長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そんな姿勢の悪さで世界征服ができると思ってるのか!! ~映画『007 スペクター』~

2015年12月30日 23時07分56秒 | ふつうじゃない映画
 年の瀬だよ!! みなさまどうもこんばんは、そうだいでございます~。大掃除、無事に済みましたか?
 もう大みそかも目前なんですけれどもね、あったかいんですよ~山形市は。ぜんぜん雪が積もる様子もないんですよねぇ。ちらっちら降ってはいるんですけれども。まわりの人たちは雪かきの必要もないし寒くもないんでありがたいとか言ってるんですが、これじゃ気分がねぇ~。いまいち年末年始っていう感じがしないんだよなぁ。このまんま、三が日もサーっと過ぎてふつうの日々が始まるんでしょうか。楽しい連休は、ほんとにあっという間ですよね~。スムーズにお仕事モードに戻れるかな!? まぁ、大好きな温泉につかっていい感じにリフレッシュしていきましょう。


 さてさて、わたくしごとながら、自分としては今年2015年の映画の見納めは先日の『友だちのパパが好き』で決まり! という気分だったのですが、せっかくのお休みなんだし……ということで、パパッと車に乗って、山形市内の映画館でかねてから気になっていた1本を観ることにいたしました。なにげなく新聞に載ってたタイムスケジュールを見てみたらけっこう上映回が少なくなってたので、1月もたぶん正月明けから仕事で忙しくなるだろうし、今のうちにちゃっちゃと観てしまおう、ということで。

 そんなわけで、観てきたのはこちら。周辺もろもろの情報も併せてどうぞ。



映画『007 スペクター』(2015年12月日本公開 148分)

 『007 スペクター』は、イオン・プロダクション製作によるスパイ映画『007』シリーズの第24作。ジェイムズ=ボンド役は4度目の登板となるダニエル=クレイグ。
 制作費は2億4500万~3億ドルで、『007』シリーズでは史上最高となった。また148分という上映時間もシリーズ史上最長となった。

 『007』シリーズの映画化に当たり、「スペクター」という世界的犯罪組織の名称とそれに関係する登場キャラクターの使用権をめぐり、原作者のイアン=フレミング(1964年没)とプロデューサーで「スペクター」の原案者となったケヴィン=マクローリー(2006年没)との間で訴訟が発生した。それ以来、スペクターの使用権は007シリーズにおける懸案となる。この訴訟が原因で、シリーズ第7作『ダイヤモンドは永遠に』(1971年)以降、スペクターはシリーズに登場しなくなっていた。ただし、明言はされなかったもののスペクター首領とおぼしきキャラクターが冒頭のアクションシーンに登場したシリーズ第12作『ユア・アイズ・オンリー』(1981年)や、ワーナーブラザーズで製作された番外編『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983年)の中でスペクターや関係キャラクターは登場している。
 2013年11月、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)およびイオン・プロダクションはマクローリーの遺族と和解し、スペクターとそれに関連する登場キャラクターの使用権を購入した。

 シリーズ恒例のガンバレル・シークエンスが、シリーズ第20作『ダイ・アナザー・デイ』(2002年)以来13年ぶり、ダニエル=クレイグがボンドを演じてからは初めて冒頭に登場する(シークエンス自体はクレイグ版ではオープニングテーマ直前のアクションやエンディングで登場していた)。
 本作の中盤のクライマックスであるスペクターの秘密基地の爆破シーンには大量の燃料と火薬が用いられ、「映画史上最大の爆破シーン」としてギネス世界記録に認定された。

 ダニエル=クレイグがボンドを演じたシリーズ第21作『カジノ・ロワイヤル』(2006年)、第22作『慰めの報酬』(2008年)、第23作『スカイフォール』(2012年)の全てが密接にリンクしたストーリーとなっており、オープニング映像にもそれまでの悪役たちや重要なボンドガールだったヴェスバー=リンド(演・エヴァ=グリーン)、前任のM(演・ジュディ=デンチ)が登場している。
 中盤での爆発シーン以降のオーベルハウザーの右目の傷は、シリーズ第5作『007は二度死ぬ』(1967年)で初めて顔出しで登場したスペクター首領ブロフェルド(演・ドナルド=プレザンス)の顔の傷跡を意識したものと思われる。


主なスタッフ
監督 …… サム=メンデス(50歳)
脚本 …… ジョン=ローガン(54歳)、ニール=パーヴィス(54歳)、ロバート=ウェイド(53歳)、ジェズ=バターワース(46歳)
製作 …… バーバラ=ブロッコリ(55歳)、マイケル=G=ウィルソン(73歳)
音楽 …… トーマス=ニューマン(60歳)
撮影 …… ホイテ=ヴァン=ホイテマ(44歳)
製作 …… イオン・プロダクション

主なキャスティング
ジェイムズ=ボンド     …… ダニエル=クレイグ(47歳)
フランツ=オーベルハウザー …… クリストフ=ヴァルツ(59歳)
マドレーヌ=スワン     …… レア=セドゥ(30歳)
M             …… レイフ=ファインズ(53歳)
ルチア=スキアラ      …… モニカ=ベルッチ(51歳)
Q             …… ベン=ウィショー(35歳)
Ms.マネーペニー      …… ナオミ=ハリス(39歳)
Mr.ヒンクス        …… デイヴィッド=バウティスタ(46歳)
マックス=デンビー     …… アンドリュー=スコット(39歳)
ビル=タナー        …… ロリー=キニア(37歳)
Mr.ホワイト        …… イェスパー=クリステンセン(67歳)


《歳末特別ふろく》悪の華!! 歴代ブロフェルド俳優一覧
ほんとの初代 …… アンソニー=ドーソン(当時47~49歳 1992年没)シリーズ第2・4作に登場
 ※ただし顔はまったく映されず、声も別の俳優があてていた
顔出し初代  …… ドナルド=プレザンス(当時47歳 1995年没)シリーズ第5作に登場
2代目    …… テリー=サヴァラス(当時47歳 1994年没)シリーズ第6作に登場
3代目    …… チャールズ=グレイ(当時43歳 2000年没)シリーズ第7作に登場 キャ~、マイクロフト!!
4代目    …… ジョン=ホリス(?歳)シリーズ第12作に登場
 ※ただし容姿が酷似しているだけで、この人物がブロフェルドだと明言はされておらず、声も別の俳優があてている
5代目    …… マックス=フォン=シドー(当時54歳)番外編『ネバーセイ・ネバーアゲイン』に登場
6代目    …… クリストフ=ヴァルツ(59歳)シリーズ第24作に登場

ついでなんでこっちも
Dr.イーヴル …… マイク=マイヤーズ(当時34~39歳)『オースティン・パワーズ』シリーズ3作に登場
ハリウッドで Dr.イーヴルを演じてた俳優さん …… ケヴィン=スペイシー(当時43歳)シリーズ第3作に特別出演



 はい、なにはなくとも007ですね~! これはやっぱり、スクリーンで観ておかなきゃならなかった。
 もう1本、今は『スター・ウォーズ』シリーズの最新作というどでかい大作も公開されているんですが、こっちはまぁもうしばらくは上映してるだろうし、私たしかに『スター・ウォーズ』も大好きなんですけど、いちばん好きなキャラクターがグランドモフ・ターキン(エピソード4でご殉職)というていたらくなので、いまひとつ観に行こうという気にならないんですよね。観ればおもしろいだろうってことはわかってるんですが、最後の一歩が出ないんだよなぁ。

