◎個人の歓喜から世界のすべての至福へ
性的オルガズムとサマーディ(霊的な歓喜、大悟覚醒)では、会陰のムラダーラ・チャクラと頭頂のサハスラーラ・チャクラが同じ波長で振動し、歓喜が得られる。
ムラダーラ・チャクラとサハスラーラ・チャクラの間に生のすべての戯れ、すべてのスペクトルがある。
ところがこの歓喜の波動は、性的オルガズムにおいては、ムラダーラが主であり、サハスラーラはこだまであって従。
ところが、サマーディにおいては主客逆転し、サハスラーラが主であり、ムラダーラはこだまであって従。
すなわち性的オルガズムは、大悟覚醒以前のことであり、サマーディは大悟覚醒以後のこと。つまり大悟覚醒以前はムラダーラ・チャクラが世の帝王なのだが、大悟覚醒以後はサハスラーラ・チャクラが主客逆転して世の帝王となる。これは、世の終わり以前は神知らぬことが当たり前だったが、至福千年では、神知ることが当たり前になり、あらゆる価値観が逆転することを意味する。
(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP180-181)
同様のことは、次のように古来から世界各所で言われている。
- ユダヤ・キリスト教では、人に打ち捨てられた石が北東に置かれるのだが、それが長い年月の末に、滅びることのない神の神殿の基礎となるという伝承がある。
- 長年月北東に監禁されていたもともとこの世の主宰神であった艮の金神が、現代に至って再び地球の主宰神である国之常立神として復活する。(出口王仁三郎)
- イエスは磔刑直前に弟子の足を手づから洗って見せ、最も低きに置かれていた平民が神となる手本を示して見せた。
性的オルガズムは、個人の歓喜という体験に過ぎないが、大悟覚醒を経て人は神になり、サマーディという体験とはいえない体験、至福に逆転するのだ。
※サマーディ:サマーディとは三昧のことであり、ディヤーナ=定とは全く異なる。定には人が出たり入ったりできるが、サマーディは人が体験するものではないので、サマーディに出たり入ったりすることはできない。
サビカルパ・サマーディ(有相三昧)は、いわば世界全体のことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。
ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)は、ニルヴァーナのことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。
人間嫌いでは、サマーディは体験出来ないですね?
>全ての幸せを想像して心が震えるのはサマーディでしょうか。... への返信
”感じている自分”や”見ている自分”が残っているのは、サマーディではありません。
https://blog.goo.ne.jp/quonan/e/22c9d80cd7b93149f77ab9c44e909a31