ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

真珠湾攻撃 九軍神慰霊祭〜酒巻少尉の写真

2019-12-21 | 海軍

真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇で突入した艇長と艇附、
士官と下士官9名の英霊「九軍神」の慰霊祭にお誘いいただいたとき、
どのような経緯で12月8日の慰霊がこのようなところで行われてきたのか、
全くその経緯についてわたしは知識がありませんでした。

参加の意思を伝えてから、茶封筒にボールペンの手書きで
三机からの案内状が届いたのですが、何日かして追いかけるように届いた
もう一通には、先の案内状の電話番号の訂正だけが書かれていました。

どうして今時メールという通信手段を使わないのだろうと思いつつ、
その丁寧さに驚いた、と誘ってくださった提督にお伝えすると、

「会えばわかりますが、茶髪やピアスをした普通の青年です。
ただ子供の頃から九軍神の話を聞いて育ち、自分たちと同世代の若者の生きざま、
自己犠牲の精神には尊敬の念を持って自然な形で代々慰霊祭を続けています。
我々海自OBは銃数年前にそのことを知り、陰ながら応援しています。」

という返答をいただきました。

戦史にその名を仰ぎ見た九軍神の慰霊に参加できる感激もさることながら、
今の若い人たちがどんなふうに英霊の顕彰を受け継いで、
後世に伝えようとしているのかぜひ見てみたい、と思ったのはそのときです。

街全体の面積に比してこの須賀公園というのは広すぎる気もするのですが、
もともとあったらしい八幡神社を中心に、キャンプ場や炊事場、広場を作り、
ここをちょっとしたレジャー地にしようとしたようです。

九軍神慰霊碑はここにもしっかりその名称が記されています。

整備の際に設置されたと思われるプール。
ということは、こんな静かな内海なのに海水浴はできないのでしょうか。

砂浜がない、ということはとりもなおさず海の深さを表しています。

かつてこの三机で特殊潜航艇・甲標的の乗組員が訓練をしていたとき、
この三机湾の沖には母艦「千代田」が停泊し、その威容を見せていました。

真珠湾攻撃の半年前の昭和16年春になると、十人の男たちは
三机の旅館に泊まり込みとなり、毎朝8時になると、旅館の女将が作った
弁当を持って出て行き、夕方6じごろには戻ってくるという
まるでサラリーマンのような生活をしていたそうですが、
地元の人々との接触はなく、もとより村の人々も、彼らが
何をしているのか尋ねることもなかったということです。

訓練終了後の潜航艇には厳重にカバーで覆われ、村の人々は
彼らが何をしているかわからないなりに、厳しい訓練を行っているらしいと
なんとなく察していましたが、同年の11月中旬、十人の軍人が
休暇から帰ってきてすぐに、三机湾沖の「千代田」は突如姿を消しました。

そしてほどなく、大東亜戦争開戦の知らせがこの小さな漁村にも伝わりますが、
まさかその海戦にあの軍人たちが関わっているとは誰も思わなかったといいます。

大本営が酒巻少尉を除く九人が特殊潜航艇で真珠湾に突入し、
戦死を遂げて「軍神」となったことを発表したのは、翌年の3月6日。
その日、三机村の人々は、あの軍人たちがここで何をしていたのか、
初めて知ることになったのでした。

強い潮風から護られるように周りを深い木々で囲まれた広場に
「大東亜戦争級軍神慰霊碑」はありました。
注連を巻かれ、清酒や供物が供えられています。

慰霊碑の前には、九軍神の写真が並んでいます。
海軍の慣習に倣って、全員の真ん中に隊長の岩佐直治中佐(海兵65期)。
その両脇に67期の古野繁実・横山正治少佐

横山少佐は、わたしが再々ここで扱っている獅子文六の小説、
「海軍」のモデルとなりました。

兵学校68期の広尾彰大尉は、古野少佐の左。
本来なら横山少佐の右には酒巻少尉が二階級特進して
酒巻大尉となり、並ぶはずでした。

四名の両側に、下士官であった五名の艇附の写真が並びます。
映画「海軍」では、艇附が中年のおじさんになっていましたが、
最年長であった岩佐大尉の艇附、佐々木直吉少尉ですら28歳、
酒巻艇の艇附稲垣兵曹長26歳、あとは25、24、23歳と
全員が二十代前半の若者たちでした。

海軍という組織の不思議なところで、艇附は必ず艇長より年上です。
年齢が上でも士官と下士官では士官が上級であり先任ですが、
この組み合わせは、海軍での経験豊かな優秀な下士官を
士官の補助に付け、実質指導させることが目的だったと思われます。

 

本日は慰霊祭なので慰霊碑前に遺影が飾られていますが、
ここにはふらりとキャンプなどで訪れる人たちにも
慰霊碑の示すところの意味を広く知らしめるべく、このような
立派な説明のプレートが設置されているのでした。

この碑は、昭和16年12月8日大東亜戦争の先陣として
ハワイ真珠湾攻撃に挺身決死隊として散った
九人の軍神を慰霊するために建立されたものである。

軍神は戦いに赴く前に、三机湾を真珠湾にみたてて
極秘の訓練を受けるために、この地に滞在したが
同地方の人々との交流も深く、彼等の逸話美談が
今も町民の間の語り草となっている。

この解説板の背景の九本の柱は、
軍神のみたまの数をあらわしたものである。

金属のプレートは、この日の青空と緑とともに、
彼らのみたまを表すという九本の柱を映しています。

この下線部分は、「秘密保持のために交流はなく」
とされた先ほどの記述と正反対なのですが、これは矛盾するものではなく、
彼らは村人に礼儀正しく、旅館の人々などには青年らしさを見せながら
訓練については厳に口を謹んで一言も言わなかったということなのでしょう。

わたしが解説の前に立ち、写真を撮っていると、
髭を蓄えた紳士が近づいてきて解説板の足元にある大理石を指差しました。

「ここには、何年か前まで酒巻少尉の写真があったんです」

えっ、とわたしは息を飲みました。
全員が戦死した甲標的の乗員の中で、たった一人生き残った酒巻和男少尉。

ジャイロが故障し(というか出撃前からわかっていたらしい)
目標を見失った甲標的で迷走したのち、艇附の稲垣兵曹とともに
艇を捨てて海に飛び込んだ結果、自分だけが砂浜に打ち上げられ、
米軍の「捕虜一号」となった酒巻少尉については、当ブログでも
何度となく折に触れて語ってきました。

真珠湾攻撃の「九軍神」の戦死が公表されて以降、
群馬、鹿児島、福岡、佐賀、鳥取、島根、広島、岡山、
そして三重と、見事に一つも重なっていない彼らの故郷には
軍神詣での人々が絶えなかったということです。

しかし捕虜、そして「真珠湾で死に損なった男」として、ある意味
他の誰よりも過酷なその後の人生を送ったのが酒巻少尉でした。

酒巻和男という人間の立場から見ると、「九軍神」という称号は
捕虜になってしまった彼の存在をなかったことにするものであり、
これこそ海軍によって日本中に膾炙された残酷な欺瞞でもあります。

酒巻少尉の写真を最初に九軍神の碑の足下に供えたのは誰だったのだろうか。

そして、それはいつからあって、なぜある日突然無くなったのか。

いくら問うても、誰が、いつ、なんのために、という疑問が湧くばかりで、
それでは
何が正しいのか、どうなるべきなのかに対する答えは見つかりません。

何よりもわたしが考えずにいられなかったのは、
この地を慰霊のために訪ねてきたという酒巻和男氏
(戦後ブラジルに渡りトヨタ・ブラジルの社長になった)は、
ここに置かれた自分の写真を見ることがあったのか、ということです。

おそらく彼ならば、自分の写真がここにあることを望むまい、
とわたしは漠然と思うだけですが、いずれにせよその疑問に対する
答えが明らかになることは永久にないでしょう。


慰霊碑の横には飛行機のプロペラが飾ってありました。
夜間戦闘機「極光」のものです。

陸上爆撃機「銀河」を夜戦用に改造したB29迎撃用の
レーダー付き双発重戦闘機で「月光」を応援して夜間
B29に対する本土防空戦に参加することになっていたが、
性能不足で活躍の場がなかったという悲しい運命を持つ

全長15メートル 全幅20メートル 乗員三名
全重量 1350 最大速度毎時282キロ

武装20ミリ旋回銃二挺 20ミリ機銃1挺

「悲しい運命を持つ」という一文がなんかじわじわきますね。

なぜここにプロペラがあるのかの説明はありませんが、
石碑とともに設置されたのは平成2年のことだそうです。

慰霊碑の後ろには九軍神の名前と階級の下に、碑文があります。
カタカナで書かれているのを読みやすく直してここに掲載しておきます。

臆 殉国忠勇平和礎石の九軍神 昭和16年12月8日未明
大東亜戦争の先陣として ハワイ真珠湾攻撃に挺身決死隊第一号
面目躍如輝く戦果を揚げ また能く我が空軍爆的の烽火(ほうか=のろし)
となり 海空呼応壮絶無比 一大緒戦を展開

自らは従容艇と運命を与にし 壮烈湾深きところ 浪の華と散行きし九軍神
三机湾は 当時日本の真珠湾として 緒勇士と特殊潜航艇が一心同体
生死諦観 決死の猛訓練基地となり 海軍を哭かしめる門外不出の秘境であった。

17年3月 九軍神の勲功氏名の発表せらるるや 沈黙果敢天晴の最後に
驚嘆し 三机の人々は感涙した。

当時若桜の九軍神 マダガスカル・シドニー等で散華した緒勇士が
三机に遺した逸話美談は 一斉に花と咲いた。

歌書よりも軍書に悲し三机湾も 今や戦争の真珠湾から平和の真珠湾に衣更え
日米を真珠で結ぶ山紫水明の平和境となり 観光客も次第にその数を増しつつある。

九軍神は戦争の犠牲となり また平和の礎石ともなる
戦争放棄 平和憲法治下 国土平安民生安定の福祉国家として
新生日本はたくましく前進する。

嗚呼 芳しきかな護国の英霊 瀬戸町有志は広く浄財を募って
軍神由緒の地に 慰霊碑を建立して その功績を敬仰する。

旧軍神の英霊永久に冥せられよ。

昭和41年8月吉日健之

前半がまるで戦時中のような語調だったのが、後半にきて
いきなり「戦争放棄」「平和憲法」というのが不思議といえば不思議ですが、
まあつまりこれが昭和41年ごろの日本国民というものかもしれません。

石碑の土台には瀬戸町長をはじめ建設委員であった
当時の町会議員の名前が刻まれていました。

おそらくは当時の町長、町議会議員のほとんどが
三机で訓練を行っていた軍人たちを記憶に止めていたことでしょう。

知らない者に対しては、その逸話を知る者たちが、彼らがいかに礼儀正しく、
また地元の人々に対し「美談」が生まれるほどの印象を与えたかを語りました。

現在の瀬戸町の若者たちも幼い頃から彼らの物語を聞いて育ったのです。

慰霊式の時間直前になって、青年団の若い人が
国旗と自衛艦旗掲揚のやり方を自衛官に指導してもらっています。

毎年の慰霊祭には海上自衛隊から派遣されて自衛官が出席し、
烏帽子に直垂の装束を纏った神主までいて大変立派なものです。

慰霊碑の前にしつらえられた椅子に参加者が揃ったところで
定刻となり、いよいよ九軍神慰霊祭が開始されることになりました。

 

続く。

 


三机・九軍神慰霊の旅〜愛媛県伊方町

2019-12-19 | 海軍

やっと音楽まつりのご報告が終わりましたが、その音楽まつりが
始まってからというもの、阪神基地隊の年末行事、旧軍軍人英霊の慰霊祭、
人間ドック、上原ひろみのコンサートとやたらと行事が集中してしまいました。

ドック入りは本来アメリカから帰ってすぐに予約を入れていたのですが、
今回は事情があって帰国する日を伸ばしたため、予約を取り直してもらい、
こんな忙しい師走に病院で二泊三日(うち1日はPET )過ごす羽目に。

 

今回入渠を行った千葉の亀田クリニックは、病院らしくない病室に、
病院らしくない房総の海を眺める絶景レストランと、辛くて面白くない
検査がほんのりリゾートスパ気分で受けられる数少ない総合病院で、
病室から「ルームサービス」もできるレストランには、和洋中スィーツ、
鉄板焼きコーナーもあって、フィレミニヨンステーキは焼き加減を聞いてくれます。

しかしいかに洒落orzなレストランといえど病院なのでクローズが8時。

というわけで、二日目は最初の食事が午後4時だったのに、
夕ご飯は7時に食べなくてはならなくなってしまいました。

もっともお腹が空いていなければ食べなきゃいいんですが、
食事もお高いドック代に含まれているとなると、パスするのも惜しく、
一応行って、指定の定食(和食洋食から選べる)を頼みました。

前の食事から3時間しか経っていないのにこんなのぜってー無理。

 

さて、ドックの結果は何の異常も認められませんでしたが、
ただ今回、自分で低めと思っていた血圧が、そんなものではなく、
異常に低かったことを思い知りました。

元来わたしは上限100超えることはまずない筋金入りの低血圧。
今回測定をした看護師さんは、数値を見てえらく驚き(50−84)、

「いつもこんなんですか?」

「はあ、こんなもんですねー」

「いや、ちょっと低すぎるのでもう一度測りましょう」

しゅこしゅこしゅこしゅこ・ぷしゅ〜〜〜

「・・・・測らなきゃよかった」

「やっぱり低いすか」

「上が70台です」

「大丈夫です。それくらいは普通というかよくあります」

「ちょっと・・・あの、低すぎるかと。生活に支障は?」

「急に立ち上がったら立ちくらみするくらいですが、
小学校の頃からそんなですし、朝は普通に起きてます。
そんなに珍しいですか」

「珍しいです」(きっぱり)

どんなことでも珍しいといわれるとちょっと嬉しいのはなぜ。

さて、ドック前の週末は阪神基地隊の年末行事に行ってまいりました。
ただし、参加できたのはラスト30分だけです。

いつも週末飛行機に乗るときには空港駐車場が混むので早くきて、
出発時刻までラウンジでゆっくりすることにしているのですが、
この日だけは何を思ったのか、飛行機の便まで早めに取っていたのを
すっかり忘れ、ラウンジで青汁牛乳割りをのんびりと飲んでいるうちに
取った便は出発してしまっていました。

こんなこともあろうかと、変更可能なビジネス切符にしておいたので、
あわててその次の便の空席(最後の一席)に乗ったのですが、
この日の羽田は何があったのか大変な混雑で、出発が30分遅れる始末。

伊丹に着いて車を飛ばし、30分で阪神基地隊に到着しましたが、
基地正門では警衛の隊員さんに、

「今からですか」

と不思議そうに聞かれてしまいました。

到着したら、阪神基地隊司令寺田一佐の前に挨拶の列ができていたので、
様子を見てご挨拶しようと思いつつ、ふと脇のテーブルを見ると・・・、

今回は木下と臼を見ることすらできなかった餅つき大会の成果、
搗き立て餅の盛り合わせセットがありました。

受付で五千円(値上げしたっぽい)参加費を支払ったことでもあるし、
せめてお餅くらいはいただいてみようと写真を撮っていたら、
そんなわたしに声をかけてこられた方がおられます。

「あのー、ブログをやってらっしゃる方ですか」

当ブログ読者キタ━━━━━(゚∀゚;)━━━━━・・・・・????

さすがにこう同じようなことが起こると以前ほど動揺しなくなりましたが、
それにしてもなぜわかったのでしょうか。

「髪の毛が長くてカメラを持っておられるので・・・」

なるほどー。それはいいところに気がついたね。

声をかけてこられた方は水交会と自衛隊家族会の会員で、
やはり息子さんが海上自衛官。
名詞の裏側の写真は、カメラがご趣味の父上が撮った
息子さんのこれまで乗った艦と山岳写真でした。

肩にCanonのEOS を下げておられる方でしたが、当ブログに掲載している
写真を褒めて頂き、望外の喜びでした。(その辺全く期待していないので)

なんでも、当ブログに挙げた自衛隊活動写真に、息子さんが
通算3回も写っておられたということで、偶然とはいえ
そんなこともあるんだ、と驚いたものです。

また登山を趣味とされており、関西出身者なら一度は耳にしたことがある
「六甲縦走」(須磨浦公園から六甲尾根を丸一日縦走する登山コース)
を何回もなさっているという方だったので、そんなお話や、
自衛官の息子さんのお話を楽しく伺っているうちに、
あっという間にお開きの時間になってしまいました。

遅れてきたので誰だったのかわかりません。
政治家の先生の最後のごあいさつだけを拝聴しました。

盛会だったようで何よりです。

関西で行われる艦上セレプションでは食べ物がすぐなくなる、
と何度もネタにしてきましたが、艦上でない場合には
料理もたっぷり用意されているせいか、そのようなことはありません。

テーブルの上のお菓子をせっせとカバンに入れている人は見ましたが。

というわけで、帰りに基地司令、先任伍長らにご挨拶する以外は
一人の方とお話しするだけで終わってしまった行事でしたが、
楽しかったからヨシ!

