▼ 大飯原発ゲート占拠・封鎖を経験して
――未完のままの出来事――
■ 切迫した現場からの呼びかけ
(略)
■ 占拠・封鎖の空間
7月1日。朝5時半、自宅を出発した。友人たちも同乗し、3名での移動。友人は、午後に予定があるにもかかわらず、数時間だけでも、ということらしい。
京都で有料道路に入り、大飯近くのICで高速を降りる。目の前に若狭湾が広がっている。天気は大雨。車の後ろを見ると、機動隊を運ぶ装甲車やパトカーが5台くらい連なって原発に向かっていた。のどかな海と山とのギャップ。現場の切迫した状況が感じられた。
大飯原発前に近づくにつれて、車道の両側にたくさんの車が止まるようになった。50台くらいはあっただろうか。ゲートに到着したのは8時半。ゲートに作られたバリケードの姿は圧巻だった。ゲートの手前と後ろに自動車がそれぞれ数台、ぴったりとくっつけられて並べられ、人が通るスペースはほとんど残されていない。人が通れそうな僅かな脇道には、鎖やロープが縦横無尽にはりめぐらされ、丁寧にかきわけなければ、通ることができない。まるで、芸術作品のような出来栄えだ。再稼働阻止の本気の思いが伝わってくる空間だと感じた。初めてこのバリケードを通過したとき、背筋が伸びるような気持ちになった。
バリケードの手前10メートルくらいからは座り込むたくさんの人々。バリケードの向こう側、つまり、原発側には、それ以上の多くの人々が集まっていた。
バリケードから原発側100メートルくらい奥のところに、機動隊と警備員の阻止線がある。集まった人々はゲートと道路を封鎖し、バリケードの前後の100メートル強の幅を完全に占拠・封鎖していた。数週間前に私が見たゲートの姿とはあまりにもかけはなれている。
集っている人は最も多かったであろう夕方頃で400人くらいいただろうか。京都や大阪、東京の反原発デモやイベントで顔を見たことのある人たち。沖縄の辺野古や高江への米軍基地・ヘリパッド建設反対のデモやイベントで出会っていた人たち。経済産業省前テントを運営している人たち。けれど、圧倒的に多いのは学生風の20代、30代前半の人たちだ。それも女性が非常に多かったのが印象的だった。
こういう書き方はとても失礼なのかもしれないが、機動隊の激しい暴力と対峙する現場にいそうにない人、たとえば野外フェスやレイブに足を運んでいそうな雰囲気の人たちが多く集まっている。
大飯原発再稼働という政府の決定は、実に多様な人々に、いてもたってもいられない切実な思いを抱かせたのだ。どこから、なぜ、どのように、この行動に参加したのかと、聞いてみたいと思う人ばかりだった。残念ながら、そういう時間はほとんどなかった。
ゲート奥の機動隊の阻止線に対峙しながら、「再稼働反対」のコールが続けられる。その後方にはたくさんのドラムや楽器を奏でる人々。また、次々に差し入れの食べ物と飲み物、カッパやタオルが運ばれてきた。どこからともなく、あたりまえに。
一方、対峙している機動隊や警備員も非常に若い。10代なのではないかという人も多かった。表情からは混乱と緊張が感じられた。
「人を守るために仕事をしているんじゃないの?」、「何を守りたくてそこに立っているんですか!?」、「あなたたちにも家族や子供がいるでしょう」、「原発を止めるために、命令に背いて、その場を離れてほしい」。このように機動隊に語りかける参加者も多かった。
若い機動隊員たちは、今、自らがどのような仕事をやらされているのかを少しずつ実感していったのではないだろうか。
■ 占拠・封鎖・対峙によって生まれる即興の集団性
午前中、関電・大飯原発所長室の職員への抗議申し入れ書の提出。
そして、夕方5時頃、バリケードの前後から、50人ほどで隊列を組んだ機動隊が阻止線に続々と加わり始め、私たちはこれまでにない数の機動隊、警察、警備員と向き合うことになった。機動隊は戦闘服姿(野球のキャッチャーのような姿)で物々しい。
