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軍艦「初瀬」機関長殴打事件〜料亭小松の物語

2016-05-19 | 海軍

平成28年5月16日、焼失した歴史的な海軍料亭「小松」について
お話ししています。



料亭「小松」の女将である山本コマツは、時分の経営する「小松」で

起こったことや女将として知り得た海軍軍人たちの素顔について

「山本小松刀自伝」

という本で様々なことを語っています。
その名前だけで海軍の歴史が語れてしまうような錚々たるメンバーは、
東郷平八郎、山本権兵衛、広瀬武夫、加藤寛治・・。

当たり前のようにそんな人々が通った「小松」という料亭は、

海軍士官にとって港に帰った船が錨を下ろす母港のようなものであり、
ここに出入りできることを誇りにすらしていたといいます。

「小松」が火事で焼けるまで営業を細々と続けていることを知ったのは
靖国神社の会報や、横須賀市の事業で三笠公園に「軍艦の碑」を建てた時の
記念冊子に広告を載せていたからでした。


旧海軍軍人たちが戦後も集まりににここを使ったのはもちろんですが、
終戦時にまだ兵学校、機関学校などの生徒だった人たちが健在だった頃、 
クラス会や
分隊の会の際にはこの「小松」に集ったものだそうです。

学生のまま終戦を迎え、士官となっていつかここにくることを夢見ながら
果たせなかった思いを、彼らは戦後そんな形で叶えてきました。

「少尉になったらあそこで飲める」

と彼らが憧れた小松での「遊び」はどのようなものだったのでしょうか。



たとえば艦隊勤務の甲板士官などだと、楽しみは料理屋で飲むくらい。

夜、火灯し頃になると陸(おか)が恋しくなるので、晩御飯を済ますと
「ト」(当直将校)でなければ

「運動一旒、我が航跡に続け」

で数人から多いときには10人くらいが連れ立って上陸します。
「運動一旒」が旗艦のマストに上がると、二番艦以下、先頭艦の航跡を
ついていくことから、海軍軍人は仲間を飲みに誘う時にはこう言いました。

直行することもあれば、水交社で一杯ひっかけてくることもあるのですが、
予約などせず、いきなり行くので満員になっていることがあります。
そんなときには女中部屋やおばあちゃん(女将?)の部屋に入れてもらって
そこで部屋の空くのを飲みながら待つというのが通例であり、
むしろそんな扱いを受けることを彼らは”誇りに思って”いたと云います。

だいたい7時から飲み始めて、10時半に逸見の波止場から最終の
定期便に乗るのが自制心のある飲み方というものなのですが、
そこはそれ、現代で言うところの「最終便逃した」という時間まで
飲み過ぎてしまうことも多々あるわけです。

現代ならタクシーで帰ったりカプセルホテルにとまったりするわけですが、
当時の横須賀にはそんな飲兵衛の士官さんを艦まで送り届けるのが
専門の「通船」という仕事がありました。

なんのことはない一人で漕ぐ小舟なのですが、横須賀港内だけで
10隻ほどが仕事をしていたといいますから、定期便に乗り損ねる
士官さんはけっこう多かったものと思われます。


これも海軍隠語で「ロディコン」(語源不明)といったそうですが、
定期船の波止場に立って

「おーい、つうせーん」

と叫ぶと、爺さんが「へー」と答えてぎっこらぎっこら漕いできます。
それに乗って「磐手」とか「涼風」「伊勢」とかいうと、爺さんは間違えずに
艦まで漕いでいってくれますから、船の上で寝ていればいいのです。
本当に今のタクシーそのものですね。


規則上では少尉になれば陸上の泊まり(ストップ)は許されていたのですが、
若い者に外泊を許すとろくなことにならん、朝の甲板掃除の時に
赤い目をしていたり酒の匂いをプンプンさせるなどもってのほか、
ということでそれを禁止する上官
(たいていはケプガンことキャプテン・オブ・ザ・ガンルーム)
もいたようです。

