◇ 東京「君が代」第1次訴訟・控訴審第4回口頭弁論 5月11日(火)
14:40傍聴抽選 15:00開廷 東京高裁101号法廷
★ 東京『君が代』第1次訴訟 「控訴理由書」(2009/9/15)から
<「はじめに」 前編>
第1部 はじめに
1 本件は,教育現場における画一的な国旗・国歌の権力的強制が許されるか否かを問う訴訟である。基本的人権の中核をなす精神的自由の保障を求める訴であり,行政権力の教育にたいする明らかな過度の介入の排除を求める訴でもある。本件訴訟の憲法的意味は重大で,影響は深刻である。
国旗・国歌が国家象徴である以上,「国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること,国歌斉唱に伴奏すること」の強制は,必然的に国家という権力的存在と強制を受ける個人との,先鋭な対峙の関係を作出する。国家と個人と,いずれの価値が根源性を有するか,が問い直される局面である。
しかも,控訴人の多くにとっては,敬意・尊崇の念の表明を強制される対象としての国旗・国歌が,「日の丸・君が代」であることが特別の意味をもつ。
「日の丸・君が代」は,その出自と歴史とにおいて,日本国憲法の理念が否定した負の存在である大日本帝国の象徴であった。それゆえ,「神権天皇制や侵略戦争の記憶とあまりに深く結びついた「日の丸・君が代」の強制は日本国憲法の理念を「人類普遍の原理」とする立場からは受容し難い」とする見解には,当然に相応の理由がある。この理は,いかなる裁判体も認めざるを得ない。
一例として,ごく最近言い渡された高裁判決の一節を引用する。
「君が代という国歌が担ってきた戦前からの歴史的役割に対する認識や歌詞の内容から,君が代に対し負のイデオロギーないし抵抗感をもつ者が,その斉唱を強制されることを思想信条の自由に対する侵害であると考えることには一理ある。とりわけ,『唱う』という行為は,個々人にとって情感を伴わざるを得ない積極的身体的行為であるから,これを強要されることは内心の自由に対する侵害となる危険性が高い。したがって,君が代を斉唱しない自由も尊重されるべきである。本件訴訟における控訴人の主張は,以上の限りにおいて首肯しうるものを含んでいる」(2009年9月9日大阪高判・平成21年(行コ)第64号・東豊中高校懲戒処分取消請求控訴事件)
穏やかな表現ながらも,「君が代を斉唱しない自由も尊重されるべき」原則がゆるがせにできないことが確認されている。
2 論じるまでもなく,国民の多様な価値観の併存が保障されなければならない。このことは,先憲法的な公理と言って差し支えない。多元的な価値観の併存を保障するとの目的のもと,国家は公的に正統のイデオロギーを持つことを禁止される。これも自明の公理である。
日の丸・君が代の権力的強制は,「国民に対する自由の保障」と「その目的に奉仕する手段としての権力に対する規制」という自明の自由主義的公理に反して,権力機構が特定の思想的立場からのイデオロギー強制にほかならない。
さらに,国旗・国歌の画一的権力的強制は,教育の一環である卒業式・入学式等において教員に対して行われた。卒業式が,教員と生徒の接触の場としての教育の一場面である以上,「日の丸・君が代」への敬意・尊崇の念の表明を強制することは,行政権力による教育内容への許されない介入である。
控訴人らの多くは,このことを強く意識し,教職にある者の良心において,また教員の職責において,不当な強制に服することができないとする立場をとらざるを得なかった。
憲法と教育法体系から見て,違憲違法は明らかに被控訴人の側にあり,控訴人らは違憲・違法な権力行使の被害者にほかならない。
3 人類の歴史のあらゆる局面において,個人の尊厳と権力とは先鋭な対立を形づくってきた。