阪神基地隊の庁舎は全面改装中でした。

ところで、最近伊丹空港のリニューアルが完成して、
飲食店が増えただけでなく、航空会社ラウンジもきれいになりました。

フリークェントカスタマーは専用のセキュリティゲートも使えるのですが、
わたしがアメリカから帰ってきてからというもの、このセキュリティが
やたら厳しくなって、コートはもちろんジャケット(カーディガン状のも)
まで脱げと要求され、ブーツは必ず脱がされるようになりました。

女性の場合、カーディガンの下がキャミソールだったりして
脱げないこともあるのですが、そういうと、全身くまなくボディタッチされ、
スリッパでぺたぺた歩かされるという辱めを受けます。

そんなことをしているのでセキュリティにやたら時間がかかり、
週末の朝など、プライオリティゲートですら長蛇の列ができています。

一度、ゲートの係員に

「何だか最近厳しいですね」

というと、国土交通省からの指導があったからだと答えました。
いったんそういうことになると、例外を認めず、長蛇の列ができようが
女性のカーディガンまで脱がせてきっちりやるのが日本の公的機関です。

年末年始の国内移動時はどんな地獄になることやら。

さて、阪神基地隊年末行事の次の日のこと。
夕方に帰宅したわたしは早々に就寝しました。
なぜなら、次の日、愛媛県松山空港に行く飛行機が
朝7時に出発するからです。

松山だったら神戸から行けば近かったんじゃね?
という説もありますが、飛行機の切符は片道で取ると
二回往復するより高くなるという不思議システムなので、
いったん家に帰るしかなかったのです。

昨日のような間違いを二度とすることのないように、
何度も出発時間を確かめ(笑)4時起きして空港には
1時間前に到着。

飛行機がタキシングしているとき、

「三興丸」

という、三興運油の運油船が航行しているのを見ました。

今回は珍しく窓際を選択したのですが、ラッキーなことに
雲のない晴天だったので写真を撮ってみました。
東京湾にかかるベイブリッジ、スカイツリーもはっきり見えます。

景色を見るために右側の席を予約しておきました。
晴れているとアルプス山脈(だと思う)がこんなに見えます。

まるで白い絨毯のような分厚い雲。

瀬戸内海上空に差し掛かりました。
たくさん島がありすぎて名前を特定することは不可能でしたが、
どうもこの島はリゾート開発でもしているようです。

島と島を結ぶ橋。

こんな景色を見るうちに松山空港に到着です。
本日の目的は愛媛県の西端に細長く伸びる角のような半島の
原子力発電所と同じ名前を持つ伊方町の三机です。

この名前をみて、すぐに歴史的な出来事を思い出すのは
一部の戦史に造詣の深い人だけに違いありません。

昭和16年12月8日、海軍のハワイ奇襲によって大東亜戦争が始まった日、
同時に5隻の特殊潜航艇による真珠湾攻撃が行われ、捕虜となった
酒巻中尉をのぞく九人の乗組員は、攻撃の翌年、大本営発表によって
全員戦死を遂げ、「九軍神」になったとされました。

ここ三机には昭和15年ごろから特殊潜航艇の訓練基地があり、
真珠湾突入の十人のほか、シドニー湾に突入した松尾敬宇大尉、
あるいはのちに「回天」の開発を行った黒木大尉といった若者たちが
この三机で極秘の訓練を受けるために滞在していました。

わたしは、毎年地元青年団が主宰する慰霊祭に深く関わってこられた
ある海上自衛隊OBの方にお誘いをいただき、今回初めて
12月8日の真珠湾突入日を命日として行われる九軍神の慰霊祭に
参加させていただくことになったのです。

松山空港から現地までは途中までしか鉄道の便がないので、
わたしは空港でレンタカーを借りることにしました。

「時間があれば瀬戸内海沿いの道を通ると風光明媚です」

と教えていただいていたのですが、レンタカーに乗って
ナビを入れると、到着予定時間が慰霊祭が終わった時間だったので、
風光明媚は諦めて高速道を選択しました。

高速を降りて197号線を走っていると、伊方到着直前、
いきなり「みかんの花が〜」のメロディが聴こえてきてビビリました。

「何だ今のは」

思いながら走っていると、「佐田岬メロディライン」という看板がありました。

車のタイヤと道路の振動でメロディが聞こえるような設置がされているのです。

佐田岬メロディライン R197 「みかんの花咲く丘」 愛媛県 伊方町 

道路に細かい溝が刻まれていて、一定の速度(50km)で走ると
その幅の違う溝が音程をつくり、メロディに聞こえるのだとか。

メロディラインには三曲が設定されているそうですが、行きに
一曲しか聴こえなかったのは、速度が50キロを超えていたのでしょう。

ナビの案内通り1時間半走って、指定時間まであと10分、
というとき、ちょうど車は山を越えて三机港を見下ろす道に出ました。

本当に小さな小さな漁村です。
特殊潜航艇の訓練が行われていた頃、三机村だったこの地は、
昭和30年に伊方町に統合されましたが、現在の人口も3千人くらいです。
地図で調べたところ、三机には小学校しかなく、中学校は山を越えたところに、
高校はどこが近いかわからないというくらいの過疎地です。

慰霊祭の主宰は青年団ということですが、こういう土地で
逆によく若い人が残っているものだと思ったりしました。

鉄道はいまでもありませんが、昔は海上交通が盛んでした。

待ち合わせに指定された「町民センター」に到着したのは 
ぴったり海軍5分前。
1時間半ドライブして、こんな正確に到着できたのも
英霊のお導きではないかとふと思ったりしました。

比較的近代的な(おそらく平成初期の建築)町民センターの向かいは
間違いなく九軍神がここに滞在していたころからあった民家。

町民センターの向かいのこの家は、松本旅館。
細部は改装を重ねていますが、躯体は当時のままだそうです。

こちらには特殊潜航艇の乗組員のうち、艇附であった下士官
(横山薫範、佐々木直吉、上田定、片山義雄、稲垣清兵)
が宿泊していたと後で聞いて驚きました。

そして、このて前から二軒目があの「岩宮旅館」です。
岩宮旅館には、隊長の岩佐直治大尉以下、横山正治中尉、
古野繁実中尉、広尾彰少尉、そして酒巻和男少尉ら
海軍兵学校卒の士官たちが宿泊していました。

慰霊祭の前、そして慰霊祭終了後の直会の後にも、
わたしたちは岩宮旅館の玄関にある資料を前に、
説明を伺うことができました。

岩宮旅館は戦後建て替えを行っていますが、
場所は全く同じで変わっていないそうです。

岩宮旅館の隣の家は開業医がいたらしく、
すっかり錆びた看板がまだ残されていました。

昭和15年に訓練が始まった頃には、1ヶ月おきにやってきて、
その度に1週間から10日ほど滞在していたそうですが、
日米開戦が近いと目されていた昭和16年の春からは、
両旅館に泊まりこみになったということです。

慰霊祭の時間が近づきました。
わたしは参加者の海自OBの方が乗ってきた車に乗せて頂き、
山上のドライブウェイから見えていた砂州のようなところにある
須賀公園の駐車場までやってきました。

ここから歩いて公園の奥まで行くと、そこが慰霊祭会場です。

例年慰霊祭は青年団が開催するため夕刻からの開始になるのですが、
今年は12月8日が週末だったため、昼に行われることになりました。

「かなり寒いので防寒対策をしっかり行ってください」

と脅かされて?いたのですが、思っていたほどの寒さはなく、
むしろ日差しが強くてじっとしていると暑いくらいです。

ただ、この公園に来てみると、風の強さには驚きました。

車を止めたところから慰霊碑まで歩いて行く途中に咲いていた小菊。
名前は知りませんが、供花にされる種類ではないでしょうか。

慰霊祭はこのあと12時から開始となりました。

 

続く。

 


「海軍大将一堂に会す?」〜海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館展示

2019-04-13 | 海軍

前回に続き、この3月に二回にわたって訪れた江田島の教育参考館で、
心に残ったものについて書いています。

 

💮 東郷元帥のカールツァイス製双眼鏡

 

昔、三笠博物館にいったとき、ロジェストベンスキー提督が乗っている
駆逐艦「ヴェドヴィ」を発見し、お手柄をあげた若き中尉、塚本克熊
カールツァイスの双眼鏡が展示されていたのでそれについて書いたことがあります。

 

東郷長官と塚本中尉のツァイス

 

 

東郷平八郎の双眼鏡を覗かせてもらい、欲しくなった塚本中尉が、
当時の給料一年分をはたいて購入したツァイスの双眼鏡で大活躍、
若いうちの投資は惜しむな、ということを教訓にしてみました(そうだったっけ)

 

そのとき、塚本中尉が覗かせてもらった東郷長官の双眼鏡実物がここにあります。

 

三笠にあった塚本中尉のと違い、大事に保存されていたせいか黒皮巻き残っていて
おそらく今でも十分に役目を果たすのだろうと思われます。

 

 

💮 東郷平八郎のお裁縫セット

昔は洋服に穴が空いたら繕って使い続けるのが当たり前。
さらに、男性であっても海軍軍人ならそれができるのも当たり前。

というわけで、ここには東郷元帥が使っていたお針セットと、
靴下が飾ってあったりします。

しかし、現代の自衛隊でもお裁縫スキルは必須です。
なぜなら、階級章やボタンなど、皆自分で制服に縫い付けるからです。

防大もそうですし、幹部候補生学校では、一般台から来た候補生が
いきなりお裁縫とアイロンがけでビシビシしごかれることになります。 

 

💮 大和守護神

絵つながりでもういくつか。
前回、横山大観、藤田嗣治という二人の偉大な画家が戦時中は
軍に協力したということで戦後「戦犯」呼ばわりされたことを書きましたが、
同じコーナーには

大和守護神 堂本印象

があります。
奈良県天理市にある大和(おおやまと)神社が描かれた絵なのですが、
この大和神社には、昭和16年、海軍から

「新しい軍艦に御社の御分霊を祀りたい」

という申し出がありました。
その際、それが「大和」という艦名であることは伏せられていました。
依頼を仲立ちしたのは奈良県で、同時に堂本印象に絵を注文します。
その絵がこれで、絵の裏には「軍艦大和艦長室」と記載があるそうです。


昭和20年の春、天一号作戦で「大和」が沖縄特攻に出撃するにあたって、
可燃物となるものは全て陸揚げされることになり、この絵も艦から降ろされました。

その後江田島に進駐軍が入るという知らせを受けて、美術作品の多くは
宮島や大三島の神社などに、この作品は呉海軍共済病院(現在の呉共済病院)
に預けられていましたが、昭和31年になって海上自衛隊教育参考館に寄贈されました。

大和神社には沖縄特攻で戦死した2717名が末社・祖霊社に合祀されています。
1969年(昭和44年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立され、更に昭和47年、
坊ノ岬海戦に参加した巡洋艦「矢矧」他、「冬月」「涼月」「磯風」「濱風」
「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」、駆逐艦8隻の戦没者も合祀して、
この海戦での全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られています。

 

💮技術報国の碑

目黒の幹部学校で先日防衛セミナーを聞いてきましたが、
その時取り壊していた昔の技本の建物の道を挟んで向かいに、

「技術報国」

という碑があります。
この文字を揮毫した都築伊七中将とは、横須賀海軍工廠で、
歴代25名の工廠長のなかでたった三人しかいなかった機関将校の一人です。

 

江田島にはこの拓本が展示されていました。
ただ、ちょっと思ったのは、機関学校出身だった都築中将には、
江田島はあまり思い入れのない場所だという可能性についてです。

 

💮 秋山真之の「鯉」

奇人変人としても名を馳せた紙一重の天才、秋山真之は、
どうやら絵も上手く、描くのが好きだったと見えます。

教育参考館には、見事な鯉が描かれた秋山の手紙が遺されています。

見たところ、手紙にサラサラっと、しかし興が乗ったのか細部も描き込んで、
下書きもなしにかーるく仕上げてしまった感じが只者でない感じ。

「ほー」

「秋山真之って絵が上手かったんですねー」

これを見るとほぼ全員がこのような感想を漏らします。
得意なことはちゃんと証拠を残しておくもんだね。


💮 山本長官機の尾翼

 昭和18年4月18日、聯合艦隊司令長官山本五十六大将の乗った
一式陸攻が撃墜されました。
世にいう「海軍甲事件」です。

教育参考館には、この時墜落した機体の尾翼が展示されています。

wiki

ちょうど尾翼が写っていますが、ここにあったのが垂直尾翼か水平か
確認しそこねました。

長官機は墜落後主翼より前の部分、胴体、尾翼と
三つに分かれており、尾翼は胴体80mも離れたところに

「もぎ取られたように」

転がっていた、と第一発見者が証言しています。
(『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』高嶋博視著より)


💮 柳本柳作艦長の像

紅蓮の炎を体に巻きつけた仁王像のような海軍軍人の木彫の像があります。
柳本柳作海軍大佐(最終少将)を表したものです。

現地に詳しい説明はありませんが、もしあなたがミッドウェイ海戦において
柳本柳作少将が空母「蒼龍」の艦長としてどんな最後を遂げたかを知っていれば、
この小さな木彫に瞑目せずにはいられないでしょう。

「蒼龍」に総員退艦命令が出た後、柳本は一人艦橋に残った。(略)
飛行長楠本中佐は何としても艦長を艦と共に死なすまいと説得を続けたという。(略)
しかし、柳本は頑として首を縦に振らず、そのうち炎で半身に火傷を負っていたという。
窮した楠本は相撲の心得のある乗組員に命じて無理矢理艦長を艦橋から連れ出そうとした。
しかし、炎を掻い潜って艦橋に向かった乗組員が柳本に

「艦長、お迎えに参りました」

と近寄ると、

「何だ!お前は!」

と物凄い鉄拳をその乗組員の頭に放ちあくまでも退艦を拒否した。(略)
柳本はその後最後に退艦する乗組員を艦橋から見送った後、

「蒼龍、万歳」

を連呼しながら炎渦巻く艦橋に飛び込んでいったという。
乗員達はブリッジに残る柳本を顧みて業火の中の壮絶な姿が印象的だったという。

(『太平洋海戦2激闘編』佐藤和正著)


💮 黒木博司大尉の制服

特殊潜水艇で体当たり攻撃を行う「回天」を開発したのは上層部ではなく
海軍機関学校卒の若い士官でした。
その中心だった一人、黒木大尉は、「回天」の使用を上層部に認めさせた後、
実戦で投入するための訓練中に艇が沈没し、殉職しています。

教育参考館中程には、特攻に赴いた海軍軍人たちの遺品や遺書などが
兵学校卒業か否かにかかわらず集められていて、ここでは展示についての説明はなく
ただ、全てを出来るだけ見て、心に留めてくださいといわれました。

 入ってすぐのところにこの黒木大尉の軍服が展示されています。


💮 謎の宴会

 下の階の、兵学校の卒業写真が見られる部屋に進むと、
直継不二夫氏の写真などが飾ってあるガラス張りの展示壁がありますが、
その一番端に、わたしは海軍軍人が記名した巻物?を見つけました。

これがちょっと不思議なのです。
まずその巻物は、一枚の紙に記名がされており、宴会か会合で
海軍軍人が一堂に会した時のものであることはわかるのですが、
わたしが注目したのは書かれた軍人のメンバーです。

有馬良橘 (1944)

財部彪 (1949)

竹下勇(1949)

末次信正 (1944)

岡田啓介(1952)

安保清種 (1948)

米内光政(1948)

百武源吾 (1976)

山梨勝之進(1967)

小林躋造(1962

皆さんはこの全員に共通するタイトルが何かご存知ですね?
そう、全員が海軍大将。

わたしはこの近くにおられた説明の方(学芸員というべき職員)に

「一体どういう状況で揮毫されたかご存知ですか」

と聞いてみたのですが、特に詳しいことはわかっていないようでした。

カッコの中はお亡くなりになった年なので、この宴会は
1944年以前に行われたことは確かです。

「海軍大将友の会」みたいな会合でもあったんでしょうか。


💮 海軍兵学校出身戦公死者銘碑

大理石の壁に刻まれた特攻隊戦死者名簿碑のちょうど裏側には
海軍兵学校卒生徒の戦公死者名を刻んだ碑があります。

兵学校は昭和20年3月までに約1万1千200名の卒業生を輩出し、
その三分の一に当たる約4千名が戦公死しています。
とにも芋昭和8年卒業の61期から昭和18年卒業の72期までは
卒業生の半数が戦死しています。

三面の石の銘碑のあるバルコニー状の場所の両側には扉があって、
扉のガラス越しに中を見ることができます。

ここは一般の見学者には非公開となっているのですが、例えば
戦死者の親族などであれば、中に入ることを許されます。

今回、わたしが海軍兵学校同期会に籍を置いていることもあって、
碑の正面から瞑目し手を合わせることを特別に許していただきました。

全戦死者名の名前はある兵学校出身者が揮毫したそうです。
碑の前にはその後ろの特攻戦死者名碑と同じく、花が供えられ、
水をたたえた鉢が置かれておりました。

 
 
さて、平成29年の幹部候補生学校卒業式に彬子女王殿下がご来臨になり、
その際、殿下に構内と教育参考館の説明をされたのが前一術校長でした。
 
女王殿下のご案内にあたっては、半年以上前から準備が始まり、
展示やその他の情報を精査し、説明内容は完璧に記憶して、
殿下来臨に先立ち、女王殿下役の女性職員を立てて実際に説明して
時間をはかりながら構内を回るというシミュレーションまで行ったそうです。
 
わたしたちは、いうならば女王殿下や安倍首相のために準備された
海上自衛隊挙げての知力結集の恩恵(の余波)に預かったようなものであり、
また1ヶ月後に退任された校長にとって、わたしたちの案内は、
その成果を発揮する最後の機会になったということになります。
 
何れにせよ、このような最高の機会をいただけたのは
わたしたちにとってただただ僥倖というほかありませんでした。
 
 
続く。
 
 



 


大講堂の「白い二本の線」〜江田島・第一術科学校見学

2019-03-10 | 海軍

 

来週土曜日の3月16日には、平成最後の幹部候補生となる、
A幹部(防大・一般大卒)の卒業式がここ江田島で行われます。

部内課程の卒業式はもうすでに2月7日に実施されており、
卒業した幹部は現在「せとゆき」「しまゆき」での外洋練習航海に出ています。

2年前の2月3日、わたしはこの部内課程卒業式にも出席させて頂きましたが、
一般課程と全く同じ形式で行われるものであることをそこで知りました。

海軍兵学校時代の昔から、海軍士官の旅立ちを見守ってきたのが
大正6年(1917)に建造されて今年で98年目になる、大講堂です。

 

先日の江田島訪問では、学校幹部の方々直々のご案内によって
大講堂を見学させていただき、普通に見学しただけでは見ることのない
裏の部分も見せていただくことができました。
(もしかしたら、幹部候補生も立ち入ったことがないかもしれません)

ただし、学校側に確かめたところ、貴賓室の不特定多数に向けた公開は
・・・という返答でしたので、写真はなしです。ご了承ください。


大講堂の外側門寄りに、賓客などが車を横付けして入っていく
屋根付きの入口があるのをご存知でしょうか。

ここを正式にも「お車寄せ」と称するそうです。
昔は建物ギリギリまで車を乗り入れることができるようになっていました。

あそこは大講堂の壇のある方に近く、その二階に設えられた
来賓のための待合室にすぐ案内できるのです。

畏れ多くも初めてこの入口から大講堂に入っていくと、
そこからは階段を上り、来賓の控え室に到着しました。

二階には二つ部屋があり、その一つは貴賓室となります。

卒業式では壇上に上がる来賓と、学校長を始めとする自衛隊幹部が
ここでお茶などいただきながら開式をお待ちするわけですな。

江田島の旧軍時代からある建物には必ずここにも写っている暖炉があり、
その多くは焚き口を塞がれてただのマントルピース風飾りになっていますが、
この部屋の大理石の暖炉はかつてのままの姿をとどめています。

 

貴賓室には富士山の絵がありました。
教育参考館にあった横山大観の絵に似ているなあ、

と思ってサインを確かめたら本物でした。

宮様もお出ましになる貴賓室にまさか偽物を置くわけがありません。
国宝級の画家の絵がさりげなく掛かっているとはさすが旧海軍兵学校。

 

その傍らをふと見れば、さりげなく鈴木貫太郎の「智仁勇」の額が。

鈴木貫太郎は大正7年(1918)、つまりこの大講堂ができた次の年、
海軍兵学校長(中将)としてここ江田島に勤務しています。

軍人が書を求められるのは少なくとも大将になってから後のはずですから、
この書がずっとここに掛かっていたとしても、それは昭和になってからでしょう。

貴賓室から外に出ると、そこは貴賓用観覧席。
2年前、卒業式にご来臨賜った彬子女王殿下はここで式をご覧になりました。

椅子に座って講堂全部が見渡せるように高台が設置されています。
赤絨毯の敷かれた台は木製で、これもおそらく戦前からのものでしょう。

貴賓用ですから、他のところとはドアで区切ってあります。

やんごとないお方の視線で大講堂を眺めるとこうなります。
わたしは彬子女王殿下ご臨席の時には、右側に写っている柱の少し向こう側に
座っていましたが、そこから殿下のお姿は窺えませんでした。

