長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

飛騨が舞台で100億超えとは……天狗のしわざかな?  ~映画『君の名は。』~

2016年09月25日 12時55分34秒 | アニメらへん
 いや~、不思議な作品だな、と感じました。

 この前に観たのが『スーサイド・スクワッド』だったからなおさら強く感じたのかもしれませんが、とにかく整合性がしっかり取れているというか、精巧に組み立てた上でガシャーン!と壊しました、みたいな入り組んだ構成が印象的でしたね。序盤であえて「中身が入れ替わった日のこと」を描写してないとか、男女で実は「○○」が違ってましたという部分が中盤でやっと明らかになるところとか。

 中盤のそのどんでん返しまでは、それがオチで終わるという流れの小説やマンガは前に観たことがあるような気がしたのですが、そこから今までパッとしなかった印象の男主人公が一念発起して悪戦苦闘しだし、その努力が最終的に「奇跡」につながるという後半の展開は、なんとなくハッピーエンドになるんだろうなという予測はつくにしても、やっぱり王道の気持ちよさがあったと思いました。

 ただ、物語の中でもいろいろあって相当な時間経過が描かれているためなのか、ちょっと2時間ない作品(107分)とはにわかに信じられないほど長く感じた……それはもちろん、ラストシーンの感動のためには、観る側にも「時間の厚み」を知ってもらわなければいけない、という演出の意図があったのでしょうが。まさしく、ひたすら丹念に要素のひとすじひとすじを織り上げていくような作業に感じられましたね。


 いや~しかし、まさか物語の半分の舞台が飛騨というこの作品が100億円をゆうにオーバーする超絶ヒット街道を驀進中とは……いったい誰が予測しえたでありましょうか。高山ラーメンもビックリよ。
 これはいったいぜんたい誰の仕業なんだって、そりゃ古代、いにしえびとは彗星とかの空の天変地異を「あまつきつね」のしわざって解釈していたんですから、そりゃ天の狗のしわざに決まってますわなぁ。市原悦子さんが旧家のお婆さんを演じているからといって、決して八つ墓明神のたたりではないでしょう。天狗の所業じゃ!


 なるほど、古典的な『おれがあいつであいつがおれで』パターンが、こういう「あくまでお話の一要素ですよ!」というかたちで組み込まれているとは。青春時代の男女にとっては驚天動地すぎるこの一大事件が、実はもっと大きな宇宙のうねりに対峙する人間の「未来への遺産」であったとは! すごいなぁ、『とりかへばや物語』が正真正銘の SFにアップデートされちゃった、みたいな。『とりかへばや物語』はもちろん、『おれがあいつであいつがおれで』とはまるで違うお話ですが。

 っていうか、私はこの作品を観ていて『とりかへばや物語』よりも何よりも、『まんが日本昔ばなし』の『鬼怒沼の機織姫』(1992年)のほうがオーバーラップして仕方ありませんでしたよ! いや、内容はぜんっぜん違うわけなんですが、宮水神社の御神体のある湿原の風景と人里離れた立地条件が鬼怒沼になんとなく似てたし、なんてったって市原悦子さんが糸をよってたし……そりゃ機織りと組み紐は別もんですし、鬼怒沼は栃木県ですけどね。有線式飛び杼サイコミュ発動! おさわりダメ、ゼッタイ!!
 でも、市原さんは最初のシーンでは全然わかりませんでした。そういえば声が高くなった時にやっとわかるかなってくらいで、お上手だったなぁ~! 他の声優プロパーでない方々も軒並み上手だった。最初の起床シーンでの上白石さんの吐息の演技はすごかったですね!

 あれ、ラストシーンでの2人には、それまでの展開のほとんどは記憶に残ってないってことなんですよね。それでも運命の糸を感じて立ち止まり、向かい合って涙を流してしまうという、このロマンチックすぎる味わい。クラシックだなぁ~! クラシックですけど、確かに2016年の作品であるという、「ひとりひとりの人間の力に希望を見出したい」という願いに満ちていますよね。これはやっぱり、『シン・ゴジラ』に伍する、あるいは勝ってしまっても文句のつけようのない物語です。


 日頃、RADWIMPSが好きでない私も、別にこれで好きになったということは全然ないのですが、抵抗なく楽しむことができました。食わず嫌いしてちゃいけないんですねぇ。

 私、今まで全く観たことのないアニメ監督の作品を初めて観るというのは、原恵一監督の『カラフル』(2010年)以来でした。なかなか本当に行くまでの垣根が高くなっちゃうんですが、噂には聞いているけどまだっていうアニメ監督の作品を初めて観に行くのって、ドキドキして楽しいもんですね。お手並み拝見!みたいな。


 これは完全な憶測なのですが、たぶん、新海監督ファンの方々にとっては「あぁ、メジャー向け作品だなぁ……」って感じの薄口テイストなのかもしれない、という余計すぎる詮索も頭をよぎりました。あれ、作家性はちょっと入る余地のなさそうな王道のラストですもんね。でもひとまず、超遅ればせながら私も新海監督の世界にやっと触れられた、ということで。

 井上和彦さんやてらそまさん、茶風林さんが、ああいう大御所枠の役を演じられる時代になったのねぇ。そりゃあ時間軸もしれっと2021年にぶっ飛びますわ。東京オリンピック、無事に終わるといいなぁ~。
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帰ってきた「うわ~、くだらない!」系バットマンワールド  ~映画『スーサイド・スクワッド』~

2016年09月18日 17時22分29秒 | ふつうじゃない映画
 いやいやどうも、そうだいでございます~。
 最近はもう、仕事で筋肉痛にはなるわ声はかれるわで、てんてこまいでございます。まぁ、まったく想定内の忙しさなので文句の言いようもないわけなのですが……30代なかばの全速力ダッシュは、いろいろ身にしみるよねぇ~。

 先日、ありがたいことにかなり珍しく祝日でもないド平日に連休をいただくこととなりまして、これ幸いにと、去年初めに山形暮らしに戻って以来の「どうでもいいんだけど、ちょっと気になるかな。」レベルの懸案事項となっていた、「千葉時代にお世話になった金融機関の口座を解約する」プロジェクトを決行してまいりました。ほんとにどうでもいい~! 引っ越した時期は、まだ公共料金の引き落としが残ってたから解約できなかったんですよね。
 それでまぁ、トータル千円弱の残金をいただくために、1日かけて新幹線で山形~千葉を往復してきたわけです。これを馬鹿と言わずに何と言えましょう。預金通帳なくしてたから支店から支店へとはしごするわ時間はかかるわ!
 でもまぁ、おかげさまをもちまして、今回の旅でわたくしと千葉県千葉市さまとの形式上のゆかりは、きれいさっぱり全て消え去りました。

 思い出深い土地です。恩をたっぷりいただいた土地です。それなのに……
 日を追う毎に総武線に乗るのがおっくうになる、この身のドライさ加減よ!! え、津田沼ってこんなに遠かったの!? 船橋でさえあんま行きたくねぇ!!

 もうね、いったん生活の場が変わると、電車の待ち時間ってものがこんなにも長いものに感じられてしまうのかと。車社会っていろいろ大変ですけど、自分の車があったら、出発するときに待たされるとか、乗り遅れるとかっていうことはあんまりないんですよね。
 よもや、電車生活がこれほどに遠い存在になってしまうとは……人間にとって、今に慣れるっていうか、昔を忘れる能力っていうのは本当にすさまじいものなんですね。っていうか、そんなに過去に薄情なのは私だけですか! ガハハ!!


 そんなこんなで引き続き山形ライフを謳歌しているわけなのですが、車検も無事に済んだまなぐるまを駆りまして、先日こんな映画を観てまいりました。



映画『スーサイド・スクワッド』(2016年8月公開 123分 ワーナー・ブラザース)

 映画『スーサイド・スクワッド(Suicide Squad)』は、アメリカの DCコミックスが刊行する同名のコミックシリーズの実写映画化作品で、様々な DCコミックスの映画作品を、同一の世界を舞台にした作品群として扱う『DCエクステンデッド・ユニバース』シリーズとしては、スーパーマンが主人公となる『マン・オブ・スティール』(2013年)から数えて第3作となる。
 DCコミックスが刊行する『バットマン』などのヒーローコミックの、複数の敵キャラクター(ヴィラン)を主役に据えた作品である。