 それに対して、なんてったってあなた、今回の007は『スペクター』ですよ、『スペクター』!! 007シリーズ最大の巨悪組織が、公式シリーズとしては約半世紀の時を経て大復活ときたもんだ! これは見逃すわけにはいきませんよねぇ。
 3年前に公開された前作『スカイフォール』を観た際にも、私は次回作でスペクターが復活したらいいのになぁ、なんてことをつぶやいていたのですが、それがほんとに実現するなんて! 今年の初めくらいに映画館で「スペクター」っていうサブタイトルがでかでかと掲げられたポスターを見たときはもう、うれしくてうれしくて。大傑作『スカイフォール』の高みに達したクレイグ・ボンドが、リニューアルされた21世紀版スペクターといったいどのような因縁の激闘を繰り広げるのか、楽しみで楽しみで仕方なかったわけなのです。
 そりゃもう、『仮面ライダー』シリーズの悪の世界的秘密組織ショッカーの先輩にあたるスペクターさまなんですから、興奮するなというほうが無理な話なのでありまして! ワクワクしますね~。

 ただ、東西冷戦もすでになく、前世紀ほどに大国が大国らしい隆盛を誇っているわけでもない、国と国との個々の権謀術数がうずまくシビアな21世紀、「世界で起きる大犯罪のほとんどを陰で操る謎の組織」というはったり設定に果たしていかほどの説得力があるのか……それはやっぱり、007シリーズが荒唐無稽な娯楽映画だったコネリー~ムーア・ボンド時代にこそ活きていた過去の遺物なのではないか? それをどうしてまた、よりにもよって「ボンドらしからぬ硬派さを魅力とする」クレイグ・ボンドで復活させるのか!? そこらへんの不安はぬぐえなくもないわけですよね。

 ムチャクチャな例えであることを承知の上で言わせていただきますと、私はこの「007シリーズにおけるスペクター」という存在は、「ゴジラシリーズにおけるミニラとかベビーゴジラ」なんじゃないかと思うんですね。
 つまり、スペクターは確かに黄金期の007シリーズを語るうえで欠かせない要素であることは間違いないんですが、決して007シリーズのファン全員がスペクターの復活を望んでいるわけではないと思うんです。むしろ、スペクターのいかにもなウソくささが嫌いというファンの方も多いでしょうし、そもそもスペクターなんかまったく出てこない007シリーズばかりを観て育ったファンのほうが多いかもしれないわけで。作品ごとにボンドガールと並ぶ話題になるゲストラスボスだって、そりゃまぁリアリティを重視しすぎてキャラクターとしてのスケールまでもが小さくなってしまうのは問題外でしょうが、それこそ『スカイフォール』のハビエル=バルデムさんみたいに、ピンでも光っていれば十二分におもしろいわけなのです。いまさら、それに加えて「すべての糸を裏から引いていた真のラスボス」が出てきたってなぁ……という「およびじゃない感」はあるのではないのでしょうか。

 ましてや、繰り返しになりますがボンドがクレイグさんなんですから! なんか、ブロスナン・ボンド時代だったらいいけどみたいな感じ、しません!? しつこくゴジラシリーズに例えるならば、『大怪獣総攻撃』(2001年)の白目ゴジラにミニラがついてくるようなもんでしょ! 大丈夫かな~って気にもなりますよね。おもしろそうだけど。

 ただ、ブロスナン・ボンドのように過去のほとんどの設定をそっくり「もうあるもの」として引き継いだのではなく、そもそもジェイムズ=ボンドという男がスパイ007号となるいきさつから丹精込めて語り直し、「M」「Q」「Ms.マネーペニー」といったレギュラーキャラクターさえもいちからリブートして築き上げてきたクレイグ・ボンドシリーズとしては、やっぱりスペクターに挑戦しないわけにはいかなかったという、「今やらずにいつやる!?」という機運はあったのではないでしょうか。だからこその、満を持しての権利購入だったのだろうし。その覚悟は買わなくてはなりません。


 さぁ、ほんでもってドキドキしながら拝見した今作だったのですが、その出来栄えはというと?

 文句なくおもしろかった!! しかし、どうしてもそのアタマに「ふつうに」という文句がついてしまう……


 ふつうにおもしろかったです。いや、それでいいと言ってしまえばそこまでなんですが、哀しいかなあの『スカイフォール』の次という順番になってしまうと、そこはかとなくただよってしまう「あぁ、まぁがんばったよね。」な空気! これだから大傑作のあとの作品はつらいですよねぇ。『ダークナイト・ライゼズ』と同じ道をあゆんでしまった感がハンパありません。

 いや、でもおもしろさは請け合いだったわけですよ! むしろ今までのどのクレイグ・ボンド作品よりも、開き直ったような大胆さで007シリーズとしての「王道」回帰を果たしたぶん、肩ひじ張らずにのんびり楽しむ娯楽映画としてのサービス感は上がっていたと感じました。
 さむ~いオーストリアからあつ~いモロッコまで、世界を股にかける007の大活躍! といっても、そう考えてみると今回はけっこう狭めな範囲のご旅行でアジアにはいっさい用がなかったわけなんですが、それでも一面の銀世界から熱風うずまく砂漠地帯へという色彩のリズムは、まさにスパイ大作映画の醍醐味を存分に味わえましたね。
 そして、なんといってもボンドカーをはじめとする数多くの秘密兵器の活躍、Qやマネーペニーとのコミカルなかけ合い、気合の入りまくった冒頭のヘリアクション、スペクターのはなったスゴ腕の殺し屋ヒンクスの猛追、おしゃれな豪華客車の中での死闘、そして敵の秘密基地のギネス級の大爆発といった見せ場の連続は、いよいよ本格的にクレイグ・ボンドが007らしくなってきたという高揚感があって、「いいぞ~、もっとやれ!」と拍手したくなるテンションの高さに満ちていたわけです。

 ただ! まぁ~、その。

 そういった「観て損はしないよ!」という大前提を置いたうえで言わせていただくのですが、決して「こまやかに作り込まれた作品」ではないと思うのね。

 だって、もはや「ツッコミ待ちなの?」としか思えないストーリー上のヘンなポイント、そこかしこにあったでしょ?

1、ボンドさん、なぜ爆薬が入っているに決まっているアタッシュケースを撃つ!?
2、前任のMさん、なぜ「殺し屋スキアラを殺して葬儀に行け」と言う!? 「スキアラに吐かせろ」じゃダメなの!?
3、スキアラの未亡人ルチアさん、そこでフェイドアウト!? ふつうに助かったの!?
4、ボンドさん、なぜ監視カメラのある場所で堂々と Mr.ホワイトと会話する!? とりあえずその家から出たら!?
5、スペクター、なぜ構成員の指輪ふぜいに組織の超重要機密をインプットさせる!? 本人認証だけでいいだろ!
6、モロッコの豪華客車、なぜあれほどハデに車内がぶっこわれたのに平常運行でボンドたちを駅に降ろす!? 終点駅で「あの人たち降ろしちゃいました~。」じゃ済まねぇだろ! バイトか!?
7、首領、Mr.ホワイトに住所特定されたに決まってるモロッコの秘密基地になぜ住み続ける!? 引っ越せ!
8、ボンドさん、炎上してる秘密基地からいかにも意味ありげな黒塗りの車が脱出してるよ!! それほっといてイギリスに帰国してませんか!?
9、ボンドさん、ルチアさんはさっさとよそに保護させてマドレーヌはずっと自分に同行させるって、扱いの差が露骨すぎやしませんか!? マドレーヌ、オーストリアで別れてもよかったよね!?

