長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

山梨、山梨、うっさい!!  ~映画『太陽の坐る場所』 かなりおもしろかったです~

2014年10月28日 20時26分37秒 | ミステリーまわり
 へっへっへ~い。どうもこんばんは! そうだいです。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました。
 いやはや、ついに10月もおしまいが見えてきまして。秋ですね~。寒くなってきましたね~。
 私も、いちおう関東地方で迎える秋はこれがしばらくの見納めという気持ちで毎日を送っていますと、今までよりもいっそう感慨深く、夏が遠ざかって冬が近づいてくる変化を感じることができます。今までたいへんお世話になりました……

 ただ、しみじみ感じ入っているばかりでもなく、いろいろと毎日毎日、お仕事のないときにもやらなければならないことは山積みになっていまして、なかなかのんびりしてもいられない時期になってきました。正直言って、思うとおりにいかずもどかしい気持ちになることもしばしばなのですが、こればっかりはあせっていても仕方がない、ということもあるし……気長にいきたい、しかし時間の浪費は許されないという静かな緊張感が続いております。まぁとにかく、カゼだインフルエンザだには足元を救われないように健康第一で! あ、あとエボラも。

 そうこういう中、本日も千葉の中心市街地に行って、いくつかの仕事とか用事をすませる……前に、映画館で映画を観ました。
 え? いや、アレですよ。別に優先順位的に映画のほうが上だから先にしたってわけじゃないんですよ。観たい映画が朝イチの午前9時からの回しかやってなかったからさ……私だって、早起きする必要のない日は、いつもよりも長めに眠っていたかったんですが、1日に1回しか上映してないって言われたら、そりゃ松屋で朝定食(焼き魚)たのまざるを得ないでしょ。も~、なんで朝にしかやってないのよ!



映画『太陽の坐る場所』(2014年10月4日公開 102分)

 辻村深月の第7長編小説『太陽の坐る場所』(『別冊文藝春秋』2008年1~11月号に連載)を原作とする。山梨放送開局60周年記念作品。


あらすじ
 高校卒業から10年。毎年開かれてきたクラス会に、人気女優となったキョウコは今回も出席しなかった。元同級生たちは次こそキョウコを呼ぼうと、それぞれの思惑を胸に画策するが、高校時代の苦い思い出がひとりひとりの脳裏に蘇る。キョウコの欠席は、あの出来事が原因なのか……?


おもな登場人物
※原作では、物語の舞台となる県立藤見高校は、東京都に接する田舎「F県」に存在するという設定になっている。

キョウコ …… 木村 文乃(26歳)、高校生時代のキョウコ …… 吉田 まどか(17歳)
 女優。映画『アマノ・イワト』で天宇受賣命(アマノウズメノミコト)を演じてその演技と踊りを絶賛され、以降はメディアでの露出が増えている。

島津 謙太 …… 三浦 貴大(28歳)、高校生時代の謙太 …… 大石 悠馬(19歳)
 クラス会の幹事。F県内の地方銀行に就職し、東京支店に配属された。

水上 由希 …… 森 カンナ(26歳)、高校生時代の由希 …… 山谷 花純(17歳)
 大手アパレルメーカー「ホリー」で働いている。ミーハーな性格で、会社ではキョウコと同級生だったと自慢している。

清瀬 陽平 …… 柿本 光太郎(20歳)
 高校生時代にキョウコと付き合っていた、隣の3年1組の生徒。学年の中心人物だった。

浅井 倫子 …… 椎名 琴音(21歳)
 高校2年生の終わりに転校した元同級生。現在は新潟県に住んで2人の子供もいる主婦。

高間 …… 水川 あさみ(31歳)、高校生時代の高間 …… 古泉 葵(17歳)
 F県の地元テレビ局の女性アナウンサー。

吉田 …… 中山 龍也(19歳)
 高校生時代に由希が付き合っていた彼氏。

高間の上司アナウンサー …… 山中 聡(42歳)
 高間に東京キー局からの引き抜きの誘いを勧める。


おもなスタッフ
監督 …… 矢崎 仁司(57歳)
脚本 …… 朝西 真砂
音楽 …… 田中 拓人
配給 …… ファントム・フィルム

主題歌 …… 『アメンボ』(2014年 藤巻亮太)
挿入曲 …… 『1905年10月1日、街頭にて』第2楽章『死』(1905年 レオシュ=ヤナーチェク)
       ジョルジュ=ビゼー『カルメン』より『ハバネラ』(2012年 ヴァスコ=ヴァッシレフ)
       『西小山サマーアイランド』、『愛の鼓動』(2012年 ジャバループ)
       『永遠と一瞬』(2005年 レミオロメン)
       


 というわけでありまして、他ならぬ辻村先生原作の映画化なんでありますから、こりゃもう這ってでも観にいかなければなりませんでした。といっても私、WOWWOW の『鍵のない夢を見る』はいまだにチェックできてないんですけどね。今月の頭に DVDがリリースされたんですよね? ヒーコラ働いて買うしかありませんかねー。このわたくしが TVの連続ドラマの DVDを買うとは……自分でもビックリです。それにしても、ドラマの DVD化って、丸一年待たなきゃいけないものなんですかね? それとも、この『鍵のない夢を見る』が特別に遅いんだろうか?


 そんでもって本題の『太陽の坐る場所』なんでありますが、これがまた……原作者のファンを自認する私からすれば、ずいぶんと不思議な映画だったんだ。

 それはもう、原作小説を最後まで読んだ方だったら、どなたにでも共感していただけることかと思うんですが、映画版の『太陽の坐る場所』は、本編を1秒たりとも観ずとも、それ以前に映画のあらすじを読んだ時点で、もしくは映画のキャスティング表をながめた時点で、「え! そこ、言っちゃうの!?」と仰天してしまう采配がほどこされています。

 まぁ、それは「殺人事件の犯人やトリックを最初からぶっちゃけている」というような致命的なものではないのですが……いや、読む人の「読み方」によっては、そのくらいのレベルにもとられかねない大ごとなのかもしれないけど……

 とにかくはっきり私が言えることは、これほど「原作未読者おことわり」な映画も珍しい! ということなのであります。
 いや、それは「原作を読んでいなければストーリーがまったく理解できない」という、原作の後日談みたいな、『新世紀エヴァンゲリオン』の旧劇場版みたいな不親切さではなくて、映画は映画で、誰でもひとつの物語を楽しむことができる構図にはなっているんです。いるんですが、その物語に関する「情報の提示の仕方と順番」が、原作と映画とでまるで違うんですよね。
 簡単に言えば、原作はミステリーなんですが、映画はミステリーじゃないんですよ。映画は、「ミステリーの解決篇」だけの映画化だったんですね。それでも、だいたいのミステリーで、探偵に真相を暴かれた後に真犯人が語る「犯行にいたるまでの経緯」が、「表」の事件そのものに匹敵するくらいに、「裏」に流れるひとつの物語になっているように、この映画『太陽の坐る場所』も、小説『太陽の坐る場所』に対応するネガのポジションで成立しているわけなのです。

 つまり、原作小説は後半の展開で、作品がミステリーであるゆえんともいえる「読者の感覚のちゃぶ台返し」が華麗にキマります。その後に、読者が「あぁ~、あれがこうで、これがあぁなってたのか!」とスッキリする「脳内映像の修正」が展開されていくわけなのですが、まさにそこが一連の映画版の物語である、のではないのでしょうか。

 ですから、原作小説がミステリーで、映画版がミステリーでないのは至極当然のこと、となるわけなのです。映画版の物語は「謎が謎でなくなった」あとの、「ある人物の回想の物語」なのですから。 TV のサスペンス劇場でいう「前門の断崖、後門の船越英一郎か片平なぎさ」シーンだけをひとつの作品にした、っていう感じなんですね。

 もちろん、だからといって映画『太陽の坐る場所』が、真犯人が事件の真相を告白する「倒叙ものミステリー」のようなわかりやすいものである、というわけではありません。まなざしはもっともっと高い視点から送られていて、単純明快な真犯人も名探偵もいないこの物語の、全ての登場人物の「真相」をわけへだてなく容赦なく暴いているのです。それこそ、「おてんとさまにかくしごとはできねぇ」という日本古来の道徳の物語ですよね。


 難しいですねぇ。まず、原作を読んだ後でこの映画を観るというのは、非常に適切な順番だと思います。ただ、その逆は……それぞれ「別の作品」として楽しむことはできると思うのですが、映画を観た後に原作を読んだら、ただひたすら「なんてもったいないことをしてくれてるんだ、この映画は!?」という思いが沸き起こるんじゃなかろうか。

 ただし、おそらくこの映画の監督は、ミステリーである原作小説ぜんたいの映像化を早々に断念したぶん、非常に細密に「ある登場人物」の心もようを描き出すことに全力を投入しており、そこは大いに成功していると感じました。だから、映画は映画でおもしろかったんですから、それはそれでよかったのではなかろうかと思うんですねぇ。
 そして、その人物を中心にガッチリすえて、あくまで彼女と、彼女が現在、自らのかたくなな意思でその身を置き続けている故郷の土地の存在感を常にアピールしつつ、その上で周辺のキャラクターたちの掘りさげをおこなっていくという物語の一貫性もかなりしっかりしていたので、そのぶんだけ、私はあの映画版『ツナグ』よりも、この『太陽の坐る場所』のほうがよっぽどおもしろかったです。映画版『ツナグ』はほら、中盤の橋本愛さん無双が良くも悪くも作品全体のバランスを崩しちゃってましたからね。


