ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

”ス嬢はアイドル” キャサリン・スティンソン〜女流パイロット列伝

2016-05-12 | 飛行家列伝


この絵がお目々にお星様の入った少女漫画風なのは、
今日ご紹介するキャサリン・スティンソンという初期の女流飛行家が、
当時の日本人、ことに女子たちにはこう見えていたに違いない、
と彼女が来日したときの熱狂ぶりを伝える文献を見て確信したからです。

ちなみにアップしてから「キャサリン」が「ケイトリン」になっている
(Hが抜けている)のに気付いたのですが、修復不可能だったのでこのまま行きます。
<(_ _)>

キャサリン・スティンソンは1891年、アラバマのフォートペインに生まれました。
(バレンタインデーが誕生日だったのですが、当時のバレンタインデーというのは
アメリカでも当時は宗教行事で、日本人はその言葉すら知らなかったころです)

彼女の家はチェロキー・インディアンの血が入っていたため、
その風貌は金髪碧眼のいわゆる「フランス人形」風ではなく、
どちらかというと少し我々に近いテイストが感じられます。
おそらくこのことは、彼女が特に日本で愛された要因の一つになりました。
「お人形さん」ではなかったことが親しみやすく思われたのでしょう。


彼女は最初、コンサートピアニストになるために音楽を勉強していました。
ある日、「空中のカウボーイ」とあだ名されたパイロットのジミー・ウッド
飛行を見て飛行機で飛ぶことに興味を持ちます。
さらにフェスティバルで気球に乗せてもらった経験から、空に夢中になりました。

すぐに彼女はミズーリに行き、人類で初めて航空機からパラシュート降下した

パイロットのトニー・ジャナスに指導を依頼して、レッスンを始めました。

彼女はこのときライト兄弟のパイロットであったマックス・リリーにも
教えを請うていますが、彼は彼女が女性であるという理由で拒否しています。


彼女がどうしてここまで性急にことを運んだかというと、それは彼女が
飛行することでお金を稼げるのではないかと考えたためでした。
このときまだ彼女は飛行家で身を立てようとは夢にも考えておらず、
音楽を続けるために必要な資金をこれで貯めようとしていたようです。

そして、数日後、彼女は全米で4番目にライセンスを手に入れた女性となります。
数日で免許が取れてしまう当時の航空界というのもあまりに緩い気がしますが、
彼女にも飛行機操縦の才能があったからでしょう。
このころの飛行機が自動操縦とは対極の、ピッチの制御とロールの制御を
別々のレバーで行うライト式の操縦方法であったことを考えると、
才能どころか、天才的であったといってもいいくらいです。


その後彼女は自分でも意外なくらい飛ぶことにのめり込み、
音楽を断念して飛行家の道を歩むことを決心したのでした。



彼女の父親について語られたものを一つも発見できなかったのですが、 
もしかしたら母子家庭というやつだったのかなという気もします。
彼女が飛行機に乗り出してすぐ、彼女の母親は航空会社を立ち上げ、
エキジビジョンで乗る飛行機を購入し、彼女はさっそく
「フライング・スクールガール」というキャッチフレーズで
ワイオミングなどでショーを始めました。

何しろスクールガールなので(笑)、彼女は(というより母親が?)
報道記者に自分を16歳だと売り込んだようですが、失敗しています。
まあ、さすがにティーンエイジャーには見えなかったのでしょう。

ただし、彼女が25歳のときに訪れた日本では、興行師の意向で
19歳であると報道され、6歳若いことになっていました。
日本人は疑わなかったようですが、外人の歳はお互いわかりませんものね。

彼女には弟、そして妹がいましたが、弟のエドワードはメカニック兼操縦士、
妹のマージョリーはライト兄弟の経営していた学校で免許を取りました。
免許を与えられた女性飛行士としてはアメリカで9番目となります。

エドワードはその後STINSON AIRCRAFT社の創業者となり、
軽飛行機を作る会社が請けに入って順調なときでも自身の曲芸飛行によって
莫大な出演料を稼いでいました。
なんども長距離飛行の世界記録を打ち立てるなど、優れたパイロットでしたが、
1938年、38歳のときに自社の新型モデルをテスト飛行していて事故で死亡しています。

燃料がなくなったため、ゴルフコースに不時着しようとしてポールを引っ掛け、
飛行機が大破したのでした。
同乗していた他3名は重症でしたが命は取り留めています。


さて、活動に入ると同時にスティンソンファミリーは飛行学校経営の傍ら、
キャサリンは全米を回って曲芸飛行を行いました。
1915年、24歳のとき、彼女はシカゴで、初めてループを飛んだ女性となりました。

彼女はその飛行人生において一度も事故を起こしていません。
運もあったでしょうが、それには彼女が自分の乗る飛行機について、その機能を
隅々まで知り尽くし、丹念に自分自身で点検を行うという姿勢の賜物だったでしょう。

当時、どんなに優れたパイロットでも、エンジンの小さな、キャンバスと木の飛行機は
ループなどを行うと簡単に重力に振り回され、墜落して死亡する危険性と隣り合わせでした。

Katherine Stinson (1917)


このフィルムには、彼女が生きて動いている姿が残されています。
カメラマンやコクピットの彼女と握手するおじさんの嬉しそうなこと(笑)
おそらくこれは彼女の生まれ持った魅力によるものでしょう。
映像には彼女自身が飛行前の点検を行っている姿もあり、
もしかしたらカメラマンの注文に応じたポーズかもしれませんが、
その手慣れた様子から彼女が自分の乗る飛行機について熟知していた様子が窺えます。


さて、ウィキペディアを紐解くと、キャサリン・スティンソンについて
記述された記事があるのは
わずか数ヶ国語。
その中に日本語があります。
今では彼女の名前を知っている人はほとんどいませんが、その昔、
我が日本に「カゼリン・スチンソン嬢ブーム」が席巻したことがあったのです。



シカゴ万国博覧会では日本庭園を作り、日本娘の茶のサービスを行わせたり、
川上音二郎(ラップの元祖オッペケペー節の人)一座を世界に広めたり、
イギリスでは「ジャパン・ビューティフル」と称して富士山のジオラマの前に
高さ約30メートルの鎌倉大仏を作り、色鮮やかな投光と組み合わせて見せたり、
という博覧会専門の興行師、「ランカイ屋」(博覧会のランカイ)であった
櫛引弓人という人物がいました。

この人物が、日本でも注目されていた飛行機の曲芸をさせるために、
1916年にキャサリンを日本に招いたのです。
それまで男性飛行士、チャールズ・ナイルズ、そしてアート・スミスを招聘しており、
それら成功に気を良くして、今度は女性飛行士を連れてきたのでした。


先ほども言ったように、25歳のキャサリンは19歳ということになり、
横浜、長崎、大阪、名古屋などで9回のデモンストレーションを行いました。
鳴尾飛行場に来たときには、このブログで一度お話ししたこともある滋野清武男爵
母という人に面会していますが、これもバロンが飛行家だった関係でしょう。

ループはもちろん、様々なスタントを取り入れた飛行は人々を魅了し、
特に女学生たちは熱心に彼女の絵葉書を買い求め、つたない英語や
あるいは日本語で、せっせと彼女にファンレターを送りました。

当時、女学生同士の仮想恋愛、またはその相手を当時「エス」といいました。
「エス」はシスターの「S」からきていて、彼女の日本のファンが
男性より女性に多かったのは、この傾向のせいではないかと思われます。
「エス」の流行は1910年ごろからで、この頃はすでに定着していました。

先ほども言ったように、彼女は金髪のハリウッド女優のようではなく、
「外人」でありながらまるで隣に住んでいそうな親しみやすさがありました。

来日の際、プレゼントされた着物を着て立つキャサリンの写真が残されていますが、
濃い茶色の巻き毛も流したままにした彼女の着物姿は殊の外愛らしく、
当時の女学生たちがS傾向から彼女に夢中になったのも宜なるかなと思われます。

ちなみにタイトルの「ス嬢」というのは、このとき日本の新聞や雑誌に
頻繁に登場した「スチンソン嬢」のことです。


このときの狂乱ぶりについては、松村由利子著「お嬢さん、空を飛ぶ」
詳しいですが、同著には、やり手の櫛引が人々の期待を盛り上げるために
あの手この手でキャッチフレーズを考えたらしいこと、

(『空の女王来る』『宙返り女流飛行家』などなど)

そして日本側の熱烈な歓迎ぶりとともに、大正期の少女たちにとって
彼女はアイドル以上の、「希望」でもあったらしい、と書かれています。

ところで、松村氏がアメリカの図書館で現在も保存されている
キャサリンに宛てられた膨大なファンレターを確認したところ、
アメリカ人のファンレターはその中で数通しかなかったそうです。

氏のアメリカ人の知人の考察によると、本国では所詮4番目の女流飛行家で、
それほど熱狂されたり超有名だったわけではなかった自分が、

日本では最高のもてなしを受け、どこにいっても映画スターのように歓待されたので、
彼女は日本での思い出を一生大切にしていたのだろうということです。

彼女が1916年末から約半年日本に滞在し、帰国してすぐ第一次世界大戦が始まります。
 
大戦が始まったとき、スティンソンの飛行学校は閉鎖され、
キャサリンは空軍に志願しましたが、女性であることで断られます。
弟は陸軍で航空教官を、妹のマージョリーはロイヤルカナディアンエアフォースで
こちらは女性でも教官として仕事をしていたようです。

キャサリンが拒否されたのは、彼女が戦闘機パイロットを志願したためでしょう。

彼女はそのかわり?カーチスが彼女のためにシングルシートにした
「スティンソン・スペシャル」である

Curtiss JN-4 "Jenny"

に乗って、赤十字基金を募るための興行を行ったりしました。
また、航空便運搬のために認可された最初の女性パイロットとなりました。

今では戦時の航空業務のストレスによるもの、とされていますが、
戦争が終了したとき、彼女はインフルエンザから肺結核を併発してしまいます。

療養のためサンタ・フェに移り住んだ彼女はそこでのちの夫になる建築家、
ミゲル・オテロと知り合いました。
サンタフェで彼女は建築を勉強していましたから、第一次世界大戦で
パイロットをしていたという夫とは飛行機の話で結びついたに違いありません。

「お嬢さん」では彼女が肺結核で引退してしまったと書いてありますし、
英語のwikiページにも「もう飛ぶことはできなかった」とありますが、
アメリカのある資料によると、彼女は1928年まで飛行を続けていたとあり、
中年にさしかかった彼女の飛行服の姿も確かに写真に残っています。

その資料によると本当に彼女が引退したのは1945年のことで、
このことはwikiにも書かれていませんが、どうやら彼女は1930年から
アメリカ海軍の航空隊になんらかの協力していたという噂もあったようです。


いずれにせよ、かつて自分を熱烈に愛してくれる国民に見守られながら、
その空を自由に飛び回った国と、自分の国が戦争を始めることになったとき、
そして彼女に美しい七宝焼の花瓶を贈呈してくれた帝国海軍航空隊の飛行機が、
真珠湾の米海軍基地を攻撃したと知ったとき、彼女はどう思ったのでしょうか。


彼女はその後1977年、86歳まで生き、彼女の妹は79歳で亡くなりました。
サン・アントニオには「スティンソン・エアポート」という小さな空港があり、
航空界に大きな尽力をしたスティンソン家の名前を後世に残しています。