やんごとないお方の視線その2。

この時、一連の解説をしてくださっていたのは自衛官らしく非常に明快に
はっきりと大きな声で話をされる方でしたが、この声が反響して
講堂中に響き渡っているのをまたもや実感しました。

増幅装置を使わなくてもいいように、壁には和紙を塗り込んでいる、
という話は過去何度かの江田島見学の時に聞いていましたが、
今回改めて聞くと、さすがに今は修復にその方法は使われていないそうです。

ただ、壁材は非常に柔らかいもので、それは手で触ってもわかりました。

幹部候補生家族などが観覧するためのスチールの観覧席があります。

「兵学校時代はハンモックナンバーといって前から成績順に座っていたので、
卒業生の家族は、自分の息子の座っている場所で順番がわかりましたが、
今は特別に表彰を受ける5名以外は姓名のアイウエオ順です」

昔江田島の一般見学に来た時、案内係だったOBは、

「成績順に座ります。わたしはほとんど最後尾でした」

と言って笑わせていたのですが、昔は自衛隊でも成績順だったのか、
それとも説明係の自虐ギャグだったのでしょうか。

下から見ると舵輪の形をしている照明具ですが・・、

ここからなら真横からかなり細かいところまで見ることができます。
どうやって手入れしているのかわかりませんが、全く劣化が見られず、
できてから100年近く経過しているとはとても思えません。

 

 

大講堂二階の貴賓室にはドアが二つあります。
呉地方総監部の二階正面の貴賓室もそうでしたが、昔は
皇室の方々と下々の者は同じ扉から出入りすることも憚られると、
専用貴賓室にはすぐ横に別の扉を設けていました。

 

 

二階には二つ部屋があり、おそらく、皇室の方々のための貴賓室と、
もう一つはその他の来賓用と考えられます。


こちらの部屋には、兵学校の卒業生(キノシタマスミさん)の絵が掛かっています。

この木下さんは70期台の卒業生で、このように江田島の四季を
描いては第一術科学校に寄付してこられたようで、別のところでも
同じタッチの絵をいくつか拝見しました。

ツツジの季節に描かれた「西生徒館を望む」という絵。
海軍兵学校時代、この建物は西生徒館と呼ばれていました。

海上自衛隊になってからはここが第一術科学校であり、
建物の名前もそうなっていたのですが、木下氏にとっては
ここはいつまでも「西生徒館」であったのでしょう。

この絵の描かれた1988年には3階建てだった建物も、
耐震を加えた躯体改装工事により今は4階建と変わっています。

老朽化した第一術科学校を建て直す案が出た時、
主にまだ当時健在だった海軍兵学校出身者から反対の意見が出たそうですが、
改築は元の姿を最大限止めるという約束のもとに決行されました。

下に降りることになりました。

貴賓室のある二階から降りる階段の踊り場は、
アーチを描く美しい窓越しに光が入ってきてとても明るい。

窓越しに「兵学校の松」がまっすぐに背を伸ばしているのが見えます。

階段を降りると、ステージというか式台の裏側に出てきます。
ドアをくぐると国旗と海上自衛隊旗の交差するステージの右手で、
思わぬところに出てきたのでちょっとびっくりです。

玉座は連合国軍(主にオーストラリア軍)が接収していた頃、
教会となって十字架が設置されていたそうです。

一般公開の案内で「マリア像が置かれていた」といっていた人もいましたが、
この日解説してくださったのは2年前彬子女王殿下をご案内をするために
江田島の歴史を精査して内容をその緻密な頭脳で覚えこんだという
現第一術科学校長なので、おそらくこちらが正しいと思われます。

連合国軍はここがカソリック教会として、そして山手にある賜餐館を
プロテスタント教会にしていたということです。

第一術科学校に一歩足を踏み入れると、すでに空気が凛として
思わず背筋を伸ばさずにいられない気持ちになるのが常ですが、
特にこの大講堂の中は、これまでここで幾度となく行われてきた
厳粛な式典の空気を湛えているせいか、外界とは完璧に違って見えます。

ちなみに左におられる海将補と一佐は、かつてここ江田島で

「赤鬼と候補生」

の関係でした。

「部屋長と部屋ッ子」

もそうですが、防大やここ幹部候補生学校での上下関係は
それからの自衛官人生でずっと続きます。
幾つになっても、階級が上がって同じ勤務地で多くの部下を持つようになっても、
候補生にとって当時の赤鬼青鬼は永遠に鬼です。

一佐によると、赤鬼の頃の海将補はそれは怖かったそうです(笑)

この写真を見る限り普通に談笑していますが、こうなってもやはり、
二人の関係性は変わることがないものなのでしょう。

毎年2回行われる卒業式、幹部学校長はこの、同じところに革靴で立ち、
新しく幹部に任官する元候補生に証書を与えます。

見たことはありませんが、おそらく入校式の時も同じ場所に立つのでしょう。
そこには長年に亘って靴の踵が作った傷が白く残っていました。

それ以上にすごいのがこちら。
卒業式を見たことがある方ならご存知ですね。
この壇の一番上の段は、候補生が賞状を受け取るために
列を作って歩くため、白い二本線が壇の中央まで刻まれています。

つまり

「白い二本線」=White Two Lines

ウェストポイントの長い灰色の線「Long Gray Line 」みたい。

兵学校でのハンモックナンバー上位5名がそうであったように、
今でも幹部候補生の成績優秀者上位5人だけがこの赤絨毯の上を歩き
短剣ならぬ賞状を受け取り、ここを後ろ向きに降りることになっています。

 

「じゃ赤絨毯踏んだりしたらダメですね」

「いえいえ、ここで写真を撮ります」

わたしたちは畏れ多くも赤絨毯の上に立ち、
両校長に囲まれて記念写真を撮ってもらいました。

お二人ともおそらくはかつて「恩賜の短剣組」ならぬ本物の「赤絨毯組」?
わたしたちは「体験入隊」扱い、つまり海士相当?ですが特例です。

聖地江田島の最も神聖な大講堂から始まったこの日の見学ツァー。

なんども来ていて、一般見学者には見ることのできないところを
見学したという自負を持っていたわたしにとっても、
初めての場所を見せていただける貴重な機会となりました。

 

続く。

 



 

 


「宜しい」と第六潜水艦煎餅〜海上自衛隊岩国航空基地史料館

2019-02-04 | 海軍

岩国基地に訪問し、まず群司令との会談に続き、レクチャーを終えたのち
一旦司令に挨拶をして車に乗り込みました。
見学ツァーの最初は、岩国基地にある資料館です。

あ、ところで忘れないうちに書いておきますが、群司令との会談中、
ふと部屋の隅を見ると、以前呉地方総監伊藤海将表敬訪問の際と同じく、
何やらメモを取っている自衛官がいました。

公式の訪問ですので、そこでどんな質問が出てどんな会話になったか、
自衛隊では逐一記録に残すことになっているのは知っていましたが、
あまり変なことを言ってそれが記録として残るにはしのびず、
ちょっと緊張したことをご報告しておきます。

 

さて、資料館見学は岩国基地見学に必ず含まれるコースのようです。
決して大きなものではありませんが、旧軍時代の資料と自衛隊になってからの
二箇所に分かれた、非常に充実した資料館でした。

 

ここ岩国があの佐久間大尉の第六潜水艇殉難の地だったこともあり、
資料館の最初の部分には第六潜水艦関連の資料が展示されています。

冒頭写真は、事故後建立された慰霊碑の実物だと思われますが、
劣化しやすい材質の石碑だったらしく、文字が解読不可能になり、
その後取り替えられたためここにあるのではと思われます。

掠れて読めなくなった文字を書き起こしたパネルが横にありました。

ホランド級潜水艦を改造した第六潜水艇は、事故を起こした時、
安全上から禁止されていた「ガソリン潜行実験」の訓練を行なっていました。

このパネルには「半潜行訓練」とありますが、つまりガソリンエンジンの
煙突を海面上に突き出して潜行運転を(シュノーケル状態?)していたのです。

沈没は、何かの理由で煙突の長さ以上に艇体が沈んでしまったのに
運悪く閉鎖機構が故障していたため、手動で閉鎖するも間に合わず、
着底してしまったということになっています。

この資料館を見て初めてわたしも知ったのですが、第六潜水艇の沈没位置は
ここ岩国港の至近距離だったそうです。

岩国基地を辞去した後、わたしは車を運転して国道二号線を呉に向かいましたが、
その途中、道路脇に「第六潜水艇記念碑」の看板を見つけました。

岩国の水交会などが殉難の地を見下ろす丘に、記念碑を建てていました。

第六潜水艇記念碑

事故後潜水艇が引き揚げられ、愈々ハッチが開けられることになった時、
内部の阿鼻叫喚の様子を想像した人々は、そこに、全員が持ち場を守り、
最後まで自分の職責を全うして死んでいる潜水艇乗員の姿を見た・・・。

何度も物の本や資料で読んだこのストーリーも、遺品を目の前に
自衛官から説明されると、新たな感動と彼らへの敬意が起こらずに要られません。

実はこの呉訪問でお会いした元自衛官とも、偶然ですが第六潜水艇の話になり、
さしものわたしも知らなかったこんな話を伺いました。

「今でも海上自衛隊は『よろしい!』という言葉を使いますが、
それは第六潜水艇の事故以来海軍で使われてきた言葉なんですよ。

最初に第六潜水艇の中を確認した基地司令が、整然と持ち場で死んでいる
乗員の姿を認めたとき、滂沱の涙を流しながら敬礼しつつ
『宜しい!』と言ったのが、その最初だったそうです」

海自の「宜しい」は、例えば

「気を付け!」「敬礼!」「直れ!」

まで言った後、「よろしい!」そして「着け!」というように使います。
上から下への「グッド」という意味ではなく、ここでは
「できました!」みたいな状況で下から報告する時に使うのですが。

昔から「宜しい」は実に海軍らしい言い方だなと思っていたのですが、
第六潜水艇が「事始め」だったとは知りませんでした。

潜水艇の中にあった佐久間大尉の洗面器(真っ黒)や
副長だった?長谷川中尉の制帽の箱までが展示されています。

第六潜水艇の乗員が殉職していた位置図です。
全員が各自の持ち場にいただけでなく、そうでなかった二人は
故障箇所にいて、最後まで艇を何とかしようとしていたそうです。

佐久間艇長は最後までこの図で見る「艇長腰掛け」に座って
あの遺書を書き認めていたようですが、絶命してから落下し、
その真下の床に横たわっていた、とされています。

自筆ではなくコピーですが、佐久間大尉の遺書もありました。
これは艇内で絶命する瞬間まで書き連ねたあの遺書ではなく、
両親に向けて送られた「武人の覚悟」ではないかと思われます。

全世界にその見事な死に様を賞賛された佐久間大尉とその乗員たちですが、
事故の原因については、

「母船が異常を報告しなかったのは、日頃から佐久間大尉が
母船との打ち合わせを無視しがちで、さらに異常を報告して
何もなかった場合、佐久間艇長の怒りを買うことを恐れたから」

とか、

「佐久間大尉は過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたため
禁じられていたガソリン潜行の実施を行い、しかも母船に報告していなかった」

という調査結果が出されています。
この辺は命を預かる艇長として責任を問われるべきだと思うのですが、
その従容と死に向かった姿が全てを白紙にした感があります。

岩国名産「六号煎餅」。
煎餅に潜水艦か佐久間艇長の顔が焼いてあるとか?

呉の鯛乃宮神社には第六潜水艇殉難者之碑があり、毎年、事故のあった日に
海上自衛隊主催で追悼式が行われているそうですが、平成29年度は
1日早い14日だったようです。

 

さて、続いてのコーナーは「予科練」です。
岩国では飛行予科練の教育が昭和16年から18年にかけて行われていました。

岩国での一期生は1,200名だったそうです。
最初に着隊して被服を支給され、憧れの「七つボタン」を受け取りますが、

「ヘエーこりゃダブダブだ服に体を合わせろ!」

「服に体を合わせろ」というのは、上から言われた言葉だそうです。

タスキをかけ、脚絆を巻いて錦帯橋まで行軍訓練(左)
座る時には膝を広げ、両手を拳にして膝に乗せる。

現在も海上自衛官は(陸海空全員かな)同じ姿勢です。

飛行服姿の記念写真(左)。
休んだ人は右端に大アップで写真が残ります。

右は宮島まで行軍した時の記念写真。
よく見ると前に鹿がいますが、皆ニコリともしておりません。

海軍兵学校の岩国分校があった時期もありました。
終戦近くなり、なぜか大量に増やされた海軍兵学校の生徒。

わたしはこの措置を、

「もう勝つことがないと戦局を冷静に判断した海軍首脳が
負けた後国を興すための人材を大量に養成しようとした」

という理由によるものと考えていますが、その是非はさておき、
いわば「疎開」状態だった岩国分校の生徒は大変だったようです。

終戦時には75期生から最後の77期生まで、
3校で1万名を超える海軍士官の卵が学んでいた。
入校式で吊る憧れの短剣は輸送途中に空襲で焼失、借り物で済まし、
純白の夏制服は緑色に染められ、酒保・甘味品もなし。

確か、食べ物もなく病気が多数発生したという話も。

兵学校で使われていた教科書が残されていたようで紹介されていました。
「ジュットランド」とありますが、これは「ユトランド沖」のことですね。

確か模型展覧会の見学の時にお話ししたと記憶しますが、第1次世界大戦で
あの「インヴィンシブル」「クリーンメアリー」などが沈んだ海戦でしたね。

物理の教科書。
「爆撃の弾道」とか、科目も実に実践的です。

物理の教科書には赤ペンで書き込んだ持ち主の計算式が・・。

予科練出身で「瑞鶴」飛行隊勤務になった人の寄贈した写真。
二列目真ん中で椅子に座っているのが士官で、その真ん中が
飛行隊長であろうと思われます。

にしても皆若いですね。

この後、構内を車で回っていて、古い建物を指さされました。

「あの入り口で撮られた有名な連合艦隊司令部の写真があります」

真珠湾攻撃の前、11月12日に作戦会議が行われた建物は
今でも岩国基地構内にあって米軍が使用しています。

前回、米海兵隊のパイロットであるブラッドとその妻に
構内を案内してもらった時、零戦の掩体壕の中を見せてもらいました。

これによると、岩国基地には零戦22型が配備されていたようです。

新聞による連載記事で、ここ岩国にあった
旧海軍第11航空廠岩国支廠を、「地下飛行機工場」について
現状(昭和62年当時)に始まり、開設に至るまでの経緯、
農家を強制的に接収し、呉の設営隊を千人投入して掘削を行い、
小・中学生まで夏休みに駆り出して作られた、ということが書かれています。

ここでは「彗星」「紫電改」などを生産していたのですが、
機体が完成する前に終戦になってしまい、結局生産するには至らなかったと。

終戦となった空廠では、進駐軍に備え証拠を隠滅する作業が行われました。
戦後の食物不足の時にはここで豚飼育が行われ、子供達には
格好の遊び場となっていたとか。

戦後トンネルが崩落仕掛けて上にあるトンネルに亀裂が走り、
放置してあるのは「行政の怠慢だ」という住民も登場します。

最後にはこの遺跡を残す地元民の声が紹介されています。
証言している人々はどちらかというとノスタルジーから「青春を懐かしんで」いるのに、
新聞は相変わらず「悪夢の遺跡、後世に残すべき」と平常運転。

海軍時代の看板がそのまま残されています。

「呉海軍施設部 岩国施設工事 藤生愛宕分遣所」

海軍空廠が建設されていた頃、呉から施設隊が派遣されていたようです。

 

現在の空廠の跡は、「悪夢の遺跡」として公開されることなく、
在日米軍の弾薬庫となっています。

 

 

続く。

 


二人の艦長〜インディアナポリス轟沈と伊号58

2018-07-30 | 海軍

メア・アイランド海軍工廠跡の博物館の一隅でわたしは足を止めました。
あの戦艦「インディアナポリス」が彼女の運んだ原子爆弾について、そして

彼女を轟沈した伊58潜水艦とともに紹介されていたからです。

それは73年年前の今日、1945年7月30日の出来事でした。

アメリカ海軍の戦艦を攻撃した帝国海軍の潜水艦長と、攻撃を受けて
沈んだ戦艦の艦長だった二人の指揮官について、お話ししようと思います。

戦艦「インディアナポリス」はニューヨークのカムデン生まれ。

開戦後ニューギニア始めアリューシャン、マリアナ諸島、フィリピンと
太平洋に派出されては次の任務まで、ここメア・アイランド海軍工廠で
オーバーホールを受けてきて、ここが「ホームグラウンド」でもありました。

メアアイランド海軍工廠に入渠時の「インディアナポリス」です。
この時工廠では白丸で囲まれた部分の換装が行われました。

って、これ艦橋全部ですよね。

 

メア・アイランド海軍工廠は、原爆投下のための重要な役割の一部を担っています。

ヴァレーホ在住で35年間メア・アイランドで艤装に携わってきた
エディ・マルチネスは、1945年、サイクロンフェンス(クリンプネットの鉄条網)
がある日工廠の北端にある武器倉庫No.627Aの周りに巡らされ、10日後には
犬を連れた海兵隊がフェンス周りを警備するようになったのを目撃しています。

何年かして当時の極秘資料が公開されたとき、マルチネスは原子爆弾のコンポーネント、
周辺器具がメア・アイランド経由で梱包され積み込まれたことを知りました。

資料によるとメア・アイランド海軍工廠は南方に輸送するために精密機器を扱うのに
特殊な技術を持っていて、それが評価されたということになっています。
そして単独の、独立した建物が御誂え向きに島の端にあったということでしょう。

2ヶ月後、建物と柵は撤去され跡形も無くなりました。

この写真は1945年7月10日、メア・アイランドを出航する「インディアナポリス」。

メインのオーバーホールをここで受けた後、彼女は「極秘任務」として
サンフランシスコ東海岸にあったハンターズポイント海軍工廠で、
核実験(トリニティテスト)を数時間以内にしたばかりの濃縮ウラン、
広島に投下予定の原子爆弾に搭載するための濃縮ウランを積み込み、
サンフランシスコからパールハーバーに7月19日に到着しました。

その後テニアンに向かい7月26日到着、「積荷」を降ろし、
28日にレイテに向かいました。

その航路途中、7月30日、橋本以行艦長率いる帝国海軍の伊号58潜水艦の魚雷を受け、
わずか12分(5分という説もある)で「インディアナポリス」は轟沈しました。

ここにある展示の説明は、

インディアナポリスがメア・アイランドのドライドックに入渠中、
戦争省は今まで一度も使われたことのない「爆弾」を運搬する船に
彼女を指名したが、その理由は彼女の速度であり、能力であった。

ニューメキシコのロス・アラモスで進められていた「マンハッタン計画」を
実行に移すことが決定したのは7月16日のことであった。

同日の早朝、厳重に秘匿されてはいるけれど多くの提督が、将軍が、
そして技術者たちが布で覆われた原子爆弾が「インディアナポリス」に
積み込まれるのを凝視していた。

とあり、これもまたwikiとは日付が違っていて困ったものです。
7月16日といえば、インディアナポリスは太平洋上を航海中だったはずなんですが。

いくつかの大きな木製木箱が好奇心をあからさまにする人の目から
隠されるように艦内に積み込まれ、艦内の一角に安置され数人の警備がついた。

映画「インディアナポリス」には、好奇心を隠せない水兵が、警備の海兵隊員に

「中身は?マッカーサー将軍のトイレの紙って聞いたけど」

と冗談をいって睨まれるシーンがあります。
ちなみに、この海兵隊員(生存)は水兵(生存)に

「なんでマリーンに来たの?」

と聞かれ、

「To kill people.」(人を殺すためだ)

とにこりともせずに答えます。

 

「インディアナポリス」総員の出港前記念写真。

こちらは映画の全員で写真を撮るシーン。
こういう写真では兵たちは砲の上、艦橋にくまなく乗って写っているものですが、
それをしなかったのは・・・後ろの戦艦がCGだったからかな?