 私は別に、ツッコミどころを目を皿のようにして探しながら観てたわけではないんですよ。それなのに、1回サーっと観ただけでこんなに挙がるわけなのよ! こりゃもう確信犯だろ。確信犯的に、行きあたりばったりで荒唐無稽なジェットコースタームービーに仕上げているわけなんですな。もう、理屈はとりあえず後にして、展開が盛り上がるから爆薬が爆発して、画的にいいから美女がボンドについていくという感じなんですよね。
 まぁ、ポイント9のおかげでボンドが助かったとか、ポイント5がなけりゃ話が先に進まないということでもあるんですが、なんか、それまでのクレイグ・ボンドシリーズとは人が違ったかのような雑さですよね。と同時に、ポイント3のミョ~な甘さがやけに気になります。ルチアさん、『スカイフォール』だったら絶対に死んでたでしょ!? なんであんなワンポイントリリーフだったんだろ。やっぱおばちゃんじゃダメなのか!?

 あと、どうでもいいんだけどマドレーヌさん、あのタイミングで「あぶなっかしくてしょうがないから、帰る……」って言う!? なぜいまさら!? AB型か、あんた!?

 ただ、そりゃ勧善懲悪でハッピーエンドの約束された娯楽映画なんですから、主人公に都合のいいように展開しなければ仕方ないのであります。つまり、枝葉は多少アレだったのだとしても、作品の根幹である「ボンドと巨悪との対決」! そこの「巨悪」という部分に十分な恐ろしさというか、正義のスーパーヒーローに伍する悪の魅力がきいていたら、すべてはオーライになるのだ!! さぁどうだ、新しいスペクター首領はどうなんだ!?

 う~ん……ダメなんじゃない!?


 国際的犯罪組織スペクターと、その首領の恐ろしさというところが、今作ではあんまりわかんなかったです。

 つまるところ、あれだけ不死身でパワフルなボンドの宿敵たるスペクター首領の「恐ろしさ」というのは、首領の腕っぷしじゃないですよね。あれだけの世界的組織を統帥する知力と財力と人心掌握術であるわけです。
 ということは、なんだかわかんない私怨にとり憑かれてボンドの前に生身の自分をさらした時点で、首領はもうかなりのご乱心ですよね。周囲の部下にしたら、「そんなお遊びはやめてさっさと殺しちゃってくださいよ、危ないから!」というアドバンテージに次ぐアドバンテージをボンドに譲った末に、余裕しゃくしゃくでボンドに会ってやってるわけですよね。殺そうと思ったらローマの秘密会議の席で殺せたはずなのに、なぜかあえて自分の顔を見せた上で逃しちゃう。

 ここまで首領がボンドにこだわる理由って、かつての20世紀シリーズでは、まぁそれは原作小説と映画化作品との製作上の複雑な事情があったにしても第1・2・4作で自分の考えた大犯罪や有能な部下たちが次々とボンドの手にかかってしまったから、という贅沢すぎる助走があったわけです。つまり、満を持して第5作でついに首領おんみずからが! という積年の恨みを込めての真打登場感があったのでしょう。
 その点に関しては『スペクター』も、『カジノ・ロワイヤル』~『スカイフォール』の裏にはスペクターが! という事実を明らかにしてはいるのですが、「スペクター」っていう名前が出てくるのは今作からだもんねぇ。後付けですよね。

 組織の存在が明らかになるやいなやのラスボス登場だもんなぁ。なんかもったいないというか、まだまだ組織も余力がいっぱいあるはずなのに、なんでそんなに首領が危ない橋を渡り続けるの? みたいなわけのわからない焦燥感があるんですよね。
 誰か、スペクターの中であの首領の暴走を止めようとする忠義の臣はいなかったのだろうか……モロッコの秘密基地とかで首領のそばに仕えていたメガネくんは完全にイエスマンですよね。たぶん、本人も「こいつ大丈夫か……」とため息まじりで付き合っていたのでしょう。それで最期はああだもんなぁ。悪の組織づとめは、今も昔もむくわれねぇよなぁ。

 もちろん、そこらへんの「ボンドと首領の因縁」という部分を強化するために、今作オリジナルの「若き日のボンドと首領」といった関係がほのめかされるわけなのですが、なんか、それにこだわってるのは首領だけで、ボンドは「いや、忘れてたわ。」みたいな距離感があんのよね! 「死んだの、おまえの親父だし。」というボンドの冷めきったまなざし! もしかしたら、首領はモロッコの秘密基地でボンドに会ってしばらく話してるうちに「あれ……そんなテンションの低さ?」と思ってたのかも。とっておきの土産話を持ったつもりで友だちと久しぶりに会ったときに、よくある風景ですよね!

 あと、マドレーヌにわざと父である Mr.ホワイトの死の映像を見せるときも、ぬるいよなぁ~!!

 あれ、天下のスペクターの首領さまなんだから、なんで映像をいじくって途中から「ボンドが Mr.ホワイトを射殺するウソウソ映像」に差し替えなかったの!? そんな、悪の組織の首領としてなら初歩の初歩の心理攻撃もしないんだもんなぁ~! 甘いっていうか、あんた悪人としての自覚に欠けてるよ!! 『ウルトラマンA』の異次元人ヤプールのうすぎたなさをみならってほしいよねぇ! まぁ、ヤプールもなぜか土壇場になってウルトラマンエースを自分の家に招いて取っ組み合いのけんかで勝敗を決めるというスポーツマンシップを見せたおかげで大負けしたんですけど。


 とまぁつらつら言いましたけど、まとめると私はこの『007 スペクター』も十二分に楽しめましたし、首領を演じたヴァルツさんも、俳優さんとしては別になんの文句もありません。

 ただ! この作品で首領があそこまでひどい目に遭うのは、いかにも時期尚早ですよ。せっかく数十年ぶりに復活させたスペクターなんですから、ここは大事に扱って、せいぜい首領はローマの秘密会議での登場どまりにしといて、直接対決は次回作以降という腰の据え方にしといたほうが断然よかったと思うんだよなぁ。それこそ、『ネバーセイ・ネバーアゲイン』くらいの出番の少なさでいいじゃないかと!

 なんか、クレイグ・ボンドはこれがラストかも、なんていううわさもあるんですが、また改めてスペクターと再戦してほしいなぁ。いい味だしてた殺し屋ヒンクスも直接死んだという描写はなかったし。
 ほんと、「あのダメダメ首領は替え玉でした!」っていう仕切り直しで、次回を期待したいです。クレイグさんもやっと47歳。57歳までボンドやってた先輩もいるんだもの、もちっとがんばっていただきたいです!


