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あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

夏越大祓 ( なごしのおおはらえ ) の のち

2010-07-01 13:36:44 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
今日から 七月。
昨日は 氏子神社に 夏越大祓に出かけた。実は 神社まで出かけたのはこれが初めて。

いつでも、何があっても、気もちを早く切り替えることができるようになることはとても大事だと思う。

1年の前半戦終了!後半戦の開始。

ワタシは自分の仕事もさることながら、マンマミーヤのサポートをすることに決めた。
彼女は大学進学も視野にいれて動きだすこととなった。もちろん、ころころ星人なので、まともに相手をしていると、こちらの身がもたない。   こんな感じになるので、適当な感じで、常に伴走する姿勢をきっちりと定めること。これがワタシにとっての大きな課題となった。

何でいまさら、ワタシが英語なのよ?とは思うけれど、入学試験についてくるのだから仕方がない。マンマミーヤはこの二年間、英語なるものを全くやっていない。信じられないくらいやっていない。
だから・・・1問やって、” もう ダメだ~ ”の連発だけど・・・。
( あたりまえでしょ?全く勉強しなかったんだから・・・。)

そんなことは問題ではない。心定め、目標をたてたら、諦めず、進むことが重要なのだと思う。その進む一日一日の記憶と経験と想いが大切なのだと思う。

二年間 ゆっくりして本当によかった。
何よりマンマミーヤは、たぬきちにこころを解きほぐしてもらったし、自分自身としっかり向き合うことも教えてもらった。自分自身を考える時間が沢山持てて、人間的にはずい分成長したと思う。

進学するにせよ、しないにせよ、何でも勉強と名のつくものはやっておいて損をするものではない。
>   
本来ならば、勉強なんて自分でやるものだ。
恩師( =上原輝男 先生 )が、昔 このようなことをおっしゃっていました。
”勉強は百科事典が一揃いあれば一人でできる。”

今、ワタシもそのように思う。いくら良い( 良いの意味が問題 )といわれている進学校に通わせようとも、進学塾( →進学率の高い )に通わせようと、そこに本人の、しっかりとした意志がなければ、無駄に終わることが多いのではないかと思う。

そういった意味で、中学受験は、十二分に注意してやらなくてはならない。

中学受験よりももっと重要なことは、親子の人間関係、子供の話を心を傾けて聞こうとする姿勢、親たちの生きる姿勢なのだと思う。

私達夫婦は忙しすぎた。とうちゃんは子供たちとゆっくり話す時間もなかった。仕事のことで精いっぱいだったし、ワタシは病人だった。

仕方ないじゃないかと思う。それが、その時できた、精一杯だったのだから・・・。

今、生きなおしをする。誰だってこころ一つ定めればできないことはないと思う。
 ライフインデキス  たぬきちが教えてくれた言葉が、今、こころに響くんだ。

>写真は、近所の遊園地にある いるかが見える 窓。
係の人がいるかにえさをあげている様子をみることができる。癒される時。

。。。昔、小学校で働いていた時、子供たちのこころが読み取れる”こころの窓 ”が欲しいと切実に願ったことを思いだした。


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若いおかあさんたちに届けたい 想い

2009-11-01 21:22:01 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
児童の言語生態研究会から資料が送られてきた。今年の研究会の合宿は夏の広島で行われた。( 於:広島大学 )

 ワタシが会員だった時にとても憧れていた、大好きなノリ子先生のお話( 上原先生の紹介 )は今の日本の教育界が忘れてしまっている、子供の大切なこころを育てるための素敵なメッセージであると思う。
 < 広島大学での研究発表 上原輝男先生の紹介 > 2009年  8月 2日
                            ノリ子先生・・・

今、「 徹子の部屋 」に出演された時の上原先生の懐かしい映像を見て、また先生の声を聞き、感無量です。
 上原先生は、1968年、今から四十一年前に児童の言語生態研究会を立ち上げられました。ちょうどその年、ワタシは四年間の学びを終えて保育の現場へ入っていこうとする時でした。
 現場に出ていこうとする若い保育者に、上原先生は、きまって厳しく、強く、あたたかくおっしゃった言葉があります。これは皆が覚えている言葉ですが、

