戦争末期、海軍の根拠地である横須賀の料亭は
「それどころではない」ということで閑古鳥が鳴いていたでしょうか。
それが意外なことにそうではなかったのです。
昭和18年にはガダルカナルで力尽き、日本軍はもう戦う余力もなく
南方では撤退に次ぐ撤退を余儀なくされて敗戦一方となっていました。
連合艦隊も残り少ない艦艇を南方に送ってしまっており、
横須賀軍港そのものは閑散としていたのですが、料亭小松だけは
慌ただしく人が出入りしていました。
横須賀は軍事行動の際ここを経由することが多く、さらには
特務士官、予備士官など海軍士官の数そのものが増えていたため、
従来の鎮守府の面々に加え艦艇の修理で帰港したとか、転勤できたとか、
あるいはここから出航していくという軍人が一度は足を向けたのでしょう。
「でも皆さんあまり元気がなかったですね。
開戦初頭の頃は『これからどこそこへ行く』と威勢が良く、
活気にあふれていましたけど、日が経つにつれてその元気が見られず、
憔悴が目立つようになりました」
と小松の女将は当時をこう語っています。
「もう今度行ったら生きて還れない」
「もう破れかぶれだ」
そんな弱音を漏らす士官もいました。
決して表向きには表せないこんな本音も、小松であるからこそ
心置きなく口にすることができたのでしょう。
そして、一度出撃していった彼らのほとんどが、その言葉通り
二度と横須賀の土を踏むことはなかったのです。
前回、トラック・パインを出店したとき、小松従業員のために
防空壕などが全く用意されていなかったことに女将が激怒し、
「横須賀では豊田さんが先頭に立ってそれをやっているのに」
と食ってかかった話をしましたが、昭和19年になると、横須賀市は
「一般疎開促進」という条例を出して空襲への備えを行っています。
横須賀鎮守府長官だった豊田副武がその陣頭指揮を取ったというのが
女将の言う「先に立って」という意味で、日本政府が閣議において
「 学童疎開ノ促進ニ関スル件ヲ定ム」
とする疎開促進条例を制定したのは19年の6月30日のことでしたから、
軍港の町である横須賀はそれに3ヶ月も先駆けていたことになります。
閣議で決定された疎開の条項第二項には
「疎開先 疎開先ハ差当り関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス」
とあり、神奈川県つまり横須賀が空襲を受ける最前線とされていました。
豊田長官は待避壕の設営、疎開地域の整備現場にも自ら足を運んだと言います。
昭和20年に入ると敵機襲来はさらに頻繁になり、空襲警報がでると
小松でも戸は全部閉め、電気は全部消すということになり、
飲んでいた海軍士官たちもさっと引き上げて部署に戻っていく、
というような毎日が繰り返されるようになります。
そして3月10日、東京大空襲がありました。
現在でも民間人の大殺戮としてドレスデン空襲と並んで挙げられる空襲で、
過去行われた空襲としてはその犠牲者の多さから(推定10万人)
史上最大規模の大量虐殺とする学者もいます。
アメリカは日本の戦意を失わせるために東京を執拗に攻撃し、
昭和19年11月から終戦までに行われた空襲の回数は数え切れないほどですが、
この時の大空襲で東京は一面の焼け野原になりました。
そして5月29日には横浜大空襲があります。
ちなみに、東京だけで4月には12回、5月には10回の空襲がありました。
横浜の空襲では攻撃地点がはっきりと決まっていました。
「東神奈川駅」「平沼橋」「横浜市役所」「日枝神社」「大鳥国民学校」
の5ヶ所です。
この空襲が白昼に行われたことから、小学校が攻撃目標だったというのは
無差別攻撃どころか、意図的に非戦闘員を殺戮したということになります。
横須賀はドーリットル空襲以降東京のように頻繁な攻撃にさらされることもなく、
20年2月に行われた大規模な空襲では軍設備が狙われただけでいた。