 スーサイド・スクワッドがコミックの世界で初登場したのは、1959年刊行のコミック雑誌『ブレイヴ&ボールド』の第25巻である。創刊当時の『ブレイヴ&ボールド』はロビン・フッドなどを主人公に昔の冒険活劇を描いた内容だったが、後に方針転換によって新しく創作したキャラクターの物語を描くこととなり、「自殺部隊」、「決死部隊」という意味の「スーサイド・スクワッド」が登場した。最初のメンバーは特殊能力を持たない普通の人間で、政府に属しながら恐竜や1つ目の巨人などの怪物らと戦う4人組であり、リーダーは軍人のリック=フラッグだった。しかし、物語が3巻続いたところでバットマンなどのスーパーヒーローたちの集団「ジャスティスリーグ・オブ・アメリカ」が登場したため、初代スーサイド・スクワッドはその活躍を終えた。
 それから時は過ぎて1986年。アメリカ政府機関所属のアマンダ=ウォラーにより、ヴィランたちに減刑を交換条件に危険な作戦をこなしてもらうという特殊部隊「タスク・フォースX」が創設され、現在の直接の原型となる2代目スーサイド・スクワッドが登場する。ここでもリックがリーダー役として返り咲き、彼らを導く存在となった。
 この時のメンバーは暗殺者デッドショット、『ザ・フラッシュ』シリーズの宿敵キャプテン・ブーメラン、多重人格で魔女のエンチャントレス、怪力のブロックバスター、格闘家にしてリック同様ヴィランのお目付け役として参加したブロンズ・タイガーだった。
 2代目スーサイド・スクワッドの任務はその名の通り死ぬほど過酷なもので、ブロックバスターが敵に殺されたり、今回の映画版にも登場するスリップノットなどのヴィランたちは逃げ出そうとして身体に装着した逃亡防止デバイスが爆発して死亡したりと、何人ものヴィランが命を落とした。それでも、それぞれの恩赦を目指す2代目スーサイド・スクワッドは、1992年まで66巻にも及ぶ活躍を見せた。
 その頃には50名を超えるキャラクターが登場し、かつてはバットガールだったバーバラ=ゴードンが車椅子に乗るコンピューターの達人「オラクル」として描かれたり、さらにはデッドショットなど何名かのヴィランたちはソロのスピンオフ作品が展開された。
 アクの強い悪人たちがひしめき合うチームとあって、個々の性格がぶつかり合ったり、愛憎劇がありつつも、表舞台のヒーローたちがこなせない裏の仕事を遂行してきた2代目スーサイド・スクワッドは、シリーズが終了しても他の DCコミックス作品にゲスト出演したり、第2シリーズや番外編が描かれたことで、その知名度を保ったまま活躍した。
 そして2011年。DCユニバースが再編された「THE NEW 52」シリーズにて、スーサイド・スクワッドが現代版として生まれ変わり、ここにハーレイ・クインが加わり3代目スーサイド・スクワッドの中心人物となった。他のメンバーはデッドショットにキャプテン・ブーメラン、キング・シャーク、エル・ディアブロ、ブラック・スパイダーなど。
 それ以降はアニメ化されたり、ドラマ『ヤング・スーパーマン』(2001~11年)や『アロー』(2012年~)にもゲスト出演している。特にデッドショットは、日本のアニメーションスタジオが製作した、映画『バットマン・ビギンズ』(2005年)と『ダークナイト』(2008年)の間の物語を描いている OVA作品『バットマン ゴッサムナイト』(2008年)にも登場している。


あらすじ
 スーパーマンが死去してからしばらく経った後、アメリカ政府の高官アマンダ=ウォラーはスーパーマンの後継者として、死刑や終身刑となって服役していた悪党たちを減刑と引き換えに率いる特殊部隊タスクフォースX、通称「スーサイド・スクワッド」を結成する。


主なキャスティング
フロイド=ロートン / デッドショット …… ウィル=スミス(47歳)
 百発百中のスナイパー。離婚した妻との間にゾーイという娘がいる。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるデッドショットがコミックに初登場したのは1950年であり、実写版としてはスミスが演じたデッドショットは3代目、映画初登場となる。

ハーリーン=クインゼル博士 / ハーレイ・クイン …… マーゴット=ロビー(26歳)
 ゴッサムシティの精神病院アーカム・アサイラムに勤める精神科医で穏やかな性格だったが、ジョーカーによって精神を歪められてサディスティック・殺人的・幼児的なサイコパスになり目的達成のためには手段を選ばない犯罪者となった。
 プロデューサーのリチャード=サックルは彼女のキャラクターについて、「楽しい人気者で、狂っている。彼女がしでかす様々なことを説明するのには形容詞が足りなくなる。」と述べた。演じたロビーは、ジョーカーとの関係については「恐ろしく機能不全な状態。文字通り、彼に関して狂っている。彼女は狂っていて彼のことを愛してる。本当に不健康で壊れた関係であるが、夢中になれる。」と語っている。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるハーレイ・クインが初登場したのは1992年放送のアニメ版であり、実写版としてはロビーが演じたハーレイは2代目、映画初登場となる。

ジョーカー …… ジャレッド=レト(44歳)
 『バットマン』シリーズのヴィラン。
 演じたレトは、キャラクターについて「シェイクスピアに近い」や「美しい災厄」と述べている。ジョーカーを演じることについて「深くのめりこんだ。他にないような機会だった。このような心理的なゲームをやるのは楽しかった一方、大きな苦痛も伴った。」と述べている。また監督のエアーはジョーカーの外見について、メキシコの麻薬カルテルのボスと、アレハンドロ=ホドロフスキー監督の作品から影響を受けている。身体に入っているタトゥーの数々は、監督の「ジョーカーに現代的なギャングスターのような外見を合わせる」という意図により加えられたものである。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるジョーカーが初登場したのは1940年であり、実写版としてはレトが演じたジョーカーは5代目(?)、映画版は4人目となる。

リチャード=フラッグ / リック=フラッグ大佐 …… ジョエル=キナマン(36歳)
 スーサイド・スクワッドを指揮する軍人。当初はトム=ハーディがキャスティングされていたが、スケジュールが合わずに降板している。
 フラッグ大佐は初代『スーサイド・スクワッド』が連載開始された1959年から登場している。実写版としてはキナマンが演じたフラッグ大佐は2代目で、映画版初登場。

アマンダ=ウォラー …… ヴィオラ=デイヴィス(51歳)
 アメリカ政府の秘密組織 A.R.G.U.S.(アーガス)のトップで、「DCエクステンデッド・ユニバース」シリーズの前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)に登場したレックス=ルーサーJr.とは面識がある。
 エアー監督は彼女のキャラクターに満足しており、精神面と強靭さに関して「力強い黒人女性で丈夫、その気になれば即座に銃を手に取って人を撃つ」、「悪に対しては情け容赦ない。彼女の強みはその知性と罪悪感の欠落」と述べた。
 ウォラーは2代目『スーサイド・スクワッド』が連載開始された1986年から登場している。実写版としてはデイヴィスが演じたウォラーは3代目、映画初登場となる。

ディガー=ハークネス / キャプテン・ブーメラン …… ジェイ=コートニー(30歳)
 ブーメランを扱う犯罪者。強盗に及んでいたところをフラッシュに阻止され投獄された。演じたコートニーは、彼について「真にだらしない人間」と述べている。
 『ザ・フラッシュ』のヴィランであるキャプテン・ブーメランが初登場したのは1960年であり、実写版としてはコートニーが演じたブーメランは2代目で映画初登場となる。

チャト=サンタナ / エル・ディアブロ …… ジェイ=ヘルナンデス(38歳)
 ロサンゼルスギャングの元構成員。掌から炎を出す。妻と子供を失い、警察に自首した。
 演じたヘルナンデスは彼のキャラクターを他のメンバーとは違うようにしており、「他のメンバーが獄中から外へ出て殺しを楽しむ一方、彼は戦いから身を置いている。」と述べた。
 チャト=サンタナはコミック『エル・ディアブロ』シリーズ(1970年~)の主人公としては3代目(2008年~)であり、初のヴィラン的ヒーロー。実写版初登場である。

ウェイロン=ジョーンズ / キラー・クロック …… アドウェール=アキノエアグバエ(49歳)
 爬虫類のような肉体をしている犯罪者。演じたアキノエアグバエは彼について、「怒りに燃える人喰い人種」と述べた。
 『バットマン』のヴィランであるクロックが初登場したのは1983年であり、実写版初登場。ちなみに今作の公開までキラー・クロックがスーサイド・スクワッドに参加するという設定はコミック版ではなかった(公開に合わせたコミック版から参加)。

ジューン=ムーン博士 / エンチャントレス …… カーラ=デルヴィーニュ(24歳)
 長い間封印されていた古代の強力な魔女。探検家のジューン=ムーン博士によって偶然解放されてしまう。エンチャントレスは今作の設定ではスーサイド・スクワッドの正式メンバーには加入していなかったが、その強力な力がアマンダ=ウォラーの目を引いた。デルヴィーニュは彼女について「野性的」と述べた。
 1966年に連載開始された『エンチャントレス』シリーズの主人公であり、実写版初登場。コミック版『スーサイド・スクワッド』ではデッドショットらと同じく2代目スーサイド・スクワッド以来の古参メンバーとなっている。

クリストファー=ワイス / スリップノット …… アダム=ビーチ(44歳)
 縄を使う犯罪者。使っている縄はとても頑丈で、自らが開発した新素材のものである。また銛を付けた縄を発射する銃も持ち、それを利用して建物を上ることもできる。
 『ファイアストーム』のヴィランであるスリップノットが初登場したのは1984年であり、実写版初登場。

タツ・ヤマシロ / カタナ …… 福原 かれん(24歳)
 日本人の暗殺者で、カタナはコードネーム。師匠に剣術と格闘術を幼い時から習い、古代の流派において高い次元に達している。リック=フラッグのボディガードとしてスーサイド・スクワッドの中で唯一、志願して参加したメンバーである。
 『バットマン』のヴィランであるカタナが初登場したのは1983年であり、実写版としては福原が演じたカタナは2代目、映画初登場となる。ちなみに今作の公開までカタナがスーサイド・スクワッドに参加するという設定はコミック版ではなかった(公開に合わせたコミック版から参加)。