「 君たちがしっかり心に刻んでおかなくちゃいけないのは、成長しようとしている子どもは、君たちよりずっとすばらしいってことです。」という言葉です。

子どもの生命が発動するところをしっかり見届けなさい。こどもたちの姿を見守り、子どもたちの声に耳を傾け、人がどう育っていくのか、生命の輝きを見つけなさい。人間の子どもの生きる姿(生態)を見届け、成長する一人ひとりの心のそばにいなさい。と言って私たちを送りだされました。

『 感情教育論 』 の冒頭に、
「 教育は投薬ではない。それは生まれ出た人の子が、人の心を獲得していく過程を保証することである。」
とあります。また「 保育者五戒 」として次のような言葉があります。
一、目の輝きぐあいを見守っているか。
一、心の鼓動を聴こうとしているか。
一、指先を見落としていないか。
一、ことばの音色を聞きつけているか。
一、人なつっこさに応えているか。

 
 私たち児童の言語研究会の仕事は、まさに、成長する子どもの「 目の 心の 指先の 」鼓動を聴き、人なつっこさに応えていく仕事なのです。子どもたちの伴走者として、子どもたちのそばにいて、いっしょに歩み続けることだなあと思っています。
 上原先生は私たち一人ひとりにとっても、私たちの心に共鳴し、感受性を保証してくださる大切な存在でした。
 今日の模擬授業は詩を材料とした授業でしたが、私も子どもの頃、学校の自由研究の時間に沢山の詩を読み、ノートに書き写していました。
 今でも鮮明に覚えている詩があります。きれいな花びんの絵とその横に書かれていた詩の一節、それは、
「 さわらないでください。こわれているのです。」 というフレーズでした。美しい器の痛みを幼いなりに聞き取っていたのでしょう。今でもよく覚えています。

 その時のことを上原先生に話した時、
「 鳥肌が立つ 」とおっしゃいました。私もこの詩を読んだ時、その器の痛みを感じて、子どもながらにも鳥肌が立つ感覚を味わったのです。先生は私の感性を分かってくださる。その時私は、自分の子ども時代を一番深いところで先生に受け止めて頂いたように感じました。

 上原先生は、児言態一人ひとりの会員にとって、私たちの大切な伴走者、私たちの感動に共鳴し、存在を保証してくださる大切な先生でした。先生が亡くなられて十三年が経ちますが、私たちはいまだに
「 子どもたちの生態を見守りなさい。生命を発動させ、成長しようとしている子どもたちの姿は本当にすばらしい。」という先生の声に叱咤激励されているのです。これこそ、私たちの、児童の言語生態の源泉だと思っています。

 上原先生と児言態の仲間に心から感謝しています。

+++++  +++++
 
 ノリ子先生は カラスとお話が出来る先生でした。ワタシは憧れましたが、だからと言って、ワタシはノリ子先生にはなれないのです。逆立ちしたってなれないのです。

 美しい花瓶の絵と、「 さわらないでください。こわれているのです。」というフレーズに痛みを感じることのできる感性。それは、元々ワタシには備わっていないものなのか?備えようにもそれを備えさせる環境に恵まれることがなかったのか?この先、努力によって備わるものなのか?はわかりませんが、
今、ちょこっと、この感性が理解できるような気がしています。

”しかし、これを今のワタシらしく表現するならば・・・

姫( さわりんさんな。ようみんさい。壊れとろうがね。)
そんな感じかもしれません。
人はいろいろいていいのだし、いろいろいるからいいのだと思います。

児言態(=児童言語生態研究会)は、そんな 『 あの子 に この子 』 を みんな みんな 大切に育む。そんな研究会であったし、今もそうであると信じています。

子ども達の何を見て、何を聞きつけ、何を育てていきたいのか?そしてそれは 生の子ども をしっかり見つめるところから始まるのだと思います。そしてそのことは、また同時に 自分自身を見つめ考えることでもあるのだと思います。

まさしく 『 子育ては 親育て 』 であるとしみじみ感じる今日このごろ、
 ワタシは子ども達の良き、伴走者であり、かつまた伴奏者でありたいと、そこを目指して歩きたいと思うようになりました。
訂正・・・
姫の台詞 書き換えました。






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真 の 教育とは? 

2009-02-05 06:05:56 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/irekaegazou/02,09ueharasikisi.htm

「 児童の言語生態研究会 」たぬき先生のHPです。週刊「 学習会だより 」
平成21年 2月 1週目号に飛んでください。
『 上原先生から贈られた 万葉の歌 』 内からの力

この色紙を見たとき、( え~~~~~っ! もらってない。)還暦のお祝いにはちゃんと駆けたのだし・・・。なんでだろう?

