行おうとする北爪ら関係者の意思を制圧するに足りる勢力の行使として、威力業務妨害罪の『威力』に該当することは明らかである。」(p20)と、表現内容を「威力」と認定しています。この規制が憲法に適合するかどうか明確な判断が求められます。
校長の卒業式遂行業務に、保護者も含む全員に起立を求めることは含まれず(校長の主観的願望以上の法的根拠は存在しない)、藤田さんの呼びかけ内容は、違法行為の推奨は一切含まない、社会的関心事、すなわち、憲法で保障された思想・良心の自由の権利や、学校行事等における国旗称揚・国歌斉唱の強制に対する開かれた議論でした。これに威力業務妨害罪を適用することは、言論の内容への不当な弾圧に当たるのではないでしょうか。
(2)教育現場への萎縮効果
卒業式それ自体の中における「喧騒状態」は、国歌斉唱時に着席した約9割の卒業生の「意見表明」に対して、それをまるでいけないことのように決めつけて一方的に大声で起立を命じた来賓都議・管理職の行為によりもたらされました。それが多くの参列者の顰蹙をかった喧噪であったことは、何人もの保護者証人が法廷で証言しています。このように画一的な「日の丸・君が代への起立斉唱」を命令により公的な場で強制することは、『子どもの権利条約』12条に規定された「意見表明権」の頭ごなしの否定です。
また刑事罰による萎縮効果は、教育現場で「日の丸・君が代」が神聖視されるにとどまらず、一つの価値観しか許さない硬直した状態を作り上げています。教員の世界では、「10・23通達」や人事考課制度の導入から、一つの価値観による管理統制と序列化が進行しています。それは必然的に子どもの世界にも、一つの価値観だけで序列化する画一的教育をもたらしています。教育現場に、多様な価値観を認めない個性に応じた弾力的な教育が許されない息苦しい雰囲気が広まりつつあります。
現憲法下で不可侵なものは「日の丸・君が代」ではなく「基本的人権」であることを銘記しなければなりません。
3,物的証拠の信頼性と事実誤認
本件の物的証拠であるICレコーダについて、『東京新聞』(2010年11月5日朝刊)は、「同一音源の報告書、起訴前後で相違」として、「証拠改ざんの疑い」との見出しで報じました。大阪地検特捜部が自らに都合良く物的証拠に改ざんを行ったことが明るみに出て、検察無謬神話は崩壊しています。今裁判所に求められているのは、検察の証拠を鵜呑みにしないでキチンと検証する姿勢です。
本件ICレコーダの記録については、法廷で検察官が、「操作ミスで消えてしまったとか、そういうことは考えられませんかね」と警察官証人に誘導していたほど曖昧な記録でした(平成17年6月21日東京地裁第4回公判速記録)。『起訴状』に「何で追い出すんだ、おい」という、証拠音源にはない文言が記載されている事実をどう解釈したらよいのでしょうか。
このように不確かな物的証拠を基に、原審では判決文の前半分を費やして一見精緻な立証を試みましたが、時間を逆戻りさせなければ成立しないような自己矛盾に陥っています。藤田さんが「制止を振り切った」とする妨害行為の根拠である、教頭による唯一の制止行為の不存在が逆に証明されたようなものです。そもそも、検察側証人は、学校管理者と都教委関係者のみで、保護者・卒業生は全くいなかったことも想起されるべきでしょう。
ICレコーダの証拠能力を根本から問い直すことなしに、正確な事実認定を行うことは不可能ではないでしょうか。
4,最後に
表現の自由は、民主主義社会成立の前提条件である多元的共存、寛容性、偏見のない心のあり方に貢献している重要な権利と言われます。
昨今のわが国における「市民の表現の自由の危機的な状況」については、2009年の日弁連人権擁護大会の第1分科会のテーマにもなりました。そんな中、昨年末人権NGOによる国連特別報告者への訴えがありました(添付資料3参照)。社会的関心は、国際レベルまで広がりつつあります。
秩序を守ることは警察にも出来ても、人権を守ることは裁判所にしかできません。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、わが国の憲法において「侵すことのできない永久の権利」とうたわれている基本的人権の理念に基づいて、口頭弁論を開き、公正な審判をされることを強く要望いたします。
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