最終章だけど、、、

日記や趣味を書く

文部省唱歌『冬景色(ふゆげしき)』

2022-04-09 03:10:45 | 日記
さ霧消ゆる湊江の 舟に白し朝の霜
『冬景色(ふゆげしき)』は、1913年(大正2年)刊行の「尋常小学唱歌」第五学年用』に掲載された文部省唱歌。

歌詞の季節は冬の初め頃、1番は水辺の朝、2番は田園の昼、3番は里の夕方が描写されている。2007年(平成19年)に「日本の歌百選」に選ばれた。

さ霧消ゆる 湊江(みなとえ)の
舟に白し 朝の霜
ただ水鳥の 声はして
いまだ覚めず 岸の家

烏(からす)啼(な)きて 木に高く
人は畑(はた)に 麦を踏む
げに小春日(こはるび)の のどけしや
かへり咲(ざき)の 花も見ゆ

嵐吹きて 雲は落ち
時雨(しぐれ)降りて 日は暮れぬ
若(も)し灯火(ともしび)の 漏れ来(こ)ずば
それと分かじ 野辺(のべ)の里

一番の歌詞の意味
「さ霧」とは、霧のこと。秋の季語。狭霧とも書く。「さ」は語調を整えるための接頭辞。「さ霧消ゆる」で秋の終わりを意味している。

「湊江(みなとえ)」とは、港になっている入江のこと。

二番の歌詞の意味
「麦を踏む」とは、秋播きの麦が発芽した後に足で踏みつける「麦踏み(むぎふみ)」のこと。
芽を踏むことで茎の伸び過ぎを防ぎ、根の張りをよくして、より多くの実がつくようになる。11月~2月に毎月一回程度行う。

「げに」とは、「本当に、いかにも」。

「小春日(こはるび)」とは、晩秋から初冬にかけての、暖かく穏やかな晴れの日。冬の季語。小春日和(こはるびより)。現代の暦では11月頃になる(陰暦10月)。

「のどけし」とは、天候が穏やかでのどかな様子。

「かへり咲(ざき)」は、ツツジやサクラ、ウメなどの春の花が小春日和に誘われて時季外れに咲くこと。冬の季語。「返り咲き」、「二度咲き」、「帰り花」などと呼ばれる。

「花も見ゆ」の「見ゆ」は、「見える」の文語形(終止形)。

三番の歌詞の意味
「雲は落ち」は、雲が低く垂れ込めること。

「時雨(しぐれ)」は、秋の末から冬の初めごろに、降ったりやんだりする小雨。

最後の2行の意味
日暮れと悪天候で真っ暗になってしまったため、里の集落もほとんど見えずn、もし家の明かりが漏れ見えていなければ、そこが集落だとは分からなかっただろう(「それと分かじ」)という意味。

昔の少年少女は、かくも難しく、かつ美しい日本語の歌詞を声高らかに歌ったのでしょう!
菜の花畑に入日薄れ、の『朧月夜』や、
園の小百合、撫子(なでしこ)、垣根の千草。
今日は汝(なれ)をながむる最終(おわり)の日なり。
おもえば涙、膝(ひざ)をひたす、さらば故郷(ふるさと)。の歌詞の「故郷を離るる歌」を
亡き母はいつも歌っていました。
私の息子の誕生日は今日です。毎年妙に早く眼が覚めるのは、早朝、3重にもへその緒を首にまきつけて仮死状態で生まれた吾子の記憶がどこか身体に残っているから?
さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。
と、陣痛室で声もなく耐えていた私に何度も母が歌ってくれました。
その母とこの世の別れをしてから20年になります。
私の長兄に頼まれて、ムスコは、母の四十九日の納骨の際に、母の好きだった「狩人の合唱」と「上を向いて歩こう」とをサックスで演奏してくれました。
昨夜、ふと思い出して「狩人の合唱」のヴァイオリン編曲のを弾いてみました。
アラフォーとなったむすこの誕生日に吾子を抱いた感触をリアルに思い出し、母のそのときの必死の励ましも同時によみがえらせた私です。

さて、私が小学生のときに、一番好きだった曲は、
「小鹿のバンビ」でした。モカ色のセーターにおそろいのベレー帽、焦げ茶色のジャンパースカートをはいて、学校の講堂の舞台にひとり、独唱を歌ったのが三拍子のこの曲、屈託なく育った少女時代の象徴的ひとこまになります。