ほしい~~~!!いえ、ほしかった。悔しい~~!ホントに悔しい!

しかしながら、よくよく考えてみれば、ワタシはこの色紙以上に、上原先生から、大事なメッセージを頂いていたのだ。しかしながら、それはここには書けない。

たぬき先生と頑張るように!
たぬき先生を遣わした。頑張るように!
そう言って下さっているようにも思える。
  人の子の かなしけしだは濱洲島 
    あゆなむ駒の をしけくもなし   ・・・万葉集

  外(よそ)の娘が 可愛くてならん時には
   足をひきずっている馬が 大事にも思わずに 通うことだ ・・・ 折口信夫 現代語訳

この歌を見たときに。ああ~これは私の娘のことを言っているのだなと思った。

ワタシは、ある時から、教育のことは投げた。もっというなら、人生そのものを投げていた。人生なんて、どうせこんなもんよ。夢なんてなくなったし・・・、夢という言葉はワタシの中ではとっくの昔に死語になっていた。

夢のない親元で、夢を持つ子供が育つわけがない。

娘は、たぬき先生のことを直接にではないが、「 たぬきち 」と呼ぶ。実は教育においては、このことが一番大事なことだとなのだと思う。こころを開くことのできる「師」が子供には必要なんだ。

たぬきちは、病気を抱えている。貧しくもある。生い立ちも決して幸福であったとはいえないかもしれない。みかけはたぬきそっくりだ。見栄えはよくない。

しかしながら・・・「 志 」高き たぬきだ。
リュックの中に、ドラえもんのグッズ( 相手を見て、話の流れで変化する勉強道具、何が出るのか わからない。 )を沢山詰め込んで、我が家にやってくる。

遠路はるばる、水戸から 今時、各駅停車に乗ってやってくる。

娘のためにだ。
「 這ってでも行け!」 恩師は私達弟子にそう言った。
一人 二人 ・・・再び、私は研究会の仲間の先生から力を頂いている。
母親であるワタシが負けてどうする。こころを傾ければ、あの世からの、応援のメッセージは、形を変えていくつも届いているんだ。

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丹波霧は・・・

2008-08-17 05:41:23 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
日々お立ち寄りくださいまして誠にありがとうございました。
丹波霧は本日で終了いたしました。

残りの夏 今年のまとめのようなことが書けたらなあ と思っています。
本日 恩師上原輝男先生がおつくりになった 『 児童の言語生態研究会 』 の、たぬき先生とやす子先生との三者会談にでかけます。

いのちを育てるということは 本当に、本当に、地味で、遅々としていて、それでいて ないがしろにできない正直なもので、手塩にかけなくてはいけなくて、一人ではできなくて、いろいろな方々のお陰によるもので、日々闘いで、・・・際限なく続き・・・

気づけば、大きくなりましたね。とそういう感じなのかもしれない。

ウンチをかたづけ、おしっこを拭き、えさをあげ、水をあげる。毎日が同じようでいて、同じではない。

喜びであり、忍耐であり、どう考えても、自我を捨てるということをしていかなくてはならない作業だと思う。

それが、自分育て ということにもなるのだろうと思うけれど、我をすてるなんていうことはそんなに簡単にできることじゃあないと、いつも思う。

本日 お知恵を頂きにでかけてきます。なかなかね~自分ちの子どもだって、というか、自分ちの子どもだから 難しいんですよ、こ・そ・だ・て。

>写真はピンぼけしているけれど、お気に入りの一枚。
 お題 「 ららちゃん バレエ 」 しっぽが喜びをあらわしているようでかわいい。親ばか。

『 忘れ水物語 』丹波霧は 八月六日 に移動させました。
どうぞ また来年もお越しくださいませ。
 


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恩師 上原輝男先生の命日に・・・

2008-04-11 05:23:24 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
四月十一日は恩師の命日。たぬき先生のブログに飛んだらとってもよい言葉が書いてあったから 書き記しておくこととした。