二つの爆弾の「心臓」はウラニウム−235で、鉛で封印された
金属コンテナに収められ、アドミラルキャビンの中に滑り止めをつけ、
デッキに溶接された台に安置された。

ということはですね。

よく歴史の”if”で語られるように、伊58の攻撃がもう少し早く、
つまりテニアンに着く直前であったなら、間違いなく
原子爆弾は
艦と共に海の底に沈んでいたということでもあります。

この原子爆弾二基のために、地球上に存在するウラン量の半分が
濃縮されたともいわれており、したがってさしものアメリカにも
追加で原爆を製造することは不可能だったのではないでしょうか。

原子爆弾の中身の図解がありました。

5番の赤い部分にあるのがウラニウム235で、
一枚26kgのリングが6個重ねてあり、先端の赤い部分には
38kgのリングが二枚内蔵されています。

8月6日の広島に続き、三日後の8月9日、「ボックスカー」から投下された
「ファットマン」が長崎に投下されました。

「ボックスカー」

しかし、その時には、原子爆弾をテニアンに運んだ「インディアナポリス」は
10日前に帝国海軍の潜水艦に撃沈され、もうこの世にはありませんでした。

「HIJMS」とは艦船接頭辞です。

帝国海軍を表すのにはIJN「Imperial Japan Navy」というのが一般的ですが、
英語圏の著述者には、たまにこの

「His Imperial Japanese Majesty's Ship」

を意味する略称を日本の軍艦を表す接頭辞に使用する人がいます。

それはともかく、ここで紹介されているI-58、伊号潜水艦58が
「インディアナポリス」を沈めました、と書かれています。

伊–58艦長橋本以行(もちつら)中佐の写真もありました。

ところで冒頭の絵は、映画「パシフィック・ウォー」(この邦題のセンスの無さよ)
を観て、わたしがどうしても描いてみたいと思ったシーン。

ニコラス・ケイジ演じる

チャールズ・バトラー・マクヴェイ3世

が、「インディアナポリス」沈没の指揮責任を問われ、
裁判に出廷した後、橋本中佐と敬礼を交わした瞬間です。


一応参考までにこの映画を観た感想を検索してみたところ、

「CGがチャチ」「これは戦争映画じゃなくサバイバル映画」

などという理由で評価を低くしている人が多いようでした。
(確かにわたしも回天発進シーンでガクッとなりましたが)

しかしわたしはこの映画の「サメとの戦い」は、乗員の味わった苦難を
わかりやすく、かつ映画的またはドラマ的に観ている側に伝えるための
ツールに過ぎないと感じました。

でも、こんな煽り文句にしてしまう媒体もあるからねえ・・。

 N・ケイジ、サメと闘う──「米海軍史上最大の惨劇」が映画化

言っときますが、ケイジがサメと戦うシーンは一度もありません。

念のため。


この映画のテーマは、自らの国を背負って戦った彼我の軍人たちの、
人間としての弱さ、(サバイバルシーンにもみられた)醜さと相反する美しさ、
そして苦悩と後悔、許しであるとわたしは思います。

例えばそれは、回天戦を命令した橋本艦長が一人になった時に見せる表情、
「インディアナポリス」が沈没していく際の音声を聞き、父親(神道家らしい)
の幻影と会話するシーンなどに表れています。

よくあるアメリカ映画、たとえば「パールハーバー」などのように、日本軍を
わかりやすい悪として描くことなく、逆にここまで日本軍人の人間的な部分に踏み込んだ
戦争映画は、わたしが思い出す限りではこの作品が初めてかもしれません。

第二次世界大戦中、自艦を失ったことで軍事法廷で裁かれた軍人は
アメリカはもちろんのこと、世界でもマクヴェイ艦長ただ一人でした。

なぜ彼はアメリカ海軍から弾劾されなければならなかったのでしょうか。

表向きの訴追理由はこうです。

「インディアナポリス」がテニアンを出発してから航行中、
魚雷回避のためのジグザグ航行を行わなかったことが、
敵の攻撃を許し、自艦を沈没させる結果を招いたから。

この時、検察側はその重要な証言者として、伊58潜の橋本艦長を
ワシントンD.Cの軍事法廷に呼んでいます。

1945年の12月10日のことでした。

マクヴェイ艦長の起訴も異例でしたが、自国の軍人を糾弾するために
かつての敵国の軍人を証人に採用するというのは異例を通り越して異常でした。


検察側は、日本側に原子爆弾運搬の情報が漏れていた可能性を疑っていました。
おそらく海軍は当初、機密漏洩を艦長訴追の理由にするつもりだったのでしょう。

まず、橋本中佐(9月に中佐に昇任)にその件を尋問したのですが、
伊58が「インディアナポリス」遭遇したのは全くの偶然だったと彼は答えます。


ついで訴追されたのは艦長として彼が危険回避行動をとらなかったことですが、
マクヴェイ訴追に有利な証言をさせるためにわざわざ呼んだ橋本中佐は、
予備審で、

「インディアナポリスがたとえジグザグに航行していても我々は撃沈できた」
(つまりマクヴェイは悪くない)

と断言したため、検察側の当ては全く外れてしまいます。
これでは艦長を有罪にできないとして、検察は橋本を法廷に出しませんでした。


映画「インディアナポリス」では、橋本が出廷したという設定になっており、
実際の予備審での発言と同じ内容のことを証言させています。

実際の法廷で、もしこの証言がなされていたら、さしもの軍事法廷も
艦長を有罪にすることは難しかったのではないかと思われますが、
映画では史実通り、マクヴェイの判決は有罪ということになっていました。

しかし、第二次世界大戦で戦ったベテランの海軍軍人たちは、
この結果に大なり小なり疑問を持ったのではないでしょうか。

自艦を失ったことで艦長がその責任を問われなければならないのなら、
同罪に相当するアメリカ海軍軍人は一人や二人ではないはずです。
つまり、なぜ彼だけが、と誰しもが思ったことでしょう。

そのように考えたうちの一人にチェスター・ニミッツ元帥がいたため、
この大物の鶴の一声により、この裁判判決そのものが無効になりました。

彼は事実上無罪となって海軍に復帰し、1949年の退役時には少将に昇任しています。

しかし、一度有罪判決を受けたことによって、一部乗員遺族からの、
彼への非難と怨嗟の声はいつまでも止むことはなかったのです。


マクヴェイ少将がコネチカットの自宅でピストル自殺をしたのは
1968年11月6日、「インディアナポリス」轟沈から23年後のことでした。

近しい人々に、妻を癌で亡くし孤独に苦しんでいると打ち明けていた彼は、
また死の前日、遺族からの恨みの手紙を受け取っていたとも言われています。


彼の遺体は自宅の裏庭で庭師によって発見されました。
その手には彼が幼い時からお守りにしていた水兵の玩具が握られていました。


ところで今日は、冒頭にも書いたように「インディアナポリス」が
73年前に撃沈された日ですが、いかなる運命の皮肉か、この日7月30日は
チャールズ・バトラー・マクヴェイ三世の誕生日でもありました。

毎年巡りくる己の誕生日、彼はおそらく片時も頭から離れたことがない、
883名の部下の命日を、同じ日に迎えなければいけなかったのです。

何という戦後でしょうか。

 

さて、この時海軍側は、最初から、

マクヴェイ艦長にインティアナポリス撃沈の責任を負わせようとしていた

といわれています。

海軍たる大組織が、なぜここまでして一艦長に責任を負わせようとしたのか。
それが明らかになるのはそれから50年後のことです。

映画「ジョーズ」を観てこの事件に興味を持った小学校6年の少年、
ハンター・スコットが事件の背景を調べ、このような仮説を立てました。


当時の海軍は秘密行動中の「インディアナポリス」の位置情報を把握しておらず、
沈没してから4日間も救助をさし向けなかったため犠牲者が拡大した。
その責任を、上層部は全てマクヴェイ一人に負わせようとしたのではなかったか。

スコットは調査の段階で、「インディアナポリス」の生存者316名のうち、
150名に詳細な聞き込みを行ない、仮説の正しかったことを証明してのけたのです。

その聞き取りの段階で、様々な生存者の声が明らかになりました。

最初に沈没から生き残ったのは1,196名のうち約900名、
しかし初期の段階で助からなかった人の死因は、主にオイルの嚥下だったこと。

油を頭からかぶった状態で陽に炙られ漂流しているうち、目が見えなくなり、
海水に浸かったままの体からは体温が奪われ、極限状況に精神を蝕まれ、
暴力的になって互いに争ったり、また幻覚のアイスクリームやホテルを求めて
「永遠に」どこかに泳いでいってしまった人々のこと。

映画でも描かれていたPBY水上艇のマークス大尉も証言を行いました。
彼の水上艇が海面に着水して
最初に拾い上げた男は、錯乱状態で、ただ、

「俺はインディアナポリスから来た」

と繰り返していたことや、映画で描かれたように、翼に乗せて収容した56名が、
その多くが取り乱して痛みに転げまわり、翼や機体を蹴飛ばしたりして穴を開けたため、
水上艇は二度と飛び上がることができなくなって、救助の艦艇が全員を収容した後、
機銃で沈めるしかなかったということなどを。


マークス大尉は救助するために漂っている人たちの体を引き揚げましたが、
多くの者が手足を失ったり、全身が酷く腫れていて、搭乗する事そのものが
彼らにとってゾッとする痛みを伴うらしいことを知ります。

海から遭難者を引き揚げるために腕を掴むと、彼の手に剥がれた肉が残りました。

海水でずっと洗われていた体から体毛はほとんどなくなり、
まるでイモリのように
真っ白でツルツルした皮膚をした一団は
皆一様に啜り泣いており、
マークスとクルーはその異様な姿に戦慄しました。

 

ハンター少年の提言がきっかけで、マクヴェイ艦長の名誉復権運動が起こった、
という話は日本にも伝わり、かつての伊58艦長橋本以行の耳にも達しました。

彼は早速、上院軍事委員会委員長のジョン・ウォーナーへ電子メールを送り、
その運動を熱心に支援したといわれています。

そしてついに2000年10月30日。

チャールズ・マクヴェイ艦長は
「インディアナポリス」の喪失に対して全く責任を問われない

ことが正式に認められ、彼の名誉回復がなされました。

その証書に当時の大統領クリントンが署名を行う僅か5日前、
橋本以行はそれを知ることなく91歳でこの世を去っています。

 

ところでこの映画、「USSインディアナポリス 勇気ある男たち」では、
冒頭画像にも描いたように、チャールズ・マクヴェイ3世と橋本以行、
現世では一度も相見えることのなかった二人の出会いが創作されました。

確かに、もしあの世というものがあって、そこで彼らが出会ったとすれば、
人間としての過ちを互いにを許しあい、
堅く相手を抱きしめる代わりに
祖国の為に戦った軍人同士であらばこそ如是敬礼を交わしたに違いありません。

そんな二人の冥界での邂逅の姿を、この映画はラストシーンにおいて、
彼らを知る後世の全ての人々の眼に映しだしてくれたのだとわたしは思っています。



 

 


旧呉鎮守府庁舎 地下壕作戦室

2018-04-03 | 海軍

 

さて、というわけで、観桜会の模様をお伝えいたしましたが、今日は
その前に見学した呉鎮守府時代の地下壕の内部をみた話をします。

その前に、我が家の自慢の桜が満開の様子を。
桜が満開の時だけ、寝室のカーテンを開けて寝たりします。

昔この敷地には何かの長官校舎があったとかで、
この桜二本はその名残です。

呉地方総監庁舎前からもう一度。
ちなみにこれはNikon1で撮影したものです。
このあと受付をして、庁舎の間の坂道を降って行くように指示されました・

この桜の向こう側が、庁舎の海側に面した「表門」の前庭であり、
今回の観桜会会場となります。

坂道を下っていくと右手に見えてくるのがこの小屋です。
天井につけられた通風換気口の形状といい、屋根といい、
作られたのはまず確実に鎮守府時代だと思われます。

窓が小さく、消火栓があること、さらには扉は鉄なのに、天井は抜ける素材。
可燃物あるいは爆発物を収納していたのではないでしょうか。

小屋の向こう側に石段が見えていますが・・・・、

ここを上っていくと、観桜会会場への近道となります。
明かりが用意されているようですが、夜に備えてわざわざ設置したのでしょうか。

地下壕司令室の入り口はわざわざ土で覆い、芝を生やしてカムフラージュ。
これは特に上空の飛行機から見え難くしています。

地下壕の下に立ち、上を見上げたところ。
ここを入っていったところに作戦司令室があります。

作戦司令室はこちらから見ると一階にあることになりますが、
長官庁舎のところから見ると「地下三階」ということになります。

かつて地面に植えた蔦が、コンクリート面を覆い隠していたのでしょう。
それにしても不思議なことに、ある高さから下には全く蔦が這った形跡すらありません。
いったいどんな事情でこんな造形になってしまったのでしょうか。

日本の城の銃を出す穴のような、鉄扉の覗き窓がいくつかあります。

「地下壕プロジェクト」は一応の完成を見たようです。
壕の入り口には全天候型の説明看板が設置されていました。

グーグルマップを加工したらしい地図と地下通路の所在を合わせたものです。
この前に見学を行なった潜水艦基地の説明の方が、

「昔はここから総監部まで地下でつながっていたという話です」

とおっしゃっていたように、地下道は鎮守府を中心に広範囲に
張り巡らされていた時代があったのです。

ここに書かれている解説を書き出しておきます。

「昭和17年、日本は米軍機による初空襲を受け、昭和19年ごろからは
連日のように空襲を受けるようになり、爆撃の被害を避けるため
日本海軍の地下施設は地下に建設されるようになった」

うーん・・・記述内容はともかく、この文章にいい点はあげられないな・・
って何様だよ、と言われそうですが、それはともかく。

「当確施設は、呉鎮守府庁舎(現呉地方総監部庁舎)裏側の崖の斜面を
切り開いて建設されており、昭和b17年設計、昭和n18年夏頃に着工、
昭和20年4月ごろに完成し、「地下作戦室」と呼ばれていた。

また、空襲による被害を最小限とするため、当確施設完成ごは重要書類なども
『地下作戦室』で保管されるようになった」

これは去年のサマーフェスタで初めて施設が一般公開された時に配られたパンフの一部です。
今回入っていくのが「旧地下作戦室」ということになります。

この番号6番は、この時観桜会が行われていた会場の真下になりますが、
ここは掘りかけてやめた趾があるのだそうです。

ここに限らず、掘りかけはあちらこちらに見られるのだとか。

呉海軍、ただの防空壕にとどまらず、ワクワクしながら一大地下要塞、
「少年探偵団・僕らの秘密基地」を作ろうとしていたんじゃ・・・。


なお、4番は地方総監庁舎の脇から出てすぐのところにある
地下道へ続く階段があります。
庁舎で執務をしている人たちが、素早く地下に避難するためです。

実は去年、わたし、この階段を降りかけてやめております。
観桜会の時でひどい雨が降っており、しかもよりによって
後ろ下がりの白いスカートを履いていたもので、階段を三歩おりた途端、
裾に階段の泥がべったり付いてしまい、それ以上進むのを諦めたのでした。

壕への入り口は大人なら屈まなければ入れません。
階段は50段で、大変急なものです。

地図でいうと3番、急な階段を降りていって、作戦室に通じる道を
進んでいくと、地下道が崩落してしまっている部分があります。

 

庁舎の脇を通り、坂道が始まる辺りの地下にも道が掘り進められていますが、
そこは地下水が染み出し、地面がぬかるんでいるそうです。

どこからともなく湧いて来る地下水のせいで、地下壕の湿度はいつも高いのだとか。

去年は扉越しに中を見せてもらいましたが、
確か撮影はご遠慮ください、と言われました。

外側は大きなレバーで施錠する頑丈な鉄の扉(変形しないような工夫あり)、
それを開けて内側には普通の木の扉が残されています。

「火気厳禁」の文字が往時を偲ばせるレトロな字体です。

レバーを回すと上下にわたしたバーがどうにかなって、
(どうなるんだろう)扉がしっかりと閉まる仕組みのようです。

木の扉はかつて赤に塗られていたのでしょうか。

それ以外の部分はどうも最近補修したように見えます。

ここが地下作戦室。

地下壕の中で一番広いこの空間は幅約14m、高さは最大で約6m。
空港からここに来る時に必ず通る休山トンネルとほぼ同じくらいの大きさです。

戦時中は呉鎮守府司令部が作戦指揮の会議をするのに使っていました。

見学のために入っていけるのは、入口の平方10メートルほどのスペースだけ。

内部に立ち入ることができないように柵が設けられています。

左のほうに見えるのが元々の床だったのではないでしょうか。

中に入っていけないその理由が、この天井です。
プロジェクト進行中の段階で聞いていたところによると、天井が
ところどころ破れていて崩落しかねない状態であるため、
見学者には全員にヘルメット着用を義務付けるとか、
そういう案も出ていたようです。

実際にメディアに公開した時にはヘルメットを着用させたとも聞きました。

最終的に、入り口から内部を見るという展示法に決まり、
観覧場所の入口付近上部には足場を組んでそこだけ屋根を付け、
剥離による崩落の対策としました。

左奥の扉は後から作り直したもののようです。
 OD色の金属らしい構造物がありますが、これが何かはわかりません。

この階には会議室の他に発電機室、換気施設、排水施設がありました。

二階部分に通路があって、鉄の扉の開け閉めを行えるようになっています。
壁にも天井にもいたるところにワイヤが見えていますが、たとえ直撃があっても
崩壊しないような堅牢な作りになっているのでしょう。

この灯りの支柱は昔のままのようですね。

ここが作戦室だった時、奥の壁一面には西日本の作戦図が掲示されていて、
敵の飛行機が飛来すると、その地図上のランプが点滅して、
瞬時にその進行方向を把握することができたそうです。

