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ワンゼ・ボルクム・ナクソス 三つのレーダー探知機〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-20 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されているU-505シリーズ続きです。

アメリカの博物館らしく、ここにもいくつかの体験コーナーがありますが、
エニグマ体験はどうやらいつからか廃止されたようで、
現在は潜望鏡体験浮揚体験、そしてこの操舵体験が用意されています。



操舵席に座ると、スクリーンには映像が映るというだけで、
ここでは「体験」というほどのシミュレーションはできないと思います。

やっていないので予想ですが。



誰かが置いたピンクのサングラスが気になりますが、
で、今スクリーンに映っているのは、

「1944年6月に捕獲される前、U-505は
30時間以上続いた爆雷攻撃を含む4回の攻撃を回避しています。

U-505は
『リーサル・ウォー・マシーン』(致命的な兵器)でした!

連合国の商船を8隻沈没させ、合計45,000トン以上を葬り・・」



そして多くの人命が失われました。

1944年6月4日の朝に起こったことは、
歴史を作ったのです」


という文章ですので、つまりは
大西洋の脅威であったU-505が、我がリーサル・ウェポンである
タスクグループに捕獲されるまでの経緯を述べているのだと思われます。


パネルでU-505の動線(赤)と、
タスクグループ22.3の青の、6月4日に向けての動きが示されます。

アメリカの諜報機関がU-505の存在を把握した、
1944年5月16日から始まった赤と青の線は、
6月4日についに交わることになります。



これは電光でないパネルで、赤がU-505ですが、
4月9日から23日まで、左上からアフリカ西岸にむかって南下する
動きが書き加えられています。

このときU-505はフランスのブレストから出航していました。

■ ディーゼルエンジン部品



「Uボートはいかにして推進したか」

というコーナーに、このようなものがありました。
芸術品ではないですが、とにかく私の感想は、美しい、の一言です。
機械のパーツというのはどうしてこうも心惹かれるシェイプなのでしょうか。


U-505には、このスペア・ピストンを含む、
90日の哨戒に必要なスペアパーツ一式が搭載されていました。

1,100ポンドのピストンと、コネクディングロッドは
海上で交換することができましたが、これはどうも
ドイツならではの技術だったらしく、一般的にはそうではなかったようです。

【ディーゼルエンジンと電気モーター】

海面上ではディーゼルエンジンがUボートを推進し、
水中では電気モーターが動力を供給しました。

U-505には2,200馬力の9気筒ターボチャージャー付きである
ディーゼルエンジンが2基搭載されており、
それぞれがスクリューを回転させていました。

ディーゼル動力を使用したU-505の最高速度は18.3ノットでした。
平時は12ノットで巡航し、航続距離は11,000マイルとなっていました。

ときにU-505のディーゼルエンジンルームの室温は100°F(38℃)を超え、
騒音は通常営業でも文字通り耳をつん裂くようなものでした。

それだけならまだ許容範囲ですが、ディーゼルの煙は艦内に充満して
乗組員の食べ物全てをディーゼル燃料の味に変えました。

こんなものをしばらく食べていたUボートの乗員は、
ボートを降りたあと、きっと長生きできなかったに違いありません。

その後の乗員の平均寿命を知らないので完全に偏見ですが。


【潜航時の電源】



Uボートが潜航する時、乗組員が呼吸するための唯一の空気は
ボートに残存した空気と、少数の酸素ボンベから取られました。

U-505は水中でディーゼルエンジンを使用することはできませんでした。

これは、エンジンが利用可能な全ての空気を消費して排気を生成し、
人間が吸う空気がなくなってしまうからです。

そこで、ダイビングの前にディーゼルエンジンを切り離し、
二つの500馬力のバッテリー駆動の電気モーターを動かして、
ボートを水中で推進できるようにしていました。

電気モーターで航走するとき、U-505は最高速度7ノットに達しました。
航続距離63マイルを超えぬよう水面に浮上し、
ディーゼルエンジンを使用して充電することを余儀なくされました。

■ Uボートはどうやって敵を探したか


【レーダー探知機】

1942年半ばには、あまりにも頻繁に連合軍機が出現するようになり、
ビスケー湾を横断するUボートは、夜間や真っ暗闇でも航空機に攻撃され、
前代未聞の精度で攻撃されるようになりました。