ブルース=ウェイン / バットマン …… ベン=アフレック(44歳)
 前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』までの20年間、相棒のロビンと共にゴッサムシティで自警活動を行っていたが、2005年にジョーカーにロビンを殺されている。
 1939年に連載開始された『バットマン』シリーズの主人公であり、実写版としてはアフレックが演じたバットマンは6代目(ウェインが幼い『ゴッサム』シリーズを除く)となる。

ジョニー=フロスト …… ジム=パラック(35歳)
 ジョーカーの腹心。
 コミック版のフロストは、『バットマン』シリーズからのスピンオフ作品『ジョーカー』(2008年)の主人公で、やはりジョーカーの手下である。

ゾーイ …… シェイリン=ピエールディクソン(13歳)
 デッドショットの娘。11歳。

グリッグス …… アイク=バリンホルツ(39歳)
 ベルレーヴ刑務所の看守長。

インキュバス …… アラン=シャノワーヌ(?歳)
 エンチャントレスの弟。姉と同様に封印されていた。
 コミック版ではエンチャントレスに弟はいないが、コミック版『スーサイド・スクワッド』にヴィランとして登場した悪魔インキュバスが今作でエンチャントレスの弟という設定で登場している。実写版初登場。


主なスタッフ
監督・脚本 …… デイヴィッド=エアー(48歳)
音楽    …… スティーヴン=プライス(39歳)
撮影    …… ローマン=ヴァシャノフ(35歳)



 観てきてしまいましたね~。わたくし仕事ではちょっと気が抜けない状況が今月いっぱい続くっていうのに、こんな思いっきり肩の力の抜けきった映画を観ちゃったよ! この前に観た映画が『シン・ゴジラ』なもんですから、落差ものすごいです。いや、どっちもエンタテインメントなんですからいいんですが。

 最初に言うと、私は市井のしがないジョーカーファン兼ハーレイ・クインファンであります。つまりは、あさ~いバットマンファンということになるわけですが、口が裂けても「DCユニバースファン」とまで言いきる自信はございません。
 なもんですから、1989年の『バットマン』以来「ノーラン3部作」まで映画はいちおう観てきましたが(もちろん1966年版もです)、今年の『バットマン vs スーパーマン』は観ておりません。『スーサイド・スクワッド』と直結してる前作なのに! それだけバットマン以外の DC系には興味がないということなんですな。だから多分、『スーサイド・スクワッド』の次にあるっていってた『ワンダーウーマン』なんか観るはずもないだろうし、来年の『ジャスティス・リーグ』もどうだか、みたいな。

 つまるところ、今回そんな私が『スーサイド・スクワッド』を観に行く気になった原動力は、ひとえに新キャスティングのジョーカーと悲願の映画初登場のハーレイ・クイン! このお2人でしかなかったということなのです。

 それで観てみたんだけど……まぁ~くだらない、くだらない! 強いて良く言えば「荒唐無稽」だけど! ばかばかしいったらありゃしない内容でした。

 だって、物語の中で発生した大事件っていうのが完全に、スカウトしたヴィランを管理しきれませんでしたっていうだけの政府の自爆なんだもの。さすがのデッドショットでも、そんな他人の尻拭いなんかやってらんねぇっつうの!
 頑張って倒れた人の人工呼吸をしただけなのにあっという間に殺されちゃった、あの地下鉄のお医者さんも浮かばれませんよ……

 人工呼吸といえば、なんだあの、アフレックバットマンの思わせぶりなハーレイとの接吻は!? 人工呼吸はちゃんとあごをクイッと上にあげて気道確保してからやれや!!


 話をジョーカーとハーレイだけに限定しちゃいますけど、まぁね、ハーレイが出てきたらジョーカーの質感が軽薄になるのは、それは当然の作用だと思います。それはもう、ロビンのいるのといないのとでバットマンの感じが変わるのと全く表裏一体、おんなじことでしょう。
 ところが、これは私の個人的な見解なんですが、「ジョーカーとハーレイの恋愛関係」というのは、あくまでもジョーカーが周到にハーレイに刷り込んだ幻影なのであって、ハーレイがそれをどこまで信じようが入れ上げようが、ジョーカー本人の真意はまったく不明、どっちかっていうとおもしろい手駒くらいにしか考えてないんじゃなかろうかと。おもしろくなくなったらいつでもポイできるっていうスタンスが最高だと思うんですよね。それでこそジョーカーっていうか。
 だから、今回あそこまでハーレイ奪還にこだわったのも「ヒマだったから。」ってくらいの動機で充分で、ハーレイがいなくて自室で悶々としてるジョーカーというシーンは全くいらないと強く思いました。
 ましてや、ジョーカーの部屋に何着かベビー服が置いてあるだなんて! それはねぇだろう!! ジョーカーに後継者はいらん。ジョーカーは何が嫌いって、自分の異形の孤独を慰め合うために同類と徒党を組むのがいちばん嫌いなのではないのでしょうか。だからこそロビンを殺しちゃってるわけで。まぁ、おもしろいからって理由で他のヴィランと一時的に手を組むことはあるにしても。

 なので、私はジョーカーとハーレイが共同でロビンを殺害したっていう今作の設定もどうかと思うんです。そこは「とっておきのお楽しみ」だったでしょうから、きっとジョーカー1人でやってたでしょう。
 だいたい、バットマンが1人なのに対してジョーカーとハーレイで2人っていうのも、な~んかアンバランスすぎるような。ロビン殺害っていうどうしようもない要因でダークになっているバットマンと闘うのが、まるでジョエル=シュマッカー監督の世界から飛び出してきたみたいな趣味の悪い原色やらヘビ皮パープルやらタトゥーだらけやらの能天気ヴィランカップルなんだもの。ロビンも草葉の陰で泣いてますよ!

 私は別に、ジョーカーがチャラかろうがタトゥーだらけだろうが特にかまいません。かまわないんですが、行動があんまりおもしろくないジョーカーっていうのは、どうかね……レト版ジョーカーって、今までの実写版ジョーカーの中でいちばん笑い方が乾いてるっていうか、「ハ、ハ、ハ、ハ。」っていう作り笑いが多いですよね。なんか、笑いについてのこだわりが歴代の中でいちばん薄そう。ヒース=レジャーのジョーカーも笑いは少なかったんですが、笑うときはここぞとばかりに心底大爆笑してたでしょ。それがないだけに、解釈のしようによってはレト版がいちばん「心の闇が深いジョーカー」ってことにもなるのかもしれませんが、なんかつまんないですよね。

 レトさんは、あの神がかり的な大傑作コミック『バットマン アーカム・アサイラム』(1989年)のジョーカーからインスピレーションを得て演じたっておっしゃられてるそうなんですけど、『アーカム・アサイラム』のジョーカーは最高におもしろいからなぁ。ちょっと、足元にも及ばない格の違いはあると感じました。だいたい、『アーカム・アサイラム』のジョーカーはハーレイ・クインなんていらないでしょ。バットマンにしか興味がないんだから。

 あと、レトさんは口が小さい! 笑わなくなると一瞬でハンサムなお兄ちゃんの素顔が透けて見えてしまうという気がしました。
 ジョーカーという大役を担う以上、それは尋常でない努力があったことはわかるのですが……そこに「怪物的な狂気」はなかったと思いました。ハーレイという「おもし」があるんだから、それは仕方ないことなんだけれど。結局、レトさんの真剣さと真面目さしか伝わってこなかったような。ジョーカーは本当に難しい~!

 あ、あと、この1点だけは、ジョーカーファンとしてとうてい見過ごせなかった!
 乗っ取った軍用ヘリで、ビルの屋上に出たスーサイド・スクワッドに強襲を仕掛けたシーンで、なんでタキシードに身を固めたジョーカーの前にミニガンをぶっぱなす腹心のジョニーが先に映るんだよう!! そこは最初にジョーカーが見えて一同ビックリが先だろう!

 これはわかってない。ジョーカー心をまるでわかってない見せ方だ! こんなこと、もしニコルソン版ジョーカーでやったらジョニーは即ズドンですよ。カーツだこりゃ!!