 ほんと、悪の組織の首領は、座ってるだけでいいのよ……現場にしゃしゃり出ちゃダメ! スペクターには、『オースティン・パワーズ』のナンバー2のような誠意ある人材が必要だ!!
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蒼白と夕暮れのワルツの果てにヘンタイたちは何を見た!?  ~映画『友だちのパパが好き』~

2015年12月27日 18時13分50秒 | 日記
 クリスマス終わっちゃったー!! みなさまどうもこんばんは、そうだいでございます。
 みなさまの住んでいらっしゃる土地は、もう寒くなりましたか? わたくしの住む山形市は、そりゃもう突然に今日から寒くなりまして! 今まではウンともスンとも言わなかったのに、当たり前のようにほぼ一日中雪がしんしんと降り続ける気候に変わってしまいました。いや、それでこそ東北という感じでちょっと安心している部分もあるんですが、やっぱ寒いのはイヤ~!! ホワイトクリスマスにならなかったのは少し残念でしたけど。

 そうなんです、クリスマスもあっという間に過ぎてしまいまして、もはや気分は完全に年末! えっちらおっちら年賀状づくりにいそしまなければならないタイミングになってまいりました。気がつけば明日が私の職場の仕事納めだし。あさっては久しぶりに温泉に行くぞコノヤロー☆

 そんな感じでうかれ気分で大忙しの今日この頃なのですが、昨日は今月2回目となる東京行きとしゃれこんでまいりました。今回は下剤飲んでません! 実に軽やかな気分ですね。

 決して裕福なわけでもない、吝嗇家で出不精のわたくしめがどうしてそんなにしょっちゅう上京したのかといいますと、それは今月12月に入った2つの重大なイベントである城山羊の会さんの舞台公演と、その城山羊の会さんの主宰であらせられる山内ケンジさんの映画監督作品の公開が微妙にずれていたからなのでした。映画は渋谷の映画館で単館上映というかたちだったので(全国順次上映予定)、こっちも東京に行く必要があったのです。

 というわけで、今回はゆるぎないメインイベントに映画鑑賞があったのですが、どうせ東京に行くんならということで、映画はその日最終回の夜7時半からの回を観ることにしまして、日中は東京近辺に住む大学時代の親友のみなさま方と集まることにいたしました。なんだかんだいっても私の山形暮らしは今年の2月から始まったばっかしですので、私にとっては波乱のひと言に尽きた今年を締めくくる前に、ぜひとも顔を出して「安心してください、生きてます!」という報告をしておきたかったのです。

 そんなこんなで朝8時発の新幹線に乗った私は、お昼過ぎに東京某所で親友お3方と、お子様お3方と集まることとなりました。
 親友の皆さんはまったく変わらずお元気そうだったのですが、お子様がたが0歳に2歳に4歳っていうことで、まぁ~集まるたんびに生まれてるわ大きくなるわしゃべりだすわ個性が出まくるわで! これはね、親友と会うことだってそりゃ楽しいわけですが、その成長を見て楽しむという意味で、お子さんがいるというのはとっても強力なモチベーションになるんですな! まだ素直なまんまだもんなぁ。かわいい盛りですよ。

 結局、1時から6時くらいまで楽しい時間をあっという間に過ごしたのですが、親友のひとりが来年の初夏にいよいよ結婚式を挙げるという朗報もいただきまして、必ず近いうちにまた集まろうという確約をして解散しました。みなさん30代も半ばになりましたが、まだまだ幸せなニュースばかりでいっぱいなのはすばらしいことです。来年もそんな感じでいってほしいものですな!


 さぁ、そんな稀に見るほんわか気分で渋谷にたどり着いたわたくしでしたが、予想はしていたものの、渋谷名物「人ごみごみ」は今日も山形人にキビしかった……まぁ~どこもかしこも人、人、人! 目指す映画館は駅からちょっと離れた場所にあったので、ごちゃごちゃな空気に私のうわついた気分もさーっとクールダウンしていき、実に落ち着いた心持ちで映画にのぞむことができました。ありがとう渋谷! 明確な用事がないかぎりあなたには近寄りません。なんであんなに人が集まってるんだろう……ちょっだ、やまがださもわげでけろ~!


映画『友だちのパパが好き JE SUIS FOLLE DU PAPA DE MA COPINE』(監督・山内ケンジ 2015年12月19日公開 105分 東京・渋谷ユーロスペース)

主なキャスティング
吉川 マヤ     …… 安藤 輪子(23歳)
箱崎 恭介     …… 吹越 満(50歳)
恭介の娘・妙子   …… 岸井 ゆきの(23歳)
恭介の妻・ミドリ  …… 石橋 けい(37歳)
恭介の愛人・生島  …… 平岩 紙(36歳)
高校教師・田所   …… 金子 岳憲(38歳)
妙子の彼氏・村井  …… 前原 瑞樹(23歳)
ミドリの同僚・川端 …… 宮崎 吐夢(45歳)
ミドリの同僚・野崎 …… 島田 桃依(33歳)
ミドリの上司・桑田 …… 岡部 たかし(43歳)
踏切の若者     …… 白石 直也(34歳)
ヘルパーの加藤さん …… 永井 若葉(38歳)


 はい、そんなわけで観たのはこの映画だったんですけれども。
 えぇ、『友だちのパパが好き』です。『007』でも『スターウォーズ』でもなく、『友だちのパパが好き』です。

 いやぁもう、なんてったってみなさん、どうですか、この真心あふるるタイトル! 『友だちのパパが好き』ですよ? タイトルを読んだ時点であらすじ終了ですよ! 親切きわまりないねぇ~。高校球児なみに気持ちのいい直球どストレート!

 2004年から演劇プロデュース集団「城山羊の会」の主宰&劇作家&演出家として活躍しておられる山内ケンジさんの映画監督作品としては、2011年12月公開の『ミツコ感覚』以来の第2作となるのですが、1980年代から CMディレクターとしての才をいかんなく発揮されてこられた山内さんの手になる長編映像作品なのですから、これは舞台公演とはまた異空間が展開されるに違いない!と、2011年の暮れに私は喜び勇んで『ミツコ感覚』を観るために新宿へと向かったものでした。

 しかして、その期待は全く裏切られることはありませんでした。「ヘンなやつら」に満ち満ちたこの世界にもみくちゃにされ、自分のまいたトラブルの種の豊穣すぎるみのりの連続に酸欠状態になりクッタクタになりながらも、それでもゼロからまた歩き始めていこうと手を取り合う姉妹の「崩壊と再生の物語」として感動的な傑作となっていた『ミツコ感覚』に、私は非常に満ち足りた年末を送ることができたのでした。そこらへんの感想記は、当時の我が『長岡京エイリアン』の記事に残っております。

