◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-3
○三昧の分類
三昧には、有想三昧と無想三昧がある。三昧とは、心をなくして、対象のみとなった状態である。
有想三昧と無想三昧に、もはや人間個人というものはなく、神の側、絶対者の側の体験のことであり、もはや体験とは呼べない体験のことである。
仮に誤って有想三昧と無想三昧を、個人という人間の認識形態の一つと理解したり哲学したりするならば、それは現実とはかけ離れた夢想のようなものになってしまうだろう。
以下の佐保田鶴治の説明は、三昧が個人の心理らしく説いているので要注意。
(1)有想三昧
『三昧のうち、尋、伺、楽、我想などの意識を伴っているものは有想とよばれる。』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P49から引用)
※楽:尋、伺が消えた心地よい状態。
※我想:見る主体である力と見る働きである力とを一体であるかのように思い込むこと。(あらゆる現象が顕現するための最初の要件がこれである)
(出典:解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P49-50)
有想三昧を冥想の縦軸との対比でみれば、認識対象があり、個人を超えた神のレベルなので、第六身体、アートマン、天地創造神話の世界、不壊なるイデアの世界が、有想三昧の舞台ということになるだろう。
(2)無想三昧
『もうひとつの三昧は、心の動きを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。』
(上掲書P51から引用)
ヨーガ・スートラの劈頭に、ヨーガとは心の働きを死滅することとあり、ヨーガの目的は無想三昧である。
無想三昧を冥想の縦軸との対比でみれば、第七身体であり、ニルヴァーナであり、仏教で言う空であり、禅で言う絶対無であり、密教で言う大日如来であり、太極であり、タオであり、神であり、最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
言葉で表現できないものである。
以下の摩訶止観は、ヨーガ・スートラより時代が下るが、止念をそれなりに評価している。
「ここでいう絶対の止観とは、横と竪(たて)のあらゆる相対的な意味を超えており、あらゆる思議を超えており、あらゆる煩悩や苦果を超えており、あらゆる教や観や証を超えているのであり、これらのすべてがみな生ずることがないから、それを止と名付け、その止も得ることはできないのである。」(詳解摩訶止観現代語訳篇/大蔵出版P120-121摩訶止観巻第三の上から引用)
◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-2
ヨーガ・スートラは、バラバラに章立てがされているところがあり、多分グルの口伝があったのだと思うが、説明が不足しており、そのままで読んでも、さっぱりわからず、とりつくしまがない。
その体験をしさえすれば、こんなものを読む必要はなく、その体験をしていないならば、こんなものを読んでも役に立たないということはあるとは思う。
だから解説付きのを読むことになるが、解説する人が、たとえばラーマクリシュナ並みの人でないとちゃんとした解説にはならないのだろう。
○定の分類
定と三昧は違う。定は人間個人としての体験であるのに対し、三昧は神の側の体験である。だから定の説明には認識をするとか、認識をしないとかいう表現が必ずある。
なおヨーガ・スートラでは、無想三昧が最高とされている。
(1)有尋定
『定のうちで、言葉と、その示す客体と、それに関する観念とを区別する分別知が混じているものは有尋定とよばれる。』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治)/平河出版社P71から引用)
(2)無尋定
