「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」(時事通信) - goo ニュース
「進歩的文化人たるものは犯罪者の人権も大切にするから死刑にも反対であり、それを執行している自民党の大臣は死に神呼ばわりして自分は良い子ぶる」という朝日らしい軽率な記事だと思った。
裁判員制度の導入も死刑廃止に向けた試みという話しもありますが、世論調査では死刑廃止について国民の多くが反対しているのに一部の識者と呼ばれる人達は死刑廃止に熱心です。その理由として
1. 先進国で死刑を存続させている国は少なく、野蛮である。
2. 冤罪の場合、取り返しがつかない。
3. 死刑存続が統計的に凶悪犯罪減少につながらない。
4. 死刑は報復であり、教育刑の考え方に反する。
5. 死刑を執行する刑務官の苦痛も考慮するべきである。
6. 国家権力による人命のはく奪は基本的人権の上からも許されない。
これらのそれぞれは説得力のある理由だと思われるし、すべてを論破できる理屈を持っていないけれど、私は人の命を助ける仕事の医師ではありますが、死刑廃止をもろ手を上げて賛成する気にはなりません。死刑に相当するような納得できる実効性のある刑罰が取り入れられれば死刑はなくなるに越した事はないと思いますが。例えば硫黄島のジャングルに鉄条網を張ってその中で自活して永久に自由に生きてもらう島流しとか、映画「マトリックス」で描かれたように永久に眠らされて夢を見て自然死を迎えるとか。
「先進国では人命を尊重するから死刑はしない」という議論は誤りだと私は思います。人質事件が起ると日本は人質を助けるために犯人に屈するけれど、欧米では人質は犠牲になっても犯人には屈せず、大抵射殺部隊が裁判など関係なく現場で犯人を射殺してしまう。犯罪に対する対処の方法が異なるというのでしょうが、日本人が死刑廃止論で唱える人命尊重の感覚とは彼らのやり方は異なるように思います。
そもそも人命を尊重するならば先進国において無差別大量殺人兵器である核兵器はとうの昔に消滅してなければおかしい。無辜の民を複数殺した殺人犯は殺さないけれど、無差別大量殺人兵器は国家として保持し続けるというのは「生命を尊重する」という理屈としては破綻していると思いませんか。「戦争と市民社会の治安維持は異なる」というのは屁理屈だと思います。
日本人がこの辺りの問題で考慮に欠けているのは西洋人と日本人の宗教観、死生観の違いです。日本人の考えでは凶悪犯が死刑囚として生きていれば凶悪犯のままですが、死ねば「皆ホトケ様」になるという思想があります。しかしキリスト教文化では生きている内に神に懺悔をしなければ救われず単に地獄に行くので、懲役300年でも生きて懺悔をせよ、という考えになるのだと思います。死に対する考え方も、欧米では脳死をもって「人の死」と考え、安楽死に対しても比較的柔軟な考え方をします。西欧では「死」は日本人よりもあっさりした「終末」であって、「いかに生きるか」の方が重要と考えられています。日本では大分変わってきたとはいえ、「いかに死ぬか」というのが生きてゆく上でやはり重要なテーマであって、若いときから老後を心配しながら生きるのは「惨めな死に様をしたくない」という観念が生まれながらに備わっているからではないかと思います。医者をしていると日本人の多くは「納得できる生き方」よりも「納得できる死に方」を重視しているように見えます。
欧米ではどうせ死ぬのは同じだからと本人も納得して、新しい抗がん剤が効くかどうかプラセボ(偽薬)群と実薬群に分かれた投与実験などが大規模に行われたりしますが、日本では癌の患者にあなたは偽薬かも知れませんが薬の治験に参加しますか、といってもあまり積極的に参加は得られない、むしろできる限りの治療は行って、どうしても駄目なときは本人が苦しまないようにしてください、という希望が殆どです。
話しが死刑から逸れましたが、「罪を償って死ぬ」というのは死に方にこだわる日本人にはかなり「良い死に方」であって受け入れやすい考え方なのだと思います。「罪を償って死んで仏になる」のだから世論調査ではあまり反対が出ない。遺族も犯罪者の家族もこれで救われるのです。
生死にかかわる文化が異なるのに、一方的に野蛮だの間違いだのと評価するべきではないし、やみくもな西欧礼賛もやめるべきであるというのが私の主張です。日本の死刑制度を自分たちの基準だけで批判する西洋人に「君たちとは宗教観や死生観が違うのだよ」と反論した文化人諸氏はいるのだろうか。皆「白人様の仰せの通りでございます」と平伏してないかな。