庁舎横の階段を降り、地下通路を抜けるとこの扉の向こうにやってきます。

ただし、

扉は錆びついてしまって開けることは不可能です。

外部を封鎖した時のために、分厚いコンクリートの壁(厚さ1m以上?)に
空気を流通させるためらしい穴が穿ってあります。

この堅牢さにより、昭和20年の呉大空襲の際、庁舎が爆撃されても
壕内は全くの無傷で、保管されていた重要書類等も無事でした。

こ見学のための入口部分を保護するために設置された屋根のパイプです、

作戦室の前は玄関のエントランスのようなスペースがあります。

エントランス脇には部屋が二つありました。
奥の部屋は先ほどの新しい鉄扉から出入りできます。

その一つの部屋がこれ。

もう一つの部屋。
なぜか室温計が設置されていました。

入口を入って右側には二階に続く階段があります。

作戦室の上部は吹き抜けになっていて、通信室、事務室、映写室、
それから休憩室があったということです。

ここで夜を明かすこともあったのかもしれません。

地下壕の設計が始まったのは南雲忠一が呉総監だった時です。
完成したのは昭和20年の4月なので、南雲はもちろんその時には
とっくに転勤し、のみならずサイパンで戦死していました。

完成当時長官だった沢本頼雄中将はすぐに転勤しているので、
結局壕の恩恵に浴したのは、呉鎮守府長官として大空襲を経験した
金沢正夫中将ただ一人だったということになります。

これを左に入っていくと、さっきの分厚い扉の向こう側。
おそらく換気施設と排水施設があったものと思われます。

去年の夏、サマーフェスタで配られたパンフの表紙。

今回、地方総監の提唱によって、これだけの整備が行われました。
観桜会でも話題になっていましたが、現在、呉の観光コースの一部に
この壕見学を組み入れるという計画もあるようです。

 

プロジェクトに取り組んだ呉工業高等専門学校の学生と教員有志の皆さん。

何れにしても、誰も手をつけなければ、陽の目を見ることもなく
もしかしたら朽ち果ててしまっていたかもしれない地下壕を、
調査と修復によって公開できるまでにしたことは
後世に残す偉業であったとわたしは心から賞賛せずにはいられません。

何より実行を決断された呉地方総監と、プロジェクトに携わられた方々、
呉地方隊には、国民の一人として心からお礼を申し上げたいと思います。

 

 

 

 


「出雲」追悼式と「名取」殉難碑参拝〜大正13年 帝国海軍練習艦隊遠洋航海

2018-02-24 | 海軍

さて、大正13年度帝国海軍練習艦隊の遠洋航海はついに横須賀に寄港、
無事に帰国してきたわけですが、最終回として航海中に二回行われた
慰霊式典についてお話ししておきます。

寄港地に我が同胞が命を落とした場所、あるいは現地の殉国者の墓などがあれば、
慰霊に赴き花を手向けるのも昔からの遠洋艦隊の大事な行事です。

例えば平成29年度の海上自衛隊練習艦隊においては、

パールハーバー:アリゾナメモリアル

サンディエゴ:海軍墓地

チアパス:日本人移民墓地

ニューポート:ペリー提督慰霊

バンクーバー:日系人慰霊碑

アンカレッジ:アッツ島日本人戦没者

ウラジオストク:太平洋艦隊の戦闘名誉慰霊碑 
      日本人死亡者慰霊碑

ピョンテク:ソウル顕忠院

と、ほとんどの寄港地で慰霊を行ってきました。
調べたところによると、海上自衛隊の遠洋航海は、バンクーバーでは
エスカイモルトに立ち寄ることもあるということですが、
もし次回同じ機会があれば、練習艦隊途上客死した海軍士官候補生
草野春馬の墓参を行なってあげてはいただけないだろうか、と提案しておきます。


大正13年度遠洋練習艦隊も、いくつかの慰霊を行なったわけですが、
そのうち一つが、「出雲」殉難者のために行われたという慰霊です。

■ 出雲殉難者追悼会

異郷の海のバンクーバーの水底深く不慮の最後を遂げた
可惜十一勇士追悼会はホノルル在泊中出雲艦上でしめやかに行われた

説明にはこうあり、アルバムの一ページ全て使って写真が掲載されています。

「出雲」の殉難者ということで、「出雲」艦長が参拝している写真です。

ところが「出雲十一人の殉難」というのが全く検索にかかりません。

 

そこで第一次世界大戦時にそんなことがあったのかどうか調べてみました。
あまり知られていませんが、帝国海軍は日英同盟を盾に?
イギリスから出征を要請されて、臨時的に

「特務艦隊」

を結成し、船団護衛部隊を出しています。

「出雲」はその第二船団の旗艦としてメキシコ、その後地中海のマルタに派出され、
ドイツ海軍の潜水艦と戦ったという経歴を持ちます。
ちなみに同戦隊中の駆逐艦「榊」からは多数の戦死者を出しており、マルタには
戦没者の慰霊碑が建てられているのです。

そして「出雲」は第一次世界大戦が勃発してすぐ、遣米支援隊の旗艦として
この練習艦隊にも同行している装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」とともに
アメリカ西海岸を防衛する任務に当たったことがわかりました。

もしバンクーバー付近で「出雲」が殉職者を出すとしたら、この時か?

と思ったのですが、もしその時殉職者があれば、それは戦死扱いとなり、
少なくとも歴史に残っていなければ変です。

またしても謎にぶち当たり、首をひねりながら写真を見ていてあることに気がつきました。

写真を見ると、わざわざ神官による祈りが捧げられ、
立派な祭壇に十一命の名前が祀られているのがわかります。

で、その後ろにあるの、これ、骨箱じゃないですか?11柱の。

しかも、そのあと仏教会の人々による読経も挙げられ、
殉職者の宗教に配慮している様子まであります。

「各団体よりの香り花の数々」もあまりに豪華なものですし、
特務艦隊の護衛の時の殉職者慰霊にしては盛大すぎやしないでしょうか。

つまり、考えられるのは、当練習艦隊がバンクーバー付近を航行時、
何らかの事故が起こり、11人が「水底に沈んで死亡」したため、
ご遺体をホノルルまで運び、現地の方の協力を仰いで荼毘に付し、
艦上で追悼式を行なったという可能性です。

それらしい「出雲」の事故の記事はどこを探しても出てこないので、おそらくは
あまり対外的には問題にならない範疇の事故だったのではと想像されます。

 

 練習艦隊はサイパンにほんの少しだけ寄港していますが、
その時にも慰霊を行なっています。

サイパン寄港のメインの目的はこれだったのではないでしょうか。
「名取」殉難者の碑参

軽巡洋艦「名取」は大正11年三菱長崎造船所で竣工された
「長良」型の2番艦です。

この練習艦隊の3年前の大正11年3月、演習中にボイラーが爆発し、
一戸機関中尉以下11名の殉職者を出したということが伝えられますが、
この「演習」は南方、つまりサイパン付近であったということでしょう。

名取殉難者の記念碑に詣で、そぞろ2年前の勇士の
壮烈な最後が偲ばれて思わず暗涙にむせんだ。

 

その後「名取」は昭和19年8月18日、敵潜水艦「ハードヘッド」の雷撃を受け、
レイテ島東方海面において沈没しています。

この時に総員退艦で海に逃れた乗員のうち、当時27歳だった航海長は、
先任将校として、カッター三隻に分乗した生存者195名の命を預かることになり、
水も食料もない中、船を漕いでフィリピンに向かうことを決断しました。

この計画を無茶だと思う生存者が救助艦を待つようにと提言しましたが、
若い先任将校は頑として所信を変えることはしませんでした。

そのため、航海中はこの計画を懸念する乗員によって航海長暗殺も計画されます。
しかし、結局13日目、短艇隊はついにスリガオにたどり着き全員が助かりました。

航海長が決断を素早く行い時間のロスがなかったこと、その後の不安な局面でも
部下から進言されても計画を翻さなかったこと、そして何より断行と決定するや

全員が命をかけて漕ぎつづけたからこその生還であったといわれています。


ところで、このアルバムの主、つまりこの遠洋航海に参加した海軍軍人とは
誰だったのでしょうか。

最後の個人写真用のページに貼り付けられた二枚の写真がありました。
これがアルバムの持ち主であったことは間違いないと思われます。

この通常礼装と帽子から士官であることはわかります。
なんとなく感じとして特務少尉みたいな雰囲気もないではありませんが、
勲章が多いのでそれは多分違うでしょう。

参加した人が別個にもらう個人写真も最後の方に貼ってありました。
この中にこの人がいるはずなんですが、そもそもこれはどういう写真でしょうか。
軍楽隊の人たちがメインにおり、士官が両はしにいるように見えます。

もしこれが「練習艦隊司令部付附き」だとしたら士官と
の軍楽隊、主計兵曹、兵たちが全員写る可能性はあります。

それにしてもこの人はどこにいるのか、全くわかりません。
そもそもこの人らしきヒゲの人があまりにも多すぎて・・・(笑)

野球部に関わっていたらしいこともこの写真からわかりました。

そこでもう一回出してくる幕僚の写真。
この後列中央の人、その左の人もこの人に見えなくもありません。
だとしたら司令部八雲乗り組みの山際忠三郎中尉である可能性があります。

実は名簿の山際忠三郎の名前の横に赤線が引いてあったので、
もしや?と思ったのですが、本人がわざわざ引くとも限らないし・・。

野球の写真を検索していて、この人じゃないかな、と思った人(右側ひげ)の
隣の人の膝に艦隊キャットがいたのでサービスとして拡大しておきます。

やっぱりねずみ対策で軍曹猫を乗せてたんでしょうか。

 

最後に。

この練習艦隊参加の有名人の中には、「出雲」の分隊長兼衛兵司令、
有馬正文大尉、そして軍楽隊長の内藤清五軍楽特務少尉がいました。

有馬大尉は第1分隊長を務め、その分隊には源田実候補生がいましたが、
源田はのちに有馬のことを

「誠心誠意であると共に、非常な気魄に充ちた人であった」

「海軍で私が範とした一人」

と回想しています。
遠洋航海終了時、分隊長として候補生たちに向けたはなむけの言葉は

「他人のために酒を呑むな」

だったということで、源田はこの言葉に強烈な印象を受けたそうです。

有馬正文は少将になってから自発的に特攻を選んだ軍人です。

「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、
もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。
特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」

として1944年10月15日に、参謀や副官が止めるのも聞かず
司令自ら一式陸攻に搭乗し特攻に出撃してしまいました。

出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた
「司令官」という文字を削り取っての出撃でした。

そして前にも一度あげたこの写真ですが、右側の指揮者が内藤少尉(当時)です。

「軍艦」作曲者の瀬戸口藤吉に指揮を習い、日本で最も有名な
軍楽隊長として、内藤は最終的には少佐まで昇進しました。
戦後は東京都消防庁音楽隊長を務めていたそうですが、
最後まで武人のような厳しさでタクトを振っていたという話があります。



さて、アルバムを一冊具(つぶさ)に読み込み、現代の練習艦隊と比べて
変わっていないところ、
その精神をいまだに受け継いでいる部分をあまりにもたくさん発見し、
ネイビースピリッツを養成する鍛錬の形というのは、時代が変わっても
そうやすやすとうつろうものではないということを改めて知ったような気がします。

 

また今年も、江田島を巣立っていく若き士官たちが、船と航路は違えども
太平洋に漕ぎ出し、この頃と全く変わらぬ厳しさと、そして希望を持って
遠洋練習航海に参加していきます。

彼らの若々しい顔にこの時代の若者の面影を重ね合わせるとき、海の武人に
求められるものは永遠に普遍かつ不変であることをまた思わずにいられません。

 

大正13年遠洋航海シリーズ  終わり。


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜横須賀帰国

2018-02-22 | 海軍

さて、しばらくお休みをいただいていた練習艦隊シリーズ、
再開です。

大正13年度帝国海軍練習艦隊はいよいよ帰国の途に向かいました。

大正13年7月24日に兵学校を卒業し、国内巡航に出航したのち、
11月10日、遠洋航海に向けて横須賀を出航した練習艦隊、
帰ってきたのはいつだと思います?

4月4日ですよ。
つまりこの時代の遠洋航海は9ヶ月弱だったということなのです。
海外の遠洋航海が5ヶ月であったことを考えると、長かったのは
江田島を出てから遠洋航海に行くまでの国内巡航だったことがわかります。
当時は日本であった満州や朝鮮半島にも行っていれば、時間もかかりますよね。


■ 南洋

(ホノルルよりヤルートまで
航程 2243哩  航走 9日23時)

南洋と椰子。椰子の果実水と脚気。自然の力。

なんかひとつ腑に落ちない言葉が混じってるけど気のせいかな?


 

■ ヤルート

(自 3月14日 至 3月15日)

絢爛たる物質文明の影はホノルルを以って終わり、3月14日
艦隊は我委任統治の最初の島ヤルート島ジャボールに投錨した。

初めて見た南洋、それは候補生には人文地文の上に於いて
大に裨益(ひえき、助けになる)する所があった。

ヤルート島は流石マーシャル諸島の都だけあって
土人の服装等は中々立派な物である。

この頃別に土人という言葉に軽蔑的な意味は含まれていなかったので、
普通に地元の人、くらいの意味で土人を連発しています。

「土の人」=「現地人」

どこが悪いのかと思いますよね。

彼らが「立派な服装をしている」と感心した彼らの服装は、
ちょっと洋装風なのが日本人にはしゃれて見えたのかもしれません。

ヤルートは今「ジャルート環礁」といい、戦後はアメリカ統治を経て
1986年に独立したマーシャル諸島の一部となりました。

続いてはやはり日本統治下にあったトラック島に移動。
艦隊航行中、「恒例検閲」という観閲が行われていたようです。
艦隊司令百武中将が艦内の下士官兵を閲兵して歩く儀式です。

規律を維持し緊張を保つ意味で頻繁に行われていたのだと推察されます。

写真最前列の真ん中が練習艦隊司令官百武中将です。

■ トラック

(ヤルートよりトラックまで
航程 1084哩 航走 4日23時)

(自 3月20日 至 3月29日)

トラック諸島には春夏秋冬の四大島と七曜島其の他
十数の小島から成り、サンゴ礁が之を囲繞(いにょう・巡らす)して
天然の防波堤を作っておる中々良い港である。

此処には二十日から二十五日迄五日間おった。
此の間恒例検閲、石炭搭載、水中爆破、陸上見学等があった。
又島の学校の運動会、余興の土人の踊りも見た。
そして支庁の「ベランダー」に幾度涼みに行ったことであろう。

トラックの「土人の踊り」を皆で見学。

案外近代的でスマートな形のカヌーですね。
バランスを取るための仕掛けがアバンギャルドでなかなか面白い。

トラック島はよほど暑かったと見え、候補生たちはなんどもトラック支庁の
風通しのいいベランダに涼を求めて立ち寄ったということです。

トラック島は西太平洋、カロリン諸島に位置する島で、今では
そのあたりの島を含めてチューク諸島と名前を変えています。

「日本の真珠湾」と呼ばれるくらい、そこは帝国海軍の一大拠点となっていました。
1944年2月には大規模な米軍の空襲を受け、壊滅しました。

この時逃げ遅れた船は全て撃沈されていますが、ただ一隻の例外は、
座礁しながらも沈まず助かった「宗谷」でした。

 

トラック諸島を出航し、練習艦隊はサイパンに到着しました。

行き先はどうでも、最後にはこれら委任統治されている島に立ち寄るのが
当時の帝国海軍練習艦隊のおきまりのコースだったようです。

■ サイパン

(トラックよりサイパンまで
航程 615哩  航走 2日17時)

(3月28日 午前8時着 同日午後7時発)

朝8時に到着して、夜7時には島を後にしています。

 

サイパン島は小笠原の南方750マイルの処にある、
土人の家、殊に「チャムロ」族の住み家などは内地人のそれより立派だ。
甘藷栽培は今後益々有望である。

 

滞在時間が11時間だったということは、おそらくこの写真もスナップではなく
現地で売られていた「イメージフォト」の類ではないでしょうか。

「チャムロ族の娘」と説明がありますが、チャモロはグアムの先住民です。
旅行に行った時に現地のフィリピン人ホテルマンが言っていたところによると、
政府に保護されているので働かずに太ってばかり、ということです。
(未確認情報ですので念のため)

こちらはカナカ族の夫婦の正装。

そういえば映画「さらばラバウル」では、平田昭彦演じる若い士官搭乗員が
日本人の経営する飲み屋で働くカナカ族の娘と熱い恋をする、
という設定でしたが、この映画について書いたとき、

「カナカ人の娘は・・・ないんじゃないかな」

と否定してみました。
いくらなんでも当時の兵学校出士官ですからねえ。

「土人」と呼んでいる人との結婚は流石にハナから考えないと思うの。

しかもこれを見る限り子供も大人も完全に「裸族」ですから。

この写真も11時間の間にどこかに滞在して撮影されたものでしょうか。
どうもチャモロ人とカナカ族では随分生活レベルが違ったようです。

■ 小笠原

(サイパンより小笠原まで 
航程 750哩 航走 3日14時)

(4月1日午前8時着 同 午後5時発)

小笠原に上陸して警察署の表札を見ると

京橋区築地警察署 小笠原分署 

と書いてある。なんとなく内地に帰った気分になった。
たった半日の滞在に、砲台、捕鯨会社、正覚坊の池、
帰化人村などを見学した。

さすが帝国海軍、どこまでも前向きでアクティブです。
この「正覚坊」というのは地名だと思っていたらそうではなく、
この写真にも写っているアオウミガメの別名なんだそうです。

絶滅危惧種なので、ほぼどの国でも法令でその捕獲禁止がうたわれていますが、
現在もなお、かなりの数が世界中で捕獲され続けています。
小笠原諸島では、今でも父島および母島において食用目的のウミガメ漁が認められており、
ただし年に135頭の捕獲制限が設けられているのだとか。
近年人工孵化と稚ガメの放流が行われており、生息数は安定してきているそうです。

「南洋の産物、清涼品」とありますが、バナナ、パイナップル、
ヤシの実にマンゴーといったところで、この頃は珍しかったのでしょう。

鯨見物とありますが、捕鯨会社でとれとれのクジラの解体を見学したようです。
見物している候補生や水兵さんが心持ちドン引きしているような・・・。

鯨を捌く様子など当時の日本でも滅多に見られるものではなかったでしょう。

■ 横須賀寄港

(小笠原より横須賀まで
航程519哩 航走 2日15時)

大正14年4月4日午前8時横須賀に入港し、ついに
146日2万416哩の外国航海を無事に成し遂げたのである。

 

到着です。お疲れ様でした〜!