『定の心境がさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけが一人あらわれている。これが無尋定である。』
(上掲書P72から引用)
(3)有伺定と無伺定
『前記の二つの定に準じて、それよりも微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。』
(上掲書P73から引用)
※「尋」:感覚世界についての観念
「伺」:より精妙な世界についての観念
このように定では、客体・対象と観念が常に話題になっており、人間個人としての体験であることがうかがえる。
◎ヨーガ・スートラに見る定と三昧-1
冥想の縦軸である時間的広がりは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、アートマン、ニルヴァーナと七つの身体に沿って展開する。七つの身体は七つのチャクラにそれぞれシンクロしているので、この展開は、ムラダーラ・チャクラ、スワジスターナ・チャクラ、マニピュラ・チャクラ、アナハタ・チャクラ、ビシュダ・チャクラ、アジナー・チャクラ、サハスラーラ・チャクラと進むとも言える。
そしてかたや、横軸である空間的広がりが、いわば冥想の深浅高低と位置づけられる。
定と三昧は、冥想の深浅高低の基本である。定と三昧の定義は、インドで5世紀頃成立としたとされるヨーガの根本聖典であるヨーガ・スートラに、基となる説明がある。
前の6種は、定や三昧までの準備段階であり、7番目が定で、8番目が三昧である。
1.制戒(ヤーマ)
不殺生、真実、不盗、不淫、無所有の五戒を守る。
2.内制(ニャーマ)
肉体と心を清浄に保つこと。生命をつなぐに足るだけのものに満足すること(知足)。
断食その他の肉体的苦行。マントラ・ヨーガの実践(読誦)。一切万象それ自体であり、一切万象の母であり、一切それ自体万象である神への祈念(自在神への祈念)
3.坐法(アーサナ)
冥想をするのに安定した快適な坐り方
4.調息(プラーナヤーマ)
呼吸法により、粗い呼吸の流れを整えること。出息、入息、保息を行い、調気(呼吸停止まで)に進む。
5.制感(プラティーヤハーラ)
五感の諸器官が音や光などの外から来るものに惑わされず、心の動きに従うこと。
6. 総持(ダーラナ)
心を一つの場所に集中すること。
7.定(ジャーナ)
対象と心そのものが一体化すること。
8.三昧(サマディー)
対象だけになり、心をなくしたような状態。
◎エドガー・ケーシーの見たアトランティス
錬金術の12の原理を書いたとされるエメラルド・タブレットは、ギザの大ピラミッドの中に埋葬された、ヘルメス・トリスメギストスのミイラが握っていたという伝説もあるそうだが、エドガー・ケーシーのリーディングでは、ピラミッドは墓ではないとしているので、その伝説は史実ではあるまい。
けれども、ケーシーがリーディングした「沈没したアトランティスの記録」とは、エメラルド・タブレットの内容である可能性がある。つまりエメラルド・タブレットとは、ギザの地下神殿かピラミッド本体に保管されているアトランティス文明の粋を記録したエメラルド板のことなのかもしれない。
巷に出回っているエメラルド・タブレットといえば、2種類あって、ひとつは霞ケ関書房のドーリル博士が編纂したもので、中身はとても霊がかっている内容のものなので、読む人によっては好き嫌いがあると思う。ルドルフ・シュタイナーばりの霊的世界がお好きな方に向く。
もう一つは、錬金術系の伝統の中にあるもので、ヘルメスによって12の錬金術の秘密が刻まれたというエメラルドの碑のことで、太古にエジブトピラミッド内で発見されたというが、現物は存在せず、その写本といわれているものの内容を元にしている。
中身はこれ。
《これは、うそいつわりなく真実、確実にしてこのうえなく真正である。一つのものの奇跡をなしとげるにあたっては、下にあるものは上にあるものに似ており、上にあるものは下にあるものに似ている。
