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「戦後日本空軍の父」だったウェイランド大将〜国立アメリカ空軍博物館

2024-09-24 | 航空機

今日は、国立空軍博物館展示より、ヨーロッパの侵攻作戦に関与した
航空団の有名な指揮官二人をご紹介しようと思います。


■エルウッド・"ピート"・ケサダ将軍

Maj. Gen. Elwood "Pete" Quesada

エルウッド・ケサダ大将については、以前当ブログで
陸軍航空のパイオニアの一人として紹介したことがあります。


航空機がまだ対空記録を伸ばすことが史上問題だった頃、
その最長記録に挑戦したのが、若き日のケサダでした。

このプロジェクトに関わったカール・スパーツ、アイラ・イーカー、
ケサダの陸軍航空隊の若い搭乗員はいずれも後の空軍の指導者となりました。

この項で、ケサダ大将のことを、
「戦術の革新者」
というタイトルでご紹介していますが、それは彼が
第九戦術航空軍団(第九空軍)の司令官として、
「装甲列カバー」システム
"armored column cover" system
を開発したという実績からきています。

どのような戦術かというと、

武装した戦闘爆撃機の小編隊が装甲部隊の前方を飛行する
隊列の戦車の1台には米空軍の飛行士官が乗り、航空隊と交信する

この手順により、戦闘爆撃機は上空からの偵察によって
敵戦車をいち早く発見し、脅威になる前に撃破することができます。

同作戦中
赤丸で囲まれたところはアメリカ軍装甲車の隊列
その上空を飛ぶP-47


エルウッド・ケサダ大将(左)と作戦部長のギルバート・マイヤーズ大佐
バルジの戦いで戦闘爆撃機に撃破されたドイツ軍戦車を調査している

左から、ケサダ少将、第12空軍ゴードン・サビール准将
第9空軍指揮官ホイト・ヴァンデンバーグ少将
南フランス侵攻作戦「オペレーション・ドラグーン」にて

ドラグーン作戦とは、プロヴァンス地方への上陸作戦のことで、
ノルマンディ侵攻作戦のあと、8月15日に実施されました。

ノルマンディに比べると配備されていたドイツ軍は二線級だったこともあって
ほとんど楽勝という感じで空挺と上陸を成功させ、
北部から上陸したパットンの第3軍とディジョン(マスタードで有名)
で合流し、これでフランス国内の南北戦線がつながりました。


■ オットー・ウェイランド空軍大将

”日本空軍の父”??


Maj. Gen. Otto Paul Weyland

第IX戦術航空軍団(第9空軍)の指揮官として、
ジョージ・パットン中将率いる第3軍と緊密に連携し、
効果をあげたのがオットー・ウェイランド陸軍大将(最終)でした。

ノルマンディー上陸作戦中、敵の攻撃を受けやすい第3軍の
装甲部隊の右翼を防御したのがウェイランドの戦闘爆撃機隊でした。

第9空軍と連携することによって、第3軍は1944年8月のフランス縦断と
1945年春のドイツ縦断を成功させ、ウェイランドは少将になり、
ジョージ・パットン将軍は

「ウェイランドを "航空隊最高のD⭐︎⭐︎⭐︎将軍 "と呼んだ。」

なぜここで伏字が?
と思ったら、案の定ここに入るのは「教育上いっちゃだめな言葉」で、
実際に何をいったかというと、なんのこたあない、

"the best damn general in the Air Corps."