 しっかしまぁ~、なにはなくとも、さすがは「山梨放送開局60周年記念作品」であります。原作小説ではちゃんと「F県」ってフィクションになっていたのに、登場人物たちがいた地元の風景がどこからどう見ても山梨県です本当にありがとうございました!!
 いちおう、私の記憶している範囲では、さすがにセリフで「山梨」や「甲府」という固有名詞は出てこなかったと思うのですが、地元の TV局で花形アナウンサーをつとめている高間さんが「山梨学院大学」の受験会場をリポートして、自分自身もそこの出身だと明言するシーンもあったのですから、それはもう山梨県であるといわざるを得ないというかなんちゅうか。
 そうでなくても、東京に隣接していながらも近くはなく、見わたす限りのぐるりを高い山々に囲まれた盆地であり、比較的寒そうな空気の早朝を高校生たちが自転車に乗って元気に登校していく、そして話す言葉は「~し」や「~じゃん」の甲州弁ときたら、そりゃあね。

 言うまでもなく、今回、映画『太陽の坐る場所』を手がけた矢崎仁司監督と同様に、辻村先生は山梨県の出身だそうですし、原作の『太陽の坐る場所』や、その後の長編小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』や『水底フェスタ』などは特に、山梨県が舞台になったと思われる描写が目立つ作品であるわけなのですが、そこはおそらく意図的に、読者に対する作品の普遍性をかんがみて、特定の地方色が強調される「方言」は、辻村ワールドでは極力排されていたかと思われます。そういう配慮は、山梨色はないけどやっぱり地方ものの『島はぼくらと』もそうでしたよね。

 そこをまぁ、映画版はこれでもかというほどに山梨、山梨で染めあげちゃってさぁ! いや、いいですよ? いいんですけど、そんなにアピールしてこなくてもいいじゃないっすかぁ! もういいじゃないのよ、『花子とアン』だけでさぁ。なにもそんなに山梨でひとりじめしなくてもいいじゃないかとも思っちゃうんですけど……山形県生まれのわたくしといたしましては! もうさぁ、クライマックス近くで出てきた、大きな川の堤防下の河川敷シーンも、まさか「信玄堤」なんじゃないだろうなと肝を冷やしましたよ。そうじゃなかったみたいだけど。

 ただ、物語の中で登場人物たちをつなげる重要なキーワードとなる「母校の同窓会」というものの性質を考えてみれば、県にいる側も、県を離れて大都会に住んでいる側も「集まろうと思えば集まれる」という絶妙な距離感にある山梨県は、やっぱり『太陽の坐る場所』の舞台としては非常に的確なんですよね。山形はダメだずねぇ~、東京が遠すぎっがら! 関東に行っちゃったら、もうよっぽどの親友でないかぎりお互いに「生死不明」ですよね。
 それでもムリに考えれば、「山形」と「仙台」で『太陽の坐る場所』はできるかな……いやいや、仙台に東京の代役つとまるか!? あ、いや、仙台さん、別になんでもありません、すんません……

 そういえば、東京で生活しているデザイナー(気取りの会社員)の由希がふと思い立って帰郷したシーンで、由希がおそらくは電波のいい場所で通話しようと思ってか、実家のベランダに出てスマートフォンをいじくるくだりがあったのですが、その行動自体がなかなかに地方であることもよかったのですが、夏という設定でグダグダなTシャツを着くずして汗ばむ由希と、少し暗くなりはじめた午後6時ごろの、高さのない家屋だけが続く盆地の光景がたまらなく「いなかの夕方」という感じで、ものすご~くノスタルジックな気分にひたってしまいました。
 しかし、あえて注文をつけさせていただけるとするのならば、私はもうど~しても、アレをこのシーンで入れてほしかった!

 あれ、田舎の盆地いっぱいに唐突になりひびく、農家の鳥よけの「ッポォ~ン!!」っていう空砲!!

 地方の屋外シーンなんですからね、これが聞こえてこなければおかしいと思って固唾を呑んでいたのですが、結局それが意味なく高らかに鳴り響くことは、ついにありませんでした……矢崎監督、それはいかん! 実際に私、山梨県にあそびに行ったときに聞いたんだもの!! 確かあれは甲府市じゃなくて、その隣の笛吹市だったんですけど、おんなじ甲府盆地ですからね。


 とまぁ、いろいろと山梨の件で言いましたが、あくまでも物語は、全国統一的に画一化された「典型的なふつうの高校」の中で起きた過去の出来事と、その約10年後の現在を生きている「ふつうの大人たち」の心象風景とが、淡々とではありつつ巧みに交錯する構成になっており、さほどインパクトのある大事件も起きないふつうの時間の中にありながら、それでもふとしたきっかけでささやかな「悪意」や「疑念」が発生し、それがじょじょに肥大化し、侵蝕していって人物関係を変容させていくという、普遍的で繊細な情景をきわめて丁寧につづっています。アプローチの仕方はだいぶ違っていても、核心にあるテーマの重さはやっぱり辻村カラーというか、学校生活を経験したことのある日本人ならばどこかで必ずひっかかる「痛み」が仕掛けられていましたね。

 なんにせよ、この『太陽の坐る場所』を映像化するにあたって最も肝要なことは、原作が持ち味としているこの無数の「痛み」を、どのように出演する俳優さんがたが視覚化していくのか、という部分だと思うわけです。つまり、登場する人物たちが間違いなく、10年前に「ふつうの高校生」としての日々を経験していて、その3年間の中で忘れられない他者に出逢って、自分というものの存在を揺るがされるような衝突を味わう。その、ごくごく当たり前ではあるのですがものすご~くリアルで痛々しい記憶を、ちゃんと心の奥底に刻みながら大人になっている人たちなのか? というチェックポイントをしっかりとふまえているか。そこが大きな関門になるわけなのです。

 ただ、それって意外と、花の芸能界にひしめく容姿端麗な美男美女の俳優、女優さんがたには難しいことのような気がするんですよね。単純に、その作品の制作された時期に旬になっている、という方々だけを集めたキャスティングにしてしまうと、往々にして、「えぇ~、そんなに美少女なのにクラスで目立たないの?」とか、「お前がその顔でモテないのはおかしいだろ!」という違和感が、観客の作品全体への興味をそいでしまうことがあると思うんです。こういうスクールデイズものって。少女マンガじゃねぇんだから、なんなんだそのクラスの容姿レベルの高さは!? っていう問題ですよね。

 その点、この映画版『太陽の坐る場所』は、高校生時代も大人時代も、かなり絶妙に「もっさりした」空気を身にまとった方々がキャスティングされていたことに、私はなにげなくも深く感じ入ってしまいました。いや、ほめてます! ほめてるんですよ!!

 特に、主要キャラクターである4名の男女のうち、高校生時代のキョウコと高間と、大人時代の島津と由希を演じたみなさんが、まぁ~すばらしかったと思うんですね。

 高間を演じた古泉葵さんは、確かにクラスの女子陣営の中心に位置する輝きはありながらも、その人気のかげりを常に恐れている人並みな繊細さを持っている少女。キョウコを演じた吉田まどかさんは、もっさりを絵に描いたような目立たなさを基調にたもちつつも、化けようによっては将来、大女優に成長してもおかしくはないという説得力をその瞳に秘めているすごみがあったように感じました。まさしく高校生時代のキョウコは、爆発するエネルギーをひたすらたくわえ続けている、「ばくだんいわ」のような危険性を持った地味子さんを、寡黙ながらもびっくりするくらいに雄弁に演じていたと思います。そんな彼女が、誰もいない放課後の体育館でふら~、ふら~と踊り始める、そのドラマティックさですよね。ミステリー作品ではないわけですが、これは十二分にミステリアスですよ。でも、確かに私のクラスの片隅にいた「あの子」は、誰もいなくなった放課後の校舎のどこかで、人知れずそんなことをしていたのかもしれない! そのリアリティですよね。
 大人時代の由希を演じた森カンナさんの、「美女だけど、なんか惜しい」感もすばらしかったですね。タバコを馴れた手つきでスパーとふかすしぐさも、彼女が心酔しているらしい『ティファニーで朝食を』のヘプバーンの衣装を逐一再現できるルックスも言うまでもなくステキであるわけなのですが、そんな彼女がうだつの上がらない会社員であり、上司の男の都合のいいようにホイホイ動いてくれる軽~い女性であるという事実の哀しみが、それを本人がかたくなに認めないからなおさらクローズアップされるという、この痛々しさね! 地方都市で臆面もなくヘプバーンの真似事をし、電話では友人に平然と「え? いま、ニューヨーク。」と言い放つ悲劇を、無言でスクリーンを通して凝視する作品の冷酷な視線に、慄然とせずにはいられない「おてんとさま」の恐ろしさを見たような気がしました。これまた、高校生時代に泣きながら学校を飛び出して家に帰る経験をしたという過去が、こういう大人になってしまった由希、というキャラクターに不思議な説得力を持たせていたのではないのでしょうか。あの事件があったから、今のこの人生がある。高間とキョウコの関係もありつつ、ここにもひとつの物語がありましたね。青春は痛い!

