長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

スマホとブッシュがおいでおいでするグラン修羅場ギニョル ~城山羊の会『平和によるうしろめたさの為の』~

2024年12月09日 20時45分38秒 | すきなひとたち
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。
 いや~、山形はいきなり寒くなってきましたよ! 朝夕のキンキン感がハンパない……雪もちらほら降ってきましたしね~。この冬は、どうやらクリスマス付近から雪かきの恐怖におびやかされる、冬らしい冬になりそうです。早起きヤダ~!

 私の住んでいる山形盆地で本格的に雪が降ったのはつい数日前の土曜日からだったのですが、実は私、その日からいつもの感じの強行軍スケジュールで、東京に行っておりました。って言っても車でなく新幹線を使っての旅だったので、ずいぶんとのんきなもんですが。
 そこでまぁ、意気揚々と都内にある城跡を3ヶ所めぐりまして、土曜の夜には最大のお目当てとして、いつものあの方々のお芝居を観てまいった次第です。

 いや~、歩いた歩いた! そりゃまぁ城めぐりで歩いた分が主なんですが、この土日だけ、私のスマホの歩数計のグラフがぐーん!ってなっちゃいましたよ。でも、夜は雨が降ったんですが、日中はほんとにカラッと晴れたお天気で良かったです。石神井公園も練馬城址公園も、休日の行楽を満喫する老若男女やコスプレイヤーでにぎわっておりましたね。へいわ~!! 今度はハリー・ポッターのスタジオツアーにも行きてぇなぁ。豊島園駅周辺どころか、西武豊島線沿線がハリポタ化してました……みなさん楽しそうで何より。


城山羊の会プロデュース第26回公演 『平和によるうしろめたさの為の』(2024年12月4~17日 下北沢・小劇場B1)


 きましたね、今年もこの季節が! 一年の終わりが近づいていることを告げる、城山羊の会さんの不謹慎すぎる笑いの饗宴!! 私は、こっちのスタジオツアーのほうが断然大好きです。魔法はないけど、オトナのドロドロすぎる情交イリュージョンパレードが堪能できます。

 私、城山羊の会さんの公演を毎回観ているわけでもないので大きな口はたたけないものの、昨年の公演がそうだったように、城山羊の会さんのお芝居といえば「三鷹市芸術文化センター星のホール」のイメージが強かったんですよ。でも今回は下北沢ということで、私も久しぶりにかの「演劇の都」へとおもむきました。

 思いきり脱線するのですが、私、千葉で一人暮らしをしていた時代から、「下北沢に行くときは必ず渋谷駅から歩く」というルールを押し通していまして(たった数百円の電車代をケチって京王線を使わなかった故事にちなむ)、今回もそのならいにより、渋谷駅から駒場を通って下北沢へ行くルートを徒歩で行ったんですよ。時間は30分前後くらいかかりますかね。
 それで、だいたい4、5年ぶりに同じ道を歩いたのですが、今回はまぁ~何がショックって、昔たいへんお世話になった駒場の小劇場が、今年5月いっぱいで閉じちゃってがらんどうになってたんですよね。
 いや~、まさか、あそこが閉まるとは……いつも、必ず何かの公演をやってるその劇場の横を通り過ぎて下北沢に行っていたのですが、劇団員さんもお客さんもだぁれもいない、薄暮の町の中にたたずむ暗い建物になっていたのは、非常に心にせまるものがありました。時はうつろいますね。

 その一方で、スタート地点の渋谷とゴール地点の下北沢の喧騒は相変わらずと言いますか、むしろさらに増えてんじゃね!?という恐ろしいもので、おまけにゃどっちも駅舎がむちゃくちゃ変貌していたので、まるで知らない街に来たようで大いに戸惑ってしまいました。街は生きている!! 下北沢の老舗スーパーのピーコックストアさま、たいへんお疲れさまでございました。

 街は生きているというのならば、今回の公演が行われた小劇場B1も、2014年開場ということで下北沢の中では比較的新しくできた劇場でして、上階の北沢タウンホールのトイレはよく借りていたのですが劇場自体には私は特に思い出はありません。そんな中でも、客として初めて入った公演が、やはり2016年に上演された城山羊の会さんの『自己紹介読本』(初演版)だったんですよね。それももう、8年も前の話なんですねい。

 そうそう、そういえば今回の作品は、その舞台設定(近くに工事現場のある公園)が『自己紹介読本』に非常に似ていました。とはいえ、ある意味で『自己紹介読本』の内容を象徴するアイテムとなっていた「故障中の小便小僧像」が今回は無くなっているので全く同じ公園でもなく、まるでパラレルワールドのような「似て非なる空間」となっており、城山羊の会のお芝居を何回か観ている方だったら「ここ、どこかで観たような……」という気がしてしまう不思議な舞台となっているわけなのです。劇場も同じですしね。

 それで今回の作品の内容についてなのですが、1回しか観ていないといううろ覚えっぷりをご寛恕いただきつつ申しますと、


観る者の「うしろめたさ」をクローズアップし、そして開放する唯一無二のひみつの花園、におうが如く今盛りなり!!


 といった感じになりますでしょうか。わっかるかな~、観なきゃわっかんねぇだろうなぁ~。

 あのですね、もう、面白いのは当たり前なんです。でも、城山羊の会さんの提示する「面白さ」というものは、絶対的に子どもが見ても笑えるという性質の「味つけのしっかりした料理」や「爆弾」みたいにはっきりした存在ではなく、いわば観客の顔を映す「鏡」のような、相対的な存在なのです。
 つまり、城山羊の会さんのお芝居を観て思わず笑ってしまうのは、そこでの登場人物たちのやり取りや悲喜こもごもに、過去に自分自身が経験した失敗や気まずさを観て「これ、あの時は全然笑えなかったけど、はたから見たらこんなにバカみたいな話だったんだなぁ。」と反芻したり、「こんなに悪いことがあれよあれよと言う間に積み重なっちゃったら、もう笑うしかないよなぁ。」と諦念したりする没入感があるからだと思うのです。なんか、この人たち不倫してるみたいだな、この女の人ヤバいな、この男の人そんなにエロいんだ……と、公園の一角で繰り広げられる定点映像をのぞきこんでいる内に、いつの間にか、「このヒヤヒヤする関係が壊れたら目も当てられなくなるんだろうなぁ。でも、壊れるの見てみたいなぁ、自分は関係ないから。」という、対岸の火事から目が離せなくなるような危険な心理状態におちいってしまうわけなのです。

 でもそこ、本当に対岸ですか? もしかして、鏡に映ったあなたの家が燃えているのかも……ギャー!!

 言っておきますが、たぶん、そこに「ほんとに不倫した人にしかわからない」とか「ほんとに肉親と恋人を取り合った人にしかわからない」というようなニッチな条件は必要ありません。だって、それだったら城山羊の会さんの公演がこんなに毎回大入り満員で、お客さんがほとんど黄色い声のような歓声を上げて舞台上での修羅場を喜色満面に見届ける状況など生まれるわけがないからです。
 ほんの少しの、「知り合いにやましいことをした」経験、「ちょっとした隠し事があって咄嗟に嘘をついた」思い出……それさえ、その、本人さえもがすっかり忘れ果ててしまったかのようなちっぽけな「支点」さえあれば、城山羊の会さんの「力点」は、私たち観客の脳髄の中にある「作用点」をスポポポーン!!と笑いの成層圏にまで打ち上げてしまう異次元の射出能力を持っていると言わざるを得ないでしょう。

 でも、今回の作品で本当に私が感服つかまつってしまったのは、今回の脚本ほど、その「力点」が簡素なものになっている作品はいまだかつて無かったのではなかろうかという点だったんですよね。
 ほんと、今回の作品って、いかにも演劇的な「不思議なこと」っていうのが起きないんですよ。淡々と、事実が推移していく、だけど考えうる限り「最悪」なほうに。それだけなんです。それだけなのに面白いのです!

 今までの城山羊の会さんの作品だと、そこに凄惨な殺し合いが起こったり、明らかにふつうの人ではない存在が介入したり、意図的に TVバラエティっぽい効果音と共に女優さんがなまめかしいアッピールをかましたりする、いかにもエンタメっぽいアクセントが入っていたような気がするのです。まぁ、フィクションであることを利用した展開ですよね。

 それが、今回は極限まで、ない! そういった、観客の注目や違和感を比較的簡単に集められる安パイに逃げず、ただひたすらに、公園で起こってもおかしくない範囲のやり取りだけが連続するのです。まぁ、その中には法に触れる行為も多少はありますが……
 ふつうですよ。そんなに大したことは起こらないんです。それなのに、あんなに面白いのは一体全体どういうことなのだろうか……
 これはもう、ひとえにお話の完成度がとてつもなく高いと言うしかないのでしょう。極限までシンプルで、極限までいじわる! だがそこがサイコー!!

 あえて逆の言い方をしますが、もし!もしですよ、この作品を観て「なにが面白いかよくわからなかった」という方がいたら、それは登場人物に共感できなかったということだと思いますので、自分の汚点を隠すためについたウソがばれるかも知れないという恐怖を人生の中で味わったことのない人なのではないでしょうか。ある意味、めっちゃうらやましい……不貞はするな!とか、ウソは絶対ダメ!!とかいうわかりやすすぎるお題目で世の中が回ってたら世話ないのよね。夢見る子どもじゃいられない現代人が大都会の片隅にある暗い空間で楽しむ秘密の娯楽集会、それが城山羊の会さん!!
 特に、今回の作品は先ほども申したように、物語上のわかりやすい飛び道具がほとんどないので、過去作品よりもいっそう笑いの難易度が高いような気もするのですが、それでも観客は充分に満足できるというクオリティがしっかり担保されているのが本当にすごいところだと思います。

 これは完全に私の思い込みなのですが、私の観た回に関して、クライマックスの乱闘シーンにおいて、私はあの名優・岡部たかしさんが若干コントっぽいオーバーでコミカルな挙動を見せていたのが、ちょっと岡部さんらしくないなと感じてしまいました。
 でも、おおそれながら俳優さんの身を想像してみますと、たぶん岡部さんは「今回のお芝居の面白さ、伝わるかな……」という直感を持っていたので、おそらくそういったサービスをしてくれたのではないでしょうか。
 いや、ぜんっぜん大丈夫です! 面白さ、ちゃんとわかりますよ!! 安心して千秋楽まで堂々と演じていただきたいと存じます!

 ただ、確かにそんな根拠もない邪推をしてしまうほど、今回の作品は非常に高度で先鋭的で、無駄なものがいっさい無いのです。まるで F1カー、『新古今和歌集』、タルコフスキー監督の映画、麻生祐未の表情筋!!


