「印象派」の画家の中で「ドガ」は特異の存在に見えてなりません。
それは、「人物画」を描いているにしても、そこに必ず「動き」を伴う題材を選んでいるところではないでしょうか。
「ルノワール」にしても「人物画」を描いていますが、「静止」した状態での絵画で、そこには内面的で個人的なとらえ方ができる作品になっています。
しかし、「ドガ」に関して考察すると、「踊り子の動きと存在」を通して、「踊り子」の持つ社会的な面を表現しているように見えます。
「踊り子の存在」という視点から見ると、「踊り子」が舞う舞台での華やかな印象とは違い、その裏には「厳しい毎日の稽古」が待ってていることがあげられます。
一見自由に見える「踊り子」も厳しい指導者の下で、毎日の修行に明け暮れていることがわかります。
また、「ドガ」は「踊り子」の後ろには、必ず「パトロン」という存在があり、その「パトロン」を通じて「踊り子」たちの存在が成立している様子を描いています。
「社会」というものは相反するもので成り立つことを言いたかったのかもしれません。
そうした「踊り子」を使って、「ドガ」特有の構図が彼の絵から見られ、とてもおもしろいものが発見できます。
それは「構図」にしても、どこか必ず「動き」のあるものになっていることではないでしょうか。
対角線上の構図になっているこの絵も、左半分は「踊り子」を描き、下半分は「演奏者」というものになっています。
「斜めの線」を上手に使った「ドガ」は、常に見る人への効果を考えていたのではないでしょうか。
この絵にしても、「踊り子」がまちまちの「ポーズ」をとり、全体的に「動き」を感じることができ、生き生きとした表現になっています。
この絵をはじめ、「ドガ」は、その当時発明された「写真」を使っているのもおもしろい現象です。
「動き」というものを徹底的に追求した「ドガ」はこうした「裸婦」までも、動きのあるものにしています。
「ドガ」は「パステル画」をたくさん描いており、この絵も「パステル」で描いています。
こうした一瞬の動きはもちろん「写真」というものを生かした作品ですが、それは後のことでありはじめからそうした手法を持ちいていません。
「ドガ」は毎日のように「オペラ座」に通い、「踊り子」の動きを研究し、「馬」の動きも研究しています。
「ドガ」にとって「動き」とは、一生をかけた大きなテーマであり、常に「好奇心」を満たすものであったことがよくわかります。
誰でも大きな一本のテーマがあり、そこから「派生的」に広がる題材選びができる、そうしたものが見つかると「絵画制作」はとても充実したものになると思います。
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