そして万物は、一つのものの和解によって、一つのものから成ったように、万物は順応によって、この一つのものから生まれた。このものの父は太陽で母は月である。風はこのものを胎内にもち、その乳母は大地である。このものは全世界のいっさいの仕上げの父である。その力は、もし大地に向けられれば、完全無欠である。
なんじは、土を火から、精妙なものを粗雑なものから、円滑に、きわめて敏捷に分離するがよい。それは、大地から天へ上昇し、ふたたび大地へ下降して、すぐれたものと劣れるものの力をうけとる。
かくしてなんじは、全世界の栄光を手に入れ、一切の不明瞭は、なんじから消えさるであろう。このものは、すべての剛毅のうちでも、いやがうえにも剛毅である。なぜなら、それはあらゆる精妙なものに打ち勝ち、あらゆる固体に浸透するから。
かくて、大地は創造された。したがって、このものを手段として、驚異すべき順応がなされるであろう。このため私は、全世界の哲学の三部をもつヘルメス・トリスメギトスと呼ばれる。私が太陽の働きについて述べるべきことは、以上で終わる。(平田寛訳)》
(『神秘学の本/学研P104』から引用、平田寛訳)
この文に現れる「このもの」とは、荘子でいう混沌のことや、老子の言う名状せざるもの、言葉で言い表せないものや、大極、第七身体のことではなく、有そのもの、アートマン、第六身体のことを言っているように見える。
なぜならば、このものとは、一つのものだからである。
「このもの」の精妙なる動きをパノラマ的に俯瞰できるポジョンにある者がこの文を書いたものと思われる。全体としては、静的なものでなく、大周天的なエネルギーの動きというダイナミズムを感じさせられる。
◎見性からの深まり
ケン・ウィルバーはその心理と社会を全部まとめた統合的マトリックス・世界観ばかりが取り上げられている。実際にインタ-ネットで検索してみると、ケン・ウィルバーに関するサイトは、その世界観をとりあげているものがほとんどと言ってよいだろう。しかしながら彼のバックボーンはその見性体験にあり、古代秘教型の、「窮極(神・仏・タオ)からあらゆる現実が発生している」という方向性の説明を、心理学者や社会学者が理論づけしやすいように述べているにすぎない。
だから少なくとも見性体験がない人間が、彼の説が正しいということを、自信をもって確信することはできないのだ。ケン・ウィルバーの周辺には、ヨーギ(ヨーガのマスター)、カバリスト、禅者、冥想を用いるソウシャル・ワーカーなど冥想に縁のある人がかなり多いので、中には何人か見性者がいて、それを実際に確認できている人がいてもおかしくない環境なのだろうと思う。
ケン・ウィルバーは、すでに見性あるいは悟りの体験が何度かあったと述べているが、最初の著書を二十歳そこそこで出版したが、おそらくはそれ以前に、それはあったのだと思う。
ただその体験があった後も結跏趺坐の冥想を20年継続して、一つのテーマを持ちながら冥想を継続していった。それはラマナ・マハリシの「夢を見ない深い眠りの中に存在しないものは、リアルではない」という言葉だった。これは、夢を見ない深い眠りこそが窮極(神、仏、タオ)であるという意味である。
人間には目覚めている状態、夢を見ている状態、夢を見ていない状態とあるが、その見性あるいは悟り体験は、最初は目覚めている状態のときだけに起こったという。ケン・ウィルバーにとってショックだったのは、彼の窮極を認識している状態は、目覚めている時間帯限りで、寝ている時間帯には窮極から離れてしまっていたことであった。それはいかにも本物の状態ではないのである。真正の覚者は、睡眠中でも窮極を自覚しながら意識が継続していることを彼は知っていた。
そして、その後の真剣な坐禅修行を続けていく一方、チベット密教・ゾクチェンのチャグダッド・トゥルク・リンポチェ師の11日間の集中的なセッションに参加した時に、彼の自己というものの大死一番が起こり、自己は完全に死んでしまい、そこから意識が睡眠中でも継続するようになり、それからずっと継続していると述べる。