 今回のお話をおさらいしてみますと、とある、ドリル工事の騒音が時折けたたましく聞こえる公園の一角。そこには数台のベンチと、人間が1~2人隠れることができそうなブッシュ(しげみ)があり、ベンチの一つに男(演・古舘寛治)と増淵夫人(演・笠島智)が並んで座っているところから物語は始まります。
 増淵夫人は男に「愛してる」と言うように懇願しますが、男は先ほどの夫人との情交からの疲れを隠さず、「言わなくても分かってるでしょ……」とはぐらかして明言を避けます。夫人はその態度に失望しつつも、愛している証拠をこの場ですぐ示せと男にせまり、ちょうどそこに長身の青年・添島(演・中島歩)が現れたにも関わらず、強引に熱い接吻を交わします。一見、2人とは何の面識もない赤の他人のように見えた添島なのですが、男が公園を去った後、夫人は添島と親しげに会話を交わし、ただならぬ関係にあったらしい過去がこの2人にもあることが暗示されます。昔のよしみからか、夫人は添島から煙草を借りて一服吸うのですが、そのやり取りを、添島と待ち合わせをして遅れてきた彼女のアキ(演・福井夏)が目撃してしまったことから、公園の一角はきな臭い雰囲気をただよわせ始めます。
 アキは添島と夫人の間に何らかの関係があると怪しんで問いただしますが、2人は「無関係の他人同士で今たまたま煙草を貸し借りしただけ」と口裏を合わせてしらばっくれます。しかし微妙な違和感を拭いきれないアキはさらに疑念を強めていくのですが、そこに夫人の夫である増淵(演・岡部たかし)や、添島をまじえて会食するために来たアキの母(演・岩本えり)も現れ、複数の男女関係が入り乱れる悲喜こもごもの事態は、さらにその粘度をあげていくのでした……


 ざっとお話の流れをまとめると以上のようになるかと思うのですが、私は本作の面白さの根本となる重要なポイントは2つあると見ていまして、1つ目は「ウソをつく人とつけない人のすれ違いの妙味」、そして2つ目は「うしろめたさの為の演劇って……?」ということになるかと思います。


1、ウソをつく人つけない人

 城山羊の会さん作品のご多分に漏れず、今作でも様々なカップリングが現れては、狭い公園の一角で毛糸か有線イヤホンのコードのごとく無惨に混線してゆくのですが、混乱の原因はことごとく、「軽い気持ちでウソ」をつくか、逆にそれをつけなかったから。それに帰結するのではないでしょうか。相手の思いとの間に決定的な亀裂が生じるきっかけというものが、全てこの「ウソをつくタイミング」の失敗にあるような気がするのです。

 例を挙げれば思いつくだけでも、「愛していると言え」と言われて咄嗟にそう言えない男、妻には仕事だとウソをついて外出し増淵夫人と真昼間から3ラウンドもいたす男、公園のベンチにいる増淵夫人と男に出くわし瞬間的に赤の他人のふりをする添島、見知った仲なのかとアキに聞かれて口裏を合わせたかのように「初対面の他人同士だ」とウソをつく増淵夫人と添島、増淵から公園の隅にいる男と知り合いなのかと言われて返答をはぐらかすアキ、増淵夫人の喫煙の話から感じたことをフィルターなしでずけずけ言う増淵、自分の夫である男がどこで誰と何をしようが全然かまわないと断言して添島に露骨なモーションをかけるアキの母……
 このように、本作は「男と増淵夫人」、「増淵夫人と添島」という2つのカップリングを隠そうとする3人のウソと、そこをなあなあにせず素直に「なんで?」と追究しようとする周囲の3人とのせめぎあいが、見る見るうちにさらなる修羅場へと延焼してゆくという、まるで台所を再現した屋内セットでほっといた天ぷら鍋から火柱があがる過程を定点カメラでひたすら眺める火災防止啓発映像のような物語となっております。おかーさん長電話してる場合じゃないよー!!

 ただ、ここで重要なのは、必ずしも「ウソつきが悪」で「正直者が善」というわけでもなく、「ウソつきが賢く」「正直者がバカ」というわけでもない事実が指摘されている点なのです。
 おそらく、この作品を見て観客の多くが感情移入してしまうのは男・増淵夫人・添島のウソつきチームの方なのではないでしょうか。なぜなら、この3人がウソをつくのは「現在好きな相手(男にとっての増淵夫人、増淵夫人にとっての男、添島にとってのアキ)」と「過去に好きだった伴侶(男にとってのアキの母、増淵夫人にとっての増淵、添島にとっての増淵夫人)」との、どちらとの関係も平穏無事であり続けるという意味での「平和」を希求するがゆえだからなのです。要するに、視野が非常にミクロというか、はたからすれば自分勝手すぎるというエゴイズム満点な話ではあるのですが、この3人は純粋に平和主義者なのです。しかし、そのためにつくウソはめちゃくちゃ打算的で計画性もへったくれも無いものなので、ご覧の通りの惨状となってしまうわけですが。
 ところが、それに対するアキ・アキの母・増淵の正直者チームの方はどうなのかと言いますと、まずもって「現在」と「過去」それぞれの存在をてんびんにかけるという考えがないので、ウソつきチームの八方美人な態度がまるで理解できず、ただひたすらにウソをつく相手を追求しては「なんで? なんでそんなウソつくん!?」と攻撃するか、もう知らんわと突き放すことしかしないわけなのです。

 この関係……ウソつきが非現実的かつ純粋かつ理想主義的なもので、正直が現実的かつ視野狭窄かつ排他的なものだという対立構造は、はっきり言って世間一般的な、学校で教わってきたような道徳的な観念から見ればかなり異様で危険なものであるかのように見えます。でも、実はウソが人間の思想として周囲へのまごころあふるる(けど整合性はない)聖性から生まれるもので、正直さがとげとげしく俗っぽいものであるという感覚は、やはりどことなく太宰治を彷彿とさせる視点があるような気はしますね。まさに城山羊の会さん印の作品であるわけです。

 そういう意味で、そもそも不倫をしていることが間違いの元凶であるとはいえ、終始苦虫を噛み潰したような表情で苦悩し、挙句の果てにゃ公園のブッシュに立たされて日本一恥ずかしいところを実の娘に目撃されてしまう男のたたずまいは、この世の汚濁をすべて一身に引き受けた受難者っぽくもありますし、ラストシーンで2人にはさまれたあの人が浮かべていたあの表情も、男から確実にその「受難の相」を継承しちゃったな、というオチを明示しているのではないでしょうか。あ~、次はこの人が人柱になるのか……みたいな七人ミサキ感ですよね。男はつらいよ!!

 そうそう、このお話は以上のごとく、男がこれまで築きあげてきた家庭の崩壊から、新たな波乱が招来する予兆までの流れを淡々と観察してゆくのですが、終始登場人物たちの人間模様をつづっているようでいて、どこかしら、この信じられないくらい悲惨な状況が積み重なってしまう不幸のピタゴラスイッチの原因が、人間の言動がどうのこうのという人災を超えた、この「公園という場所」にある目に見えない存在が引き起こした天罰のような空気も感じさせるものがあります。なんとも、21世紀の現代科学でさえ解明不可能な、もう「悪所」としか言いようのない不気味な土地がむいた牙……そこに来る人々を一人残らず不幸にする、内藤正敏の写真の闇のような黒さをたたえたブラックホール。そこらへんの吸引力を象徴するのが、公園のベンチの後ろにあるブッシュであり、いったん公園から離れたはずの増淵夫妻を超強引に引き戻してしまう増淵夫人のスマホなわけなのです。まるで、増淵夫人が煙草を地面に押し付けてもみ消したことがトリガーになったかのような、町の中にあるなんでもない場所の「復讐」……ま、これは理屈もへったくれも無い非合理的な想像ではあるのですが、この物語が、「動物園での家族客の何気ない行動が、そこにいたゾウかキリンを怒らせて大変なことになっちゃった」みたいな解釈もできそうな、そんな不気味な可能性もあるんですよね。おもしろいなぁ。

 話を戻しますが、この作品の中での「ウソつき」と「正直者」との印象の逆転現象に関してとっても重要な役割を担っているのが岡部さん演じる増淵でして、この人の正直さが増淵夫人を不倫にまで追い詰めた元凶だったという事実が判明する後半の展開は、かなりインパクトが大きかったですね。
 この作品を最初から観ている観客は、明らかに不倫をしていて、しかも相手の男にかなりしつこく愛していると言えと迫る増淵夫人を見て「ヤバいなこの人……」と感じてしまうと思うのですが、そんな夫人と増淵とのやり取りを見て、アキが「旦那(増淵)のほうがヤバい!」と即断してしまうのは、アキの感性がいかに鋭敏で正確なものなのかを如実に示していると思います。ま、具体的に増淵がどうヤバいのかについては、お芝居を観た人だけのヒミツということで説明は控えておきますが、女性からしたら絶対にヤですよね、こういう男との結婚生活なんて……
 ただ大事なのは、それほどヤバい増淵が「禁煙できない人」や「レストランが作ってくれた食事をすっぽかす人」を真剣に非難して、迷惑をかけた相手に対しては手土産まで用意して謝罪するという、ごくごく常識的な人間であるということなのです。近頃は、自分のことは棚にあげて全く公開しない無名の人々の振りかざす「正義」が、かなりオーバーキルな力を持って名前のある誰かを猛攻撃する現象が SNSのいたるところで見られますが、本作の増淵というキャラクターは、そういう意味で非常に現代的な存在なのではないでしょうか。なるほど~、今の悪役ってこういう感じなのかも。

 また、相手の非を秒で指摘する目ざとさと舌鋒の鋭さこそ脅威な増淵ではあるのですが、意見が決裂して乱闘が始まってしまうと異様なまでに腕っぷしが弱くあっという間にねじ伏せられるというアンバランスさも、ここで作者の山内さんが仮託している現代悪の正体を看破しているようで面白いです。ここ、別にギャグで増淵が弱っちいわけじゃないんですよね。あそうか、だから本作には岩谷健司さんがいないんだ!


2、平和からうしろめたさが生まれる?

 本作の序盤で、男が「世界では残酷非道な戦争や深刻な差別・迫害がはびこっているというのに、我々はこんなこと(不倫)をしていていいのか……」という主旨のことを増淵夫人につぶやく場面があります。
 それ自体は、増淵夫人から「愛していると言ってくれ」とせがまれた男が困惑する中でひねり出した言葉なので、まぁ話題をそらすための方便とも解釈できますし、だいたい男だって好きで増淵夫人と蜜会しているわけなのですから、その男がどの穴から世界の危機を憂いた妄言を吐いとんねんという話なのですが、問題は、その男が見る見るうちに家庭崩壊へのレールを猛進していくために、男の「平和」に対するリアリティが秒速で変容していくというところなのです。

 つまり、このお話の最初と最後とで、男からみた「平和な日常」との距離感がどんどん遠くなっていき、それと反比例して平和というもののありがたさが克明になっていくのです。こんなに恐ろしい話があるでしょうか……平和なときに平和はわからず、平和でなくなったときに平和は理想に満ちた光り輝くその姿をあらわにするのです。んもう、いじわる!!
 しかし、平和という環境は非常に退屈なものである一面もあり、男がそうであったように、平和に倦んだ一部の人は、外部に刺激を求めてさまよい出るという挙に出ます。刺激というのは男にとっては「増淵夫人との火遊び」であり、「外国の戦争や差別衝突を憂うこと」であったわけなのですが、それらから逆に「ごく普通の平穏な家庭を築いている自分」の身を振り返って、「いいのかな、俺だけこんなに平和で。」とうしろめたく感じること。これこそが、男の唯一無二の愉しみとなっていたのではないでしょうか。

 平和とうしろめたさとの関係は、この男に関してはこれほどに表裏一体、どちらが無くなればもう片方も無くなるという密接なものであったのです。そして、この作品の中、どこかの公園の片隅で繰り広げられた約2時間の物語をもって、男の「平和」と「うしろめたさ」は、どちらもバサバサバサーッと男の元から飛び去ってゆき、ラストシーンでベンチの真ん中に座ったあの人の肩にとまることとなった、という流れなのではないでしょうか。
 あの……つまり平和っていうのは、周囲の不幸とセットでないと感知しえないものなんですかね。そういうの、昔から日本では「ざしきわらし」と言っていたのでは……昔の人の感性はやっぱすげぇ。

 また、この作品で徹底しているのは、登場する人物たちの中で男に共感してくれる人が一人もいないというところなのです。男は家庭では、妻からも娘からも、娘の彼氏との会食に誘われない程つまはじきにされており、一方の愛する増淵夫人も、実は酔狂で男と不倫しているのではなく、猛烈に嫌な存在である増淵とその実母の拘束から逃れるために男を利用していたという実情が明らかになるのでした。自分が築いた家庭の中で自分をリスペクトしてくれる人がどこにもいないという事実をもって、果たしてあなたはあの男のように「平和だ」と感じることはできるでしょうか……でも、男はあえてこの状況を平和だと思い込んでいたのです。自己暗示か、麻痺か、それともたんなる超ドM なだけなのか。あっ、あの縄……山内さん作品の伏線は、こんなところにも周到に!!