デーニッツはレーダーが原因であるとほぼ正確に推測していましたが、
あるとき、Uボートの一隻が、
ほぼ完全な暗闇の中で、低空飛行する敵の航空機と遭遇した
ことが、その推論が正しかったという裏付けとなりました。

加えて予想するに、低空飛行していたということは、敵航空機は、
視界が悪すぎて、浮上したUボートを目視できていなかったことになります。

なのに、その機は通り過ぎた途端、突然バンクして強力なライトを点灯し、
同時に砲撃とロケット弾で攻撃してきた
のです。

損傷を受けたものの、なんとか帰還したそのUボートの報告により、
連合国が浮上したUボートを探知できる新しい空中レーダーを開発したかも、
というドイツ軍の疑念はこれで実証されることになります。

そこで、ドイツ側としては、連合国のレーダーにUボートが補足されたとき、
それを知るための警報装置を迅速に開発することが不可欠となりました。

というわけで、ドイツ軍はいくつかのレーダー警告受信機を急遽導入しました。

U-505はレーダー探知機を使用して、
自艦が追跡されているかどうかを判断していました。

探知機が連合国軍のレーダー信号を拾うと、
そのつどUボートは水中に潜って身を潜めていました。

Uボートの乗組員にとって、どれくらい水面にいられるかということ、
いつ潜航するかのタイミングを正確に知ることは死活問題です。

海上を航走していると、移動そのもののスピードは上がっても
敵艦艇や航空機から発見されやすくなりますし、
水中を移動するのは安全には違いありませんが、潜水艦の宿命として
空気を補充し、電気モーターのバッテリーを再充電しなければならず、
そのための長時間の浮上は、危険にさらされることになります。


【U-505が搭載した三つのレーダー探知機】

米軍に捕獲された時点で、U-505には3つのレーダー探知機がありました。

FuMB-9 Zypern ツーペン (Wanse ワンゼ)



Zypernで検索すると、こんな映像が多量に出てきますが、
ツーペン(としか聞こえない)はキプロスのドイツ語名です。




ツーペン(笑)またはFMB-9ワンゼ:ルンドディポール

Wanzeは、ドイツの電子機器メーカーHagenuk(ハゲヌク、今は携帯会社)
が、在来型のMetoxをさらに進化させ、レーダー周波数を
120〜180cmの範囲で自動スキャンするように開発したものです。

しかし、微調整はまだオペレーターが行う必要がありました。
アンテナはルンドディポール(丸いダイポール)と呼ばれ、
2本の垂直偏光ポールが円筒に取り付けられていました。

円筒の上部は円筒形の金網の枠で囲まれており、
どこか金網の籠のように見えました。


 Wanse 検出器は、アンテナの 8 の字型のパドル
(写ってませんが)を介して信号を受信しました。
FuMO(フーモ)50レーダーに使用されているのと同じアンテナです。

ワンゼはメトックスが廃止されたのと入れ替わりに、
1943年8月から導入されたのですが、9月10月と、それは
連合国軍の航空機を早期に警告するという役目を果たさず、
ワンゼを搭載したUボートが何度か奇襲攻撃を受けたことから、
1943年11月5日、この装置は役立たずとして廃止されることになりました。

ですから、1944年の6月時点で、どうして
U-505がワンゼをまだ搭載していたのかが謎です。


FuMB-10 Borkum(ボルクム)

ボルクムはボルス海にあるドイツの島です。

Borkumは、Wanzeが禁止された直後に導入されました。
これは実のところ「つなぎ」というやつで、より信頼性の高い機器が
利用できるようになるまでの応急処置として意図されたものでした。

応急というだけあって、水晶アンプにラジオ受信機を取り付けただけの
非常にシンプルなもので、味方のレーダー周波数が検出されると、
艦内のラウドスピーカーで警告を発するだけ
の代物でした。

しかも、探知距離は非常に短く、
航空機が接近している方向を示すことはできず、さらに、
味方の新しいASV Mk IIIレーダーも探知することができませんでした。

つまり、U-505には、ダメ認定されたワンゼと、
その応急措置であるボルクムが同居していたことになります。


U-505に限らず、他のUボートでも
ボルクムは終戦まで使用されていました。

日本と同じで、要はドイツもあまりにお金がなくて、個々のUボートの
改良や装備の入れ替えまで手が回らなかったというところでしょうか。




FuMB-7 Naxos(ナクソス)

