春休みの期間、去年に引き続き京都に一泊してきました。
去年はお天気も良く桜もちょうど満開で、古都の桜を満喫したのですが、
今年は週間天気でも言われていたように、雨となってしまいました。
去年のように桜の下を歩くことはできないでしょうが、、
散り際もまた京都ならではの風情となって楽しませてくれるに違いありません。
息子が後ろからいつの間にか撮っていたわたしの後ろ姿。
変な加工と角度のせいでやたら緊迫感にあふれておりますが(笑)
この日はベージュに近い薄いピンクのコートを選びました。
雨が予報されているのでパテントのバッグとブーツで完璧です。
ホテル到着。
京都駅近くの、フロントには日本人の方が少ないという感じのホテルでした。
中庭に見える三角のものは結婚式場です。
どお~~~~ん(効果音)
ホテル到着。
なんでだ?なぜ京都にせんとくんがいる?
遷都されてみやこでなくなった奈良県のシンボルせんとくんが。
「京都にせんとくんされて都の座を明け渡したところのせんとくんです」
てか?
さすがは京都。
いわゆる「ガチャ」もただの「ガチャ」ではありません。
なんと、仏像ガチャ(300円)だ!
家族が見ていない間にこっそりとガチャしてみたところ、金剛力士像が当たりました。
6つのパーツを組み立てるのですが、記憶だけでやろうとしたら結構難しく、
「あれ?このスカーフみたいなのどこについてたっけ」
「腰のひらひらしたのはどっちがどっちだっけ」
となってしまい、結局説明写真を(ちゃんとついている)見るはめになりました。
そして翌日。ディズニーシーの疲れの残っていたわたしたち、
次の日に起きたら完璧に寝過ごしておりました。
「えーと・・・・・朝ごはんって何時までだっけ」
「10時」
「あと5分で終わる」
「いいじゃない、どうせホテルの朝ビュッフェなんてたいしたことないし、
お昼までお腹を持たせればいいんだよ」
ということで、昨日の飛行機で注文したのに時間がなくて作ってもらえず、
もらってきた機内サービスのトマトビスクスープを飲んで済ませました。
というわけで雨なのでタクシーの窓から花見モードです。
京都の運転手さんは観光案内もしてくれるので、目的地までの行程には
桜が綺麗な場所を選んで走ってくれるように頼みました。
これはたしか「世界で一番落差の低い(5m)ダム」のほとりだったと思う。
平安神宮の鳥居の前を通ってくれました。
ここは琵琶湖疏水の観覧船発着所。
ツァー企画者(TO)いわく、
「もしお天気が良かったら乗るつもりだった」
遠目にも不気味な金色の彫像がありました。
「巨大な輝き」と題されたモニュメントだそうです。
よこに黒い石彫りの文字盤がありますが、これには「京都三大事業」が何か、
ということが書かれていました。
「琵琶湖第2疎水」「水道」「市電の走る幹線道路の道路整備」
ですが、わざわざ石に彫ってまでここでそれを言う意味がイマイチわかりません。
ツァー企画者(TO)がタクシーの運転手に告げた行き先はまずここ。
天台宗青蓮院。
東山区にある門跡寺院(皇室や摂関家の子弟入寺した)で、創建は1150年といいますから、
865年の歴史のある名刹で、本尊は「青不動」と称される不動明王曼荼羅。
日本三不動の一つだそうです。
国宝なので開帳は年一度2ヶ月の間だけおこなうため、本堂にはレプリカが飾られていました。
現在の門主は元皇族で、東伏見の名を持ち、久爾宮家の血を引く人物が勤めています。
清水の舞台から飛び降りる、との言葉通り、清水寺の舞台は有名ですが、
ここにある舞台もこの通り絶景を臨む高台に張り出しています。
雨のため霧が出てきましたが、それがまた風情があります。
平安神宮の鳥居と山道が遠くに見えました。
この舞台からの眺めはご覧のように絶景ですが、日曜日なのに人がいないのは
ここには車でしか来られないことと、観光地としてあまり有名ではないからです。
折からの雨も手伝って、花見客でひしめき合う四条や京都駅前とは全く
別の世界のような静謐さに満ちていました。
舞台は大日堂内部のリフォームと同時に、去年、2014年10月にできたばかり。
その模型がガラスケースの中に飾られて展示してありました。
境内の桜の木には苔がびっしりと生えていました。
わたしと息子は写真撮影会に突入(笑)
こういう、幹から直接咲いているような花とか、
枝に咲き誇る花とか・・。
市街地の桜はもう盛りを過ぎていましたが、このあたりは
同じ京都市内でも咲くのが微妙に遅いのか満開でした。
雨に打たれて花弁の縁に雫の光る様子は、感動的なまでに美しいものです。
今日一日で終わってしまう、今際の際の光芒とでもいうのでしょうか。
ここを「将軍塚」と呼ぶ地元の人もいます。
将軍塚とはこの丸く盛り上がった部分のことです。
桓武天皇がそれこそ奈良から長岡にせんとくんされたとき、事故が相次いだので、
和気清麻呂は天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、
こここそが都の場所にふさわしいと進言しました。
天皇はその勧めに従って延暦十三年(794年)、平安京せんとくんに着手されました。
長岡京がたった7年しか都にならなかったのはこのためです。
天皇は、都の鎮護のために、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、
鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられました。
それがこれ、「将軍塚」です。
「将軍塚」は、国家の大事があると鳴動したという伝説が源平盛衰記や太平記に残されており、
新田足利の戦いでは新田義貞軍がここに陣地を構えたということです。
さらに驚いたのは、大東亜戦争の時、ここはなんと
高射砲陣地になった
ということです。
あまり知られていないことですが、京都は昭和20年に入ってから、
5度にわたってB-29の無差別爆撃に遭っており、5月11日にはなんと
京都御所がその対象となっています。
ここ東山でも空襲によって140戸以上が消失していますが、報道管制のため
未だに正確な被害の記録はわかっていないのだそうです。
飛来するB-29を高射砲で狙うとすれば、ここはまさに絶好のロケーションでしたが、
どの程度それが功を奏したかについても今ではわかりません。
京都への爆撃は6月26日を最後に急に途絶えました。
原爆投下地の候補となったため、「その効果をはっきりさせるために」
アメリカ政府がそれ以降の攻撃を禁じたというのが通説です。
効果のわかりやすい盆地の京都が原爆投下地予定だったのをやめさせたのは
スチムソン長官だったという話も前にしたことがありますね。
さて、ところでこの将軍塚脇に一本の松があったのですが、
わたしは一瞥してそこにある「既視感」を感じ取ったのでした。
その原因はこの文字である。
なぜ東郷元帥の松が?と思ったのですが、将軍塚だから?
そして、将軍塚なのに東郷さんの松だけで乃木将軍のがないの?
と思ったら、境内にはちゃんと乃木将軍の松もあるそうです。
よかったよかった(何が)
気がつくと東郷の松の左側にもう一本松がありました。
すわ、これが乃木将軍の手植えの松?と思ったら、
「黒木大将手植えの松」
「黒木大将って誰?」
「黒木大将といえば黒木為しかおらんでしょう」
「黒木為って誰」
「日露戦争でクロキンスキーってロシア人に呼ばれた人」
どうもこの将軍塚は海軍重視?だったらしい。
ここで海軍高射砲中隊が陣地を構えたのは、もしかしたらこの松があったからでしょうか。
(などと最初書いたのですが、勘違いしていて海軍の呼び名は高角砲でしたorz
雷蔵さんにコメントでご指摘を受けましたのでここで訂正しますm(_ _;)m)
続く。(えっ?)