だったというわけです。

ジョージ・パットンという人は、新興貴族の大金持ちの出で、



おぼっちゃまとして育ちましたが、軍人一族でもあったせいか、
いつしか根っからの野心的な軍人らしく振る舞いだし、

自慢が激しく、人に傲慢に思われることを楽しむような人物で、
ふてぶてしく、嘘がうまく、勝手で、悪口を頻繁に口にする


という傾向があったくらいですから、軍人を褒めるのに
これくらいのラフな言葉遣いは普通だったのかもしれません。

方や言われたウェイランドはというと、写真を見る限りそんなことは
決して公的に口に出すことはなさそうな・・。
(ウェイランドは予備士官で、テキサスA&M大学では
機械工学の理学士号を取得して航空隊入隊している)


左肩に第9空軍のパッチ。
誰かは知りませんが、フランス軍の大将に叙勲されているウェイランド。


ところで、ウェイランドという将軍の名前は、
我々日本人にとってほぼ無名と言っても差し支えないと思うのですが、
この人のwiki(ちなみに日本語翻訳はない)の最後に
見逃せないこんな言葉を見つけてしまいました。

 the "father of the new Japanese air force."

日本空軍の父だと・・・・?

■ 朝鮮戦争後のウェイランド


写真は、沖縄の嘉手納基地に駐留していた313航空師団とウェイランド大将。

第二次世界大戦後、米空軍が独立すると計画作戦部に勤務し、その後
ワシントンの国立陸軍大学校の副司令官を務めていたウェイランド少将は、
朝鮮戦争が始まると、一ヶ月だけ東京の極東空軍司令部(FEAF)で
作戦担当副司令官として赴任していました。

帰国して中将に昇進したのですが、ちょうどその時、FEAFの司令官だった
ジョージ・ストラテマイヤー中将が心臓発作を起こしたため、
FEAFと国際連合空軍の司令官として東京に戻り、後任を務めます。

第二次世界大戦で得たウェイランドの戦術戦における能力と経験は
パットンのお墨付きもあってこの時も期待されていましたが、
朝鮮半島における10回の主要作戦ではそれが実証される形となり、
彼は1952年についに四つ星大将に昇進することとなります。



そして、その経歴の最後がこのように締めくくられます。

彼は日本に留まり、防空部隊と航空機産業の再編成を支援し、
"新日本空軍の父 "として知られるようになった。


いや・・・少なくともわたしは初めて知りますが。
どなたかこの人が「空軍の父」であるという記述を、
本人のwiki以外で見たという方、おられますか?

検索したところ、沖縄の歴史資料として、上の閲兵中写真が出てきました。
おそらく、朝鮮戦争中、嘉手納から航空作戦に多くの隊が参加したことで
ウェイランドが313航空師団の視察に来たということでしょう。

註:この件についてはお節介船屋さんが当時の航空自衛隊設立までの経緯に
将軍が関わったことをコメントに書いてくださっていますのでご覧ください。


もう一つの写真がこれ。

真ん中の空軍制服がウェイランド将軍で、周りにいるのは海軍軍人。
嘉手納での歓迎レセプションだと写真説明にはあります。

文章では日本語はもちろん、英語でも、
ウェイランド大将と日本、ましてや自衛隊との関係を示す資料は
一切見つかりませんでした。



最後に有名な写真を。
第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線に赴いた米陸軍司令官クラス。

前列左から:
ウィリアム・H・シンプソン中将(第2軍司令官)
ジョージ・S・パットン中将(第3軍司令官)
カール・A・スパーツ中将(在欧アメリカ戦略空軍司令官)
ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(連合国遠征軍最高司令官)
オマール・S・ブレッドレー大将(第21軍集団司令官)
コートニー・H・ホッジス中将(第1軍司令官)
レオナード・T・ジェロウ少将(第5軍団司令官)

後列左から:
ラルフ・S・スターリー准将(第9戦術航空軍団司令官)
ホイト・S・ヴァンデンバーグ中将(第9空軍司令官)
ウォルター・B・スミス中将(連合国遠征軍最高司令部参謀長)
オットー・P・ウェイランド少将(第19戦術航空軍団司令官)
リチャード・E・ヌージェント准将(第29戦術航空軍団司令官)