個人の尊厳と権力とは,歴史的に幾多の軋轢をくり返し,無数の血なまぐさい事件の記憶に結びつく過去の歴史の教訓から人類は共通の到達点に至った。それが,個人の尊厳を根源的価値とする個人主義の大原則であり,権力を抑制する自由主義の原理であり,これを保障するための立憲主義の確立である。
今日の時点においてなお,日本の首都・東京の教育現場において,個人の尊厳と権力との先鋭な対立が顕在化している。個人の根源的な価値が権力の横暴によって蹂躙されようとしているとき,立憲主義が機能しているか否かが鋭く問われている。そして,立憲主義を具体的に保障するものとしての違憲審査制が有効であるか否かが試されようとしている。その舞台が,本件訴訟であり,当審にほかならない。
4 古来,社会に権力の構造が生成するや,権力はそれ自身の強化と永続を求めてあらゆる策動を企図してきた。その根底に,人心を掌握しこれを操作して権力に従順ならしめようとする衝動が常在する。
洋の東西を問わず,権力が国家を形成する段階に至れば,その衝動はさらに強力にかつ巧妙に顕現される。国家はその権力構造を維持し強化し永続を図るために,国民に国家への忠誠を要求する。権力的に強制するだけでなく,愛国心を社会の道徳とし,国旗や国歌への尊重を社会的儀礼としようと企てる。
国旗と国歌とは,いずれも国家の象徴である。国家はその権力構造を維持し強化するために,国民に対して,国家象徴への敬意や尊崇の念の表明を求めようとする衝動を有する。
しかし,立憲主義の下においては,わけても日本国憲法の下においては,国家が国民に対して,国家忠誠を求めることはできない。愛国心を強制することも許されない。国家象徴に敬意尊崇の念を表明することを強制してはならない。なぜなら,国家は国民の意思によって,国民に福利を享受せしむべく便宜形成されたものであって,それ自体が国民各個人に凌駕する根源的な価値を持つものではないからである。国家が国民に対して国家象徴への忠誠を強制することは,憲法の理念に照らして倒錯であり背理にほかならない。
(後編へ続く)
14:40傍聴抽選 15:00開廷 東京高裁101号法廷
★ 東京『君が代』第1次訴訟 「控訴理由書」(2009/9/15)から
<「はじめに」 前編>
第1部 はじめに
1 本件は,教育現場における画一的な国旗・国歌の権力的強制が許されるか否かを問う訴訟である。基本的人権の中核をなす精神的自由の保障を求める訴であり,行政権力の教育にたいする明らかな過度の介入の排除を求める訴でもある。本件訴訟の憲法的意味は重大で,影響は深刻である。
国旗・国歌が国家象徴である以上,「国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること,国歌斉唱に伴奏すること」の強制は,必然的に国家という権力的存在と強制を受ける個人との,先鋭な対峙の関係を作出する。国家と個人と,いずれの価値が根源性を有するか,が問い直される局面である。
しかも,控訴人の多くにとっては,敬意・尊崇の念の表明を強制される対象としての国旗・国歌が,「日の丸・君が代」であることが特別の意味をもつ。
「日の丸・君が代」は,その出自と歴史とにおいて,日本国憲法の理念が否定した負の存在である大日本帝国の象徴であった。それゆえ,「神権天皇制や侵略戦争の記憶とあまりに深く結びついた「日の丸・君が代」の強制は日本国憲法の理念を「人類普遍の原理」とする立場からは受容し難い」とする見解には,当然に相応の理由がある。この理は,いかなる裁判体も認めざるを得ない。
一例として,ごく最近言い渡された高裁判決の一節を引用する。
「君が代という国歌が担ってきた戦前からの歴史的役割に対する認識や歌詞の内容から,君が代に対し負のイデオロギーないし抵抗感をもつ者が,その斉唱を強制されることを思想信条の自由に対する侵害であると考えることには一理ある。とりわけ,『唱う』という行為は,個々人にとって情感を伴わざるを得ない積極的身体的行為であるから,これを強要されることは内心の自由に対する侵害となる危険性が高い。したがって,君が代を斉唱しない自由も尊重されるべきである。本件訴訟における控訴人の主張は,以上の限りにおいて首肯しうるものを含んでいる」(2009年9月9日大阪高判・平成21年(行コ)第64号・東豊中高校懲戒処分取消請求控訴事件)