デッカー司令官の「黒船再来航」〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-10 | 日本のこと

さて、ボランティアガイドに案内されてみる横須賀の街。
そこここにある歴史のよすがを見て歩くツァーですが、
ある意味このレベル?の「遺跡」であれば、都心のように
作りかえられてしまったようなところでなければ、どんな県のどんな地方にも
残っているものではないかと思われました。

横須賀市のえらいところは、そういう、地元の人なら見慣れて
何の関心も持たないであろう歴史的遺跡を、あらためてこのように取り上げ、
ツァーを企画するというところです。

このように紹介されなければ一生知ることのない「小さな歴史」を、
砂浜でガラスのかけらを拾うように拾い上げるという試みは、
たとえ重大なことでなくても少なくとも忘れないで未来に残すことになります。

そしてこの試みのために、横須賀観光局はガイドのボランティアを
常に募集しております。
この日のツァー説明の紙とともに「ガイド応募用紙」が挟まれており、
担当のガイドさんが「この程度ならわたしでもできそう、と思ったらぜひ」
と募集していることをアナウンスしていたので知ったのですが。

坂道を登りながらガイドさんの近くを歩いていて聞いたのですが、
ボランティアのガイドは、1年間の研修を受けないといけないそうです。
何時に講習会が行われるのかは知りませんが、少なくとも仕事があるとダメでしょう。

というわけで、勢いガイドはリタイアした人ばかりになってしまうのですが、
そうなると今度は高齢化で人がどんどん辞めていき、
慢性的に足りない状態なんだそうです。

参加費は300円なので、ガイドにも交通費くらいは出るのでしょうが、
いっそもう少し集めてギャラを出せればもう少し人が来るような気もします。

さて、日蓮上人が3週間座っていた「お穴様」から、次は中央公園へ。



中央公園、別名「砲台山」というそうです。
というのも、ここには昔旧陸軍の米が浜演習砲台があったからで。
今では小綺麗に白いフェンスなど立ててしまっていますが、
この向こうには土塁が広がり、掩蔽壕が二つ並んでいます。

ガイドさんが子供の頃は、何もしていなかったので穴に入って遊んでいたとか。

去年の観艦式の帰りに見た海堡をテーマに、東京湾防衛について書きましたが、
ここもまた東京湾要塞の一つとして、明治24(1891)年に砲台演習場となりました。

ここに据えられていた砲台は以下のとおり。 

28センチ榴弾砲台 6門 明治24年据付完成
24センチ加農砲台 2門 明治24年据付完成

旅順要塞攻撃にはここから運ばれた28センチ榴弾砲が使われました。
昭和2年、田戸にあった演習砲台が関東大震災で破損したため、
その代わりに 二十八センチ榴弾砲4門の演習砲台として改築されています。



未だに石積みの残る砲台跡。
土塁の上に上がってみたところです。
かつてはもっと高いレンガの壁に囲まれていたそうです。

演習場として使われていたものの、戦争になったときにも
ここは演習砲台だったので、結局ここからは一発の実弾を
発車することもなく、昭和20年に取り払われました。

このときにガイドさんが

「空襲のときには実弾を撃っていない」

というと、参加者の一人がなぜかバカにしたように

「どうせ一発も当たらなかったんだろう」

みたいなことを言うので、わたしが内心ムッとしていると、

「ここではないけどB29が来たときには結構な数高角砲で落としてます」

と言ってくれたのでほっとしました。
この年代(団塊の世代)には、何も知らず調べず、戦後の「日本はダメだった」
論調に簡単に賛同して意味もなく昔の日本人を見下したような発言をする人がいます。
判で押したように彼らは日本が一方的に侵略戦争をしたなどと信じていて、
ついでに戦後日本に戦争がなかったのは9条のおかげ、などと思っているのも
この世代に多いことが「シールズ」のデモの年齢層をみてもおわかりでしょう。

ところでこの画面の右側に立っているさびた鉄の柱、
これも昔からあるのでしょうか。
時間があればそこここを細かに見学して歩きたいと思いました。



そして、そんな団塊の世代が元気だった頃、
(ガイドさん曰く、横須賀にお金があった頃)作られた
得体の知れないオブジェ。
人をイラッとさせる不安定なシェイプは、いかにもアーティストの
意味ありげで実は自己満足なだけの”創造の残渣”そのものと言った態です。
(言いすぎてごめんなさいなんていうもんか)

わたしがこれを気に入らないのは不格好なシェイプだけでなく、
全体に配された四角の升目いたるところにプリントされている文字。

核兵器廃絶、平和都市宣言」

これが、耳なし芳一のお経の文句みたいにいくつもいくつも。



核兵器廃絶も平和都市もそうあるべきだとは思うけど、一言。
まず、そういうことは核を持っている国に向かって言ってくれるかな。

無慈悲な国の核は神奈川に落とされるとイルミナティカードも予言しているし(笑)
いくら平和都市宣言したって、核を持ってる国は照準外してくれないと思うな。
耳なし芳一みたいに核兵器廃絶とそこらに書けば核弾頭は外れてくれるとか?

あ、今思いついた!

9条で日本が核の攻撃を受けないと思っている人って、9条を
芳一の体に書かれた魔除けの経文みたいに思っているのでは・・・。



ツァーガイドは全くスルーして通り過ぎたのですが、
この中央公園のガイド案内にはこの戦没者慰霊塔が載っています。

船の形のようだなあと思ったらやっぱり船の舳先を象っていて、
中には横須賀市内の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での
戦病死者の遺影約3600枚が納められているのだそうです。

塔の内側に金属の銘板が埋め込まれていて、その銘文は

「日本が 世界の夜明けに目覚めてから 今日の栄光をかちえるまで 
多くの戦争において 国のため尊い命を捧げられた 
諸霊よ 横須賀市民は 諸霊の遺族とともに この地を定め塔をたて 
熱いまごころをもって み霊を慰めたてまつる 
昭和四十四年三月誌す 横須賀市長 長野 正義」

平和都市宣言・核廃絶より、ずっと意味があると思うのはわたしだけでしょうか。





海上にぼんやりとかかっているのは黄砂ってやつなんでしょうか。
かつては海だったところに林立するビル越しに猿島が見えます。



アップしてみました。
砂浜に建物があるのが見えます。




ベントン・W・デッカーは、最初の横須賀アメリカ海軍基地司令官でした。
つまり最初の横須賀鎮守府庁舎のアメリカ人住人ということになります。
最初に日本に着任したときには少佐だったそうですが、
英語のデータによると最終的にはリア・アドミラルまでいったようです。

なぜデッカー少将の像があるかというと、横須賀市にとっては
戦後横須賀の復興の
恩人であるとされている人物だからだそうです。
この碑にはこのような碑文があります。

頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、
大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に
絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。

軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために
新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、
更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、
殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が
今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって
吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため
玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。

昭和二十四年十一月

社団法人横須賀商工会議所


昭和24年というとデッカーが任務を終えて帰国したときでしょう。

穿った見方をするわけではありませんが、アメリカが日本をどのように占領するか、
横須賀にどのような占領政策を布くかは一海軍少佐の胸先三寸で決まることでは全くなく、
デッカー少将は司令官としてGHQの意向に添って任務を行っていたにすぎません。

アメリカ海軍軍人として星条旗に忠節を誓ったからには
戦争で手に入った日本の一地方の統治にアメリカ全権として邁進するのは
いわば当然の義務だったといえます。

もちろん、デッカー司令官本人の人徳というものが当時の日本人を感服せしめ、
このような碑を退任早々(昭和24年)わざわざ建てるに至ったの事実でしょうけど。

ここでわたしは「マッカーサー神社」のことを思い浮かべずに入られません。


日本が戦争に負け、昨日までの敵であるアメリカに占領されるとなったとき、
日本人のほとんどは絶望に打ちひしがれ、

「男は苦役、女は皆手篭めにされるそうだ」

という流言飛語が飛び交いました。
ところが、横田基地にマッカーサーが降り立ち、アメリカ軍が進駐してきても
少なくともおおむね彼らは友好的で、聞いていたような乱暴狼藉もなく、
それどころか子供にチョコレートを投げたりする陽気で明るいその気質が
人々をまず安心させただけでなく、本国からは日本にふんだんに物資が投入され、
経済の復興も彼らの援助によって目に見える形で推進されます。

かてて加えて、東京裁判でアメリカは日本国民に「悪いのは軍部」
「あなたたちは騙されていた」と刷り込みショーをおこない、ラジオ番組
「真実はかうだ」などで戦時中の内情の暴露をして、
敗戦に遣る瀬無い思いをしていた日本人の怒りを「日本の軍国主義」に向けました。


敗戦国の貧しい日本人にふんだんに物資を与えてくれるアメリカ人。
「昨日の敵は今日の友」という言葉を日露戦争以来尊ぶ日本人にとって
占領軍が自分たちの救世主のように映ってもそれは当然だったでしょう。

このデッカー司令官も職務に忠実に、誠意を持って当たったがため、
横須賀の日本人に救世主のように慕われたようです。
何しろ当時の日本にはマッカーサーの熱烈な信奉者があふれ、
「マッカーサー神社」
を作ろうという話がでるくらいだったのです。

デッカー司令官は確かに横須賀の経済復興に多大な力を発揮したのでしょう。
たった3年の任期のあと離任するにあたって日本人が像まで作るからには、
時々は本国とぶつかってまで横須賀のために尽くしてくれた、というのも
あながち過大評価でもなかったのだろうとは思います。


しかし、それなら現在、このアメリカ軍人の名前が少なくともあの

アーレイ・バーク提督ほど人々の記憶にも、横須賀市の歴史にも残っていないのは
いったいなぜなのでしょうか。

ベントン・W・デッカーは帰国後本を出版しています。


「RETURN OF THE BLACK SHIPS」(黒船再来航) 

読んだわけではないのでなんとも評価できないのですが、
この日本語訳を出版したらしい団体の紹介によると 

ペリーの黒船から日本人は、民主主義を受取らなかったために無益な戦争に走ったが、
今度こそ、日本が民主主義になってもらうため、われわれは再びやってきたのだという
タイトルなのです。 民主主義については、未知であり、無知の日本人に、さまざまな
指導と努力で、短期間に見本を示していった実践の記なのです。

・・・おいおいおいおい(脱力)

そもそも黒船って日本に民主主義をもたらしに来たのかい?
あれは当時の世界の植民地獲得競争に乗り遅れていた米国が、
アジアでの覇権を握るため日本を無理やり開国させて市場を獲得することと、
捕鯨船の太平洋航路の拠点を獲得するためだったというのが定説なんですが。


そもそもこの紹介、この短い文章の中に三回も民主主義を繰り返しておりますが、

これを書いた人も、そしてデッカー少将も、

「日本が黒船から民主主義を学ばなかったから戦争になった」

と心から信じているとしたら、真実の歴史に対して

「未知であり無知」であるのはそちらだと言わざるを得ません。

そもそも民主主義とはなんだ!