前列真ん中が一番偉く、その横に従って階級が下がり、
同じ中将でも空軍関係は後列、というのがアメリカ陸軍の写真の撮り方。

やっぱりどこの組織も軍隊の序列並び方は似ていますね。

続く。



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3 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
叙勲くらいあってもよさそうな (Unknown)
2024-09-24 05:59:40
東京等日本に対する戦略爆撃を指揮したカーチス・ルメイが勲一等旭日大綬章を受賞したのは、航空自衛隊の創設に貢献したからですが、ウェイランドさんも貢献しているのなら、叙勲くらいあってもよさそうですが。
返信する
ウェイランド中将 (お節介船屋)
2024-09-24 10:22:22
>ウェイランド大将と日本、ましてや自衛隊との関係を示す資料は一切見つかりませんでした。

水交会発行 鈴木総兵衛著「聞書・海上自衛隊史話」から
165ページ 航空部隊の発祥

戦後 旧陸軍関係グループが独立した航空部隊の設立について、研究を開始し、昭和25年春ごろ「空軍のありかたの基本として航空機はすべて空軍所属、本体と陸海協力隊の二本立てとする」ことを考えました。
この研究成果が昭和27年5月ころ「空軍兵備要綱」となり、この要綱を旧陸軍グループが「日本空軍創設に関する意見書」として米極東空軍司令官オットー・P・ウェイランド中将に提出しました。
旧海軍グループは海上警備隊発足が一段落したので海上航空再建の研究に力を注ぎました。
政府に意見書を提出するなら陸海共同とするよう呼びかけ、野村吉三郎元海軍大将と保科善四郎元海軍中将は米海軍の航空畑の米国極東海軍司令部参謀長オフステー少将斡旋で米極東空軍司令官オットー・P・ウェイランド中将に面会、空軍建設の強力を求めました。
旧海軍グループの研究案と旧陸軍グループの提出されていた「日本空軍創設に関する意見書」を調整し、「空軍建設要綱」を作成、意見書を添えて、昭和27年11月吉田首相に提出しました。
航空機も分属か統合かも検討されていましたが昭和26年頃から第三国の領空侵犯がはじまり、27年暮れに北海道上空への領空侵犯があり、対処が必要となり、昭和28年9月吉田重光会談で直接侵略に対処するための国防基本政策が一致しました。
昭和28年1月岡崎外務大臣からマーフィー駐日米大使へ書簡で外国機の侵犯に日本が有効な手段がないため、米関係当局による措置を要請しました。
昭和28年1月16日米側から排除するため昭和26年9月8日の安保により一切可能な措置を極東軍総司令官に命令したとの回答がありました。
20日在日米空軍司令官スティーヴェィ少将がこの措置で外国軍用機が日本領空に飛来しなくなったと発表しました。
昭和27年中期から独立航空部隊設立に支援する姿勢を示し、在日空軍を可及的速やかに撤退させたい意向が示されました。
昭和28年8月米極東空軍司令官オットー・P・ウェイランド中将から増原保安庁次長に「日本が空軍を独立して持つならば、米空軍は援助を惜しまない」との書簡が届きました。
昭和29年3月2日防衛庁設置法、自衛隊法の要綱閣議決定、11日国会提出へとなりました。昭和29年度予算案に3幕の予算が組んでいないため紆余曲折がありましたが「米極東空軍司令官ウェイランド中将が第3幕僚監部の組織と機能について勧告を与える用意があります。決定には彼の経験を利用するために協議されることをお勧めします。」との文書ですが吉田首相あての米極東軍司令官の命令の文書であり、これが日本空軍の父とも呼ばれる要因では?
米海軍の関心も深く、海上航空が分属する方向となりました。その文書は昭和29年8月31日付け「航空機の配属等に関する長官指示」で陸、海分属機種が明示されました。
返信する
やっぱり父だった! (エリス中尉)
2024-09-26 03:56:32
お節介船屋さんありがとうございます!
「日本が空軍を独立して持つならば、米空軍は援助を惜しまない」
これですよね。国会を動かすのに大きな力添えとなったわけですから、ウェイランド将軍が「日本空軍の父」というのは間違っていませんでした。
それを知った今、改めてタイトルに「自称」とするのは失礼かと思い、外させていただくことにします。
すみませんでした<(_ _)>←ウェイランド将軍に言ってる
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