「進歩的文化人たるものは犯罪者の人権も大切にするから死刑にも反対であり、それを執行している自民党の大臣は死に神呼ばわりして自分は良い子ぶる」という朝日らしい軽率な記事だと思った。
裁判員制度の導入も死刑廃止に向けた試みという話しもありますが、世論調査では死刑廃止について国民の多くが反対しているのに一部の識者と呼ばれる人達は死刑廃止に熱心です。その理由として
1. 先進国で死刑を存続させている国は少なく、野蛮である。
2. 冤罪の場合、取り返しがつかない。
3. 死刑存続が統計的に凶悪犯罪減少につながらない。
4. 死刑は報復であり、教育刑の考え方に反する。
5. 死刑を執行する刑務官の苦痛も考慮するべきである。
6. 国家権力による人命のはく奪は基本的人権の上からも許されない。
これらのそれぞれは説得力のある理由だと思われるし、すべてを論破できる理屈を持っていないけれど、私は人の命を助ける仕事の医師ではありますが、死刑廃止をもろ手を上げて賛成する気にはなりません。死刑に相当するような納得できる実効性のある刑罰が取り入れられれば死刑はなくなるに越した事はないと思いますが。例えば硫黄島のジャングルに鉄条網を張ってその中で自活して永久に自由に生きてもらう島流しとか、映画「マトリックス」で描かれたように永久に眠らされて夢を見て自然死を迎えるとか。
「先進国では人命を尊重するから死刑はしない」という議論は誤りだと私は思います。人質事件が起ると日本は人質を助けるために犯人に屈するけれど、欧米では人質は犠牲になっても犯人には屈せず、大抵射殺部隊が裁判など関係なく現場で犯人を射殺してしまう。犯罪に対する対処の方法が異なるというのでしょうが、日本人が死刑廃止論で唱える人命尊重の感覚とは彼らのやり方は異なるように思います。
そもそも人命を尊重するならば先進国において無差別大量殺人兵器である核兵器はとうの昔に消滅してなければおかしい。無辜の民を複数殺した殺人犯は殺さないけれど、無差別大量殺人兵器は国家として保持し続けるというのは「生命を尊重する」という理屈としては破綻していると思いませんか。「戦争と市民社会の治安維持は異なる」というのは屁理屈だと思います。
日本人がこの辺りの問題で考慮に欠けているのは西洋人と日本人の宗教観、死生観の違いです。日本人の考えでは凶悪犯が死刑囚として生きていれば凶悪犯のままですが、死ねば「皆ホトケ様」になるという思想があります。しかしキリスト教文化では生きている内に神に懺悔をしなければ救われず単に地獄に行くので、懲役300年でも生きて懺悔をせよ、という考えになるのだと思います。死に対する考え方も、欧米では脳死をもって「人の死」と考え、安楽死に対しても比較的柔軟な考え方をします。西欧では「死」は日本人よりもあっさりした「終末」であって、「いかに生きるか」の方が重要と考えられています。日本では大分変わってきたとはいえ、「いかに死ぬか」というのが生きてゆく上でやはり重要なテーマであって、若いときから老後を心配しながら生きるのは「惨めな死に様をしたくない」という観念が生まれながらに備わっているからではないかと思います。医者をしていると日本人の多くは「納得できる生き方」よりも「納得できる死に方」を重視しているように見えます。
欧米ではどうせ死ぬのは同じだからと本人も納得して、新しい抗がん剤が効くかどうかプラセボ(偽薬)群と実薬群に分かれた投与実験などが大規模に行われたりしますが、日本では癌の患者にあなたは偽薬かも知れませんが薬の治験に参加しますか、といってもあまり積極的に参加は得られない、むしろできる限りの治療は行って、どうしても駄目なときは本人が苦しまないようにしてください、という希望が殆どです。
話しが死刑から逸れましたが、「罪を償って死ぬ」というのは死に方にこだわる日本人にはかなり「良い死に方」であって受け入れやすい考え方なのだと思います。「罪を償って死んで仏になる」のだから世論調査ではあまり反対が出ない。遺族も犯罪者の家族もこれで救われるのです。
生死にかかわる文化が異なるのに、一方的に野蛮だの間違いだのと評価するべきではないし、やみくもな西欧礼賛もやめるべきであるというのが私の主張です。日本の死刑制度を自分たちの基準だけで批判する西洋人に「君たちとは宗教観や死生観が違うのだよ」と反論した文化人諸氏はいるのだろうか。皆「白人様の仰せの通りでございます」と平伏してないかな。