 でも、コミック版『ジョーカー』での苦労を振り返れば、あと今作での涙ぐましいまでに献身的な裏方っぷりをかんがみれば、これくらいの華舞台はジョニーに与えられても当然だったのかも……よかったね、ジョニー。ジョニー=フロストって、ほんとに平本アキラさんが好きそうな味わいのキャラクターですよね。


 この映画の構造的欠陥として、映画いちばんの呼び物となっている「新ジョーカー」が物語の本筋にあんまりからんでこないという点がよく言われるのですが、私は映画を観ていて、バトルが盛り上がるにつれてそれ以上に「ハーレイって……なんでスーサイド・スクワッドに呼ばれたんだろう?」というほうが気になって仕方ありませんでした。
 だって、いくら身体能力が優れてるっていっても所詮は若い女性だし、特殊能力もなければ特別頭がいいってわけでもないし、武器は木のバットだし……

 でも、ハーレイが出なきゃスーサイド・スクワッドも映画化されなかったんだろうし……人気って、なんなんでしょうね。その点について、古参メンバーのデッドショットさんやキャプテン・ブーメランさんのご意見をぜひとも伺いたいところです。エンチャントレスがあんなになっちゃったのって、完全にハーレイに立ち位置を取られてスネたからですよね。「ピンクあたしだったのに!」みたいな。

 あと、今作はスーサイド・スクワッドの義賊っぷりしか押し出されなくて「どこが悪役やねん」な感じが強かったわけですが、それはハーレイも同じことで、彼女が具体的にどんな悪人なのかがまるで語られないんですよね。ハーレイになった経緯とか収監中の奇行はひととおり描かれるんだけど、どんなことをしてバットマンにつけねらわれてるのかがさっぱりわかりませんでした。好きなひととデートしてるのがそんなに悪いんですか!? みたいなカーチェイスでしたよね。


 いろいろ言いましたけど、たぶんこの『スーサイド・スクワッド』って、『バットマン vs スーパーマン』と『ジャスティス・リーグ』との間の箸休めみたいなエピソードなんでしょ? だったら、このくらいの軽さでもいいんじゃないかなぁ。
 ともかく、私としてはハーレイ・クインのお姿が銀幕で拝めたからそれでひとまず満足なわけですが、うん、やっぱりできれば、1992年初登場時の全身道化師タイツの姿で活躍してほしかった! 私は今回のパンキッシュよりも「THE NEW52!」版のボンデージよりもゲーム版のゴスロリメイドよりも、やっぱり原点の道化師スタイルが一番好きなのです。実写化するにあたって布地の質感とかを失敗すると安っぽくなりかねないタイツであるわけですが、それこそシュマッカー風のラメラメの赤黒できめてほしかったなぁ。


 おもしろいジョーカーが、また観たいなぁ。キャメロン=モナハン君、映画でジョーカーやってくれ~!!

 ……それにしても、レトさんが44歳っていうのは、たまげました……ヒース版ジョーカーより一干支以上年上じゃねぇか! 若々しいっていうか、幼いっていうか……年齢不詳っていうのも、考えもんですね。
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読書メモ 『幽霊を捕まえようとした科学者たち』 第2章

2016年09月04日 16時40分47秒 | すきな小説
ウィリアム=フレッチャー=バレット(Sir William Fletcher Barrett 1844~1925年)
 サー・ウィリアム=フレッチャー=バレットは、イギリスの物理学者。ウィリアム=クルックスやオリバー=ロッジほど物理学の分野で華々しく活躍したわけではないが、堅実な研究で評価された。イギリスとアメリカ両国での「SPR」創立に貢献。テレパシーやダウジングについての研究報告が多い。なお父は聖職者で、バレットも生涯敬虔なクリスチャンだった。
 催眠状態で引き起こされる現象に興味を持ち、最初は幻覚説、次にテレパシー説を展開した。40年近く研究した後、暗示や無意識、テレパシーだけでは説明できない超常現象があるという結論に達し、1918年には霊魂説を採った。
 1876年、32歳で生物学会にラップ音に言及した論文を提出するが拒否される。ただ人類学部門だけは議長だったアルフレッド=ラッセル=ウォレスの決定票などでその論文を受理した。1881~82年にかけて、イギリスの SPR設立の主導者のひとりとなる。また、1884年9月にはアメリカに旅行し、アメリカSPR 設立のきっかけも作る。
 1887年、バレットがテレパシー研究の対象としてきた霊媒師クリーリー姉妹のトリックがヘンリー=シジウィック夫妻によって暴露される。1890年代にはダウジング研究を始める。1904年、SPR第7代会長に就任する。


1876年10月
 動物学者レイ=ランケスター(29歳)、霊媒師ヘンリー=スレイドの石板書記交霊術を詐欺で告発し有罪判決を下させる(スレイド弁護側の証人にはアルフレッド=ラッセル=ウォレスもいた)。


1882年2月
 哲学者ヘンリー=シジウィック(44歳)、古典文学者フレデリック=マイヤース(39歳)、心理学者エドマンド=ガーニー(35歳)、ケンブリッジ大学で「イギリス心霊現象研究協会」を設立する。初代会長はヘンリー=シジウィック。幽霊担当はマイヤース、ガーニー、ヘンリーの妻エレノア。テレパシー担当はウィリアム=バレット。会員は約200名であり、詩人アルフレッド=テニスン、作家ルイス=キャロル、アメリカの作家マーク=トウェインも入会していた。


エレノア=ミルドレッド=シジウィック(Eleanor Mildred Sidgwick 1845~1936年)
 エレノア=ミルドレッド=シジウィックは、イギリスの数学者。
 義兄に当たるレイリー卿の物理実験に協力、イギリス会報に3つの論文を発表。ニューナム・カレッジ校長としても有名。当時のイギリスを代表する女性のひとりで、SPRにも強い影響力を持っていた。しかし交霊会での現象に恵まれず、長期間、心霊現象は生者のテレパシーによるものだと考えていた。非常に厳格で理知的だったという。
 SPRへの参加後は、1888~97年に会報と議事録を編集。1901年に評議員となり、1907~32年に名誉事務局長。1885~94年の 「幻覚の国勢調査」に協力、膨大な資料を精力的に編纂した。1932年には『SPRの歴史』を発表した。


リチャード=ホジソン(Richard Hodgson 1855~1905年)
 リチャード=ホジソンは、イギリスの法律学者。1882年の SPR創立時からのメンバーで、ASPR(アメリカSPR、のちに SPRアメリカ支部)の共同創立者。優れた知性と極端な懐疑主義で知られた。彼の初期の調査はすべて否定的結果に終わったため、霊媒師パイパー夫人を10年ほど調査するまでは、「ほとんどすべてのプロの霊媒たちは、多少とも互いに結託した、卑しい詐欺師の一団である。」と信じていた。なお、1884~85年に当時隆盛を誇っていた神智学のブラヴァツキー夫人を調査して否定的な報告書を提出したり、1895年、ケンブリッジで行われた霊媒師ユーサピア=パラディーノの交霊会に出席して詐欺だと確信したエピソードなどが知られている。
 1887年5月、ホジソンはヘンリー=シジウィックの説得に応じて ASPRの新事務局長に就任し、併せてパイパー夫人の調査をするため、アメリカ合衆国ボストンに派遣された。まもなく、ASPRに加入した詩人で作家のジョージ=ペラムと知り合い、親しい友人となった。
 1889年、パイパー夫人の調査をするうち、その誠実さを認識したホジソンは、さらに夫人にとって未知な環境での交霊会を観察するため、イギリスに招待した。夫人は厳重な監視下で88回の交霊会を開き、多くの SPRメンバーが死後存続を確信したが、ホジソンはまだ懐疑的な姿勢を保っていた。
 1892年、親友のジョージ=ペラムが事故死。その1ヶ月後、彼の霊がパイパー夫人の交霊会に出現した。ホジソンはすぐには信用せず、ペラムの友人を何人も匿名で交霊会に参加させ、会話の内容を確認した。ペラムは旧知の友人たちをすぐに見分けて名前を呼んで話しかけ、話し方は生前の特徴をよく備えていた。また、子供の頃に会ったきりだった者はわからない様子だった。生前会ったことがない者が混ざっていると、「面識がない」ときっぱり言い切った。ペラムについてさまざまな角度から検証したホジソンは、ついにパイパー夫人の霊媒能力だけでなく、死後存続も真実であると確信するようになった。
 1897年、パイパー夫人を通じて現れる霊が「レクター」と名乗り、これ以上ペラムを当てにしないよう警告した。その後はレクターが主な通信相手となった。


ヘレナ=ペトロヴナ=ブラヴァツキー (Helena Petrovna Blavatsky 1831~91年)
 ヘレナ=ペトロヴナ=ブラヴァツキーは、「近代神智学」を創唱したロシア帝国の人物で、神智学協会の設立者のひとりである。
 彼女の生涯には多くの謎があり、特に1874年にアメリカで活動を始めるまでの前半生はまったくヴェールにつつまれ、多くの神話に彩られている。ブラヴァツキー自身が残したメモや日記、周囲に語った事柄、親族など近しい人々の証言などが再構成され一般にも流布しているが、矛盾が多く、一見荒唐無稽とも思われる事件の連続であり、真偽については議論を呼んできた。神智学協会や支持者は正しさを証明しようとし、批判者は虚偽であることを暴こうとし、現在も毀誉褒貶が激しい人物である。
 神智学協会は、「偉大な魂(マハトマ)」による古代の智慧の開示を通じて諸宗教の対立を超えた「古代の智慧」、「根源的な神的叡智」への回帰をめざしていた。その思想は、キリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。「神智学(theosophy)」は、キリスト教世界にすでにあった概念で、「隠された神性の内的直観による認識」を意味している。協会のスローガンは「真理にまさる宗教はない」であり、神智学は宗教ではなく神聖な知識または神聖な科学であるとされる。
 ブラヴァツキーに始まる近代神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒し、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。ニューエイジ思想やオカルティズム、新宗教への影響も大きい。
 1884年に、SPRのリチャード=ホジソンがインドの神智学協会本部に赴いて調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけた「ホジソン・レポート」が1885年に公表された。これによりブラヴァツキーは詐欺師であるという認識が広がった。


1885年
 アメリカの哲学者ウィリアム=ジェイムズ(43歳)ら、「アメリカ心霊現象研究協会(ASPR)」を設立する。初代会長は天文学者のサイモン=ニューカム(50歳)。
 ASPR会長ニューカム、『サイエンス』誌上でイギリスSPR の研究結果を徹底的に批判し対立する。ASPRの中心人物であるジェイムズ、ニューカムの論調を非難する。