 その一方、とかく女優さんが前に出る作品の中で、「リアルに気持ち悪い部分もある男子」という非常に重要なファクターをほぼひとりで担った、島津役の三浦貴大さんも良かったんですねぇ。
 三浦さんだって、普通にそこにいたら充分に男前だし、まぁよくよく見てみたら目元と口元が母ちゃんに似てるかな、というセクシーさも兼ねそなえた魅力あふれる俳優さんであるわけなのですが、そんな部分は極力おさえつつ、高校生時代の生き方がわざわいして、大人になった今現在もどことなく消極的ではっきりしない不器用さを全身からにじませる「いいひと」という人物を的確に好演していたと思います。
 大人になっても「それ」を肌身離さず持っているなんて、島津きもい! 実際にきもい私から見ても、それはきもい!! でも、その気持ちはわからなくもない。そして、そういうきもい部分を高校生時代の島津ではなく大人になったはずの島津がなおも引きずり続けていて、その象徴でもある「それ」を島津がやっと捨てたことによって彼の物語が未来へ動き始める、という一連の流れにも、他の女性たちの物語に勝るとも劣らないドラマティックさがあってよかったですね。
 はた目から見たら、転勤するにあたってサラリーマンのお兄ちゃんが身のまわりのものをまとめて捨てている、というだけの行為であるわけなのですが、そこに何かしらの決意を秘めていた三浦さんの表情はステキでした。だが、きもい!! ちょっと君、よりによってそれを何にも包まずに、がさっとゴミ袋の表面側に入れて収集所に出すのは、いくらなんでも危険なんじゃないのかね!? そこは島津らしく、もっと繊細に配慮しつつ捨ててほしかった……

 同じ男子として、物語の中に「まともな男」がなかなか登場してくれない、という展開は多少なりとも心苦しい部分があったのですが、作中に登場したら、明らかに周囲を揺るがす存在になっていたはずの「高校生時代の太陽」こと、リア充男子の清瀬陽平が意図的に遠い場所にいる、その位置関係も含めて、

「自分の人生を劇的に動かしてくれる、はっきりした超人的存在なんていない。でも、自分から探したら意外と近いところにいる。」

 という現実世界の哲理を、アプローチはちょっと違いつつも、映画版『太陽の坐る場所』もまた、ちゃーんと原作小説と同様におさえているんだな、ということを強く感じました。そこがあるんだったら、大丈夫ですよね。

 作中のキーワード「太陽はどこにあっても明るい」に込められた意味は、読む側の解釈によるのでしょうが、私はこれを、「太陽を暖かく感じるのも、うとましく感じるのも自分次第。」と受け取りました。そして、他人がどう感じようが、太陽は常に自分の変わらぬルールにのっとって、そこにあり続けているものなのです。さぁ、あなたは天動説派? それとも地動説派? 要するに、ほんとに宇宙の構造がどうなっているのかなんて、おそらくは地球の地面の上で生まれて死んでいくいち生物にとっては、けっこうどうだっていいことなわけで。そういう意味で、あくまでもこの『太陽の坐る場所』で語られる「太陽」とは、太陽系の中心にある恒星のことではなくて、『古事記』で語られるような「あまてらすおおみかみ」のことでなければならないわけなんですね。


 と、まぁいろいろくっちゃべってまいりましたが、この映画版『太陽の坐る場所』は、出演する役者さんがたが、派手な見せ場こそさほどはないものの、それぞれのポジションを非常に手堅く演じてのけている、小ぶりながらも全体的なバランス感覚に優れた名作であると感じました。太陽、太陽と言いつつも、その実は「天岩戸に隠れた太陽」の、長~い思索の心象をつづったようなほの暗い湿度を持った、繊細な作品。だからこそ、主人公たちの現在いる世界はクライマックスの再会シーンまでひたすら、つまらない俗物にまみれた閉塞感を持っており、その反面、折にふれて思い出される過去の高校での風景は、どことなく明るくノスタルジックな魅力にあふれているのです。あんなにイヤ~な時代だったのに。

 劇中、夢想する高校の校舎の中をさまよう高間の目の前で、現実では観たこともないような蟲惑的な笑みを浮かべたキョウコがピアノを弾いているという印象的なシーンがありましたが、そこでキョウコが弾いていた曲が、ヤナーチェクの『死』である、という演出は、まぁ~わかりやすく高間が恐れ、とはいいつつもどこかで魅力を感じているものの正体を言い表していたと思います。

 そして、人は生きている限り、そういう甘い誘惑と闘い続けていかなくてはならない、という厳しさをこれでもかと提示していく原作小説に比べて、映画版は多分に「敵側より」な甘めな作りかたになっていたかな、という気もするのですが、そこはそれ、そういったつれづれと苦闘する水川あさみさんの静かなたたずまいは、間違いなく辻村ワールドを体現するたくましさを陰に持っていたと思います。
 なんか、どっかの感想で「主人公の水川さんに魅力がない。」とかいうアホまるだしな声がありましたが、あの水川さんのどこをどう観たら魅力なく感じるのか教えていただきたいです、ホント! 悩める30代の美しい面差しのオンパレードだったじゃねぇかァア!! あれを観てどうとも感じないんだったら、死ぬまで10代アイドルとか CGアイドルの、きれいなだけのおゆうぎ会を眺めて暮らしてたらいいんじゃないですか。


 一点、私個人としては原作小説の中で最も魅力的に感じていた「しがない小劇団の女優・半田聡美」をはじめとする、味わい深い主要登場人物の大半の物語が豪快にカットされているという部分には少なからずもったいなさを感じ、そのあおりをくらったというわけでもないのでしょうが、全国的に有名な女優になったはずのキョウコの具体的な活動が、半田さんが出ているような抽象的な舞台演劇の稽古風景くらいでしか描写されなかったため、地方アナウンサー特有のパッとしない日々が詳細に描かれていた高間の位置から観たキョウコが、どのくらい輝かしい存在になっているのかという比較がイマイチはっきりしなかったのは残念でした。そこは徹底的にキョウコのサクセスぶりをアピールするべきだったのではないのかと感じたのですが、全体的に高間の鬱屈しかクローズアップされない印象になったのは、ちょっとテイストがかたよりすぎのような。

 非常に野心的な作りでありつつも、今回の映画版『太陽の坐る場所』は、全体的にはものすごく均整のとれた一貫性のある物語に仕上がっていたと思います。もっと原作小説のミステリー性を活かした映像化もあっていい気もしますが、まず、これはこれでひとつの興味深いこころみになったのではないのでしょうか。おもしろかったなぁ。比較的、小規模な形での劇場公開になっちゃったのはもったいないですよ、これ。


 まぁ、50代後半の男が作った映画が、当時20代の女性が執筆した小説よりも遥かに甘ったるくめめしいテイストになっているってのは、若干どうかと思うんですけどね……女子に鏡に反射させた光をあててニヤニヤするなんて、リア充男子グループがやる所業とは思えないんですが。きm……いえ、その、なに? 高踏的ですよね。

 日本男児よ、盗んだ女子の服なんか大空にほうり投げて、立ち上がれ! っていうか、盗むな!!
 盗まずに、正々堂々と「くれ!!」と叫んで徹底的にきもがられる……それがまことの青春だ。死屍ルイルイ♪
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『軍師官兵衛』  視聴メモ 第41回『男たちの覚悟』

2014年10月27日 11時45分26秒 | 日本史みたいな
『軍師官兵衛』第41回『男たちの覚悟』(2014年10月12日 演出・藤並英樹)


登場する有名人・武将の『信長の野望』シリーズでのだいたいの能力評価(テロップ順)

黒田 官兵衛 孝高  …… 知力84、統率力67
 (演・岡田准一)

徳川 家康      …… 知力102、統率力65
 (演・寺尾聰)

黒田 長政      …… 知力77、統率力63
 (演・松坂桃李)

浅井 茶々姫     …… 知力16、統率力21
 (演・二階堂ふみ)

母里 太兵衛 友信  …… 知力44、統率力80
 (演・速水もこみち)

後藤 又兵衛 基次  …… 知力14、統率力75
 (演・塚本高史)

石田 三成      …… 知力92、統率力60
 (演・田中圭)

井伊 直政      …… 知力69、統率力81
 (演・東幹久)

小西 行長      …… 知力72、統率力48
 (演・忍成修吾)

増田 長盛      …… 知力85、統率力37
 (演・有薗芳記)

豊臣 秀長      …… 知力83、統率力75
 (演・嘉島典俊)

本多 忠勝      …… 知力66、統率力84
 (演・塩野谷正幸)

榊原 康政      …… 知力45、統率力78
 (演・中村育二)

福島 正則      …… 知力45、統率力83
 (演・石黒英雄)

加藤 清正      …… 知力63、統率力81
 (演・阿部進之介)

千 利休
 (演・伊武雅刀)

豊臣 秀吉      …… 知力95、統率力94
 (演・竹中直人)


ざっとの感想

○官兵衛「徳川様……こたびの国替え、天下のためになるかどうかは、徳川様次第!」
 おぉ、ここで出ました、官兵衛の「秀吉とはもうやっとれんわ」宣言!! 豊臣政権はまだまだ続くんですが、けっこう早いうちに出ちゃいましたね。
 豊前国の城井騒動からず~っとわだかまっていた不信が、ついに今回の北条家処分で爆発した、というかたちになりました。なかなか、ここ5回ぶんほどの秀吉の暴君っぷりは常軌を逸したものがあり、それにしたがってみるみるうちに無口になっていく官兵衛の姿も痛々しいものがあったのですが、これも、元はといえば官兵衛はついつい口にしてしまった「ご運が開けました」発言に起因するものが大きいわけでありまして……
 視聴者としては、どんどん人としての魅力が下がっていく秀吉と、その陰湿なあてつけに苦悩する官兵衛を毎週観るのはツラいものがあるのですが、それだけ、ここ最近の脚本には一貫した流れがあるわけでね。信長時代にはいまひとつはっきりしなかった官兵衛中心の物語が、秀吉時代にはものすごく前面に押し出されていて、すばらしいことだとは思います。
 思うんですが……秀吉・ダーイシ・茶々の3人の魅力のなさがキッツいキッツい! 早くなんとかなってくれや~。