ケプガンや艦長が緩いと、甲板掃除の30分前に艦に帰り、
靴を脱いで裸足になって裾を捲り上げて総員起こし5分前には
甲板に立って早起きしたような振りをする豪傑甲板士官もいました。

ケプガンというのはだいたい中尉になって三年目くらいに
割り当てられるのですが、このころは遊びも落ち着いて、むしろ
新少尉たちに「遊び方指導」を行ったりします。

海軍はこの辺りの境目がはっきりしていて、少尉候補生までは
ストップどころかレス(料亭)にくるのも許されていないのですが、
少尉さんになった途端全てが許されるので、新少尉たちは開放感と好奇心から
ついつい変な料理屋でボラれたり、良からぬ病気
(Rとかプラム、サードシックと称した)をもらったりという失敗をしがちなので、

「上陸してレスに行く時にはケプガン先頭」

「楽しむ時には皆一緒に、一人でコソコソ行くな」

「”パイン”のような一流の料亭で一流の芸者を呼んで公然と遊べ」

などといったルールを作って自粛を促すケプガンもいました。



さて、「小松」女将の山本コマツの回想には、きっと当時は「守秘義務」により
決して外にでなかったであろう
酒の上の話がいくつか含まれています。

軍艦「初瀬」の沈没に関わる話もその一つでしょう。

第二術科学校の海軍資料室で、かつて横須賀の機関学校で嫌々ながら(笑)
教鞭をとっていた芥川龍之介の話をしたことがありますが、そのとき、
軍嫌いだった芥川が海軍に対してはそうでもなかった理由として、
彼の妻の父親、つまり義父が海軍軍人であったから?と書きました。

この父親というのは第一艦隊第一戦隊先任参謀であった塚本善五郎で、
第二次旅順港閉塞作戦において旅順港で触雷し沈没した
軍艦「初瀬」に乗り組んでいて戦死しています。


初瀬(wiki)

この時の経緯は以下の通りです。

1904年(明治37年)2月9日からの旅順口攻撃に参加し、5月15日
旅順港閉塞作戦で旅順港外、老鉄山沖を航行中に左舷艦底に触雷し航行不能となる。
「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分に2回目の触雷をし
後部火薬庫が誘爆、大爆発を起こして約2分で沈没した。(wiki)


この一連の攻撃で喪失したのは「初瀬」だけではなく、やはり触雷で
「八島」が同じ日に沈没し、水雷艇48号が掃海中に触雷。
そして特務艦(砲艦)「大島」が濃霧の中同じ砲艦の「赤城」と衝突して
旅順港の海底に消えていきました。

この1週間以内に主力艦を8隻失うことになったわけで、
当時海軍は上から下まで色を失ったと言われています。

その周章狼狽ぶりを、小松の女将はたまたま海軍大臣であった
山本権兵衛に会うため海軍省にいたので、目撃することになりました。
応接室に通されたものの、山本大臣も一瞬顔を出しただけであとは誰も出てこず、
ただ廊下を人が慌ただしく行ったり来たりして騒然とした様子だったそうです。


ところで触雷した「初瀬」は、爆発後わずか2分で沈没しました。
機関科の乗員などひとたまりもなかったわけですが、機関長であった
佐藤某という大佐だけは、触雷当時機関室にいながら救助されました。
異変を感じてすぐさま甲板に駆け上がったので沈没を免れたのです。

機関長が爆破音を聞いて甲板に上がったとき、艦はすでに沈没しかけていました。
そのときに彼は機雷に触れたのだと初めて気がついたそうですが、
同時に胸まで海水が押し寄せてきました。
無我夢中で手に触れた板にしがみ付いていたところ、救助されたというのです。

佐藤大佐にすれば偶然による僥倖というしかなかったのですが、

問題は、機関室の乗員は全員機関長を除いて戦死したことです。

戦後、佐藤大佐は機関少将に進級しました。
しかし、部下全員を殺しながら自分一人生き残っただけでなく、
昇進したというので、まわりの目は冷たいものであったといいます。