 もう4年も前のことになるのか……2011年といえば、そりゃもう東日本に住む人々にとっては死ぬまで忘れられないようなムチャクチャな年だったわけで、その年末は、3月に比べれば関東あたりはいくらか落ち着いたとはいうものの、それでもこれからこの国がどうなるのかまったくわからないという不安と隣り合わせのまま、習慣だからいちおう浮かれてはみるという薄皮一枚の日常にうっすらと覆われた不気味な季節でございました。
 ついでに言えば、私個人もその年に劇団員をやめたばかりで、ほぼ丸一年間、アルバイトをして食いつなぎながら、さてこれからなにをしていこうか……と、ヒマさえあれば意味なく横浜の京急線沿いとか東横線沿いをあてどもなくフラフラさまよう不審きわまりない生活を続けておりました。でも、全く生産性のない年ではあったんですけれども、そうやってぜいたくに1年間もの思いにふけることができたのは、現在の自分にとってかけがえのない財産になっています。

 そんな年の締めくくりに観た『ミツコ感覚』は、あきらかに新しい年を迎える私にたいして「世界も未来もどうせムチャクチャなんだ、迷ってないでとにかく歩き出せ!!」という喝を与えてくれた作品だったのです。感謝の言葉もありません。


 そんな名作を世に問うてくださった山内監督の最新作ということで、私の期待がいやがおうにも高まりに高まっていたことは間違いなく、さらにいえば、つい先日に観た城山羊の会さんの最新公演『水仙の花』もまぁ~おもしろかったということで、もはや私の心の中に勝手に構築された「期待値ハードル」は雲を衝く高さにまで達していたのでした。しかも、こちらには『水仙の花』に出演されなかった石橋けいさんが出演なされているとか! これで成層圏突入しました。


 そして大緊張の観賞の結果は……おもしろくないわけがねぇ!! おもしろいもなにも、前作『ミツコ感覚』の2倍増しでおもしろかったです!

 決して前作を貶めているつもりはないんだけどなぁ。どうして『友だちのパパが好き』は、そんなに前作と段違いにおもしろかったのだろうか。

 それはたぶん、ひとつの物語を形作っていく「視点の数」が増えて、さらにはそれぞれの「深み」も遥かに掘り下げられていたからだったのではないのでしょうか。そして最も大事だったのは、それらが収斂されて実に山内監督らしい「ある視点からはハッピーエンド、ある視点からはどっちらけエンド」な結末を迎えていたからだったのでしょう。ある戦いが終わり、新たな人間関係が勝ち残ったことを明示するラストカットが用意されていたわけです。

 『ミツコ感覚』でも、確かに劇的な展開は後半にあったのですが、それはあくまでも「姉と妹」という人間関係を暗黒の中で手探りで再確認する、当たり前だけど大事な作業のきっかけにとどまっていました。その意味で、『ミツコ感覚』は「壮大なプロローグ」に徹していたと、私は観たのです。しかし、今回の『友だちのパパが好き』は、同じくある登場人物たちの新たな生のプロローグにはなるのでしょうが、それ以上に作品自体が登場人物同士の生きざまと生きざまの火花散る闘いの記録になっていたわけなのです。

 これはつまり、『ミツコ感覚』が「姉妹」の視点から枝分かれするように物語が進んでいったのに対して、『友だちのパパが好き』は「家族」の視点ももちろんありつつも、全く別の位置から発生した「トラブルメイカー」の視点も負けじと同時スタートで本編に組み込まれているという違いなのでしょう。その結果、1本の木の成長をつづる観察日記ではなく、木と木が争うように生い茂り、その枝と枝との絡み合いの中に全く異質な「鳥」がやってきて巣を作ってしまうような叙事詩となった、ということなのです。

 鳥だ、鳥なのです! さすがは山内監督、だからテーマ曲はシューマンの『予言の鳥』だったのねぇ! 鳥は一体、木々にどのような世界の到来を予言したというのでしょうか。最後は包帯ぐるぐる巻きで飛べそうにも見えない痛々しさではありましたが、あの鳥はしぶといぞ~! 宿り木はもう、すぐ目の前に勝ち取っているのです。

 たとえば、木という植物が、まぁ植物には目という感覚器官が無いのだとしても、空を飛ぶ動物の鳥という存在を感じたとき、それは全く自分とは相容れない生態を持った「ぜんぜん違う世界の生き物」だと理解するでしょう。
 つまり、この『友だちのパパが好き』のキャッチコピーとなっている「純愛は、ヘンタイだ。」における「ヘンタイ」というものの存在は、その世界における「ふつうの人々」にとっては、まさに植物と鳥類くらいに性質のまったく異なるものなのでしょう。しかし、ふつうの人々とヘンタイが密接に絡み合って生きているのがこの世界の複雑さなのであり、お互いが結局はおんなじホモサピエンスなのであるという表裏一体の不安定さこそが、城山羊の会ワールドが醸し出す妙味の本質なのではないのでしょうか。そんな世界の複雑さを、むしろ楽しまずんばこれ如何と!!

 通り一遍にこの物語を見てみますと、この作品における「ヘンタイ」とは、冒頭から結末にいたるまで恐ろしいまでに一貫して「友だちのパパが好き」という動機のみで周囲の人々を翻弄しまくって暴走しまくるマヤただ一人を指すかのように思えてしまうのですが、その首尾一貫かつ不純物いっさい無添加のドントルックバックな生き様には、観終わった後に拍手を送りたくなるような爽快感があり、多くの他の登場人物にとっては悪夢以外の何物でもないクライマックスにおけるマヤの笑顔も、彼女の迷いのないエネルギーの奔流が勝ち得た当然の勝利のように感じられるハッピーエンド色にいろどられています。

 しかし、そういう気分になって作品を観終えたとき、私はふと思いいたってしまうのです。果たして、そんなマヤを「ヘンタイ」と異端視して良いのか? なぜ社会は、自分に正直な、別に法に触れているわけでもない「純愛」という生を謳歌する人間をヘンタイと言ってしまうのか?

 この作品の中でマヤのことを「ヘンタイ!」と激しく糾弾するのは、もっぱらマヤの親友で恭介の娘である妙子なのですが、それは「自分の実の父親と友だちがセックス!?」という生理的嫌悪感も当然あるのでしょうが、物語の中で妙子が嫌悪しているものは、ヘンタイのマヤもさることながら、それ以上にそんなマヤの求愛を離婚した直後、というか離婚前から受け入れてしまう恭介の「動物っぽさ」であるような気がしてなりません。そして、それはとりもなおさず、ふつうの社会の中での「大学生の娘を持つ50歳前後の父親」という立場にどっしり20年ほど根を張っていたかのように見えた恭介という木が、身軽にパタパタとやってきたマヤという鳥のさえずりにのって、いきなりズボッと地面から根っこを抜いて、葉っぱが翼に変わって「じゃあね~。」と大空に飛翔していくかのような、まさしく世界が変わるかのような衝撃を妙子にもたらしたのでしょう。

 パパがパパじゃなくなった!!……どころか、知り合いの彼氏に!? これはとてつもないショックだったことでしょう。
 しかし、そこだけにとどまれば三角関係の中で起きた事件で済むわけなのですが、マヤのヘンタイとしての猛威はそこにとどまるものではありませんでした。それは、すでに離婚することを前提にしていた恭介の妻ミドリにとっても、離婚した後はまぁ恭介の後添いになるんだろうな、と自他ともに認める関係になっていた愛人の生島さんにとっても青天のカタストロフィ以外の何物でもない天変地異をもたらしたのです。生島さんにとってはつらすぎるだろう……自分も妊娠したし相手もやっと離婚してくれたっていうのに、若いとんびに油揚げかっさらわれっちゃったんだもの! なんだあのクソ鳥!!ってなもんですよ。

