「メトロポリタン美術館」にある「ゴッホ」の展示場は熱気があふれていました。
それは何度も言いますが、決まった「スタイル」にこだわらず、自分の「美」を追求している姿が、作品から発散しているからではないでしょうか。
会場で食い入りように見ている人達の姿を見ていると、「美」というものは世界中でどこでも同じように受け止められ同じように伝わることがよく理解できます。
この作品もはじめて見ましたが、とても身近な題材でどこにでもある「靴」を描いているのですが、そこに作者の思いが入るとそれは違ったものとして生き返ります。
この「靴」も「ゴッホ」にとってとても「思いいれ」のあるものと思われますが、それが「靴」の周りに揺らめく線のようなものから理解できます。
「心の動き」を表しているかのようなこうした表現は、意図的に描いたものではなく自然にこうしたものになったのではないかと考えられます。
「花」という題材もたくさん描いているのが、今回よくわかりましたが、美しく描こうとする姿勢ではなく、私には「命の宿るもの」としてとらえているように見えました。
この絵を見て「美しい」という印象よりは、「生き生きとしている」ことのほうが最初に目に入り、躍動感のようなものが伝わってきます。
「ゴッホ」はある意味では、表面的な「美」ではなく、「存在するもの」が持つ「命」のようなものを感じ、そこに自分の思いを吹き込んで、新たな作品として絵を描いているように思われて仕方ありません。
なんでもない「裏庭」にあるこうした「植物や木」からも、「生命感」を感じることはできないでしょうか。
「木の枝」を見てください、空に向かって弾むようにのびていくこうした木々の枝から私は「生きる喜び」のようなものを感じてしまいます。
「ゴッホ」自身が「生きる」ことへの執念として、こうした絵画制作を続けたことに疑いをはさむ余地はありません。
この作品もはじめて見たものですが、同じように木々の持つ「生命感」が感じられ、そこには「命」と「命」のぶつかり合いや、「ぬくもり」のようなものが感じられます。
「ルーラン夫人とゆりかごを揺らす女」というこの作品は、よく見るものですが同じ作品を「ゴッホ」は5点描いたといわれています。
母親のような存在であった「ルーラン夫人」に対して、「ゴッホ」は「花」を使っています。
「あたたかく見守ってくれる存在」が夫人であり、「花」であったことがよくわかります。
「ゴッホ」は気に入った題材を何回も続けて描いた画家でもあります。この「ルーラン夫人」もそうですが、あまりにも有名な題材は「ひまわり」や「糸杉」「麦畑」といったものですが、ご存知のように「ひまわり」の1点が東京の「損保ジャパン東郷青児美術館」にあります。
気に入ったものを徹底的に描くこうした姿勢から、何か違うものが見えてきてのかも知れませんし、そこに存在するものを再確認しながら描いたのかも知れません。
それにしても「ゴッホ」の魅力は、語りつくせないものがあることは確かです。「絵の力」がこれほど人に与えるものが大きいとは「ゴッホ」の作品に会うまではわかりませんでした。
「出会いが人を変える」とよく言いますが、本当にそれを実感できる作品群ではないでしょうか。
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