=登校拒否を考える会35周年イベント=
◆ 「人間が尊重されるのを実感」不登校経験者の発言 (週刊新社会)
◆ 園で泣き叫んだ
私は小学校2年生から学校に行かなくなりました。幼稚園の頃から行きたくなくて、門で母と引きはがされ、先生に担がれて「お母さんー」と泣き叫んでもどんどん母の後ろ姿が消えていく、という情景が記憶に残っています。
小学校1年生の時、父の仕事の都合で1年間フィリピンに住み、日本に戻って学校に通うのですが、ある時風邪で休んでからぱったり行けなくなりました。
両親も最初は理解できず慌てました。お腹が痛いというので小児科に行ったのですが、そこで心の病気かもと言われて小児精神科に行きました。並行して教育相談室にも通っていました。そこでは私は母と別の部屋に分かれ、箱庭みたいなものを作らされたりして不安な気持ちでした。早く学校ヘ戻らなくては、と苦しい時期が続きました。
ある時、母が『月刊太陽』という雑誌に東京シューレが載っているのを見つけて、シューレの親の会に通うようになりました。
そうしたら、母はすごく変わっていって、当時出社拒否をしていた父もいっぺんに元気になったんですね。
生き方というのは、どうやら一つじゃないらしい。学校に行かない生き方もあるし、生き生きできず青い顔をしてまで学校へ行かなくてもいい、学校へ無理に行かぜなくて良いと、親も楽になったようです。
私にとっても大きな価値観の変革でした。
でも、学校に行かなくてもいいし、家にいてもいいんだけど、じゃあ私はどうやって生きていけばいいのかは、わかりませんでした。それでかなり不安な10代を過ごし、ノイローゼのようになり、自分の容姿も受け入れられず、外に出るのが恐いという時期を過ごしました。
けれど、振り返って思うのは、そんな時でも「自分の心が動くことを大事にしていい」「自分の心が疲弊するようなところに無理をして行かなくてもいい」という事は大事だと思えていました。
◆ 人生支えてくれた
そして19歳の時、シューレ大学という所に出会います。そこでの体験入学で、「学び」というものをこんなに私は求めていたんだと、すごい衝撃でした。
自分は学校が嫌いだから、勉強嫌いな人間だと思い込んでいました。ところが、物事がどうなっているのかを知ったり、英語をやってみたりするとすごく面白かったんですね。
シューレ大学の講座で私は自分の意見を聞いてもらいました。ここでは私という人間が大事にされ、尊重されているという実感がありました。
人に安心できると自分はこんなにいろんなことに関心が持てて、何かを知ることが楽しいと思えるのかと本当に驚きでした。
今まで何もやれなかったのは不安な中で生きていたからだと、改めて感じました。
入学後、私はなぜ生きるのが辛くて死にたいのか、という研究をします。
そこで気づいたのは、私は「死にたい」人間なんじゃなくて、実は生きたいけれど、社会のこうあるベきという価値観やそれを内面化した自分の中の縛りによって死にたくなっていたということでした。
それからは、生き難い自分がどうしたら生きたいように生きていけるかという事を探求しました。
時間がかかりましたが、それができたのは、やはり母親が親の会に行って、自分の心が動くことを大事にし、生き生きできる場所に自分の身を置く事が何より大事という価値観を運んで来てくれたことが原点だと思います。
その母や家族の価値観があったからこそ、安心して私はシューレ大で自分が納得するまで学びたいと思えた。
もし母に「早く働きなさい」とか、「世に出なくていいの?」とプレッシャーをかけられていたら、ここまで思う存分学べなかったと思います。
今、私はシューレ大学の仲間と一緒に株式会社を立ち上げて、デザインと映像の仕事をしています。
そこでも、人とどうやって生き合っていくかというネットワークの持ち方をシューレ大学で得られたことが活きています。
実は今、うちの家計が苦しいんですが、家族皆で家計簿や貯金を総ざらいして、話しあいながら楽しく生きているんですね。今は、私が紹介した職場に父が働いていて、私も家にお金を入れて結構支えているんです(笑)。
これはいわゆる不登校のイメージからしたら、ちょっと考えられないかもしれません。私が自分の生き方を創ってこられたのにはいろんな要因がありますが、やはり両親が親の会に出会つて親自身が変化し、その影響を私にも与えてくれ、私の人生を支えて続けてくれたからこそだと思っています。
(山本菜々子)
『週刊新社会』(2019年6月4日)