というわけで最後のページにはこのようにあります。

四月八日、九日両日にわたり 畏も摂政殿下より拝謁を賜り
建安府拝観を差許されぬ 

ちなみに、この練習艦隊司令官を務めた百武三郎中将は、
拝謁と「建安府拝観」6日後に佐世保鎮守府長官に就任しています。

さらにいうと、この練習艦隊に参加した「出雲」は、到着後の5月、
秩父宮雍仁親王イギリス留学のため香港まで殿下のご座乗の栄誉を賜りました。


最終回に続く。




大正13年 帝国海軍練習艦隊〜さらばホノルルよ

2018-02-11 | 海軍

大正13年帝国海軍練習艦隊は、バンクーバーを出航し、その後
また太平洋航路を再びハワイに向けて航海を行いました。

ところで、このアルバム、ホノルルの最初のページだけが明らかに
ちぎり取られていて存在しません。
ここにどんな写真があったのか少し気になります。

 

行きにはハワイのヒロ、帰りにホノルルと同じハワイを経由するコースです。
ホノルル港にはたくさんの日系同胞が迎えに来ており、この後
司令官以下幹部を運ぶためかたくさんの車も埠頭に横付けされています。

写真は日報時事ホノルルのサイン入り。

岸壁にはたくさんの日系人が歓迎のため集まりました。
ほとんどが当時のアメリカ人と同じ洋装ですが、
わざわざ今日のために選んだらしい着物で来た女性もいます。

右の男の子は日米開戦の時には30代半ばごろです。
日系部隊の一員として戦争に加わったかもしれません。

ファーリントン氏が誰かわからなかったのですが、おそらく
ホノルルの市長というところかもしれません。
奥方、油断して鼻を掻いたところを写真に撮られてしまいました。

■ ホノルルに於ける日本人歓迎会

日の御旗を慕い集まる在留同胞の熱狂的歓迎には
乗員一同は深く感銘したことだった。


この広いグラウンドが歓迎会会場となったようです。
行進曲軍艦で行進し整列した練習艦隊乗員一同。

お高いところから歓迎会の挨拶を行う司令官百武三郎中将。
飾り付けられた生花のまた豪勢なことよ。

現地在留邦人による歓迎会は野外の広場で行われました。
2月ですが、ハワイでは外でちょうどいい気候ですね。

特に美しい乙女等の真心込めた歓迎の劇や唱歌は
海の若人を極度に喜ばした。

「極度に喜ばした」という表現は大げさでも何でもなかったでしょう。
この写真に写っているお嬢さん方を見ても、「海の若人」が
久しぶりの『日本女性』に思わずポーッとなったに違いないと推察します。

練習航海も一種の出会いであり、例えば兵学校67期の遠洋航海では
ハワイの富豪の家に遊びに行った候補生たちの思い出として、

「富豪のナイスな(美人の)娘が(真珠湾の九軍神の一人になった)
横山正治候補生一人に露骨に好意を示したので皆を腐らせた」

という逸話が残されています。

ところで、これは約30年くらい前の、我が海自練習艦隊の寄港行事です。
平成29年度の練習艦隊司令官真鍋海将補が新任幹部として加わっておられます。

この時艦隊はハワイを出航して以来二週間ぶりの寄港だったということですが、
現地美女の半裸でのダンスは、練習艦隊乗員たちを「極度に喜ばせた」どころか、
「この日は頭に血が上って大変なことになった」という話です。

写真は「パペーテ」という港に寄港した時で、踊っているのはタヒチ美女。
タヒチというと、世界でも指折りの「肥満愛好国」でもあります。

太っているほど美人と言うお国柄なので、ここで踊っている美女は
たとえ今現在お元気であってもこの時の原型を留めていないと想像されます。

おまけ:この写真をくださった方の新人幹部時代。(可愛い///
両側を思いっきり濃い人たちにがっちり挟まれての記念写真です

■ ホノルルに於ける野球と相撲

練習艦隊士官および候補生の野球「チーム」は、ホノルルの実業及び
新聞記者団「チーム」と闘って四対二の「スコア」で見事に之を破った

歓迎野球試合はワイパウで行われ、百武司令が始球を行いました。

野球チームを構成したのは士官と候補生だけだったようです。
真ん中のグラサン士官は「監督」かな?

「八雲」の相撲部員だけでこんなにいたみたいです。
いただいたコメントによると、相撲をさせるためにわざわざ連れてきたという
相撲部員がいたようなのですが、やはり気合い入ってます。

本格的なまわしに旭日や錨のマークをあしらっているのが海軍らしいですね。
それと皆さん体格が流石に立派!

左は「浅間」乗組の相撲部員。
行事の正式な着物を着た人までいます。

そして右写真はホノルルで行われた相撲大会の模様です。

亦各寄港地の在留同胞の好角家と競技して勝ち続けた艦隊角力部員は
此処地に於いても所謂天狗力士と闘って悠々勝ちを占めた。

寄港地の一般力士を「天狗力士」などとディスるのはどうもいただけませんが、
まあ、日頃鍛えている艦隊力士の敵ではなかったということでしょう。

 

親善剣道試合も行われました。
艦隊の皆さんは防衛大学校の生徒のように、必ず何か一つ
武道をすることになっていたのかもしれません。

■ ヌアヌパリ

古戦場「ヌアヌパリ」の陖崖に立てば一望千里美しく続く甘藷畑の緑、
遥かに展開する太平洋の大海原、恍惚として澄み渡る碧空をあおげば
冷風颯々として衣を払う一霊境。 

 

ここでいう「古戦場」とは、その昔ハワイ王朝の元祖であるキング・カメハメハが
ハワイ統一の王としての地位を築くために対立していたカラニクプレ酋長の一族と戦い、
このヌアヌパリ渓谷に敵をを崖っぷちに追い詰めたカメハメハの軍隊は
一人残らずこの谷から突き落とし、勝利を治めた場所であることを言います。

「霊境」とは日本人らしい言いかたです。

一行はホノルル市内を見学。

(此の自動車の数を見よ)とキャプション付き。
縦列駐車の車間距離がほとんどありません(汗)

この頃は「バンパーはぶつけるもの」だった?

■ 布哇(ハワイ)と砂糖  

実際布哇の存在は砂糖によりて認められて居ると云って良い。
更に吾人は此処地に於る「パインアップル」と
「アイスクリーム」の美味には
永久に忘れぬ事であろう。 

「ハワイは世界一アイスクリームが美味しい」という伝説がありましたが、
もしかしたら練習艦隊の軍人たちが持ち帰った土産話から来たのかも。

ワイキキの海岸には今こんな東屋のようなものはないと思いますが、
この頃はのんびりした海岸だったのかもしれません。

「サンヂエモン氏日本式公園」とありましたが意味わからず。
地元の個人宅の庭でしょうか。

■ ホノルルに於ける「アットホーム」

旗艦浅間の後甲板は旗や幕で彩られ、甲板上の所々には
面白い飾り物が作られていた。
「アットホーム」に集まった白人邦人の綺羅を飾った紳士淑女たちは
明るい溶け合った気分で角力、剣道、柔道、さては演芸、そして
軽いご馳走に満足の一日を艦上にし過ごした。

候補生は此等の来賓の為に接伴役として天晴れ外交官振りを発揮した。

 

艦上レセプションのことを当時は「アットホーム」と称したようです。
女性は流行りのドレスに帽子をつけ、お洒落していますね。

現在でも練習艦隊の艦上レセプションに行くと、(毎年ではありませんが)
練習幹部が各グループをエスコートして、会場で世話をしたりしてくれます。

海軍軍人は須く国際的な社交に通じるべし、ということで、
昔からテーブルマナーやパーティでの振る舞いが仕込まれますが、
これも海軍軍人が外交を務めるという国際的な慣習に従ってのことです。

テーブルの上には今ほど「ご馳走が並ぶ」というわけではなく、
軽い茶会くらいの感じでお菓子が提供されています。

「面白い飾り物」とはこれのことでしょうか。
一富士二鷹三茄子を具現化した・・って茄子はどこ?

浅間の演芸部は各地で「もっとも好評を得た」ということです。
カツラや衣装一式を航海に持ち込み訓練の合間に練習をして臨みました。

前で脚本を持って居るのが脚本家、軍服は演出美術大道具その他。

■ ホノルルと別るゝの日

ヤルートに向って静かにその巨体を動かした旗艦八雲の
後甲板から聞こえた
勇ましい軍艦「マーチ」は
いつしか悲壮な「ロングサイン」に変わって

桟橋を埋めた同胞の誰もの顔に異様の緊張さが見えた。

別離! 別離! 

さらばホノルルよ、在留同胞よ、永久に健在なれ。

 

悲壮な「ロングサイン」

同胞の顔に「異様の緊張」

という表現は少し大仰すぎないか、と思ったのですが、これは
ホノルルでいかに彼らが愛されたかの証でしょうか。

それとも日系に訪れるこの後の運命を双方が予感していた・・・?

日系兵士で構成された日系部隊は、「GO FOR BROKE!」という
ピジン英語で「当たって砕けろ」という意味のモットーのもと、この後
彼らの祖国アメリカのために戦うことを余儀なくされます。

余談ですが、平成29年度の海上自衛隊練習艦隊の活動報告を聞きに行った時、
紹介スライドの端に常にこの「GO FOR BROKE!」という文字が見えるのに気がつきました。

練習幹部が自分たちで考案し、取り入れた「練習艦隊のモットー」だったそうです。


練習艦隊を見送る為に現地の邦人たちは、日の丸を満艦飾風に
揚げた船を何艘も出してきてくれました。

「何処迄送つてくれるのだらう」

彼らは艦隊の後をいつまでもいつまでも追いかけてきました。

そして出航した後の岸壁からはいつまでも見送りの人々が手を振り続けました。

ホノルル在泊中、旗艦は「八雲」に変更されました。
司令官を乗せたランチが「八雲」に向っていきます。


この時参加した何人かの士官候補生の中には、この17年後の1941年12月7日、
真珠湾攻撃のためにハワイに帰ってきた者がいました。

空中指揮官として攻撃を指揮した淵田美津雄、
そして航空参謀として
計画を立案した源田実の二人です。

奇襲決行時、特に淵田は、真珠湾に向かう機上、この時のハワイへの寄港と、
そこに住む日系人たちの熱烈な歓迎の日々を
思い起こすことがあったでしょうか。 


続く。



桑港・接伴艦「コロラド」級三姉妹〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

2018-02-07 | 海軍

 

大正13年練習艦隊は中南米の航程を経て、西海岸にやってきました。
アメリカでの寄港地はサンフランシスコです。

この頃、現在の練習艦隊が必ず寄港する西海岸最大の軍港、
サンディエゴには寄港していません。

なぜなら、昨日もお話ししたようにサンディエゴが海軍基地となったのは1922年。
この練習艦隊の2年前です。
とても海軍基地として外国の艦隊が寄港できる状態ではなかったのでしょう。


■ 桑港

(マンザニヨより桑港まで 航程1573哩 航走 6日15時)

(自 1月23日 至 1月30日 7日間)

吾練習艦隊歓迎の為、米海軍の精鋭「ウェストバージニヤ」
「コロラード」
「メリーランド」の三艦が、各浅間、出雲、
八雲の
接伴艦の役を取られたのは実に嬉しかった。

日米国旗の交叉される所彼我の間には正義と平等、
親善と理解の曲が高鳴らされて居た。

「ウェストバージニア」は1923年、つまりまだ就役して1年の新鋭艦です。
当時の超弩級戦艦でかつ最新型。
「コロラド」「メリーランド」ともに同じコロラド型の三姉妹です。

実はですね。

この時にアメリカがわが接伴艦にわざわざ戦艦、しかも「コロラド型」三姉妹を全て
出してきたということを知り、わたしは後世の歴史を知る者として軽く戦慄しました。

その訳をお話ししておきましょう。
彼らのサンフランシスコ見学について紹介する前に、
このことだけはぜひ知っていただきたいと思います。

 

ちょっと面倒臭い話になりますが、この少し前に行われたワシントン軍縮会議に遡ります。

ご存知のように英米日で5・5・3と決まった軍艦保有割合を日本は不満に思いましたが、
実はアメリカはアメリカで、日本に対して大変な危機感を持っていました。

この軍縮会議までに日本は16インチ砲を持つ戦艦「長門」をすでに保持していました。
対するアメリカが保有していた16インチ砲搭載艦も「メリーランド」ただ一隻。

つまり、世界にたった二隻の16インチ砲級を、日米が一隻ずつ持っている状態だったのです。

 

しかも、ワシントン軍縮会議では、会議までに完成していない軍艦は廃棄すること、
と決められたのにも関わらず、日本は当時未完成だった長門型2番艦「陸奥」
もう完成済みだと言い張って保有を認めるようにと強硬に主張してきました。

「5・5・3の3の保有しかないくせに、
16インチ砲搭載戦艦を二隻持つだとお?」

とアメリカさんは頭にきたんですねわかります。
ここで「陸奥」所有を認めてしまうと、日本が圧倒的に有利になってしまいますからね。

 

そこでアメリカがどうしたかというと、本来廃棄対象であったはずの
「コロラド」級の「コロラド」「ウェストバージニア」を、

「陸奥の保有を日本に認めさせる代わりに」建造することにしたのです。

なお、この措置のため就役した順番が、

「メリーランド」「コロラド」「ウェストバージニア」

となってしまったので、本級を「メリーランド級」ということもあるそうです。

 

とにかく、この時練習艦隊の接伴艦に、アメリカがこの三姉妹を出してきたのです。
日本にとっては割とどうでもいい話だったかもしれませんが、アメリカにとっては
因縁も因縁、大変な「問題の艦」を見せつけてきたことになります。

現在の感覚では、どう好意的に解釈してもこれはアメリカ側の「威嚇」であり、
「嫌がらせ」
としか思えないわけですが、当時の練習艦隊がこれをどう受け止めたのかは
このアルバムの調子からは全く読み取ることはできません。

皆さんもご存知のように、軍縮会議の結果決められた保有数に日本は不満たらたらで、
その不満が日本の進む方向を変えたといえなくもないわけですが、
これもアメリカ側からいうと、

「日本は(陸奥を持つことができて)参加国中一番特をした国」

だったということになります。
日露戦争以降、アメリカは日本を「オレンジ計画」で仮想敵国として
潰しにかかっている真っ最中だったのですから、これも当然の意見かと思われます。

ワシントン軍縮会議が行われたのはこの練習艦隊寄港のわずか2年前だったことを考えると、
アメリカがこの時なぜわざわざ接伴艦に「コロラド」級三姉妹を選んだのか、
その意図は歴然としているではありませんか。

「貴国が16インチ砲搭載の戦艦『長門』をゴリ押しで持つことになったので、
我が国はやむなくこの二隻をそれに対抗して持つことになったのだ」

とアメリカが嫌味ったらしくこれらを見せつけてきたのに対し、

「実に嬉しかった」

とアルバムの筆者は無邪気にこれを喜んでいます。
さらには、

「彼我の間には正義と平等、親善と理解の曲が高鳴らされて居た」

などと、言わせてもらえばオメデタイというか、お花畑のようなことを
(アルバムのキャプションに過ぎないとはいえ)
書いているわけです。


まあ、実のところ、練習艦隊という立場で訪米をしているに過ぎない海軍軍人は
性善説で相手の行動を量るものですし、万が一2年前の経緯をこの接遇に
因果付けして何かを感じたとしても、胸の内にしまっておいたに違いありません。


しかし、少なくともこの写真で練習艦隊旗艦を観閲するアメリカ海軍の
「ワイレー中将」は、そんなおめでたいことは考えて居なかったと思われます。

この「ワイレー中将」とはおそらく、

Admiral Henry Ariosto Wiley (1867 –1943)

のことで、1924年当時には現地の海軍基地司令であったことがわかっています。

米西戦争に参加し、第一次世界大戦では戦艦「ワイオミング」の艦長として
他の戦艦9隻(戦艦部隊ナイン)とともに英国艦隊に派遣され、そこで功を挙げています。

この写真の3年後に海軍大将になり、アメリカ合衆国艦隊司令を務めたほどの軍人ですから、
このとき、日本の練習艦隊に向かって、にこやかに握手をしながら
テーブルの下で匕首を突きつけるがごとき訳ありの接待を考案したのも、
もしかしたら実はこの人物の意向であったかもしれません。

もっとも、日本側が「テーブルの下」の匕首に気づいていたかどうかは、
先ほどもいったようにあくまでもこの写真集からは読み取ることはできません。

知っていても知らないふりをし、表情に出さずに静かにやり過ごしていきなり

朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス

と暴発するわけわからない国、というのが真珠湾攻撃以降の日本への
世界的な評価になったという気がしますが、少なくともこの軍縮条約のとき
そのおとなしい日本にしてはよくごねたものだ、という感想を持ちます。

なお、現場の海軍軍人たちが国と国のいざこざとは一切関係なく交流するのは
古今東西同じ傾向でもあります。

そういえば軍人ではありませんが、つい最近我が河野外相と中国の女性報道官
華春瑩氏とが実にいい笑顔でセルフィー撮ったのが話題になりましたよね。

国家間の軋轢が深刻な両国の外相と報道官のツーショット。
これを見た日中両国民の感想は概ね好意的で、中国国民のネットの意見も
むしろこれを非難した民進党議員を逆に非難するという調子でした。

 


練習艦隊の接伴を行った「コロラド」三姉妹のその後について書いておきます。

戦艦「メリーランド」USS MarylandBB-46

ー「大和」との対決を望むも叶わず

 

真珠湾攻撃の際には、内側に係留されていたために損傷は軽微であった

タラワ、クェゼリン、サイパンの戦いに参加
1944年10月、レイテ島スリガオ海峡海戦では戦艦「山城」以下の撃沈に貢献 

陸軍特別攻撃隊靖国隊の一式戦「隼」が突入し主砲塔に命中
大破炎上、31人が死亡し30人が負傷

1945年3月ウルシー環礁に到着、戦艦「大和」との会敵が予想される直前、
またしても特攻機が突入し3番砲塔に直撃して使用不能に

メリーランドの艦長も乗員たちも、「大和」との対決を望んで戦列を離れようとせず、
戦闘航海に支障なし」と嘘をついて損害を隠したが、
その時すでに「大和」は大和は坊ノ岬沖海戦で戦没した後だった

メリーランドは戦争を生き延び、1947年4月3日に退役し廃艦処分にされた

 

戦艦「コロラド」USS ColoradoBB-45

ーフレンドリーファイアで破損ー

 

真珠湾攻撃の時にはオーバーホール中で、太平洋艦隊で唯一健在な戦艦となった

1944年5月サイパン、グアム、テニアン島で支援砲撃任務に従事

11月27日、陸軍特別攻撃隊八紘隊の一式戦「隼」2機が「コロラド」に突入し、
19名が死亡、72名が負傷、船体にも損傷を負う

1945年1月9日、友軍の誤射により上部構造を破損し18名が死亡、51名が負傷

終戦後は厚木飛行場への占領部隊空輸の支援を行う 

1959年にスクラップとして売却される 

戦艦「ウェストバージニア」USS West VirginiaBB-48

ー真珠湾の遺恨をレイテで晴らすー 

真珠湾攻撃では、甲標的と航空機によって左舷に6本の魚雷が命中
40㎝徹甲弾を改造した2発の爆弾も命中(不発)
砲塔上のカタパルトの水上機から航空燃料が漏出し発生した火災で30時間も燃え続ける
浸水によって着底し、乗員は艦を放棄して退避 

