<転送歓迎>(重複ご容赦)・「都教委包囲首都圏ネットワーク」、・「新芽ML」、・「ひのきみ全国ネット」、・「戦争をさせない杉並1000人委員会」の渡部です。
コロナ対策で「少数の一世帯30万円」が批判に晒されると、今度は二階幹事長が「所得制限を設けた上での10万円支給」を言い出し、公明党は「一律の10万円」を要求、山口代表は安倍と会談、(略)
一方、小池都知事はこの時とばかりに、テレビに出て、盛んに「協力金」や「ホテル借り上げ」などをアピールしている。また、大阪の吉村知事も東京と足並みをそろえようとしている。
情勢は流動化してきた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲ 『新装増補版・慈愛による差別』(北村小夜著)の続きです。
<第二章 分に応じる障害者・分を越える障害者>では、以下の項目について語られています。
(北村さんが長春で日本語放送を聞いた時の事)
ラジオ日本が、「即位の礼」の数日後であったが、海外にいる日系人の中から選ばれて「即位の礼」に参加した人々の声を伝えていた。
日本からの移民またはその子孫である。・・いってみれば棄民である。・・
一様に時代がかった話しぶりで日本をたたえ感涙にむせんでいた。
「特によかったのが海部首相の万歳三唱であった」という人がいた。・・・
まさに棄てられたものが最もよく靡くという図式をまたここにみせられた思いがする。
棄てられたからこそ倍して帰属を求めるのであろう。
戦争中には、女でも、子どもでも、障害者でもお役に立つ途はないかと競った。
(②障害者と戦争)
かつて私は、沖縄ひめゆり部隊の生き残りの人から
「防火訓練や陣地構築をしながら、はじめは、女でもお国のために役に立てる時がきたと意気込んでいました」ときいて、ああやっぱりと肯いたことがある。
・・私も、直接忠義を尽くすのは男で、女はそれを支えるものだと教えられた。
それが戦争が激しくなって、男なみ、男がわりの活動が期待された時、意気込んで時局の到来を喜んだものである。
女性であれ、障害者であれ、抑圧された者はしばしば無意識のうちに100%以上権力に忠誠を尽くすことがある。
(③分に応じる障害者・分を越える障害者)
(ここには「分に応じる障害者」から「分を越える障害者」へと変わっていく障害者たちの闘いが収めてある。その中から)
府中療育センター闘争は、東京都が施設を都心からより離れた所に移転させようとしたことを契機に、それまでくすぶり続けていた問題が一挙に噴出して激しい闘いに発展し、一年半にも及ぶ都庁前テントすわりこみを貫きながらついに勝利を得ることのできなかった闘争である。
勝利は得られなかったけれども、やはり府中療育センター闘争は70年代前半の代表的な闘いと言っていいと思う。
それは、収容されていた障害者自身が、福祉施設の実態を暴露し、糾弾した最初の闘争であり、決起した障害者によって、恩着せがましいその医療が、実は障害者をモルモットにいた人体実験であったことがあきらかにされた。
また闘いの中で施設における障害者と労働者の関係を問い直し、さらには福祉幻想をくだく過程にもなっていった。
その意味で、国立身障センター闘争や、荒木裁判闘争とともに、日本の障害者解放運動の起源と言っていいと思う。
(以下具体的な内容も書かれていますが割愛します)
(④福祉ドレイ工場 大久保製壜・千葉裁判の場合 抑圧された障害者はとりあえずは権力に媚びる)
(ここではそれにかかわった工場や障害者と健常者、医者や教師、労働組合や裁判所について、以下のような項目で述べられている。)
・福祉モデル工場は福祉ドレイ工場だった
・勝ったぞ!!