 いっぽう、よくよく考えてみればどうせ他人同士になるんだから、恭介が誰と付き合おうがどうでもいいんじゃないの?と思えなくもない冷え切った関係になっている妻ミドリなのですが、こちらもまた恭介に対してハイさよならともいけない複雑な心理が働いているようでして、それはストレートに言ってしまえば、離婚することによって、金銭的な制約が発生することはあるにしても、どことなく自由な人生を謳歌できそうな雰囲気を身にまとってしまう恭介に対する、同世代の人間としての単純な嫉妬なのではないのでしょうか。

 そこで効いてくるのが、セリフでは明確に言及されないにしても「離婚したら恭介が家を出て行く」という前提が家族の中ではっきりしているという事実なのでありまして、そりゃ家は残るんだからミドリと妙子の母娘にとって生活的には有利なのかもしれませんが、本編中で舞台背景として画面に映り込むミドリの家は、意図的に重苦しくて2人暮らしをするにはひたすら大きすぎて寒々しい「おもし」のように見えてならないのです。あの、離婚することが決まり切っている夫婦の冷たい会話の後ろに控える、蒼ざめた蛍光灯の下にさらされた膨大な食器の存在感ときたら……そんな陶器の白さに負けないくらいに、フェルメールの絵にでも出てきそうな蒼白さを帯びているミドリの横顔には、間もなく生島のもとに身軽に駆け寄って行くことになる恭介の動物性が非常にうらやましくねたましいものに見えたのではないのでしょうか。離婚するのが惜しいわけでなく、ただただ、ミドリという森から去っていく恭介の「足」が憎かったのではなかろうかと。
 と同時に、大病を患った後でも、自分の「おんなとしての肉体」と、女でありたいという「動物性」はまだ確かに残っている、という事実にさいなまれるミドリの複雑な心境は、同僚の川端との「結局やっちゃうのかよ!」というぐずぐずの関係によく象徴されていたと感じました。この業の深さときたら……これは日ノ本広しといえども、石橋けいさんほど克明に演じ切られる女優さんはいないのではないのでしょうか。な、な、なんなんだ、よりによってあのタイミングであのパーツに流れた、あの「ひとすじの汗」は!? 興奮するとか感動するとか言葉で表現するのもおこがましくなる、思わず手を合わせたくなる気分になってしまいました。菩薩さまじゃ~!!


 話を戻しまして、そのへんの「家」というアイテムの重苦しさは、前作『ミツコ感覚』でも暗示されていたものがあったと思うのですが、それに加えて、「家の重圧に無縁な男」という要素は、実は先日上演されたお芝居のほうの『水仙の花』でもほのめかされていました。
 『友だちのパパが好き』でも『水仙の花』でも、父親を演じた吹越さん演ずる男が婿養子であると明言されることはなかったのですが、『友だちのパパが好き』では男が家を出て行くことは当然のように語られていましたし、『水仙の花』でも、亡くなった妻の持っていた不動産の処理を病院経営者である妻の妹夫婦が担当するといういきさつがそれとなく語られていました。つまり、経済的な側面から見れば、この映画とお芝居における男の立場はきわめて小さなものになっているのです。

 しかし、その立場の小ささこそが、俳優の吹越満さんの妙な「家庭人じゃなさそうな雰囲気」と相まって、人間としてのフットワークの自由さに見えてしまうのが、両作品の隠れたミソなのではないのでしょうか。吹越さんは常に、周囲からなんとな~くねたましい視線で横目に見られ続けているのです。そこに映画でいうマヤとか、お芝居でいう映子のような、「真正面からすなおに自分を見つめてくれる存在」が現れてくれるのですから、それはもう落ちないわけがないという寸法なんですな。城山羊の会ワールドにおける男の主人公は常にラッキーでありロマンチストであり純情なのです。うらやましいったら、ありゃしねぇ! まぁ、その結果として恭介はクライマックスでヒドい目に遭うわけですが。


 さて、ここで視点を物語でなく映像のほうに転じてみますと、今回の『友だちのパパが好き』は、全体的に「曇天」「白っぽい」「顔面蒼白」といった、純白とまではいいがたい不健康そうな「白さ」が、常に画面のどこかに横溢しているように見受けました。
 特に「顔面蒼白」に関しては、離婚問題を無感情にささっと済ませようと努めるミドリ、唐突に両親の離婚に直面する妙子、マヤに一方的に縁を切られる彼氏の高校教師・田所、離婚はしたもののどうにも生島のもとへと走るふんぎりのつかない恭介、そしてその恭介の熱のなさに忸怩たる気分をおぼえる生島さんといった面々がかわりばんこに顔色を悪くしていくという「まっさおリレー」が続く印象があり、その中心でただマヤだけが純愛に胸をときめかせて紅顔をたもっているという、出てくる人たちの顔だけで日本の国旗ができそうな人間関係が構成されているのが素晴らしいと感じました。ヘンタイの異端性が、ここでも視覚的に明示されているのです。いや、平岩紙さんは基本的にどの役やっても白いんですけどね……

 そうなのです、この顔面の色合いにおいて、ヘンタイであるはずのマヤは本作品における唯一無二の「太陽」とも言うべきエネルギーと暴虐さを兼ね備えた存在になっているわけなのです。あまねく登場人物はすべて、マヤに無視されて冷たい曇天の中を生きるのか、はたまたマヤの熱すぎる愛にさらされて身を焦がす苦難に襲われるのか、そのどちらかしか選べない運命にあるといっても過言ではないでしょう……いや、過言かな。


 ところでそれに合わせて、山内監督の作品といえば、前作にもあったような「屋外の街路樹くらいの高さからの定点俯瞰ロングカットシーン」が名物となっていると私は勝手に楽しみにしておりまして、今回も曇天の中での団地のうらぶれた駐車場を背景にした、妙子を味方にしたマヤが田所にバサッと別れ話を持ちかける爆笑シーンでそのカメラワークはいかんなく発揮されていました。いや、爆笑するのはいかにも不謹慎なんですが……そりゃまぁ、笑っちゃうよねぇ。

 『ミツコ感覚』でも効果的に挿入されていたこの定点俯瞰シーンは、城山羊の会さんの演劇の毒に満ちた空気を映画作品の中で再現するという長回しならではの効果があったかと思うのですが、今作ではそれに加えて、同じ長回しでも「夕暮れの接写撮影シーン」という手法が2ヶ所できわめて味わい深く使用されていたことがものすごく印象に残りました。
 これは、生島が偶然に、線路の踏切で投身自殺しようとしていたところを若者に止められた田所に出会うシーンと、マヤと恭介の密会を執念く尾行していた田所が、これまた偶然に自分の母親の介護に来たヘルパーの加藤さんに出会うシーンで使われていたカメラワークで、それぞれで生島と田所に接近したカメラが、そこで彼女や彼が出会った人々とのやり取りを狭い視点で捉えるという映像になっています。
 そして、この2シーンはどちらも時間帯が夕暮れになっていて、田所を救った若者も、田所に偶然出会ったヘルパーの加藤さんも、ちょっと表情がはっきり読み取れないくらいのギリギリの薄暗さの中で撮影されているのでした。全体的にうすぼんやりとしたオレンジ色の背景に包まれた中で、人々のやり取りがまるで影絵のように展開されているのです。