ウィリアム=ジェイムズ(William James 1842~1910年)
 ウィリアム=ジェイムズは、アメリカ合衆国の哲学者・心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ=ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)などのアメリカ文学にも影響を与えた。チャールズ=パースやジョン=デューイに並ぶプラグマティスト(実用主義者)の代表的存在として知られている。弟は小説家のヘンリー=ジェイムズ。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。
 日本の哲学者である西田幾多郎の提唱した「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。夏目漱石も影響を受けていることが知られている。後の認知心理学における記憶の理論、トランスパーソナル心理学に通じる『宗教的経験の諸相』(1902年)など、様々な影響をもたらしている。ジェイムズは1875年にはアメリカで初の心理学の講義を開始し研究室を設けた。ドイツのヴィルヘルム=ヴントが研究室を用意したのは、この4年後の1879年である。
 またジェイムズは超常現象に対しても興味を持ち、「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている。」と発言した。後にイギリスの作家コリン=ウィルソンは、これを「ウィリアム=ジェイムズの法則」と名づけた。


レオノーラ=エヴェリーナ=パイパー(Leonora Evelina Piper 1859~1950年)
 レオノーラ=エヴェリーナ=パイパーは、アメリカの女性霊媒師。イギリス心霊現象研究協会(The Society for Psychical Research、略してSPR)が協会発足初期に調査対象とした有名な霊媒のひとり。
 パイパーは、1884年に信仰治療師のもとを訪れた際にトランス状態に陥り、ネイティヴアメリカンの霊からメッセージを受け、これをきっかけに内輪の交霊会を開催し始めたという。パイパーは特に、知るはずのない交霊会参加者の個人的な秘密を告げる能力に長けており、このほかに自動書記やサイコメトリーの能力も発揮したという。
 ASPRのウィリアム=ジェイムズは1885年からパイパーの交霊会に参加し、その能力を本物と確信したことで、心霊研究の道に入ったという。1887年には SPRのリチャード=ホジソンの調査を受け、2年後の1889年には SPRの依頼により、ジェイムズとホジソンの調査を受けるためにイギリスへわたった。
 ホジソンは、かつてブラヴァツキー夫人による神秘現象を詐術と暴いたことがあり、パイパーに対しても当初は懐疑的な立場をとっており、周囲からもブラヴァツキー同様にパイパーのトリックを暴くことを期待されていた。しかし、1892年3月に実施されたパイパーの交霊会において、パイパーが先月2月に事故死したばかりのホジソンの亡き旧友ジョージ=ペラムの名を名乗り、交霊会の参加者たちしか知りえないことを語る様子を見て、パイパーのもとに旧友の霊が現れたと認め、死後生存の証拠を得たと考えた。SPRの懐疑派の代表的人物といえるホジソンが、心霊主義を肯定する立場をとってパイパーの能力を本物と認めたことは、SPRにとっては大事件であった。こうした実績から、パイパーをアメリカを代表する霊媒のひとりとする声もある。同様にパイパーを通じて心霊主義を支持した学者にはオリバー=ロッジ、フレデリック=マイヤースらがいる。
 また、心霊主義に関心を持っていたことで知られる作家のコナン=ドイルは、1899年にパイパーがトランス状態で「世界各地で恐ろしい戦乱が生じます」と語ったことを、1914年開戦の第一次世界大戦を示したことだと指摘しており、パイパーをダニエル=ダングラス=ホームと並ぶ世界最高級の霊媒師として高く評価している。
 ただし、SPRの初代会長であるヘンリー=シジウィックらは、ホジソンの旧友の霊が交霊会参加者について語ったとされる件を、パイパーがテレパシーで参加者たちの思考を読み取ったとの解釈できるなどの理由で(超ESP仮説)、本件を心霊主義の確固たる証拠と認めることはなかった。パイパーの支配霊のひとりはフランス人の「フィニィ医師」の霊とされるが、フランス語をほとんど話すことができず、医学の知識もなかったとの批判もある。ホジソンがパイパーの調査を開始した際も、同席していたウィリアム=ジェイムズがパイパーの指導霊と話す際、ジェイムズが少しでも流暢なフランス語を話すと、この霊は返答に詰まったという。また、ホジソンが2人の子供をもうけて長生きすると予言したが、これも当たることはなかった。


1886年6月
 イギリスの有名な霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム、結核により死去(53歳)。


フランク=ポドモア(Frank Podmore 1856~1910年)
 フランク=ポドモアは、イギリスの作家。社会主義運動でも有名。
 超常現象の信憑性には、オクスフォード大学在学中から個人的に確信を抱き、終生関心を持っていた。しかし思想としてのスピリチュアリズムには疑問を抱き、社会主義者ロバート=オーエンに傾倒。現在のイギリス労働党の基礎となった「ファビアン・ソサエティ」創立に協力し、「スピリチュアリズムのよきライバル」と言われた。なお、心霊現象研究協会には創立時から長期間関わり続け、科学的厳正さと文才で、行き過ぎた超常現象賞賛に対してブレーキの役割を果たしたという。
 1882年、SPR創立時に評議員に選ばれ、その後27年間在籍し続けた。またフレデリック=マイヤースと共同で名誉幹事をつとめる。1886年、マイヤース、エドマンド=ガーニーと共同執筆で SPRの研究報告書『生者の幻像(Phantasms of the Living)』を出版する。
 1906年、文筆活動に専念するため、25年間つとめた郵政官僚を退職。理想的社会主義者のロバート=オーエンに傾倒し、「社会主義とスピリチュアリズム双方の父」と賞賛する。
 1910年8月、イングランド地方の有名な保養地モルヴァン丘陵の泉で溺死。54歳。同性愛スキャンダルに巻き込まれたことによる自殺説も流れた。


オリヴァー=ロッジ(Sir Oliver Joseph Lodge 1851~1940年)
 サー・オリヴァー=ロッジは、イギリスの物理学者・作家。初期の無線電信の検波器に用いられたコヒーラ検波器の発明者である。また点火プラグの発明もした。エーテルの研究でも知られる。また、心霊現象研究協会のメンバーで、心霊現象を肯定する立場での活動、著述もおこなった。
 ロンドン大学で科学を学び、1881年にリヴァプール大学で教鞭を取るようになる。1900年にリヴァプールを離れてバーミンガム大学に移り、1919年の引退までそこに留まった。イギリスの生んだ世界的物理学者であると同時に、その物理学的概念を心霊現象の解釈に適用した最初の心霊学者でもあった。
 ロッジは、目に見えない世界こそ実在で、それはこの地球をはじめとする全大宇宙の内奥に存在し、物質というのはその生命が意識ある個体としての存在を表現するためにエーテルが凝結したものに過ぎないと主張した。その著書は大小あわせて20冊を超えるが、いずれも現実界は虚の世界で霊界こそ実在界であるという、仏教でいう色即是空の哲学に貫かれている。
 彼は霊の世界について50年以上も研究し、その結果ますます宇宙を支配する超越的知性すなわち神への畏敬の念を深めたと述べている。科学的探究がかえって宗教心を深める結果となったのである。もちろんここでいう宗教心は、特定の宗教に限るものではない。早世した自身の息子レイモンドと交霊しえたと信じた著作『レイモンド』は日本でも大正時代に野尻抱影らが翻訳し、川端康成などに影響を与えた。
 ある心霊現象に係わる詐欺容疑の訴訟問題で、ロッジは証人として法廷に立ったことがある。その時、「霊の世界というのは一種の幻覚ですね」と尋問されて、ロッジは首を横に振って、「この世こそ幻影の世界なのです。 実在の世界は目に見えないところにのみ存在します。」と返答した。