とまるでどこぞの偏差値28集団のようなことを
言わないといけないのですが(笑)
その基本が議会制民主主義であり、
その根拠が選挙制度のあるなしだと仮定すると、
日本は遥か昔、
西暦700年頃から選挙制度を取っていますし、
近代の選挙制度は1878年ペリー来航から25年後、明治政府の発足後11年で
制限選挙ではありましたが、政治に取り入れられています。

この人たちのいう「戦前の日本が民主主義でなかった」というのは
いかなる根拠によるものなのでしょうか。


前にも言いましたが日本は天皇という存在があったため独裁政治になったことがなく、

さらに制限選挙がどうこうというのなら、アメリカはデッカーが日本にいた当時ですら、
黒人に公民権はなく、参政権は与えられていませんでした。 

お前らごときが日本に上から目線で「民主主義を与える」などとは
ちゃんちゃらおかしくておへそがお茶を沸かすわ!(独り言です)
 

概して当時の進駐軍はほとんどが

「日本を民主化する」

という態度で占領政策を行っていたのも確かです。

大方が日本人を対等な人間としてみていなかった当時の戦勝国の人間の中では
デッカー少将は甚だ高潔でフェアな人物であったようで、
わずか3年の司令官の任期で戦後日本人の心を鷲掴みにし、
おそらく離任するときには最大の敬意を払われ日本を後にしたのでしょう。

横須賀の司令官を以って軍を退役したデッカー少将は、アメリカで本を出し、
アジアでの珍しい体験をあちこちで講演して回っていたようです。


演題「アジアにおける我々の未来 わたしが日本で学んだこと」
ベントン・デッカー少将講演会



ところで、マッカーサーが「死なず消えゆくのみ」という言葉を残して帰国後、
彼が日本を「わたしの国」と呼んでいたり、例の「日本は12歳」発言によって、
日本人のマッカーサー崇拝はあっさり冷めました。


実はマッカーサーはこのとき、「日本の戦争は自衛だった」というあの発言を始め、


「勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方が良い結果を生むことはない」

「交戦終了後は懲罰的意味合いや、特定の人物に恨みを持ち込むべきでない」

「広島・長崎の原爆は虐殺は残酷極まるものだった」

と語った聴聞会での一説に「欧米が45歳なら日本は12歳」と述べたのです。
実はマッカーサーはそのあと、

「学びの段階に新しい思考形式を取り入れるのも柔軟だ。
日本人は新しい思考に対して弾力に富み、受容力がある」

と続けているので、これは日本のこれからの将来性を期待し、
硬直性のある欧米と比べて褒める意味で使ったとも考えられます。
しかし、多くの日本人は例によって「12歳」だけの部分を切り取った
報道しか耳にせず、非難に便乗してマッカーサーを嫌悪しました。




同じく、現在の横須賀の街で、この銅像以外に当時の熱い
「デッカー崇拝」を思わせるものはすでにどこにも残っていません。

聞けばこの胸像も、かつては横須賀のメインストリートにあったそうですが、
いつの間にかここに移されて今日に至るのだそうです。



日本人は大国アメリカを震撼させるほど勇敢に、自分の命すら捨てて
国のために戦ったのに、一旦敗戦後となるとこんどはそのアメリカ人が驚くくらい
従順で、
マッカーサーとGHQの治世を賞賛し、熱狂すらしました。

この変わり身の早さは「逆もまた真なり」であったことを、この、
恩人であったはずの
デッカー司令官の扱いにも見るような気がします。

さすがにデッカー少将が民主主義を日本に教えたとはわたしは全く思いませんけど。



続く。





 


日蓮の寺と海軍「千島艦事件」〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-09 | 海軍


こういった「市民参加型」の歴史探訪ツァーに参加するのは夫婦二人でなければ
大抵は一人。
想像したように、写真が目的でフル装備できたような人は少なくともおらず、
かろうじてわたしのグループにはわたし以外に一人、コンデジではない
カメラを携えてきた男性がいたのみです。

いわゆる亀爺はこういうのには参加しないのかもしれませんね。

アメリカだとこれが一緒に移動している間に誰彼なく話しかけ、
和気藹々となるわけですが、ここは日本、夫婦参加の二人とか、
ツァーにもう二人同行しているボランティアのガイドさんに
メインのガイドから遠いところで話しかける以外は、見事に黙々と、
特に移動の時などは押し黙って列が進みます。

団体でワーワー騒ぎながら歩くのは論外ですが、日本人の団体は
本当に空気を読みまくるというか、人見知りだなあと感じました。

さて、そんな団塊の世代の実態を観察しているうちにも
さくさくと行程は進みます。



上町教会からしばらくいったところに、一見モダンな教会が。
ここは特にツァーに含まれていたわけではありませんが、
日本キリスト教会の前を通ったとき、ガイドの方が

「戦後進駐軍のアメリカ人に追いかけられた女性がここに逃げ込んだらしい」

という、噂ともなんともつかない話をしました。
調べたところ、そういう話は表向き残っていませんが、
横須賀で生まれ育ったというその方がどこかで聞いたことのある話なのでしょう。



さて、この次は日蓮宗寺院である「龍本寺」へ。
正式には「猿海山龍本寺」というそうです。

日蓮上人は京都で修行をしましたが、関東地方でも
辻説法などの方法で布教を行いました。
ここで日蓮の弟子が開山したのがこの龍本寺です。



本堂の立派な門の飾りには、舟があしらわれています。
その下側には寺の名前にもなった龍がいますね。

日蓮伝説によると、日蓮が房総から布教の地を変えるため、
鎌倉まで舟で移動する途中海が荒れ、船底に穴が開き海水が入ってきました。
聖人が題目を唱えると、一時に風波がしずまり、
船底の穴には、あわびが密着して海水の侵入が防がれていたということです。

この木彫には嵐の中題目を唱えている日蓮上人の姿が見えます。



本堂の屋根を望遠で撮ってみました。
鳥避けにまるでまつげのように(笑)針が設置してあります。


いつもは本殿は公開されていないのだそうですが、今日は
本殿に改修工事が入っていたせいか、中に上がって見学することができました。



日蓮宗というのは感じですがこういう装飾に凝るような印象があります。
まるでシャンデリアのような本堂の照明が華やかさで目を引きます。



創建当時からあるのかどうかはわかりませんが、お猿さんの木彫りが。
猿というのは大変日蓮伝説にとって重要なアイテム?で、
例の嵐の後アワビが舟の穴をふさいで沈まなかった日蓮の乗った舟は、
豊島という小さな島にたどり着きました。

日蓮上人がこの島に上陸すると、どこからともなく一匹の白猿が近づいてきて、
法衣の袖を引き、陸の方を指しました。

それが現在の横須賀です。

猿が指差したからといってそこに行ってみようと思った日蓮の
真意は今にして思えばなんだったのでしょうか。
真面目に考えないように、と言われそうですが。

日蓮は船で、白猿の指示した岬へ向かいましたが、
ひどい遠浅の浜で、船がそれ以上進みません。
そこになぜか、すそをからげて船に近づいてきた人がいました。
いまでも横須賀にある石渡家の先祖・石渡左衛門尉でした。

この人の足から血が流れているのを見て、日蓮は題目を唱えました。

するとそれからこの浜で取れるさざえには、角がなくなったそうです。
浅瀬のサザエには元々角ができない、という説がありますがそれはスルーで。

ちなみにサザエの角はとれましたが、石渡左衛門尉の血は止まらなかった模様。
というか、目の前で人が怪我してるのにサザエの角とってる場合か?
という説もありますがこれもスルーで。 


ところで猿が出てきた豊島ですが、他でもない、
現在猿島と呼ばれているあれです。



右側に黒い厨子が安置されているのですが、その中には
船の穴を塞いだアワビが安置されているという話でした。

ただしこのアワビは嵐の時に穴をふさいだのとば別のアワビです。
日蓮上人という人はあまり派手に辻説法で他宗教を非難するので、恨みを買い、
ついに佐渡に島流しされています。
その際、日蓮上人を亡き者にしようとして船には穴が開けられていたのですが、
またもやその穴はアワビに塞がれていたというのです。

つまり、日蓮上人は二度もアワビに船の穴をふさいでもらって助かったのです。

貝類がよく登場するのは、信仰していた人々が横須賀の漁民に多かったからでしょうか。





本堂の欄間に相当するところにはこのような彩色された絵があしらわれていましたが、
どうもこのシーンは日蓮上人がお亡くなりになったところを描いているようです。

日蓮上人は1282年、60歳で病気のため亡くなっていますが、
60歳というのは当時にすれば長生きでしょうか。



寺の見学を終えた私たちグループは、山門とは違う出口から
目もくらみそうな階段を降りて行きました。
雨の降る日はとても怖くて降りられないような急な階段です。



階段を降りていったところ、冒頭写真の「お穴様」がありました。
お穴様とは、日蓮上人がこの地にやってきた時に修行した洞窟だそうです。
ご存知と思いますが、

「南無妙法蓮華経」

というのは日蓮上人が唱えた言葉で

法華経の教えに帰依をする」

という意味です。

日蓮が21日間篭り、大願成就の祈念を行なったと伝えられる座禅窟です。
その後、日蓮は当初の目的地だった鎌倉へと向かったとあるので、
この地に立ち寄ったのは日蓮にとってはちょっとしたアクシデントだったことになります。



洞窟というより洞穴ですね。
21日間修行をしたと言っても、弟子が掘った穴に座っていただけではないのか、
などというとバチが当たりそうなので言いませんが(言ってるけど)

内部はだいぶ修復を繰り返されて今では天井はコンクリートばりです。
御祈祷のための椅子が設置されているあたりが親切です。



おそらくこの奥に鎮座しているのが日蓮上人のつもり。
当時の日蓮上人を描いた絵を見ると、どれも目がぱっちりしていて、
今でいうかなり濃い顔だったのではないかと思われます。

「日蓮と蒙古襲来」という映画では長谷川一夫、1979年の
「日蓮」では萬屋錦之介が日蓮を演じており、わたしの思い込みだけでなく
日蓮が目力のある人であったと伝えられているようですね。
それでいうと、これはあまり日蓮に似ていそうにありません。

さて、わたしたちが龍本寺に到着したとき、最初のグループがまだ見学をしていました。
一度に50人くらいが本堂に入ることはできないので、わたしたちはしばらく待たされました。



その間、わたしはお寺の手水場からまっすぐ伸びる小道の向こうにある
墓所を眺めるともなく眺めていたのですが、ふと勘が働きました。

横須賀のお寺なら、もしかしたら海軍関係者の古いお墓があるかもしれない。

いや、そこまで具体的に考えていたわけではないのです。
後から考えるとそれはまさに「引き寄せられた」としか思えない
自然さで、わたしは脇目も振らず一つの大きな墓石に向かっていました。



実は近づきながらすでに視界に「海軍」の文字を認めていたのかもしれません。
「海軍機関士」、つまり軍艦の機関士5名の慰霊碑ではなく「墓」です。

なぜ5名が合同で墓所に入っているのかというと、おそらくそれは
遺骨がなかったからではないでしょうか。

ドキドキしながらわたしはそーっと後ろに回ってみました。



全文漢字でしかも花崗岩に彫り込まれた文字は読むのに大変苦労しましたが、
それでもこの機関士たちが「千島」の乗員であったこと、全員が溺死したこと、
そしてこの碑の揮毫を行ったのが、このブログでも2回取り上げたことのある
伊藤 雋吉(いとう としよし)海軍中将であることはその場で読み取れました。