その状態は、目覚めている状態、夢を見ている状態、眠っている状態の間を移り変わっていっても意識が断絶することなく、そこには明瞭な鏡のような心、「観照者」=本来の自己しかなかったと彼は述べている。この状態でワン・テイストとか、仏性とか、菩提心とか「ブラフマンであるあなた自身のアートマン」(うまい言い方ですね)が現れるとしている。
◎空とワン・テイスト
アメリカの見性者ケン・ウィルバーは25年も結跏趺坐でやってきたという。私は半跏がほとんどだったが、結跏趺坐で行ってみようと思い直している。いろいろ聞くとやっぱり半跏ではダメかもしれないと思われるところがある。
ケン・ウィルバーは、ヨーガの死体のポーズ(仰向けになって全身脱力。脚を揃え、腕を開いて横に置く)を始めたなどと書いてもいるので、私がヨーガしていても死体のポーズは省略することが多いので、今度は死体のポーズもやろうと思う。
ケン・ウィルバーは、ワン・テイストとは単純な存在の感覚に近いとする(ワン・テイスト(下)/ケン・ウィルバー/1997年11月/コスモスライブラリーP194)。それからすると、ワン・テイストとは、どうもアートマンのことを指しているように思われる。というのは、ワン・テイストは「神が神を神している」感じではないからである。
さてケン・ウィルバーは、以下の文で、純粋な〈意識〉は、三つの状態(目覚めている状態、夢を見ている状態、眠っている状態)すべてに存在する唯一のものだとするが、これがワン・テイストのことであり、アートマンのことであるように思われる。
『4.適応とは単純に、所与の意識レベルとの、不断の、永続する接触を意味する。私たちの多くは、すでに物質、身体、そして心に適応している(あるいは、進化している)。(だから、あなたは自分が望むときにいつでもそれら三つのすべてと実質的に接触することができるのだ)。
何人かは、超個的レベルの至高体験を得たことがある(心霊、微細、元因、非二元)。しかし実際の実践において、私たちはそうした高次の領域の高原体験に進化することができ、さらに実践を積み重ねると、そうした高原体験は永続する適応になることがある:心霊、微細、元因、非二元の機会との不断の接触――自然神秘主義、神性神秘主義、無形神秘主義、統合的神秘主義との不断の接触――それはすべて、現在の意識にとって物質、身体、心がそうであるように、簡単に接触できるようになる。
同じように、これは三つの状態すべて――目覚めている状態、夢を見ている状態(あるいは、サヴィカルパ・サマーディ)、眠っている状態(あるいは、ニルヴィカルパ・サマーディ)――を貫く不断の意識(サハジャ)によって証明される。
そのとき、「夢を見ない眠りの中に存在しないものはリアルではない」という理由が明らかになる。〈リアル〉は、夢を見ない深い眠りを含めた、三つの状態すべてに存在しなければならない。そして純粋な〈意識〉は、三つの状態すべてに存在する唯一のものである。
この事実はあなたが純粋な、空っぽの、無形の<意識>に休息して、<不動>、<無変化>、<未生>にとどまりながら、すべての<形>である純粋な<空>、輝く<すべて>である<ワン・テイスト>の中に解放され、三つの状態すべてが生起し、とどまり、過ぎ去っていくことを「見守る」ときに完全に明らかになる。』
(ワン・テイスト(下)/ケン・ウィルバー/1997年11月/コスモスライブラリーP217-218から引用)
この純粋な意識とは、絶対と相対を見守る時に知る意識ということになる。そして、すべての形である純粋な空とは、色即是空の空のことであり、色つまり現象の生起が意識されているので第六身体=アートマンのことを言っている。アートマンは不変であるが、転々と変化する現象の窮極と呼ぶべきものは、アートマンであるとする。
また輝くすべてであるワン・テイストとは、宇宙意識であり、神のことである。この「輝く」という表現が、パッと入るところが、それを見た者である証拠のひとつになると思う。