○右目の開きぐあいは相変わらずアレなんですが、なんだかんだいっても、やっぱり寺尾家康は精悍で肌ツヤが若々しいですよね! うん、確かに、秀吉の後の時代を担うエネルギーは持ってるわ。低音の声と身のこなしに言い知れぬスゴみがありますよね~。

●はい、予想はしてたんですが……ズコー! オープニングクレジットが終わって本編に入った瞬間に、全国の東北戦国大名ファン、枕をならべてみ~んなズコー!!
 東北平定がまるごとオールカット!? いや、気持ちはわかる! とっとと大陸出兵にいきたい気持ちはよくわかる!! でも……北条が滅んだからってハイ天下統一、ってさぁ! そりゃあ~いっぐらなんでもあんまりなんでねぇがず!?
 「源頼朝を超える史上最強の天下人」という目標を強く意識していた秀吉にとっては、例えそれがほぼ形式的な内容だったのだとしても、奥州の奥の奥までたいらげるという事業は非常に重要な意味があったと思うんですが……まぁ、確かに実質的な最後の強敵は北条家だったわけだし、しょうがねっか。
 これじゃあ、まるで九州と瓜二つの混乱っぷりを呈したその後の東北とか、翌年の九戸政実の乱とかもオール無視なんだろうなぁ……
 私自身は特に好きではないんですが、伊達政宗みたいな好キャラクターもドラマに出したらいいと思うんですが……ダメ? もう時間ない?

○官兵衛「耳の痛くなる言葉はいらぬとおおせであれば、それがしにはもはや殿下の軍師は務まりませぬ!」
 秀吉 「たわけたことを申すな! 貴様がこのわしの軍師になるかならないかは、このわしが決めることじゃあ!!」

 官兵衛と秀吉の決裂をしめす迫力の名シーンだったのですが、このときの秀吉の剣幕って、明らかに『秀吉』の渡信長のドスのきいたタンカを意識してますよね……江口信長じゃなくて。
 信長なんかハナにもひっかけない強大な権力を手中におさめた秀吉ですが……言ってることはただの成金わがままオヤジだからなぁ。人間、裕福になってもこうはなりたくないもんですね。

○ついに明帝国への出兵が間近になった段になって、李氏朝鮮王国にまったく話が通っていないという大問題が出来! その全権外交を務めたはずの小西行長は、まるでガキの使いにもならない、コンビニアルバイト初日の大学生のようなオロオロぶりを発揮!! 「ごめんなさい、まだ言ってない。」じゃないよと、あきれ返る官兵衛と利休。
 いや、そりゃあ朝鮮王国だってひとつの国家だし、そうすんなりと首を縦にふるわけもないのは当たり前なんでしょうが、話をしてないとは、いったい……穏便にすませられるとでも考えていたんでしょうか。国際戦争の話だっていうのに?
 小西の能力に問題があるのか、それとも、小西に否定的な報告をすることをためらわせた秀吉の恐怖政治がいけないのか。
 私も若いころは一方的に「小西、使えねぇ~!」などと考えていたんですが、年をとっていろいろな経験を積むと、これが段々と小西の肩も持ちたくなってくるようになるんですよね。中間管理職を苦しめるような職場は、いけませんよ……まぁ、小西は最低ですけどね。

○小西「正直に申しあげれば、それがしの首が飛びます……なにとぞ、お助けくだされ!」
 出ましたね~、この『軍師官兵衛』における、中川清秀に続く「悪役にもなれない最低ダメ人間」、認定でございます。
 なんでわしがお前の尻拭いを……という官兵衛のまなざしが哀しい。それにかまったら荒木村重の二の舞どころか、それ以上の崩壊が待っていることは間違いがありません。
 でも、まさかこんなにひどい役回りをさせられることになろうとは。小西本人も草葉の陰でオーマイゴッドですよ。

○今まで、政治に関してはかたくなに沈黙を守り続けていた利休が、ついに官兵衛もかくやというストレートな諫言を秀吉にぶつける!
 昔から、「秀吉 VS 利休」という名勝負は数多くの名優同士の演技対決で彩られてきましたが、やはり今回も、利休の権力にまったく動じない言葉の重みが勝りました。やっぱりすごいなぁ、利休って。
 それにしても、先ほどの秀吉 VS 官兵衛さえをも上回る名シーンだったわけなのですが、まるで官兵衛が2人いるような……ってか、実際に「新旧の」官兵衛役がそろい踏みしていたわけでしてね。伊武さんが利休を演じているというキャスティングが大いに奏功した共演でしたね! これにはさすがの竹中秀吉もたまらず逃走。

○利休「茶の支度が、できております。」
 う~ん、まさしく死にも動じない利休の境地が垣間見える最期のセリフでしたね。
 これにバカ正直な足軽が「あっ、切腹直前なのにスンマセン、じゃあ、寒いんでいただきます。」って答えて茶室に入ってくるまで、ちゃんとやんなきゃ! 畳びしょびしょ。

○今も昔も、夏の酷暑っていうのは身体の弱い人にとっては大敵なんですねぇ。「七五三」っていうくらいで、三歳になるまでが一苦労な時代だったんですもんね。でも、今でも「 SIDS(乳幼児突然死症候群)」だなんだって言いますから、いつの世も子どもは大切にしなきゃあいけませんね。もっとも鶴松丸だって、当時の日本の中では最高級の環境の中にいたんでしょうが。


結論、「第42回がとてもたのしみです。」

 序盤の天下統一という大ニュースも瞬時に消えうせてしまうかのような、豊臣秀長・千利休・豊臣鶴松丸の死の3連チャン!! 非常に重苦しいムードの回になってしまいましたね。まぁ、そうなるのはわかってるんだけどよう!

 そして、いよいよ大陸出兵になだれ込んでしまうわけなんですが……黒田父子は隠れもなく大陸戦線で大活躍してしまうわけなんですから、ここ最近の戦国もの大河ドラマの主人公たち(徳川家・前田利家・山内一豊・直江兼続・お江の方)のように、知らぬぞんぜぬの「エセ反戦スタイル」をとるわけにもいかないし。ドラマでどう描写されるのか、現代的な観点からみれば非常に大変な脚本の舵取りが予想されます! 「命を大事に」なんて言ってられな~い!!

 いよいよ終盤戦! がんばれ黒田ファミリー!!
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在りし日の名曲アルバム  鬼束ちひろ『流星群』

2014年10月26日 22時36分29秒 | すきなひとたち
鬼束ちひろ『流星群』(2002年2月リリース 東芝EMI)


 『流星群』は、鬼束ちひろ(当時21歳)の6thシングル。作詞・作曲は鬼束ちひろ、プロデュースは羽毛田丈史。CD のジャケット・レーベルの写真は、写真家の蜷川実花が撮影した。
 オリコンウィークリーチャートでは、最高7位を記録した。

収録曲
1、『流星群』(5分12秒)
・テレビ朝日系金曜ナイトドラマ『トリック2』主題歌
 自分の醜さを認めながらも、人との繋がりを無視しては生きていけないという内容の歌詞で、楽曲のテーマは「微熱っぽい体温」。本人曰く、「出るべくして出た曲」、「前作とリンクしている曲」であり、「『 infection 』で『爆破して飛び散った心の破片』が、この『流星群』で星になって降って来る。」としている。

2、『 Fly to me 』(4分53秒)
 オリジナルアルバムには未収録であったが、1stベストアルバム『 the ultimate collection 』(2004年12月)に初収録された。


 この『流星群』もですね、やっぱりいい曲なんですよねぇ。

 本人が語っているように、確かにこれは前作『 infection 』と強くつながっている作品であるわけなんですが、そのつながりかたが、さすがは鬼束ワールド、一筋縄ではいかないんですよね。
 つまり、前作で徹底的に「私って……私って!!」と独りでぐるぐると回転した末にドッカ~ンと自爆したような境地を経て、空高く爆散した主人公が遠い地にたたずむ他者を見つけて、「やっぱりあなたに逢いた~い!!」と叫び、ものすごいスピードで閃光、爆音を巻き起こしながら再び地上めざして急降下してゆく。その一連のドラマティックな自然現象を克明に観察した物語こそが、まさしくこの『流星群』なのでありましょう。

 さすが、『流星群』とはよく言ったものです。それ以上に的確な比喩があるかというくらいにぴったりなネーミングであるわけなのですが、ここで鬼束さんの作詞が一貫しているのは、あくまでもこの物語が「天を駆ける流星」の主観で描かれている、ということなのです。
 つまり、流星というものは尋常でない莫大なエネルギーをもって、激しく我が身を燃焼させながら地球に向かって疾走してゆくわけなのですが、あくまでも流星自身は、ある意味で自分の輝きが一瞬であることを透徹した視線をもって理解していて、その目に映る地球の風景は、まさしく走馬灯の中の物語のように、スローモーションでゆっくりと広がっているはずなのです。