少し高い位置で見張りをしている男性が、皆に「来てるぞー。スクラムを組もう!」と身振り手振りで伝えてくれる。お互い、肘を差し出して、スクラムを組み始める。占拠する私たちの列は3列くらいになった。
こちら側から、機動隊の阻止線を崩したり、突破するような行動は取られなかった。あくまで、私たちが引いているピケやバリケードのラインと空間を維持することが目指されていたと思う。誰かから指示されるのでもなく、話し合われたのでもなく、自然にそうなっている。
近くの男が「ガンジーだよ、ガンジー!」と呼びかけていた。また、別の参加者は「非暴力だよ!非暴力!手をこっちから出さへんで!」とも呼びかけていた。
まず、関電からの警告があった。小さなマイクでの警告で、何を言っているのかまったく聞えない。聞こえなくても、とりあえず警告した、という事実で良いのだ、という態度。提出した申し入れ書への回答もない。
次に警察からの警告。直ちに離れること、バリケードとなっている車をどかすことなどを「命令」していたようだが、同じくほとんど聞き取れなかった。機動隊の阻止線の向こうで、指揮官や警察官らが、いそがしそうにマイクや携帯でやりとりを始め、身振り手振りで話し合っているのが見える。確実に実力で排除する行動が準備されていることを感じる。
そして、こちら側の緊張も高まっていった。今までとは違う空気に変わっていった。
気づくと、スクラムを組んでいる私の隣の女性の腕と手から、彼女の震えが伝わってきた。何かがこみあげてきたのだろうか、泣きじゃくっている人もいる。
背後からはドラムの力強い音が聞こえてくる。太鼓とともに狼煙をあげるような、暴力的な排除にまっすぐ向き合うような、そういう音だった。
徐々に男性が最前列の女性と入れ替わっていく。「子どもがいたら、外に出そう!」という声もあちこちで発せられた。気づいた人間が気づいたことを伝え、それに同意できる人間はそれに応え、同意できない人間は自然にスルーしたり、もっとこうしたほうがいいんじゃないか、と伝えあったりする。名乗ることもなく、コミュニケーションはあちこちで取られた。
私はこれから数週間の自分の予定を思い出していた。まぁ、いざとなったら、たぶんなんとかなるくらいの予定だな、と冷静に考えた。
夕方6時頃、機動隊が動き出す。盾が肩の高さにまで上げられる。直後、ウォーっ、という大きな声とともに、盾を使って左右中央一斉に押しこんでくる。波のような塊が向かってくる感じだった。
ガーっと後退してしまう。それでもこちら側は皆で声をあげ、スクラムを組み、踏みとどまろうとする。機動隊は一度止まる。そして、再び気持ちの悪い怒号をあげながら、襲いかかってくる。
それが何度となく繰り返された。目の前の機動隊の壁の向こうで、悠々と指示を出す年配の指揮官の姿が目に入った。
6時からの最初の1時間はしんどかった。時間がたつにつれ、後退し、疲れてくる。いつまで占拠するのか、ということは話し合われていなかったように思う。少なくとも私の周りでは。経産副大臣や保安院職員がやってきて、夜9時に再稼働の作業に立ち会う。再稼働を止めること、そして、少なくともこのゲートからは彼ら(男ばかりだ)を原発に通さないことが暗黙の了解だった。
だから、一つの目標は9時までは占拠・封鎖を続けること。しかし、9時はずいぶんと遠いものだと思った。それまでに簡単に排除されてしまうのではないか、とも感じた。
ゲートをはさんだ反対側では、集った仲間が、警察によってごぼう抜きに去れているという情報も伝わってきた。
関電・機動隊はさっさと排除し、ゲートの解放を目指していたと思う。8時頃までは、機動隊は波状的、実に積極的に攻めてきた。右から来たと思えば、左から。少し膠着状態が続いたと思ったら、急に押しこんでくる。こちらはじりじり後退していく。遠くにあったはずのゲート周辺の車やドラム隊に近づいていく。
■ 「勝利」の経験 ?