 ……とまぁ、今回もここまで何の脈絡もなく思いついた限りのたはごとをつらつら述べてまいりましたが、要するに今年も、城山羊の会さんの定期公演は非常に面白かったと、それだけのことなのでございます。
 ただ、今回の作品の質感は、明らかに昨年までの諸作とは異なり1段階以上ちがう次元に上がったような印象を受けました。面白さを感じる観客側の精神状態の熟度も必要というか……正直言って、20歳前後の大学生だった頃の私がもしこの作品を観たら同じように楽しめていたのかどうか疑わしいという感じなのですが、私も本作を楽しめるくらいの人間になれたのかなということで安心しております。間に合ってよかった。

 平和とは、いったい何なのか。思えば、こうやって毎年東京にいそいそとおもむいて、物語の中で他人の平穏な人生がドンガラガラと音を立てて不幸のズンドコへと転がり落ちてゆくさまを観て爆笑できるわたくしのこの状況こそが、平和なのかも知れません。はたから見たらどうなのかはわかりませんが……

 でも、私の今回の東京行に関してかえりみてみますと、このお芝居の前に練馬の石神井公園を意味もなくほっつき歩いたのですが、別に何でもない、あたたかい陽光の下で談笑しながら散歩する人々がいて、遊具で歓声を上げながらあそぶ子ども達がいて、水面を親子ですべる水鳥の群れがいて、ギャハギャハ笑いながらスワンボートをこぐ詰め襟学生服の修学旅行生がいるという光景を眺めることができていることが、今の私にとってのかけがえのない平和なのかなと、お芝居を観た後に夜の下北沢を宿(すぐそこのカプセルホテル)へと急いだときにしんみり思いました。すっっっごく平和な風景だったな、石神井公園……

 余談ですが、1980年代生まれの私にとって、「練馬の石神井公園」という地はある種のユートピアと言いますか、「ほんとにあるのかわかんない理想郷」のような存在にまで神格化されておりまして、なんでかっていうと、少年時代の私が愛読していたマンガ誌『月刊コミックボンボン』(講談社)の中の佐藤元先生のギャグマンガ『爆笑戦士!SDガンダム』(1987~92年連載)で、ことあるごとに登場キャラたちや元先生っぽい人物が「練馬の石神井公園」と言っていたからなのでした。スタジオがそこにあったんですかね。
 『爆笑戦士!SDガンダム』は単にガンダムの作中ネタだけでなく、明らかに当時首都圏の TVで放送されていたとおぼしき CMをパロッたギャグも頻出していたのですが、当時「民放 TV局が2局」(1989年まで 現在は民放4局)という戦時中の情報統制に近いメディア制限下の山形で育った私には元ネタがほぼわからず、「このねりまのしゃくじいというどごさいったら、どだなギャグも笑えるんだど。夢もかなうんだど。苦しみも消えるんだど……」といった感じで、どっちかというとガンダーラに近い心の中のエル・ドラドオと化していたのでした。

 それでまぁ今回、少年時代からいだいていた30年以上ものの宿願が果たされたわけだったのですが……まぁ普通の町でした。ふつうにすてきで、ふつうに平和な町。でも、本当に幸せな気分になりました。

 思えば、私にとっての理想郷・石神井公園に行けたその日に、今回の城山羊の会さんの平和に関するお話を楽しむことができたのも、運命が導いてくれた最高のカップリングだったのかも知れません。いつも長旅に出る前にお参りしている薬師如来さまに、今回も大感謝! また明日から頑張って生きていこう。


 最後にもう一つだけ蛇足を。私、下北沢で城山羊の会さんのお芝居を観た後に、約10年ぶりくらいになると思うのですが、そうとう久しぶりに近所の有名なスープカレー屋さん「マジックスパイス」に行ったんですよ。
 そしたら、隣のお客さんがたった今まさに同じ公演を観たばかりだという見ず知らずの方で、偶然だったので本当に2、3言しかお話をせずに失礼してしまったのですが、やっぱ、城山羊の会さんの公演は観た直後に感想を言い合える誰かと楽しんだほうがずっといいですね。まぁ、デートとしては相当難易度が高いほうかとは思うのですが、ちゃんとした関係だったら、仲が険悪になるようなことは絶対に無いと思います。おもしろいんだもん!

 いやぁ、隣のすてきなお客さんと話ができるとわかってたら、スープカレーも見栄を張って辛さのレベル上げときゃよかったよ! 前回に行ったときは若かったし、仲間内のネタで辛さレベル最高の「虚空」(辛度7)にしてたんですが、今回はむっちゃくちゃひよって「覚醒」(辛度1)にしちゃってました……歳とったなぁオイ!! そういえば、昔はワクワクして買い物できてたヴィレッジヴァンガードとかディスクユニオンも、今はこんな感じか~ってなもんで食指は動かなかったな。もうまごうことなきおっさんだよ~!!

 またマジスパさんに行って、辛さで気合を入れ直してもらわないとね。あと、現状、日本のお城旧跡の中でいちばん行きたくない「渋谷城跡」(東京都渋谷区の宮益坂わき金王八幡宮内)にも、いつかは必ず行かなきゃなんねぇし……人ごみヤダー!!

 城山羊の会さんの公演を観て、いよいよ2024年もおしまいに近づいたという実感がわいてきました。来年の公演も、どうやら年末ではないようなのですが、変わらず楽しみにしております! そのために身体も健康第一でがんばっていきます!!
 平和なんてものは、要は一人一人のアンテナの問題なのかも知れませんしね。やっぱりメンテは大切だ。しみじみ。
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業火絢爛たる演劇的悪夢に、令和の父子鷹をみた!! ~城山羊の会『萎れた花の弁明』~

2023年12月17日 21時08分01秒 | すきなひとたち
 え~、みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。
 いやはや、2023年も、なんだかんだ言ってもう師走ですよ。みなさまは、無事に年を越せそうですか? 私はもう、やり残したことが満載すぎて未練たらたらでございます。早い! 時間が経つのが早すぎますよ、40代は!

 ただそうは言いましても、今年は春に「コロナウイルスは終息してないんだけど、もういい加減、終息したことにしちゃおう。」的な流れにもなりましたし、いろいろと解放された年にもなったかと思います。少なくとも私は、なんとなくですが羽根を伸ばせたいい年だったような気はしますね。
 その一環として、夏にはコロナ禍前からの懸案だった「山梨県までドライブ旅」も楽しく果たせましたし、実はこの土日にも、数年ぶりに東京に行ってきたんですよ、一泊で。

 いや~、楽しかったんですが……私、人ごみを歩くのヘタになったなぁ~! あと、地下鉄でも混乱しまくり。
 やっぱ、何年もやらなくなると退化するもんなんですねぇ、そういう生活行動って。よもや、いやしくも関東地方でかつて15年くらいは暮らしていたこの私が、「都営地下鉄」と「東京メトロ」の違いさえわからなくなるとは……こりだがら田舎もんはダミだなやぁ~!
 振り返ると、2019年いらい4年ぶりの東京なんですよね。変わったような、変わってないような。でも、街中をゆく外国からの旅行客らしい人の割合は格段に増えたような気がする。あ、あと、どの業種でも働いてる人の外国人率、めっちゃくちゃ上がりましたよね!? そして、働いてる外国の方たちの日本語が上手、ノーストレス&親切丁寧! その反面、働いてる日本人のあんちゃんおねえちゃんのやる気のなさときたら……いや、たまたま私が行ったお店がそうだったってだけなんですが。もう、あの駅前の牛丼屋さんには一生行かない……
 それにしても、この土日の東京はばかに暖かかったですね! 太宰治ゆかりの三鷹に行くってんで、意気揚々とマントを羽織って行ったのですが(ほんとは二重廻しなのですが扱いやすいのでマントにしました)、歩いてものの数分で汗だくに! 秋どころか、春みたいな陽気でしたよね。

 そんでま、久しぶりに上京したお目当ては、こちらでございました。


城山羊の会プロデュース第25回公演 『萎れた花の弁明』(2023年12月8~17日 三鷹市芸術文化センター星のホール)


 楽しみにしておりましたよ~! 現代日本の恥部を活写するグランギニョル、城山羊の会さま定期公演!!

 ……と言いましても、まことに情けないことに私はここ5年以上も城山羊の会さんのお芝居の観劇はご無沙汰になっておりまして、最後に観たのはなんと2016年の『自己紹介読本』(初演版)というていたらくなのです。しかも、その感想を記事で立ち上げていながら、本文を一向に書き上げなかったという不実っぷり……すべては年末から年度末にかけて殺人的に忙しくなる私の仕事のせいなんでい! と、むなしく叫ばせていただきたく候。
 こんなひどい状況なので、城山羊の会さんの大ファンなんです、信じてください!と叫んだとて、『ウルトラマンA 』の北斗星司隊員のごとくに「ぶったるんどる!!」と山中隊員に殴られてもおかしくないわたくしなのですが、それでも恥を忍んで今回、そうとう久しぶりに拝見させていただきました。
 いや~、なつかしいです。まず肝心のお芝居が始まるまでの道中のもろもろが全部、なつかしい。
 JR三鷹駅の南口から階段を降りて三鷹通りを南下します。夕方6時を過ぎた冬の三鷹の街はすでに半分寝ているような状態で、たまに通り過ぎる満員のバスか通り沿いのガストぐらいしか活気のあるものはありません。太宰治の眠る墓地とやたら立派な八幡大神社を過ぎて突き当たった連雀通りを右に曲がると、お目当ての三鷹市芸術文化センターはすぐに見えてきます。
 こちらにうかがって城山羊の会さんの公演を観るのはもう何回目になるのかわからないのですが、この時間帯にこのルートを通って三鷹市芸術文化センターに向かう人って、もう目的はほぼ100%城山羊の会さんの観劇ですよね。お互いに直接会話こそしないものの、「あんたも好きね……」みたいな余計なお世話なアイコンタクトを取りつつ会場へと向かうわけなのですが、まずお芝居が面白いかどうか以前の段階で、この、他人にはおおっぴらに言えない秘密の黒ミサにおもむくような背徳感と高揚感がたまらないんですよね! 今夜はどんな惨劇を目の当たりにすることになるのかという、このワクワク……いけないですね。

 そんなことを妄想しつつ会場に入り、客席につくわけなのですが、これまた例年通りに足組が丸見えの客席裏から階段を上り、客席の最上段から目の前の舞台セットを見下ろした時点で、私は度肝を抜かれてしまいました。
 今回の舞台は、三鷹市芸術文化センターの外観なのです。つまり、「三鷹市芸術文化センター」というレリーフがついた建物の外壁と、車道沿いのバス停があるという風景。

 なんということを……これから始まる物語が「芸術文化」の「センター」で繰り広げられていいわけがないのに、そこをあえて強調するかね、しかし!? 芸術文化って何なんだろうと、観る者に重大な問題提起を喚起するヘビーなファーストパンチですね。いや、だからお芝居1秒も始まってないってば!!

