さて、今このやり取りを振り返ってみて、最近「マンスプレーニング(マンスプ)」と言われているものに、趙博氏の言葉・態度が見事な好事例になっていることに気が付いた!
「マンスプレーニング」とは、 辞書によれば「《man(男性)explain(説明)+ing》男性が女性に対して、相手が無知だと決めつけ、見下した態度で説明をすること。また、そのような態度。」だそうだ。正に!
私は、上記のように『大波小波』(待ち遠しい秋)氏や有田芳生氏と同じ主張を、具体的シーンを挙げて書いているだけである。
しかし、趙博氏によれば、有田氏のは「真っ当な批判」で「その批判は有り難く嬉しい限り」だそうだけど、増田のは「映画を観る目が無い証拠」で「己の好き嫌いを作品に押しつける」「幼稚」で「『己の主観主義』で『批判』している」「粗探しをする『批判者』」!? なんだって…。
それで「日本語の意味はおわかりですね?」と、きたよ!? いやはや…。
「『批判者』諸君、映画評とはこのような名文を言うのだよ。粗探しする前によく読んで、勉強したまえ。」と書いているから、私が「批判者って、『粗探しする』者なんですね」と書いたら「『批判者=粗探しする者』と誰が言いましたか?」って!? 「日本語の意味はおわかりですか?」と言いたいのは、こちらだ。
まぁ、彼の主観では「括弧付けしないただの批判者とは、有田氏のような『真っ当な批判』者のことである」のだから「『真っ当な批判者』ではない者には『批判者』とわざわざ括弧付けにして区別してやっている」、したがって「批判者全てが『粗探しする者』」とは自分は書いていないぞ」ということを言いたかったのだろうとは思う。
でも、それこそ主観的に過ぎるし、日本語がこなれてないよね(笑)…。
全く同じ主張をしているのに、相手が男でステイタス(社会的影響力)のある人物なら「真っ当な批判」で「その批判は有り難く嬉しい限り」なのに、相手が女でステイタス(社会的影響力)の無い人物なら、まぁ、驚くぐらい態度を違える。上から目線で見下した居丈高な態度・言葉でねじ伏せ、潰そうとする。
正に、これぞ、マンスプレーニング(マンスプ)!? しかし、相手が女であってもステイタス(社会的影響力)がある人物だと、私に対する態度とは違えて、マンスプしないでくれそうな気もするなぁ(笑)…。
この映画の原作者である辻野弥生氏はジャーナリストの浅野健一氏のインタビューに次のように語っている。
「夫が兵隊に行っている時に舅と関係した妻。戦争で夫を亡くした女性と船頭。朝鮮で虐殺事件を目撃した男性の妻の船上での不倫。しかも、大震災と同時刻に。登場する女性記者は別として、この三人の女性すべてを、性を絡めて描いている点に疑問を感じるし、女性としてちょっとかなしくなります。特に船上でのシーンなどなくてもこの映画の本意は充分に伝わると思います」(『紙の爆弾』2023年11月号 P24)
福田村で生活する「この三人の女性すべて」がとても性欲が強くて、自分から主体的に積極的に性交したがっている、という描き方はロマンポルノ大好き男たちにはとても都合のいい女性像だろう。脚本家たちは日活ロマンポルノ映画で活躍してきた人たちらしい。でも、こんな描き方は、私は女性を馬鹿にしていると思うし、「関東大震災における虐殺」を描くのには全く必然性・必要性がないと思う。
辻野氏の問題意識も私と同じではないだろうか。だから「疑問を感じるし、女性としてちょっとかなしくなります」のである。
趙博氏は彼女に対しても、「特に船上での(性交)シーンなど」「『戦争と性』と総括的に評価してもいい程のエロスだ」のに「なくても(いい)」と言うなんて「辻野さんは映画を観る目が無い証拠」「己の好き嫌いを作品に押しつける」「幼稚」で「『己の主観主義』で『批判』している」者で、有田氏のような「真っ当な批判」者ではない「粗探しをする『批判者』」だ」という言葉を投げつけるだろうか?
いや、彼女に対してはしないだろうね(笑)…。
この映画は「大波小波(待ち遠しい秋)」氏が書いているように「レイシズムにはアンテナが反応しても、ジェンダー問題には鈍いということの格好のサンプルになっている」のであり、作成者たちには女性蔑視(ミソジニー)があると思う。
趙博氏自身がまた見事に「レイシズムにはアンテナが反応しても、ジェンダー問題には鈍い…女性蔑視(ミソジニー)内蔵…ということの格好のサンプルになっている」!?
