ドーリットル隊とその空襲についての資料が展示されていた近くに、
特攻隊の資料がありました。
それが先日”「タイコンデロガ」に突入した二機の零戦」”でご紹介した
零戦の破片であり、「ランドルフ」に突入した搭乗員の遺した
酸素マスク(黒髪坊主頭のマネキンをわざわざ用意して展示していた)です。
柱の向こうにそのマネキンの後頭部が見えているわけですが、
ここに貼られているパネル、「Kamikazes!」と赤い字で書かれた
その内容は、アメリカ海軍の「空母」が受けた「カミカゼ」による主な被害一覧。
ちょっと大変でしたが、こういう一覧表もあまり見ることがないので、
全部翻訳してみます。
45年2月21日
ビスマルク・シー CVE-95
硫黄島を飛び立ったカミカゼに特攻を受けて沈没
戦死者318名
唯一特攻によって空母が沈んだ例
ルンガ・ポイント CVE-94
硫黄島からの特攻、被害軽微
サラトガ CV-3
戦死123名 負傷者192名
修理のため帰国
3月11日
ランドルフ CV-15
ウルシー湾にて夜襲を受ける
戦死26名 負傷者105名
現地で18日で修理を完了
3月18日
エンタープライズ CV-6
九州方面からの特攻を受ける
破損 ウルシーで修復
イントレピッド CV-11
砲座にヒット
戦死3名 負傷30名
ヨークタウン C-10
被害軽微 ウルシーにて修復
3月19日
フランクリン CV-13
四国からの特攻機が突入 爆撃も受ける
戦死者800名 負傷者300名以上
修復不可能で戦線離脱
ワスプ CV-18
四国からの特攻機によって3番エレベーター損壊
4月1日には沖縄からの特攻によって
102名戦死、20名負傷
修理のためアメリカに帰国
4月3日
ウェークアイランド CVE-65
沖縄からの特攻機によって重篤な損壊
グアムで修理
4月7日
ハンコック CV-19
沖縄からの特攻によって
110名戦死、90名負傷または行方不明
4月11日
エンタープライズ CV-6
沖縄からの特攻 損壊軽微
4月16日
イントレピッド CVー11
第3エレベーターの損壊を修復するために帰国し、
戻ってきたところで沖縄からの特攻により大破
戦死者74名 負傷者82名
5月4日
サンガモン CVE-26
沖縄からの特攻によりフライト&ハンガーデッキ大破
11名戦死 21名行方不明(つまり戦死)
修理中に終戦になったので修理中止
バンカーヒル CVE-17
沖縄より飛び立った二機の零戦が1分違いでどちらも突入
戦死者350名 負傷・行方不明者300名
ミッチェル提督とスタッフはこのためエンタープライズに移乗
エンタープライズCV-6
九州からの特攻を受け14名戦死、34名負傷
ミッチェルはこのためランドルフに移乗
4日の間に旗艦を3隻変えた
あくまでも空母ですので、これ以外に特攻隊の被害を受けた艦船は
たくさんあることをお忘れなく。
ただ、特攻隊の隊員としても空母に体当たりするのが至上命令であり、
本懐と考えていたので、艦隊の中から他には目もくれず
空母を目指したパイロットが多かったのだろうと推測されます。
サンタクルーズの戦い、ということは日本側で言うところの
「南太平洋沖海戦」のことなのですが、そこで攻撃を受ける「ホーネット」。
「ホーネット」には99艦爆の攻撃が雨あられと襲いかかりました。
このあと「ホーネット」はもえさかり、どちらからも回収不可能になって
結局日本側の航空隊の攻撃によって沈没しています。
ミッドウェー海戦での「ホーネット」。
全体的には例の「七面鳥撃ち」でアメリカの圧勝でしたが、
この時に「ホーネット」から飛び立ったデバステーター爆撃機は
スコードロン全体で生還してきたのは1機であったと書かれています。
日本の側からではなく、アメリカ目線で見た「特攻の道」。
ALLEYというのは「レーン」というふうな意味で使われています。
58機動部隊の位置は右下の丸、
彼らは沖縄に地上戦のための支援を行いつつ、
カミカゼを迎え撃ち、喜界島への攻撃も行いました。
この「カミカゼの道」の鹿児島から、というのは
知覧、鹿屋、万世、出水の各基地を指しています。
その「喜界島」を
「サクッと訳すとオポチュニティの島」
としつつ(そうなん?)、ランドルフ甲板上で喜界島を攻撃するための
ヘルキャット、”サンダーバード”が待機している様子を紹介している写真。
前にも一度写真に撮りましたが、ランドルフ艦載のヘルキャット
(のハセガワの模型のパッケージ)。
2年経っていますが、「HASAGAWA」という間違いは直していません。
まあ当たり前か。
日本機を3機撃墜したというマークをつけた機の射手。
「ぼくはアメリカかいぐんのこうくうたい、コンバットチームのメンバーだよ。
パイロットとクルーはぼくのうでにしんらいをよせているんだ。
ぼくはまるでじぶんの体のようにひこうきとガンをだいじにしているんだ。
なぜってこれにぼくたちのいのちが、それだけじゃない、
くにの人たちのいのちと、わるいやつの死がかかっているんだからね!
ぼくはできるかぎりの力でぼくのクルーとひこうきをまもるよ。
かみさま、どうかごかごを!」
と訳したくなる平易な文章だったのですが、なんとこれ1995年に
メンバーが同窓会で集まったときの記念ポスターだそうです。
ところで、日本側の現在に残る記述では特攻の効果を過小に評価し、
無駄死にを印象付ける文書が多いのは前にも言及した通りですが、
上に挙げた空母の被害だけを見ても、莫大なものであったことがわかりますし、
何よりも心理的に彼らに与えたダメージは大変なものでした。
上に挙げた空母のうちの一つ「サンガモン」は、10月25日に
フィリピン方面で特攻隊との死闘を繰り広げ、突入こそ許さなかったものの
(同行の「サンティ」そして「スワニー」に激突)死者、負傷者を出しています。
5月4日の特攻攻撃では「サンガモン」は操舵室、格納庫に莫大な被害を受けました。
この時の生存者の一人が、生き残ったことを喜び合って
みんなでアイスクリームを食べていた時に
みんなでアイスクリームを食べていた時に
みんなでアイスクリームを食べていた時に
「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。
私には、あんなことはやれなかっただろう」
と、サンガモンに命中した神風のパイロットを称えたということです。
三回同じことを繰り返したのは、これがアメリカ人にとって
きっととても大事なことだったに違いないと思われたからです。
続く。