修復と近代化の改修工事を受けて1944年に太平洋艦隊に復帰

同年レイテ沖海戦でのスリガオ海峡で「扶桑」「山城」をはじめとする
日本海軍艦隊を撃破

1945年9月2日の降伏文書調印式に臨席
当艦軍楽隊から5名が「ミズーリ」に移乗し、式典で演奏を担当する 

その後日本に駐留し占領政策に従事 

不活性化のため係留されたシアトルでは隣は姉妹艦の「コロラド」だった

1959年スクラップ処分される

 

続く。

 

 


パナマ運河通過!〜大正13年度 帝国海軍遠洋練習艦隊

2018-02-04 | 海軍

さて、アカプルコから大正13年度帝国海軍練習艦隊はパナマに向かいました。
パナマ運河を通過するというのは遠洋航海のハイライトです。

当時の船は石炭を動力としていたので、艦隊の皆さんは寄港地で
船に石炭を摘む作業を総出で行いました。

頭から顔を覆うヒサシ付きの帽子をかぶり、サングラス、脚絆着用。
これぞ、この時代の艦隊勤務につきもの、石炭積み作業。

明治、大正の戦争文学にも石炭を使ったボイラー室の仕事の過酷さが出てきますが、
その石炭を積むのも並大抵の重労働ではなかったらしいことがこの写真からもわかります。

右側に後ろを向いて何かを運んでいる人の列がありますね。
まさかとは思いますが、これも石炭を機関室に運んでいるのでしょうか。

石炭は低い石炭船の船倉から、外舷の高い軍艦に、すべて人力で積み込み、
10メートルもある外舷に板で階段を造り、その一段ごとに兵員が腰を掛け、
下の石炭船から丸い大きな竹籠にいっぱい石炭を入れては、次から 次と
手送りで上に揚げていくことになっていました。

船まで石炭の荷を上げるまでの仕事は水兵が行いますが、
下士官や候補生もそれを見物していたわけではもちろんありません。

手拭いで頬かむりをし、眼鏡を掛け、口にはマスクを当てて 、
写真ではわかりませんが、チョークで顔を白塗りしていたそうです。

石炭船から上げるだけでなく、これを機関室(船の底)まで
運ばなくてはいけないのです。
大正年間にはエレベーターがあったという話もありますので、
おそらく彼らは機関室につながるエレベーターまで石炭を運んでいるのでしょう。

この写真で旗艦が「出雲」になったということを初めて知りました。
どうも当時旗艦は航海中交代するものだったようです。

写真には

大日本帝国練習艦隊 旗艦出雲
大正十三年十二月廿九日 バ航 入港

とあります。

という訳で大正13年度帝国海軍練習艦隊は、南米のアカプルコを出立し、
パナマのバルボアに到着しました。

■ パナマ運河

世界一を標榜する米国民は流石にえらい仕事をして居る。
パナマ運河もその一ツで構造の豪壮、設備の完全共に驚嘆に値する
我が国には「船頭多くして船山に登る」という諺があるが
此処では閘門(運河の水量を調節する水門)によって本当に
船が山に登って向こう側の海に降ろされる。

パナマ運河は、パナマ共和国のパナマ地峡を開削して
太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河です。

1913年、つまりこの遠洋航海のわずか11年前に開通したというのは
世界的にも大変な出来事として衝撃的に喧伝されていたものと思われます。

 

日本人にとっては地球の裏側の出来事で、あまり関心はなかったかもしれませんが、
何しろそれまでは太平洋側と大西洋は南北アメリカ大陸で遮断され、
船を使った運輸を行おうと思ったら、わずか80キロの反対側の海に行くため
南米大陸先端のマゼラン海峡やドレーク海峡を回らなくてはならなかったのですから、
南北アメリカ大陸の国々にとってはこの快挙はそれこそコペルニクス的転回だったのです。

練習艦隊で此処を通過した海軍軍人たちも、この巨大な構造物とそれを成し遂げた
技術には大いに驚き、
アメリカという国の底力に感嘆した様子が記されています。

帝国海軍の練習艦隊の行き先に「パナマ運河」が初めて出てくるのは
大正10年、太平洋横断後、パナマ運河経由でヨーロッパに回るコースの時です。

その前年度の初めての世界一周、大正7年、鈴木貫太郎が司令官だった時の
練習艦隊も通過していた可能性はありますが、こちらは資料がなく定かではありません。


さて、そこでこの写真をご覧ください。

我が日本国海上自衛隊の遠洋練習航海においても、パナマ運河は必須コース。

最近の練習艦隊でパナマ運河でなくマゼラン海峡をあえて超えた例がありましたが、
これは「艱難辛苦汝を珠にす」的な意味で選ばれたのでしょう。(多分)

練習艦隊司令官真鍋海将補が後日水交会で行なった報告会では、
パナマ運河を航行する「かしま」の艦橋から撮った映像が早回しで上映されました。

「こんなに速く進めたら本当に楽なんですけどね」

と真鍋海将補は会場の人々を笑わせていましたが、実際、
パナマ運河というのは最小幅91m、最浅12.5mという難所でもあるので、

熟練の操舵をもってしても目を瞑ってスイスイというわけにはいかないのです。

待ち時間を含めると、通過には現在でも丸々24時間かかるということです。

パナマ運河は当初アメリカ統治下で、総督を置き、軍が管理をしていました。
民政となったのちも、運河総督は代々アメリカ陸軍軍人が務めています。

それ以外にも陸軍はパナマ運河軍と称する防衛隊を結成したようですね。

月夜のパナマ運河、これはどう見ても絵・・・ですよね?

紹介文に出てきたところの

「閘門によって船が山に登って向こう側の海に降ろされる」

というのが具体的にどういう意味かというと、パナマ運河を大西洋側から入ると、
まずガトゥン閘門というのがあり、此処で3つの閘門を越すと、
船は結果的に
海面から26mの高さに持ち上げられることになるということです。


出典:海上自衛隊ホームページ 平成29年度練習艦隊活動報告

これがまさに船が山に登って降ろされているの図。

パナマ運河を通過するアメリカの艦船。
流石に自分たちが通過している写真を撮ることはできなかったようです。

「カレバカット航行中」とありますが、現在の日本語では「クレブラカット」
 別名「ゲイラード・カット」と呼ばれる分水嶺の地帯のことです。

パナマ運河の太平洋側の都市バルボアで艦隊は正月を迎えました。
現地の陸軍を観閲するために正装して歩く司令長官百武中将と艦長たち。

案内はアメリカ陸軍軍人が行なっていますね。

■ バルボアの正月

(自12月28日 至 1月5日 8日間)

遠く太平洋を隔てて常夏の国で白服に汗を流して
思い出多い正月を迎えた我々は清しき椰子樹の陰に佇みて
はるかに祖国の雪景色と炬燵情調を偲ぶのであった。

白服で 雑煮を祝う 椰子の国

お正月を迎えた出雲の舷門の様子です。

こちらは「八雲」のお正月舷門。
注連縄をかけ門松の代わりに椰子の木でデコレーションしていますね(笑)

1月5日、バルボアを出発するにあたって、旗艦が「出雲」から
「浅間」に交代される事になりその引き継ぎの儀式が行われているところです。

状況がわかりませんが、捧げ銃の儀仗隊の前を、これから
敬礼した練習艦隊が下艦し「浅間」に乗り替えるところでしょうか。

遠洋艦隊中、旗艦の交代は2回行われました。
つまり、全部の艦が一度ずつ旗艦を務めたことになります。

ガトゥン湖の水力発電所を見学する候補生たち。
皆さん手ぶらですが、大きな水筒を背負っている用意周到な人もいますね。

一番右の人は制服を思いっきり汚しているのを写されてしまいました(笑)

バルボア、というのはスペインの探検家で征服者?というか植民地政治家だった

ヴァスコ・ヌニェス・デ・バルボア将軍

の名前から取られた地名です。
スペインからカリブ海を通ってパナマ地峡をあの悪名高い?ピサロと一緒に進み、
海が見えたので、

「新しい海(太平洋)を発見した」

と報告し、ついでに自分の名前をその地につけたというわけです。
当時のスペインの探検家らしく、結構残虐なこともやらかしています。

同性愛者を犬に食べさせるの図。

なぜ同性愛者なのか、なぜ犬なのか、色々疑問ですが、
ツッコミどころは見物している人々が全員モデル立ちしてることでしょうか。
なにポーズ決めてんだよっていう。

それと犬の首が妙に長いのも気になりますね。

ちなみにバルボア将軍、黄金を求めてさらに探索しようとしていたら、
かつての部下ピサロに
処刑されてしまったそうです。(-人-)ナムー

いやー、義理も人情もあったもんじゃありませんわこの時代は。

大西洋側のコロン県クリストバールには載卸炭場がありました。
当時は石炭が動力だった船のために、此処で給油ならぬ給炭を行なったのです。

現在のコロンにはコロンビアの麻薬組織が蔓延り、周辺の移民が流入し、
ただでさえ危険なイメージのある中南米一危険な土地と言われています。

300年前海賊モルガンに壊滅させられたオールドパナマの廃墟

と説明があります。

モルガンことヘンリー・モーガンはカリブの海賊、
つまり「パイレーツ・オブ・カリビアン」でした。

イギリス出身のカリブの海賊で、この一帯を遠征しては荒らし回っていましたが、
軍隊並みに力を持っていて、パナマ遠征では2時間の戦闘で市を壊滅させた、とあります。

モーガンの経歴を読んで驚くのは、海賊をやめた後、彼は

イギリスから重用され、治安判事、海事裁判所長などを歴任し、
1680年には、なんと
ジャマイカ島代理総督にまでなった

ということです。
「カリブの海賊」の話って、ファンタジー以外の部分は割と実話に基づいてたんですね。
イギリスが海賊を利用していたっていう。


バルボアを1月5日に出航、練習艦隊は再びメキシコの
マンザニーヨに向かいました。

航程1747.3マイル、6日と21時間の航程です。

儀式やレセプションではもちろん、艦内での娯楽として
コンサートを行なった軍楽隊の演奏中の写真が残されています。

アルバムによると、艦内では乗員の慰安のために、何度となく
音楽演奏が行われたといいますから、これもその一環でしょう。

指揮者と何人かの隊員は腰に短剣を佩しています。
検索してみると、ヤフオクでは「軍楽隊高級士官用短剣」なるものが
オークションに出たという形跡もありました。

それから彼らの軍服が兵学校生徒のそれのように裾が短いのにご注意ください。
これでよく知らなかったり暗かったりすると兵学校生徒と間違えて
うっかり敬礼してしまい悔しい思いをした下士官が結構いたそうです。

 

寄港地で日本からの便りを受け取ることもできました。
家族が鎮守府宛に出すと、海軍が先回りして届けておいてくれたようです。

わたしも練習艦隊あてに手紙がいつ届くのか知りたいという下心もあって、
実は手紙を出したことがあります。(もちろんお礼がメインの目的ですが)

とりあえず呉地方総監部にある練習艦隊宛に出したところ、
出航前の艦上レセプションの段階では届いていないようでしたが、
結局どこかの寄港地で追いかけるように先方は受け取ったようでした。

 

毎日発行されていたという「軍艦新聞」。
ガリ版に手書きで書いて、謄写版で刷って配られました。

現地の観光案内などもあり、皆が情報を得るのに重宝していたようです。

 

謄写版のローラーを動かす水兵さん、楽しそう。
この頃はカーボンのようなインク紙に、直接それを削り取る鉄筆で原稿を書き、
それを一枚一枚刷っていたのです。

ほぼ毎日のように発行されていたといいますから、大変な努力ですね。
きっと当ブログ主のように、皆に読んでもらうことが何よりの喜びだったのでしょう。

なんちゃって。

 

 

 

続く。




アカプルコ・赤道直下の餅つき〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊 遠洋航海

2018-02-02 | 海軍

 

さて、ハワイ出航後の練習艦隊は南アメリカに向かいます。
航路途中、訓練を行うのは今も昔も同じです。

■ 公開中の諸訓練

(ヒロよりアカプルコまで

航程3190.5マイル 航走 17日14時間)

真の偉大に接し、無限を味合わんとするものは先ずまさに海に往くべし。
艦ゆけば雲もまた追い雲行けば艦もまた追う。
洋中に於いて視界幾十哩は実に我等の自由なる天地なり。
如何に我等が弾丸を飛ばし、小銃を放つと雖も無限に寛大にして何等の羈絆なし。

我等は天際の空の水平線に接するあたりを眺めて我が職務に勉るのみ。

写真に添えられた文章は、特に当時の基準として格調高い訳ではありませんが、
それにしても時々現代ではお目にかかることもない熟語が出てくるので、
なかなか漢字の勉強になります。

羈絆(きはん)

「おもがい」「きずな」「たびびと」と読む羈と言う字に
脚絆の絆を合わせたもので、行動するものの妨げになるものの意味です。

つまり、如何に我等が弾丸を飛ばし小銃を撃っても、なんの妨げるものもない、
と言う意味になります。

我々には生涯経験することのない「無限に寛大な海」を、海軍軍人は
航海中に行われる訓練によってその初心に叩き込むことになります。

艦腹から突き出るこの時代の砲から立ち上る白煙。
艦砲射撃の訓練とそれを見守る候補生たち、帯をして訓練に臨む水兵の様子。


船の形や訓練の方法は変わっても、この航海が初級士官である彼らの
初めて海の武人としての基礎を身につけるための最初の試練であることに変わりありません。

 

さて、遠洋航海に乗り出し、ハワイで過ごした後、練習艦隊の寄港地は
メキシコのアカプルコです。

大昔のユーミンの曲に「ホリデイはアカプルコ」と言う曲があって、そのような
地の果てのような場所ででホリデイを過ごすなんてどんなリッチな主人公なんだ、
と漠然と思った記憶があるのですが、
その後アメリカに移住してみると、
メキシコは(当たり前ですが)目と鼻の先の隣国でした。

そのため、在米中にはユカタン半島の先っちょにあるリゾート、
カンクンでのホリデイを
体験することもでき、アカプルコもわたしの中では
決して「地の果て」ではなくなりました。


ところで平成29年度海上自衛隊の遠洋航海も、ハワイの後はサンディエゴ経由で
メキシコに向かい、
チアパスに寄港後、これも恒例のパナマ運河を経由してから、
帰路にマンサニージョと言う都市に寄港しています。

マンサニージョは「Manzanillo」と綴るため、日本語の読みは
「マンサニーニョ」「マンザニーヨ」とどうも落ち着きませんが、
実は大正13年の練習艦隊も「マンザニーヨ」と記しているところの
この地に寄港したことがわかりました。

もしかしたら、明治の遠洋艦隊実施の際に寄港地に選ばれた都市が、その後も
連綿と
海軍、そして海上自衛隊の継続的な寄港先になっているのかもしれません。

 

それでは太平洋航行中の訓練風景からお送りしましょう。

「臨戦準備」とタイトルのある写真。
アーティスティックに吊られた舫越しに、甲板上の機銃が見えます。

その機銃射撃の訓練を行なっている最中の候補生たち。
右側で体育座りしている人の着ているのが幻の候補生の制服だと思われます。
しかし艦内で座り込んでこんな訓練をするのに白い服とは・・・・。

古い白黒写真でもはっきりとわかるくらい黒ずんで汚れていますね。

射撃を行なっている右には衝立のようなものを支えもつヘルメット着用の下士官がいます。

護衛艦などで甲板を探すと、大抵「溺者救助用」のダミー人形がありますが、
その伝統も遡れば明治大正の帝国海軍からのようです。

ただしこの訓練は「溺者」などと言う甘いものではありません。

「傷者運搬」

つまり、戦闘状態になった時、負傷した者を運搬する訓練です。

広瀬中佐が殉職した閉塞作戦から帰還した中佐の部下の写真でも、
ちょうどこの写真のようなものに簀巻きにされていた人がいましたが、
骨折などで体を動かさない方がいいような重傷者も、これに包んで
体に負担を与えず移動させることができるグッズです。

これだと階段を引っ張り上げることもできますね。

「砲側通信」と説明があります。

この頃の砲撃は、目視によって目標 (敵艦) の対勢、即ち照準線に対する向きと
速力を判定し、射撃計算、即ち発砲諸元の算出を行い、旋回手や 俯仰手は、
「準備」 の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正し、
砲手のそばにあるブザーが2回ブッブーとなると 「準備」、ブーと鳴ると 「撃てー」 。
引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけで、 そして 「撃てー」 の合図で、
どちらかの舷側の 6インチ砲は一斉に射撃を行うことになっていました。

そして弾着の修正も行われます。
一発撃つのにこれだけの手間が必要ということは、各部署間の連絡が
必要となってくるわけですが、これらの組織・系統を結ぶ通報器や電話、
伝声管などの通信装置のうち、射撃指揮所と方位盤、測的所、発令所を結ぶものを

「射撃幹部通信」

発令所と各砲塔・砲廓砲を結ぶものを

「砲側通信」

と言いました。

よくわからないのですが、この真ん中にあるものが通信機器なんでしょうか。

■ アカプルコ

(自 12月19日 至 12月21日 二日間9

ここは三百年の昔伊達政宗の命を奉じて遠く騾馬に使した
支倉常長以来屡々(しばしば)我が国船の往来した處として
頗る縁の深い市である。
廃墟のようなサンヂエゴ砲台、厚い壁に小さな窓の民家、
石コロの路、豚と蝿、ペリコとインコ等何れも談の種となるものである。

「豚と蝿」という記述がすごいですね。
もちろん今ではそんなものはないでしょう。

ユーミンがホリデイにバカンスをするお洒落なリゾート地なんですから。


文中の支倉常長(はせくらつねなが)は安土桃山時代の武将で、
伊達家の家臣として慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、
アジア人として唯一無二のローマ貴族となり、さらには洗礼を受けて
ドン・フィリッポ・フランシスコの洗礼名を持つに至りました。

支倉常長さん

支倉は油絵で肖像画を描かれた最初の日本人と言われています。

その後日本では切支丹禁止令が出たので、本人は失意のうちに死去、
子孫も処刑により支倉家は断絶の憂き目にあいました。

(切支丹禁止令といえば、余談ですが、遠藤周作原作、映画『沈黙』、
まだご覧になっていなかったら是非見ていただきたい映画です。
リアム・ニーソンやスターウォーズのカイロ・レンの俳優が出ていて、
浅野忠信の英語がやたらうまくて、窪塚が絶妙ないい味を出してます。)

ちなみにこの説明による「伊達政宗の命」とはスペインとの通商の締結でしたが、
その途中に寄港したのが、スペイン領だったここアカプルコだったのです。

 

 

街並みはテラスのあるスペイン風の二階家が見えています。

「アカプルコ公園」だそうです。
ベンチには二人で座っている水兵さんの姿がありますね。

「砲台より港を臨む」

この砲台というのは、海賊からスペインの貿易船を守るため、
1616~1617年に建造されたサンディエゴ要塞のことです。

ダウンタウンの小高い断崖の上に位置し、堀を巡らせた建物は五角形、
石造りの砲台が並んでいる昔ながらの観光地となっています。


サンディエゴ砲台から見た「八雲」「浅間」「出雲」。
一番後ろ、二本煙突が「浅間」です。

サンディエゴ要塞入り口。

同じ方角から見た現在の入り口の写真を上げておきます。
当時は橋に手すりなどはなかったようですね。
城壁の上部の白い構造物は後から設置(復元?)したようです。

「アカプルコ土産」という題がついています。

当時の写真には珍しく、軍服でニコニコしていますね。
冒頭の紹介文にもあるように「ペリコとインコ」が当地の名産です。

ペリコというのも緑色の「アカガタミドリインコ」のことですが、
練習艦隊の皆さん、お土産についインコを買ってしまった模様。
全員が一羽ずつ、手に乗せたり肩に乗せたりして嬉しそう!