天理大学教員の北口学氏はFacebookに、熊沢誠氏とは正反対の以下の映画評を公表されている。
「関東大震災時に起こった朝鮮人、中国人大虐殺事件は多数の書籍が刊行されています。多数の人が知らなかった史実が話題になる事は良い事だとおもいます。良心的な人々の賛辞を見かけますが、今一度、きちんとした映画批評をしておきましょう。批判しておきましょう。
映画制作技術、映像などの稚拙さ。
ハンセン病患者の描き方が当事者から批判されている
福田村の慰霊碑保存会から批判されている
被差別部落の売薬業者はアコギな商売をすると錯誤を生む
現存する被差別地域が事前に明かさぬよう依頼していたにも関わらずアウティングされている
ジェンダーの視点からの批判も多々
テーマとして素晴らしい作品となり得るものが、薄っぺらい凡作に終わり残念ですね。この30年、関東大震災時における官憲主導の流言蜚語で起こった悲しい史実。
凡作に終わり、鑑賞後、差別に対する怒りや、差別を許さない気持ちをもっと強く心に響かせる作品にならなかった事は非常に残念でなりませんね。
映画のワン・カット、ワン・シーンには全て意味が有ります。その集積や必然性が深い意味や感動を生み出します。あまりにも安易な、無様な映画作りに呆れて凡作と評価いたしております。
下記のような作り方、観客は納得してるとは思えないのですが。その程度の理由、意図???ひどいなぁ。リアリティなく、史実にも反していますから、違和感満点の私でございます。
転載です。
「『映画芸術』第484号には佐伯俊道さん、井上淳一さん、荒井晴彦さんの座談会が掲載されていて、そこに、こんな発言があります。井上さん『佐伯さんの第1稿では男だったんですよ。でも、誰かが女にした方がインパクトあるよねと言い出した。誰かは忘れましたけど』 佐伯さん『ともかく、誰が最初の口火を切るのか、意外性がある方がいいといろいろ考え、最終的にいまの形に落ち着いた。これなら観客も納得できるだろうと』34ページ 。」(後略)
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さて、北口氏のこの映画評に対して趙博氏はどんな態度をとられるのだろうか?
「映画を観る目が無い」「己の好き嫌いを作品に押しつける」「幼稚」で「『己の主観主義』で『批判』している」、有田氏のような「真っ当な批判」者ではない「粗探しをする『批判者』」だ」という言葉を投げつけられるのだろうか?
趙博氏…通称パギやん…を、私はこれまですっごく尊敬していた。
大阪西成の被差別部落で生まれ育った在日二世で神戸市立外大を出てどっかの…覚えてない(笑)…大学院を出て日本語・韓国語・英語・ロシア語に堪能、脚本も書き、雑誌編集もする才人、ものすごく広範囲にわたって活躍する芸人、バリバリ左翼、超人的体力で活動する男、とマジ(笑)尊敬の目で仰ぎ見ていた。
さすがに、他人の「映画を見る目」の有無まで決定できるほどエライ、とは思ってなかったけれど、こんなミソジニー・マンスプ男で、かつガキっぽくて、とにかく、己がいいと思うものに同調しないで異議を申し立てるステイタス(社会的影響力)の無い女に対しては恥ずかしげも無く、どんな没論理でも駆使して潰そうとしてくる…こんな男とは全く思ってなかった。男を見る目が無かったなぁ(笑)…。
おかげで、幻想は雲散霧消! 相手によって態度を変える人柄は卑しい。こういう人物は蛇蝎より嫌いだ…蛇蝎に出会いたくはないけれど(笑)…。
でも、左翼と言われている男性にもけっこう、このテの人物はいそうな気がする。
付言すれば、過日、趙博氏&金守珍氏共同脚本(趙氏主演)の『失われた歴史を探して』という「朝鮮人虐殺」を真正面から取りあげた新宿梁山泊の芝居を4500円も払って観たが、趙博氏ご推奨の「『戦争と性』と総括的に評価してもいい程のエロス」とやらは全く無く、ロマンポルノふうも全く無く、性欲が強く主体的積極的に性交する女は一人も出てこない2時間の芝居だった。
そんなものを入れなくったって、いっくらでも「関東大震災における虐殺」は描けるわけだ。下北沢往復交通費を入れて6300円くらいもかかり、年金生活者にはちょっと痛かったけど我慢(笑)…。
中身的には、韓国演劇界の重鎮の原作4時間を、趙氏とご親友の新宿梁山泊主宰者・金守珍氏とで2時間に縮めた脚本にしているというから、どこまでオリジナルが入っているのか分からないが、失笑したのは出だしのシーン。
現代の若い女性ルポライターが出てきて、朝鮮人を庇う良心的日本人の手記を古書店で手に入れてその現場を探しているところに、映画『福田村事件』を見たばかりの友人の若い女性が合流し「ねぇねぇ、『福田村事件』の映画、見た?」「すっごく、良かったよ」「全編、これクライマックスという感じで…」と喜色満面で絶賛・ヨイショ(笑)する。
