「ピカソ」ほど世界中に名前がしられており、その絵の良さが一部の愛好家だけに理解されていて、一般の人には受け入れなれないものがおおくある画家もいないのではないでしょうか。
どうしてこれほど「ピカソ」の名前は前面に出るのに、その絵の価値が伝わってこないのでしょうか。
それを説明するには、1時間や2時間では説明できるものではありません。
今日は「ピカソ」の個人的な変遷とその中での「破壊」と呼んでもいい箇所をめぐりながら、説明したいと思います。
「ピカソ」は既に14歳の時、「スペイン」の画壇に登場し、「銀賞」という名誉ある賞を勝ち取っています。この時、「ピカソの父」も「美術教師」のかたわら、絵を描いていましたが、「息子」の絵を見て「筆をおった」というぐらい有名な話があります。
そこで、父を通じた最初の「破壊」が始まりますが、その後いろいろな場面でそうした「破壊的行為」が各所に見られ、それがやがて新たな価値観を生む原動力になっています。
この画像は、20歳ごろの作品で、親友「カサヘマス」の自殺により、彼の画風が180度」変わり、とても暗いものとして絵の中に現れえるようになります。
いわゆる「青の時代」と呼ばれるもので、親友の死によって大きな変化がある原点のような時代だと思います。
しかし、その後「フェルナンド・オリヴェ」という女性に出会うことにより、彼の心が明るくなりやがて「ばらの時代」と呼ばれる作品がつづきます。
この作品は、25歳ごろの作品で「ガートルード・スタイン」というアメリカ人の美術愛好家を描いたものですが、ピカソの周りにはこの頃からいろいろなジャンルの人々が集まるようになります。
やがて、「ピカソ」は「アフリカ」の「原始美術」に関心を持ち始め、特に「原住民が使うマスク」にとても興味を持つようになります。
それまでの「女性」が持つ美しさを大きく「破壊」するような行為に出ていますが、一体どうしてこのような絵を描いてしまったのでしょうか。
それは、彼の目から見ると「アフリカの原住民の使うマスク」にとてつもない「エネルギー」のようなものを感じたからにほかなりません。
この当時の「ピカソ」にとっては「芸術」とは「「エネルギー」のような存在になっていたものと思われます。
そうした考えは後にいろいろな画家に大きな変化を与え、特に日本では「岡本太郎」の存在があげれれます。
「岡本太郎」は実は「ピカソ」の真似をしたに過ぎないといっても過言ではありません。
そのぐらい強烈な印象を与える「アヴィニオンの娘たち」というのは、「ニューヨーク」の「MOMA美術館」で見ることができます。
この後、「ピカソ」は変人扱いをされるようになりますが、この作品をきっかけに彼の絵の見方が変わったのも確かです。
その後、「オルガ」という女性と結婚するのですが、その結婚を機に「ピカソ」の絵はとても安定したふくよかな絵が続くことになります。
「心の安定」が作り出すその画風から、「ピカソ」の「ものの見方の素直さ」がとてもよく理解できるものがあります。
「ピカソ」は「芸術」に対してとても「素直」で、人々からの反感等は全く気にしていないところがあります。
その「素直さ」ゆえにあの膨大な作品と、その描き方の違いを生み出したのかもしれません。
1930年ごろの作品ですが、この頃から「ピカソ」の絵は一段とわかりづらいものになります。
この絵の「顔の部分」を見てください。「顔」の左部分と右部分が違う視点で描いているのがわかると思います。
これは「キュービニズム」と呼ばれる描き方で、今までの既成概念を打ち壊す新たな「破壊」行為に出たものです。
「セザンヌ」がいろいろな視点で静物画を描いていましたが、それが「ピカソ」により完成され、この頃からの絵は当分の間理解できないものになります。
その後「ゲルニカ」という大作を発表刷るようになりますが、その作品は今回取材していません。
その「ゲルニカ」は現在、「スペイン」にあり、その作品を見に行こうとそれだけで旅行する人も増えたぐらいです。
いろいろな女性の遍歴を持つ「ピカソ」は、1920年代ごろ「マリー・テレーズ」という19歳の若い女性と仲がよくなります
その女性を描いたこの絵から、彼の「直感的ひらめき」の鋭さが見られます。「ピカソ」は人物を見た時、その人の性格まで描いたといわれるぐらい、人を見る目が鋭かったようです。
彼の目には「天使」のように優しい「マリー・テレーズ」の存在を、やわらかな線で描いています。