穏やかな表現ながらも,「君が代を斉唱しない自由も尊重されるべき」原則がゆるがせにできないことが確認されている。
2 論じるまでもなく,国民の多様な価値観の併存が保障されなければならない。このことは,先憲法的な公理と言って差し支えない。多元的な価値観の併存を保障するとの目的のもと,国家は公的に正統のイデオロギーを持つことを禁止される。これも自明の公理である。
日の丸・君が代の権力的強制は,「国民に対する自由の保障」と「その目的に奉仕する手段としての権力に対する規制」という自明の自由主義的公理に反して,権力機構が特定の思想的立場からのイデオロギー強制にほかならない。
さらに,国旗・国歌の画一的権力的強制は,教育の一環である卒業式・入学式等において教員に対して行われた。卒業式が,教員と生徒の接触の場としての教育の一場面である以上,「日の丸・君が代」への敬意・尊崇の念の表明を強制することは,行政権力による教育内容への許されない介入である。
控訴人らの多くは,このことを強く意識し,教職にある者の良心において,また教員の職責において,不当な強制に服することができないとする立場をとらざるを得なかった。
憲法と教育法体系から見て,違憲違法は明らかに被控訴人の側にあり,控訴人らは違憲・違法な権力行使の被害者にほかならない。
3 人類の歴史のあらゆる局面において,個人の尊厳と権力とは先鋭な対立を形づくってきた。
個人の尊厳と権力とは,歴史的に幾多の軋轢をくり返し,無数の血なまぐさい事件の記憶に結びつく過去の歴史の教訓から人類は共通の到達点に至った。それが,個人の尊厳を根源的価値とする個人主義の大原則であり,権力を抑制する自由主義の原理であり,これを保障するための立憲主義の確立である。
今日の時点においてなお,日本の首都・東京の教育現場において,個人の尊厳と権力との先鋭な対立が顕在化している。個人の根源的な価値が権力の横暴によって蹂躙されようとしているとき,立憲主義が機能しているか否かが鋭く問われている。そして,立憲主義を具体的に保障するものとしての違憲審査制が有効であるか否かが試されようとしている。その舞台が,本件訴訟であり,当審にほかならない。
4 古来,社会に権力の構造が生成するや,権力はそれ自身の強化と永続を求めてあらゆる策動を企図してきた。その根底に,人心を掌握しこれを操作して権力に従順ならしめようとする衝動が常在する。
洋の東西を問わず,権力が国家を形成する段階に至れば,その衝動はさらに強力にかつ巧妙に顕現される。国家はその権力構造を維持し強化し永続を図るために,国民に国家への忠誠を要求する。権力的に強制するだけでなく,愛国心を社会の道徳とし,国旗や国歌への尊重を社会的儀礼としようと企てる。
国旗と国歌とは,いずれも国家の象徴である。国家はその権力構造を維持し強化するために,国民に対して,国家象徴への敬意や尊崇の念の表明を求めようとする衝動を有する。
しかし,立憲主義の下においては,わけても日本国憲法の下においては,国家が国民に対して,国家忠誠を求めることはできない。愛国心を強制することも許されない。国家象徴に敬意尊崇の念を表明することを強制してはならない。なぜなら,国家は国民の意思によって,国民に福利を享受せしむべく便宜形成されたものであって,それ自体が国民各個人に凌駕する根源的な価値を持つものではないからである。国家が国民に対して国家象徴への忠誠を強制することは,憲法の理念に照らして倒錯であり背理にほかならない。
(後編へ続く)
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