 はたから観た彼女がどんなに烈しく燃えていようとも、彼女の中にある世界はあくまでもスローであり、その歌声はバラードなのである。

 これよね! この、「ものすごい爆発を胸に秘めていながらも、表に出すのはあくまでも静寂」という対比があるからこそ、鬼束さんの『流星群』は、単なる凡百の恋愛ソングに決して堕しないオリジナルな説得力を持っているのです。まぁ、そこまでガッチリと自分のある主人公を受けとめてくれる「あなた」なんて、果たしてこの世界にちゃんと実在してんのか? という一抹の疑念は胸をよぎるのですが、とにかく『流星群』の彼女の視線の先には、遥かな成層圏のかなたから彼女が見つけた「あなた」がいるはずなんですよ。
 いやぁ、並みの地球人だったら彼女の墜落に巻き込まれて「じゅっ。」と蒸発してしまうはずなんですが……なんという究極の愛のかたちか! 愛って、深いですね。私も、せめて心はスーパーサイヤ人でありたい。

 ともかく、この『流星群』の多幸感や贖罪感が『 infection 』の自己嫌悪と絶望の果てにあるものである、という表裏一体の構成はもう見事の一言に尽きるものがあり、やっぱりどっちかだけを聴いて鬼束さんの才覚を知ったような気になるのは、いかにも木を見て森を見ないことなんですね。そりゃあ誰にも会いたくない夜もあれば誰かに会いたくなる晴天もあるし、ひたすらもずく酢だけを食べたい日もあれば、極厚なステーキをドカンと食べたい日もある。それが人間っていうものなんですからね。

 もちろん、作品をもってそのアーティストの人格を知ったような気になるのは勘違いのもとなんですが、まずは鬼束ちひろさんという方が、だいたいここらへんの感情と感情の間を行ったり来たりしてさまざまな輝きを放つスタイルをとっているんだな、ということがだんだんわかってきたその端的な指標が、この『流星群』と『 infection 』の2作なのではないのでしょうか。もちろん、将来的にもっと新しい境地に入る可能性はあるわけなんですが、とにかくここらへんの自分を、誰よりも自分に正直に作品にすることができる才能にかけては、まったく他の追随を許さない鋭さと明解さがあったと思うんですね、当時の鬼束さんは。

 そして、『流星群』における鬼束さんの唄い方は、なんだか自分でできる限りギリギリのラインで、ゆっくり、ゆっくりと一字一句をしぼり出すように唄っているような必死感があります。もちろん音程もちゃんととれているし、基本的に極めて平静な感情で唄い上げられているわけなのですが、曲が進んでいくにつれて、ちょっとでも気がゆるんだら即座に『 infection 』の絶叫調に戻ってしまうかのような緊張感があるんですね。そこが見事なんだよなぁ。決して自分の唄いたいように唄っているわけではないんです。
 果たして、そこらへんの負荷が、彼女自身が自らに課しているものなのか、それともプロデューサーである羽毛田さんが設定しているものなのか。鬼束さんと羽毛田さんのタッグはこの後も続くわけなのですが、これらの傑作が両者のそうとうに微妙な関係のもとに生み出されているのは間違いないことだったんですね。人の心を揺さぶる作品をつくるのって、大変ねぇ。

 さて、とにかく鬼束さんの感情の一端をごくごく自然に発露させたものとして、非常にわかりやすく世に出た『流星群』だったのですが、その一方で、同じシングルに収録された『 Fly to me 』は、一転してものすご~く難解な出来になっています。

 『 Fly to me 』、つまり「飛んで来て」と「あなた」に呼びかけたい感情はあるものの、その想いが何かしらの理由で「あなた」に届かない状況にある「わたし」。その隔絶が、果たして両者のどちらに起因しているのか、そもそも感情の交流がある距離にあるのかどうか。そこまでもが判然としないあいまいさに満ちている歌詞世界なのですが、とにかくそういったモヤモヤした現状の中を生きている閉塞感が、ゆるやかに語られている作品です。
 その現状に対して烈しく「イヤ!」と拒絶の態度を示すわけでもなく、かといって自分から「あなた」に勇気をもってぶつかっていくのでもなく。なにをするでもなく、ただ心の中で「飛んで来て」とほのかに願っている、その日々をつづっている作品なのですが、そこらへんを「けっこう嫌いじゃないです。」という温かみをもって唄っている鬼束さんのゆる~い声が、『流星群』といい対比になっていてステキですね。

 ただし、間奏で唐突に、そして不気味に流れる、「びぃいよぉおお~んん……」というストリングスの音色を逆回転でスロー再生したかのような不協和音が、明らかにそういう状況の中で確実に「わたし」の中にしんしんと降り積もっていくストレスを象徴しているようで、まぁいつかはまたドカンとくる時期がやってくるんだろうな、という崩壊を予感させる不安は底流にしっかりわだかまっています。
 『 infection 』や『流星群』のような自らを烈しく燃やし焦がす時間もあれば、特にこれといって語るべき出来事もないおだやかな日常の中で、気になる「あなた」のことをぼんやり考えながらひたすら立ちどまる時間もあるのだと。

 とかく、他の媒体へのタイアップやセールスのことをかんがみて、派手に飾りたてて目立つ作りになっている A面曲ばかりが前面に出るものなのですが、その一方で、「すか~。」と力がぬけたような谷間のコンディションも正直に作品にしているという、アルバムにもなかなか収録されないような B面曲をじっくり聴いてみるのも、好きなアーティストの曲をあらかた聴いてみることの醍醐味ですよね。

 ただひたすら疾走しているだけではなく、ふと立ちどまって人並みにボーッとするひとときもあるんですよという、小説家のエッセイを読むような感覚におちいる『 Fly to me 』なんでありますが、なんだか聴けば聴くほど、おそらくは唄っている当時の鬼束さんも予想だにしていなかったであろう、将来のなんらかのゆきづまりを予兆させるような、「嵐の到来」を告げる遠雷を聴くような不穏な空気に満ちているのは、なんとも皮肉というかなんというか……いや、全てはあとづけですけれどもね。でも、まず商業的なピークといっていいこの時期の鬼束さんがこのタイミングで抽象きわまりない実験作を生み出していたというのは、な~んかひっかかるものがあるんですよね。
 また、組んでる『流星群』がとにかくわかりやすい名曲なんでね。なおさらその次の『 Fly to me 』の持っているミステリアスさが強調されるわけなんですよ。不思議ですね……でも、これもまた鬼束ワールドの明確な一気候なんだよなぁ。

 はからずも、わかりやすい「on」な鬼束さんと、わかりにくい「off」な鬼束さんが隣り合わせになったようなシングルなんですが、まだまだ、果てしない鬼束ワールド紀行は続くのでありました! う~ん、ミステゥリアス!!
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『軍師官兵衛』  視聴メモ 第40回『小田原の落日』

2014年10月24日 11時27分05秒 | 日本史みたいな
『軍師官兵衛』第40回『小田原の落日』(2014年10月5日 演出・大原拓)


登場する有名人・武将の『信長の野望』シリーズでのだいたいの能力評価(テロップ順)

黒田 官兵衛 孝高  …… 知力84、統率力67
 (演・岡田准一)

徳川 家康      …… 知力102、統率力65
 (演・寺尾聰)

黒田 長政      …… 知力77、統率力63
 (演・松坂桃李)

浅井 茶々姫     …… 知力16、統率力21
 (演・二階堂ふみ)

母里 太兵衛 友信  …… 知力44、統率力80
 (演・速水もこみち)

石田 三成      …… 知力92、統率力60
 (演・田中圭)

井伊 直政      …… 知力69、統率力81
 (演・東幹久)

北条 氏政(うじまさ)…… 知力101、統率力106
 (演・伊吹吾郎)

増田 長盛      …… 知力85、統率力37
 (演・有薗芳記)

豊臣 秀長      …… 知力83、統率力75
 (演・嘉島典俊)

福島 正則      …… 知力45、統率力83
 (演・石黒英雄)

北条 氏直(うじなお)…… 知力64、統率力79
 (演・羽田昌義)

浅野 長吉      …… 知力74、統率力62
 豊臣家重臣。秀吉の義弟にあたる。秀吉の死後に「長政」と改名した。(演・長森雅人)

長束 正家      …… 知力87、統率力13
 豊臣家重臣。主に財政を担当し兵糧奉行を歴任する。(演・佐久間哲)

小早川 隆景     …… 知力83、統率力77
 (演・鶴見辰吾)

千 利休
 (演・伊武雅刀)

豊臣 秀吉      …… 知力95、統率力94
 (演・竹中直人)


ざっとの感想

●なんで、おねが大坂城から京の聚楽第(じゅらくてい)に居を移す、っていう秀吉の裁定に、その場が急激にぎすぎすした空気になるのか、その理由がさぁあ~っぱり、わかんない!
 九州征伐が終結したあとの天正十五(1587)年九月から、秀吉が関白位を甥の秀次に譲る天正十九(1591)年十二月まで、豊臣政権の中枢である秀吉の居城は、まごうことなく聚楽第だったわけでしょ? そこに秀吉の正妻が移住して、なんでそれが冷遇みたいな印象になっちゃうわけ!?
 これはもう完全に、大坂城もどきの大阪城のほうが、現存していない聚楽第よりも「秀吉といえば?」のイメージが強いっていう、後世の勝手な思い込みだけにしか基づいていない脚色じゃないですか。くっだらねぇなぁ~オイ!! 現存していないのは大坂城もおんなじことなのにさ。

 大坂城が、竣工から1600年までず~っと天下の中心だったと思うなよ!? ジュラクよ~ん♡

○まことに地味~な顔ぶれですが、ダーイシ・増田・浅野・長束という「豊臣政権五奉行」のうちの4名までがそろい踏み! 燃えてきたぞ~。もうひとりの前田玄以(映画『清須会議』ででんでんさんが演じていた人物)が登場するのは、もうちょっと後でしょうか。浅野長吉(長政)がミョ~に男前だ!
 ちなみに、「五奉行」というのは、豊臣政権下で奉行職を務めることが比較的に多かった5人をピックアップしただけの後世の呼称であって、当時の政権下でその5人が特に強大な権力を握っていた、という「四天王」みたいなニュアンスは特になかったようです。THE・管理職!!