これらのことを前提に、彼は、ワン・テイストとは窮極のスピリットだと言い、ワン・テイストは時間の中には全くないと言う。そして相対の世界では、アートマン(第六身体、プラトンのイデア界)がリアル(永久普遍の実在)であり、絶対の世界(第七身体、神、仏、タオ)では、アートマンも非アートマンもリアルではないのである。
また、世に言う宇宙意識の体験というものは、彼にいわせれば、ほとんどが、空の一瞥でもワン・テイストの一瞥でもない、単なる神秘感覚的な体験に止まっている。
ケン・ウィルバーは、窮極の悟り(宇宙意識の一瞥)に至るには、禅では平均6年の集中的な瞑想セッションの期間が必要であると述べており、これは、いきなり気持よい体験があってそれを宇宙意識体験と呼ぶのはおこがましいと警告しているのだと思う。ただし前世での修行の成果というもう一つのファクターというものがあるようで、年少の頃から精神の暗夜から宇宙意識に飛び込んでいける人がいることも事実である。
◎坐禅のバリエーション
坐り方をいろいろと験してみると言っても、実際にどのようにしたのか、実例を挙げてもらわないとイメージは湧かないものだ。まして投げた小石が竹に当たってカーンという音を聞いて悟ったとか、婆さんにしたたかにほうきで殴られて悟ったなどと言っても、それまでにどのようにしてそうなったのか知らないと、「真理は日常生活に潜む」などという誤解をしがちなものである。
「真理は日常生活に潜む」などと聞けば、何も冥想訓練のない只の人が、道を歩いて犬にぶつかったら悟りが開けた、というようなことを想像することもあるのではないだろうか。
中国の雪巌祖欽禅師は、禅関策進という書物の中で、自分の修行の流れを次のように語っている。
1.16歳の時に僧となり、18歳の時に双林寺で、朝から晩まで禅堂の前庭から外に出ることはなかった。トイレや洗面にたつときも三尺以上先は見ないで、脇見をしなかった。
この時は無字の公案に取り組み、たちまちいろいろな雑念が起こったが、その起こるところを反省してみると、冷たい水のように直ちに心がさっぱり澄みきって静かになり、ちっとも動揺せず、一日が指をはじくほどの短い時間に感じられ、この間鐘や太鼓の音も一切聞こえなかった。
2.19歳になって処州の来書記に、「あなたの坐禅工夫は死んでいる。坐禅する時は必ず疑いを起こすべきだ」とアドバイスされ、こんどは「乾屎けつ」の公案に取り組んだ。その公案は次のようなもの。
「雲門和尚はある僧から「仏とはどういうものですか」と尋ねられ、「乾いたクソのかたまり」と答えた。」
東に疑い、西に疑い、縦横に公案を研究してみたが、昏沈と散乱に交互に攻められて、しばしも胸中の浄らかさを得ることができなかった。
3.こんどは浄慈寺に移り、7人の仲間の雲水と組んで修行した。そこでは寝具をしまい込んで、脇を床につけて横臥しないで、ひたすら座布団の上で鉄の棒くいのように坐っていた。
2年間も身体を横にして寝なかったので、のびてしまって目がくらみ、気力もなくなった。そこでこの苦行を一気にやめてしまった。
4.2か月たって身体が回復して、生気を帯びてきたので、必ず夜中にぐっすり眠ることによって生気が回復することを知った。
5.仲間の修上座から、「座布団を高くして、背骨を真っ直ぐに立てて、全身をそのまま公案と一丸にしていけば、昏沈と散乱は問題にならない」と示唆され、これを支えに坐禅したところ、覚えず心身ともに忘れるまでになり、清々として爽快なること3昼夜、両眼のまぶたが合わないでさめていた。
三日目の午後、寺の門の下を心は坐ったままの境地で歩いていた。すると修上座に「ここで何をしているのですか。」と問われ、「道を弁じています。」と答えたものの、「一体何を道と言うのか」と問われ、答えることができず、ますます昏迷した。
そこで坐禅しようと思って堂に帰ると、首座に逢って「お前はただ大きく眼を開けて、これは何の道理かと、しっかり見極めていくことだ」といわれ、座布団に坐ったとたん、眼の前がからりと開いて大地が落ち込むかのように感じた。この時はその心境を人に言って聞かせられるものではなかった。それはこの世のあらゆる相貌でたとえられるものではなかった。