伊藤中将は達筆で有名で、いろんな揮毫を請け負ったそうですが、
1895年(明治28)、この碑が建立されたころは、海軍中将のまま
共同運輸という会社の社長を務めていたことになっています。
おそらくやはりこの揮毫は達筆を見込まれたからに違いありません。


さて、調べたところ、この5名の機関士は千島艦事件といって、
1892年11月30日に日本海軍の水雷砲艦「千島」がイギリス商船と衝突、
沈没した事件による犠牲者であるらしいことがわかりました。

全文漢字ですが、苦労してわかるだけ翻訳してみます。

帝国海軍千島はフランスの造船会社によって建造された。
完成したので愛媛県興居島の海峡付近を航行していたところ、
イギリスの商船「羅弁那号」(ラヴェンナ)と衝突し、死者を多数出した。
ときに明治25年11月30日のことであった。

ここからは翻訳できなくて諦めました(おい)
とにかく、そのときに溺死した5名の機関士たちは職に命を賭したので、
その名をここに残す、というようなかんじ(適当)です。

このときに殉職した「千島」の乗員は74名でしたが、この5人の機関士だけが
ここ葬られている理由についてはよくわかりません。
この5人が横須賀の造船所から選抜されたという記録はあるようなので、
つまり横須賀出身の「千島」乗組員は彼ら5人だけだった可能性があります。


この「千島艦事件」が特異であったことは、近代化された日本が初めて

海外の法廷に訴訟を行ったという案件だったことです。

イギリスで行われた裁判の結果、第一審は日本側の勝ちでしたが、
85万円の賠償を求めて判決が10万だったので、これをどちらも不服とし、
再審をしたところ、第二審ではなんとイギリスの船会社(P&O)の全面勝訴。
上告しようとするうちにイギリスが和解を申し出、それを受けた日本は
和解金 90,995円25銭(1万ポンドだったので)でそれを受け取りました。

こんなことなら第一審でやめておいたらよかったのでは・・・。 



一部アップしてみました。
「仏国造船会社」「興居島海峡」「機関士溺死者五人」
などの文字が確認されます。

ちなみにこの「千島」という船は通報艦として作られました。

エミール・ベルタンが、自ら信奉するジューヌ・エコール思想に基づいて設計を行い、
1890年にフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工し、1892年に竣工。
最大船速22ノットのはずが試運転で19ノット程度しか達成できなかったため、
1年ほど引渡しが遅れています。

引渡しのためにフランスを出港し、アレクサンドリア、スエズ運河、
シンガポールを経由して、1892年11月24日に長崎に到着したあと、
11月28日に長崎から神戸に向けて出港し、30日に事故に遭遇しました。



ところで、さっきの日蓮上人の最後の姿が飾られていたような本堂の天井近くに、
古くて説明も何もない写真の額二つ掲げられているのに気がつきました。

こちらは写真そのものがぼんやりとしていて、人が並んでいることしかわからないのですが、



もう一枚のこの写真には、明らかに旭日の海軍旗が写っています。
そしてぼんやりとではありますが、後ろにかけられた幟には

「(海?)軍忠死者」

という文字が読めるのです。
皆の後ろにある物体もなんとなく軍艦をかたどったものに見えなくもありません。


前列に座っている5人の若い婦人たちは機関士たちの未亡人で、
学帽を被った少年は遺児だと考えれば、この千島事件の
殉職者の葬式の時に撮られたものである可能性が高くなります。

残念なことに右側の幟に何が書いてあるかは全く読めません。
そう思って先ほどの集合写真を見ると、同じ時に撮られたようですし、
海軍旗のようなものもあるように思えます。
(後列左から3番目と4番目の人の間)


以上はおそらくわたしだけがたまたま発見したことですが、
これが正しいのかどうかは全く想像に過ぎないため確信は持てません。

ただ、日頃から海軍海事に傾倒していることが、これらのことを
今回引き寄せたのかなあ、と少し我ながら不思議ではあります。

今にして思えば、一人で墓石を見に行ったあたりからなにか
導かれていたような気がするんですよね・・。
というわけでこれも何かのご縁、5名の海軍機関士たちの
お名前を最後に記しておきます。


伊藤房吉

山田基

横田鎌三郎

安藤茂廣

田子七郎


合掌。





「外人石工」の彫った狛犬〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-08 | お出かけ

以前、コメント欄でさんぽさんに「蜜柑の碑」を教えていただいたとき、
よこすかシティガイドのHPを貼っていただきました。
ふと興味を惹かれるツァーを見つけ、参加したのでそのご報告です。

NPO法人よこすかシティガイド協会は、平成14年発足したボランティアガイドの
団体で、去年法人化してNPOとなったばかりです。

横須賀の観光案内を企画して行っており、シーズンには週1〜2回の割で
ツァーが行われているようです。
こういうツァーに参加するのも米軍基地内ツァーだけだったので、
その雰囲気も含めてどんなものか大変興味がありました。



集合場所は横須賀中央駅前コンコース。
この日は初夏といってもいい晴天でした。
ツァーは基本雨天の時には中止になるようです。



防衛団体のロナルドレーガン見学、そして術科学校見学と
最近横須賀づいていますが、前回から横須賀周辺にはこのような
ジャズを演奏しているおじさんの像がそここにあるのに気付きました。
なぜ上半身裸でサックス吹いているのか教えてくれるかね?



集合時間の30分前から皆集まっていたようです。
来た順に3つのグループになって時差をつけて出発。
わたしはもちろん一番最後の組になりました。

ところで、平日の昼間、朝9時半から2時までのツァーに参加できる
となると、いきおい参加する年齢層は決まってくるわけで、
16歳の息子がいるわたしが文句なく一番若くて、
ツァーガイドのおじさんがわたしを「こちらのおじょうさん」と
呼んだくらい全員が高齢層、おそらく平均年齢65くらいと思われました。
(ちなみにこのおじさんはみのもんたではない)



で、駅から商店街を15〜6人がぞろぞろ移動するわけ。
狭い商店街のアーケードなので、当然普通に歩いている人が
この団体に迷惑しているようすがわたしなど気になって仕方ないのですが、
なんかみんな片側に寄らないんだな。 



なんか見たことあるなあと思ったら、つい先日横須賀鎮守府庁舎の公開で
帰り歩いて帰った商店街でした。

商店街の中にも昔ながらの建物がそのまま残されていることがあり、
これなど外壁に青銅を使っている古い建物です。
昔は旅館だったとガイドの方が言っていました。



このツァーの最初の案内地が「平塚貝塚」。
貝塚とともに全身を伸ばした「伸展葬」で発見された
男性の人骨などが発見されたそうですが、
今そこ近辺は開発されてすっかり住宅地になっています。

つまりその住宅地を見たわけです(笑)

そこを臨むアーケード沿いに、この民家があって、
確かガイドは「発見者の自宅」と言っていたような気がするのですが、
発見者って、当時小学校5年の子供だったっていうし・・。

あ、その子供がここに住んでたってことかな?



このツァーの面白いところは、見学するところが「歴史的名所」に
限らず、一般住宅の建築様式も含むことです。
これも商店街のなかのカメラ屋さんなのですが、この装飾タイルの床が
古いものなのだとか。



同じカメラ屋さんのステンドグラスは、先日旧長官庁舎で見た
同じ作家の手によるものにも見えます。
これも古いものだそうですから、可能性はありますね。



次に訪れたのは小さな鳥居のある中里神社。
天照大神と宇賀御霊尊がご祭神で、1817年に創建されました。



明治41年(1909)に再建されたという本殿。



お鈴を取り替えたのか、古いのがただポツンと置かれていました。



拝殿の軒下に、すっかり風雨にさらされて文字の消えた額がありましたが、
これは大正11年にかけられたもので、当時の歌人、松竹庵梅月の弟子が
当地をテーマに詠んだ詠の俳額なんだそうです。

わたしが解説でピンと引っかかったのは、この梅月という歌人が

海軍工廠に勤めていた

という一言。

「海軍工廠で何の仕事をやってたんですか」

とガイドの人に聞いたのですが、

「・・・あまり詳しく聞かないように」

とのことでした。orz
そこで独自に調べた結果(ツァーの間もiPadでも調べられる)


●梅月の句作は数万、門弟は、全国に七千人近くいた
●明治7年(1864)、本県中郡に生まれ、本名は石井広吉
●21歳で立机(りゅうき=宗匠つまり師匠)となる
●日清戦争直後、横須賀に来た梅月は、田浦町三丁目の静円寺近くに住み、
海軍工廠へ務める傍ら、門下の指導に専念
●工廠で働きながら、門弟の指導や全国的な仲間づくりに励むー方、
隣近所の子供たちの育成に尽した

ということまではわかりましたが、肝心の『工廠で何をしていたか」

はどこにも出てこず全くわかりませんでした。
技術者や工員ではなく、事務職だったのではないかと思われます。

ちなみに梅月の出版していた俳誌は

「軍港の友」

その最後は、昭和14年(1939)、日中戦争で北中支に転戦する
将兵の慰問を行うため中国に渡りましたが、彼地でマラリヤを病み、
それが元で3年後、68歳で亡くなったというものです。

この慰問というのも何をもって将兵の慰めとしていたのかわかりません。
このころは俳句も歌舞謡曲のような「慰問」のカテゴリだったのでしょうか。

いずれにせよ、かつて海軍工廠に勤めていたことと、この戦地慰問には
それを志願するにあたって何らかの因果関係があったと思われます。

梅月が中支に渡る前の壮行会で撮られたらしい写真が
このページの真ん中ほどにあります。

ふるさと横須賀 松竹庵梅月

このような老人を慰問のためとはいえ戦地に送るというのは
無謀というか無茶にしか見えませんが、
ご本人の固い意志からだったのだろうなと思わされます。



横須賀の街には京都とは全く違う、このような廃屋が結構たくさんあります。
ガラスの感じから見て昭和2〜30年の間の築でしょうか。
同行の参加者が、右端の出っ張りを指して

「こういう家は廊下の端に必ずトイレがあったんだよな」

などと懐かしがっていました。



次の見学地は「横須賀上町教会」。
現在は幼稚園として使われているので中を見ることはできませんが、
昭和6年に建てられたこの教会本堂は国の登録有形文化財になっています。

昭和6年というとまだ100年も経っていません。
ヨーロッパはもちろん、アメリカでもボストンなどでは
200年前に建った教会が街ごとにあって、特に文化保護もされていないわけですが、
日本という国は、その歴史の長さの割に、特に建築が残されない国だと思います。

もちろん地震や戦争で多くが喪失したという面はありますが、
それ以上に
「土地がない」「財政がそれを支えられない」というだけの理由で
この世から永遠に消えてしまった歴史的な建築物がどれほどあることか・・。