 それでまぁ、いつものように客席もギューギューに詰まってお話が始まったわけなのですが、例によって三鷹芸術文化センターの支配人であらせられる森元隆樹さんの前説からシームレスに物語が始まるという流れになります。数年ぶりに公演を観る人間にとっては、この導入までもが全く変わっていないのがありがたい……もうお能の囃子方というかギリシア悲劇のコロスというか、『世にも奇妙な物語』のタモリさんのような必要不可欠な存在ですよね。えっ、森元さん、来年で還暦!? それは、来年の城山羊の会さんの公演も見逃せませんね……

 舞台設定が三鷹芸術文化センターの真ん前で、その支配人の森元さんご本人が登場するのですから、限りなく現実世界に近い状況設定から物語が始まるわけなのですが、今回の公演はこの芸術文化センター前の路上というセットが、時々パカーと開いて別の空間に変容することによって、私が拝見したどの過去公演作品よりも、人間の「本音」と「建て前」というものをはっきりと区別する効果を上げていたと思います。つまり、芸術文化センター前で繰り広げられる何気ない会話や、互いに体裁を意識しまくった茶番の数々はすべて「建て前」であり、その奥に全く違う空間が広がった時に見える光景こそが、「本音」の世界なのです。この「本音」の世界に入り込むのは性欲王国の無邪気な冒険者である木原(演・岩谷健司)と生活上の必要に迫られてデリヘルで働くことになったシングルマザーのカオリ(演・石黒麻衣)のペアと、太宰治を信奉しているらしい老カサノヴァ男のシゲオ(演・岡部たかし)とその婚約者のスミコ(演・村上穂乃佳)のペアの計4名となります。あと、クライマックスでもう一人の俳優さんがそのゾーンに出てくるのですが、そのときのあの人が果たして「人格」を持っている存在なのかは……神のみぞ知るということで。

 男女ペアが「本音」の世界に出てきて本性を表すという、この非常に分かりやすい構図から見てもわかる通り、本作は「性交って、なんなんだろう?」という千差万別な問題を、様々な世代、性別の人間から照らし出すお話となっております。それなりに適当な落としどころを見つけてのらりくらりとやっていく世渡り上手な人もいれば、自分の性欲、つまりは「生きる欲望」に忠実であろうとするあまりに周囲の人間関係をズタボロにしてしまう破滅型の人もあり……ここらへんは言うまでもなく城山羊の会さんお得意の、人間模様タペストリーの独擅場ですよね。
 特に今回でいうと、やはり周囲を引っ掻き回す特A 級戦犯といえるシゲオを演じる岡部さんの憎ったらしさと、残念ながらもそれを上回ってしまう愛らしさが光っていたわけなのですが、芸術文化センター前で息子のオサム(演・岡部ひろき)ににらまれた時の「なに? それのどこがいけないわけ?」とひらきなおる素振りを観てしまうと、「あぁ、私は今、城山羊の会さんを観ているんだな。」とか、「もうそんな季節か。年賀状書かなきゃいけないな。」とか、しみじみ感じ入ってしまうのでありました。師走の風物詩、岡部たかしさんの居直り演技。

 ただ、そういった2層構造によってコロコロ変わる人間のおかしみを楽しむばかりならば簡単なコメディ群像劇で済んでしまうわけなのですが、そういう面白さもちゃんとありつつ、それで済むわけがないのが城山羊の会さんなのでして。

 今回のお話には、その「本音」と「建て前」の世界をわりと自由に行き来できるというか、周囲の視線を気にすることも無く平然と越境できる超人キャラクターが2名も登場します。すなはち、性欲王国のオデュッセウス・木原と、本音と建て前のはざまで煩悶するカオリの身辺にちらっちらと出没する謎の人物イエス(演・朝比奈竜生)です。この2人がね……彼らが登場することこそが、この城山羊の会さんの作品が凡百の「人間模様あるあるネタ芝居」も、現代日本文学をも超越して、人類史みたいな高みにまで軽~く飛んで行ってしまうロケットエンジンになっていると思うのです。

 まず木原は、いちおう「ハラキ」なんていう仮名こそ使ってはいますが、芸術文化センター前の路上でも初対面の人に対して、っていうかそこのセンターの支配人(限りなく公務員に近いお方)を相手にして、出会って十数秒で「性欲どうですか?」と質問し、コロナ禍こそ自粛していたようですが、デリヘルの社長と懇意になるくらいの常連客となってホテルにいそいそと通う(一日二回も辞さない)という豪の者です。豪というか、業というか……
 そういう人物を並みの50代の俳優さんが演じてしまうと、脂ぎった嫌な俗人になってしまうか、現実味のないギャグ要員になってしまうかと思うのですが、そこをあの岩谷さんが演じることによって、岡部さん以上に愛らしい人間に見えてしまうのが不思議ですね。いや、ホテルでカオリにあんなアプローチをかけてしまう所業は、女性から見ると許せないものがあるのかも知れないのですが、そこにもどことなく「コロナ禍あけでウキウキしてるんだろうなぁ」という人間味を感じてしまうのは私だけでしょうか。なんかそこに、遠足前の小学生のような邪気のなさを感じてしまうんですよね。自らの行いに恥じるところが寸毫も無いんです。
 つまり、何を差し置いても「自分の性欲が第一!」というごんぶとな筋を一本通しているこの木原という人物には、人間世界の本音だの建て前だのという既成の価値基準などいっさい通用せず、だからこそ木原は、周囲の人間の本音も建て前もすべてを観たり聞いたりすることのできる牧師に限りなく近い「異形のひと」になる資格があるわけなのです。そうそう、昔の日本での宗教者なんて、バチカンとか国教会みたいな公式ライセンス機関なんかあってないようなもので、「そういう感じで生きてるんだったら坊さんでいいんじゃない?」みたいな資格基準だったそうですしね。そういう意味でも、木原は決して「ニセ牧師」などではないのです。

 そして、木原とはまったく別の次元での越境者となっているのが、カオリから「イエス様」と呼ばれる謎のやぼったい日本人青年なのですが、これもまた、私から観ると冗談でなくナザレのイエス本人なんじゃないかという説得力に満ちた超人だと思います。決してカオリやその他の人物たちが観ている幻覚ではないですよね。
 だって、イエスの身になってみてくださいよ……自分がいっぺん死んでから、もう2000年も経とうかというのに、いまだに世界中の無数の人達から勝手に呼び出されて泣かれたりどうでもいい人生相談を受けたりするんですよ!? そりゃあやる気も無くなるし声量も極小になるし、多少は体型もだらしなくなりますよね。お話の途中でこのイエスが、木原を指して「地獄に行くのはこいつでしょ。」と言ったかと思うと、後で「ま、それはどっちでもいいよ。」とつぶやくというやり取りがあるのですが、そういう投げやりな言い方になる気持ちもよくわかろうというものです。だって、たいていの人が落ちる地獄よりもずっとずっと果てしなく続く苦行の中に自分が今いるんですから。あの疲労感……リアリズム!
 今回の作品は、照明が暗くなっていったん暗転するといった時間的な区切りが無く、三鷹芸術文化センターの壁があるかないかという違いで空間のみが変わる演出になっています。壁が開いて「本音」の世界が顕現する、もしくは元の「建て前」の世界に戻るきっかけは、最初の木原とカオリのシーンの始まりが「木原の予約電話」で、戻るきっかけが「カオリのイエス様への懺悔」、2回目のシゲオとスミコのシーンの始まりは文字通り「イエスの起こした奇跡」ということになって、物語は本音の世界の光景を建て前の世界の人々が見守るという形で終わります。

 要するに、最初に建て前の世界から本音の世界に入るのは「木原の欲望」がきっかけで、またそこから建て前の世界に戻るのはイエス様に懺悔をしたい一心の「カオリの理性」ということで、1回目の往還は木原とカオリの、本能と理性の非常に分かりやすい対決になっています。「いろいろしてほしいなぁ。」という木原のイノセントなだけになおさら始末の悪い本能に戦慄するカオリなのですが、自分の本能はさておいて木原の部屋におもむきはしても、「当店は健全店ですので……」という建て前とイエス様にすがって本音の世界から逃走するわけなのです。わかりやすいですね。

 ところが、ここでのイエスの対応から、様相はけっこう複雑になっていきます。イエスいわく、「カオリは本当に木原の性欲を嫌っているのか?」と問われるカオリ。さらにカオリの周辺には、同じくシゲオというカサノヴァに因縁の深い女性として、シゲオの今カノのスミコと元妻のアヤノ(演・原田麻由)が登場するのですが、どちらもスタイルに差はあれど性欲に関しては非常に開明的な人間として生きているのです。
 つまりこの作品は、聖書の教えをもとに世の中にある建て前をバカ正直に守ろうとするカオリの孤軍奮闘ぶりに焦点を当てながらも、実情はそんな建て前などかなぐり捨てて実にテキトーに生を謳歌している三鷹近辺の人間模様を描くことで、果たしてどちらの生き方が「幸せ」なのかを残酷に浮き彫りにしている観察記になっているのです。カオリははたから見ると、勝手にテンパって虚空に向かって懺悔したり、泣き出したり失神したりする(「神を失う」! まんまですね)半病人の状態ですし、カオリ以外のただ一人の純情人だったオサムも、スミコとシゲオの関係を知って精神を崩壊させてしまいますし……最早、現代日本は木原が語るような「性欲王国」そのものなのかと、まるで『平家物語』や『太平記』を観るかのような無常観にさいなまれてしまいますね。いや、内容的には『源氏物語』がいちばん近いですか。

 そう言えば、この作品の序盤にチラッと出てきた中国人のツアー客も、「原発処理水の海洋放出に抗議するイタ電を間違ってかけてごめんなさい」と謝りに来たという、めちゃくちゃ2023年的なエピソードを挿入するための単なる時事ネタ要員かと思われていたのですが、終盤で日本人たちに「お詫びのしるしに」というていでお酒をふるまうあたりが実に現実的かつ効率的で、言葉がよく伝わらない分、この作品での日本人のように2時間前後もぐじゃらぐじゃらくっちゃべっていないで、物でササっと解決してしまう非キリスト教社会じこみの剛腕を垣間見た思いがしました。しかもお酒がフランス・ボルドーのメルロワインなところが世界を股にかけるパクス・中国ーナと言いますか、これまた3、40年前の日本を見るような思いがして、ここにもまた「ほろびの足音」を聞いてしまうのは、私だけでしょうか。むかしのひかり、いまいずこ……
 それが良いか悪いかは別としましても、世の中はカオリのようにマジメ正直の一点張りで自分の言い分を通そうとしてもそれは通りにくく、やはりそれなりの「つけとどけ」は必要なんですよ、というドライな法則をはっきり提示する好例だったと思います。

 そうそう、この作品にイエスが出てくることの最大のおもしろさは、そういった人情カラッカラ状態の現代日本を、何もできない、何もしないというスタンスで傍観しつつも、最後に人々に「萎れた花を見せる」という奇跡を起こすことで、「今の状態も、そうそう長く続くもんじゃないんだよ。」という人類普遍の哲理をしっかり提示してくれるという重要な役割を果たしてくれるのです。見てくれからしてどうしても神様のような特別な存在には見えないイエスなのですが、最後の最後にちゃんと「デウス・エクス・マキナ」にはなってくれるんですよね。まぁ、中盤でも地味~にカオリを蘇生させる奇跡を起こしてくれてたようなんですが。
 いずれ萎れる花ならば、思うさま欲望に忠実に咲きほこるのが良いのか、それともつつましやかに迷惑かけずにたたずむのが良いのか……人それぞれでいいと思うのですが、その百花繚乱の庭園をひとり散策する本作のイエスの姿は、どこからどう見ても芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のお釈迦様の姿に瓜二つといいますか、オーバーラップするものがあると思います。あら、こんなところにラフレシア、みたいな。

 さて、ここまで意図的に避けて感想を述べてはきたのが、この作品を観劇した方ならばほぼ100% の確率でいちばん記憶に残るインパクトを残したシーンは、やはりどうしてもラストでイエスが見せた奇跡の中に現れた「シゲオのアレがアレに」という衝撃のオチだったかと思います。オチてるか……? まさしく現代社会の混沌を象徴する演出でしたね。

 いや~……嫌な光景! その演出自体を見ると、さしてビックリするほどでもない、2人1組でやる宴会芸みたいなものなのですが、やってるのが実の父子ですからね。おぞましい!! 別に映画みたいにお金をかけた特殊技術を投入してるわけでもなく、絵画や音楽のようにじっくり時間をかけて作り上げた作品を掲げているわけでもない、それなのに、あんなにエグく、残酷で、忌まわしく、それでいてもはや笑うしかない状況を創造してしまうとは……これを舞台芸術の唯一無二の魅力と言わずして、一体何を魅力と言うのでしょうか!?
 いやホント、度肝を抜かれてしまいました。お金をかけずにここまでおぞましい地獄を召喚してしまうとは。演出の山内ケンジさんの発想力も当然すごいわけなのですが、それに賛同して演じきってしまう父子もそうとうイカレていると思わずにはいられません。俳優として演じるだけでなく、人間として何かをかなぐり捨てないとできない悪魔的な所業ですよ。どっちも、かなりイヤだったろうに……見てる客がいようがいまいが、あんなことは絶対にやりたくない!! 地獄の業火のごとき演出を堂々と演じきる父子の生きざま……まさにこれ、令和の父子鷹!! そういえば、勝海舟の股間にも父子の愛を象徴する逸話がありましたね。よし、つながった(白目)!!

