揺さぶられる「政教分離」
首相の靖国参拝合憲化布石にも
平服で昇殿も記帳もなし一。小泉純一郎首相の十七日の靖国神社参拝は、高裁での「違憲」判断や中国、韓国などの反発を意識したかのような簡略スタイル。しかし、識者はナショナリズム台頭や揺らぐ「政教分離原則」への懸念から警鐘を鳴らし、在日中国、韓国人らは失望の声を上げた。(1面参照「日中外相会談 困難に」)
戦後六十年の「八月十五日」の靖国参拝を見送った小泉首相が、秋の例大祭に参拝に赴くのは予想されたことだった。
今年二月以降に韓国との間で起きた竹島(独島)領有問題や、日本の国連安保理常任理事国入り問題に端を発した中国での「反日」デモなどを考慮し、首相は公約である「年一回の参拝」を控えざるを得なかった。
だが、九月の総選挙で自民が圧勝した後は、郵政だけでなく、「小泉改革」のすべてが国民の信任を得たかのような空気が生まれた。秋以降の外交日程などを勘案し、公約を果たすのは今しかないと踏んだのだろう。
総選挙後、靖国参拝をめぐる高裁での司法判断が、東京、大阪、高松と相次いで示された。大阪高裁では、小泉首相の参拝を初めて、「違憲」と断じた昨年の福岡地裁判決よりも、さらに踏み込んだ違憲判断が出されている。
「私的参拝」か「公的参拝」かの判断は、裁判所によって分かれているが、首相という国家の最高権力者が、違憲の疑いをもたれる行為をすること自体が問題なのだ。
「首相の職務とは関係のない私的参拝」だと言い、(司法の)違憲判断を「さっぱり分からない」と強弁しても、首相はその矛盾を知っているはずだ。だからこそ今年は、平服で、記帳や献花料の奉納もせず、極力公的色彩を薄めようとしたのだろう。
だが過去四回の参拝と形式を違えても、例大祭という靖国神社の最も重要な宗教行事の日に、首相として参拝することが「私的」と言えるだろう一か。戦没者の功績をたたえ、「英霊」に感謝をささげるため神社に赴き、参拝する姿を国民に伝えるために、テレビ報道にも気遣うやり方が。
もう一つの問題は、首相がこの間、中韓両国からの批判を内政干渉と決めつけ「それには屈しない」というメッセージを発し続けたことだ。
そのために「ナショナリズムにはナショナリズムを」という対立の構図ができあがり、日本の国民の目には「外圧で戦没者の追悼ができない」と映るようになってしまった。
ナショナリズムをあおることで首相は、自らの人気を高めてきたのだ。深刻なのは、こうした悪循環によって、まっとうな「靖国参拝批判」をすることまで難しくなっていることだ。首相の参拝は、自国の歴史を直視せず、戦後、あいまいなまま存続させてきた「帝国の遺産」の上に、再び居直る風潮をつくり出している。
戦後、民主主義国家として再出発した日本の根本となった「政教分離」原則が、ここに来て激しく揺さぶられている。自民党の新憲法起草委員会が八月に公表した条文案に、私は注目している。
九条とともに、政教分離について定めた二〇条三項と八九条が改正の対象となっている。
国や自治体の宗教的活動などを禁じる際、「社会的儀礼の範囲にある場合を除き」という留保を付ける内容で、首相の靖国参拝も「社会的儀礼」として、合憲化される可能性がある。
護国神社から靖国神社へとつらなる英霊顕彰のシステムが、公的に復活する恐れがある。
首相の靖国参拝は、その布石としての意味を持ちはじめている。
(取材・構成、佐藤直子)
東大大学院総合文化研究科 高橋哲哉教授 たかはし・てつや
20世紀の西欧哲学を研究、ナチスによるホロコーストなど、政治・社会・歴史の問題を幅広く論じている。「靖国問題」「デリダ」「戦後責任論」など著書多数。49歳。
(今回「増田支援集会」と「即時現場復帰を求める署名」の「呼びかけ人」にもなって下さっている。)
[『東京新聞』2005/10/18朝刊]
