Kさんは「バレエダンサー」を描いていますが、その画像は目の前のモデルから感じ取られるものではなく、どこか自分の大事にしている内面を表現しているように見えます。
例えば、この「赤いダンサー」ですが、静止したダンサーの表情を「色と線」により自分の受けた印象を高めようとしているように思えます。
「赤と緑の対比」と、「流れるような曲線」のよって、モデルから受けた印象を自己のものにしている作品になっています。
「浮世絵」や「日本画」に通じたものが感じられ、肩のこらない作品としてみることができます。
また、背景から描いたこの作品からは、若いダンサーの「決意」と「思い」のようなものが感じられ、さらに「人の尊厳」さえも感じ取ることができる作品に昇華されています。
それは単に「モデルを描く」という行為から抜け出て、自分の求めるものを追及している姿が見えてくるようです。
Sさんの作品は、とてもあたたかく人の持つ「善の世界」しか表現していないようにも見えます。
満ち足りたモデルの表情から、作者の心のあり方が見えてくるようで、思わず「仏像」の世界を思い出してしまいます。
「裸婦」を描いても、そこに見えるのは「平穏な眠り」に落ちた誰もが感じ取ることのできる「やすらぎ」の世界を現しています。
見えるとおりに描くのではなく、自分の感じた世界や思いのようなものが自然と絵画に出てきて、それが作者自身の持ち味になっています。
もう一人のNさんが「フルート奏者」を描いていますが、そこに見えてくるのはモデルの心境のようなものが感じ取られます、
何枚も描いていくうちに、形だけでなくモデルの内面までも描けるようになったデッサンではないかと思います。
このように「見て描く」ことは、忠実にモデルを描写することではなく、「自分の思い」や「自分の哲学」また「モデルから感じ取れるものの伝達」というようにとても幅広いものになります。
単にそこに「人物画」が描かれているのではなく、その背後にある作者の思いや人間性までが出てきます。
そうしたことを感じ取りながら、絵を見ていくとさらに「絵の魅力」は増していくのではないかと思っています。