 そういえば、私が今回のお芝居を観るために三鷹芸術文化センター(本物)にいそいそとおもむいた時、センターの建物脇にある駐車場みたいなスペースの暗がりで、出演の岡部たかしさんらしき方がタバコを吸ってらしたんですね。
 街灯も当たっていない場所にいらしたので確たる様子はうかがえなかったのですが、あの人生ゲームのコマみたいな長身の体躯は岡部さんかな~、なんて思いながら私は通り過ぎたのですが、その時かなり険しい表情で猫背ぎみに喫煙されていたのが妙に心に残りまして、その後作品を観て、その苦悶の理由がよく分かったような気がしました。そりゃ、あんな仕事をしなきゃなんないんだもの、あんな顔にもなりますわ……

 本作が出演俳優の方々の人生・人格を反映させたアテ書きである、などという妄言を吐くつもりは毛頭ありませんが、それでも、本作のシゲルとオサムをあの岡部父子が演じているという意義はそうとう甚大なものがありますし、逆にあのお2方でなければ、どんな名優が演じても、今公演ほどの効果を上げることは不可能であろうと思います。恐ろしい! 実に恐ろしい悪魔の演出です……岡部父子の、特にひろきさんの精神的負担をかんがみれば、この作品はどんなに評判になったとしても再演するべきではない禁断の作品なのではないでしょうか。ていうか、今回も14回もこれやるんでしょ!? 無理だ~! 自分の身に置き換えてみたら、絶対ムリ!!
 俳優の世界で、父子もしくは母子の相克なんていう話はよくありますし、現に本作でアヤノ役を演じられた原田さんの御父上も日本芸能史上にその名を遺す名優であらせられるわけですが、こんな形で対決した親子俳優なんて、聞いたことがねぇよ……佐藤浩市さんでもやらないでしょ!! 当たり前ですか。

 そんなわけで、この作品は序盤は性的流浪人の木原、中盤は苦悩のひとカオリ、後半は業務中に精神崩壊しかけるオサムあたりが物語の主人公なのかな?というバトンリレーが続くのですが、終盤のイエスの奇跡が起きたあたりで、実はねずみ男級に始末の悪いトリックスターであるところのシゲルが主人公=萎れた花だったという帰結にたどり着きます。そして、オサムとあんなことになっちゃう伝説へ……

 一見、登場人物たちの中で最も自分勝手で、周囲の人達の気持ちなぞ洟にもひっかけず好き放題に生きているようなシゲオなのですが、そんな彼がなぜ最後にスポットライトの中心に残ってしまうのかといいますと、それはやっぱり、聖書の教えに忠実に生きようとする、つまり愛することに真剣であるがために蓄財するヒマもなく放浪するハメに陥ってしまう、きわめて太宰治的な誠実(!?)人物シゲオという逆説的なイエス像が浮かび上がるからなのではないでしょうか。度を過ぎて誠実であるがために、誠実とは正反対の社会的廃棄物に見えてしまうという、この哀しみ!!

 だからこそ、最後のシーンで萎れたままになっている花を目の当たりにして当惑するシゲオの姿は、遊び人の末路というか人生の斜陽を如実に表す痛切きわまりないものであるだけでなく、イエスが全人類に見てほしい「愛はすばらしいが対象(スミコ)に執着することはいけない。」の、この上ない実験症例になりえたのではないでしょうか。イエスにしてユダでもある男、シゲオ……
 この、放蕩中年が放蕩老人になってゆく哀しみを残酷に、しかし誠実に描く山内さんの視点は、内容こそまるで違うかもしれませんが、あの聖タルコフスキー監督の『ノスタルジア』(1983年)とか『サクリファイス』(1986年)にも比肩しうる冷徹さと愛情に満ち溢れたものになっていると思います。蝋燭もってフラフラするとか自分の家を一軒焼くとか、いくらご本人の中に相当な論理と覚悟があろうが、世間的に見れば本作のシゲオと同様に「どうかしちゃってる人」以外の何者でもないですしね。

 ただ、ここでちょっと気になるのは、自分の気になった女性に対して正直誠実にアタックするシゲオと、気になる女性(スミコ)に対して自分の思いをなんにも表明せずに傍観しておきながら、いざその女性が婚約するとなったとたんに異様に取り乱すオサムとで、果たしてどちらが異常なのかという問題です。オサムにしてみれば、スミコの相手が父シゲオだから嫌なんだと言われそうなのですが、今回のシゲオほどではないにしても、別になんにも言ってなかったのに自分の決めたことに勝手に動揺するオサムの姿は、スミコにとってははた迷惑というか、「言いたいことあるんならはっきり言えよ」としか思えないうっとうしさに満ちたものなのではないでしょうか。だからこそ、スミコはオサムよりもよっぽどわかりやすく正直なシゲオや木原とすぐに意気投合できるのでしょう。
 ここらへんの中年男性の妙に少年っぽいタチの悪い魅力は、タイトルがまんまの、同じ山内ケンジさんがメガホンを執った映画『友だちのパパが好き』(2015年)でも活写されていたかと思います。おっさん、この迷惑きわまりなき、愛すべき存在……でも、それに同世代のフニャラフニャラした男性以上の魅力を感じてしまう女性もちゃんと描かれているんですよね。

 ただ、今回の作品では、それぞれの個性はありながらも、スミコ、カオリ、アヤノという三者三様の世代を通して、蝶よ花よと今を咲きほこるスミコにも「萎れる時は来る」という残酷な真実を暗示する意味合いで、やたら暗い悲劇の人物カオリを登場させた意義は大きかったかと思います。「執着するな」ったって、旦那がいれば子どももいるし、日々を生きるためにはお金もいるしで……そんなんム~リ~!


 そんなこんなでございまして、今回の城山羊の会さんの『萎れた花の弁明』は、最後の最後で実に城山羊の会さんらしい演劇ならではの驚愕のオチこそ炸裂しましたが、全体的には面白おかしくも、そこはかとない落日感というか無常観をしみじみ感じさせてくれる、黙示録のようにおごそかないぶし銀の一作になっていたかと思います。「いや~腹がよじれる程おかしかったよ!」とか「最後らへん涙でよく見えなかった……」とかいう単純明快なエンタテインメントではないと思うのですが、「なんか面白かったんだけど……こわっ。」みたいな、底の知れない、城山羊の会さんでしか味わえないテイスト100% の作品だったのではないでしょうか。年に一回でも、確実にこの味わいの作品を楽しめるということは、本当に幸せなことです。人生、死んだらおしまいですもんね……山内ケンジさん、これからもどうかお元気で!!

 西にデイヴィッド=リンチあれば、東に山内ケンジあり!!

 城山羊の会さんの孤高の花の萎れる時は、まだまだま~だ来ないのであります。また三鷹に行けるのを楽しみにして、私も一年間がんばるぞ~☆
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ぼくらはまだ、旅の途中 ~三条会『ガリバー旅行記』~

2019年12月31日 21時14分12秒 | すきなひとたち
 どうもこんばんは! そうだいでございます。いや~、いよいよ年の瀬ね。
 改元して最初の年越しですね。なんだかんだいってましたが、いちおう山形もそれなりに寒くなり、雪も降るようになってきました。でも、午前中はまだ雨だったんだよなぁ。
 令和、どうですか、皆さん? おだやかにお過ごしでしたでしょうか。
 私はといいますと、相変わらずお仕事であくせくしてはおりますが、昨年度に比べてだいぶ楽に働かせていただいておりますので、大病することも大ケガすることもなく、無事に年を越せそうであります。
 今年いちばん大変だったことっていっても、そんなに大したことはなかったなぁ。
 強いて挙げれば、庄内地方に出張した時に忘れ物をしちゃって、夜中に月山道を往復するハメになっちゃったくらいかな。トータル200キロですか。夜中の月山は霧がすごくってねぇ。むしろ道ばたに人がいた方が怖いっていう、文字通りの「人外の地」と化してましたわ……楽しかったから良かったですけど。

 そんなこんなで例年になく平和に過ごせた2019年、令和元年だったのですが、年の瀬に恒例の演劇鑑賞ということで、東京に行ってまいりました。

三条会公演 『ガリバー旅行記』 (2019年12月26~29日 下北沢ザ・スズナリ)

 毎年の年末に(あっちょわ~、これ私の記憶違い! 年末恒例じゃありませんでした……)東京・下北沢で行われる三条会の定期公演。今回は過去上演作品のリニューアルではなく、完全新作ですね。
 お題は、アイルランドの作家ジョナサン=スウィフトのモキュメンタリー小説『ガリヴァー旅行記』(1726年)ということで、う~ん、30年ぶりの改元があり、来年は東京オリンピックがあるこのタイミングでこの作品を選ぶとは! おやりんさる。

 原作小説は、「理想のユートピアを見つけたぞ!」から、「でも住んでみたらダメなとこばっかでした……」というオチにつながるパターンが続く、脱力系の「世の中そんなもんよね」的風刺小説ですね。
 今回をきっかけに読んでみたら、びっくりするほど読みやすかったですね。そして、言ってることというか、スタンスが『奴婢訓』(1731年)とまるでいっしょなのが面白かったです。いや~、スウィフトさんとは呑みたくないなぁ~!

 物語の内容うんぬんに関しましては、お話自体、ちょっと大きな書店に行けばたぶんいずれかの出版社の文庫版が売ってあるくらいメジャーなものですのでくだくだと申さないことにしますが、観劇した感想としましては、やっぱり今回も、ものすごくおもしろかった!!
 おもしろかったと同時にびっくりしたのが、原作の主人公ガリバーの心持ちに恐ろしいまでに肉薄した内容になっているがために、演劇を通り越して「旅」に近い感覚の娯楽になっているということでした、今回の公演が!
 これはまいりました。もちろん、劇場の中で上演されて、ある程度決まった時間の中で終了する以上、演劇であることに変わりはないのですが、外に出て歩き回ったわけでもないのに、なんかすご~く長い時間、知らない国々を旅していたような気がするし、なにかを実際に体験して帰って来たかのような感覚を得ているのです。

 演劇っぽくない、というか。いや、それは単に、私の少ない経験からくる「えんげきってこんなん?」という思い込みの範疇を超えているだけのことで、「本物の演劇」というものは、そもそもこのくらいの力を持っているのかも知れません。
 なぜなのだろう……まず思いつくのは、「演劇に出演している」というつもりで舞台に立っていない人物……いやいや、犬物が物語のそうとう重要なポジションを担っているからでしょうか。
 単なる出演者のペットとして、なんかじゃありません。堂々たる出演! しかもガリバーを相手にある国を代表して対話する主権者フウイヌムとしてですよ。
 あれ、ご本人じゃなくてご本犬たちは、その状況をどこまで理解しているんですかね? 「なんか普通の散歩じゃない。」「家のリビングでもなさそう。」「うわっ、かなりいっぱいの人達が、暗がりからこっちを観てる!!」っていう膨大な新情報をどう自分の中で処理してるんだろう?
 ただ、私が観た回では、公演日程の終盤だったせいか(28・29日)、客として観て不安になるような素振りは全くしていませんでしたね。落ち着いてたなぁ! たまにどっかに行こうとはしてたけど。

