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ジョニーが凱旋するとき〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

2021-06-28 | 歴史

いきなりですが、皆様は

■「ジョニーが凱旋するとき」(When Johnny Comes Marching Home)

という歌を聴いたことがあるでしょうか。

Mitch Miller - When Johnny Comes Marching Home (HD)

うちには父の趣味でこの曲を含む「戦争映画のマーチ」というアルバムがあって、
この曲がかかると父が必ず”When Johnny Comes Marching Home”の部分を

「誰がばっちい子〜」

と『空耳アワー』して娘をからかったのですが、総じて小さい子供というのは
親のそういうからかいを嫌うもので、わたしもこの曲が鳴ると
必ずはじまる「それ」が嫌で仕方がなかった記憶があります。

それはともかく、その時父が所有していたアルバムに、この曲が
どの映画のテーマとして入っていたのかはわからないままです。

 

「ジョニーが凱旋するとき」は南北戦争が行われていた1863年、
北軍のバンド指揮者であったパトリック・ギルモアが、北軍で歌われていた酒宴の歌
(Johnny Fill Up the Bowl)のメロディに歌詞をつけてバンド用に編曲したものです。

この歌で歌われている「ジョニー」は正確には
「ジョニー・レブ(Johnny Reb)といい、
南軍の一般兵士を擬人化し象徴的にした名前です。

「ジョニー・レブ」とその相棒「ビリー・ヤンク」(Billy Yank)
の二人の名前は南北戦争以降、一般兵士を意味する言葉として盛んに媒体に登場しました。

南北戦争というのも不思議な?戦争で、同じアメリカ人同士の戦いであるゆえに、
たとえばピケットラインの反対側同士、互いに挨拶する習慣などもあったらしいのですが、
北軍の兵士はその際、南軍兵士に向かって

 「ハロー、ジョニー」

「ハウディ、レブ」

と呼びかけることが多かったのがこの起源と言われています。

一般的な南軍兵士

これが一般的な「ジョニー・レブ」のイメージです。
グレーのウールの制服を着た南軍兵士として描かれることが多く、
丸みを帯びた平らなトップ、綿の裏地、革製のバイザーを備えた
ウールのブロードクロスまたは綿のジーンズクロスで作られた
典型的なケピスタイルの帽子を被っているます。

彼は武器を持っているか、南軍の旗を持っているか、
時には両方を持っているように描かれることも多かったようです。

When Johnny comes marching home again
(ジョニーが凱旋行進するときには)
Hurrah! Hurrah!
(フラー!フラー!)
We'll give him a hearty welcome then
(心からの歓迎で迎えよう)
Hurrah! Hurrah!
The men will cheer and the boys will shout
(男たちは喝采し、少年たちは叫ぶ)
The ladies they will all turn out
(ご婦人方は迎えに出てくるだろう)
And we'll all feel gay
(皆が陽気になる)
When Johnny comes marching home.
(ジョニーが凱旋するときには)

4番まで歌詞は大体同じ調子で、戦地から帰ってきたジョニーを
歓迎し、称えるだろうという内容になっています。

「ジョニーが凱旋するとき」は南北戦争当時非常に人気があり、
北軍のみならず南軍でも歌われていました。

ということを踏まえた上でこのポスターをご覧ください。

戦没者慰問委員会のポスター写真に写っている片足のベテランは、
ニュージャージー州出身で、その名も

「ジョン・ドラコヤニ」John Dlakoyani

つまり「ジョニー」です。
ポスターの文句と歌の違いは、「again」が加えられていること。
この「また」が入ることで、

「別のジョニーが帰ってきた」(こんな姿で)

というニュアンスになるのかと思われます。

Stop the Crippling. Stop the killing. Stop the war.

クリップリングというのは、肢体が不自由になるような怪我のことで、
ジョニーのようになる怪我、要するに戦闘のことを指しています。

「傷つけ合うのを止めろ 殺し合いを止めろ 戦争を止めろ」

そして、その後に

「地元の地方議員に今日すぐに手紙、電報、電話をしてください」

とあります。

■ THE CONGRESS 議会

戦争反対者は、彼らの地元で選出された政治家に戦争を終わらせ、
軍事活動の認可と資金提供に行使する彼らの憲法上の役割を果たすように
圧力をかけ続けました。

1970年、超党派の上院議員グループが戦争を終わらせるための修正案を提出しました。

George McGovern bioguide.jpgマクガヴァン議員

このとき、民主党のジョージ・マクガヴァン上院議員は、法案を広く宣伝するための
テレビの放映権を買うのに家を抵当に入れることをやっています。

この名前を紹介するのはシリーズ2回目になります。
ロバート・ケネディを大統領選で応援していたら暗殺されたので、
自分が代わりに立候補したものの、結局ハンフリーに候補を奪われた人です。

このときに彼らが提出した修正案はどこかにいってしまったのですが、
両院はラオスとカンボジアへのアメリカの爆撃を禁止する法案を
可決することに成功しています。

その後も空爆作戦は継続されました。

そして、1972年11月、ニクソンは再選を果たしました。
ニクソンは、この選挙で新たに選出された反戦派議員を擁す議会が、
戦争への予算を遮断することを恐れました。