建築ではありませんが、冒頭の「平坂貝塚」にしても、現在は
民家の敷地内にあるらしく、すでに一般人が見ることはできなくなっています。



この教会は家具や照明器具にいたるまでが当時のもので、
オルガンもそのまま置かれているのだそうです。



教会の建っている造成地の壁も昔のまま。
当時は砂利をそのまま入れて使ったんですね。



そのまま上町商店街の裏道を歩いていきます。
こういう昔からの家にも普通に人が住んでいます。



ここも思いっきり築年数の経った家ですが、現在ITサポートセンター。

建物の横にカギ型の釘が幾つも突き出していますが、
これはガイドさんによると「火伏せ」といって「火除け」だそうです。

「具体的にどう役に立つのか知ってます?」

と逆にガイドさんに皆が聞かれてしまったのですが、検索しても
「火伏せ」とは火除けのまじないという意味しかでてきません。



こちらの青銅の外壁を持つ家の側壁にもたくさんのカギが。

わたしの想像ですが、建物が密集しあった当時の街では、
一旦火事になったら建物を倒してでも延焼を防ぐしかなく、
そのため外壁にカギをつけておいていざとなったら倒壊させたのかな、と・・。

どなたかこのカギについてご存知の方がいたら教えてください。

 

次の予定地は「深田台神明社」ですが、
山門?に建てられている石柱にはなんか別の文字が・・・。


で、この石柱を寄贈した人の名前が「小泉又市」とあるので、
皆が「小泉さんの親戚だ!」と断定的に言い切っていたわけです。
確かに小泉元首相のおじいさんは「小泉又次郎」という政治家で
飛び職人から横須賀市長、逓信大臣にまでなった「豪傑」でした。



一番左小泉純一郎、その右又次郎。
一番右の男前は婿の小泉純也
小泉家のイケメン血筋はこの純一郎のパパによってもたらされた模様。

で、調べてみたんですが、小泉又市という人、小泉家の家系に出てきません。
又次郎さんの名前からみて、こちらがお兄さんだったのかなという気もしますが・・。



さて、この神社、横須賀独特の住宅街の中の細い道の石段を
登って行ったところにあり、その手前に

「納 御神燈」

とありますが、肝心の御神燈はどこにあるかわかりませんでした。
この神社は1871年、もとあった米が浜に陸軍の砲台が作られることになったので、
ここに移転してきたのだそうです。



で、この鳥居の手前、片側にだけ鎮座する狛犬さん。
気のせいかそのシェイプもユニークですが、それもそのはず、
この狛犬、台座には英文で作者名が刻まれているのです。



ガイドの方にライトで照らしてもらったのを撮りました。
現地では暗くて全く読めなかったのですが、こうしてみると

Carved by B. Chifiyei (ーB.以下まったくの推測ーによる彫刻)


と読めないこともありません。
当時石を彫るのは大変だったらしく、最初の彫り始めと最後では
まったく気合の入り方が違うのが哀しいですが(笑)
とにかく、これを彫刻したのはこの外人さんだったということらしいです。

彫ったは彫ったけど、芸術家ではなく単なる「石工」だったらしく、
とにかく今では作者についてわかる何の資料も残されていません。

言われてみると、狛犬の風情が「バタ臭い」という気がしないでもありません。 
横須賀の有力者がちょっと変わった狛犬を置いてみようと 依頼したのでしょうか。 



そして、この台座には又次郎の名前がちゃんと刻まれています。

でもおかしなことに気づきました。
神社移転の1871年というと、又次郎さんはまだ6歳のはずなんですよね。

狛犬の設置は少なくとも小泉又次郎が横須賀市長になった
1907年前後でないとおかしなことになってしまいます。

というわけで、これもわたしの想像ですが、この狛犬は当時
明治政府が採用していた「お雇い外人」の関係者が、何らかの縁で
移転に際して作ったもので、ずっとここにぞんざいに置かれていて、
30年経ってから、横須賀地元の有力者が何かの記念にあたり
あらたに台座を作って現在に至る、という経緯だったのではないでしょうか。


続く。


 


「カミカゼの道」〜空母「ホーネット」博物館

2016-05-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

ドーリットル隊とその空襲についての資料が展示されていた近くに、
特攻隊の資料がありました。
それが先日”「タイコンデロガ」に突入した二機の零戦」”でご紹介した
零戦の破片であり、「ランドルフ」に突入した搭乗員の遺した
酸素マスク(黒髪坊主頭のマネキンをわざわざ用意して展示していた)です。



柱の向こうにそのマネキンの後頭部が見えているわけですが、
ここに貼られているパネル、「Kamikazes!」と赤い字で書かれた
その内容は、アメリカ海軍の「空母」が受けた「カミカゼ」による主な被害一覧。

ちょっと大変でしたが、こういう一覧表もあまり見ることがないので、
全部翻訳してみます。


45年2月21日

ビスマルク・シー CVE-95 
     硫黄島を飛び立ったカミカゼに特攻を受けて沈没 
     戦死者318名
     唯一特攻によって空母が沈んだ例

ルンガ・ポイント CVE-94  
     硫黄島からの特攻、被害軽微

サラトガ CV-3 
     戦死123名 負傷者192名
     修理のため帰国


3月11日

ランドルフ CV-15
     ウルシー湾にて夜襲を受ける
     戦死26名 負傷者105名
     現地で18日で修理を完了


3月18日

エンタープライズ CV-6 
      九州方面からの特攻を受ける
      破損 ウルシーで修復

イントレピッド CV-11
      砲座にヒット
      戦死3名 負傷30名

ヨークタウン C-10
      被害軽微 ウルシーにて修復


3月19日

フランクリン CV-13
      四国からの特攻機が突入 爆撃も受ける
      戦死者800名 負傷者300名以上
      修復不可能で戦線離脱

ワスプ CV-18
      四国からの特攻機によって3番エレベーター損壊
      4月1日には沖縄からの特攻によって
      102名戦死、20名負傷
      修理のためアメリカに帰国 


4月3日

ウェークアイランド CVE-65
                  沖縄からの特攻機によって重篤な損壊
      グアムで修理


4月7日

ハンコック CV-19
      沖縄からの特攻によって
      110名戦死、90名負傷または行方不明


4月11日

エンタープライズ CV-6 
      沖縄からの特攻 損壊軽微


4月16日

イントレピッド CVー11
      第3エレベーターの損壊を修復するために帰国し、
      戻ってきたところで沖縄からの特攻により大破
      戦死者74名 負傷者82名


5月4日

サンガモン CVE-26
      沖縄からの特攻によりフライト&ハンガーデッキ大破
      11名戦死 21名行方不明(つまり戦死)
                修理中に終戦になったので修理中止


バンカーヒル CVE-17 
      沖縄より飛び立った二機の零戦が1分違いでどちらも突入
      戦死者350名 負傷・行方不明者300名
      ミッチェル提督とスタッフはこのためエンタープライズに移乗


エンタープライズCV-6
      九州からの特攻を受け14名戦死、34名負傷
      ミッチェルはこのためランドルフに移乗
      4日の間に旗艦を3隻変えた



あくまでも空母ですので、これ以外に特攻隊の被害を受けた艦船は
たくさんあることをお忘れなく。
ただ、特攻隊の隊員としても空母に体当たりするのが至上命令であり、
本懐と考えていたので、艦隊の中から他には目もくれず
空母を目指したパイロットが多かったのだろうと推測されます。



サンタクルーズの戦い、ということは日本側で言うところの
「南太平洋沖海戦」のことなのですが、そこで攻撃を受ける「ホーネット」。
「ホーネット」には99艦爆の攻撃が雨あられと襲いかかりました。
このあと「ホーネット」はもえさかり、どちらからも回収不可能になって
結局日本側の航空隊の攻撃によって沈没しています。



ミッドウェー海戦での「ホーネット」。
全体的には例の「七面鳥撃ち」でアメリカの圧勝でしたが、
この時に「ホーネット」から飛び立ったデバステーター爆撃機は
スコードロン全体で生還してきたのは1機であったと書かれています。



 
日本の側からではなく、アメリカ目線で見た「特攻の道」。
ALLEYというのは「レーン」というふうな意味で使われています。

58機動部隊の位置は右下の丸、
彼らは沖縄に地上戦のための支援を行いつつ、
カミカゼを迎え撃ち、喜界島への攻撃も行いました。

この「カミカゼの道」の鹿児島から、というのは
知覧、鹿屋、万世、出水の各基地を指しています。 

 

その「喜界島」を

「サクッと訳すとオポチュニティの島」

としつつ(そうなん?)、ランドルフ甲板上で喜界島を攻撃するための
ヘルキャット、”サンダーバード”が待機している様子を紹介している写真。



前にも一度写真に撮りましたが、ランドルフ艦載のヘルキャット
(のハセガワの模型のパッケージ)。
2年経っていますが、「HASAGAWA」という間違いは直していません。
まあ当たり前か。



日本機を3機撃墜したというマークをつけた機の射手。

「ぼくはアメリカかいぐんのこうくうたい、コンバットチームのメンバーだよ。
パイロットとクルーはぼくのうでにしんらいをよせているんだ。
ぼくはまるでじぶんの体のようにひこうきとガンをだいじにしているんだ。
なぜってこれにぼくたちのいのちが、それだけじゃない、
くにの人たちのいのちと、わるいやつの死がかかっているんだからね!
ぼくはできるかぎりの力でぼくのクルーとひこうきをまもるよ。
かみさま、どうかごかごを!」

と訳したくなる平易な文章だったのですが、なんとこれ1995年に
メンバーが同窓会で集まったときの記念ポスターだそうです。


ところで、日本側の現在に残る記述では特攻の効果を過小に評価し、
無駄死にを印象付ける文書が多いのは前にも言及した通りですが、
上に挙げた空母の被害だけを見ても、莫大なものであったことがわかりますし、
何よりも心理的に彼らに与えたダメージは大変なものでした。

上に挙げた空母のうちの一つ「サンガモン」は、10月25日に
フィリピン方面で特攻隊との死闘を繰り広げ、突入こそ許さなかったものの
(同行の「サンティ」そして「スワニー」に激突)死者、負傷者を出しています。

5月4日の特攻攻撃では「サンガモン」は操舵室、格納庫に莫大な被害を受けました。
この時の生存者の一人が、生き残ったことを喜び合って

みんなでアイスクリームを食べていた時に

みんなでアイスクリームを食べていた時に 

みんなでアイスクリームを食べていた時に 

「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。
私には、あんなことはやれなかっただろう」

と、サンガモンに命中した神風のパイロットを称えたということです。

三回同じことを繰り返したのは、これがアメリカ人にとって

きっととても大事なことだったに違いないと思われたからです。


続く。 



 


ニューヘイブンの街角

2016-05-05 | アメリカ

去年の夏と随分前のことになりましたが、サマーキャンプで訪れた
アメリカ東部の大学街について、息抜きがてらお話しします。

 

キャンプはアメリカ東部名門大学、イエールのキャンパスで行われました。
アメリカの大学、特に名門と呼ばれる古い大学は広大なキャンパスを持ち、
大学の敷地がほとんど街3つ分くらいだったりするのですが、イエールも例外でなく、
この辺りには数百年を経た石積みの建築物が延々と続いています。

もちろん近代的設備を備えた最新式のビルも常に建築されており、
大学全体が新旧取り混ぜて渾然一体となっているのです。



何度か展示物についてお話しした、イエール大学の美術館。
建物そのものは「最後の巨匠」ルイス・カーンの最後の作品(1974)で、
細部も新しい設備ですが、古くからの部分も建物の一部としてちゃんと残されています。

