唐茄子はカボチャ

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運命を分けたザイル

2008年05月21日 | 好きな映画・良かった映画
山は怖い。でも、それも含めて山を登る人は魅力を感じているのでしょうか。不思議です。ただ、登るだけ。時間をかけてゆっくりとゆっくりと。それで登りきったら、降りるだけ。時間をかけて・・・ゆっくりと。

多分、山と同じぐらいの深さの溝があったら、山の頂上を目指すのと同じように最下部に到達することに魅力を感じないんじゃないかな?

てっぺんは気持ちがいいのです。上を向くというのも人間にとっていいことなんでしょう。

登っちゃったら降りるしかないですからね。

山の事故はくだりの方が断然多い(80%って映画ではいっていたかな?)とのことです。確かに、落ちる物体に逆らう力をかけたほうが、安全な気がしますね。落ちるものと同じ方向に力をかけるというのは・・・多分、引っ張るチカラのが強いから、上へ行く力からは強いけど、下に行くには、その力をかける土台がない感じもします。階段も登りのが安全です。下りは勢いついちゃうと抑えられなくなるし、ひざにかかる衝撃が大きい。なんて感じですかね。

しかし、すごい話です。登山家の間では伝説だそうです。

そりゃそうでしょう。あの状態で生き延びるのだから。
でも、運命を分けたザイルという題がちょっと違和感はあります。
「運命を分けた」というのは、ザイルを切ったことをさしているんだと思うけど、そこが分れ目な気はしない。そこで切らなかったら、2人とも死んでたという意味では使ってないと思うし、切ったことで、切られたほうは英雄に、切ったほうはバッシングを受けたという分れ目になったというのであれば、でも、そのことは、最後にちょこっと出されただけだからね。

運命を分けたというならば、怪我したことか、それを置き去りにせずに一緒に山を降りた決断だったような気がします。

一緒に山を降りる決断というのは、あの状況では決断できないでしょう。一人だけなら生きて帰れる可能性が大きかったわけで、2人で降りようという決断は、2人とも死の可能性が大きくなったのでしょうから。

でも、サイモンさんにとっては生きていてくれてよかったでしょうね。そうでなければ、あのザイルを切った行為というのは、本人にとっては一生の傷になっていたでしょう。あの時ああしていれば・・・なんてことはあとになると色々考えちゃいますから。ジョーさんが死んでしまっていたほうがバッシングはなかったのかもしれませんが・・・自分の心の深い傷の痛みよりは当事者でない外野のバッシングなんて全然平気だと思います。

しかし、人間の生きようとする力ってすごい。頭の中が「言葉」で考えることがなくなった状態でも生きるために何か行動するのかもしれません。

ここで休めば楽になれる・・・気持ちよくなれる・・・・という状態を、よく我慢して、自分を奮い立たせて前に進みました。すごい。あそこでそのまま休んでしまっていたら・・生きてかえることはなかったかもしれません。

クレパスを下ったら、出口があったというのはラッキーとしか言いようがないですね。そのままただの穴ぼこだったらはいおしまいって感じですもんね。

いやあ、すごいです。

しかも、当事者のインタビューという形でずっと話が進むのですごくリアルでした。


運命を分けたザイル

ポニーキャニオン

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