この状況は、ニクソンをしてハノイと和平を結び、さらに
南ベトナムのティウ大統領を説得するもう一つの大きな理由を与えました。

冒頭にも挙げたこのポスターは、議会に意見を送るための
テンプレートがベトナムで戦死した兵士と一緒に写っているブラックなもので、
内容を訳しておくと、

TO (あなたの議員の名前)

衆議院御中 ワシントンDC 20515

私は反対します・・・・

□ アメリカ人のさらなる殺戮と殺傷を
□ 民間人への爆撃や焼夷弾投下を
□ 人々を家から強制的に退去させることを

□ 何百万エーカーもの森林破壊を
□ 腐敗した闇市場の支援を
□ 戦争によって引き起こされるアメリカの分裂を
□ 世界のアメリカに対するイメージの失墜を

□ 一家庭あたり何百万ドルもの浪費を

それぞれの理由にチェックを入れましょう!
そしてこの行動によって1971年の12月31日までには戦争を終わらせよう!

戦地で行われている「メモリアル・サービス」(慰霊祭)。
亡くなった兵士のヘルメットを地面に刺した銃剣に乗せています。

■ PARIS PEACE ACCORDS パリ平和協定」

「1973年1月27日に南ベトナム全土で停戦が観測されることになるだろう」

1973年1月、戦争当事者がパリで合意に署名し、米国の戦争への関与を終わらせました。
協定は停戦、米軍の即時撤退、そして南ベトナムが自身で政治決定を許可される、
という合意を成立させました。

写真は北ベトナムのレ・ドク・ト( Lê Ðức Thọ, 黎德壽)と握手する
国家安全保障問題担当大統領補佐官、ヘンリー・キッシンジャー

1973年、ダナンから撤退するために行進するアメリカ兵たち。
彼らの向かう先には「ボン・ボワイヤージュ」、フランス語で「良い旅を」
というバナーが掲げられています。


条約締結後、サイゴンの大使館をまもるために残ったのは海兵隊の小規模の海兵隊分遣隊だけでした。
また、条約によって591名の捕虜になっていたアメリカ人の帰還が可能になりました。

これらの戦争捕虜(POW)の80%はMIA,ミッシングインアクション、すなわち
ベトナム北部で乗っていた航空機が撃墜された空軍の将兵でした。

彼らの帰還には大変な手続きと関係者の尽力が必要で、
何人かは捉えられて8年もの間捕虜生活に甘んじることになりました。

POW、MIAの家族はこのようなブレスレットを身につけていました。
ブレスレットには捕虜になった、あるいは行方不明になった人の名前が刻印されています。



こちらは運良く救出された兵士。
北ベトナムの捕虜収容キャンプで早速タバコに火をつけてもらっています。

飛行機がハノイの地上から離陸した瞬間、機内の元捕虜たちは
思わず大歓声を上げて喜びを表すのでした。

捕虜になっていた海兵隊員の夫たちが帰還することになり、
基地でプラカードを持って到着を待ちわびている妻たち。
見るからに表情に喜びが溢れています。

これらPOW&MIAの救出プロジェクトを、アメリカ軍は

「Operation Homecoming」(お家に帰ろう作戦)

と名付けました。

■ 平和条約締結後の

条約が締結された後、ニクソン大統領は、アメリカ国民に

「合意は名誉を持って平和をもたらした」

と自信たっぷりに語り、南ベトナムのティウ大統領が
和解を指示したことを国民に向かって保証して見せました。

しかし、彼はサイゴン政府と反政府勢力の両方の軍隊が停戦後も
まだ残されていることを説明しませんでした。

そしてそれらはそれぞれが南ベトナム領土を一時的に支配することになります。

ニクソンが正直でなかったことはもう一つあります。

ティウ大統領が認めなかったにもかかわらず、南ベトナムに大量に
大規模の北ベトナム軍が残されていたのを隠したことで、このため
せっかく条約がベトナムの将来的な統治を平和的に行うと決めたあと、
わずか数ヶ月で戦闘は再開されてしまったのでした。

ちなみに余談ですが、一瞬両国が平和合意に漕ぎ着けたことで、
その尽力に対し、
キッシンジャーとレ・ドゥク・トには
1973年度のノーベル平和賞が授与されることになりました。

しかし、レは、

『ベトナムにはまだ平和が訪れたわけではない』(`・ω・´)

と述べて、賞を辞退しました。

まあ、こんな経緯となればそれも当然かと思うわけですが、
昔から選考基準に非常に問題があり、これをもらった人物にろくなものはいない、
とまで言われているノーベル平和賞ですので(小浜、マザーT、スッチーなどなど)
レレレのおじさんの辞退はむしろ彼の株を上げまくったといえませんか。

レはノーベル平和賞を辞退したただ一人の人物であり
ノーベル文学賞を辞退した
ジャン=ポール・サルトルとともに、
自発的にノーベル賞を拒否した史上二人のうちの一人です。

一方キッシンジャー先生は、相方が拒否したにもかかわらず、
(しかも平和条約の後戦争が始まっているのに)

自分だけしれっと賞を受けたということになりますが・・・・。

 

続く。