 すれ違う相手の顔も定かでなくなる夕暮れ時とは……これぞまさに「逢魔が時」! 英語でいえばトワイライト!! トワイライトぞ~ん。

 非常に古典的ですが、この時間帯のシーンに共通して登場した田所という人物が、この作品で最終的に果たした役割のことを考えれば、この2シーンに意図的に夕暮れ時を選んだ山内監督の、几帳面にも限度というものがある誠実きわまりないこだわりを感じずにはいられないのではないのでしょうか。なんとわかりやすい!
 ただ、ここで確認しておきたいのは、マヤに無下に捨てられた田所が「魔」になったのではなく、線路の踏切で田所を救った若者や、ラブホテルの前で不審すぎる挙動を取っていた田所を見とがめた加藤さんという形をとって田所の生き方を大いに翻弄した「運の悪さ」こそが「魔」なのである、という山内監督の透徹すぎる照準の当て方なのです。線路の若者も加藤さんも、別に怪しい田所を笑おうとして接近したわけではないのに、その無償の善意がかえって田所を笑うしかないみじめさにおとしめてしまう……ここ! こここそが、山内ケンジさんの執拗に追いかけ続ける、笑いの本質的な恐ろしさなのではないのでしょうか。
 映画を観たお客さんのあなた、この線路の若者も加藤さんも、やけに実力のある俳優さんをキャスティングしてるなと思いませんでした!? あんなに顔が見えてるかどうかもわかんないシーンだったのに……あれはつまり、そういうことだったんですね。前作『ミツコ感覚』であれほどに恐ろしい役を演じ切った永井若葉さんがやってたんだもの、そりゃただの通りすがりのチョイ役なわけがありませんって!


 え~、そんなこんなをくっちゃべってるうちに、字数もはや1万字になんなんとする頃合いになってまいりましてェ。

 この『友だちのパパが好き』に関しては、もっともっと切り込んでいきたい視点がいっぱいあるのですが、そろそろおひらきにしたいと思います。

 ただ、最後にひとつだけ! この作品における「ヘンタイ」って一体なんなんだろうか、ということなんですね。

 我々は果たして、愛する者を手に入れるためにすべてのエネルギーを投入する、そして愛する者のいない世界を予想して即座に死を決意する勇気を持ったマヤを「ヘンタイ」と断ずる権利があるのだろうか!? そのまっすぐで美しすぎる生き方の前には、「友だちのパパが好き」とか「離婚した直後の男を寝取る」とか「子どもは邪魔なだけだからいらない」といったマヤの選択は小さすぎる問題なのではなかろうか?

 そしてそのいっぽう、本人に対してさえも「好き」と即座に言わず、結婚なんかするわけないと断言する彼氏との交際をだらだらと続ける妙子の恋愛観は果たして「ふつう」なのか? 妊娠した愛人がいるのに、離婚届を元妻が提出した当日なのにマヤとラブホテルに行ってしまう恭介は? 同じく仕事先の同僚に言い寄られるままに同衾してしまうミドリは? 本妻が病気に苦しんでいた時期から4年間も恭介とのただれた関係を続けていた生島は? 介護が必要な母親の行く末も案じずにマヤと恭介を追った田所は?

 よくよく考えれば、主要な登場人物たちの中でふつうな人なんか1人もいないじゃないか! 実は、キャッチコピー「純愛は、ヘンタイだ。」は、どの人物から他のどの人物を見ても「ヘンタイ」に見えるという、万華鏡のような、あるいは映画『燃えよドラゴン』(1973年)のクライマックスでブルース=リーと総帥ハンが血みどろの死闘を繰り広げた使いづらいにもほどのある「鏡の間」のような、無間地獄の中で楽しく和気あいあいと行われるワルツの情景をさしていたのではないのでしょうか。


 前作『ミツコ感覚』は、「あんたらとはやっとれんわ。」という姉妹の醒めきった表情で締めくくられていました。そして今作も、かようなヘンタイたちとの饗宴に呆れかえった母娘や愛人が「もうええわ。」と去っていくところでエンディングに……いきそうになったのでしたが、本当の最後のカットは、お互いのために生死の境をさまよって生還するという試練の果てに、当然の対価として愛する者を手にした2人の笑顔で終わったのです。
 これはまさに、『友だちのパパが好き』が相方のしめの文句で終わる登場人物の少ない「漫才」のような小品ではなく、実に娯楽映画らしい恋人同士の笑顔で終わる完全無欠の「恋愛映画」であったことを如実に示す心意気だったのではないのでしょうか。


 山内ケンジ監督……今回も、一年の締めにふさわしい作品を、本当にありがとうございました。2016年は、私もどストレートで王道をあゆむヘンタイでいく所存でございます!! 来年からもひとつ、どうぞよろしくお願いいたします。

 余談ですが、私が観た回の映画館は前作に引き続いて野太い笑い声をガハハとあげる通っぽいおじさん客がメインだったのですが、ちゃんとマヤと妙子っぽい2人連れの若い女性客も観に来ていたのが印象的でした。そうそう、若い人もぜっひとも、この世界に早いうちから触れていただきたい!

 そして、この国には石橋けいさんという、世界一顔色の悪いコンディションが似合う稀代の女優さんがおられることを知ってもらいたいのです!!

 石橋さん、来年もどうぞ、すこやかに城山羊の会ワールドで不健康な状況におちいる役を演じてください。
 不健康な身体で不健康なことは、できないもんねぇ。
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高速回転する鏡体によく似た家族と、となりの美人さん  ~城山羊の会『水仙の花』~

2015年12月13日 22時55分46秒 | 日記
 うわ~、気がつけば、もう師走! どうもこんばんは、そうだいでございます。クリスマスも年末もさしせまった今日このごろ、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
 いちおう、私の勤め先は1年の中で11月が最も忙しいということになっておりまして、それもどうにかこうにかしのいで12月に入りおおせているのですが、今月は今月でやるこたいっぱいあるわけなんですよ。なんてったってクリスマス、なんてったって年の瀬! 気は抜けるはずがないですよね。何事も新人なりに全力投球でやってかないとねぇ。優しい先輩からは「力抜いたら?」なんても言われちゃうんですが、力を抜いたらすぐばれるんだなぁ、そこらへんのカモフラージュ術がてんでへったくそなのです。

 さて今週の土日は、そんなヒーコラヒーコラバヒンバヒンな私にとりましては滅多にない贅沢となる2連休だったのですが、そこで家でのんびりといかないのが、わたくしなのでありまして!
 入れたよね~、東京行きの強行スケジュール。そしてさらに強行なことに、東京に行くことにした12日土曜日は、早朝に健康診断を受けるという重大な予定が入っていたのだ!