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平服で昇殿も記帳もなし一。小泉純一郎首相の十七日の靖国神社参拝は、高裁での「違憲」判断や中国、韓国などの反発を意識したかのような簡略スタイル。しかし、識者はナショナリズム台頭や揺らぐ「政教分離原則」への懸念から警鐘を鳴らし、在日中国、韓国人らは失望の声を上げた。(1面参照「日中外相会談 困難に」)
戦後六十年の「八月十五日」の靖国参拝を見送った小泉首相が、秋の例大祭に参拝に赴くのは予想されたことだった。
今年二月以降に韓国との間で起きた竹島(独島)領有問題や、日本の国連安保理常任理事国入り問題に端を発した中国での「反日」デモなどを考慮し、首相は公約である「年一回の参拝」を控えざるを得なかった。
だが、九月の総選挙で自民が圧勝した後は、郵政だけでなく、「小泉改革」のすべてが国民の信任を得たかのような空気が生まれた。秋以降の外交日程などを勘案し、公約を果たすのは今しかないと踏んだのだろう。
総選挙後、靖国参拝をめぐる高裁での司法判断が、東京、大阪、高松と相次いで示された。大阪高裁では、小泉首相の参拝を初めて、「違憲」と断じた昨年の福岡地裁判決よりも、さらに踏み込んだ違憲判断が出されている。
「私的参拝」か「公的参拝」かの判断は、裁判所によって分かれているが、首相という国家の最高権力者が、違憲の疑いをもたれる行為をすること自体が問題なのだ。
「首相の職務とは関係のない私的参拝」だと言い、(司法の)違憲判断を「さっぱり分からない」と強弁しても、首相はその矛盾を知っているはずだ。だからこそ今年は、平服で、記帳や献花料の奉納もせず、極力公的色彩を薄めようとしたのだろう。
だが過去四回の参拝と形式を違えても、例大祭という靖国神社の最も重要な宗教行事の日に、首相として参拝することが「私的」と言えるだろう一か。戦没者の功績をたたえ、「英霊」に感謝をささげるため神社に赴き、参拝する姿を国民に伝えるために、テレビ報道にも気遣うやり方が。
もう一つの問題は、首相がこの間、中韓両国からの批判を内政干渉と決めつけ「それには屈しない」というメッセージを発し続けたことだ。
そのために「ナショナリズムにはナショナリズムを」という対立の構図ができあがり、日本の国民の目には「外圧で戦没者の追悼ができない」と映るようになってしまった。
ナショナリズムをあおることで首相は、自らの人気を高めてきたのだ。深刻なのは、こうした悪循環によって、まっとうな「靖国参拝批判」をすることまで難しくなっていることだ。首相の参拝は、自国の歴史を直視せず、戦後、あいまいなまま存続させてきた「帝国の遺産」の上に、再び居直る風潮をつくり出している。
戦後、民主主義国家として再出発した日本の根本となった「政教分離」原則が、ここに来て激しく揺さぶられている。自民党の新憲法起草委員会が八月に公表した条文案に、私は注目している。
九条とともに、政教分離について定めた二〇条三項と八九条が改正の対象となっている。
国や自治体の宗教的活動などを禁じる際、「社会的儀礼の範囲にある場合を除き」という留保を付ける内容で、首相の靖国参拝も「社会的儀礼」として、合憲化される可能性がある。
護国神社から靖国神社へとつらなる英霊顕彰のシステムが、公的に復活する恐れがある。
首相の靖国参拝は、その布石としての意味を持ちはじめている。
(取材・構成、佐藤直子)
東大大学院総合文化研究科 高橋哲哉教授 たかはし・てつや
20世紀の西欧哲学を研究、ナチスによるホロコーストなど、政治・社会・歴史の問題を幅広く論じている。「靖国問題」「デリダ」「戦後責任論」など著書多数。49歳。
(今回「増田支援集会」と「即時現場復帰を求める署名」の「呼びかけ人」にもなって下さっている。)
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