そんなある日、佐藤少将の昇任祝いが小松で行われました。

海軍の昇任というのは、同じ時期に該当者が同時に辞令を受けるので、
このときの祝賀会というのも同時に昇進した8人の宴会でした。

ところがこの日、同じ小松で行われていた第三艦隊の士官の宴会に、

酒豪で手も足も早い大尉がいて、この大尉が4階級も上の少将に向かって
喧嘩をふっかけ・・というか一方的に小突きまわすという暴挙に出ました。

どうもこの大尉は、「初瀬」の沈没の件を聞いて、佐藤少将の行いを
腹に据えかねていたところにもって、酒席でその名を聞きおよび、

酔いの勢いでこの挙に及んだものとみられています。

伝わるところによると、大尉は宴席真っ最中の部屋に踏み入るや、
佐藤少将の前に仁王立ちとなり、

佐藤!(呼び捨て)
貴公は部下が皆戦死しているのに自分だけ助かって良いと思うか。
恥を知らんにもほどがある!
この木村が死んだ人たちに代わり制裁を加える!」
 
と怒鳴るが早いか手や足を出したということです。
因みに木村大尉は翌朝、ほとんどそれを覚えていませんでした。
が、それでもやはり彼は

「僕が佐藤少将であったならば部下が助かった助からんにかかわらず、
機関長としての責任上、艦と運命を共にする。
まして部下が皆死んでしまったと聞けば、なおさら自殺して部下の後を追う。
それなのに佐藤少将は責任も取らず、自殺もせず、出世をしたとて
昇進祝いとは何事だ。それで日本の武士道がたつと思うか」

という意見を決して変えることはなかったそうです。
女将は理由はどうあれ下級の者が上官を殴ったことを看過できず、 
「それでは道が立たない」と大尉を説得して謝罪をさせたのだそうですが、
佐藤少将はよっぽどこれに傷ついたのか、木村大尉の謝罪を受け入れず、
事情を海軍省に言いつけたため、海軍省の取り調べが行われることになりました。

ただ、海軍省的には木村大尉の理屈にも分があるとしたのか、処分は

大変軽いものであったそうで、佐藤少将には不満の残る結果となりました。




艦と運命を共にした艦長というと、山口多門司令と二人「飛龍」とともに

沈んだ加来止男艦長、燃え盛る「蒼龍」の艦橋で仁王立ちになって
壮絶な最期を遂げた柳本柳作艦長などがいます。

1942年には、機雷に触雷した民間船「長崎丸」の船長、菅源三郎
最後まで船橋にあって指揮を取ったのち救出され、
軍側の伝達不足が原因だったため長崎丸側の責任は無しとされたにもかかわらず、
菅船長は死者13名と行方不明26名という惨事の責任をとって、3日後に
東亜海運長崎支店ビルの屋上で割腹自決を遂げたという事件もありました。


海軍の歴史には艦と共に死ななかったからということで、同調圧力?というのか、
上層部から暗に卑怯者呼ばわりされて左遷された不遇な艦長もいましたが、
沈む艦に殉じるというのは精神論というか美学的な観点からは賞賛されても
戦争を遂行していく戦略的な意味では決して利益とはなりません。

しかし明治時代の海軍においてはまだまだ「武士道」が重んじられ、

「義」を体現する行為が賞賛される一方、佐藤少将のようなケースは
「命を惜しんだ」「恥知らず」「武士の名折れ」という言葉で非難されがちでした。

道義的にももちろん実際にも殉職の義務は全くないにもかかわらず、
この若い士官だけでなく、皆が佐藤少将を内心どう思っていたかが窺い知れます。


この場合、佐藤機関長の部下が全員戦死したことと、
あまりにもその助かり方が奇跡的だったのと、早々に昇進したこと、
(これはさっきも言うように機械的なものである側面もあるのですが)
佐藤少将にとって幸運が重なったことが、逆に海軍内の反発を呼んだと思われます。

ただ、こういう僥倖を喜ばれず反発されるというのは、大変言いにくいことですが、
本人に日頃からあまり人望がなかった可能性もなきにしもあらずです。


「初瀬」の沈没時の乗員数は834名、そのうち半数以上の492名が戦死しました。




続く。