 もちろん、トキコさんもパブロフさんも、経験の積み重ねがあって覚える部分もあるのでしょうが、それでも、「演劇としての段取り」を身につけようとはしないまま舞台に立っているわけで、そうなると、自然その方々に対する人間の俳優陣も、演劇としての段取りを使ってもしょうがないということで、別の向き合い方が必要になるわけです。まさか、とって喰われるという危険はないでしょうが、人間の俳優を相手にしているのとは、たぶん全く違うチャンネルの作法とか、緊張感が生まれるんだろうなぁ。

 「旅行」っていうのは、結局「日常じゃないもの」に出会いに行くというおこないだと思うのですが、演劇をしてる人にとって充分に日常じゃない空間を提示するのが、「共演者が犬だ」という条件ですし、演劇を観に来た人にとっても、「舞台に犬がいる、しかもけっこう長い時間!」という情報はそうとう日常じゃない風景なわけなんですね。なるほど~、だから旅行っぽいのか。

 主人公(今回はガリバー)の視点が常に中心にあり、その周りでさまざまな物事がめまぐるしく展開していくという構図は、今パッと思いつくだけでも、三条会の過去の公演でいえば三島由紀夫の『近代能楽集』の『邯鄲』とか、夏目漱石の『夢十夜』とかが思い浮かびます。日本の幻想文学史に目をやりますと、奇しくもスウィフトの『ガリヴァー旅行記』とそう変わらない寛延二(1749)年の夏に、今の広島県三次市で「ほんとにあった事件」という触れ込みで記録された『稲生物怪録』というとんでもない奇書がありますね。これは旅ではありませんが、稲生平太郎という当時16歳の少年の家に30日間毎晩毎晩妖怪が出続けたという、「ヘンな夏休み」の克明な記録です。いっぽう映画でいいますと、『夢十夜』にインスピレーションを得たという、黒澤明の『夢』が、主人公が狐の嫁入りだの等身大ひな祭りだの、ゴッホの絵だのといったいろんな世界を旅するという構図になっていますよね。

 ただし、今回の『ガリバー旅行記』がそれらとちょっと違うのは、よりはっきりと主人公ガリバー(になろうとする男)が物語の中心にい続けているのに、最後に彼が明らかに変容して退場することによって、ついに物語が終わる、というところなんじゃないでしょうか。
 たぶん、主人公が「本当の旅行」に行く準備を終えた、というところで、今回の物語は終わってるんだろうな。じゃあ、それまでの一連の流れは、単なるシミュレーションだったのかしら? いや、でも、物語の始めの主人公とはまったく違うたたずまいになっているという意味でいえば、主人公はすでに、ひとつのちゃんとした旅を終えていると言えるのかも知れないし……深いね~!

 「だいたい行く所や観る物が決まっているパック旅行」よりも旅であり、「日本の猿回しとかロシアの熊サーカス」よりも動物が動物らしく、「動物園」よりも動物がそこにいておもしろい空間。それこそが、今回の三条会『ガリバー旅行記』であった、ということになるのでしょう。要するに、おもしろいということなんです。
 なので、「爆笑! 爆笑!!」とか、「あの長ゼリフ、よく覚えたなぁ!」とか、「すっごいアクロバティックな殺陣!」とかいう誉め言葉を全く必要としない演劇(もちろん、そういった要素もあるにしても、そこで勝負をしていないという意味で)なもんですから、やっぱり三条会は令和元年も、「唯一無二の三条会」であり続けているんですなぁ。

 「動物といっしょに演劇をする」というのも、馴れればおそらくは日常になっていくわけで、たぶん練習の日数とか公演回数のさじ加減、難しかったんだろうなぁ~。
 さじ加減といえば、大きく出てしまいますが、演劇に関わらず、人生って、仕事も私生活も「分かりきったお約束」だけじゃあつまらないですし、「予測もつかない非日常」の連続じゃあ心身がすり減ってしまいますし、安定と緊張のさじ加減がとっても大切ですよね。
 わたくしの今現在のお仕事は、まぁ私自身いまだに一人前に働けていないという体たらくもありますし、けっこう予測不能な事態も多い現場ですので非常事態感覚は適度に補給できているのですが、演劇の世界って、続ければ続けるほど非日常が日常になってくるような気がして、大変なところだな~!と余計なお世話すぎる思いをはせてしまいます。

 でも、「演者が馴れてようが病んでようが、観てる人がおもしろければそれでいい」っていう娯楽のかたちも、『ガリバー旅行記』の中の「大人国」でちゃんと語られてるという……要は「悩むな、楽しめ!!」ってことなんでしょうか。人生だねぇ~!!
 そうそう、特に「人類以外の動物が出演している」というポイントだけにこだわらずとも、今回の作品もまた、人の心の機微をんまぁ~繊細に捉えた印象的なシーンが多かったですね。私がいちばん感嘆したのは、最初のリリパット国で、皇居の火事を消火したガリバーが、その消火方法が原因で追放されてしまうくだりと、それを受けて去るガリバーの背中の哀しさでした。
 「わ、私はただ、よかれと思って……」という言葉を飲み込みつつひとり去っていくガリバー。演技と演出、照明と舞台、音響がひとつとなって、ある人生における情けない一コマを活写していたと思います。あるある! 少なくともわたくしは、そんな無数の失敗の積み重ねで、今生きてきてますよ!!
 人は魚、世の中は海。みんな絶え間なく泳ぎ回っていて、行く方向がたまたまおんなじになって喜ぶ時もあれば、完全なすれ違いになってさよならする時もあるんですよね。考えが一致するなんてこたぁ、まずないんだろうなぁ~!!
 やっぱり、人生は果てしない旅、なのかねぇ。うわ~、頭の中で、中島みゆきが流れてきた~!!

 旅行に近い公演といえば、同じく三条会の、数年前にあった「千葉都市モノレール内公演」が記憶に新しい……というか忘れられない思い出になっております。
 ただ、あれが2000年以上ある日本の歴史の中でたった1回数十分、しかも観客(というか目撃者)が100人にも満たないというもったいなさだったのに対し、今回は定期公演というかっちりした形式で間口を広げながらも、がっつりと、あのドキドキを進化させたものになっていたのには、感服いたしました。

 そして、ここまで全く触れてきませんでしたが、そういった「人類でない出演者がいる」という状況だったり、そもそも「300年前の外国の小説をおもしろく上演する」といったりした恐るべき冒険旅行に果敢に挑戦し、見事な収穫を見せつけてくれた俳優陣にも、これは賛辞の拍手を贈らずにはいられません。
 客演の方もけっこう多いというのに、なんでこんなに一体感のある、バランスの取れた集団になっているのか……不思議で仕方ありません。やっぱり、全員で道を探していくと語られていた、その稽古の過程に秘密があるんだろうか。
 こんな言い方をすると実もフタもないのですが、演出のフォローによって俳優陣を実力以上によく見せるという、いわばアンプもスピーカーもふんだんに使った大音響ライヴっていうのが、「なんか若いなぁ!」っていう感じの演劇だと思うのですが、最近の三条会のお芝居って、完全に俳優さんおのおのがたの実力でしか勝負しない室内楽アンサンブルのような魅力にあふれているような気がするんですよ。音を響き渡らせるのは演者の仕事、ちょっぴりハズれてしまった時も、責任を取るのは演者の仕事という。かといって、演出が何もしていないわけでは全くないということは、ここまでしつこくつづってきた通りであります。
 なので、「もっと広い会場でやろう!」とか、「1ヶ月ロングランだ!」という野心でカンパーイ☆な集団のあり方とは対極の位置にありながらも、演出や俳優にかかる負荷は同じかそれ以上に重いというシビアな世界に、現在の三条会は身を置いているのではなかろうか、と。それで、作品の中ではあのように笑顔で楽しそうに演じてるんだもんなぁ。これは、すごいことですよ。

 勢いだけでもない、技術だけでもない。それ以上に広大な演劇の可能性を体現してくれているのが、この21世紀の日本における三条会のあり方なのではないでしょうか。
 みなさん、これからも頑張ってほしいですね……今のみなさんだったら、何だってやれる! 言われなくてもわかってますか。

 三条会の『ガリバー旅行記』は、空港の荷物受け取り口のような場所で職員が挨拶をしている場面から始まって、最後もそれとまったく同じ配置でしめくくられます。
 私たちは、まだ旅に出ていないのか? もう旅から帰って来たのか? それとも、全てが旅の途中なのか……
 なんとなく、終演して劇場からおのおのの家へ帰っていく道から始まる、お客さん一人一人の「それ以降の人生」に対して、俳優さんがたが「お気をつけて!」と見送っているような気がしなくもない、エンディングなのでありました。おもしろいねぇ~!!


≪余談≫
 今回、この『ガリバー旅行記』のあるシーンに触発されて、渋谷の映画館で衝動的に映画『スター・ウォーズ エピソード9』を見てしまいました。
 いろいろ賛否両論の激しい作品ですが、『スターウォーズ』サーガ中、ちゃんと見ているのはエピソード2・3・4・5・6と『ローグワン』、いちばん好きなキャラクターは「グランドモフ・ターキン」という門外漢のわたくしの感想としましては、最後の最後のワンカットが「ちゃんと旅の終わりっぽくなっている」という理由から、まぁよろしいんじゃなかろうかと思いました。
 しかし、あの主人公の女の子、目の力がバンカラの学ランを着ててもおかしくないくらいに男らしかったなぁ!! ハリウッドで実写版『うる星やつら』が製作されるとしたら、竜之介はあの娘だな。「オレハ男ダー!!」って絶叫しながらライトセーバーぶんまわしてほしいです。
 「レイ」と「レン」がまぎらわしい。
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過程と結論、その決闘にも似た落日の輪舞!! ~城山羊の会『自己紹介読本』~

2016年12月12日 00時47分19秒 | すきなひとたち
 みなさま、どうもこんばんは~。そうだいでございます。今日も一日……っていうか、昨日か。昨日も一日お疲れ様でございました!
 いや~、今年もきちゃった、年末が……忙しい! 忙しいにも程があるぞ、今年の師走は!!
 わたくしの働く職場は、もう10月くらいから来年の年度末まで約半年、毎月の大仕事の連続で常に忙しくなるのですが、特に私、今年度からけっこう大きめな担当を任されることになっちゃったからよう! 大変なんですよ……とは言いましても、なんてったって2年目のペーペーでございますから。
 毎日が新しいことの連続で、もうタイヘンなんでごぜぇますよぉ。個人ブログなんだからグチの一つも言わせてくださいやぁ。

 ま、そんなこと言っても、つい先日に東京にお芝居を観に行っちゃったんですけどね。

 お、お待ちください! 「どこが忙しいんじゃ」と石を投げるのはおやめになって! 今回はど~しても、万障繰り合わせてでも1泊2日の都合をつけて観に行かなければならぬ公演だったのでございます!!
 首もしまりますよぉ、そりゃ! 貴重な休日をまるまる使っちゃうんですから。でも、そういうタイトな時の旅行こそ楽しいんですよね~! まぁそこは新宿の片隅にあるビジネスホテル泊りだったわけなんですが、つかの間ながらも、ゆっくりと久しぶりのひとりの時間を楽しむことができました。いい旅だったね……
 さて、そうまでして遠出して観に行きましたるお芝居とは、こちら!


