東京新聞【こちら特報部】2007年8月15日
◆ 元米海軍通訳士官ドナルド・キーン氏が見た日本兵
米軍を前に手りゅう弾で自決した日本兵、「生きている理由がない」とつぶやいた捕虜-。日本文学研究の第一人者ドナルド・キーン氏(85)が、初めて日本人と向き合ったのは第二次世界大戦中だった。コロンビア大で日本語を学び、米海軍に通訳の士官として従軍。玉砕した日本兵が書き残した日記を読み、捕虜を尋問した。キーン氏は当時、何を感じ、戦後六十二年の日本に何を思うか、聞いた。 (鈴木伸幸)
◆ 捕虜になることは恥 『日本に帰れぬ』と覚悟
---最初に接触した日本兵の印象は。
ガダルカナル島で米軍が回収した日本兵の日記をハワイで読んだのが最初。一九四三年だった。当時、日本軍では日記を上官が検閲するため、型にはまった勇ましい決まり文句が並んでいたが、食料がなくなり、マラリアにかかり、親友を失うと、抑えきれない感情が日記にこぼれ落ちていた
最後のページに英語で、自分の家族に日記を届けてほしい-と伝言が残された日記もあった。私が望みをかなえてあげようと日記を隠し持っていたら、上官に見つかって取り上げられた。血痕が残り、異臭を発する日記もあった。最初の日本兵といっても、私が日記を読んだ時には、ほとんどが亡くなっていたが…
---四三年五月にはアッツ島上陸に参加した。
"時間稼ぎ"に日本軍が『玉砕』した最初の島だった。米兵は『バンザイ突撃』と呼んでいた。兵力は比較にならないぐらい貧弱な日本軍が米軍に突撃し、一時はけ散らすような勢いだったが、最終的には集団自決した。最後の手りゅう弾を米兵に投げるのではなく、自分の胸にたたきつけたことが、どうしても理解できなかった。
◆ 『再建のため生きるべき』と説得
---尋問した日本人捕虜の印象は。
『捕虜になったら殺される』『もう日本には帰れない』-とおびえていた捕虜もいた。だが、服や食事が与えられ、不思議に感じていたようだ。中には、米軍の協力者となり、日本兵に投降するよう説得に行った捕虜もいたが、その捕虜が説得できずに『もう、みんな殺してください』とやけになったこともあった
沖縄に上陸して、最初に捕虜になった二人のうちの一人は海軍少尉だった。『死んだ方がいい。生きる理由があるのか』と聞かれ『日本再建のために生きるべきだ』と説得した。戦後三十年以上もたって、自宅を訪ねたが、本人が会いたがらずに会えなかった。本棚には私の著書があったのだが…。
もう一人の捕虜だった陸軍中尉は、米兵と冗談を言い合うような関係となり戦後、私に『車の販売をやっている』と手紙を書いてきた。
◆ まず、お互い知ること大事
---従軍する前には日本に対して、どんな印象を持っていたのか。
相反する二つのイメージを持っていた。軍国主義で中国を侵略した悪い国。その一方で、富士山や芸者、日本画などから連想される美しい国。
その矛盾は、捕虜と接して解決した。日本人にはいろいろな人がいて、平気で中国人を殺した人もいたし、戦争に反対していた人もいた。おかしな話だが、その当たり前のことが二十歳代前半の私には、とても新鮮だった。日本は悪い国でもあり美しい国でもあった。
◆ 国の洗脳怖さ痛感
---その日本人が一丸となって米国に突撃した。
宣伝による洗脳の恐ろしさを感じた。日露戦争時にシベリアの収容施設に日本人捕虜がいたことは百科事典にも載っている事実。その当時は捕虜になることは恥ではなかったのだが、それが第二次大戦では、日本兵の多くが『捕虜になることは恥だ』と信じていた。
後になって調べてみると、四五年夏の終戦直前にも『米軍艦が沈没』『日本軍、勝利』といった見出しの新聞報道があった。報道機関でさえ大本営発表を垂れ流し、本来の機能を果たしていなかったのだ。
最も気の毒なのは、沖縄の民間人だ。『米兵に捕まると殺される』と信じていて、多くが手りゅう弾で集団自決をしたり、岸壁から身投げしたりした。