1886年10月
 イギリスSPR、テレパシーと霊体に関する研究報告書『生者の幻像』全2巻を刊行する(本文エドマンド=ガーニー、序文フレデリック=マイヤース)。しかし多くのマスコミからは評価されず。
1887年1月
 アメリカSPR のウィリアム=ジェイムズ(45歳)、イギリスSPR の『生者の幻像』を『サイエンス』誌上で高く評価するが、多くの科学者は批判する。
1887年4月
 アメリカ・ペンシルヴェニア大学の超常現象研究機関「セイバート委員会」(委員長は心理学者のハワード=ファーネス)、霊媒師や石板書記を徹底的に批判する研究報告書を発表する。
1887年
 イギリスの小説家オスカー=ワイルド(33歳)、恐怖小説『カンタヴィルの亡霊』を発表する。
1888年6月
 イギリスSPR のエドマンド=ガーニー、調査先の行楽地ブライトンでクロロホルムの誤用により事故死。享年41歳。
1888年10月
 ハイズヴィル事件の有名な霊媒師マーガレット=フォックス(50歳)、40年前のラップ現象はトリックであったことを告白する。
1889年
 パリで開催された国際実験心理学会議の分科会で心霊研究が議題となり、SPRの提案により欧米6ヶ国が参加する国際的な「幻覚統計調査」の実施が決定される。
1889年11月
 霊媒師マーガレット=フォックス(51歳)、昨年の自らのトリック告白を金銭目的の虚偽として撤回する。
 霊媒師レオノーラ=パイパー(30歳)、SPRの要請により心霊現象研究のためにロンドンに渡る。
 霊媒師エウサピア=パラディーノ(35歳)、イタリア・ナポリで精神科医ロンブローゾ(64歳)の調査を受けるがトリックではないと判断される。
1890年
 匿名人物「霊媒師A」による心霊現象トリック暴露本『ある心理霊媒師の暴露』が出版され話題となる。
1892年
 ウィリアム=ジェイムズの弟の小説家ヘンリー=ジェイムズ(49歳)、SPRの故エドマンド=ガーニーをモデルとした恐怖小説『エドマンド=オーム卿』を発表する。
1892年8月
 SPR、国際実験心理学会議で「幻覚統計調査」の結果を発表し、幽霊の存在を裏付ける(人は偶然の430~440倍の確率で幽霊らしき存在に出遭う)。
1893年12月
 アメリカの哲学者ウィリアム=ジェイムズ(51歳)、SPR第3代会長に就任する。
1894年
 SPRのシャルル=リシェ(44歳)、フレデリック=マイヤース(51歳)、オリヴァー=ロッジ(43歳)ら、リシェの別荘のある地中海のルボー島で霊媒師エウサピア=パラディーノ(40歳)の調査研究を行い(ルボー島実験)、パラディーノの霊能力を本物であると認める。
1895年4月
 SPRのリチャード=ホジソン(40歳)、SPR会報でルボー島の研究結果を徹底的に否定する。
 SPR、パラディーノをイギリス・ケンブリッジに招いて霊媒実験を実施するが、ホジソンにより霊能力はトリックであると断定される。
1895年12月
 ウィリアム=クルックス(63歳)、SPR第4代会長に就任する。
1897年5月
 イギリスの小説家ブラム=ストーカー(50歳)、長編恐怖小説『ドラキュラ』を発表する。
1897年12月
 リチャード=ホジソン(42歳)、「第2次パイパー報告」で初めて霊の存在を認める。
1898年
 小説家ヘンリー=ジェイムズ(55歳)、恐怖心理小説『ねじの回転』を発表する。
1898年10月
 物理学者ウィリアム=クルックス(66歳)、イギリス学術協会の会長に就任するが、変わらず霊や超能力の存在を主張する。


シャルル=ロベール=リシェ(Charles Robert Richet 1850~1935年)
 シャルル=ロベール=リシェは、フランスの生理学者。1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。アレルギー研究の父でもある。
 パリ大学に入学後、医学を学び外科医を目指すが、生理学を志すようになる。1869年に医学博士号を取得後、1878年には理学博士号も取得。1879年にパリ大学医学部生理学講師に着任、1887年には生理学教授となる。1913年、アナフィラキシー・ショックの研究によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。体温調整機能の研究も業績の一つである。1927年に大学を引退後は、平和論の推進、航空科学の研究、精神感応術の研究を進めた。
 心霊現象の研究でも知られ、1905年には心霊現象研究協会(SPR)の第8代会長もつとめている。1893年には当時話題になっていたイタリア人霊媒師エウサピア=パラディーノを調査する過程で、エーテル体を物質化または視覚化する半物質を発見し、「エクトプラズム」という新語をつくりだしたことでも知られている。


チェーザレ=ロンブローゾ(Cesare Lombroso 1835~1909年)
 チェーザレ=ロンブローゾは、イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者である。「犯罪学の父」とも呼ばれることがある。
 ロンブローゾは心霊研究家(心霊主義者)としての顔も持っていた。1891年、彼を含む6名の学者からなる委員会は、当時の有名な物理霊媒師であったエウサピア=パラディーノがミラノで開催した交霊会に立ち会って調査を行い、彼女が起こした心霊現象について「真実である」と判断した。


ネリー=タイタス事件
 1898年10月にアメリカ合衆国ニューハンプシャー州で発生した超常現象事件。失踪した少女の霊を感じ取った近所の主婦ネリー=タイタスが少女の遺体を発見した。事件を公表した ASPRのウィリアム=ジェイムズは、ネリーの霊視能力を科学的に確かに存在していると認めた。


1900年8月
 SPRの創設者ヘンリー=シジウィック、死去(62歳)。
1901年1月
 SPR第5代会長フレデリック=マイヤース、死去(57歳)。
 イギリス帝国皇帝ヴィクトリア1世、崩御(81歳)。
1902年
 ウィリアム=ジェイムズ(60歳)、自身の哲学講義を基にした『宗教的経験の諸相 人間性の研究』を発表する。
1905年12月
 ASPRのリチャード=ホジソン、死去(50歳)。
1906年1月
 霊媒師レオノーラ=パイパー(47歳)の交霊会に、死亡した直後のリチャード=ホジソンの霊が出現する。
1906年12月
 オリヴァー=ロッジらSPR、レオノーラ=パイパーをロンドンに招き2回目の検証実験を行う。
1908年12月
 SPR、イタリア・ナポリで霊媒師エウサピア=パラディーノ(54歳)の交霊会の検証実験を行い、パラディーノの霊能力を改めてトリックでないと認める。
1909年
 SPRのウィリアム=バレット(65歳)、霊媒師パイパーやパラディーノに関する長年の研究をまとめた著書『新しい思想世界の入り口で』を発表する。
1909年12月
 ハーヴァード大学の心理学者ヒューゴー=ミュンスターバーグ(46歳)、パラディーノの交霊会のトリックを暴露し、SPRのウィリアム=ジェイムズを批判する。
1910年8月
 ウィリアム=ジェイムズ、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州の自宅で死去(68歳)。
1918年
 霊媒師エウサピア=パラディーノ、死去(64歳)。
1919年
 故ヘンリー=シジウィックの義弟であるノーベル賞物理学者レイリー男爵ジョン=ストラット(77歳)、SPR第13代会長に就任する。
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読書メモ 『幽霊を捕まえようとした科学者たち』 第1章

2016年09月03日 20時18分45秒 | すきな小説
ノンフィクション小説『幽霊を捕まえようとした科学者たち』(2006年 デボラ=ブラム)


エマヌエル=スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg 1688~1772年)
 エマヌエル=スヴェーデンボリは、スウェーデンの貴族・科学者・神学者・神秘主義思想家である。多くの場合、姓は「スウェーデンボルグ」と表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くがイギリスの大英博物館に保管されている。スウェーデンボリによる霊界の描写は、現代人に起こる臨死体験と共通点が多いとされる。両者に共通する点は、広大なトンネルを抜ける体験や光体験、人生回顧や時空を超えた領域を訪れる体験などである。


実録幽霊体験談集『自然の夜の側』(1848年刊行 イギリス)
 児童文学者キャサリン=クロウが編集した実録幽霊体験談集。イギリス国内でベストセラーとなり、「ポルターガイスト」という言葉が一般化した。


ハイズヴィル事件
 1848年3月にアメリカ合衆国ニューヨーク州ハイズヴィル村で発生した、フォックス家の姉妹の周辺で発生した超常現象事件。フォックス姉妹が、霊と交流できると告白したことで一大交霊ブームを引き起こし、近代スピリチュアリズムのきっかけを作った。
 次女マーガレット(1838~93年)と三女キャサリン(1841~92年)の2人は、後に超常現象のひとつとされる「ラップ現象」を起こす事が可能で、死者の霊と音を介して対話や交信できる霊媒師として有名になり一大センセーションを巻き起こした。また、その現象に対して当時のマスコミや大学研究者を巻き込んでの騒動や論議となったことでも有名となった。
 この事件がきっかけとなり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて顕著になった交霊会や心霊主義による心霊現象研究が盛んとなった。特にアメリカやイギリスでこういった研究やイベントが盛んとなり、ヨーロッパ各国や日本にも、研究目的、好奇問わず広まってゆくこととなる。


1850年代初頭
 1840年代にアメリカで発祥した交霊会(テーブル・トーキング)がヨーロッパ諸国で大流行する。
1851年~
 霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム(18歳~)の交霊術が話題となり、イギリス国内にとどまらずヨーロッパ各国で一大ブームを巻き起こす。
1853年
 ヨーロッパの宗教界や物理学者マイケル=ファラデー(62歳)が、当時大流行していた交霊会を批判する書物や論評を発表する。


マイケル=ファラデー(Michael Faraday 1791~1867年)
 マイケル=ファラデーは、イギリスの化学者・物理学者で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。ファラデーは高等教育を受けておらず、高度な数学もほとんど知らなかったが、史上最も影響を及ぼした科学者のひとりとされている。「科学史上最高の実験主義者」とも呼ばれる。ファラデーはイギリス王立研究所初代フラー教授であり、死去までその職を務めた。
 ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している。