(後略・・・続きは下記で)
『2012 大飯原発ゲート 占拠・封鎖』(2012年07月05日)
http://senkyohusa.exblog.jp/
――未完のままの出来事――
■ 切迫した現場からの呼びかけ
(略)
■ 占拠・封鎖の空間
7月1日。朝5時半、自宅を出発した。友人たちも同乗し、3名での移動。友人は、午後に予定があるにもかかわらず、数時間だけでも、ということらしい。
京都で有料道路に入り、大飯近くのICで高速を降りる。目の前に若狭湾が広がっている。天気は大雨。車の後ろを見ると、機動隊を運ぶ装甲車やパトカーが5台くらい連なって原発に向かっていた。のどかな海と山とのギャップ。現場の切迫した状況が感じられた。
大飯原発前に近づくにつれて、車道の両側にたくさんの車が止まるようになった。50台くらいはあっただろうか。ゲートに到着したのは8時半。ゲートに作られたバリケードの姿は圧巻だった。ゲートの手前と後ろに自動車がそれぞれ数台、ぴったりとくっつけられて並べられ、人が通るスペースはほとんど残されていない。人が通れそうな僅かな脇道には、鎖やロープが縦横無尽にはりめぐらされ、丁寧にかきわけなければ、通ることができない。まるで、芸術作品のような出来栄えだ。再稼働阻止の本気の思いが伝わってくる空間だと感じた。初めてこのバリケードを通過したとき、背筋が伸びるような気持ちになった。
バリケードの手前10メートルくらいからは座り込むたくさんの人々。バリケードの向こう側、つまり、原発側には、それ以上の多くの人々が集まっていた。
バリケードから原発側100メートルくらい奥のところに、機動隊と警備員の阻止線がある。集まった人々はゲートと道路を封鎖し、バリケードの前後の100メートル強の幅を完全に占拠・封鎖していた。数週間前に私が見たゲートの姿とはあまりにもかけはなれている。
集っている人は最も多かったであろう夕方頃で400人くらいいただろうか。京都や大阪、東京の反原発デモやイベントで顔を見たことのある人たち。沖縄の辺野古や高江への米軍基地・ヘリパッド建設反対のデモやイベントで出会っていた人たち。経済産業省前テントを運営している人たち。けれど、圧倒的に多いのは学生風の20代、30代前半の人たちだ。それも女性が非常に多かったのが印象的だった。
こういう書き方はとても失礼なのかもしれないが、機動隊の激しい暴力と対峙する現場にいそうにない人、たとえば野外フェスやレイブに足を運んでいそうな雰囲気の人たちが多く集まっている。
大飯原発再稼働という政府の決定は、実に多様な人々に、いてもたってもいられない切実な思いを抱かせたのだ。どこから、なぜ、どのように、この行動に参加したのかと、聞いてみたいと思う人ばかりだった。残念ながら、そういう時間はほとんどなかった。
ゲート奥の機動隊の阻止線に対峙しながら、「再稼働反対」のコールが続けられる。その後方にはたくさんのドラムや楽器を奏でる人々。また、次々に差し入れの食べ物と飲み物、カッパやタオルが運ばれてきた。どこからともなく、あたりまえに。
一方、対峙している機動隊や警備員も非常に若い。10代なのではないかという人も多かった。表情からは混乱と緊張が感じられた。
「人を守るために仕事をしているんじゃないの?」、「何を守りたくてそこに立っているんですか!?」、「あなたたちにも家族や子供がいるでしょう」、「原発を止めるために、命令に背いて、その場を離れてほしい」。このように機動隊に語りかける参加者も多かった。
若い機動隊員たちは、今、自らがどのような仕事をやらされているのかを少しずつ実感していったのではないだろうか。
■ 占拠・封鎖・対峙によって生まれる即興の集団性
午前中、関電・大飯原発所長室の職員への抗議申し入れ書の提出。
そして、夕方5時頃、バリケードの前後から、50人ほどで隊列を組んだ機動隊が阻止線に続々と加わり始め、私たちはこれまでにない数の機動隊、警察、警備員と向き合うことになった。機動隊は戦闘服姿(野球のキャッチャーのような姿)で物々しい。