---戦後、日本で何を感じたか。
日本人はああだ、こうだと一般論で決めつけてはいけない、ということを再認識した。海軍で一緒だったフランク・ギブニー君は戦後、『日本がもっと海外で知られるように』と日本について多くの文献を英語で書いた。
再び戦争を起こさないためには、まずはお互いによく知るべきだ。ギブニー君は亡くなったが、彼の遺志が今後も引き継がれていくといいと思う。
◆ 平和憲法の良さ再確認を
---今、日本では憲法の拡大解釈が進み、自衛隊の海外派遣に歯止めがかかりにくくなっている。
平和憲法は日本の誇りだ。自衛隊がイラクに行くということは果たして日本にとっていいことなのか…。軍備増強で、日本人は幸福にはなりはしないことは、歴史が証明している。
例えば第二次大戦中に、フランスに難攻不落とされたマジノ要塞があったが、それでもドイツは攻撃を躊躇しなかった。平和憲法の素晴らしさを再確認すべき時期にきている。
◆ 尋問された元捕虜 なんであんな戦争をしたのか…
キーン氏がハワイの収容所で知り合った元捕虜で、定期的に会っていた人たちは何人かいたが、現在も健在なのは元東京医科歯科大学教授の恩地豊氏(九五)=東京都小金井市=だけだ。恩地氏は今月、キーン氏と約三年ぶりに再会し「日本は、ばかげた戦争をした」とくちびるをゆがめた。
恩地氏は、陸軍の軍医としてペリリュー島(現パラオ)に四四年に派遣された。故小田実氏の著書「玉砕」のモチーフとなった同島の戦いでは、圧倒的な米軍の兵力を前に日本軍は疲弊し、最後はまさに玉砕したことで知られる。戦死者は一万人を超えたこの戦いに、恩地氏は奇跡的に生き残り、捕虜となった。
ホノルル郊外の収容所に到着した当日、恩地氏は先に入っていた捕虜とひともんちゃくあった。戦況を聞かれ「めちゃくちゃだ。この戦争は負けだ」と答えた。その夜、鉄拳制裁を受けた。
恩地氏は言う。「私は医師として、米国の研究論文をいくつも読んでいたが、科学力のレベルの差からして、最初から米国と戦争などすべきでなかった。私の学者仲間で、少しでも世界情勢を知っている人は皆、戦争を始めた東条英機を批判していた。当時は表だって言えなかったが…」
キーン氏によると、恩地氏は数少ないインテリの捕虜だったという。「捕虜になったことを恥と思わず、偽名を使う捕虜が多い中、実名を堂々と名乗っていた。米軍に協力してくれた捕虜の一人だったが、それは米国のためではなく、この戦争を早く終わらせるためだった」と振り返る。
ただ、戦後六十二年たっても恩地氏の心境は複雑なままだ。「狂気の戦争」だったとする一方、「米軍が三日でペリリュー島の戦闘は終わる、としていたところをわれわれは三カ月も粘った」「捕虜になるまでのニカ月間は飲まず食わずで頑張った」と、自らの戦いは肯定する。
耳が遠くなり、キーン氏との会話はままならないが、最後にはこう言った。「何であんな戦争をしたのか…。日本人は何も知らなすぎた」
※ドナルド・キーン
日本文学研究者。1922年、ニューヨーク生まれ。コロンビア大学在学中に読んだ「源氏物語」の英訳本に影響を受け、日本文学に傾倒。第二次大戦中は米海軍の通訳士官として従軍、捕虜となった日本兵を尋問した。除隊後、英国、日本への留学を経て55年から同大で日本文学を指導。著書に「明冶天皇」など。文化功労者。
※デスクメモ
「生きて虜囚の辱めを受けず…」。一九四一年、当時の陸相、東条英機が示した戦陣訓の一節だが、キーンさんが通訳として接した日本兵捕虜の多くもこの観念にさいなまれていたのだろう。玉砕、集団自決…繰り返された悲劇を補完したのは「靖国」ではなかったのか。その意味をかみしめる日としたい。(吉)
『東京新聞』(2007/8/15 特報)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2007081502041094.html
◆ 元米海軍通訳士官ドナルド・キーン氏が見た日本兵