現在でも戦前の建物が案外そこここに残されているのを、
横須賀に訪れるたびに知って意外な気がしていたのですが、実際にも
終戦後に周辺施設を視察したアメリカ海軍のニミッツ元帥やハルゼー大将は、
横須賀の被害が予想より軽微であったことに驚いたとされます。
しかし、じっさいには戦時中には警戒警報や空襲警報の発令が頻発し、
小松の女将の証言にもあるように一般市民は精神的消耗を強いられていました。
しかし、2000年代頃まで風説としてあった「横須賀には空襲はなかった」
というのは間違いです。
横須賀への空襲は東京の絨毯爆撃のようなものではありませんでしたが、
それなりに何度か行われており、とくに7月に入ってからの2回は
被害規模は甚大でした。
このときも攻撃されたのは軍事施設で、料亭小松では屋根に落ちた破片が
天井を突き抜けて広間の畳に穴を開けるという被害に遭いました。
幸いにしてけが人もなく大した被害には至っていません。
わたしが横須賀を歩いて感じただけでなく、戦後に軍港および周辺施設が
アメリカ軍に接収され横須賀海軍施設として使用されることになったため、
「横須賀の旧海軍施設は戦後の基地利用の目的のため温存された」
とする見方があるそうです。
わたしも何を隠そうそのように感じた一人ですが、横須賀市市史編纂室の
歴史学者による
「米軍基地化のための温存との見解が、
さしたる根拠のないまま一人歩きしてしまっている」
という指摘もあるそうです。
また、戦時中に
「米軍による占領後、軍港として利用する目的があるため横須賀への爆撃はない。
安心するように」
と書かれたビラが撒布されたとの証言も風説の類だとされます。
この学者によると、呉に比べて横須賀の被害が軽微に終わったのは、
呉は横須賀に比べ在港艦艇が多く、兵器の生産基盤となる砲煩部、
製鋼部が置かれていたこと
が、市街地への被害がなかった理由ではないかということです。
軍港ゆえ集中的に鐵工所を叩き、その結果市民には被害があまりなかった
ということからこのような風説も出てきたのに違いありません。
さて、そんなこんなで昭和20年8月15日がやってきました。
最初に日本に”勝者”として上陸したのはアメリカ海軍の艦船
「サンディエゴ号」で、場所は他でもない横須賀港でした。
この日、横須賀市内は全域で市民の外出が禁じられ、厳戒態勢が取られました。
鎮守府は接収され、残務整理は今の第二術科学校に移って行われましたが、
そのうち進駐軍に場所を明け渡さなければならなくなりました。
料亭小松はせめてもの助けになればと、例の大広間を提供することにし、
行き場所に困っていた鎮守府は書類とともに机や蚊帳、布団を運び込んで
そこで寝泊りしながら作業を続けることになったと言います。
当初は彼らを缶詰でもてなしつつも負けたとはこういうことかと
悲哀を感じていた女将(山本直枝さん)ですが、そのうちそんな関係で
小松に出入りしていた人々から戦後の商売の糸口がもたされたのです。
日本に不慣れな将兵たちが安心して遊べるところを探していた米軍が
まず許可を出して「公認料亭」としてくれたので、女将は
芸者衆に声をかけて戻ってきてもらいました。
昨日まで海軍芸者といわれていた人たちが昨日の敵に酌をし
踊りを見せるのですから、最初は怖いと思い抵抗もあったでしょうが、
時折暴行事件や誘拐騒ぎなどがあったとはいえ、進駐軍は聞いていたほど酷くなく、
むしろ彼らを相手に商売するのはこの時代最も「時流に乗って」いるともいえ、
小松もまた戦後を無我夢中でこのように凌いだのでした。
アメリカ軍人を相手にするので、井上成美大将に接客英語を
レクチャーしてもらったというのもこのときのことです。
アメリカ軍を呼ぶに当たって、小松の女将は有り金をはたいて
家を改装し、手入れをし綺麗にして店を開けました。
グリル、ソーシャルサロンを整備し、バンドを入れて連合軍兵士らに対応できる設備を整えたのです。