◆ 「人間が尊重されるのを実感」不登校経験者の発言 (週刊新社会)
◆ 園で泣き叫んだ
私は小学校2年生から学校に行かなくなりました。幼稚園の頃から行きたくなくて、門で母と引きはがされ、先生に担がれて「お母さんー」と泣き叫んでもどんどん母の後ろ姿が消えていく、という情景が記憶に残っています。
小学校1年生の時、父の仕事の都合で1年間フィリピンに住み、日本に戻って学校に通うのですが、ある時風邪で休んでからぱったり行けなくなりました。
両親も最初は理解できず慌てました。お腹が痛いというので小児科に行ったのですが、そこで心の病気かもと言われて小児精神科に行きました。並行して教育相談室にも通っていました。そこでは私は母と別の部屋に分かれ、箱庭みたいなものを作らされたりして不安な気持ちでした。早く学校ヘ戻らなくては、と苦しい時期が続きました。
ある時、母が『月刊太陽』という雑誌に東京シューレが載っているのを見つけて、シューレの親の会に通うようになりました。
そうしたら、母はすごく変わっていって、当時出社拒否をしていた父もいっぺんに元気になったんですね。
生き方というのは、どうやら一つじゃないらしい。学校に行かない生き方もあるし、生き生きできず青い顔をしてまで学校へ行かなくてもいい、学校へ無理に行かぜなくて良いと、親も楽になったようです。
私にとっても大きな価値観の変革でした。
でも、学校に行かなくてもいいし、家にいてもいいんだけど、じゃあ私はどうやって生きていけばいいのかは、わかりませんでした。それでかなり不安な10代を過ごし、ノイローゼのようになり、自分の容姿も受け入れられず、外に出るのが恐いという時期を過ごしました。
けれど、振り返って思うのは、そんな時でも「自分の心が動くことを大事にしていい」「自分の心が疲弊するようなところに無理をして行かなくてもいい」という事は大事だと思えていました。
◆ 人生支えてくれた
そして19歳の時、シューレ大学という所に出会います。そこでの体験入学で、「学び」というものをこんなに私は求めていたんだと、すごい衝撃でした。
自分は学校が嫌いだから、勉強嫌いな人間だと思い込んでいました。ところが、物事がどうなっているのかを知ったり、英語をやってみたりするとすごく面白かったんですね。
シューレ大学の講座で私は自分の意見を聞いてもらいました。ここでは私という人間が大事にされ、尊重されているという実感がありました。
人に安心できると自分はこんなにいろんなことに関心が持てて、何かを知ることが楽しいと思えるのかと本当に驚きでした。
今まで何もやれなかったのは不安な中で生きていたからだと、改めて感じました。
入学後、私はなぜ生きるのが辛くて死にたいのか、という研究をします。
そこで気づいたのは、私は「死にたい」人間なんじゃなくて、実は生きたいけれど、社会のこうあるベきという価値観やそれを内面化した自分の中の縛りによって死にたくなっていたということでした。
それからは、生き難い自分がどうしたら生きたいように生きていけるかという事を探求しました。
時間がかかりましたが、それができたのは、やはり母親が親の会に行って、自分の心が動くことを大事にし、生き生きできる場所に自分の身を置く事が何より大事という価値観を運んで来てくれたことが原点だと思います。
その母や家族の価値観があったからこそ、安心して私はシューレ大で自分が納得するまで学びたいと思えた。
もし母に「早く働きなさい」とか、「世に出なくていいの?」とプレッシャーをかけられていたら、ここまで思う存分学べなかったと思います。
今、私はシューレ大学の仲間と一緒に株式会社を立ち上げて、デザインと映像の仕事をしています。
そこでも、人とどうやって生き合っていくかというネットワークの持ち方をシューレ大学で得られたことが活きています。
実は今、うちの家計が苦しいんですが、家族皆で家計簿や貯金を総ざらいして、話しあいながら楽しく生きているんですね。今は、私が紹介した職場に父が働いていて、私も家にお金を入れて結構支えているんです(笑)。
これはいわゆる不登校のイメージからしたら、ちょっと考えられないかもしれません。私が自分の生き方を創ってこられたのにはいろんな要因がありますが、やはり両親が親の会に出会つて親自身が変化し、その影響を私にも与えてくれ、私の人生を支えて続けてくれたからこそだと思っています。
(山本菜々子)
『週刊新社会』(2019年6月4日)
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