注)上原輝男先生・・・一応 ご紹介

国文学者 折口信夫の弟子、ウルトラマンの生みのおじいちゃんみたいな方、剣道6段、若き日の被爆体験から・・・子供の いのち の教育をずっと生涯祈り続けた方、私とたぬき先生( ブックマーク一番上 )はその弟子。( 私の場合、番外編だけど・・・)
「教育は投薬ではない。
それは生まれ出た人の子が、人の心を
獲得していく過程を保証することである。」


この日 衝撃的な事件勃発。まあ 一応こういう記録にとどめよう。私たち家族は緊急に4人そろって家族会議をひらいた。

で、決定した。

マンマミーヤは ただ今の学校をやめる。

これまで まあ だまし だまし通ってきたけれど、やっぱり どう考えてもおかしい、と感じることばかりだ。

何のために私は恩師の元で学ばせていただいたのかということにおおいなる疑問をいだかざるをえなくなった。というより・・・いつも、節目節目(ちょっとずれている感じがするけれど・・)に子供が教えてくれるんだ。

何が大切なのか?・・・って。
” 子供の目を見なさい、声を聞きなさい ”


とも お習いした。

子供のこころに添った歩みをしなければいずれ近いうちに崩壊していくことだろう。世の中が狂っているんだ、自分の子供は自分( &自分たち )が守らなくてはならないだろう。

これからの時間 (十代後半)が人間形成にとっても大切なときだ。私はとうちゃんが嫌いな占いの知恵も使った。だがそれよりも子供の声をきくことをしたんだ。

もちろんすぐ突っ走る悪い性癖のある私だけれど、そこはとうちゃんがまあうまくコントロールしてくれるだろう。

まだ 実際には動きだそうとしているところだから何ともいえないのだけれど・・・この先おそらく考えを改めることはないと思う。

マンマミーヤの学校にはとても感謝をしている。けれど、私には未練はない。
中学受験で合格を勝ち取り狂喜乱舞したあの日は、やはり狂気だったのかも知れない。
注)うちの子供に合わなかっただけ。学校選びは慎重にしよう!

どのみち ひとつの道しか選べないのだ。

拙くとも、ゆっくりであろうとも、自分の足で、歩いていかなくてはそれは自分の人生ではなくなるんだ。いつもいつもこころに問いながら歩くべきだ。
親は子供のゆったりとしたサポーターでなくてはならないと思う。

この記事は 11日に移動します。

>写真は恩師のために、高野山に植えさせていただいた さくら
まだ 小さな つぼみ。

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卒業 おめでとう!そして ありがとう!

2008-03-20 06:38:32 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
マンマミーヤが中学校を卒業した。
この3年間は長いようで短いようで・・・。いや~やっぱり長かったかな?

大袈裟にいうと一日一日が闘いだった。ほぼ一年前 私達母子はおうちを出て二人暮らしをはじめたからね。あの時、二人とも、肉体的にも精神的にも限界点がきていたと思うんだ。

家庭がうまくまわらなくなってから はた?と気づくのよね。(遅すぎなんだけど)

そういえば恩師の上原先生が言ってたっけ・・・?

子どもがその学校に出かけてまあ平均以上のところくらいに位置できる(学力的に)のがよろしいのではないかと・・・。(→もっと大切な教えがあるけれど)そういったアドバイスは自分達が、どつぼにはまってからふと思いだすのよね。(そんなもん、そんなもん)

占いの知恵だってそういえば・・・?でしたね。って感じ。占いではそうだけど、だって本人の希望だってあるじゃん、何て思ってたし・・・。

中学受験のとき、私達夫婦はそれでもそれなりに学校訪問をしマンマミーヤにふさわしいとおぼしき学校に、本人の希望もきき、選択し、合格をいただき、通わせた。

見ていたはずのものが見えてなくて 聞こえていたはずのことが聞こえてなくて・・・。

「ちょっと前まで、ピンポンダッシュをしていた学校ですよ。」なんて塾の先生が言うものだから (おもしろそうじゃん。)って思ったりもしたけれど・・・。

とうちゃんだって 「子供達が靴下その辺に脱ぎ散らかして トンカチ トンカチ 学園祭の道具作ってたぞ~。」って言っていたし・・・。

二人(夫婦)の中では 楽しそうな学校というイメージだったけれど・・・認識が全く逆だった。スパルタで勉強をさせる学校だったんだ。

知らなかった。入学式の日 たまたまお友達になった4人のおかあさま方に聞いてびっくりだった。ここはお勉強をさせるので有名な学校なんだそうな・・・。(うそぉ~)