このように「ピカソ」は「破壊」という行為を通じて、新たな「価値体系」を創りあげた「イノベーター」ということになります。
「イノベーション」とういう言葉が流行する今こそ、あらゆる分野での考え方が、この「ピカソ」から何らかのヒントがもらえるように思えてなりません。
「美」とは違うかもしれませんが、「ものの見方」を問い続けるこうした「ピカソ」の行為に、我々は学ぶところが多いようにも思えます。
20世紀に入ると「絵画の世界」が急激に変わり、その内容も一般の人には理解しがたい世界となって行きます。
「モダンアート」と呼ばれる芸術にどれだけ理解ができ、その作品を「美」としてとらえることができるか疑問に思う絵画作品がふえてきます。
その先端を切ったのがこの「セザンヌ」で、この画像にもあるように一見見ると普通の絵と変わらないように見えますが、実は今までの絵画とは「180度」違うといってもいいぐらい絵画の目的が異なります。
「セザンヌ」はこの「サント・ヴィクトワール山」を何枚も描いていますが、それはある目的がありそうした行動をとったようです。
「セザンヌ」といえば、「りんごのある静物画」でとても有名ですが、なぜ「りんご」が腐るほど執拗に同じ絵を描き、同じモチーフを追及したのでしょうか。
この画像を見てください。どこか不安定におかれた「りんご」と「傾いている机」が、何かを我々に暗示しているように見えます。
また、バックに見えるものが今一釈然としません。
「水差しとナス」というこの絵も、どこか不自然に見えます。
その答えは、「セザンヌ」が今までの絵画の描き方を否定するような見方を追及したからにほかなりません。
いわゆる「遠近法」に見られるように「視点」が一つという世界ではないからです。
いろいろな視点から描いたこうした絵は、私たちに不思議な感覚を呼び起こしてしまいます。
この絵がわかりやすいかもしれません。「コップ」の上にある「楕円形」を見てください。上のほうから見たように描いているこの絵は当然不自然に見えます。
しかし、「視点」を一箇所にするとことに抵抗した彼は、こうした試みを何回も試しています。
また、彼は「構図」の画家としても有名ですが、「りんご」の配置を何度も直しながらの制作は彼の性格をとてもよく現しているように思えます。
彼の「妻」を描いた「肖像画」もかなりありますが、「モデル」をつとめるのにとても苦労したようなことが言われています。
それは彼は「人」を描いているのではなく、「絵画」のモチーフとして「人物」を単なる「もの」としてとらえているので、動くこともままならず、一端動くと「セザンヌ」の怒りは大変なようでした。
「人」を血の通った人物としてとらえず、あくまでも「追及」の対象としてみていたわけですかから、普通の人にはとてもモデルはつとまりません。
それほど一つのことを追及する人だからこそ、今のように「近代絵画の父」と呼ばれる所以になったのかも知れません。
話を元に戻すと「「複数の視点」の追及がありましたが、これがやがて「ピカソ」や「ブラック」の「キュービニズム」につながるわけですから、彼の存在なくして「ピカソ」の誕生はなかったわけです。
「ピカソ」の絵画がわかりにくい原因の一つに、この「セザンヌ」の存在があるわけです。
その流れを「学問」として学ぶのはおもしろいかも知れませんが、純粋な「美」の世界というものからは離れていくように思えてなません。
それは「美」から「創造」そして「革命的な見方」というように、「美術」の世界だけでなく、他の世界でも応用できるものへと変わっていきます。
そのことは「ピカソ」を学ぶととてもよくりかいできることで、いつか説明したいと思っています。
「印象派」の中に、「シスレー」という画家がいますが、この画家の作品を見るたびに「ため息」が出てくるのがわかります。
この画家は、「印象派」の中でも一番「印象派」らしい画家といわれるほど、徹底して「風景」を描いています。
「パリ周辺」の風景を求めては、絵を描いていたのが目に浮かぶようです。
この作品を見てください。「パソコン」での処理が少し悪かったようですが、「青」という主調色がとてもあざやかに表現されていることがわかります。
「光」を表現するために「青」という色をとても効果的に使っています。「空の青」「水に反射する青」「建造物に反射する青」というように、一貫して「青」の存在を生かしています。