私は未熟な母でしたが、ムスコは、何とかいまのところ、まっとうに生きてくれている、と嬉しく齢を重ねる今日の日が有難くてなりません。
あの日も満開の桜の下を母はこぼれる笑顔で病院と家とを往復してくれました。
またいつか母と会う時があったら、その日までは、何とか元気で、たった一人しかこの世に残せなかった吾子の背中をずっと見守りたいと思います。

 
ムスコがはじめて手にした八分の一のバイオリンを置いている椅子の横にささやかなアレンジメントを飾りました。

ムスコと共に落ちていたツバキの実を埋めましたら、それから30年、こんなに立派な花が。

その椿の木です。
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近況、といっても格別ごほうこくするまでもない

2022-04-09 00:23:19 | 日記
淡々と過行く日々です。
日ごろ、閑古鳥のなき声には、事欠かない当ブログに律儀にコメントを残してくださる大切なブログのお友達は、そうです。その数は少ない上に、こんなしょうもないブログのために、貴重な時間を割いてくださる心優しき奇特な面々でいらっしゃいます。
本日、その中のお一人が、藤子不二雄A氏の訃報に寄せて、哀弔のブログをアップされていました。ご本人の許可なくここに張り付けておきますが、こちらになります。
https://ameblo.jp/slimerider/entry-12736199238.html

いただくコメントに比べると何とも誠実さに欠ける雑な感想に対してこのブログ主さんは、
コメントを私のこのブログに貼り付けちゃいましょう、とご提案くださいました。
早速実行しようとしている私を笑ってご覧くださいませ。

藤子不二雄A氏の突然の訃報に、少なからず驚き、ひたひた迫りくる無常を覚えています。
以前にも申し上げたように記憶しますが、藤子不二雄さんセット(と申し上げてしまいますが)は、どちらも当地にゆかりのあるお方です。
A先生は、当市に北の方で隣接するH市出身ですが、小学生の時にお父上を亡くされて当市に移り住まわれました。トキワ荘に転居されるまでは、ずっと当市で子供時代を含めて漫画制作にいそしむ毎日だったとか。その時のお住まいは、拙宅に月二回月忌参りに来てくださるお寺様の離れだったということを、ご住職さまから聞いています。
A先生の母校は、私、家人、ムスコ、私や家人の兄弟など一族郎党の出身校です。旧制中学は男子校ですが、戦後は共学校です。
F先生の母校は、かつて(私の時代も)A先生の母校の隣にあり、きっと、高校生の両氏は、下校なども一緒に漫画談義をしながら、だったのでしょう。私が体力に自信があるときに通る城址公園を通り抜けながら。
今回はA先生の訃報に伴って、ですが、そういえば、この数年間奉職した高校は、F先生の母校でした。玄関にどらえもんが立って出迎えてくれました。
H市内のあちこちにA先生ロード(水木しげるさんの境港市のように)や、ハットリくんからくり時計などあるそうです。それに比べると当市の扱いはあんまり手厚くないですね。F先生が亡くなられてから日にちも経っているとはいえ、観光の対象としても精彩に欠いているのは、市の文化意識の低さの故です。

自分のブログでもこの話題をいま一度書き置きたいところですが、このところ、なかなか筆が進まず、実行は難しい。
ので、長々とこちらでお話しさせていただきました。

庭に繁茂するフッキソウ(富貴草)

言わずと知れた菫があちこちに。

かたかごのはな。

どうして突然下手な花の画像を取り入れたかと言いますと、最近物忘れがひどくて、最近では、かの巨匠小澤征爾氏の名前を失念して10分後くらいに出てきた始末。
花の名前などまず、出てこないだろう、と試しに撮ってみたら、するりと出てきました。
お隣のご夫人が、久しぶりに(今年になって初めてくらい?)会ったら、物忘れの病気で、今日とか昨日のこと、さっき食べたものなど近々の過去をあっさり忘れ、かつてのことは覚えているという症状だとおっしゃいました。
私の場合もそんな気がする。。。
認知症や健忘症の予防、というより、進行を遅らせる手立てとしてやはり、ここは、ブログへの期待をしていいのかもしれません。

書くことは考えること、と、小林秀雄さんが書いていらした、かな?怪しい限りです。なるべく面倒がらずに、ここを開くようにしたいとあらためて思う春の夜のとばり。。。
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