階級章はこの写真ではわかりませんが、特務士官という感じですね。
インコちゃんたち、ちゃんと日本に連れて帰ってもらえたのよね?

「武器・体技・遊技」とタイトルがあります。
これらの催しは、アカプルコを出港し、バルボアまでの、
航程1478マイル、7日と22時間の航海中に行われました。

剣道、銃剣、弓術、すもうなどが武技・体技です。

アカプルコでは剣道、柔道などを現地の賓客に観覧していただきました。
どんな試合が行われているかは、皆さんの表情から伺い知れますね。
前列に座っている全員の顔が・・・・・・・・(笑)

( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)

さぞ白熱した試合が展開されたのでしょう。
右から三番目の白の軍服が、練習艦隊司令百武三郎中将です。


かと思えば、片足を縛ってケンケンで紐の先の飴を咥える「飴食い競争」。
真面目な顔で一生懸命やっている様子がじわじわきますね。


■ 航海中

 

毎日目に見える様な気温の昇騰と共に「バルボア」は近づき、
記念すべき遠航の正月は眼前に迫ってきた。
甲板からは景気の良い餅搗く音が一日中聞こえた。

 

冒頭写真は艦上での餅つき大会の様子です。
今と違い、餅つきはお正月を控えた日本人の特に大事な、そして
故郷を思い出す心の行事だったので、盛大にこれを執り行った様です。

アルバム中、全員が相好くずして笑っているのは唯一この写真だけです。

ただし日本のお正月準備とは違い、ぐんぐん上がる気温のため
現場では大変な暑さになっていたことが写真からもわかりますね。


 

続く。

 

 


ハワイ・ヒロ寄港〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

2018-02-01 | 海軍


横須賀を出航した我らが帝国海軍練習艦隊。
ここからがいよいよ「遠洋航海」の始まりです。

そしてこの艦隊には個人的な想いから遠洋航海を古川中将から
横取りした(笑)百武三郎中将が練習艦隊司令として
今や意気揚々と乗り込んでいることでしょう。

 


■ 航海中 

横須賀よりヒロまで航程3859.1哩航走
16日と13時間

海は神秘なり海洋は偉大なり
藍碧の洋と碧瑠璃の空と相呼応する状は無限なる宇宙の一つの「シンボル」なれ
見よ、雄大、偉大、荒天、平穏、寂寞、単調と海洋の有する種々の相を
おゝ我が帝国の使命を有する海神の寵児等が艟艨(どうもう)海に浮かぶるの時、
幾千年、幾万年の太古より溢れ湛えし水は驚愕し、歓喜し、舞踊し、
果ては舷側近く喜びの音楽を奏でて陽の光に輝く波の宝玉を齎らしぬ


まず、平成29年度練習艦隊の横須賀出航は5月22日、
ハワイの真珠湾到着は6月2日。
11日しかかかっていないわけですが、この頃の「4日の違い」
がその頃と今の船の性能の違いであるわけです。そして、それに続く大変詩的な文章の中にある

艟艨(どうもう)

という言葉ですが、各々の漢字は舟編に童の艟、同じく舟編に蒙と書いて、
どちらも訓読みで「いくさぶね」と読みます。

いくさぶね+いくさぶね=いくさぶね

で、艟艨(どうもう)=いくさぶねとなるのです。

言葉自体に感嘆の意を含むので、戦後自国を守るためにであっても
「日本の保有する船はいくさぶねではない」という建前から、
「駆逐艦」「戦艦」という言葉を無くしてしまった自衛隊では
さらに一層使われることのない死語と成り果てた言葉の一つでしょう。

現在海上自衛隊遠洋航海で出港前に行われる海幕長の訓示では、

「さまざまな形に姿を変える海」

という言葉が必ずと行っていいほど出てきます。
冒頭の言葉にも、形を変える海の姿がさまざまな表現で言い表されています。
そしてこれはある日の艦首に砕ける波の様子。

もちろんこうなると甲板に出るのは禁止になるはずですが、
海の怖さを甘く見ている空自出身の某空母艦長などは、わざわざ台風の時に
甲板にのこのこ出ていって

「私はお前を恐れぬ!」

とか言って波をかぶり、脚を掴んで海に落ちるのを防いだ副長に呆れられます。

全く、パイロット出身の空母艦長ってのはよお・・・。

ところで日本国自衛隊が保持を予定している空母「いずも」においては、
艦長は海自からなのか、それとも空自出身がすることになるのか、
気になるところですね。

アメリカ軍空母はパイロット出身が勤めることになっていますが、
先日ある海自の幹部の方に聞いてみたところ、

「操艦できない艦長なんてありえない!」

ということでした。

太平洋航海中の写真も残されています。
訓練の一環で実弾射撃が行われました。
5〜6の水柱が水平線に立ち上がっているのが見えます。

候補生たちは事業服を着用しているようですね。

11月21日の午前9時半、東経180度子午線を通過しました。
慣例に従って神事とお祭りを行なった様子です。

「今日御祭す 波路一百八十度」

後ろにはいわゆる「土人」に扮した乗員の姿が見えますが、
この神職は一体・・・?

まさか従軍神父みたいに神職が乗り込んでいたわけでもないだろうし・・・。
これもまさか・・・コスプレかな。

 

 

■ ヒロ

(自 11月26日 至 12月15日)

在留同胞の万歳の辞と日の丸の旗に迎えられて
艦隊は悠々弧月湾に入る。
一万四千尺の高峯「マウナロア」は我らの眼前に控え、
若人の憧れて椰子の木茂る布哇島は月光を浴びて我が舷側に其の姿を浮かべた。

想えば三十年の昔、「キャソリック」寺院の鐘の響が
椰子の葉末を渡る時、夕陽淋しき入相を待ちし「ヒロ」の街も今は
自動車の鋭く強き眼光の交錯する市と化し、
一圓茫々たりし原野も緑滴る甘蔗畑と変わった。

されど想え、この発展の歴史の中に潜む在留同胞の汗と力を。

文中の「弧月湾」から臨む「 マウナケヤ」です。

「弧月湾」というのが現在ないので想像ですが、これは「カーブ」を意味する
「ハナウマ湾」の日本人、日系人だけの呼び名ではないかと思われます。

ハワイの日本人移民が始まったのは1868年のことで、
1902年にはサトウキビの農家の70%が日系だったとされています。

ただし、この練習艦隊がハワイに訪問したのと同年の1924年、
アメリカではついに排日移民法が成立しました。

本土では日系人が収容所送りにされたのはご存知だと思いますが、
ハワイではすでに彼らが社会の中心を担っていたため、もし彼らを収容所に入れると
現地の経済がたちまち立ち行かなくなるという現実的な理由から、
ごく一部の者だけが「見せしめ」に収容されるということになりました。

この写真の頃にはすでにそれが交付された後で、
したがって練習艦隊の海軍軍人たちもそのことを重々承知をしていたはずです。


この写真に見えるのは、おそらく自分たち日系人の行く末に不安を感じつつも、
昨日と同じいつも通りの生活を続けているらしい人々の姿です。

「されど思え、この発展の歴史の中に潜む在日同胞の汗と力を」

と称揚しながらも、練習艦隊の乗員たちが、忍び寄る暗雲を
現地の人々の様子から感じる瞬間があったやもしれません。

「ヒロ公園より軍艦望遠」とキャプションがついています。
今でもヒロ湾を一望する湾岸には公園が幾つか広がっているので、
おそらくそのうちの一つであろうと推察されます。

右上はヒロに入港したときの様子。
デリックで海面に降ろされる内火艇に3人乗っているのが見えますね。

左下は横須賀出航以来初めての燃料の補給です。
この頃は石炭を積み込むことが「燃料補給」でした。

 

■ キラウエア火山

壮観か?凄惨か?将(はたま)た恐怖か?
ある時は魔の蛇のごとく、ある時は呪いの女神の焔の如く湧出し、
飛散し昇騰する噴焔の物凄さよ。

 

この頃のカラー写真というのが、フィルムからカラーだったのか、それとも
後から彩色したのかというと後者だと思うのですが、
それにしても真っ赤っかにしすぎではないだろうか。

というキラウエア火山の噴煙の写真。(冒頭)

ヒロのあるハワイ島の活火山で、1883年から噴火を繰り返しており、
よくまあこんなところに人が住んでるなあという状態なのですが、
桜島もそうであるように、そこに住んでいる人は割と平気みたいです。

まあ日本そのものも、外国から見たらよくそんなところに住んでるなと
言われても仕方がない国なんですが、みんなわかってて住んでますしね。

初めて外国に出て、このようなものを目の当たりにした練習艦隊乗員たちの
感動と驚き、自然に対する畏怖がいかばかりであったかは
想像に余りあります。

その火山見学に、練習艦隊の皆さんは無謀にも白い制服でやってきました。
11月ですが、ここでの季節を夏と規定して、皆さん夏服を着ている訳です。

こちら、百武司令(一番左)と3人の練習艦艦長たち。

候補生たちも火山口を夏服で見学です。
以前紹介した六十七期の遠洋航海では、火山見学の時
わざわざ冬服とマント着用でやってきていましたが、それは
この先達の経験から忠告を取り入れてのことだったかもしれません。

火山までは車をチャーターするほかないわけですが、これを全て
地元の日系人たちが手配したということが書かれています。

■ 歓迎

布哇島が生まれてよりこの方。
嘗て無かったと言われるほどの所謂(いわゆる)島を挙げての
在留同胞の心からの歓迎!!
それは到底筆で表すことはできない。

殊に自動車の百数十台を連ねて三十哩を距てた
キラウエア火山への案内等には乗員一同如何に感謝したことであろう。

そしてハワイを発つ日、日系人同胞は熱烈に練習艦隊を見送りました。
錨を上げた艦隊の周りを、岸壁はもちろん手作りらしい日章旗を
押したてて漕ぎ、名残を惜しむ日系人の姿が写真に残されています。


思い出多き滞在の日も慌ただしく過ぎて、艦隊は
艦も沈まんばかりの同胞の贈り物と熱誠な見送りの裡に
墨國はアカプルコに向け出航した。

 

続く。





「鹿島立ち」横須賀出航〜 大正13年 帝国海軍練習艦隊

2018-01-28 | 海軍

さて、大正13年度帝国海軍練習艦隊の国内巡航、もう一息で終了です。

■ 名古屋

その昔那古野(なごや)と云われた荒涼な原野も今や
人口六十余万を有する大都会となって、その繁華、
流石中京の名に背かぬ。

「尾張名古屋は城で持つ」謳われた城は市の北方に聳え、
天守閣上の金鯱は燦として輝く。
乗員一同はすぐ近くの熱田神宮に詣でて武運長久を祈った。

城で持つという名古屋城。

昨日の俗説によると、名古屋は不美人の三大産地の一つということですが、
こちらは何を根拠にそうなっていることやら、と思い一応調べてみたら

「徳川御三家の尾張藩が美人をみんな江戸に連れていったから」

もう一つの仙台についても、伊達政宗が美人をみんな(略)と、
甚だ怪しげな俗説にすぎないようです。

同じ俗説でも秋田、博多に美人が多いというのはなんとなく納得しますが。

名古屋城見学をしている水兵さんたち。

このスタイルは、(上夏服、下冬服)合服です。
ということはこの写真が撮られたのは9月後半、7月末に日本を出港し、

出雲から名古屋まで約2ヶ月かかったことになります。

「中京」というのが「中部の京」を意味していたことを今知りました。

この頃から結構な都会だったんですね。
中心部には市電も走っています。

一行は熱田神宮に参拝を行いました。

官(朝廷、国)から幣帛ないし幣帛料を支弁される官幣神社である
熱田神宮は現在でも神宮(伊勢神宮)を本州とする神社本庁です。

三種の神器である草薙剣を祀っているそうです。

そして、現在でもそうですが、伊勢神宮の後、練習艦隊は横須賀に入港し、
その後遠洋航海までの間帝都で様々な行事をこなすことになります。

中でも皇居に赴き天皇陛下の拝謁を賜るのが最も大事な行事となっていました。

 

しかし、アルバムにはただこの冊子中唯一のカラー写真として
皇居お堀と橋の画像(昨日の冒頭写真)が挟まれているだけで、
他の寄港地のような感想も
なんの説明すらもありません。

そのことが、皇居参内の儀式を神聖なものとみなし下々の語るところではない、
としたように思われました。
アルバムの写真に添えられた感想ごときで陛下の拝謁について述べるのは
あまりにも畏れ多い、とされたからでしょうか。

おかげで、皇居参内を率いたのが国内巡航を行なった古川中将なのか、
それとも遠洋航海司令となった百武中将なのかもわかりませんでしたが、
翌年全行程を率いるのが古川中将ということに決まっていたので、
この時だけは舞鶴から百武中将が馳せ参じたのではないかと考えます。


国内巡航を無事に終え、大正13年度練習艦隊は横須賀に寄港し
帝都における行事の合間に
候補生たちは東京見物や見学などを行います。

明治神宮や海軍関係の施設、靖国神社参拝より何より、
若い地方出身の候補生たちにとってもっとも楽しみにされていたのが、
実は銀座だったらしいということが、後年の彼らの供述から推察されます。

銀座ツァーには東京出身の地元に詳しい候補生をガイド役に、
カフェーや天ぷら屋、買い物を楽しんだということです。

 

また、この頃は寄港地出身の候補生の家に宿泊することも許されていたので、
各地の候補生の実家ではクラスメートを地域を挙げて歓迎したものでした。

そして、美人の妹の写真を何かの折に見て密かに期待を寄せ、
練習艦隊寄港の際に彼女を見たさに級友の実家に押しかけ、
実際に嫁にしてしまう候補生も結構いたという話です。

戦前は海軍士官の結婚には届けが必要で、身分が不釣り合いな女性
(芸者とか外国人とか)はその許可が下りなかった頃ですから、同級生の妹、
というのはある意味最も確実な結婚相手候補とされていたのです。


■ 横須賀出航 大正13年11月10日

雄々しい首途!!
希望に輝くその鹿島立ち!!
「ロングサイン」の「メロディ。
万歳の叫び。
帽の波。
横須賀あとに万里の長途にのぼる我等は、
「日本の御山富士よりどんな臆を受けたことであろう。

 

平成29年度の練習艦隊司令官真鍋海将補は、江田島を発つとき

「鹿島立ち 見よ若桜 みをつくし(澪標)」

という句を詠まれました。

練習艦隊旗艦が「かしま」であることと、「旅行に発つこと・旅立ち」を意味する
「鹿島立ち」を掛けたのは素晴らしく気の利いた洒落だと感心したものですが、
そもそも練習艦隊旗艦を「かしま」「かとり」としたというのも、遡れば
「鹿島立ち」にあやかってのことだった、ということを皆様はご存知でしょうか。

 

いい機会なので説明しておきますと、「鹿嶋」「香取」は旧軍艦の名前になっているように
いずれも元々は軍神であり、両神宮共に武運の神を祀る処とされています。

鹿島立ちの語源とされている説は二つあります。

一つは奈良時代のこと。

東国から筑紫、壱岐、対馬などの要路の守備に赴いた防人は、
任地へ出発する前に鹿島神宮の前立ちの神たる阿須波神(あすはのかみ)
道中の無事を祈願したということから、のちの武士にもこの習慣が伝えられました。

もう一つは、鹿島の神、武甕槌(たけみかづち)香取の神、経津主(ふつぬし)
天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先だって、
葦原中津国(あしわらのなかつくに)を平定したことからという説です。

防人が無事を鹿島神宮に祈願するようになったのは(前説)
後説の伝説が流布したから、ということですよね・?

つまりどちらも正しいとわたしは思うんですが・・・。

 

それはともかく、この練習艦隊参加の「出雲」や、翌年参加の「磐手」の後釜として
設計された練習艦の名前はまさに「鹿島」「香取」と言いました。

この頃の武人の語彙に「鹿島立ち」という言葉が生きていたからこその命名です。

このアルバムの頃には軍艦「鹿島」「香取」は存在もしていませんが、
その壮途に対し「鹿島立ち」といういにしえの言葉が送られているのです。

さて、そんな具合に、国内巡航でいいことがあった候補生も、
なかった候補生も、等しく横須賀を出航する日がやってきました。

横須賀に停泊した練習艦隊旗艦には、海軍大臣財部彪が来訪しました。

財部は前にも書いたように軍神広瀬中佐と同期で恩賜の短剣のクラスヘッド。
山本権兵衛の娘婿だったこともあり超スピード出世で、この頃には
加藤友三郎内閣の海軍大臣にまで成り上がっていました。

この数年後、ロンドン軍縮条約で全権を務めた財部は、当時の艦隊派や
肝心の海軍軍令部(が味方につけた犬養毅と鳩山一郎)に糾弾され、
統帥権干犯問題で辞任することになっています。

(時の海軍と組んで、『日本の艦隊保有量が不公平だ』とする側に
野党の犬養が与したことについて、以前そのダブスタを指摘したことがあります。
結局犬養って今の野党と同じ、単なるアンチ政府主義だったってことですよね。
『憲政の神様』はそれらを思うと過大評価ではないかといつも思います)

不鮮明ですが、手前の白い列が見送りの軍人たち、そして
艦上の候補生たちが帽振れをしているのが確認できます。

これは現在護衛艦が繋留している岸壁でしょうか。

帽振れをしているので出航直後だと思いますが、場所は・・・
右側が現在の潜水艦基地にも見えるのですがどうでしょうか。

岸壁を離れ横須賀港を出て行く「八雲」「浅間」「出雲」。
動力は石炭なので、煙突からは黒々とした煙がたなびいています。

横須賀に停泊している海軍の艦船の乗員たちが見送っています。
ここで注意して欲しいのは、練習艦隊と見送りが白の第二種なのに、
この艦上では全員が冬服を着ているということです。

季節的には秋の衣替えシーズン過渡期(多分9月)で、
一般にはもう冬服が着用となっていたのが、練習艦隊は
出航の儀式は白と決めて行ったようです。

そういえば!

我が日本国自衛隊の練習艦隊も出航は5月で衣替えには早いですが、
純白の礼装で臨むのが慣例になっています。
過渡期であれば出航は白、というのは海軍時代からの不文律だったのでは・・。

 

 

 

続く。