『Newsweek日本版 オフィシャルサイト』《プリンストン発 新潮流アメリカ by 冷泉彰彦》
◆ 体罰禁止論議と国旗国歌論議の重なる部分
大阪の桜宮高校バスケットボール部で主将が自殺した問題は、自殺原因と推測される監督の体罰の背景に「体罰容認カルチャー」があるということから、大阪市の橋下市長は「体育科の入試中止」を支持、これに対する賛否両論が起きているようです。
この問題に関する私の立場は、橋下市長への全面支持です。自身の政治的資産を消費する覚悟で、「人が1人亡くなった」ということの重さを若者たちに問い続ける姿勢は、現代の日本に欠けてしまったもの、そして最も再建しなくてはならないものの1つを感じるからです。
また、大阪市の教育の問題には、様々な問題から学校現場の秩序、つまり学級運営や生徒指導がうまく行かないという状況があり、それが体罰容認カルチャーの背景にあったとして、それに対しても「ノー」を突きつけたという意味合いも大きいと思います。
こうした問題提起は貴重です。とりわけ、体罰を止めて言葉で説得してゆく、そして常に結果を気にしながら時には敗北への懲罰といったネガティブなプレッシャーをかけて行くのではなく、個々人の個性を見ながら効果的な技術指導を続けるというのは、どんなに困難があろうと、反発があろうと他に正しい方法はないのだと思います。
私個人の見解を付け加えるならば、それは勝利至上主義を捨てることでも何でもなく、勝利への唯一の、そして最短の道であるとも思います。
何よりも貴重なのは、言葉と理論による説得を繰り返して指導するというアプローチが、従来はともすれば富裕層のエリート向けの方法論だというイメージがあったものを、橋下市長は大阪市の全ての若者に適用すべきだと主張していることです。
ここで1つ、市長に良く考えていただきたい問題があります。
であるならば、国旗国歌の問題も同じではないかということをです。
市長は、特に府知事時代を通じて「大阪の教育現場は荒廃し、特に規範意識が崩れている」として、その規範意識を植え付けるために「教職員が公務員であるにも関わらず国旗国歌を認めないという態度」を根絶するべきだと主張して来ました。
つまり、愛国心論議であるとか、国のかたち論議などという高尚な話ではなく、それこそ校内に暴力が横行し、学級運営のできない状況への対策の一環として教員自身が「規範」に従わない状況はダメというのです。裏返して言えば、愛国心論議とか国のかたち論議というのは、規範意識のある、エリート向けであって、万人向けのものではないという話です。
ですが、今回の「体罰カルチャーを全ての学校から根絶する」そして個々の生徒に目を向けて理論を教え、納得するまで粘り強く説得するというアプローチを万人に向けて適用するのであれば、国旗国歌の問題も同じではないかと思うのです。
例えば、日本には「国のかたち論議」というのは3種類あるわけです。
戦前戦後で変わっておらず、それでいいという立場、いや変わっていないからダメなんだという立場、そして戦前の問題は修復されて良くなったという立場の3つです。
実は、そうした根本的な部分での多様性の中に、そしてその均衡の中に現代日本の「国のかたち」があるのです。
これは面倒な議論であり、それこそ「規範意識」が重要という立場からは、そんな面倒な議論はエリートだけで自己満足的にやっていればいい、ということになっていたわけです。ですが、そこまで悲観的になる必要はなく、日本の社会と言うのは大変に成熟していて、勉強熱心でない若者でも、そうした「面倒な議論」に入れて行っても良いのではないか・・・脱「体罰カルチャー」という立場を詰めて行った先には、そうした展開もあるのではないでしょうか?
『Newsweek日本版 オフィシャルサイト』《プリンストン発 新潮流アメリカ by 冷泉彰彦》(2013年01月28日)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/01/post-523.php
◆ 体罰禁止論議と国旗国歌論議の重なる部分
大阪の桜宮高校バスケットボール部で主将が自殺した問題は、自殺原因と推測される監督の体罰の背景に「体罰容認カルチャー」があるということから、大阪市の橋下市長は「体育科の入試中止」を支持、これに対する賛否両論が起きているようです。
この問題に関する私の立場は、橋下市長への全面支持です。自身の政治的資産を消費する覚悟で、「人が1人亡くなった」ということの重さを若者たちに問い続ける姿勢は、現代の日本に欠けてしまったもの、そして最も再建しなくてはならないものの1つを感じるからです。
また、大阪市の教育の問題には、様々な問題から学校現場の秩序、つまり学級運営や生徒指導がうまく行かないという状況があり、それが体罰容認カルチャーの背景にあったとして、それに対しても「ノー」を突きつけたという意味合いも大きいと思います。
こうした問題提起は貴重です。とりわけ、体罰を止めて言葉で説得してゆく、そして常に結果を気にしながら時には敗北への懲罰といったネガティブなプレッシャーをかけて行くのではなく、個々人の個性を見ながら効果的な技術指導を続けるというのは、どんなに困難があろうと、反発があろうと他に正しい方法はないのだと思います。
私個人の見解を付け加えるならば、それは勝利至上主義を捨てることでも何でもなく、勝利への唯一の、そして最短の道であるとも思います。
何よりも貴重なのは、言葉と理論による説得を繰り返して指導するというアプローチが、従来はともすれば富裕層のエリート向けの方法論だというイメージがあったものを、橋下市長は大阪市の全ての若者に適用すべきだと主張していることです。
ここで1つ、市長に良く考えていただきたい問題があります。
であるならば、国旗国歌の問題も同じではないかということをです。
市長は、特に府知事時代を通じて「大阪の教育現場は荒廃し、特に規範意識が崩れている」として、その規範意識を植え付けるために「教職員が公務員であるにも関わらず国旗国歌を認めないという態度」を根絶するべきだと主張して来ました。
つまり、愛国心論議であるとか、国のかたち論議などという高尚な話ではなく、それこそ校内に暴力が横行し、学級運営のできない状況への対策の一環として教員自身が「規範」に従わない状況はダメというのです。裏返して言えば、愛国心論議とか国のかたち論議というのは、規範意識のある、エリート向けであって、万人向けのものではないという話です。
ですが、今回の「体罰カルチャーを全ての学校から根絶する」そして個々の生徒に目を向けて理論を教え、納得するまで粘り強く説得するというアプローチを万人に向けて適用するのであれば、国旗国歌の問題も同じではないかと思うのです。
例えば、日本には「国のかたち論議」というのは3種類あるわけです。
戦前戦後で変わっておらず、それでいいという立場、いや変わっていないからダメなんだという立場、そして戦前の問題は修復されて良くなったという立場の3つです。
実は、そうした根本的な部分での多様性の中に、そしてその均衡の中に現代日本の「国のかたち」があるのです。
これは面倒な議論であり、それこそ「規範意識」が重要という立場からは、そんな面倒な議論はエリートだけで自己満足的にやっていればいい、ということになっていたわけです。ですが、そこまで悲観的になる必要はなく、日本の社会と言うのは大変に成熟していて、勉強熱心でない若者でも、そうした「面倒な議論」に入れて行っても良いのではないか・・・脱「体罰カルチャー」という立場を詰めて行った先には、そうした展開もあるのではないでしょうか?
『Newsweek日本版 オフィシャルサイト』《プリンストン発 新潮流アメリカ by 冷泉彰彦》(2013年01月28日)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/01/post-523.php
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