・「強度の精神薄弱」だから恋愛できない
・「診断書は福祉年金の関係上、”重く”する傾向があります」
・企業にとり入る教師たち
・最高裁は会社の障害者差別・不当労働行為を結果として擁護した
(その中から「・福祉モデル工場は福祉ドレイ工場だった」の記述を紹介したい)
・・1975年3月に出た『心身障害者雇用好事例集』(東京都心身障害者雇用促進協会刊)の墨田職安の部には大久保製壜がとりあげられていた。
そこにはさまざまな受賞や、雇用促進融資モデル工場になったいきさつや、障害者に対する行き届いた処遇が書かれていた。従業員数196名中障害者が119名と記されている(身障者50名、精薄者9名)。
何かある、という気はした。
しかし、私が実態を知ることができたのは、その年(1975年)の暮れ、検査課で働く労働者の蜂起によってであった。
福祉モデル工場が福祉ドレイ工場であることがあばかれた。
大久保製壜は、十数年にわたって、障害者雇用で多額の低金利融資や税法上の優遇措置を受け、大きくなり続けていた。
一方、工場の中では労働者、とりわけ障害労働者に対する虐待や差別が日常的に行われていた。
決起は長い抑圧に対する怒りの噴出であった。
会社側から、”自分の意志すらもちえない”と侮辱され続けてきた人々の決起はみごとであった。
――この決起には、昨年(1987年)会社側の覚醒剤謀略にかけられた長崎宏さんをはじめ、橋本正則さん、黒崎徹さん三人の共に働く健常者の力が大きい。
(結局、最高裁判決は、障害者差別や不当労働行為を擁護したが、「福祉モデル工場」は実は「福祉ドレイ工場」であったことが暴かれたこと、またそうした生産現場で障害者たちが決起したこと、は大きな意味を持っているだろう)
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次回に続く
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【僕、国歌歌わないもん】(石原慎太郎)
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東京五輪に 【国旗も国歌も必要ない】(ビートたけし)
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対米従属で「世界征服」を夢想するデマゴギー政治家安倍首相を倒そう!
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「都教委包囲首都圏ネットワーク」のブログのアドレス
http://houinet.blogspot.jp/
「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」のホームページ
http://hinokimitcb.web.fc2.com/
「ひのきみ全国ネット」のウェブサイト
http://hinokimi.
コロナ対策で「少数の一世帯30万円」が批判に晒されると、今度は二階幹事長が「所得制限を設けた上での10万円支給」を言い出し、公明党は「一律の10万円」を要求、山口代表は安倍と会談、(略)
一方、小池都知事はこの時とばかりに、テレビに出て、盛んに「協力金」や「ホテル借り上げ」などをアピールしている。また、大阪の吉村知事も東京と足並みをそろえようとしている。
情勢は流動化してきた。
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▲ 『新装増補版・慈愛による差別』(北村小夜著)の続きです。
<第二章 分に応じる障害者・分を越える障害者>では、以下の項目について語られています。
①棄てられた民が最もよく靡(なび)く(①棄てられた民が最もよく靡(なび)く)
②障害者と戦争
③分に応じる障害者・分を越える障害者
④福祉ドレイ工場 大久保製壜・千葉裁判の場合 抑圧された障害者はとりあえずは権力に媚びる
・福祉モデル工場は福祉ドレイ工場だった
・勝ったぞ!!
