パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

いま変わらないとほんとに終わってしまう<1>

2011年09月15日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ◆ オキナワ、フクシマ、そしてヒノキミ<1>
 ―― いま変わらないとほんとに終わってしまう ――
岡山輝明

 ◆ 山本太郎氏の発言

 8月17日、福島の「子どもの声を政府に届けよう!」と題して、衆議院第一議員会館の多目的ホールで院内集会が開かれました。福島県内や県外の避難先から集まった数名の小中学生が、内閣府と文部科学省の若い官僚達に、生きることへの不安や友達と離れ離れになる寂しさと共に、学校ごとの「集団疎開」やその間に除染を行うなどの対策を訴えたのです。仲間たちから託された手紙やカードも渡していました。「いま変わらないとほんとに終わってしまう」とは、集会の最後に発言を求められた俳優山本太郎氏の発言です。
 彼は、4月19日に文科省が子どもの年間被曝許容量を20㍉シーベルトと定めたことに抗議して、デモや集会に参加するなど、実名を挙げて脱原発を訴えてきました。そのため所属事務所を離れざるを得なくなり、今テレビ番組などから締め出されています。
 この日も、営業運転再開への反対を訴えて北海道泊原発周辺の町役場を訪ねた後、集会に駆けつけたのです。前に居並ぶ9名の官僚達が、上司に言われて来ただけで何の決定権も持たない立場にあることを見抜いた上で、未来の納税者でもある子ども達のために、政府官僚の職に就いた当時の志を思い起こして、「一緒に闘ってほしい」と呼びかけていました。
 少なくとも三百人は楽に着席できるように長机と椅子が配置された会場は、壁際にズラリと立ち並ぶ人も出るほど満杯でした。テレビカメラを担いだ人など、外国人も含めて何十人もの報道関係者も集まっていました。5月23日に20㍉シーベルト撤回を求めて、福島の人達や支援者が文科省前に詰めかけた際には彼らの姿は少なかったのです。今回、多数の報道関係者が集まったのは、山本太郎氏の参加がインターネットなどを通して予告されていたからでしょう。集会の後、カメラや記者が彼の周りを何重にも囲んでいました。彼は原発問題を特集した『週刊現代』8月6日号でこうも語っています。
 芸能人も、放射能は怖いし、小さな子供がいる人だっている。原発問題に対して「このままでいい」と思っている人は少ないはずです。でも、その気持ちと正面から向き合わず、誤魔化してしまう。皆、守りたいもの、守りたい人を持っているわけで、原発について自分の考えを言えずに沈黙してしまっても、それを僕が責める権利はありません。
 私は、俳優としての仕事を干されてもなお自分の存在を明らかにして行動することで、子どもの被曝をより大きな話題に押し上げようとする彼の姿勢に、「子ども達を見殺しにしてはならない」という固い決意を感じます。同時に自分達を翻って、教育改革と共に進行する「日の丸・君が代」の徹底した強制に対して、教職員はどうなんだろうと思うのです。自分の気持ちと正面から向き合い、誤魔化さずに生きているでしょうか
 もちろん世の中を見渡してもそんなに強い人、あるいは幸せな人はめったにいるとは思えません。学校に限っても、管理強化を同僚達と嘆き合いつつ、日々やり過ごしているというのが偽りのないところです。教育改革の名の下に次々と余裕が奪われ、目先のことのみに追われている職場の現実の中で、沈黙するよりも前に「なぜ」「どうして」と疑問を浮かべることさえ難しい状況です。言ってもどうにもならないことはもはや考えないようにしているのです。考えれば苦しいだけなのです。山本氏の述べているとおり、それぞれに「守りたいもの、守りたい人」がいる中で誰も責めることはできません。しかしもう一方では、自分の子どもや孫、目の前にいる生徒達にどういう社会を受け渡そうとしているのだろうかと思う私がいます。
 ◆ 学校教育と「日の丸・君が代」
 私は、90年代末から都立高校改革の中で次々と課せられた自己申告書年間授業計画週案などを、今は提出するようになりました。これらがジワジワと自分達の首を絞め、教員の仕事の在り方を根底から覆すものだと受け止めつつも、異動した職場での管理職や同僚との摩擦を避けているのです。そればかりではなく、都教委が職場に降ろしてくる施策の数々に正面から向き合い、疑問や憤りを誤魔化さずに行動しようとすれば、息が詰まってとても定年まで生き延びられたものではありません
 とはいえ、卒業式や入学式の「国歌斉唱」場面で起立斉唱を求める職務命令にはどうにも従えません。命令に従えば、今度は自分が生徒達を従わせる側に回ってしまうからです。
 何事にせよ、おかしいと思っても黙っていれば、消極的ではあっても同意を与えることになります。この場合は「沈黙の同意」にとどまりません。式典の会場で教職員全員が命令に従い起立斉唱する姿を示すことは、積極的に生徒達に同じ動作を強いることになります。司会の「一同起立」「国歌斉唱」の発声と、それに真っ先に従う教職員の姿は、式場一杯に同調圧力を高めずにはおきません。自分の思いや考えに基づいて、「立っても立たなくても、歌っても歌わなくてもよい」という「内心の自由」の説明が禁じられた中で、生徒は言うまでもなく保護者にしても席に着いたまま口を閉じていられるでしょうか。
 先日、日本武道館で全国定時制通信制高校剣道大会が開かれました。開式の際、天井中央から吊り下げられた巨大な「日の丸」に向かって起立し、「国歌斉唱」するように司会の発声がありました。フロアーに整列している選手、数十名の大会役員、2階以上の観客席にパラパラと集まった人たちが一斉にその声に従いました。今やこれが当たり前の光景なのです
 教育行政の側から見れば、1989年の学習指導要領の改訂を本格的な契機として、学校教育に「日の丸・君が代」を持ち込むことに反対する教職員を懲戒処分で抑えつつ、音楽の授業で取り上げさせ、入学式や卒業式などで起立斉唱を実施してきた成果です。改訂への懸念を表明して、当時3000余りあった区市町村の中で、500を越える議会で採択された意見書などは無視されました
 生徒や保護者にとって人生の節目となる式典の場面で、出席者全員が「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱する。その動作の繰り返しが心身に何を醸し出すのか。土屋英雄氏が述べられているとおり、国家の主権者としての国民意識ではなく、権力に逆らわない「臣民日本人としての意識」に他なりません(同氏著『「日の丸・君が代」裁判と思想・良心の自由』現代人文社 2007年)
 (続)

『都高退教ニュース』(2011/9/5 NO.79)

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