※“眼の前がからりと開いて大地が落ち込むかのように”は、落下ですね。
◎チャクラと七つの身体への対応
ダンテス・ダイジの冥想の縦軸は、以下の7段階である。ダンテス・ダイジは、この冥想十字マップにおいて、直接に、各段階がチャクラと七つの身体に対応しているなどとは語っていないが、総合的にはそのように考えざるを得ないのである。
何の前提もなく、いきなり、『人間の精神性の七つのレベル』として、意志だの情熱だのという概念語が並べられたら、それはそのままでは、一個人の単なる人間像のプロファイルのアイディアを表明しただけにしか思えない。ところが各チャクラの性質と、七つの身体のシンクロを思い起こすと次のような説明になるのだろうと思う。
勿論こうしたものは、本来、自分自らそれを見渡せる冥想に入り、確認してみるべきものだとは思う。
1.力、渇望
これは、チャクラでは、ムラダーラ・チャクラに対応し、ムラダーラ・チャクラは、七つの身体で言えば肉体に照応している。
2.意志
これは、チャクラでは、スワジスターナ・チャクラに対応し、スワジスターナ・チャクラは、七つの身体で言えばエーテル体に照応している。
3.情熱
これは、チャクラでは、マニピュラ・チャクラに対応し、七つの身体で言えばアストラル体に照応している。
4.愛
これは、チャクラでは、アナハタ・チャクラに対応し、アナハタ・チャクラは、七つの身体で言えばメンタル体に照応している。
5.調和
これは、チャクラでは、ビシュダ・チャクラに対応し、ビシュダ・チャクラは、七つの身体で言えばコーザル体に照応している。
6.知恵
これは、チャクラでは、アジナー・チャクラに対応し、アジナー・チャクラは、七つの身体で言えばアートマンに照応している。
7.ニルヴァーナ
これは、チャクラでは、サハスラーラ・チャクラに対応し、サハスラーラ・チャクラは、七つの身体で言えばニルヴァーナに照応している。
◎定とサマーディ(三昧)の違い
ダンテス・ダイジの冥想の横軸は、以下の4段階であるが、無想定と有相三昧の間に「愛」が挟み込んであるところが特徴。しかし、ダンテス・ダイジは「愛」を一つの段階と定義してはいない。冥想の横軸が冥想の縦軸と交わる交点として、愛を位置づけているところが特徴である。神(仏)と個人の結節点(結び)として愛を見ているのである。合気道家植芝盛平のいうところの天の浮橋の位置である。
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版p188から引用)
1.有想定
ヨーガ・スートラで言う有尋定とほぼ同じであり、仏教でいう欲界定や四色禅定のこと。要するに欲界定と初禅から第四禅までのことである。
幸福感、安心感、清らかさなどの肯定的な情感を感じることができる。
2.無想定
ヨーガ・スートラで言う無尋定とほぼ同じであり、仏教でいう四無色禅定のこと。
(1)空無辺処定:限りない広がりがあるという意識
(2)識無辺処定:あらゆるものが限りない広がりにあるという意識
(3)無所有処定:なにもかもがないという意識
(4)非想非非想処定:なにもかもがないという意識もないという状態
3.有相三昧
ヨーガ・スートラで言う有想三昧とほぼ同じであり、仏教でいう滅想定のこと。ダンテス・ダイジは、「一切万象、多様次元自身が目覚めている。」と説明している。
4.無相三昧
ヨーガ・スートラで言う無想三昧とほぼ同じであり、仏教でいう涅槃(ニルヴァーナ)のこと。
ダンテス・ダイジの説明は次のようなもので、滅尽定(滅想定)とニルヴァーナを区別している。
「仏教なんぞの滅尽定でもない。
禅なんぞの無でもない。
隻手の音声なんぞ夢のまた夢
ヨーガの解脱なんぞでもない。
いわゆる概念的には、ニルヴァーナのことだが、真のニルヴァーナは、いかなる概念内容も持っていない。」
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス.ダイジ/森北出版P193から引用)