ダニエル=ダングラス=ホーム(Daniel Dunglas Home 1833~86年)
 ダニエル=ダングラス=ホームは、イギリスの有名な霊媒師。幼少時から霊能力があり、また結核にもかかっていた。 近代以降でもっとも強力な物理的霊媒師であり、生涯一度もイカサマだという証拠を掴まれたことはなく、部屋の暗さや静けさなども問題にしなかった。現象が起きないときも平然としており、慌てたりごまかそうとするようなことはなかった。
 彼の心霊現象を見た者の人数が桁はずれに多く、さまざまな王室の人々や著名人も含む。またウィリアム=クルックスのような研究者の調査にも快く応じている。それでもヒュームを詐欺師として非難する者は多かった。
 物理的現象は非常に数多く報告され、スケールが大きい。空中浮遊、身長が30センチ近くも伸びること(脚や腕などもそれぞれ伸びた)、真っ赤に燃える石炭で顔を洗ってみせたり、同席した者にも同じように触れさせること、テーブルやソファなどの重い家具が動くこと、ラップ音やさまざまな音、匂い、楽器の演奏、手が現れて出席者と握手したり品物を運んだり楽器を演奏したりとさまざまな動作をすること、光や火球が飛ぶこと、部屋が地震のように激しく振動すること、霊の全身が物質化して出席者に見られること、入神して(知らない言語でも)話すこと、霊の姿を見て会話すること、等々である。
 霊との通信内容に関しては他の一般的な霊媒師とそれほど際立った違いはなく、同時代のアンドリュー=ジャクソン=デイヴィスやウィリアム=ステイントン=モーゼスなどのように一貫した思想を伝えることはなかった。
 性格は穏やかで紳士的、禁欲的だった。経済的に逼迫したときにも、心霊現象を見世物にしたり相談に乗って金儲けをしたことは一度もなかった。機会があれば一般人にも現象を無料で見せていたという。


1857年
 アメリカのハーヴァード大学研究チーム、ニューヨーク州バッファローの霊媒師アイラ&ウィリアム=ダヴェンポート兄弟の霊媒ショーのトリックを暴けず心霊ブームに拍車をかける。
1858年7月
 イギリスの博物学者チャールズ=ダーウィン(1809~82年)とアルフレッド=ラッセル=ウォレス(1823~1913年)、共同で「自然淘汰説」を発表する。
1859年11月
 チャールズ=ダーウィン(50歳)、『種の起源』を出版する。
1860年2月
 イギリスの生物学者トマス=ヘンリー=ハクスリー(1825~95年)、ダーウィンの進化論を弁護する議論をイギリス国教会と展開し、科学界と宗教界との対立を激化させる。
1864年
 イギリスの詩人ロバート=ブラウニング(Robert Browning 1812~89年)、交霊会のトリックを暴露する詩『霊媒スラッジ氏』を発表する。


アルフレッド=ラッセル=ウォレス(Alfred Russel Wallace 1823~1913年)
 アルフレッド=ラッセル=ウォレスは、イギリスの博物学者・生物学者・探検家・人類学者・地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を2つの異なった地域に分ける分布境界線「ウォレス線」を特定した。そのため「生物地理学の父」と呼ばれることもある。チャールズ=ダーウィンとは別に独自の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を決断した。また、「自然選択説」の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした19世紀の主要な進化理論家のひとりである。その中には自然選択が種分化をどのように促すかという「ウォレス効果」と、「警告色」の概念が含まれる。
 心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させた。イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者のひとりでもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は『マレー諸島』(1869年)として出版され、19世紀の科学探検書として最も影響力と人気がある一冊だった。
 ウォレスは1861年に義兄に宛てて、「人類の多数にとってある種の宗教は必要である」と書いた。ウォレスはまた骨相学を強く信じており、若い頃から催眠術にも関心を持っていた。レスターの学校では生徒たちを使って実験を行った。彼はまず催眠術の実験から始めた。これは論争の的であった。ジョン=エリオットストンのような初期の催眠術の実験者は医学界と科学界から厳しく批判された。ウォレスの催眠術に関する経験は後年の心霊主義の調査に引き継がれた。
 1865年に姉ファニーと共に心霊主義の調査を始めた。まず文献を調査し、その後は交霊会で観察した現象をテストした。そしてそれらは自然的な現象であるという信念を受け入れた。ウォレスは少なくともいくつかの交霊会での現象は本物だったと確信していた。たとえ多くの詐欺の告発が行われても、トリックの証拠が提出されても、彼にとって問題ではなかった。
 歴史家と伝記作家は、いったい何がウォレスに心霊主義を受け入れさせたかで意見が一致していない。ある伝記作家は婚約者に婚約を破棄された時に受けた衝撃を示唆した。他の研究者はそれに対して、物質界と非物質界、自然界と人間社会のあらゆる現象に対して科学的で合理的な説明を見つけたいというウォレスの願望を強調した。心霊主義は完全に唯物論的で機械論的な科学にさらされており、イギリス国教会のような伝統的な教義を受け入れがたいと感じていた教養あるビクトリア朝時代の人々の心に響いた。しかしウォレスの視点を深く追求した研究家は、これはウォレスの科学や哲学の問題ではなく、宗教に関する問題だったと強調した。
 心霊主義と関係した19世紀の知識人には若い頃のウォレスが憧れた社会改革者ロバート=オーウェンや、物理学者ウィリアム=クルックス、ジョン=ウィリアム=ストラット、数学者オーガスタス=ド=モルガン、スコットランドの出版業者ロバート=チェンバースなどがいた。
 ウォレスの心霊主義の公然とした支持と、心霊主義に向けられた詐欺の告発に対する擁護は1870年代に彼の科学的評判を傷つけた。以前は親しいであった同僚の科学者たち、例えばベイツ、ハクスリー、ダーウィンとの間は緊迫し、彼らはウォレスがあまりに信じやすいと感じた。他の人々、生理学者ウィリアム=カーペンターや動物学者レイ=ランケスターは、この問題に関して公然とウォレスの敵対者となった。ウォレスと他の心霊主義擁護の科学者(特にウィリアム=クルックス)は、当時のマスコミから広い批判を受けた。


ヘンリー=シジウィック(Henry Sidgwick 1838~1900年)
 ヘンリー=シジウィックは、イギリスの哲学者・倫理学者である。
 1859年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのフェローに選ばれ、そこで古典学の講師になり、10年間その職に就き、1869年、その職を以前から彼が注目していた道徳哲学の講師職と交換した。
 同年、イギリス国教会の信仰告白を拒否したため、フェローシップを辞退した。彼は講師職は維持し、1881年に名誉校友に選ばれた。1874年、初めて世間での評判を勝ち取った『倫理学の諸方法』を出版した。1875年、トリニティの道徳・政治哲学の講師に指名され、1883年に哲学のナイトブリッジ教授に選ばれ、さらに1885年にケンブリッジ大学はもう一度彼をフェローシップに推挙した。
 シジウィックは教職員や著述家としてだけでなく、大学の運営や、多くの社会・慈善事業に積極的に貢献していた。また、「イギリス心霊現象研究協会」の設立者のひとりであり初代会長で、形而上学協会の会員だった。彼の名が最も知られているのは、女性の高等教育の促進への貢献である。
 彼は心霊現象に深い関心を持っていたが、彼の活動力は宗教と哲学の研究に優先的に注がれていた。イギリス国教会のもとで育ったシジウィックは、伝統的なキリスト教からは離れ、1862年には早くも自分を無神論者とみなしている。従って彼はキリスト教を「社会学的視点からは不可欠でかけがえの無いもの」とみなしてはいたが、自身が宗教を受容することはできなかった。


フレデリック=ウィリアム=ヘンリー=マイヤース(Frederick William Henry Myers 1843~1901年)
 フレデリック=ウィリアム=ヘンリー=マイヤースは、イギリスの古典文学者・詩人・心霊研究の開拓者。また初期の深層心理学研究における重要な研究者であり、ウィリアム=ジェイムズ、ピエール=ジャネ、カール=グスタフ=ユングらに影響を与えたと言われている。
 幼いころからギリシャ語、ラテン語を中心とする古典教育を受け、14歳で詩のコンテストに優勝するなど才能を示し、次代を担う詩人になると期待されていた。詩人として立つ夢とその重責の間で葛藤し、最終的に詩人となることをあきらめるが、彼の詩人としての本質やロマン主義復興の影響は、後の心霊主義の研究にも表れている。『聖パウロ』(1867年)、『洗礼者聖ヨハネ』(1868年)など数多くの詩作に加えて、古典語の知識を生かしたプラトン、ホメロス、アイスキュロス、ルクレティウス、ウェルギリウス、ホラティウス、オウィディウスなど古代ギリシア・ローマ文学の研究、ワーズワースの評伝などの業績が知られている。
 牧師の息子であったが、信仰と理性を和解させることができず、キリスト教から離れた。青年期は同性愛者であったという。キリスト教を離れたことで、霊魂が死によって消滅するという不安に悩み、1873年以降は知人が開いていた交霊会に積極的に参加し、オックスフォード大学出身の霊媒師ウィリアム=ステイントン=モーゼスの交霊実験に感銘を受ける。霊魂の死後存続の予感から、その証明のために心霊主義の研究を行い、彼の神なき世界において神のような存在であった恋人アニー=イライザの死を契機に、本格的に心霊主義を研究するようになった。1882年には、師であるヘンリー=シジウィックらと共に「イギリス心霊現象研究協会(SPR)」を創立した。
 当初は死者の霊との交流を目指していたが、心霊現象そのものについても思索を深めていった。精力的に心霊研究を行い、イギリス心霊現象研究協会の会報に論文を発表し、当初は全ての論文に目を通し学術的水準の高さを保った。全2巻からなる大著『人間の人格とその死後存続』(死後刊行)は、彼の心霊研究の集大成であると共に、心霊主義の契機となったハイズヴィル事件(1848年)以降の心霊現象全体を統一的に俯瞰する内容であり、「潜在意識」、「天才における潜在意識の奔出」、「催眠現象」、「自動現象」などが扱われている。後の心霊学に多大な影響を与えた。彼の「心霊主義(超心理学)」の研究と「サブリミナル・セルフ(閾下自我)」というアイデアは当時大きな影響を与えたが、主流派の科学者には受け入れられなかった。
 マイヤーズは科学界からは白眼視され、宗教からは非難されていた事象を研究し、宗教の根本教義に関わる魂の死後存続や、キリストの復活を始めとする諸現象を、科学的に証明しようと考えた。人格の一部は、外見上身体組織とは独立した仕方で作動でき、分離した人格はメタエーテルの場でその活動が顕在化すると考えた。これが霊であり、存続する個人エネルギーの顕現であるとした。人間の識閾上の部分でのコミュニケーション(知的・意識的交渉)が存在するのと同じように、識閾下の部分(無意識)でのコミュニケーションが存在するに違いないと考え、テレパシーはそこに関わってくるのではないかと推測した。よって、人間は互いに四肢(メンバー)であり、識閾下の部分で常に交渉しているのだから、テレパシーは愛の証明になり、これが聖者たちの共同体の地上における始まりであると考えたのである。
 彼が創案した「超常 supernormal」、「テレパシー telepathy」などの用語は現在も使われている。霊による現象と、霊媒師や同席者の潜在意識やテレパシーによる現象を区別しなければならないと考え、厳密な調査や実験を行った。この考え方は後の SPRの懐疑主義、特に心霊現象のほとんどは潜在意識とテレパシーによるものだとする姿勢につながったとも言われる。