城山羊の会プロデュース第19回公演『自己紹介読本』(2016年12月1~11日 下北沢・小劇場B1)


 やっぱ、そうなるだろ~! 城山羊の会さん恒例の年末公演。今年の締めも、これで決まりですよね! ちょっと早いか。

 前にも他の記事で言ったかもしれませんが、私はこの『長岡京エイリアン』を始める前の、千葉県在の劇団員だった頃から折に触れて城山羊の会さんの公演は拝見させていただいておりまして、確か最初に観たのは第6回公演の『新しい歌 ~tyto nove pisnicky~』(2008年11月20~27日 神楽坂シアター・イワト)だったかと思います。もう8年も前のことになりますか……
 それ以来、全公演とは言えないもののお芝居はちょくちょく観に行っておりまして、作・演出を務める山内ケンジさんの映画監督作品も2作、劇場で楽しんでおります。でも、つい先月に公開された第3回監督作品の『 At the terrace テラスにて』(おととしに上演された第16回公演『トロワグロ』の映画化作品)は観てないんだよなぁ! 誠に残念無念なのですが、先ほど申したような現況でしたもので、先月の映画と今月の今作とで天秤にかけざるを得なかったのです……地方暮らしの貧乏人はこりだがらダメだず!

 ちなみに、我が『長岡京エイリアン』にて、山内ケンジさん作の諸作についてくっちゃべった記事の一覧は、以下のようになっております。

山内ケンジ第1回映画監督作品『ミツコ感覚』(2011年12月公開)

城山羊の会プロデュース第13回公演『あの山の稜線が崩れてゆく』(2012年11月29日~12月11日上演)

城山羊の会プロデュース第15回公演『ピカレスクロマン 身の引きしまる思い』(2013年11月29日~12月8日上演)

城山羊の会プロデュース第16回公演『トロワグロ』(2014年11月29日~12月9日上演)

城山羊の会プロデュース第17回公演『仲直りするために果物を』(2015年5月29日~6月7日上演)

城山羊の会プロデュース第18回公演『水仙の花 narcissus』(2015年12月4~13日上演)

山内ケンジ第2回映画監督作品『友だちのパパが好き』(2015年12月公開)


 ところで私、演劇作品って、生で劇場で観なければその真の面白さが味わえない娯楽だと思うんですよ。
 確かに演劇は、映画や TVのように作り手と観客、双方ともなかなか融通の効かない部分が多く、俳優さんがセリフや段取りをトチってもやり直しはできませんし、見ている人だって、尿意を催しても隣の人の鼻息が気になってもガマンして終演まで座っていなければならないという点は映画とおんなじなんですが、当たり前ながら公演回数も劇場数も段違いに小規模だし、しかも観るだけで一回数千円とか……いろいろと敷居が高い!
 でも、それなのに。芸術史の中でも屈指にアナクロな芸術なのに、ギリシア悲劇から2500年たった現代でも演劇がすたれないのは(隆盛もしていないかも知れませんが)、やはり劇場という一つの空間の中で、同じ「戻せない時間」を作り手側と観客側とが共有する緊張感があるからなのではないでしょうか。そして、そういうピリピリしたスリルを味わう醍醐味があるからこそ、テキトーに家で寝そべりながらでも楽しめる娯楽だってあるのに、わざわざ時間とお金と手間をかけて劇場にまで足を運びたくなる魅力が生まれるのでしょう。

 それに、こうやって演劇を観た感想をブログにあげるという行為は、その公演が終了してしまうと、実際に観た人以外にとっては何の意味も無いですよね。だってその記事の言ってることがホントかどうか、作品を観て確かめることが永久にできないんだもん!
 再演とか、公演の記録映像とかいうチャンスもあるわけですが……それは全く別のものになってしまうと思うんだな、空気感が味わえないから。

 じゃあ、なんで私は城山羊の会さんのお芝居を観た感想をしょうこりもなくブログにあげてしまうかと言いますと、それはまぁ、ひとえに「あの時なぜ面白く感じたんだ、俺は!?」という疑問を間違いだらけでもいいから自分なりに解決させたいという、自己満足きわまりない欲求からなんでしょうね。
 そうなのです、城山羊の会さんの魅力はきわめて「謎」! 謎な面白さなのです。私の脳みそではすぐに面白さの真相を突きとめることは無理ですので、こうしてモーモー牛さんのようにもぐもぐ反芻して謎を解き明かそうとあがく次第。

 そんなこんなで、いい加減に今回の公演の感想に入りたいのですが、私なりに今作の内容を一言であらわしますと、

「過程」組と「結論」組、男たちと女たちの紅白大混戦!!

 ということになりますでしょうか。今回も、言うまでもなく非常に面白かった。しかし同時に、急に「ヒエッ……」と戦慄してしまうような恐怖さえ感じてしまう鋭さも持った精巧な傑作だったかと思います。

 本作の舞台は、どうやらある都市にある公園の一角のようで、近くにあるらしい工事現場からはドリルの音が断続的にけたたましく鳴り響き、円環状に配置された石かコンクリート製のベンチのそばにある小便小僧のオブジェの噴水は、工事の影響か水が止まった状態になっています。時間は夕刻なのか、舞台照明は最初から最後まで西日のようなオレンジの暮色となっており、本編途中のある一瞬を除いては全く暗転せず、上映時間の約90分と同じリアルタイムの時間が流れる一幕一場作品となっています。
 公園の一角という舞台設定からしてそうなのですが、作中には初対面となる人物たちが多く登場し、作品のタイトル通り、それなりの「自己紹介」が必要となる出遭いが交錯します。

 まず、互いに初対面のミサオ(演・富田真喜)と増淵(演・岡部たかし)という男女がベンチに距離をあけて座り、増淵からミサオに自己紹介が行われます。その後、ユキ(演・初音映莉子)とカワガリ(演・浅井浩介)という若いカップルが現れるのですがこの2人はミサオと待ち合わせをしていた友人だったため、増淵からせかされる形で2人もしぶしぶ自己紹介をします。
 さらにその後、今度は増淵の勤める市役所の後輩という、元自衛隊員の曽根(演・松澤匠)が現れ、増淵もまた待ち合わせで公園に来ていたということが分かります。ここで増淵からのミサオら3人の紹介を受ける形で曽根の自己紹介が行われ、最後に曽根から呼ばれた柏木(演・岩谷健司)と和恵(演・岩本えり)という熟年夫婦が現れ、曽根が先輩の増淵に引き合わせる形で、柏木夫妻もまた自己紹介をするのでした。

 まぁ、お話はだいたいこういう骨子のようなのですが、ミサオ・ユキ・カワガリのグループと増淵・曽根・柏木夫妻のグループは、やたら自己紹介をしたがる、させたがるトリックスター増淵の活躍によってぐちゃっと癒合し、「なんやかんやあって」夕食を一緒に食べようという流れになるのでありました。

 この「なんやかんやあって」ですよ。ここ! こういう過程の部分は、普通の日常生活の中では真っ先に記憶の中から消去されて、先に言ったような「いついつにだれと会った。」という要旨しか残らないのが常かとは思うのですが、この「なんやかんやあって」の過程を、ファーブルかシートンのように偏執的に観察してクローズアップするのが、城山羊の会さんなのであります。まず、この日常世界で重要になるはずの主食主菜がぽいっとどこかに追いやられて、あってもなくてもいいようなふわふわした何かがお皿の真ん中にドンッと載せて提供されるという主客転倒ぶりがすごいんですよね。脳みそがシャッフルされちゃうぅ!

 そして、ここが本作の面白いところであると同時に怖いところなのですが、対峙した初対面の人々は、無責任に相手のことを知りたいし、周りの人にもその人のことを知ってもらいたいという異様な社交性を持つ増淵の活躍によってやたらと感情が衝突しやすくなり、大声を出したり泣き出したり吐き気を催したりと、ちょっと自己紹介をする時点の場とはにわかには信じられない修羅場の様相を呈するのです。なぜ!?

 なぜ自己紹介をし合っているだけなのに、登場人物たちが内面のけっこう深いところを暴かれたような気がしてギスギスしてしまうのか。それは、各自が持っている「過程」と「結論」に対する価値観がみごとにバラッバラになっているからなのではありますまいか。

 まず、今まで言ったように増淵という人間は、確かに積極的に他人のことを知りたがり、そのために自己紹介を時と場所に関係なくいきなり切り出してくる人ではあるのですが、喜劇的に鈍感なだけで極端に異常な人ではないように見えます。これはつまり、「とにかく知りたい!」というか、相手が誰なのかという「結論」を知ることが最優先で、そのためならば聞いていい頃合いを待つとか距離感を詰めるとかいう「過程」はかなり軽んじてしまう人物であるということでしょう。将棋の香車みたいな人ですね。そのポジティブさはいいのですが、使い勝手が……

 しかしその一方で最初に出会うミサオはと言いますと、なにはなくとも「過程」至上主義である生きざまがうかがい知れます。
 そのヒントは作中のあらゆる言動に息づいているのですが、その一例を挙げると、彼女は増淵が言い当てた彼女の職業「学校の先生」を、ユキに答え合わせされるまで一貫して「違う」と否定し続けます。
 当たっていたはずの増淵をなぜああまで頑なにミサオが否定していたのか? その理由は「質問された時点でミサオは教職を辞していたから」という屁理屈を抜きにすると、それはもう「ミサオのことを順を追って知る」という「過程」をちゃんと踏まずに当てずっぽうだったから。これしかないと思うのです。つまり、ミサオは「結論」が正しかろうが、「過程」が無ければ絶対に認めない人物であることがよくわかります。
 ミサオが典型的な「過程」人間であることを考えると、彼女が学校の先生を辞めることになった原因もよくわかりますし、そこから、ミサオと対照的な生き方をしているように見えるユキが、ミサオとは真逆の「結論」人間であることも芋づる式にほの見えてきます。
 こと今回のお話でクローズアップされることの多い「男性関係」を例にとってみますと、ミサオはなにかと接触することの多い職場で知り合った生徒さんと交際したがために、社会的に相当まずいことになって教職を辞めることになってしまいます。これは、交際に至るまで相手のことをじっくり知りたい、知った気になりたいという「過程」やシチュエーションを重視するが、その一方でそれがどのような末路をたどるのかという「結論」なぞ知ったことじゃないというミサオの人間性をみごとに言い表しているではありませんか。
 その一方でユキはというと、よく言えば社交性が高いということになるのでしょうが、交際する男性は職業がなんであろうと国籍がなんであろうと、相手の素性がどうこういう「過程」にはあまり頓着せずに、とりあえず気持ちよくなりたいという「結論」を猪突猛進に追い求めるお人であることがうかがい知れるのです。
 牽強付会ですかね……でも、この「過程か結論か」という基準で見れば、ミサオと増淵、ミサオとユキが物語の序盤で全く合わないのも、増淵とユキがなんとな~く呑みに行こうという流れになるのもスッと筋が通るような気がするのです。また、ミサオが中絶手術を経験することとなった「過程」を理解することをすっとばして、中絶ってどうなの?という「結論」だけを手っ取り早く聞き出そうとするユキに、ミサオが会う前から反感を抱いていた理由も、なんとなくわかるような気がします。

 そして、なにはなくとも物語のクライマックスで繰り広げられたミサオと増淵の「奇跡のコラボ」が成立したのも、過程(シチュエーション)を大切にするミサオの心を増淵のおふざけがズキュンと射抜いてしまったからなのではないでしょうか。そういう意味で解釈するのならば、本来ならば会わないはずの二人がああなってしまうという奇跡の象徴、それこそが、止まっているはずの小便小僧の尿道から「白い液体」がほとばしるという現象だったことに他なりません。ということは、あの像は小便小僧ではなく、羽根が破損したキューピッドの像だった……?

