この絵がお目々にお星様の入った少女漫画風なのは、
今日ご紹介するキャサリン・スティンソンという初期の女流飛行家が、
当時の日本人、ことに女子たちにはこう見えていたに違いない、
と彼女が来日したときの熱狂ぶりを伝える文献を見て確信したからです。
ちなみにアップしてから「キャサリン」が「ケイトリン」になっている
(Hが抜けている)のに気付いたのですが、修復不可能だったのでこのまま行きます。
<(_ _)>
キャサリン・スティンソンは1891年、アラバマのフォートペインに生まれました。
(バレンタインデーが誕生日だったのですが、当時のバレンタインデーというのは
アメリカでも当時は宗教行事で、日本人はその言葉すら知らなかったころです)
彼女の家はチェロキー・インディアンの血が入っていたため、
その風貌は金髪碧眼のいわゆる「フランス人形」風ではなく、
どちらかというと少し我々に近いテイストが感じられます。
おそらくこのことは、彼女が特に日本で愛された要因の一つになりました。
「お人形さん」ではなかったことが親しみやすく思われたのでしょう。
彼女は最初、コンサートピアニストになるために音楽を勉強していました。
ある日、「空中のカウボーイ」とあだ名されたパイロットのジミー・ウッドの
飛行を見て飛行機で飛ぶことに興味を持ちます。
さらにフェスティバルで気球に乗せてもらった経験から、空に夢中になりました。
すぐに彼女はミズーリに行き、人類で初めて航空機からパラシュート降下した
パイロットのトニー・ジャナスに指導を依頼して、レッスンを始めました。
彼女はこのときライト兄弟のパイロットであったマックス・リリーにも
教えを請うていますが、彼は彼女が女性であるという理由で拒否しています。
彼女がどうしてここまで性急にことを運んだかというと、それは彼女が
飛行することでお金を稼げるのではないかと考えたためでした。
このときまだ彼女は飛行家で身を立てようとは夢にも考えておらず、
音楽を続けるために必要な資金をこれで貯めようとしていたようです。
そして、数日後、彼女は全米で4番目にライセンスを手に入れた女性となります。
数日で免許が取れてしまう当時の航空界というのもあまりに緩い気がしますが、
彼女にも飛行機操縦の才能があったからでしょう。
このころの飛行機が自動操縦とは対極の、ピッチの制御とロールの制御を
別々のレバーで行うライト式の操縦方法であったことを考えると、
才能どころか、天才的であったといってもいいくらいです。
その後彼女は自分でも意外なくらい飛ぶことにのめり込み、
音楽を断念して飛行家の道を歩むことを決心したのでした。
彼女の父親について語られたものを一つも発見できなかったのですが、
もしかしたら母子家庭というやつだったのかなという気もします。
彼女が飛行機に乗り出してすぐ、彼女の母親は航空会社を立ち上げ、
エキジビジョンで乗る飛行機を購入し、彼女はさっそく
「フライング・スクールガール」というキャッチフレーズで
ワイオミングなどでショーを始めました。
何しろスクールガールなので(笑)、彼女は(というより母親が?)
報道記者に自分を16歳だと売り込んだようですが、失敗しています。
まあ、さすがにティーンエイジャーには見えなかったのでしょう。
ただし、彼女が25歳のときに訪れた日本では、興行師の意向で
19歳であると報道され、6歳若いことになっていました。
日本人は疑わなかったようですが、外人の歳はお互いわかりませんものね。
彼女には弟、そして妹がいましたが、弟のエドワードはメカニック兼操縦士、
妹のマージョリーはライト兄弟の経営していた学校で免許を取りました。
免許を与えられた女性飛行士としてはアメリカで9番目となります。
エドワードはその後STINSON AIRCRAFT社の創業者となり、
軽飛行機を作る会社が請けに入って順調なときでも自身の曲芸飛行によって
莫大な出演料を稼いでいました。
なんども長距離飛行の世界記録を打ち立てるなど、優れたパイロットでしたが、
1938年、38歳のときに自社の新型モデルをテスト飛行していて事故で死亡しています。
燃料がなくなったため、ゴルフコースに不時着しようとしてポールを引っ掛け、
飛行機が大破したのでした。
同乗していた他3名は重症でしたが命は取り留めています。
さて、活動に入ると同時にスティンソンファミリーは飛行学校経営の傍ら、
キャサリンは全米を回って曲芸飛行を行いました。
1915年、24歳のとき、彼女はシカゴで、初めてループを飛んだ女性となりました。
彼女はその飛行人生において一度も事故を起こしていません。
運もあったでしょうが、それには彼女が自分の乗る飛行機について、その機能を
隅々まで知り尽くし、丹念に自分自身で点検を行うという姿勢の賜物だったでしょう。
当時、どんなに優れたパイロットでも、エンジンの小さな、キャンバスと木の飛行機は
ループなどを行うと簡単に重力に振り回され、墜落して死亡する危険性と隣り合わせでした。
Katherine Stinson (1917)
このフィルムには、彼女が生きて動いている姿が残されています。
カメラマンやコクピットの彼女と握手するおじさんの嬉しそうなこと(笑)
おそらくこれは彼女の生まれ持った魅力によるものでしょう。
映像には彼女自身が飛行前の点検を行っている姿もあり、
もしかしたらカメラマンの注文に応じたポーズかもしれませんが、
その手慣れた様子から彼女が自分の乗る飛行機について熟知していた様子が窺えます。
さて、ウィキペディアを紐解くと、キャサリン・スティンソンについて
記述された記事があるのはわずか数ヶ国語。
その中に日本語があります。
今では彼女の名前を知っている人はほとんどいませんが、その昔、