「外も内も結構荒れていまして、これではアメリカが来て
日本のオフィサーはこういうところで暴れて出て行ったから負けたのだ、
などと言われるとシャクだと思って」
のことでした。
行きていくためにはかつての敵も迎え入れる覚悟であったとはいえ、
かつての海軍料亭の女将の矜持がうかがえます。
この頃になると、米軍軍人だけではなく旧海軍の軍人もやってきました。
増築されたグリルバーでは、日米の海軍軍人が同じフロアーで
酒やダンスを楽しむという光景すら見られるようになりました。
海軍軍人同士の仲間意識というものは特別で、どの国の軍人とも
「ネイビー」という一点で他の職種にはありえないほどの連帯と
親近感を持つという現象がありますが、戦争が終わったばかりで
昨日の敵同士であった日米海軍軍人もその例外ではなかったのです。
いや、お互いに真剣にやりあったからこそ到達しうる共感が
今日にもつながる両軍の友情を取り持ったのかもしれません。
小松がかつて海軍のための料亭であったことが米海軍軍人の歓心を誘い、
アメリカの新聞で紹介されるまでになりました。
そして、海上自衛隊が生まれ、第7艦隊との間に相互訓練や
交流が持たれるようになっていからも、小松は両者にとって
特別の場所であり続けました。
懇親会や米軍の離着任時の歓送迎会などのレセプションは
おそらく今でも旗艦艦上や田戸台の庁舎で行うのだと思いますが、
当時はその後にディナーをする場合、必ず小松が会場になりました。
ですから、米海軍の将士たちは、小松が海上自衛隊の施設なのだと
勘違いするようなことがあったのだそうです。
本稿に登場する二代目女将の山本直枝さんは2006年、95歳で亡くなりました。
彼女は初代女将のコマツ刀自の遺志を継いで、戦後の海上自衛隊に対しても
小松で会合を開くときには採算を無視して計らい、各種公式行事に祝い、
練習艦隊への餞別を届けるなど気を遣い、さらには殉職隊員の遺族にの面倒を
密かに見る、また「小松基金」を設立して志ある若い士官を支援するなど、
本当の意味で海上自衛隊を支援していたと云います。
しかしわたしが「小松」を外観だけ眺めるに、そこは確かに歴史的価値はあれど、
その歴史の遺産だけを細々と「切り売り」している感が否定できなかったのも事実です。
かつてのように若い海軍士官が毎日のように予約なしでふらりと訪れ、
お金がなければあるとき払いで飲んで帰るような個人的な信頼関係もなく、
またその頃のように「そこしか安心して安く遊べるところがなかった」
というわけではさらにないのですから、それも時代の流れで致し方なかったのでしょう。
「パートさん募集」の張り紙の画鋲が錆びており、恒常的に
人を集めないといけないのかとなにか不安な気持ちになったものです。
聞けば、昔ほどではないにせよ、海上自衛隊と小松の縁は切れておらず、
海軍料亭の息をつなぐという意思で海自は小松を細々とではありますが
使い続けていたというところに今回の火事が起こったもののようです。
今の海自将士にとって、小松は、昔の海軍軍人たちが
「おかみさん達者かね」「また来たよ」
といいながら通った「横須賀のふるさと」ではなくなっていたのは確かで、
そんな折の消失は一つの時代が終わったという意味だったのかと感じ入った次第です。
後日お話しするつもりですが、横須賀にバスで行った時に帰りの車窓から見えた小松の焼け跡。
上の写真の直後とは思えないほど跡形もなく建物は倒壊したようです。
もう重機がはいっているようでしたから、おそらくすぐにここは更地になるでしょう。
たまたまですが、取り壊し寸前の姿もこの目に収めました。
かつて室内だった部分が焼け落ちたため、窓から向こうの建物が見えています。
この写真を見て、あらためて胸に大きな穴が空いたような悲しみを覚えたわたしです。
さようなら、海軍料亭「小松」。
シリーズ終わり