 もう一つ、私の妄説で言えばユキは「結論」派であるわけですが、そんな彼女は作中で、承諾なしに彼女の経歴をなし崩し的に語ってしまうカワガリにかなりイラっときますし、その挙句の果てに、自分の夫に、つまりは実の父親が誰かもわからない生まれ来る子の父代わりになろうとしてくれるという、カワガリの仏さまのような広い心の真意をつかみかねて疑心暗鬼に陥ります。これは要するに、カワガリが「ユキの性生活のことはとやかく言わない」という交際上のルールを順守しながらも、内心ではやっぱり恨みを抱いているのではないかという疑念があるからで、カワガリが口ではいいこと言いながらも、結局はユキの「過程」をほじくり返そうとする非「結論」派のように見えたから、それほどまでに動揺したのではないでしょうか。自分のことを分かってくれてると思っていた人が実はそうではなかった、自分の思い込みに過ぎなかったということに気づいてしまう、この寂しさ、哀しみ!
 もっとも、カワガリがほんとのところ「結論」派と「過程」派のどっちなのかは作中では明かされないのですが、もしユキと同じ「結論」派だったのだとしても、ユキの「性の喜び」とカワガリの「心の平安」とで、追い求める「結論」がまるで違うという悲劇が横たわっているのも、実に城山羊の会さんらしい哀しい暗示ではあるのですが。

 さて、この作品の前半のトリックスターは申し上げた通り自己紹介一本槍の増淵なのですが、後半に物語の世界をかき乱すのは明らかに、正体不明なうさん臭い権力のにおいのする柏木夫妻です。この「明らかに正体不明」という矛盾しまくりのキャラクターが登場するのも、城山羊の会さんの恒例ですよ! きたきたきた~!! いよいよ世間も師走だねぇ!!

 「結論」か「過程」かで言うと、柏木夫妻は明らかに自分たちの欲望や快楽の追求に実に正直な「結論」派ですし、柏木夫妻と増淵を引き合わせようと心づくしの手配をしたのにユキと一緒に呑みに行くというとんでもない理由ですっぽかそうとした増淵の仕打ちに激怒する曽根はカンペキに「過程」派だと思います。曽根、ふんだりけったり!

 城山羊の会さんの作品の世界での「夫婦」は、必ず何かしらの形で関係が破綻して冷え切っているようなイメージがあるのですが、それはやっぱりおのおのの人間性が、実際の世の中よりも露骨にむき出しになっているがために、合わない部分がはっきりしてしまうからだと思います。しかしそんな作品世界の中でも、今作に登場する柏木夫妻は、お互いへの不満も冗談めかしてあけすけに指摘し合える円満っぷりを披露していて珍しいな~、と思っていたのですが、その秘訣が「夜の趣味の完全な一致」にあることが終盤に判明するのは見事の一言でしたね。そこかよ! でも、そこなんだろうな~、結局、人間なんて。

 もう一つ見事だと私がうなってしまったのは、やはり終盤に明らかになった柏木さんの「職業」でした。いや~、これにはビックラこいた!
 だって、柏木さんの職業ほど、「結論」第一というか、むしろ「過程」がゼロでないとお願いできないお仕事なんか、そうそうないじゃないですか! 私は女性じゃないので確たることは言えないのですが、多分あんまり見知った人にはお願いしたくない話ですよね、あのへんって。いくら腕がいいと言っても、知ってる人は絶対ヤダ!!

 結局のところ、本作は約90分にわたり一触即発のようなヒリヒリした緊迫状態が公園の一角にて繰り広げられるわけなのですが、実のところ、かつての城山羊の会さんの公演にあったような流血レベルのカタストロフは発生せず、はたから見れば「初対面の人達が意気投合してどこかに食べに行く」という、恐ろしいほど何も起きない終着点を見出します。その中でただ一点、ミサオと増淵があんな関係になっちゃうという変化はあるわけですが、それがミサオと増淵という関係性の上では奇跡的なカップリングだったのだとしても、特に法を犯しているような「劇的な出来事」ではないわけです。いや、ああいう目的で街中の多目的トイレを一時占有するのは犯罪か? それにしても、あの日本の公共施設文化の粋ともいえる多目的トイレが、社会の中にポツンとドス黒い口を開ける無法地帯エアポケットとなるとは……世も末だねぇ!
 つまり今回の作品は、「ほんとに何も起きない」という意味で、これまでの城山羊の会さんの公演の中でも最も挑戦的でアグレッシブな作品であると言えます。お客さんの気を引くためにここで面白いハプニングを起こそうとか言う打算が一切なく、ただただひたすら人間の心の闇をあばくというか、一見仲良く互いを知っているかのように見えても結局は個人同士の思い込みのすれ違いでしかないという社会の正体を観察するだけ! でも、それをひとつのやたら面白いエンタテイメントに仕上げてしまう城山羊の会さんの、恐ろしいほどのレベルの高さを堪能させてくれる時間となりました。
 そうそう、怖い作品なんですね、これは! もしかしたら、城山羊の会さんの作品の中で、もっとわかりやすく笑えたり楽しめたりするものは別にあるのかも知れません。例えば、人間の無駄に高いプライドのバカバカしさとかもろさを的確に表現してくださる石橋けいさんが出演された作品なんかは、わかりやすい「笑いどころ」を見せてくれるという意味で今回の作品よりよっぽど見やすいと思います。
 でも、今回の作品は、今までのどの作品よりも高い地点に駆けあがっているというか、次元が違うところに行っているような気がするんですよね……『万葉集』とか『古今和歌集』じゃなくて、『新古今和歌集』のフェイズにいっちゃった、そんな感じでしょうか。わっかるっかなぁ~!?
 映画で言うと、アンドレイ=タルコフスキー的な挑戦っていうんでしょうか。あえて「何も起こさない」勇気と自信!! 常人にできるわざではありません。

 こういった「寸止め」の美学を象徴するように、本作で物語を引っ掻き回すトリックスターたる前半の増淵と後半の柏木夫妻は、そのムチャクチャな言動で周囲の人々の心をさんざんヒリヒリさせておきながらも、その実きわめて平和主義者で争いごとを好まず、柏木なんかは増淵と曽根のケンカを何度も身を挺して止めているのです。それなのに、めっちゃ台風の目のような不穏な存在なんですよね……

 不穏と言えば、一幕一場もの形式で淡々と進んでいく物語の中で、たった一度だけ、舞台がスポットライトひとつだけの照明に切り替わって、暗闇の中で不安そうな表情を浮かべるユキだけが照射されるカットが数秒入ります。
 ほんとに唐突に入るので非常に印象的な演出なのですが、これはそこに行くまでの会話の流れからして、ユキが周囲の男性どもを狂わせるような美女であるがゆえに「常に誰かに見られている」存在であるということを強調する意図があるようです。本当に異性から好奇の目で見られているのかどうかは抜きにしても、ことさらユキのビッチ感を敵視しているミサオの口撃によって、誰が父親なのかわからない子を宿しているユキの心に芽生える不安を表現するこの照明演出は、ミサオもカワガリも味方になってくれないという恐怖を鋭く描いていると思いました。
 恐怖と言うのならば、この後のカワガリが柏木夫妻に取り込まれる形で食事に参加しようと言い出す展開も、柏木夫妻の異常な接近の仕方に不審を抱いていたユキにとっては、孤立無援になってしまう恐怖以外の何者でもないと感じました。信用しきっていたカワガリもあっち側へ……これは恐ろしいですね!
 私はこの、安心しきっていたおだやかな世界が突如として砂上の楼閣のごとく崩壊してしまう恐怖に、「ゴア(流血)の帝王」と恐れられたハーシェル=ゴードン・ルイス監督の早すぎた伝説のホラー映画『2000人の狂人』(1964年)と全く同種の血なまぐささを嗅ぎ取ってしまいました。こわ~!! いや、誰一人として死なないんですけど、「無理が通れば道理引っ込む」を地で行く同調圧力の恐怖を活写しているという意味で、間違いなく今回の『自己紹介読本』は、「なにかの巨大な悲劇」へと続くはじめの一歩を克明に記しているような気がするのです。予言でしょうか? 杞憂に終わればよいのですが……

 ま~こんな感じで、今回もとりとめのないダベリに終始してしまったのですが、今回の城山羊の会さんの公演『自己紹介読本』は、明らかに今までの諸作とは一線を画す円熟期に入った作品であると感じました。大笑いするというよりも、唖然とした後で「はは、ははは……」という恐怖を紛らわせるための乾いた笑いが出てくるといった感じでしょうか。でも、面白さは岡部さん、岩谷さんといった常連俳優陣が十二分に保証してくれる安心のクオリティとなっております。ここが非常に頼もしいですね!
 「過程」と「結論」の紅白大合戦と言いましたが、その激闘の行方もまた、白黒はっきりせずになあなあで終わっていいのです。天使と悪魔、にぎみたまとあらみたま、アンパンマンとばいきんまん……終わりのない人間の心と心の闘いは、疲れたら手に手を取り合っての『蛍の光』の斉唱と打ち上げでいいのではないでしょうか。おなかがすくだけですから。

 いや~、今回も帰りの新幹線の中で思いッきり脳みそをぐるぐるフル回転させていただきました。城山羊の会さま、いつも高コストパフォーマンスな至福のひとときをありがとうございます!!
 それにしましても、ついに「何も起きない90分間」を、「過程と結論のバトル輪舞」という一流のエンタメ作に昇華させてしまった以上、次なる作品は一体那辺の境地にまで旅立ってしまうのか……観るのが怖いようで、めっちゃ楽しみですね~。

 なにはなくとも、今年の締めに非常にふさわしい観劇旅行でございました。さぁ~、今年もあともうちょっと。気を引き締めて頑張っていきましょう! くれぐれも、破滅の待つ「結論」にはご注意、ご注意……
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在りし日の名曲アルバム  鬼束ちひろ『 FAMOUS MICROPHONE 』

2015年11月25日 22時43分01秒 | すきなひとたち
鬼束ちひろ『 FAMOUS MICROPHONE 』(2012年5月30日リリース フォーライフミュージックエンタテイメント)

 『 FAMOUS MICROPHONE(フェイマス・マイクロフォン)』は、鬼束ちひろ(当時31歳)の自身初となる洋楽カバーアルバム。鬼束によるセルフプロデュース作品。
 洋楽カバー曲が10曲と、鬼束のオリジナル新曲が1曲収録されている。アルバムリリースは6thオリジナルアルバム『剣と楓』から約1年ぶりとなる。フォーライフからリリースされた鬼束の最後の作品となった。
 収録曲のうち『 Time After Time 』と『 The Rose 』は、前年2011年11・12月に開催されたコンサートツアー『 HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW 』で披露されていた。
 オリコンウィークリーチャート最高34位を記録した。


収録曲

1、『 Scarborough Fair 』(3分14秒)…… 19世紀のイングランド民謡をサイモン&ガーファンクルがアレンジしたもの(1967年)
 編曲・エリック=ゴーフェン

2、『 Brass In Pocket 』(3分3秒)…… プリテンダーズ(1980年)
 編曲・アダム=パリーン

3、『 Mother Nature's Son 』(2分55秒)…… ザ・ビートルズ(1968年)
 編曲・エリック=ゴーフェン

4、『 Time After Time 』(4分31秒)…… シンディ=ローパー(1983年)
 編曲・アダム=パリーン

5、『 Desperado 』(3分37秒)…… イーグルス(1973年)
 編曲・根岸 孝旨

6、『 Sweet Home Alabama 』(5分0秒)…… レイナード=スキナード(1974年)
 編曲・エリック=ゴーフェン

7、『 Take Me Home, Country Roads 』(3分2秒)…… ジョン=デンバー(1971年)
 編曲・エリック=ゴーフェン

8、『 You've Got A Friend 』(5分12秒)…… キャロル=キング(1971年)
 編曲・根岸 孝旨

9、『 I Need To Be In Love 』(3分40秒)…… カーペンターズ(1976年)
 編曲・坂本 昌之
 ※この曲のみ、2009年3月にリリースされた日本人アーティストによるカーペンターズのトリビュートアルバム『イエスタディ・ワンス・モア』収録曲の再録

10、『 The Rose 』(4分6秒)…… ベット=ミドラー(1979年)
 編曲・根岸 孝旨

11、『 Bitter Flavor Road 』(3分52秒)……鬼束ちひろのオリジナル曲
 編曲・エリック=ゴーフェン
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