自分がそうあってほしいという願望(主観)を見える化することができる仮想世界に住んでいると、現実世界でそれに同調しないで異議を唱えるステイタスの無い女は「映画を見る目が無い」「己の好き嫌いを作品に押しつける」「幼稚」で「『己の主観主義』で『批判』している」ダメなヤツで、有田氏のような「真っ当な批判」者ではない「粗探しをする」者としか、見えなくなるものなのだろうか。
② 歴史事実の改変(創作)の是非、について
趙博氏とのやりとりは、この映画の創作部分である性描写問題が中心だったので、他の「歴史事実と創作」問題、有田氏が言われる「ドキュメンタリーでない以上、創作と脚色があるのは当然で、それはどの程度まで許されるのか。」についての言及は避けていたが…ゴチャゴチャしそうなので…この映画の創作(歴史事実の改変)部分の一番の問題は「赤ん坊を負ぶった若い女が行商団リーダー虐殺の第一撃を振り下ろした」と描いているところだと考えている。
これは不要で不自然な「創作」性描写問題と根幹で繋がっていると思うが、本当に酷い創作、作り話である。
自警団は在郷軍人・青年団・消防団等からなる男だけの組織で、起訴された8人、つまり、福田村での(隣村の田中村自警団も含む)虐殺の手を下したのは全員男で、発端の一撃を下したのも、もちろん、男である。
いくらフィクション・創作の劇映画だとしても「福田村事件」と銘打つ以上は歴史事実の基本中の基本、イロハのイを作り変えていいとは思えない。
なぜ、虐殺の第一撃も二撃も次もその次も殺人者は全て男であった歴史事実を枉げてまで、女性を悪者…と言って悪ければ、デマを信じて人殺しもしてしまう愚か者…に仕立てなければならなかったのだろううか?
この創作部分について、上記、北口氏のFacebookにあったシナリオライターたちの発言を再掲する。
「第1稿では男だったんですよ。でも、誰かが女にした方がインパクトあるよねと言い出した。」
「ともかく、誰が最初の口火を切るのか、意外性がある方がいいといろいろ考え、最終的にいまの形に落ち着いた。これなら観客も納得できるだろうと」
いくら劇(創作・作り話)映画とは銘打っていても、こんなにも安易に「女にした方がインパクトある」「意外性がある方がいい」ということで、確定している歴史事実の基本を改変していいのだろうか? これで「観客も納得できる」とは、どういうことだろうか?
福田村における虐殺の悲劇性(「デマに惑わされての誤殺」?)を際立たせるために「第一撃を『インパクトある』『意外性がある』女性に改変する創作をする」ことにしたのだろうとは思うが、基本の歴史事実を枉げてまで第一虐殺者を女にして勝手に歴史を作り変えてしまうところに…不要・不自然な性描写も含めて…森達也監督・シナリオ作者たち男性のミソジニー(女性蔑視)を感じる。
東京新聞の有名女性記者を彷彿とさせる立派な女性記者も配して、女性にもサービスはしているけれども…。
この映画のシナリオは、登場人物に殺戮への動機・モチベーションを与える必要がある。
だが、半鐘を鳴らして自警団を集めた男のモチベーションとして実父と嫁との不倫による性的鬱屈を中心に置いたり、『インパクトある』から、『意外性がある』から、と第一虐殺者を女にしたことは「関東大震災における虐殺」の本質を逸らしてしまうものになっていないだろうか?
「福田村・田中村」自警団は200人ぐらいいたというから、中には実父に嫁を寝取られた男も一人ぐらいはいたかもしれないが、特に性的鬱屈などなく普通に社会生活を送っていた男たちが軍・警・メディアの先導・扇動によるデマによって自警団を組織し、集団の狂気・群集心理に駆られて「不逞鮮人(不逞なヤカラ)」なら殺して構わないと、凄惨な殺戮、虐殺・ジェノサイドに手を染めたことが、この上ない恐怖なわけで…
妻の「主体的な」義父との不倫性行為で鬱屈した男や、亭主が朝鮮人に殺されたと思い込んだ女とか、安易に虐殺の動機付けを創作して歴史事実を改変するのは、いくら「これは劇映画(フィクション)なんだから」とはいっても、『福田村事件』と銘打つ以上は許されないのではないか?
最後に、1999年から真相解明に取り組んでこられた市川正廣「福田村事件追悼慰霊碑保存会」代表の発言を紹介する(映画『福田村事件』パンフレット、P47~48)
「映画は影響力が大きいですから、正しい史実と映画のフィクション部分を分けるべきですね。今回の映画はそこがかなり不鮮明です。観客の大部分の人達は『福田村事件』のことを知らない人たちですよ。となると、映画を見て、『福田村事件』とはこういうものだったのかと思う。」
「一番心配しているのは、この映画がそのまま史実の定説になっていくことです。映画を否定しているわけではないけれど、私などが少数派の意見になっていくことは避けたいです。」
(了)
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