しかし 何もこの学校に限ったことではない。どこの私立の学校もいまどきはそんなものらしい。そこここにもっとすごいのがあるらしい。

>>> 式 >>>

規律正しく、卒業証書を頭の上に押し頂いて、頭の上から下ろさないで持ち帰る、というか壇上から下がる。いまどきこんな学校は滅多にないよな。

こういうところ、古い人間のわたしは決して嫌いじゃあない。むしろ好きなんだ。だけど人間の価値が唯一勉強(大学進学の受験勉強)にあり!みたいな感覚がどうしてもだめなんだ。受け付けない。

もちろん学生(生徒)の本分は勉強だと思うけれど、それ以上に大切なものは人間教育なんだと思う。

マンマミーヤが好きだと思う臨採の先生達はみな1年で辞めていったらしい。授業の説明がよくわかり授業外でも熱心に教えてくださったある先生は、自ら辞めたのか、やめさせられたのか、契約だからなのかはわからないけれど去っていったらしい。(カム、バ~~ック)

何でこういう先生がいなくなるのかはわからないんだけれど・・・(仕方なかんべな、去るものは追わず。)

とうちゃんとも話したんだ、今時の学校は予備校であると。こころの方はむしろ個人塾にて整える。それ以上に家庭が大切だと。やっぱりね、こころの教育は家庭よね。家庭。

高校から私達夫婦は マンマミーヤの学習に参加することとした。
マンマミーヤ大丈夫だ!とうちゃんがついている!かあちゃんもついている。(お茶だす係り?)

兎にも角にも中学校の卒業証書を手にできたことは大きな喜びだ。助けてくださったお友達、お母さん達ありがとう! 先生達にもやっぱり それなり ありがとう!
一日 一日 高校卒業目指してみなで頑張ります。

折りしも恩師のおつくりになった児童の言語生態の研究会から 恩師の十三回忌の御知らせが届いた。ご子息にも研究会の方々にも会わす顔がないのだけれど・・・それでもでかけようかな?と思っている。いつの日にか高野山に植えた桜を何とか持ち帰りたい。そんなことができるのかはわからないんだけれど・・・。(挿し木ってできるんですか?)

たぬきせんせ~~い。いまや 学校の時代じゃあないと思いま~~す!いつの日か
和修塾 お山の中に作りましょう~~。今時は 寺子屋で~~す!
田舎の方には ただで貸してくれるおうちあるらしいです。(よくしらないけど)

 水 清く 澄みて 
 こころやすらかに
 こころさだまりて

 とこしえの いのち かがやける 学びや
 

いいのよ 夢くらい語らなくっちゃやってらんないんだから。(ふん!だ。)

>写真は恩師の為に高野山に植えたさくら。運よく植えなおしていただいたので 陽のあたる場所、公園のところに移動していただいた。そうでなくてはおそらく枯れていたのではないかと思われる。

525本の桜は、高野山の役所の方々が、お忙しい自分の時間をさいて(自腹もききっているのかな?)守ってくださっている。

いつか かならず会いにいくんだ。満開のさくら。


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物語 終了  ( 恩師上原輝男先生との思い出 )

2007-09-01 11:49:15 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
恩師がお亡くなりになって早十年(11?)昔 細々細腕繁盛記みたいだと先生が言っていらしたけれど、リーダー(=恩師)亡きあとも児童の言語生態研究会の生き残り組は師の「志」をついでこどもたちの い・の・ち を守りたい!と、ただ今も闇の教育界の中で闘っている。

私は 結婚してからもこの研究会の中で何とか生づいていたいと思ったけれど、諸事情がそれを許さなかったし、何より自分にはいろいろな意味で才能がなかった。

恥ずかしながら・・・
小学校の先生をしながら研究会に出かけていた頃のお話をさせていただきたい。

その頃の私は大学で全く学問をしていなかったので、この研究会で話されている内容がさっぱり理解できなかった。

学生時代は「単位とりゃあいいんだろ!」みたいな不遜な態度で暮らしていたから本当に学問は一切しなかった。大学時代の四年間(二年間)お世話になった別の恩師は、自ら学ぶものは指導するが、しないものは放っていく、そういうタイプの女性の先生だったから、その辺りは徹底していた。だけど今思うと、私はこの先生にも愛されていたと思う。( 卒業できたのは 実は奇跡に近いことだった。)