○豊臣鶴松丸に黒田熊之助という、先々のことを考えれば涙なしには見られない「先立つ不幸をお許しください」ペアもそろい踏みしました……くぅう~!! 幸、うすいです。

●北条氏政の大爆笑、という名の滅亡フラグ。ち~ん……そんなに楽観的なバカ殿じゃあなかったと思うんですけどね。

○別におかしいとまでは言わないのですが、豊臣秀長が火鉢を使うくらいに寒い夜なのに、官兵衛がはだしなのはどういうことなのだろうか……さみぃばっかしだし、姿勢を崩さざるを得ないだけに、それはさすがに失礼なんじゃないの?
 官兵衛がそんなにアブラ足だったっていう設定なのかな……いや、それじゃなおさら失礼だよな……
 それにしても、豊臣秀長がやたら真剣に豊臣政権の行く末を気にしだしていいひとっぽくなるっていうのも、典型的な死亡フラグ&滅亡フラグですよね。なんか、今回のエピソードは全体的に不吉な予兆ばっか!

○あぁ、今年の大河ドラマって、主人公よりも徳川家康のほうが大柄なんですね。いろいろと斬新なんだなぁ、寺尾家康って! かなりスリムですしね。

○秀吉さん、「つまらんっ!」じゃありませんよ、まったく……
 官兵衛・隆景・利休のフォローを受けてやっと機嫌がよくなったとおもえば、この暴君っぷり。やっぱダメだ、このジジイ……いや、ジジイって言っても、この時点(天正十八年)での秀吉はまだ54歳なんですけど。利休のノーリアクションがめちゃくちゃ怖いですね。
 それにしても、年上の官兵衛の「じゃあ、やってみれば?」というフリに内心で恐怖するダーイシのほうに感情移入して「かわいそう……」と感じてしまうのは、私だけではないはずです。ビッグマウスは大変なのだ~。

●氏政「ふざけた真似を……いくさをなんと心得ておるのだ!?」
 いや、そう言うんだったら、かの「河越野戦」のときのあなたのお父上みたいに、堂々とうって出たらいいんじゃないっすか。ずっと引きこもってないで。
 まぁ、それができなかったという時点で、勝敗と父子の器量の差はすでに歴然としていた、ということで……もしやったら、どうなってたんだろうなぁ。
 それで豊臣軍が壊滅するということはなかったにしろ、大軍の足並みをそうとうに動揺させる撹乱にはなったかもしれませんよ。ワンチャン秀吉の首なんか取れたら、大大フィーバーものですよ☆

○うわー、今か今かと待っておりましたが、ついに放送第1回のアバンタイトルに、時間が戻ってまいりました! 初見では、のっけから「命を大事に!」なんて叫んでたから「なに言ってんだ、この戦国武将は!?」と大いに不安になっていたものですが、それまでに放送40回ぶんのあれやこれやがあったのねぇ……
 それにしても、アバンタイトルからの再録部分とその前後とで、官兵衛を演じている岡田さんの貫禄や発声がまぁるで違いすぎ!! これが経験値、というものなのね~。

 どうでもいいんですが、それの前フリということでさらっと流されていた北条軍の「火薬とか鉄砲玉とかを送りつける」返事のしかた、やだ、かっこよすぎ……やるじゃねぇか、坂東武者♡

○『軍師官兵衛』では気持ちよくカットされてしまっていましたが、ダーイシ三成が今回のエピソードの始まりと終わりとで、どうしてそんなにテンションの差があったのか……そこらへんの経緯をよく知りたい方は、小説か映画の『のぼうの城』を参照してみてネ、ということで。
 しかも、官兵衛とか秀吉の作戦のパクリとそしられても仕方のない水攻めですからね……ダーイシ、つくづくここ一番の勝負に弱い男よのう!!


結論、「第41回がとてもたのしみです。」

 なんかもう、ここんとこの秀吉さんは、機嫌がよくなって大笑した次の瞬間には、もうムッチャクチャなことを言いよるからね! ついていけません……ふと気がつけば、「さっさと死んでくんねぇかな、この人。」というブラックな感情が巻き起こる巻き起こる。気持ちいいくらいの暴君ですよね~。

 いやぁそれにしても前田利家と豊臣秀次が出てこない出てこない! さすがにそろそろかとは思うんですが、秀吉の落日を飾る面々のオールコンプリートも、そう遠い先ではないはずです。
 期待してますよ~んっと。
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まぁ……こんなんも、ね。 ラヴクラフト暗黒神話メモ2

2014年10月21日 00時23分40秒 | ホラー映画関係
「クトゥルフ神話」とは
 クトゥルフ神話とは、アメリカで1920~50年代に流行したパルプ・マガジンの小説群を元にした架空の神話体系である。
 ハワード・フィリップス=ラヴクラフトと、友人である作家クラーク・アシュトン=スミス、ロバート=ブロック、ロバート=アーヴィン・ハワード、オーガスト=ダーレスらの作品間での、架空の神々や地名や書物などの固有名詞の貸し借りによって創り上げられた。
 太古に地球を支配していたが現在は地上から姿を消している、強大な力を持つ恐るべき異形のものども(旧支配者)が現代に蘇るというモチーフを主体とする。中でも、旧支配者の一柱であり、彼らの司祭役を務めているともされる、太平洋の深海で眠っているという、タコやイカに似た頭部を持つ軟体動物を巨人にしたような古代神クトゥルフは有名である。
 邪神の名前である「Cthulhu」は、本来人間には発音不能な音を表記したものであり、クトゥルフやクトゥルーなどはあくまで便宜上の読みとされているため、「クトゥルー神話」、「ク・リトル・リトル神話」、「クルウルウ神話」とも呼ばれる。
 この神話体系で用いられた固有の名称は、後の多くの作家たちに引き継がれているが、名称に伴う設定については各作家の自主性に任されている。
 ラヴクラフト本人は自身の作品群や世界観について、1928年に「アーカム・サイクル(アーカム物語群)」と呼んだ後、1930年頃には「クトゥルフその他の神話……戯れに地球上の生物を創造したネクロノミコン中の宇宙的存在にまつわる神話」と書いている。
 「クトゥルフ神話」という用語は、長らくダーレスの考案とされてきた。そのため、「クトゥルフ神話」はダーレスが独自の見解を加え体系化した後の呼称として、ラヴクラフトの作品群のみやその世界観を指す「原神話」や「ラヴクラフト神話」と区別する意味で、「ダーレス神話」と呼ばれることもあった。特に、ダーレスによって持ち込まれたとされている、「旧神」「旧支配者」という善悪二元論的な対立関係に否定的な立場の読者は、「クトゥルフ神話」と「ラヴクラフト神話」とを明確に区別しているが、近年、ラヴクラフトがダーレスの「旧神」設定を生前に自作に取り込んでいた形跡も、新たに指摘されている。

 クトゥルフ神話は多数かつ多様な作品によって構成されており、その源泉を単純に述べることは困難だが、創始者とされるラヴクラフトは、自らが理想とするホラー小説について「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」という概念を提唱している。これは無機質で広漠な宇宙においては人類の価値観や希望には何の価値もなく、ただ意志疎通も理解も拒まれる絶対的他者の恐怖に晒されているのだという不安と孤独感をホラー小説に取り込んだもので、吸血鬼や幽霊などの人間の情念に基づいた恐怖を排除する傾向、宇宙空間や他次元などの現代的な外世界を取り上げるなどの要素がある。ただし、ラヴクラフトの「宇宙的恐怖」にまつわる言説については時折変化があり、気に入ったフレーズとして場当たり的に用いていた可能性もある。また、ラヴクラフトの全ての作品が「宇宙的恐怖」を描いていたわけでもなく、「クトゥルフ神話」を「宇宙的恐怖」という言葉と関係づけて強調したのはむしろ、ラヴクラフトの作品をその死後に刊行したオーガスト=ダーレスである。また、ヒロイック・ファンタジーの文脈を取り入れたロバート=アーヴィン・ハワード、善悪二元論的な作品を描いたオーガスト=ダーレスやブライアン=ラムレイを始めとして、「宇宙的恐怖」以外のテーマを持つ作品も多く存在する。