これがロビーで、モダンな休憩用の椅子を配しているのですが、



同じ建物の窓はこの通り。
西半球で最も古い大学美術館で、こちらの建築は1832年です。



ガラスがかなり昔のものであることがお分かりいただけるでしょうか。
屈折率が高くて外が何も見えません。



創立当初からある螺旋階段の手すりが優美で美しい。



古代ヘレニズム文明の展示のある部分も当時のままなのですが、なんとここに
「この下にこの人が眠ってますよ」のプレートが。
フランスやイギリスの教会や聖堂などでは、建物の床やら壁やらに
棺を埋め込んでしまって「ここに誰々眠る」という碑を残したりします。
建物の中にご遺体をねえ、と日本人としては妙な気分なのですが、もっと微妙なのが、
皆が歩く床の下に棺を埋めてしまう風習。

ロンドンのセントポール大聖堂に行ったことのある方はご存知かもしれませんが、
あそこは観光客が歩く通路のそこここに棺が収められているのです。
なるほどなあ、と思ったのは、教会のオルガンの床に

「ここのオルガニストだった誰それ、ここで眠る」

とあったことで、このオルガン弾きは、自分が死んだ後も
自分の職場でずっと眠りたいという願いが聞き入れられたものでしょう。

いずれにせよ、われわれの感覚では棺の埋まっている上を土足で歩くのに
失礼というか申し訳ない気がするのですが。



で、ここでお眠りになっているのはどなたかというと、

ジョン・トランブル

説明には、この美術館を作った人物で、パトリオットでありアーティストとあります。 
レバノンに生まれニューヨークに死す、とありますが、このレバノンは
あのレバノンではなく、コネチカットのレバノンです。

バンカーヒルの戦いアメリカ独立宣言、 サラトガ、ヨークタウンなど、
独立戦争にまつわる絵を多く残しています。
ここにはご本人だけでなく、なんと!奥さんも一緒に眠っているとか。



キャンパスは、建物で四方を囲み、内側に公園のような庭があるのが定番。
ハーバードなどもそうですが、アメリカの大学は独自の警察組織を持っていて、
大学警察の名前でパトロールが行われています。



建物のところどころに記念のプレートが填め込んであります。
大抵は誰か有名人の記念だったりするのですが、これは・・・



ノア・ウェブスターの家が建っていた場所。
誰かと思えばウェブスター大辞典のあのウェブスターさんでしたか。
1778年卒業のクラスだったとあります。



学生街には必須の自転車屋さん。
お店の看板に実際の自転車が・・・。



自転車やバイクを放置したら、鍵をかけていてもおそらく1時間以内に盗られるのがアメリカ。
というわけで、歩道にはいろんなタイプの自転車&バイク係留バーが設置されています。
右端の緑のは自転車用で、まるでオブジェのようなのがバイク用。

しかしバーにチェーンで繋いでも、タイヤだけ外して盗まれるのはしょっちゅうです。
日本っていい国なんだと思いますよ。



あるときお昼ゴハンを食べに入ったレストラン。
この建物も相当古いです。
カーテンがありませんが、日差しはどうしているのかな。



メキシコ料理で、石の鉢でウワカモーレ(アボカドとサルサ)を練り練りして潰し、
トルティーヤにつけて食しました。



大学構内にはキャンプを行っている子供達の姿がそこここに。



片方だけジーンズをきっちりと折って裾上げしていた人。
わかりませんが、何か彼なりのこだわりのある着こなしなのでしょう。



この辺にはトウブハイイロリスが多く生息しています。
木の上から降りてきてこちらを気にしながら見つけたものに接近。



木の実だったようです。
リス愛好家としては、可愛さにおいてはトウブハイイロリスより
カリフォルニアジリスやシマリスの方が上だと思っていますが、
それでもリスを見ると目の色変えて写真を撮ってしまいます。



何も手を入れられていない芝生だけの広場、という贅沢なものが
ふんだんにあってしかも立ち入り自由なのがアメリカ。
この写真も日陰をズームすればたくさん人がいますが、日向で寝ているのは一人。



靴がでかい(笑)
居眠りしながらついでに日焼けもしてしまおうという考え。



さて、「オールドキャンパス」というところにやってきました。
息子はここでキャンプに参加していたのですが、キャンプ半ば頃、
様子を見るために連絡を取って自由時間に会うことにしたのでした。



このゲートの内壁にも記念のプレートがいくつか。
1895年卒業クラスによって作られた「ベンジャミン某」の思い出のための碑。
亀の甲文字でほとんど解読できません(笑)

卒業20年後くらいの皆がまだ壮年のとき、若くして先立った級友のために
クラスの皆が集まったのだと思われます。
そのときこの前に立った彼らのうち誰一人として、もうこの世にはいません。



ロバート・ヒクソンという卒業生は、調べたところ「ロバート・ヒクソン基金」
という奨学金のファンドに名前を残しています。
基金設立は亡くなった夫の思い出のために未亡人が行ったとか。

アメリカ人は、イエールやハーバードに限らず、自分の卒業大学に卒業後も
寄付を続けたり、財を成せば多額の基金を自分の名前で設立したり、
自分の名前の学舎を持つことに大変熱心です。



オールドキャンパスの中庭では、息子のキャンプの一団が野外のゲームに興じていました。



しかし息子は「洗濯機がなかなか空かなくて大変だった」
とトホホなことを言いながらドミトリーから出てきました。



待ち合わせしたのは

NATHEN HALE

の銅像の近く。
ネイサン・ヘイルはイエールの卒業生で、アメリカ独立戦争のとき
アメリカ初のスパイとしてイギリス軍に絞首刑になった「コネチカットの英雄」だそうですが、

彼が何をしたからではなく、彼が何故それをしたかのために、
アメリカの英雄に含まれている。
ネイサン・ヘイルは将軍のテントがヘイルの学校校舎の直ぐ隣にあったので
イギリス軍をスパイした」

という説もあるようです。




ABRAHAM PIERSON(アブラハム・ピアソン)の像。

ピューリタン派の牧師で、彼自身はハーバード大学を卒業しており、
のちにイエール大学になる学校の創始者です。
1702年、日本では元禄年間にこの大学の歴史は始まりました。



イエール大学の学生もスターバックスがないと生きていけないようです。
いつ行っても、勉強している学生でテーブルが占領されています。

となりのパネーラなどとは明らかに学生占有率が違うのですが、
コーヒーが飲める「公共の場所」のような雰囲気が好まれるのかもしれません。





 


ロシアン・スナイパー(ただし女子に限る)

2016-05-03 | つれづれなるままに

本日タイトルはアメリカの「レジェント」といわれたスナイパー、
クリス・カイルを描いた映画「アメリカン・スナイパー」から取りました。

伝説のスナイパーとは、「白い死神」といわれたフィンランドのシモ・ヘイへ、
「ラマディの悪魔」クリス、「ホワイト・フェザー」ことカルロス・ハスコック、
記録の上では世界一である朝鮮戦争における中国の張桃芳などがいますが、
当然のように全員が男性です。
そもそも狙撃手に女性がなるということがないので当然ですが、
その中で何人かの「レジェンド」を排出している国があります。
 


先日、アメリカ軍における女性の登用について書きましたが、

第一次世界大戦で、女性の役割は看護師としてに限られていました。
唯一そうでなかった国が、ロシアでした。

女性の入隊を正式に許可していたわけではなかったので、女性は

変装したり(!)あるいは暗黙のうちに兵士として部隊に参加していました。
最前線のコサック騎兵の指揮を女性の少佐が執っていたという話もあります。

基本的に女性でもなんでも参加したければどうぞ、という感じだったのね。

マリア・ボチカリョーワという軍人は「婦人決死隊Women's Battalion of Death」
を率いて前線に立ち続け、西部戦線(レマルクのあれ?)でも戦っています。

ボチカリョーワは一度アメリカに亡命し、そのときにロシア軍の実情、
男装して戦っている女性兵士が数多くいることなどを著書にしていますが、
その後再び戦列に復帰するために帰国したところボルシェビキに逮捕され、
(これが最初の逮捕ではなく、前回、前々回と内部の者に逃がしてもらっている)
ついに銃殺されてしまいました。


そういう素地というかお国柄なので、当然ながらソ連となったあとも、
戦線には女性が普通に立っていました。

ソビエト連邦軍に所属していた女性は80万人と言われ、全体の3%でした。
1941年、ドイツがロシアを攻撃したとき、そのうち数千名が
隊から離れたということですが、全体数が多く、パイロットや狙撃手など、
特殊な技能を持って前線で戦う女性兵士はむしろ奮い立ったのです。

以前、「レニングラードの白百合」とあだ名されたリディア・リトヴァクと、
「ソ連のアメリア・イヤハート」、マリナ・ラスコヴァ、エカテリーナ・ブダノワなど、
ロシアの女性パイロットについて一度お話ししたことがあります。
彼女らは男性と同じ戦闘機で男性の部隊に加わって戦闘を行っていました。

ソ連は、女性が戦闘機に乗って戦うことを可能にした最初の国家で、
彼女らの中から少なくとも20名のヒーロー、そして二人のエースが誕生しています。

ソ連と共産主義国家のジェンダー事情についてわたしは寡聞にして知らないので
なんとも判じかねるのですが、もしかしたら人民平等を謳った共産主義とは、
ジェンダーフリーも内包していた(理想として)のかもしれないと、
このソ連という国家が前線に女性をバンバン投入したのを見ると思ったりします。

そんなソ連ですから、陸上部隊の戦力として女性に狙撃手をさせることにしたのも
ごく自然なことであったという気がします。

現在でもオリンピックのエアピストル競技は、男女共通で行われます。
2位と3位の男性が、小柄な優勝した女性を二人で抱え上げている写真を
(しかも彼女は東洋系だったと思う)見たことがありますが、
性差に関係なく結果が出せるのが、1対1で対峙することなく敵と戦える
銃撃手だとソ連は判断し、戦闘機パイロットがそうだったように、
志願した女性兵士の中から
”レジェンド”といわれた女性狙撃手が出ました。

本日画像にしたのは、特に美人と言われた4人のスナイパーです。

左のリュドミラ・ミハイロブナ・パブリチェンコは、
たとえて言うならソ連のクリス・カイルのような存在だったと思います。
本日表題の「ロシアン・スナイパー」は当初の洒落のつもりでしたが、

パブリチェンコのことを調べていて、彼女の生涯を描いた2014年映画、

「ロシアン・スナイパー」

という映画があったことが判明しました。

Russia Sniper Army Meilleur Film d'action Complet en Francais 2014


フルでアップされているのですが、残念ながらフランス語版です。

パブリチェンコらしい銃撃シーンはとりあえず11分頃に見ることができました。

新しい方の「ロシアン・スナイパー」はこちら。

ロシアン・スナイパー


もともと学校のクラブで射撃部に入っていたパブリチェンコは、
ドイツが侵攻してきたときキエフ大学で歴史を学ぶ学生でした。
志願して狙撃隊に入隊した彼女は教育隊で驚異的な成績を上げ、
配属された部隊が行った防御戦では初陣にもかかわらず2名を射殺しています。

その後は独軍の侵攻を食い止めるため、前線に配備され続けましたが、
彼女は枯草で偽装して狙撃陣地に潜み、敵を一旦やり過ごしてから
その後背や側面に向けて700~800mの長距離から狙撃を行う、
という戦術を用いて多大な戦果を挙げたといわれています。