・「強度の精神薄弱」だから恋愛できない
・「診断書は福祉年金の関係上、”重く”する傾向があります」
・企業にとり入る教師たち
・最高裁は会社の障害者差別・不当労働行為を結果として擁護した
(北村さんが長春で日本語放送を聞いた時の事)
ラジオ日本が、「即位の礼」の数日後であったが、海外にいる日系人の中から選ばれて「即位の礼」に参加した人々の声を伝えていた。
日本からの移民またはその子孫である。・・いってみれば棄民である。・・
一様に時代がかった話しぶりで日本をたたえ感涙にむせんでいた。
「特によかったのが海部首相の万歳三唱であった」という人がいた。・・・
まさに棄てられたものが最もよく靡くという図式をまたここにみせられた思いがする。
棄てられたからこそ倍して帰属を求めるのであろう。
戦争中には、女でも、子どもでも、障害者でもお役に立つ途はないかと競った。
(②障害者と戦争)
かつて私は、沖縄ひめゆり部隊の生き残りの人から
「防火訓練や陣地構築をしながら、はじめは、女でもお国のために役に立てる時がきたと意気込んでいました」ときいて、ああやっぱりと肯いたことがある。
・・私も、直接忠義を尽くすのは男で、女はそれを支えるものだと教えられた。
それが戦争が激しくなって、男なみ、男がわりの活動が期待された時、意気込んで時局の到来を喜んだものである。
女性であれ、障害者であれ、抑圧された者はしばしば無意識のうちに100%以上権力に忠誠を尽くすことがある。
(③分に応じる障害者・分を越える障害者)
(ここには「分に応じる障害者」から「分を越える障害者」へと変わっていく障害者たちの闘いが収めてある。その中から)
府中療育センター闘争は、東京都が施設を都心からより離れた所に移転させようとしたことを契機に、それまでくすぶり続けていた問題が一挙に噴出して激しい闘いに発展し、一年半にも及ぶ都庁前テントすわりこみを貫きながらついに勝利を得ることのできなかった闘争である。
勝利は得られなかったけれども、やはり府中療育センター闘争は70年代前半の代表的な闘いと言っていいと思う。
それは、収容されていた障害者自身が、福祉施設の実態を暴露し、糾弾した最初の闘争であり、決起した障害者によって、恩着せがましいその医療が、実は障害者をモルモットにいた人体実験であったことがあきらかにされた。
また闘いの中で施設における障害者と労働者の関係を問い直し、さらには福祉幻想をくだく過程にもなっていった。
その意味で、国立身障センター闘争や、荒木裁判闘争とともに、日本の障害者解放運動の起源と言っていいと思う。
(以下具体的な内容も書かれていますが割愛します)
(④福祉ドレイ工場 大久保製壜・千葉裁判の場合 抑圧された障害者はとりあえずは権力に媚びる)
(ここではそれにかかわった工場や障害者と健常者、医者や教師、労働組合や裁判所について、以下のような項目で述べられている。)
・福祉モデル工場は福祉ドレイ工場だった
・勝ったぞ!!
・「強度の精神薄弱」だから恋愛できない
・「診断書は福祉年金の関係上、”重く”する傾向があります」
・企業にとり入る教師たち
・最高裁は会社の障害者差別・不当労働行為を結果として擁護した
(その中から「・福祉モデル工場は福祉ドレイ工場だった」の記述を紹介したい)
・・1975年3月に出た『心身障害者雇用好事例集』(東京都心身障害者雇用促進協会刊)の墨田職安の部には大久保製壜がとりあげられていた。
そこにはさまざまな受賞や、雇用促進融資モデル工場になったいきさつや、障害者に対する行き届いた処遇が書かれていた。従業員数196名中障害者が119名と記されている(身障者50名、精薄者9名)。
何かある、という気はした。
しかし、私が実態を知ることができたのは、その年(1975年)の暮れ、検査課で働く労働者の蜂起によってであった。
福祉モデル工場が福祉ドレイ工場であることがあばかれた。
大久保製壜は、十数年にわたって、障害者雇用で多額の低金利融資や税法上の優遇措置を受け、大きくなり続けていた。
一方、工場の中では労働者、とりわけ障害労働者に対する虐待や差別が日常的に行われていた。
決起は長い抑圧に対する怒りの噴出であった。
会社側から、”自分の意志すらもちえない”と侮辱され続けてきた人々の決起はみごとであった。
――この決起には、昨年(1987年)会社側の覚醒剤謀略にかけられた長崎宏さんをはじめ、橋本正則さん、黒崎徹さん三人の共に働く健常者の力が大きい。
(結局、最高裁判決は、障害者差別や不当労働行為を擁護したが、「福祉モデル工場」は実は「福祉ドレイ工場」であったことが暴かれたこと、またそうした生産現場で障害者たちが決起したこと、は大きな意味を持っているだろう)
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次回に続く
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【僕、国歌歌わないもん】(石原慎太郎)
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東京五輪に 【国旗も国歌も必要ない】(ビートたけし)
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対米従属で「世界征服」を夢想するデマゴギー政治家安倍首相を倒そう!
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