偏差値教育の一番の弊害はこの辺りにあるのではないかと思う。切り取った知識の詰め込み。良い点数。大学合格 もしくは大学ご卒業 → 立派 OK!そういった図式。

話を元にもどそう。例え私が大学で学問をしていたとしても、この研究会の考えていることは恐らくわからなかったのではないかと思う。まずもって発想が全く違うんだ。

「 子供に教えてはいけない。」というんだから・・。

研究会に集う先生方はその殆どが、大学時代から恩師の元で学んだ人たちだったから、水があいていて当然、わからなくて当然なんだ。この研究会では古株も新参者も同じ土俵に立つ。( ここで訊く、宇宙人の会話)

働き始めて何年目だろう?多分4年目の夏合宿、真ん中に「軍人の星」(=プライドの星)を持つ私のプライドをずたずたにされる出来事がおこった。

当時 ひっくり返っていたクラス(=今でいう学級崩壊にちかいかもしれないが、 ただ今のわけわからん学級崩壊とは全くといっていいほど質は違う。子供たちはもっともっとまともだった。)を立て直すために何とか良い授業をしたいと考えていた私は、教材を持ってその年の夏合宿に臨んだ。

何の教材を持っていったか忘れてしまったが、その時の恩師のコメントはいまも忘れられないほど強烈なものだった。(・・・こんな感じ)


上「 前々から 君に何かを言ってあげたいと思っていたが・・・

 君の学ぶ姿勢は,中学生のそれと同じである。君はもらってばかりだ。そりゃあ児言態の先生方は親切だからいろいろと教えてくれるだろうけれど・・・。

 ・・・私はこれこれ こう考えました。だけど、ここでどうしてもわからなくなりましたからどうぞ皆さんお知恵を貸してください。というのならわかる。

 云々・・・

正直言って当時、何で怒られているのかが全くわからなかった。みなさんと同じように教材を用意して、みなさんと同じようになぜその教材を持参したのかを伝える。同じことをしたまでだ。

だけど今頃になってやっと気づいた。そこに自分がいなかったのだということに。苦しんで苦しんで闘う自分がそこにいなかったんだってことに。

学問の分野でいうと哲学になるのだろうか?よくわからないけれど、自分がどこに向かって生きていくのか、生きていきたいのか?そこが問題なのだと思う。
この研究会では、教材を使って、子供たちとともに、「自分」を考えていくんだ。

私はあまりの悔しさに研究会の皆さんの中で泣いた。皆さんと同じように一生懸命やっているのに・・・。それまでの私は人前で泣いたことなどなかった。自慢にも何にもならないけれど 小学校~大学にいたるまで私は卒業式で泣いたことがない。軍人の家庭で育つということはそういうことなのかも知れない。人前では自己の感情は押し殺して生きていたのだと思う。

自分自身を表現することは許されることではなかった。父に気に入られる自分自身になるのにはどうしたらいいのだろうか?母が父に「お前の教育が悪い。」とおこられないようにするためにはどうしたらいいのだろうか?

そんなことを考えつつ、他方自分が自分自身であるためにはどうしたらいいのだろうか?その間の葛藤の中で私は生きてきた。

上原先生に叱られて 私は一つの「こだわり」から脱出できたと思う。それまでの私は中身がピーマンであることをどこかひたかくしにして生きていたんだ。化けの皮がはがれた時に、剥がされたときに、新たな一歩が始まったのだと思う。

私はこの時の恩師の指導をただ今も本当に感謝の気持ちで受け取っている。本当に楽になったんだ、自分自身が。

教育というのは 知識を与えることではなくて、子どもの「こだわり」、つまずいている場所を発見してそれを正してやることなのだと思う。

その時に、自分というものを表現しなければ(してくれなければ)対話はなりたたないし、教育もなりたたない。そしてそれは普段の姿 形を見なくては見誤るのだ。

この時の、たった一つの教えを与えるのに上原先生は実に、じっと五年間に渡って私を観察し、そして矢を放ったんだ。

やっぱり 本物の先生だったなあ と今も思う。
 
原爆にあって 「 いのちをいただいている。」ということがどういうことなのかを知っていた先生だったから このような指導ができたのだと思う。

私たち研究会の先生方にいつもおっしゃっていたことは・・・
「私心を 捨てろ!」
ということだった。

まさに先生ご自身もそのような生き方をなさったし、研究会の生き残りの先生方もそうやって生きてこられたのだと思う。

 今 思う。

 細々と( 実際には太いんですけどね)細腕繁盛記のようでいいから 
 
 師のあとをついて 生き、行きたい。

>> 毎日 アクセスしてくださったあなた様へ

   本当に  ありがとう! 