我が日本に「カゼリン・スチンソン嬢ブーム」が席巻したことがあったのです。
シカゴ万国博覧会では日本庭園を作り、日本娘の茶のサービスを行わせたり、
川上音二郎(ラップの元祖オッペケペー節の人)一座を世界に広めたり、
イギリスでは「ジャパン・ビューティフル」と称して富士山のジオラマの前に
高さ約30メートルの鎌倉大仏を作り、色鮮やかな投光と組み合わせて見せたり、
という博覧会専門の興行師、「ランカイ屋」(博覧会のランカイ)であった
櫛引弓人という人物がいました。
この人物が、日本でも注目されていた飛行機の曲芸をさせるために、
1916年にキャサリンを日本に招いたのです。
それまで男性飛行士、チャールズ・ナイルズ、そしてアート・スミスを招聘しており、
それら成功に気を良くして、今度は女性飛行士を連れてきたのでした。
先ほども言ったように、25歳のキャサリンは19歳ということになり、
横浜、長崎、大阪、名古屋などで9回のデモンストレーションを行いました。
鳴尾飛行場に来たときには、このブログで一度お話ししたこともある滋野清武男爵の
母という人に面会していますが、これもバロンが飛行家だった関係でしょう。
ループはもちろん、様々なスタントを取り入れた飛行は人々を魅了し、
特に女学生たちは熱心に彼女の絵葉書を買い求め、つたない英語や
あるいは日本語で、せっせと彼女にファンレターを送りました。
当時、女学生同士の仮想恋愛、またはその相手を当時「エス」といいました。
「エス」はシスターの「S」からきていて、彼女の日本のファンが
男性より女性に多かったのは、この傾向のせいではないかと思われます。
「エス」の流行は1910年ごろからで、この頃はすでに定着していました。
先ほども言ったように、彼女は金髪のハリウッド女優のようではなく、
「外人」でありながらまるで隣に住んでいそうな親しみやすさがありました。
来日の際、プレゼントされた着物を着て立つキャサリンの写真が残されていますが、
濃い茶色の巻き毛も流したままにした彼女の着物姿は殊の外愛らしく、
当時の女学生たちがS傾向から彼女に夢中になったのも宜なるかなと思われます。
ちなみにタイトルの「ス嬢」というのは、このとき日本の新聞や雑誌に
頻繁に登場した「スチンソン嬢」のことです。
このときの狂乱ぶりについては、松村由利子著「お嬢さん、空を飛ぶ」に
詳しいですが、同著には、やり手の櫛引が人々の期待を盛り上げるために
あの手この手でキャッチフレーズを考えたらしいこと、
(『空の女王来る』『宙返り女流飛行家』などなど)
そして日本側の熱烈な歓迎ぶりとともに、大正期の少女たちにとって
彼女はアイドル以上の、「希望」でもあったらしい、と書かれています。
ところで、松村氏がアメリカの図書館で現在も保存されている
キャサリンに宛てられた膨大なファンレターを確認したところ、
アメリカ人のファンレターはその中で数通しかなかったそうです。
氏のアメリカ人の知人の考察によると、本国では所詮4番目の女流飛行家で、
それほど熱狂されたり超有名だったわけではなかった自分が、
日本では最高のもてなしを受け、どこにいっても映画スターのように歓待されたので、
彼女は日本での思い出を一生大切にしていたのだろうということです。
彼女が1916年末から約半年日本に滞在し、帰国してすぐ第一次世界大戦が始まります。
大戦が始まったとき、スティンソンの飛行学校は閉鎖され、
キャサリンは空軍に志願しましたが、女性であることで断られます。
弟は陸軍で航空教官を、妹のマージョリーはロイヤルカナディアンエアフォースで
こちらは女性でも教官として仕事をしていたようです。
キャサリンが拒否されたのは、彼女が戦闘機パイロットを志願したためでしょう。
彼女はそのかわり?カーチスが彼女のためにシングルシートにした
「スティンソン・スペシャル」である
Curtiss JN-4 "Jenny"
に乗って、赤十字基金を募るための興行を行ったりしました。
また、航空便運搬のために認可された最初の女性パイロットとなりました。
今では戦時の航空業務のストレスによるもの、とされていますが、
戦争が終了したとき、彼女はインフルエンザから肺結核を併発してしまいます。
療養のためサンタ・フェに移り住んだ彼女はそこでのちの夫になる建築家、
ミゲル・オテロと知り合いました。
サンタフェで彼女は建築を勉強していましたから、第一次世界大戦で
パイロットをしていたという夫とは飛行機の話で結びついたに違いありません。
「お嬢さん」では彼女が肺結核で引退してしまったと書いてありますし、
英語のwikiページにも「もう飛ぶことはできなかった」とありますが、
アメリカのある資料によると、彼女は1928年まで飛行を続けていたとあり、
中年にさしかかった彼女の飛行服の姿も確かに写真に残っています。
その資料によると本当に彼女が引退したのは1945年のことで、
このことはwikiにも書かれていませんが、どうやら彼女は1930年から
アメリカ海軍の航空隊になんらかの協力していたという噂もあったようです。
いずれにせよ、かつて自分を熱烈に愛してくれる国民に見守られながら、
その空を自由に飛び回った国と、自分の国が戦争を始めることになったとき、
そして彼女に美しい七宝焼の花瓶を贈呈してくれた帝国海軍航空隊の飛行機が、
真珠湾の米海軍基地を攻撃したと知ったとき、彼女はどう思ったのでしょうか。
彼女はその後1977年、86歳まで生き、彼女の妹は79歳で亡くなりました。
サン・アントニオには「スティンソン・エアポート」という小さな空港があり、
航空界に大きな尽力をしたスティンソン家の名前を後世に残しています。