彼女が狙撃し射殺した公式の記録は309名であり、そのうち39人は

ドイツ軍の狙撃手(つまり同業者)でした。

短期間に少佐にまで昇進し、全軍にその名を知られるようになったため、
ソ連は彼女を失うことを恐れて教育隊の教官に任命し後方に下げました。

そして、国民的英雄である彼女の名声を利用して、軍は女子の狙撃手を募集し、
彼女に憧れた女性らが志願し、約2000名の狙撃手が生まれたそうです。


写真に残るパブリチェンコはシャープな感じのする美女ですが、
やはり美貌を謳われていた狙撃手にローザ・エゴロブナ・シャニーナがいます。

パブリチェンコより9歳年下(1924年生まれ)のシャニーナの名前は
ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルグから取られました。
戦争が始まるまでは学費を稼ぐために保母をしていたシャニーナは、
1941年にドイツが侵攻後、入隊していた兄が戦死したことで、彼女は
自分も文字通り銃をとって戦うことを決意します。

志願して女性狙撃手となった彼女は、1943年から2年間の軍歴の間に
少なくとも54人を狙撃によって殺傷したと言われてます。
自身も戦傷を負い、女性で初めて英雄メダルを授与されました。

1945年1月20日、東プロイセンの前線で歩兵将校を守るために戦っていた彼女は
胸に砲弾の破片が直撃し、翌日亡くなりました。
彼女の部隊はすでに78人のうち72人がドイツの自走砲によって戦死しており、
彼女自身も多分自分は戦死するかもしれないと手紙に書いています。

戦死したとき、彼女は20歳と10ヶ月でした。


中央上段のクラウディア・カルディナ・エフレモブナの写真は、まさに天使。
ロシア人にしては小柄で(157センチ)アイドルのようなキュートな女性です。

彼女は1926年、シャニーナより2歳年下です。
戦争が始まったとき彼女は15歳で、コムソモール(若者のための組合)
に働きながら参加していましたが、スナイパー養成過程が「セカンダリースクール」
で選択できるということを知り、受けてみることにしました。

彼女はそのとき17歳。養成過程の最年少でした。
この写真もその頃撮られたものだと思われます。
彼女は他のスナイパーのように多くを殺傷したわけではありませんが、
特筆すべきは高校生の年齢の少女が人間を殺すために戦線に立っていたという事実です。

クラウディア・カルディナインタビュー

ここに、2010年、84歳の彼女にインタビューした記事がありますが、
ここで彼女は 最初にドイツ軍が侵攻してきたとき、
そこにいた何人かの女性狙撃手は人を撃つのが初めてで
どうしても最初に引き金を引くことができなかったと語っています。
その晩、自分のことを「弱虫!弱虫!」と自己嫌悪にかられて罵り、
次の日にはマシンガンを構えたドイツ兵を彼女はためらわず撃った、と。

一番右、アーリャ・モロダグロワは、その発音不可能なミドルネームからも
わかるように、カザフスタンの出身です。
カザフスタンの人々には東洋的な風貌が多々見られますが、彼女も
大変オリエンタルに見える女性です。



1925年、カザフスタンのブラクで生まれた彼女は幼いときに両親をなくし、
(一説ではじゃがいも畑で不法侵入を疑われ撃ち殺されたという)
叔父に育てられましたが、その叔父がレニングラードに引っ越した際、
彼女を若くして軍の輸送業務を学ぶ学校に登録しました。

4年後、奨学金を得ることができた彼女はそのまま赤軍に入隊し、
そこでスナイパーとしてのトレーニングを受けることになります。

戦闘に投入されるようになったある日、彼女と戦友(女性)は
緩衝地帯で5人の「ファシスト」と出逢いました。
彼らが彼女たちが女性の狙撃兵であると気づくより少し早く、
アーリャは彼らに向かって銃を放ち、一人を射殺しました。
彼女の同僚たちもさらに二人を撃ち、残る二人を格闘の末捕虜にしました。
 


1944年、第43狙撃隊に参加してノボソコルニキの線路で敵を待ち伏せしていた
彼女がふと気づくと、隊長がいなくなっていました。
とっさに彼女は自分が指揮をとる決心をし、こう叫びました。

「祖国のために!進め!」

その号令で全軍がドイツ軍の塹壕に飛び込みました。
マシンガンの掃射によって部隊はドイツ軍を掃討することに成功しましたが、
アーリャ自身は白兵戦の過程で地雷の爆発を受けそれが致命傷となって死亡しました。

時に19歳。

彼女がその生涯で狙撃した敵将兵は少なくとも91名になると言われています。



彼女の記念館の様子も見られます。

Имена - Алия Молдагулова (RU)

4分頃、女子狙撃隊の訓練や更新の様子が見られます。



イラストでご紹介できなかった女性狙撃手以外にも有名な何人かがいます。

タチアナ(ターニャ)・バラムツィナ

1919年生まれ。最終階級伍長。24歳でドイツ軍の拷問にかけられ死亡。
狙撃した敵兵は20名と言われています。
情報を聞き出すために両眼をくり抜かれ、対戦車銃で射殺されるという
無残な最後を遂げています。

ナタリア・コフショワ

1920年生まれ、1941年戦死。
すぐれた狙撃手で、ドイツ軍が侵攻してすぐモスクワでの戦いに参加し、
そこで300名以上の敵兵を狙撃したといわれています。

彼女の最後は、敵の塹壕に手榴弾のピンを抜いて飛び込み、
敵を殲滅するとともに自分も死ぬというものでした。

ジーバ・ガニエワ

1923年生まれ、アゼルバイジャン出身。

ウズベキスタン・フィルハーモニーに付設されたダンスコースで学んでいたとき
ドイツ軍の侵攻がありました。
通信業務とスパイ活動を行っていた彼女は活動中に戦闘に巻き込まれ負傷します。

狙撃兵の女友達がいたこともあって、彼女はそのあと狙撃手となり、
モスクワ攻防戦で21人のドイツ兵を射殺しました。

戦後彼女は学業に復帰し、1965年には文献学の分野で博士号を取っています。 



ローザ・シャニーナの日記には、彼女がほのかな想いを寄せていた
一人の男性のことが書かれていました。


「ミーシャ・パナリンがもう生きていないということを受け入れられない。

なんていい人だったんだろう!彼は殺されてしまった・・・。


彼はわたしを愛していた。わたしは知っている。そしてわたしも彼を・・。


心が重い。

わたしはまだ24歳。だけどもう男の友達は作らない」



心を寄せていた男性の死を嘆いていますが、自分がもしかしたら
恋愛どころか人生を若いうちに終了せねばならないかもしれない、
という危惧を感じている様子は不思議なことにあまり感じられません。


こうして何人かの有名な女性狙撃手が歴史に名前を残していますが、
赤軍は彼女らをを持ち上げて宣伝に使い国民の戦意高揚に利用したため、
実際の彼女らの記録はかなり水増しされていたという説もあります。

しかも生存者は生涯、人を殺したというトラウマに精神を苛まれることにもなりました。
 

彼女らのような若い女性が、対独戦においては2000人投入されましたが、
終戦時に生き残っていたのはそのうちわずか500名であったといわれます。

 


菅谷たたら山内と「靖国たたら」のこと〜島根県出雲

2016-05-02 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、我々は最後の予定地に向かいました。
「鉄の歴史村」が通称である、菅谷たたら山内(さんない)です。

朝早かったので、わたしはバスの移動の度に細切れの睡眠をとっていましたが、
同行者の皆さんは先ほどの物産展で買い込んだ地酒「玉鋼」を
コップでちびちびとやりながらもう宴会気分。
お酒の好きな人はこういう楽しみがあっていいなあと思います。
目的地に着く度にだんだん皆の顔が赤くなっていくのがシュールでしたが、(笑)
結局一升瓶が半分空いたそうです。




そして、最後の見学地、ここが凄かった。
国の重要有形民族文化財となっている「菅谷たたら山内(さんない)」。

ここはかつてたたら師たちの集落でした。
日本で唯一たたらの面影を偲ぶことができる場所です。
「山内」とは、製鉄施設と職能集団の移住空間の総称です。


この建物は「大銅場」。

鉄を溶かして最初に生まれる「(けら)」を割る作業が行われました。

建物の中には約200貫の大きな分銅が吊ってあり、これを落としてを粉砕したそうです。



その分銅を持ち上げるのは水車の回転する力を利用しました。
水車によって取り込まれた川からの水は、製鉄に使われたり、
溶けた鉄の塊を最初に投入するための人工池に注ぎ入れられたりしました。



どのように水を引き、どう分銅をひっぱったのかはわかりません。
水路は一部だけがこのように保存されています。



この辺一帯がたたら師たちの生活の場そのものでした。
しかし、今時このような風情が残された(再開発ではなく)集落が他にあるでしょうか。

岡本太郎氏が島根国体のモニュメントを依頼されて出雲来訪したのですが、

鉄の博物館などでは超不機嫌だったのが、この景色を見て上機嫌になったそうです。



解説をしてくださったのは、ここで生まれ育ち、
小さい頃はここを遊び場にしていた、という方でした。


後ろには「たたら侍」という映画のポスターがあります。

よくわかりませんが、EXILEの人たちの映画みたいです。
EXILEについてはわたしは曲以外のことはあまり知らないのですが、


伝説の地 奥出雲に 天下無双の鉄があるという

名刀を生み出す 唯一無二の鉄、玉鋼。

生まれたときから玉鋼を作ることを宿命づけられた男が、

侍に憧れて旅立った。

後に人はその若者を「たたら侍」と呼んだ。

というサイトからのあおりを見る限り、面白そうです。
EXILEの青柳翔、AKIRA、小林直巳、三人のポスターは
この菅谷高殿で撮られ、(映画もね)今島根県下で見ることができます。

『世界に誇る日本を最高のエンタテイメントに』をキャッチフレーズに、
2016年の冬以降(っていつのこと?)公開されるそうなので、
是非そのときは脚を運んでみたいと思います。



先ほど解説の人が立っていたのはこの内部。
なんと!築200年なんだそうですよー。
ガラスは所々歪んでおり、それが100年くらい前のもの。
もっと古いガラスには
気泡が入っているものがあるのだそうです。
出来た当初はガラスはなく、戸板だったのではないかということでした。



水車小屋の向こうに凛として枝を伸ばす大木は、たたら師たちの
「御神木」とされてきた
桂の木で、樹齢200年と言われています。

たたら師たちがここで操業を始めた頃に植えられたことになります。




木の幹にはお賽銭箱がくくりつけられ注連縄が貼られていました。
ちなみにこの横にあるカーブミラーですが、
曇ってしまって何も映っていません。
今は葉を落としていますが、秋の紅葉は見事だそうです。



左から築200年の住居であった三軒長屋、そして米倉。
今工事中なのは元小屋といい、事務所のような役割をしていた建物です。



そしてここが文化財の中心である菅谷高殿。
企業たたらとして固定した施設で製鉄を行った跡です。



宮崎駿氏もここにたたらの見学に訪れました。
ここは1751年にこの施設でたたら製鉄が始まり、
170年間の長きにわたって操業が続けられ、大正10年にその火が消えました。