1868年
 ウィリアム=ジェイムズの弟の小説家ヘンリー=ジェイムズ(25歳)、自身初の恐怖小説『古衣装の物語』を発表する。
1869年4月
 アルフレッド=ラッセル=ウォレス(46歳)、「自然淘汰には神の存在が関係している」という論文を発表し、ダーウィン(60歳)やハクスリー(44歳)と対立する。


ウィリアム=クルックス(Sir William Crookes 1832~1919年)
 サー・ウィリアム=クルックスは、イギリスの化学者・物理学者である。タリウムの発見、陰極線の研究に業績を残している。
 1848年にイギリス王立化学大学に入学し、ドイツから来たアウグスト=ホフマンの下で有機化学を学んだ。グスタフ=キルヒホフの分光学研究に刺激を受け、自らも分光学に転じた。1861年には、分光分析により、硫酸工場の残留物からタリウムを発見した。
 1875年ころから、陰極線(放電現象)に興味を持ち、従来より真空度の高い放電管を作って研究を行った。クルックス管を発明し、この中に羽根車をおいて陰極線をあてて回転させた実験は有名である。この実験により、陰極線は帯電した微粒子からなることを明らかにした。この微粒子はその後「電子」と名づけられ、その性質が明らかにされていった。
 クルックスはクルックス管で実験を行うと、周囲の写真乾板を露光させる現象があることを認識していたが、それを深く追求はしなかったため、X線発見の機会を逸してしまった。15年後、同様の現象を見出したレントゲンにより、X線が発見された。
 物理学に留まらず、様々な分野における研究を行った。例えばテンサイからの砂糖製造の研究、フェノールの防腐作用の発見(1866年)、ダイヤモンドの起源に関する研究、都市排水に関する研究といったものである。また、1860年代後半から心霊現象の研究をはじめた。「心霊現象研究協会(SPR:Society for Psychical Research)」の創設メンバーに加わり、1896年には第4代会長に就任した。
 1871年、信奉者の間で「霊媒の王者」と呼ばれていた霊媒師ダニエル=ダングラス=ホームについて研究し、「ホームの心霊現象にはトリックの片鱗すら見出せなかった」との結果を発表した。 また、1872年からその真偽をめぐり論争が起っていたロンドンのフローレンス=クックという17歳の女性霊媒師についても研究を始めた。クックが自身のエクトプラズムを使って物質化させたというケイティ=キングと名乗る霊の脈拍を測ったり、何十枚もの写真撮影を行なった。そして、クルックスはクックの起こす現象は本物であると発表した。多くの科学者はクルックスは騙されたか、発狂したのだと考えた。それらに対し、クルックスは「私はそれが可能だと言ったのではなく、事実だと言ったのだ。」と反論した。クルックスは妻と共に、クックが1904年に他界するまで面倒を見続けた。


1874年
 化学者ウィリアム=クルックス(42歳)、霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム(41歳)の霊媒ショーにトリックが無いとの結論を下し、未知のエネルギー「心霊力」の存在を論文で発表するが、ダーウィン(65歳)、ハクスリー(49歳)、イギリス学術協会会長ジョン=ティンダル(54歳)ら科学界の主流派からは徹底的に非難される。
 ダーウィン、ハクスリーの主催した霊媒師の交霊会を検証しトリックを暴く。
1875年
 ケンブリッジ大学の哲学者ヘンリー=シジウィック(37歳)、古典文学者フレデリック=マイヤース(32歳)、心理学者エドマンド=ガーニー(28歳)、霊媒師の霊媒ショーの研究を始める。
1876年
 霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム(43歳)、同業者のトリックを暴く著作を発表し、心霊現象肯定派のウィリアム=クルックス(44歳)と対立する。
 クルックス、霊媒師フローレンス=クック(20歳)との不倫関係疑惑をマスコミに騒がれ心霊現象研究から身を引く。


ジョン=ティンダル(John Tyndall 1820~93年)
 ジョン=ティンダルは、イギリスの物理学者・登山家である。物理学者として一般に知られる業績としては、「ティンダル現象」を発見したことである。その他にも、赤外線放射(温室効果)、反磁性体に関して突出した業績を残した。
 登山家としては、アルプス山脈5番目の最高峰ヴァイスホルンの初登頂に成功した(1861年)。また、マッターホルンの初登頂を競い、1862年に山頂から標高230m下の肩にまで達した(その後エドワード=ウィンパーが1865年に初登頂した)。1868年にはマッターホルンの初縦走に成功している。なお、登山の元々の目的は物理学者としてアルプスの氷河を研究することであった。


フローレンス=クック(Florence Cook 1856~1904年)
 フローレンス=クックは、イギリスの有名な霊媒師。イギリス最初の完全物質化霊媒として有名。化学者ウィリアム=クルックスによる調査を受けた。
 1回だけ非常に原始的なトリックを暴かれたことがあり、また同じく物質化現象を起こすことがあった霊媒師ダニエル=ダングラス=ヒュームが「あれは本物ではない」と述べたという説もある。 一方で大量の証言、綿密な調査報告、写真があり、むしろあのトリックは何だったのか謎だという意見もあり、未だに真偽が取り沙汰されている霊媒のひとりである。
 ロンドンのイーストエンドに生まれ、幼少時から霊を見たり、その声を聞いたりすることがあったが、本人は想像だと思っていたという。15歳の時に自宅で交霊会を開くようになる。1872年4月、自宅でトランス状態に入ったところ「ケイティー=キング」と名乗る霊が現れ、以後3年間訪れて様々な現象を示すことを約束する。
 1873年、交霊会に出席したウィリアム=ボルクマンが、「ケイティー=キング」がフローレンスに似ていたため詐欺だと怒り、霊を掴む。驚いた他の出席者が慌ててボルクマンを取り押さえると、霊は消えた。ボルクマンがすぐにキャビネットを開けてみると、縛られたままのフローレンスが鼻血を出していたが、無事だった。ボルクマンはその後すぐ別の霊媒師と結婚したため、意図的にフローレンスの交霊会を妨害したのではないかという嫌疑がかけられた。なお、「ケイティー=キング」の容貌はあまり一定していなかった。基本的にはフローレンスに似た年恰好だったが、肌や髪の色が変わったり、顔立ちが変わったりすることもしばしばあったという。
 1874年2月、ウィリアム=クルックスがフローレンスと「ケイティー=キング」に関する調査を発表。しかし同年5月21日、「ケイティー=キング」が二度と現れないことを宣言して去る。フローレンスもその直後に結婚し、霊媒をしばしば休業するようになる。「ケイティー=キング」が去った後は「マリー」と名乗る霊が現れるようになり、交霊会で踊ったり歌ったりするパフォーマンスを行っていた。
 1904年4月24日のフローレンスの死の後、ウィリアム=クルックスは「自分の死後存続に対する確信の多くは、彼女の確かな霊媒能力による。」と再度宣言した。


エドマンド=ガーニー(Edmund Gurney 1847~88年)
 エドマンド=ガーニーは、イギリスの心理学者・作家。
 初期SPR を支えた研究者のひとり。古典、音楽、医学、法律など様々な領域を学ぶ。1883年からは心霊研究に没頭し、特に催眠やテレパシーを研究。テレパシーはガーニーによって最初に報告された。「彼は、あらゆる十分な技能をもって催眠の心理学的側面を研究した、最初のイギリス人である。」(マイヤース)
 鋭い知性とユーモアと暖かい人柄で友人が多く、ウィリアム=ジェイムズ、サミュエル=バトラー、ジョージ=エリオットなどと親交があった。聖職者の家庭に生まれ、少年時代に両親と死別、さらに姉妹の3人がボートの事故で死去。ガーニー自身も躁鬱病と顔面の慢性神経痛を抱えていた。ヴィクトリア朝文化の楽観的な雰囲気の中、ガーニーの著述には醒めた悲観的なものが多く、異彩を放っている。1888年6月に死去。いつも顔面の神経痛の緩和に使っていたクロロホルムの誤用による事故死だったが、後に自殺説も取り沙汰された。
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