それが、見る我々にとても効果的に伝わり、「空気の存在」や「清涼感」を感じさせ、我々があたかもそこにいるかのような錯覚を起こしてしまいます。
私はこの「シスレー」の「風景画」がとても好きで、思わず目がそこへいく自分を発見してしまいます。
同じ「印象派」の画家に「ピサロ」という画家がいますが、彼の絵も「風景画」が多いのですが、この絵のように「農村」を舞台にして、「人物」も描いています。
彼の絵もとても明るく、「光」を追求している姿が良くわかり、とてもあたたかいものを感じます。
彼は、人柄も温厚で「印象派」の中にあって「リーダー的」存在のような人だったそうです。
彼の絵を見ると、そうしたことが良くわかりとても真摯に「風景」を描いている様子が察せられます。
「農村」の中にいる「農民」をとても健康的に描いている画家であり、「ミレー」や「ゴッホ」のような暗さがありません。
生き生きと働いているその姿は、どこか「明るい農村」のイメージがあり、彼の性格がでているようでとても楽しいものがあります。
その証拠に彼は「印象派の展覧会」が8回あったのですが、その全てに出品するという姿勢がみれました。
彼は、一時期こうした「点描画法」にこっていたようですが、それは「光」を分解していく方法に通じています。
「印象派」の画家たちの作品が、これほど世に出るようになった理由は、今まで「室内で描いていた作品」が「戸外」で描くようになったことがまずあげられます。
そして、戸外での制作の中で、実際に「自分の目」で見て描いているということから、その色の持つ効果が今までとは比べ物にならないぐらい人に伝わるようになったことがあげられます。
「美術館」の中で、絵を見てまわるとそうしたことが手に取るようにわかります。
歴史的にはいろいろな描き方が展開されましたが、私個人の感想としてはこの「印象派」の存在は、とても大きなものがあると思います。
「印象派」の画家の中で「ドガ」は特異の存在に見えてなりません。
それは、「人物画」を描いているにしても、そこに必ず「動き」を伴う題材を選んでいるところではないでしょうか。
「ルノワール」にしても「人物画」を描いていますが、「静止」した状態での絵画で、そこには内面的で個人的なとらえ方ができる作品になっています。
しかし、「ドガ」に関して考察すると、「踊り子の動きと存在」を通して、「踊り子」の持つ社会的な面を表現しているように見えます。
「踊り子の存在」という視点から見ると、「踊り子」が舞う舞台での華やかな印象とは違い、その裏には「厳しい毎日の稽古」が待ってていることがあげられます。
一見自由に見える「踊り子」も厳しい指導者の下で、毎日の修行に明け暮れていることがわかります。
また、「ドガ」は「踊り子」の後ろには、必ず「パトロン」という存在があり、その「パトロン」を通じて「踊り子」たちの存在が成立している様子を描いています。
「社会」というものは相反するもので成り立つことを言いたかったのかもしれません。
そうした「踊り子」を使って、「ドガ」特有の構図が彼の絵から見られ、とてもおもしろいものが発見できます。
それは「構図」にしても、どこか必ず「動き」のあるものになっていることではないでしょうか。
対角線上の構図になっているこの絵も、左半分は「踊り子」を描き、下半分は「演奏者」というものになっています。
「斜めの線」を上手に使った「ドガ」は、常に見る人への効果を考えていたのではないでしょうか。
この絵にしても、「踊り子」がまちまちの「ポーズ」をとり、全体的に「動き」を感じることができ、生き生きとした表現になっています。
この絵をはじめ、「ドガ」は、その当時発明された「写真」を使っているのもおもしろい現象です。
「動き」というものを徹底的に追求した「ドガ」はこうした「裸婦」までも、動きのあるものにしています。
「ドガ」は「パステル画」をたくさん描いており、この絵も「パステル」で描いています。
こうした一瞬の動きはもちろん「写真」というものを生かした作品ですが、それは後のことでありはじめからそうした手法を持ちいていません。
「ドガ」は毎日のように「オペラ座」に通い、「踊り子」の動きを研究し、「馬」の動きも研究しています。
「ドガ」にとって「動き」とは、一生をかけた大きなテーマであり、常に「好奇心」を満たすものであったことがよくわかります。
誰でも大きな一本のテーマがあり、そこから「派生的」に広がる題材選びができる、そうしたものが見つかると「絵画制作」はとても充実したものになると思います。