米軍を前に手りゅう弾で自決した日本兵、「生きている理由がない」とつぶやいた捕虜-。日本文学研究の第一人者ドナルド・キーン氏(85)が、初めて日本人と向き合ったのは第二次世界大戦中だった。コロンビア大で日本語を学び、米海軍に通訳の士官として従軍。玉砕した日本兵が書き残した日記を読み、捕虜を尋問した。キーン氏は当時、何を感じ、戦後六十二年の日本に何を思うか、聞いた。 (鈴木伸幸)
◆ 捕虜になることは恥 『日本に帰れぬ』と覚悟
---最初に接触した日本兵の印象は。
ガダルカナル島で米軍が回収した日本兵の日記をハワイで読んだのが最初。一九四三年だった。当時、日本軍では日記を上官が検閲するため、型にはまった勇ましい決まり文句が並んでいたが、食料がなくなり、マラリアにかかり、親友を失うと、抑えきれない感情が日記にこぼれ落ちていた
最後のページに英語で、自分の家族に日記を届けてほしい-と伝言が残された日記もあった。私が望みをかなえてあげようと日記を隠し持っていたら、上官に見つかって取り上げられた。血痕が残り、異臭を発する日記もあった。最初の日本兵といっても、私が日記を読んだ時には、ほとんどが亡くなっていたが…
---四三年五月にはアッツ島上陸に参加した。
"時間稼ぎ"に日本軍が『玉砕』した最初の島だった。米兵は『バンザイ突撃』と呼んでいた。兵力は比較にならないぐらい貧弱な日本軍が米軍に突撃し、一時はけ散らすような勢いだったが、最終的には集団自決した。最後の手りゅう弾を米兵に投げるのではなく、自分の胸にたたきつけたことが、どうしても理解できなかった。
◆ 『再建のため生きるべき』と説得
---尋問した日本人捕虜の印象は。
『捕虜になったら殺される』『もう日本には帰れない』-とおびえていた捕虜もいた。だが、服や食事が与えられ、不思議に感じていたようだ。中には、米軍の協力者となり、日本兵に投降するよう説得に行った捕虜もいたが、その捕虜が説得できずに『もう、みんな殺してください』とやけになったこともあった
沖縄に上陸して、最初に捕虜になった二人のうちの一人は海軍少尉だった。『死んだ方がいい。生きる理由があるのか』と聞かれ『日本再建のために生きるべきだ』と説得した。戦後三十年以上もたって、自宅を訪ねたが、本人が会いたがらずに会えなかった。本棚には私の著書があったのだが…。
もう一人の捕虜だった陸軍中尉は、米兵と冗談を言い合うような関係となり戦後、私に『車の販売をやっている』と手紙を書いてきた。
◆ まず、お互い知ること大事
---従軍する前には日本に対して、どんな印象を持っていたのか。
相反する二つのイメージを持っていた。軍国主義で中国を侵略した悪い国。その一方で、富士山や芸者、日本画などから連想される美しい国。
その矛盾は、捕虜と接して解決した。日本人にはいろいろな人がいて、平気で中国人を殺した人もいたし、戦争に反対していた人もいた。おかしな話だが、その当たり前のことが二十歳代前半の私には、とても新鮮だった。日本は悪い国でもあり美しい国でもあった。
◆ 国の洗脳怖さ痛感
---その日本人が一丸となって米国に突撃した。
宣伝による洗脳の恐ろしさを感じた。日露戦争時にシベリアの収容施設に日本人捕虜がいたことは百科事典にも載っている事実。その当時は捕虜になることは恥ではなかったのだが、それが第二次大戦では、日本兵の多くが『捕虜になることは恥だ』と信じていた。
後になって調べてみると、四五年夏の終戦直前にも『米軍艦が沈没』『日本軍、勝利』といった見出しの新聞報道があった。報道機関でさえ大本営発表を垂れ流し、本来の機能を果たしていなかったのだ。
最も気の毒なのは、沖縄の民間人だ。『米兵に捕まると殺される』と信じていて、多くが手りゅう弾で集団自決をしたり、岸壁から身投げしたりした。
---戦後、日本で何を感じたか。