手作りよりも機械化された産業製鉄の方が安価に大量の鉄が取れるからです。



しかし、純度の高い「和綱」でないと日本刀はできません。

皆さんは「靖国たたら」という言葉をご存知でしょうか。

たたら製鉄が大規模な近代製鉄にその主役を譲った後も、
陸海軍の将校が必要とする軍刀は相変わらず「たたら」で作られました。
終戦末期になって鉄が不足してきたとき、「一応鉄」というだけの刀が
出回ったそうですが、当初は特に士官の指揮刀、海軍士官の短剣は
ちゃんと「和鋼」から打ち出した刀だったのです。

昭和8年、軍刀の供給を目的とした「日本刀鍛錬会」が創立され、
「和鋼」を作るために、鳥上(斐伊川上流)に「靖国たたら」ができました。

そこで終戦までたたらが行われていましたが、昭和20年、敗戦とともに途絶えました。


ときは流れて昭和52年。
「靖国たたら」は「日刀保たたら」と名前を変え、

技術と伝統の保存を目的に昭和52年、復活されました。
先ほど博物館で見た巨大なたたら炉は、この日刀保たたらのものです。

日刀保たたらは毎年2月「たたら」操業を行います。

まず炭を作り、炉を作ることから操業が始まります。
炉の下から風を送りながら、木炭と砂鉄をかわるがわる入れていきます。
(このとき人力のふいごを使うのかどうかはわかりませんでした)

時間がたつとともに、砂鉄は還元され鉄になり、 さらに炭素を吸収して
ズク(銑鉄)が炉の下の穴から流れ出てきます。
そして最後に「(けら)」できるのです。

炉を燃やし続ける作業は70時間、計3回行われ、
約2トンの玉鋼が生み出されます。

この玉鋼は、約250人いる全国の刀匠に配られ、刀として命を吹き込まれます。




ここには村下の一番偉い人が座って作業を監視しながら指示を出していました。
ここでも作業は冬に行われたのか、一人用の火鉢跡があります。



天井が高くないと、熱を取り込むための酸素が不足します。
なにより、数千度の火が燃え盛るのですから、低いと火事になってしまいますね。



向こうに向かって坂になっています。
石炭を集積していた場所だと思います。



これが炉。
ここに投入された砂鉄は、木炭の燃焼によって還元、溶融され、
そののち鉄塊が生成されるのです。





炉にはふいごから空気を送り込むためのパイプ(竹ですが)が
このように均一に炉の底に連結しています。



そして、ここではこのようなふいごを踏んで風を送り込みました。
1時間踏み続け、「代り番子」で休みなく高温の火を保ちます。

たたらは砂鉄と木炭を交互に装入する3昼夜の操業の後、
できあがった鉄の塊である約2.5トンほどの「(けら)」を釜から出します。
この釜を壊す作業とそののちを引き出す作業を「(けら)出し」といいます。

一連のたたら操業のなかで、クライマックスともいえる場面です。



使用済みの炭を捨てるところだったと思います。



このように至る所に隙間ができているので、高殿の中は震え上がるくらい寒かったです。
外に出てホッとしたくらいでした。



高殿の道を挟んで向かいには、かつて人工池の跡がありました。
(けら)出しのとき真っ赤にに焼けたをここに落とし込むのです。
そのとき、鉄は凄まじい音を立て、瞬時に水が燃えます。



工事が完了したら改めてここを訪ね、今度はたたら関係者だけが住んでいた町が
今はどうなっているのか、集落を歩いてみたいと思いました。



飛行機の上から見た島根県は、山あいに小さな集落があるのに気がつきましたが、
それらはこのような昔ながらの集落がそのまま残り、現在も人が住んでいるらしい、
ということを今回聞きました。

かつてのたたらの民の子孫たちは今、どのようななりわいを持ち
どのような暮らしをしているのでしょうか。




この川も、かつて製鉄のために引き入れたものだとこのとき聞きました。



たたらの民に製鉄を教えたのは「金屋子」という神様であったと伝えられています。
菅谷高殿のすぐ裏には「金屋子化粧の池」があり女神の金屋子神は
この池を鏡にして化粧をされるとされていました。

製鉄に女性が携わることができない理由は、この女神が嫉妬するからです。
宮崎駿監督も「もののけ姫」を制作するにあたってまさにここにきたそうですが、
あえてこの部分を無視して「女性上位のたたら」を創作しました。
村のトップにエボシ御前という女性を据えた関係でしょうか。 

 
奥出雲の「たたらの里」を訪ねる旅。
EXILEの映画ではありませんが、それは日本の魂を再発見する旅になることでしょう。
皆様も如何でしょうか。


終わり。


 


たたらの里を訪ねて〜島根県出雲

2016-05-01 | お出かけ

さて、「たたらと刀剣館」の展示、続きです。
 



はめ込み式のテレビのようなガラスをのぞくと、ジオラマがあり、
最新式のバーチャル映像によってたたらを解説する仕組みでした。

ボタンを押して説明をスタートすると、音声とともにたたらに火がついたり、



人が現れたりして、たたら製鉄の実際を解説してくれます。
実際に見るともっとリアルです。




鍛治場を再現した精巧なジオラマもありました。



顔に前垂れのついた頭巾をかぶって鉄を持つ人、
そしてそれを数人の男たちが叩いて延べていきます。
ふいご番の前垂れは顔が焼けてしまうのを防ぐためです。



ここには再現された実物大の「たたら炉」の断面模型があります。
何層にもわたって積み重ねられた土やスミ、石には
長年の経験から得られた知恵が凝縮された全く無駄のない造りです。
すべて、保温・保湿のために工夫された複雑な構造です。



ここから「鞴(ふいご)」で風を送り込み、安定した火力を確保します。



ふと向こうを見たら息子が独自に「ふいご」を踏んでいました(笑)



この真ん中に立って片足ずつ踏みしめることで風が送られるのですが、
問題はそれをどれくらい続けなくてはいけないかです。
だいたいひとりが一時間、三日三晩交代でこの「番子」を踏みました。
これを交代しながら行うことが「かわりばんこ」の語源となっています。

一つ二つは赤児も踏むが 三つ四つは鬼も泣く」

はまさにこの労働の厳しさを歌ったものだったのです。



こちら「踏み鞴(ふいご)」。
写真のように二人が両端を踏んでシーソーのようにし、風を作ります。
これを踏む人を「地団駄」といい、これが「地団駄を踏む」の語源ですが、
地団駄は「踏む人」であり踏むものは「踏みふいご」なのに、なんか変ですね? 



これは天秤ふいご。
レバーを引っ張ると、右下から空気が出ます。
不思議なのですが、押しても引いても同じところから空気が出ます。



さて、隣の鉄打ち場では実演が始まりました。
刀鍛冶が玉鋼に火を入れ、刀にしていく過程を見せてくれます。
火に入れる前に玉鋼を藁と布で包み、泥をまぶしていました。

これは酸化を防ぐためなのだそうです。
この火床を「ほど」と読みます。



火から出した鉄には藁を混ぜます。
これも酸化を防ぐための工夫でしょう。



そしてあとは「鉄は熱いうちに打て」そのままです。
これを鍛錬といいますが、叩くことで不純物や空気が飛び、
硬度の高い鋼を伸ばし練り上げることができるのです。



ここでは観光客に説明するためにやっているので、
本来何日もかけてする作業はすぐに終了して、

「そうやってできたのがこの刀です」

まるで3分間クッキングのようです。
もちろんこのあと刃を研いでいく重要な過程があるわけですが。

鍛治師にも「国家資格」があって、文化庁の試験を受けるのだそうですが、
毎年12人くらい受けてそのうち合格は一人だそうです。



1年前のお正月、備前の刀打ち始めをし、ここでお話ししましたが、
ここでも見学者に鉄を打たせてくれるということで何人かが挑戦しました。

「スーツとかネクタイとか、火花が飛んだら穴が空くかもしれませんがいいですか」

散々脅かされてから打つのはのは我々の同行者。



もう一人、ということでこの女性も我々一行の一員。
わたしたちはやったことがあるので遠慮しましたが、二人とも
あまりに重いので驚いていました。

この刀鍛冶さんはとても面白い方で、

「夏場来て頂いたら、暑さでやせ細ったわたしを見ていただけます」

と言って場を笑わせていました。



次の異動までの間にお土産店に連れて行かれました。
主催者の気配りが身にしみます。

いきなりシュールな絵柄になっている「どじょうすくいまんじゅう」の
広告にウケましたが、これは買ってません。

そういえばここは「安来節」のふるさとなんですね。

 

山陰銘菓 - どじょう掬いまんじゅう - CM



次に連れて行かれたのは「鉄の歴史博物館」。
昔からおそらく変わっていない街並みにわたし歓喜。



博物館、といいながら、ここは地元のお医者さんの家だったそうです。
中は一切写真禁止でしたが、たたらの道具や過去帳、帳簿などがありました。

ここで昭和47年に再現された「たたら製鉄」のNHK製作ドキュメンタリーを
鑑賞したのですが、音楽が、もしかしたら武満徹?という感じのおどろおどろしさで、
(ひゅ〜♪ カーン♪ ど〜〜〜ん、って感じ)見ていた一人が

「いまから殺人事件でも起こるんですかね」

と呟いておられました。
この時に出演して実際にたたら製鉄を再現した「最後の村下(むらげ)」たちは
現在全員この世にはいません。

このビデオで知ったのですが、たたら師たちは、製鉄が始まったら4日3晩、

仮眠だけで作業を続けなくてはなりません。

さらには火を両眼で見ると目をやられるので、まず片目で作業し、
その片目が疲れると目を交代して行うのですが、それも限度があり、
引退の頃には視力がほとんど失われる宿命を免れることはできなかったということです。

そしてこれらの作業は女性を一切排して行われました。
女性は神事にもつながる作業に「穢れ」を持ち込む、という意味もありますが、

女性の神様がやきもちを焼くからという説もあります。
「もののけ姫」で女たちがたたらを踏んでいましたが、現実にはありえないことだそうです。



この博物館になった家の母屋は藁葺きでした。
鳥が屋根の隙間から入っていくのを見ましたが、いい巣になっているようです。
なんといっても藁は取り放題ですしね。




博物館前の街並み。いい感じです。
自民のポスターがありますが、このあたりはかつて竹下登の選挙区だったみたいですね。

今念のために家系図を見たら、縁戚に米内光政の娘、そして三島由紀夫がいます。
ミュージシャンのDAIGO、漫画家の影木栄喜は孫、口癖は出雲弁の「だわな」。

自身が東大出で留学経験もある宮澤喜一
「あなたの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」
と言い放った時、「あれは許せないよ」と怒っていたそうですが、
その話を聞いた佐々淳行が、

「でも早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」

と尋ねたところ、竹下は

「それがね、無試験だったんだよ」

と答えたという話があります。
ボケてどうする(笑)





ひっそりと営業していた和菓子屋さんが気になって入ってみました。
招き猫に福助、不二家のペコちゃんはアンティークで高値がつきそう。



鑪カステラというのを購入してみました。
季節がら、桜の味を販売していました。



そして店の片隅にはそのとき咲き初めた桜の枝が一抱え、
無造作な様子で手桶に活けてありました。


わたしたちはこのあと、実際にかつての姿のまま保存されている
「たたらの里」のかつてのたたら炉を見ることになりました。

続く。