少し高い位置で見張りをしている男性が、皆に「来てるぞー。スクラムを組もう!」と身振り手振りで伝えてくれる。お互い、肘を差し出して、スクラムを組み始める。占拠する私たちの列は3列くらいになった。
こちら側から、機動隊の阻止線を崩したり、突破するような行動は取られなかった。あくまで、私たちが引いているピケやバリケードのラインと空間を維持することが目指されていたと思う。誰かから指示されるのでもなく、話し合われたのでもなく、自然にそうなっている。
近くの男が「ガンジーだよ、ガンジー!」と呼びかけていた。また、別の参加者は「非暴力だよ!非暴力!手をこっちから出さへんで!」とも呼びかけていた。
まず、関電からの警告があった。小さなマイクでの警告で、何を言っているのかまったく聞えない。聞こえなくても、とりあえず警告した、という事実で良いのだ、という態度。提出した申し入れ書への回答もない。
次に警察からの警告。直ちに離れること、バリケードとなっている車をどかすことなどを「命令」していたようだが、同じくほとんど聞き取れなかった。機動隊の阻止線の向こうで、指揮官や警察官らが、いそがしそうにマイクや携帯でやりとりを始め、身振り手振りで話し合っているのが見える。確実に実力で排除する行動が準備されていることを感じる。
そして、こちら側の緊張も高まっていった。今までとは違う空気に変わっていった。
気づくと、スクラムを組んでいる私の隣の女性の腕と手から、彼女の震えが伝わってきた。何かがこみあげてきたのだろうか、泣きじゃくっている人もいる。
背後からはドラムの力強い音が聞こえてくる。太鼓とともに狼煙をあげるような、暴力的な排除にまっすぐ向き合うような、そういう音だった。
徐々に男性が最前列の女性と入れ替わっていく。「子どもがいたら、外に出そう!」という声もあちこちで発せられた。気づいた人間が気づいたことを伝え、それに同意できる人間はそれに応え、同意できない人間は自然にスルーしたり、もっとこうしたほうがいいんじゃないか、と伝えあったりする。名乗ることもなく、コミュニケーションはあちこちで取られた。
私はこれから数週間の自分の予定を思い出していた。まぁ、いざとなったら、たぶんなんとかなるくらいの予定だな、と冷静に考えた。
夕方6時頃、機動隊が動き出す。盾が肩の高さにまで上げられる。直後、ウォーっ、という大きな声とともに、盾を使って左右中央一斉に押しこんでくる。波のような塊が向かってくる感じだった。
ガーっと後退してしまう。それでもこちら側は皆で声をあげ、スクラムを組み、踏みとどまろうとする。機動隊は一度止まる。そして、再び気持ちの悪い怒号をあげながら、襲いかかってくる。
それが何度となく繰り返された。目の前の機動隊の壁の向こうで、悠々と指示を出す年配の指揮官の姿が目に入った。
6時からの最初の1時間はしんどかった。時間がたつにつれ、後退し、疲れてくる。いつまで占拠するのか、ということは話し合われていなかったように思う。少なくとも私の周りでは。経産副大臣や保安院職員がやってきて、夜9時に再稼働の作業に立ち会う。再稼働を止めること、そして、少なくともこのゲートからは彼ら(男ばかりだ)を原発に通さないことが暗黙の了解だった。
だから、一つの目標は9時までは占拠・封鎖を続けること。しかし、9時はずいぶんと遠いものだと思った。それまでに簡単に排除されてしまうのではないか、とも感じた。
ゲートをはさんだ反対側では、集った仲間が、警察によってごぼう抜きに去れているという情報も伝わってきた。
関電・機動隊はさっさと排除し、ゲートの解放を目指していたと思う。8時頃までは、機動隊は波状的、実に積極的に攻めてきた。右から来たと思えば、左から。少し膠着状態が続いたと思ったら、急に押しこんでくる。こちらはじりじり後退していく。遠くにあったはずのゲート周辺の車やドラム隊に近づいていく。
■ 「勝利」の経験 ?
(後略・・・続きは下記で)
『2012 大飯原発ゲート 占拠・封鎖』(2012年07月05日)
http://senkyohusa.exblog.jp/
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