 一連の小説世界はラヴクラフトとフランク=ベルナップ・ロング、クラーク・アシュトン=スミス、オーガスト=ダーレスらの固有名詞・設定のやり取りによって創始され、彼の死後、ダーレスやリン=カーターらがそれらの設定を整理して「クトゥルフ神話」として体系化していった。ラヴクラフト自身、後期の作品群にはある種の体系化を試みた形跡が見られ、共通した人名、地名、怪物名、書名等が現れ、作品間の時系列的関係にも考慮の跡がみられる。しかし、背景をなす神話世界の全体像に関しては、もっぱら暗示するにとどまっていた。
 ラヴクラフトの愛読者であったダーレスは、独自の解釈に基づいて1925年に『潜伏するもの』などを執筆し、「旧神」が邪悪な旧支配者を封印したとする独自の見解や、旧支配者と四大属性の関連性を匂わせるなどの新たな解釈を行なった。ダーレスは1931年にラヴクラフトに『潜伏するもの』の原稿を送っているが、ラヴクラフトが力作と褒めて彼を激励し、自作『インスマスを覆う影』(1936年)においてその設定を取り込んだ形跡がある。この同時期にラヴクラフトは他の友人へ書き送った手紙の中でもダーレスを高く評価しているため、この激励が年少の友人へのリップサービスというわけでもなかったことが窺われる。その後、ダーレスは自らの解釈に基づく作品を多数発表していくことになるが、他の作家たちもそれぞれ好き勝手な解釈や設定を付け加えていた。なお、ダーレスによると、「クトゥルフ神話」という名称は、神話の基本的な枠組を明らかにした作品がラヴクラフトの『クトゥルフの呼び声』(1928年)であることに基づいており、神名ではなく作品名に由来するものである。
 ダーレスはラヴクラフトの死後に、出版社「アーカム・ハウス」を創設してラヴクラフトの作品を出版する一方、「クトゥルフ神話」体系の普及に努め、他の作家が「クトゥルフ神話」作品を書くように働きかけた。これによってラヴクラフトという作家は広く認知されることとなったが、ダーレスは、ラヴクラフトの文学を後世に伝え広めた最大の貢献者として称賛される一方で、ラヴクラフトのコズミック・ホラーを世俗的な善悪の対立図式に単純化したという理由で死後に批判されることにもなった。 とはいえ、ダーレスの存命中、アーカム・ハウスから刊行された新たな作家によるクトゥルフ神話作品は、必ずしも旧神や四大属性などのダーレスの独自設定に準拠しておらず、ダーレスがその「体系」を強要した形跡は見られない。
 なお、ダーレスはラヴクラフトやスミスの書簡集も刊行したが、クトゥルフ神話については、あくまでも作品として発表された記述にのみ注目していた。だが、書簡の中でのみ言及されている設定や神々の名もあり、最初にそこに注目したのはリン=カーターだった。カーターは、クラーク・アシュトン=スミスがロバート=バーロウ宛ての書簡の中で述べた「ツァトゥグァ」の系図を採用し、作品中に「クグサクスクルス」の名前を導入したりした。今日では、書簡で述べられていた設定も、次々とクトゥルフ神話作品に取り入れられている。
 ラヴクラフトは彼に先行する作家アルジャーノン=ブラックウッド、ロード・ダンセイニ、アーサー=マッケンやエドガー・アラン=ポオなどから強い影響を受けている。今日ではマッケンの『白魔』(1899年)やロバート=W=チェンバースの『黄の印』(1895年)など、ラヴクラフトに先行する作品もクトゥルフ神話体系の一部とみなす見解もある。
 多くの執筆者の手によって諸々の作品が書かれたことや、創始者のラヴクラフトが構想の全貌を体系化することを試みていなかったことから、クトゥルフ神話が誕生した正確な時期を特定することは困難である。「クトゥルフ神話」という名称がラヴクラフトの『クトゥルフの呼び声』に基づいていることから、『クトゥルフの呼び声』が執筆された1926年(または発表された1928年)をクトゥルフ神話誕生の年と見なすことは可能であろう。
 ラヴクラフトが創始したクトゥルフ神話作品の基本パターンは、好事家や物好きな旅行者が偶然に旧支配者にまつわる伝承や遺物に触れ、興味を引かれて謎を探求するうちに真相を探り当てて悲劇的最期を遂げ、それを本人が遺した手記あるいは友人が語るというもので、特定の地名や神名、魔術書などの独特のアイテムが作中にちりばめられる。
 クトゥルフ神話はこうしたアイテムによって定義されているとも言え、小説の素材として多くの作家に利用されてきた。ラヴクラフト以後の作家によって書かれた神話作品は、こうしたラヴクラフトの基本プロットを踏襲して、そこに新たに創作した遺物を付け加えるなどクトゥルフ神話の一部と呼ぶに相応しい本格的なものから、単に旧支配者の神名や召喚の聖句などが作中に出てくるだけのものまで、さまざまに共有・拡張され、神話体系ができあがっている。
 作家たちの想像力を尽くした、この世のものとも思えない異形の旧支配者たちは、怪奇小説ファンのみならず多くの読者を楽しませており、今や怪奇小説ひとつの枠に納まらなくなりつつあり、近年、小説のみならず、マンガやゲームの世界にも神話世界は拡張され続けている。

日本でのクトゥルフ神話
 日本でのクトゥルフ神話の始まりは、雑誌『宝石』1955年9月号に『エーリッヒ=ツァンの音楽』(1922年)の翻訳が掲載されたことであったとされている。ただしラヴクラフトやクトゥルフ神話が広く知れ渡ったのは、1972年の雑誌『 SFマガジン』9月臨時増刊号で、クトゥルフ神話が初めて特集されたことであるとされる。翌1973年の怪奇小説専門誌『幻想と怪奇』第4号(歳月社)で「ラヴクラフト=CTHULHU神話」と題され特集されたことから、1970年代ごろから注目されるようになったと推定できる。
 初めはラヴクラフトの翻訳作品だけだったが、1980年代には日本の小説家によるクトゥルフ神話作品が創作されるようになる。紹介された時期がアメリカで作品の発表された時期よりずっと遅れたせいか、ダーレスによるクトゥルフ神話よりはラヴクラフト作品そのものに近づいている傾向が強い。翻訳されていなかった時期にも、ラヴクラフトの作品自体は江戸川乱歩により紹介はされており、高木彬光の『邪教の神』(1956年)には、ファンタジー要素は一切無いがクトゥルフ神話を想起させる邪教の神が登場しており、これが日本の小説家によって書かれたクトゥルフ神話の最初の作品であるという説もある。
 また、1990年代後半以降の成年向けパソコンゲームの隆盛の中では、ホラーものの定番のモチーフの一つとして用いられ、たびたびクトゥルフ神話の独自解釈、パロディや萌え系作品など様々な要素を含んだ作品が数々生まれた。そうした流れを受けて、今日ではライトノベルやマンガでも同じ傾向の作品が発表されていることで、クトゥルフ神話自体の認知度も高まっている。

クトゥルフ神話の神々と生物
旧支配者(古き神々、古のもの)
 「旧支配者(Great Old Ones)」という呼称自体は、ラヴクラフトの小説『クトゥルフの呼び声』で言及されているものの、ラヴクラフト自身は旧支配者の名前や正体について触れておらず、クトゥルフは「旧支配者(Great Old Ones)の祭司」とされている。後続の作家・研究家による解釈では、この「祭司」という記述を旧支配者の「配下」、あるいは「指導者」とするなどまちまちである。また、ラヴクラフトは『狂気の山脈にて』(1936年)において、「旧支配者(Great Old Ones)」という呼称を「古(いにしえ)のもの」に対して用いている。
 クトゥルフ神話作品においてこのカテゴリに分類されている神々を旧支配者と呼び、「旧神」と対立する邪悪な神々と位置づけたのは後のことであり、ダーレスは旧神を登場させた『潜伏するもの』において、「Great Old Ones」の語を旧神に対して用いている。

 ダーレスによる設定では、旧支配者はそれぞれ、四大元素(火、水、土、風)のいずれかに属し、旧支配者同士の対立も存在する。現在は活動が制限されているが、これは時代の移り変わりによるものとも、旧神との戦いに敗れて封印されたためであるともいわれる。いずれにせよ、その眷属や信者が主である旧支配者の復活を画策しており、仮に旧支配者が復活すれば、人類文明などはあっけなく滅ぼされるとされている。
 これらの神々をまとめて旧支配者と呼んだのはダーレスであり、ラヴクラフト自身はクトゥルフ以外の旧支配者の名はまったく挙げていない。したがって、ラヴクラフトの作品のみに準拠する限り、ヨグ=ソトースやハスターやナイアーラトテップが旧支配者であるという根拠は存在しない。
 なお、英語の「Great Old Ones」という用語は、ラヴクラフトの小説『クトゥルフの呼び声』で言及されている呼称であるが、これを日本語訳で「旧支配者」としたのは、後にダーレスによって創作された「かつては宇宙を支配していたが失権した神々」という設定を踏まえた意訳であり、ラヴクラフトの意図に基づく正確な訳とは言えない面もある。