ナクソスというと、クラシック音楽のレーベルでしかしりませんでしたが、
言われてみれば合点がいく、ギリシャの島の名前なのでした。


U-505が搭載した3つすべてが島にちなんだコードネームです。
相変わらず武器兵器装備の名前に文学的に凝るドイツ軍ですね。


ところで1942年まで、ドイツ軍が全く知らない間に、イギリスは
センチメートル波長で作動する新しいASVレーダーを開発していました。
ドイツの科学者はセンチメートル波長を実用的でないと考え、
レーダー警告受信機をメートル波長で調整していたのです。

ドイツがそれを知ったのは1942年初頭、ロッテルダム上空で撃墜された
RAFスターリング爆撃機の残骸から
英国の新しい10cm H2Sレーダーが発見されたときでした。

実はイギリス軍の中でも、この空洞マグネトロンを実戦配備させるかどうか、
大きな論争が行われたことがありました。

マグネトロンの主要部品は、壊れやすい当時の真空電子機器とは異なり、
大きな銅の塊だったので、万が一マグネトロンを搭載した航空機が
撃墜されても、ブロックが生き残る可能性が高く、
回収されてしまったらドイツ人科学者に解析されてしまう、
とイギリス側は懸念していたというのですが、
その「万が一」が言っているはしから起きてしまったのがこの件です。

イギリスの懸念通り、回収されたマグネトロンは
ドイツの研究グループによってあっという間に解析されました。

しかし、ドイツ空軍が情報を独り占め?したせいで、海軍、
クリーグスマリンに届いたのはほぼ1年後の1943年12月でした。

どこの国の軍もみんな仲間同士仲良くしよう。



ナクソスはテレフンケン社Telefunkenが開発したもので、
RAFの爆撃機から捕獲した対潜用ASV Mk IIIレーダーに対抗したものです。

ドイツ側も捕獲したレーダーを利用した開発を考えましたが、
それよりこのレーダーへの対抗を講じるのが急務だったのです。

今回は8〜12cmの波長をカバーすることができ
イギリス空軍のH2Sレーダーも探知することができました。

このニュースはイギリスに伝わり、H2Sが航空機を死に至らしめるとして、
RAF関係者をちょっとしたパニックに陥れました。
また、マグネトロンをドイツ軍に奪われる可能性を考慮し、
しばらくの間、RAFは、将来の納入を、
捕捉の可能性が低い対潜任務用の沿岸軍機に限定していたそうです。

さて、対抗策であるナクソスですが、当初探知距離が非常に短く、
実際に使用するには何だったので、一連の新しいアンテナ設計が行われ、
最終的にFliege(フライゲ)セミパラボリックシステムが導入されました。

フライゲは「飛ぶもの」という意味で、
機器の形が蝶ネクタイに似ていることからきています。

しかし、このアンテナは防水性がないため、潜水する際には
取り外して持ち込まなければならないという面倒な欠点がありました。

ナクソスは信頼性の高いユニットで、後のバージョンでは
接近する航空機の方向を示すこともできたのですが、
探知距離が5,000mと短いため、Uボートへの警告は1分前が限度でした。

イギリスはすぐにドイツの新性能機器に気づきます。

ナクソスに対抗する新世代のイギリス製レーダーを開発、
さらにドイツはこれを知ると、装置のさらなる改良を続けました。

ドイツは終戦になった時も、アンテナを毎分1,300回転させて、
その角度を潜水艦内のブラウン管ディスプレイに直接表示できる
後発のナクソスZMを開発中だったそうです。

お互い切磋琢磨ってやつですか。


というわけで、U-505が搭載していたのは、

「ダメダメなワンゼ」
「ワンゼの応急措置としてのボルクム」
「信頼度のあるナクソス」


だったわけですが、前者2台は全く使われなかったのかというと
どうやらそうでもなかったらしく、
3 台のレーダー探知機を合わせて、当時可能な
すべてのレーダー・スペクトルをカバーできていたということです。




続く。