日本人はああだ、こうだと一般論で決めつけてはいけない、ということを再認識した。海軍で一緒だったフランク・ギブニー君は戦後、『日本がもっと海外で知られるように』と日本について多くの文献を英語で書いた。
再び戦争を起こさないためには、まずはお互いによく知るべきだ。ギブニー君は亡くなったが、彼の遺志が今後も引き継がれていくといいと思う。
◆ 平和憲法の良さ再確認を
---今、日本では憲法の拡大解釈が進み、自衛隊の海外派遣に歯止めがかかりにくくなっている。
平和憲法は日本の誇りだ。自衛隊がイラクに行くということは果たして日本にとっていいことなのか…。軍備増強で、日本人は幸福にはなりはしないことは、歴史が証明している。
例えば第二次大戦中に、フランスに難攻不落とされたマジノ要塞があったが、それでもドイツは攻撃を躊躇しなかった。平和憲法の素晴らしさを再確認すべき時期にきている。
◆ 尋問された元捕虜 なんであんな戦争をしたのか…
キーン氏がハワイの収容所で知り合った元捕虜で、定期的に会っていた人たちは何人かいたが、現在も健在なのは元東京医科歯科大学教授の恩地豊氏(九五)=東京都小金井市=だけだ。恩地氏は今月、キーン氏と約三年ぶりに再会し「日本は、ばかげた戦争をした」とくちびるをゆがめた。
恩地氏は、陸軍の軍医としてペリリュー島(現パラオ)に四四年に派遣された。故小田実氏の著書「玉砕」のモチーフとなった同島の戦いでは、圧倒的な米軍の兵力を前に日本軍は疲弊し、最後はまさに玉砕したことで知られる。戦死者は一万人を超えたこの戦いに、恩地氏は奇跡的に生き残り、捕虜となった。
ホノルル郊外の収容所に到着した当日、恩地氏は先に入っていた捕虜とひともんちゃくあった。戦況を聞かれ「めちゃくちゃだ。この戦争は負けだ」と答えた。その夜、鉄拳制裁を受けた。
恩地氏は言う。「私は医師として、米国の研究論文をいくつも読んでいたが、科学力のレベルの差からして、最初から米国と戦争などすべきでなかった。私の学者仲間で、少しでも世界情勢を知っている人は皆、戦争を始めた東条英機を批判していた。当時は表だって言えなかったが…」
キーン氏によると、恩地氏は数少ないインテリの捕虜だったという。「捕虜になったことを恥と思わず、偽名を使う捕虜が多い中、実名を堂々と名乗っていた。米軍に協力してくれた捕虜の一人だったが、それは米国のためではなく、この戦争を早く終わらせるためだった」と振り返る。
ただ、戦後六十二年たっても恩地氏の心境は複雑なままだ。「狂気の戦争」だったとする一方、「米軍が三日でペリリュー島の戦闘は終わる、としていたところをわれわれは三カ月も粘った」「捕虜になるまでのニカ月間は飲まず食わずで頑張った」と、自らの戦いは肯定する。
耳が遠くなり、キーン氏との会話はままならないが、最後にはこう言った。「何であんな戦争をしたのか…。日本人は何も知らなすぎた」
※ドナルド・キーン
日本文学研究者。1922年、ニューヨーク生まれ。コロンビア大学在学中に読んだ「源氏物語」の英訳本に影響を受け、日本文学に傾倒。第二次大戦中は米海軍の通訳士官として従軍、捕虜となった日本兵を尋問した。除隊後、英国、日本への留学を経て55年から同大で日本文学を指導。著書に「明冶天皇」など。文化功労者。
※デスクメモ
「生きて虜囚の辱めを受けず…」。一九四一年、当時の陸相、東条英機が示した戦陣訓の一節だが、キーンさんが通訳として接した日本兵捕虜の多くもこの観念にさいなまれていたのだろう。玉砕、集団自決…繰り返された悲劇を補完したのは「靖国」ではなかったのか。その意味をかみしめる日としたい。(吉)
『東京新聞』(2007/8/15 特報)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2007081502041094.html
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