《安倍政権が推進 アブない道徳教育 (日刊ゲンダイ)》
◆ 押し付けのイメージが強い「道徳」を捨て「公共」に統一を
この連載では、道徳教科書の問題点やベッタリと依存する形で進められる道徳教育の危険性に対する指摘を重ねてきた。だが、実は私は「道徳」を全否定はしていない。
文科省が定義する「道徳」は、教育基本法の規定に沿って「平和で民主的な国家及び社会の形成者」になるために「自立した一人の人間として人生を他者とともにより良く生きる人格を形成することを目指すもの」とされている。
だとすれば、その重要性は明白だ。子どもたちが、さまざまな問題を考えたり議論したりする中で、それを自ら学び取っていく必要は十分あると思う。
ましてや、政府が実質的な移民政策に転じ、多数の外国人と共生する時代ともなれば、各自が新しい形の社会的規範を真剣に考えていかなければならない。ネットだけでなくAIやロボットをどう使うか、といった個人の倫理規範も切実なものになる。
ただ、「道徳」という言葉には押しつけのイメージが強く張りついてしまった。この際、名称も変えてはどうか。2022年から、高校では社会科の必修科目が「歴史総合」と「公共」のふたつになる。
「公共」は現代社会の諸課題の解決に向け、自己と社会との関わりを踏まえ、社会に参画する主体として自立することや、他者と協働してよりよい社会を形成することを学ぶというものである。これは決して教え込むものではなく、万人に共通の「公共の規範」なるものも存在しない。
あるのは、「個人の尊厳」に裏付けられた自分なりの規範をもっている個であり、その個が互いを尊重しながら集まったときに真の「公共」が形成されるわけだ。
ならば、小中学校の「道徳」も「公共」でいいではないか。
内容も、教科書に頼るのではなくさまざまな実体験を中心にしていくべきである。自然体験や勤労体験などによって諸問題を考え議論する時間として、小学校低学年には「生活科」、小3から高校生までは「総合的な学習の時間」がすでにある。
「道徳」とこれらを合体させ、合計した週3時間程度を「公共を学ぶ総合的な学習の時間(公共総合学習)」にすればいい。
そうすれば、人格形成を目指すための時間は大幅に増えるわけだから、わざわざ正式な教科にしなくても「教科外の教育活動」との位置づけで済む。
教科書を使わず、無理に個々の子どもを評価することもせずに、体験活動、探究活動を重ねるうちに「公共」における自らの規範を確立していく結果となるだろう。
一日も早く、現在の不毛で危険な道徳教育を改めるべきだと強く提言しておきたい。
(おわり)
※寺脇 研 京都造形芸術大学客員教授
1952年、福岡市生まれ。ラ・サール中高、東大法学部を経て、75年に文部省(当時)入省。初等中等教育局職業教育課長、大臣官房審議官、文化庁文化部長などを歴任し、2006年に退官。ゆとり教育の旗振り役を務め、“ミスター文部省”と呼ばれた。「危ない危ない『道徳教科書』」など著書多数。
『日刊ゲンダイ』(2018/12/01)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/242877
◆ 押し付けのイメージが強い「道徳」を捨て「公共」に統一を
寺脇 研(京都造形芸術大学客員教授)
この連載では、道徳教科書の問題点やベッタリと依存する形で進められる道徳教育の危険性に対する指摘を重ねてきた。だが、実は私は「道徳」を全否定はしていない。
文科省が定義する「道徳」は、教育基本法の規定に沿って「平和で民主的な国家及び社会の形成者」になるために「自立した一人の人間として人生を他者とともにより良く生きる人格を形成することを目指すもの」とされている。
だとすれば、その重要性は明白だ。子どもたちが、さまざまな問題を考えたり議論したりする中で、それを自ら学び取っていく必要は十分あると思う。
ましてや、政府が実質的な移民政策に転じ、多数の外国人と共生する時代ともなれば、各自が新しい形の社会的規範を真剣に考えていかなければならない。ネットだけでなくAIやロボットをどう使うか、といった個人の倫理規範も切実なものになる。
ただ、「道徳」という言葉には押しつけのイメージが強く張りついてしまった。この際、名称も変えてはどうか。2022年から、高校では社会科の必修科目が「歴史総合」と「公共」のふたつになる。
「公共」は現代社会の諸課題の解決に向け、自己と社会との関わりを踏まえ、社会に参画する主体として自立することや、他者と協働してよりよい社会を形成することを学ぶというものである。これは決して教え込むものではなく、万人に共通の「公共の規範」なるものも存在しない。
あるのは、「個人の尊厳」に裏付けられた自分なりの規範をもっている個であり、その個が互いを尊重しながら集まったときに真の「公共」が形成されるわけだ。
ならば、小中学校の「道徳」も「公共」でいいではないか。
内容も、教科書に頼るのではなくさまざまな実体験を中心にしていくべきである。自然体験や勤労体験などによって諸問題を考え議論する時間として、小学校低学年には「生活科」、小3から高校生までは「総合的な学習の時間」がすでにある。
「道徳」とこれらを合体させ、合計した週3時間程度を「公共を学ぶ総合的な学習の時間(公共総合学習)」にすればいい。
そうすれば、人格形成を目指すための時間は大幅に増えるわけだから、わざわざ正式な教科にしなくても「教科外の教育活動」との位置づけで済む。
教科書を使わず、無理に個々の子どもを評価することもせずに、体験活動、探究活動を重ねるうちに「公共」における自らの規範を確立していく結果となるだろう。
一日も早く、現在の不毛で危険な道徳教育を改めるべきだと強く提言しておきたい。
(おわり)
※寺脇 研 京都造形芸術大学客員教授
1952年、福岡市生まれ。ラ・サール中高、東大法学部を経て、75年に文部省(当時)入省。初等中等教育局職業教育課長、大臣官房審議官、文化庁文化部長などを歴任し、2006年に退官。ゆとり教育の旗振り役を務め、“ミスター文部省”と呼ばれた。「危ない危ない『道徳教科書』」など著書多数。
『日刊ゲンダイ』(2018/12/01)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/242877
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