アザトース(Azathoth)
 ラヴクラフトの小説『闇に囁くもの』(1931年)では「もの凄い原子核の渾沌世界」と描写され、『闇をさまようもの』(1936年)では「万物の王である盲目にして白痴の神」とされている。『魔女の家の夢』(1933年)においては「時空のすべてを支配するという白痴の実体」とされる。居場所に関しては「白痴の魔王アザトースが君臨する、『混沌』という窮極の虚空の暗澹たる螺旋状の渦動」と記されている。『未知なるカダスを夢に求めて』(没後発表1943年)では「果てしなき魔王」と表現されている。
 狂気に満ちた宇宙の真の造物主であり、いかなる形をも持たない無形の黒影、飢えと退屈に悶える白痴の魔王、名状し難くも恐るべき宇宙の原罪そのものとされている。無限の宇宙の中心部で不浄な言葉を吐き出し続けていると形容される。
 暴走するエネルギーの塊で、三次元空間に押し込められるものではないと説かれ、沸騰する混沌が渦巻く最奥に存在する、時を超越した無名の房室で、あたかも玉座に大の字になって寝そべっているような様子で泡立ち、膨張と収縮を繰り返している。アザトースの座する周囲では、心を持たない無形の騒がしい踊り子の群れが常に取り巻いて踊り狂い、太鼓の連打と魔笛の音色で、常に乾いているアザトースの無聊を慰めているという。
 宇宙の全ての「存在」というものはアザトースの思考によって創造され、逆にアザトースを見たものは存在の根底を破壊されると語られている。しかし、アザトース自身が何かをなすことは滅多に無く、神々の使者であるナイアーラトテップが代行者としてその意思を遂行する。今は眠りについているという、かつて地球を支配していた「旧支配者」が復活する時、アザトースもまた無明のレン高原に舞い戻ると予言されている。この神が現れるところは常に創造と破壊の入り混じった爆発的な混沌のみが吹き荒れるため、これを待望する崇拝者はほぼ存在しない。火星と木星の間にある小惑星帯(アステロイドベルト)は、以前そこにあった星が、召喚されたアザトースによって破壊されたなれの果てであるという。
 また、ラヴクラフトは1933年4月に友人に宛てて記した書簡において、アザトースが自身の魂魄にして使者でもある「這いよる混沌」ナイアーラトテップを生み、さらにはクトゥルフ神話体系における最高神「ヨグ=ソトース」を生んだという神「無名の霧(Nameless Mist)」や、ヨグ=ソトースの妻であるという「豊穣の女神」シュブ=ニグラスを生んだという神「闇(The Darkness)」を生んだと語っている。

クトゥルフ(Cthulhu)
 太古に、外宇宙から地球に飛来した侵略者。先に地球を支配していた「古のもの(樽型人)」たちは防ぎきれず、戦争を経て最終的には講和を結び、南太平洋の大陸をクトゥルフ達に譲り、クトゥルフは陸を支配するようになる。ルルイエの都が海に沈み、クトゥルフは眠りにつく。残されたクトゥルフの種族たちは、「善神クトゥルフが、宇宙の魔物のしわざで封印された」と伝承していく。
 ダーレスが体系づけたクトゥルフ神話(特に四大霊を唱える派)においては、旧支配者の一柱で「水」を象徴し、「風」の象徴であるハスターとは対立するものとされた。
 「旧支配者の大祭司」とされるが、『ダンウィッチの怪』(1929年)で引用される『ネクロノミコン』の記述によるとクトゥルフは旧支配者を崇拝する者たちの中の神官にすぎず、旧支配者特にヨグ=ソトースなどには及ばない存在とされる。

ダゴン(Dagon)
 水棲種族。身長6メートル以上、よどんだ両目は突出し、分厚くたるんだ唇と水かきのついた手足を持つ2足歩行をする半魚人と言われる。ダゴンを小型化し人間大にしたものが、「深きものども」である。ダゴンは「深きものどもの指導者」兼「旧支配者クトゥルフに仕える従属神」と位置づけられる。
 ダゴンの初出はラヴクラフトの短編『ダゴン』(1919年)で、後に『インスマウスの影』(1936年)でダゴンを小さくしたような深きものどもが登場する。深きものどもは、地上の人間と混血し、ダゴン秘密教団を組織している。
 「ダゴン」という名称は、旧約聖書でペリシテ人が崇拝していた「ダゴン神」に由来する。ペリシテはイスラエルの敵であり、ダゴン神はユダヤ教からの視点では異教の神(悪神・悪魔)である。『インスマウスの影』作中でも、ダゴンはアスタロト・ベリアル・ベルゼブブなどキリスト教の悪魔たちに並んで呼ばれている。

ガタノゾーア(Ghatanothoa)
 旧支配者。石化の能力を持つという特徴がある。初出はヘイゼル=ヒールドとラヴクラフトの合作『永劫より』(1935年)。
 そのおぞましい容姿は、人間が目にすると、脳を生かされたままで全身が石と化す。とある手段で姿を垣間見た者は、「巨大で、触腕があり、象のような長い鼻が備わり、蛸の目を持ち、なかば不定形で、可塑性があり、鱗と皺に覆われている」と表現している。
 ガタノゾーアの伝説は『無名祭祀書』に記される。ユゴス星の民がガタノゾーアを地球に連れて来たという。ユゴス星人が姿を消してからも、邪神ガタノトーアはムー大陸の聖地クナアのヤディス=ゴー山の要塞地下にいる。
 ムー大陸が沈んだ後の消息は不明。だが信仰の名残が、ムーが存在した太平洋地域を中心に世界中で見られる。ヨーロッパの妖術にも関係し、キリスト教勢力によって徹底的に破壊されたが、邪教団の根絶には至っていない。

ナイアルラトホテップ(Nyarlathotep)
 初出はラヴクラフトの散文詩風短編小説『ナイアルラトホテップ』(1920年)。古代エジプトのファラオのような「背の高い浅黒い男」と表現されている。旧支配者の一柱にして、アザトースを筆頭とする外なる神に使役される使者でありながら、アザトースと同等の力を有する土の精であり、人間はもとより他の旧支配者たちをもさげすんでいる。「這い寄る混沌」の異名をもつ。
 顔がない故に千もの異なる顕現を持ち、特定の眷属を持たず、狂気と混乱をもたらすために自ら暗躍する。彼が与える様々な魔術や秘法、機械などを受け取った人間は大概破滅している。天敵であり唯一恐れるものは火の精と位置づけられる旧支配者クトゥグアのみ。また旧神ノーデンスとも対立している。
 旧支配者の中で唯一幽閉を免れ、他の旧支配者と違い自ら人間と接触するなど、クトゥルフ神話において特異な地位を占める神であり、クトゥルフ神話におけるトリックスターとも言える。アザトースの息子とも言われる。
 ラヴクラフトの手紙によると、この宇宙の中心、正常な物理法則が通用しない混沌とした世界には、絶対的な力をもった存在アザトースが存在したが、アザトースは盲目で白痴なので、自らの分身として「闇」と「無名の霧」と「ナイアルラトホテップ」を生んだ。ナイアルラトホテップは自らの主人であり創造主であるアザトースら異形の神々に仕え、知性をもたない主人の代行者としてその意思を具現化するべくあらゆる時空に出没する。
 ラヴクラフトの短編『未知なるカダスを夢に求めて』では、簡単にひねり潰せるはずの人間を騙して自滅に追いやろうとするなどトリックスター的な役割を担っている。

ヨグ=ソトホース(Yog-Sothoth)
 「外なる神(The Outer GODS)」で、旧支配者とは別格の神々。
 「存在」ではなく「空虚(void)」とも表現される。時空の制限を一切受けない最強の神。この神性は過去・現在・未来、全存在(旧支配者さえ)をも含有しており、かつあらゆる時間・空間と共に存在している。ラヴクラフトの『銀の鍵の門を越えて』(1934年)では、ヨグ=ソトースに関して「始まりも終わりもない。」とされ、「かつてあり、いまあり、将来あると人間が考えるものはすべて、同時に存在するのだ。」とされている。

ノーデンス(Nodens)
 「旧神(Elder Gods)」の一柱。実在するケルト神話の神をモデルにしているが、別個のキャラクターと化している。「偉大なる深淵の主(Lord of the Great Abyss)」とも「大帝」とも呼ばれる。
 初登場作品は、『霧の高みの不思議な家』(1931年)。マサチューセッツ州の港町キングスポートには、「偉大なる深淵」という異界につながる館があり、ノーデンスが訪れる。ノーデンスは白髪と灰色の髭をもつ老人の姿をしており、イルカの引く巨大な貝殻チャリオットに騎乗する、海の神のような性格を持つ。
 『未知なるカダスを夢に求めて』では、ドリームランドの地下に広がる暗黒世界「偉大なる深淵」を治めている。ドリームランドでは神族の秘密を探ることはタブーとされており、禁忌を冒そうとする不埒者を、ノーデンスは夜鬼を使役して妨害する。それさえなければ、人間族に対しては比較的好意的な神である。ナイアルラトホテップとはライバル関係にあり、両者は異なる思惑を以て神族を保護している。この作品では救世主的な役回りでノーデンスが登場している。

ショゴス(Shoggoth)
 ラヴクラフトの連詩『ユゴス星より』(1930年)で名前のみ言及され、物語への初出は『狂気の山脈にて』(1936年)である。
 太古の地球に飛来した宇宙生物「古のもの」によって創造された漆黒の玉虫色に光る粘液状生物で、表面に無数の目が浮いている。不定形で決まった姿を持たず、非常に高い可塑性と延性を持ち、必要に応じて自在に形態を変化させ、さまざまな器官を発生させることができる。タールでできたアメーバのようだと表現される。体長約4mと説明されているものの、中には地下鉄の車両ほどに大きなサイズの個体も登場する。水中で活動するように作られたため、地上では動きが鈍くなる。呪文やテレパシーで操ることが可能だが、比較的知性が高く、従順でないため危険な生物である。南極圏における「古のもの」の奉仕種族として巨大都市・狂気山脈の建設などに使役された。
 「テケリ・リ、テケリ・リ(Tekeli-li, Tekeli-li)」という独特の鳴き声をあげる。これはエドガー・アラン=ポオの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1838年)に登場した鳥の鳴き声をモデルとしたものであり、もとは、「古のもの」の出す音をショゴスたちが真似て声帯器官を発達させたもの。
 ラヴクラフトの『インスマウスの影』では「深きものども」がショゴスを使役しているらしいことが仄めかされる。
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