   恩師のご著書 「 忘れ水 物語 」は 近々 2007、8、6日 に移動します。( 総集編 )

>写真は以前のもの。 マンション近くの アメリカン・ディエゴ 剪定されて花開けなかったつぼみ。 葉の裏にせみのぬけがら。
 
   お題 「 行く 夏  ありがとう! い の ち 」 



  


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出会い  上原 先生の 思い出・・・( 広島 原爆  62年 )

2007-07-31 08:00:31 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
上原先生に出会ったのは かれこれ・・・30年位前に遡ります。

玉川大学の通信教育のスクーリングで、小学校教員養成課程の「国語科教育法」という教科を教えていただきました。

スクーリングというのは 普段は自宅で自分でテキストを使って勉強ををするのですが、夏の間 大学の学生さんたちが夏休みになるのを待って、およそ2週間の間大学に集って学ぶのです。

ここいちょう村(=仮名)でも ただいまこのスクーリングが行われているようです。

さて 当時の上原先生の第一印象ですが、
姫(やな野郎来たぜ)でした。
なぜやな野郎だったのか?じぶんでも未だにわからないのです。ただこの当時わたしは 自分自身が相当ひねくれた野郎だったように記憶しています。(ただ今もそうである。という声も聞こえてきそうではありますけれど・・・。)

しかし 先生がおもむろに開いた箱の中から出てきたものを見て私の目はそのものにくぎづけになってしまいました。

そのものとは 原爆で被爆した先生ご自身の学生服でした。

黒い学生服でしたから 光を吸収しその痛み具合いは相当なものであったとは思いますが、そのことより 光が直進するんだということを物語るかのように片側だけぼろぼろに焼け焦げていたように記憶しています。また そのような説明があったようにも記憶しています。

私の父は軍人だったし、私はヒロシマ県の出身(正確には山口県)なので この時から先生のことをずい分身近に感じるようになりました。そしていそいそと先生の授業に参加したのです。

何を学んだのか?殆ど記憶にはないのですが・・・

こういう言葉を教えていただきました。
「 不易流行 」
ただいま この言葉を辞書で調べてみてもよくわからないのですけれど、
このときに自分が教えていただいたように思うのは・・・

「時代が流れいき 変わっていっても、変わらない不変のものがあるんだ。」そんな風に自分の中では解釈していました。

そして、その「変わらないものって一体何なんだろう?」そんなことを考えながら生きてきたようにも思います。

大学の学生さんや研究会の会員には相当手厳しい先生でしたが、スクーリングにおける先生は「やさしい」という言葉がぴったりする感じの先生であったように思います。

スクーリングの講義の最後にはテストを受け、そのテストに合格しなければ単位はもらえないのですが、先生の講義もテスト内容も何だかわけわからんものだったように記憶しています。

でも驚いたことは、先生のテストを受けるときの説明でした。

何問か用意された質問がどうしてもわからないものは 
「なぜ自分が小学校の先生になりたいのかを書きなさい。」
先生はそういう救いの道を用意して下さっていました。

小学校の先生を目指すものがみな学問なり学業なりができる人であるとは限らないからだと思います。

「 子供のこころ 」 を 育てるのに必要な資質はそれだけではないとお考えだったのではないかと思います。

子供たちが いろいろであるのだから 先生だっていろいろでいいのだ。と思います。

何より 多分皆様がお考えになっていることと一番違っていると思われることは、

「 子供に教えてはならない。」 ということでした。

小学校の先生の仕事は 子供にものを教えることだと勘違いしている人が多い中、まず子供を知ることから始めようとしていました。

30年近くたって さまざまな経験をしてやっと恩師が言っていた意味がわかるような気がしています。

子供が自分に教えてくれているんだと思います。

子供の中に自分を発見したり、自分にはないものを発見したりして、 

「 いきる 」ということはどういうことなのか?そのことを毎日の生活の中で考えていかなくてはならないのだろうと思います。

>記事を八月から移行しました。



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