=登校拒否を考える会=
◆ 毎月欠かさず集まって30年
◆ 社会の認識は変わってない
不登校について語り合う親の会である「登校拒否を考える会」が30周年を迎え、2月16日に東京都北区の岸町ふれあい館で120名が参加して記念の集いがもたれた。この間、東京シューレ、全国ネットワーク、全国不登校新聞社、フリースクール全国ネットワーク、東京シューレ葛飾中学校、最近では、多様な学びを実現する会などが活動している。
「登校拒否を考える会」(以下、考える会)はそれらと違う側面から、当事者の立場、気持ちを大事にしていく考え方と環境づくりや人びとのつながりをつくってきた市民活動である。「考える会」は、1984年1月から活動を始めたが、ちょうど日本で登校拒否が増加して10年ほどたっていた。
◆ 親がまず受け止める 子どもを理解し共に歩む
その頃は、子どもの首に縄をつけてでも登校させようという対応が多く、戸塚ヨットスクールなどの矯正施設に子どもを送って治そうとする時代であった。
そのことに異を唱え、まず親が子どもを受け止めて理解する、そして子どもとともに歩める存在になるように学び合い、支え合うようにしてきた。
月1回の例会は330回を超え、講演会、シンポジウム、月刊通信の発行、出版、合宿などを積み重ねてきた。
それから30年たち、居場所や相談機関は増えて不登校は一見、市民権を得たようにもみえるが、駆け込んでくる親や社会の認識は30年前と変わらない実情がある。
子どもは元気な不登校と、苦しい状況のままひきこもったり、病気に追い詰められる不登校と二分化している。
◆ 参加するのが楽しみになる
集会では、基調講演を奥地圭子代表が「不登校の子どもの権利はどこまで前進したか」と題して行い、子どもたち自身もたたかってきたが、「まだまだの状況」であることを報告した。
続いて不登校となっていたが、現在は社会人として活動している人で、親の会に親がかかわっていた当事者3人の話を聞くことができた。
その後、シンポジウムに入った。報告者は父親1人、母親3人で「考える会」の初期、中期、後期、現在というように時期的に異なる人たちである。
Aさん 子どもを玄関から放り出し鍵を閉めたことを申し訳なかったという。子どもは病気でも異常でもなく自分を守るための不登校だったことに気付いた。高校、大学を卒業して今はフリーの編集者となっている。
Bさん 子どもから「お母さんは子どもを観ないで学校を見ている」と言われてはっとした。子どもばかりを見ないようにするために「考える会」に参加して距離感が保てるようになった。東京シューレに行かず落ち込んでいたら「僕の親を17年間もやってきたんだから自信持っていいんじゃない」と子どもから言われ、納得した。今は自営店を親子で切り盛りしている。
Cさん 私立学校を受験し、がまんして登校させていた。不登校への対応もわからず苦しい目にあわせてしまった。暴れていたのを見て、近所の人が「考える会」を教えてくれた。子どもが家にいても気にならなくなった頃、息子の笑顔がみられるようになった。看護学校に行き、しっかりと育ってくれた。
Dさん 朝の髪の手入れやトイレが長くなり登校しないようになった。夫婦喧嘩が増えてきたので、私が変わらなければと思い、夫婦一緒に「考える会」に参加するようになった。娘は大学生になっている。
「考える会」の意味について参加者は次のように語っている。
「孤立感が和らぐ」「精神安定の場である」「他の子の話を知ることで自分の子のことが想像できやすくなった」「親が元気になると子どもも元気になる」などが出された。
「行くのが楽しみになった」という感想が言われている。
(登校拒否を考える会代表奥地圭子)
『週刊新社会』(2014/4/1)
◆ 毎月欠かさず集まって30年
◆ 社会の認識は変わってない
不登校について語り合う親の会である「登校拒否を考える会」が30周年を迎え、2月16日に東京都北区の岸町ふれあい館で120名が参加して記念の集いがもたれた。この間、東京シューレ、全国ネットワーク、全国不登校新聞社、フリースクール全国ネットワーク、東京シューレ葛飾中学校、最近では、多様な学びを実現する会などが活動している。
「登校拒否を考える会」(以下、考える会)はそれらと違う側面から、当事者の立場、気持ちを大事にしていく考え方と環境づくりや人びとのつながりをつくってきた市民活動である。「考える会」は、1984年1月から活動を始めたが、ちょうど日本で登校拒否が増加して10年ほどたっていた。
◆ 親がまず受け止める 子どもを理解し共に歩む
その頃は、子どもの首に縄をつけてでも登校させようという対応が多く、戸塚ヨットスクールなどの矯正施設に子どもを送って治そうとする時代であった。
そのことに異を唱え、まず親が子どもを受け止めて理解する、そして子どもとともに歩める存在になるように学び合い、支え合うようにしてきた。
月1回の例会は330回を超え、講演会、シンポジウム、月刊通信の発行、出版、合宿などを積み重ねてきた。
それから30年たち、居場所や相談機関は増えて不登校は一見、市民権を得たようにもみえるが、駆け込んでくる親や社会の認識は30年前と変わらない実情がある。
子どもは元気な不登校と、苦しい状況のままひきこもったり、病気に追い詰められる不登校と二分化している。
◆ 参加するのが楽しみになる
集会では、基調講演を奥地圭子代表が「不登校の子どもの権利はどこまで前進したか」と題して行い、子どもたち自身もたたかってきたが、「まだまだの状況」であることを報告した。
続いて不登校となっていたが、現在は社会人として活動している人で、親の会に親がかかわっていた当事者3人の話を聞くことができた。
その後、シンポジウムに入った。報告者は父親1人、母親3人で「考える会」の初期、中期、後期、現在というように時期的に異なる人たちである。
Aさん 子どもを玄関から放り出し鍵を閉めたことを申し訳なかったという。子どもは病気でも異常でもなく自分を守るための不登校だったことに気付いた。高校、大学を卒業して今はフリーの編集者となっている。
Bさん 子どもから「お母さんは子どもを観ないで学校を見ている」と言われてはっとした。子どもばかりを見ないようにするために「考える会」に参加して距離感が保てるようになった。東京シューレに行かず落ち込んでいたら「僕の親を17年間もやってきたんだから自信持っていいんじゃない」と子どもから言われ、納得した。今は自営店を親子で切り盛りしている。
Cさん 私立学校を受験し、がまんして登校させていた。不登校への対応もわからず苦しい目にあわせてしまった。暴れていたのを見て、近所の人が「考える会」を教えてくれた。子どもが家にいても気にならなくなった頃、息子の笑顔がみられるようになった。看護学校に行き、しっかりと育ってくれた。
Dさん 朝の髪の手入れやトイレが長くなり登校しないようになった。夫婦喧嘩が増えてきたので、私が変わらなければと思い、夫婦一緒に「考える会」に参加するようになった。娘は大学生になっている。
「考える会」の意味について参加者は次のように語っている。
「孤立感が和らぐ」「精神安定の場である」「他の子の話を知ることで自分の子のことが想像できやすくなった」「親が元気になると子どもも元気になる」などが出された。
「行くのが楽しみになった」という感想が言われている。
(登校拒否を考える会代表奥地圭子)
『週刊新社会』(2014/4/1)
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