 健康診断……いや、そりゃふつうの健康診断なんですけれどもね、ここで私にとってバカにできなかったのは、その健康診断の項目の中に「バリウム胃検診」という新機軸が加わっていたことだったのです。

 うわ~、生まれて初めてのバリウムだよ! しかも、バリウム飲んだあとは下剤飲まなきゃいけないんでしょ!? 私、下剤のむのも生まれて初めてなんだよぉ! 健康な胃腸を持って生きてこられた、このしあわせ。

 大丈夫なのだろうか……下剤が効いたとして、いや、そりゃ下剤がちゃんと効いてくれなきゃ困るわけなのだが、そうなると山形新幹線の中で過ごす3時間、東京で過ごす半日、そして今回も例によってホテルは使わないので深夜高速バス内で過ごす6時間というスケジュールは、果たしてこの私に耐えられるものなのだろうか。大東京のどこかで、まさかの「三十路スプラッシュ」という惨状を呈することになるのではなかろうかと夜も眠れない日々を送っておりました。怖い! それだけはなんとしても回避したい!!

 でも、この記事のタイトルでもう言っちゃってるんですが、今回の用事は東京で上演されている大好きな演劇を観ることなのでありまして、この土曜日を逃しては絶対にいけないものだったのよね。それでもう、やむなく「下剤を飲んで遠出する」という、いかがわしいマンガの美少女ヒロインでもなかなかさせられないような苦行を強いられ……いや、勝手に自分に強いる仕儀とあいなったのです。どこまでおのれを痛めつければ気が済むのだ! な~んてかっこいい言い方したって、バカはバカですよ~だ。

 そんな、他人様にとっては甚だどうでもいい煩悶をかかえつつ運命の土曜日当日となったのですが、まぁ日本の医療技術は着実に日進月歩しとるんだなぁといいますか、問題のバリウムも、牛乳やらヨーグルト飲料やらが大好きな私にとってはそんなに苦になるものでもなく、機械にしがみついてぐ~るぐる回る初体験も、けっこう楽しく過ごすことができました。よかったぁ、私、バリウムについての知識が映画『病院へ行こう』(四半世紀前)で真田広之さんがかなり苦しんでたっていうやつしかなかったから、怖くてしょうがなかったのよ! あの JAC出身の真田さんをしてああだったんだから、私なんかおっ死んじゃうんじゃなかろうかと。

 まぁともかく健診は無事に終わりました。これでヘンな結果でも出なけりゃいいんですけど。血圧もその他もいたって問題はなかったですね。「え、ウエスト? しまった、腹筋してくりゃよかった!」などと無意味この上ない自意識を働かせてしまいました。だれも気にしてねぇから!! 身長がなぜか微妙に伸びていたのが地味にショックだった……自分ではいっぱしに仕事でそうとう疲弊してると思い込んでたのに、のうのうと成長してるよ、コイツ! むしろ身長が削れるくらいの勢いで働けって話ですよね。ヤだけど。

 それはさておき、健診後に問題の下剤をしっかりのんだ私はさっさと準備を済ませまして、昼前の11時に山形新幹線で出発しました。ドッキドキのひとり旅ですよね。
 それでまぁ、下剤はちゃんと効いてくれたわけなんですけれども、そこらへんの詳細はここに記録したってしょうがないもんね。テキトーにカットしまして、とにかく結果だけ、「スプラッシュは(ちょいちょいギリギリだったけど)回避された」ということと、やたら「白い! 白い!」とテンションの上がる私がいた、という2点だけを記しまして、本題に移りたいと思います。いやぁとにかくね、都会はあちこちにきれいなトイレがあるのがステキですよね! 本当に助かりました~。

 というわけで、今回は「下剤のんでる」という新要素は入っていたのですが、新幹線で東京に行って、お芝居を観て深夜バスで帰るという、いたっていつも通りなスケジュールとなりました。午後2時前に東京に着いて、ちょっとふらふらしてから夜7時半開演のお芝居を観て11時半発のバスに乗る、いい感じの流れでしたね。

 あ、そうそう、なもんで今回は映画を観るまでの時間はなかったのですが、トイザらスに寄って甥にプレゼントするおもちゃを買いましたね。ちょっと早いんですがクリスマスってことで。
 それで買ったのは、仮面ライダーゴーストの可動フィギュアだったんですが、じみ~に高いよね。「買えないほどじゃない」ってレベル内で高いよね。
 私自身はあくまで「昭和の仮面ライダー」にしか興味がないので、「まぁ、甥が好きなんだから。」という程度のビジネスライクな感じで購入したのですが、仮面ライダーに限らず、「必ず1年で放送が終了する」っていうサイクルって、世の大人のみなさまがたにとってはむなしい限りですよね……最近はどこの人気シリーズもそうとは明言しないでしょうが、2年以上放送が継続される可能性って、話題性のあるシリーズほどゼロに近くなるじゃない!? 2017年に『Yes!仮面ライダーゴースト GoGo!』は放送されないだろう。幽霊に GoGoされる1年間なんてヤだし。なんか、山村貞子大師匠と佐伯伽椰子師匠は来年ハデに GoGoするみたいですけどね、年甲斐もなく。
 となると、よっぽど好きにならない限り、このフィギュアも来年はお払い箱になるわけでねぇ。しみじみ「おまえも大変だなぁ。」なんて思いながら買っちゃいましたよ。でも実際、来年のクリスマスにはまた新しいプレゼントが必要になるわけでね。確かに、1年で役目を終えるというおもちゃのサイクルは正しいのかも知れませんけど。子どもが遊ぶんだから、そりゃ壊れることもあるだろうしねぇ。

 ただ、そうやってガンラガンラと強制的に放送スケジュールに合わせて店頭から処分されていく前シリーズのおもちゃの在庫は、悲しいよね……それこそまさに「悲しき玩具」ですよ。本人たちの商品としての「質」はまったく劣化していないのに、勝手に激減する「価値」によって無理矢理退場させられてしまうという。そういうの、いくら割引してもしょがないもんねぇ。トイザらスではそういうのはやってないかもしんないけど、スーパーとか100円ショップとかで「半額」とか「1コ10円」とかの屈辱的な値段でたたき売りされてる『ハピネスチャージプリキュア!』関係の食玩とかを見かけちゃうと、お焼香のひとつでもやりたい気分になりますよね。そして、その順番は確実に次のみなさんに迫っているという諸行無常感……栄枯盛衰、げによのならひなりけり!!

 とまぁ、そんなことを考えつつ、クリスマス商戦で大にぎわいのトイザらスをあとにして私が向かったのが、東京は三鷹の「三鷹市芸術文化センター」。そして観たお芝居は、何と言いましてもこれ!


城山羊の会プロデュース第18回公演 『水仙の花 narcissus』(2015年12月4~13日 三鷹市芸術文化センター星のホール)


 きたきた~! 毎年恒例の必須行事になってきましたでしょうか、「歳末・城山羊ワールド展覧会」! 本当にこの日を心待ちにして働いてまいりました……
 例によって、会場はもう入場順番待ちで押すな押すなの大盛況! 客層も、いい感じの紳士淑女のつどいのサロンといった品格を感じさせる雰囲気になっておりました。どうでもいいけど、カップル率が高いと見た!

 そんな空気の中、「お客さんはかようにいっぱいおれども、トイザらスのロゴのプリントされた袋をぶら下げてるのはオレだけだろうて……」という、全く意味のないほくそ笑みを浮かべながら入場した私は、迷わず舞台かぶりつきの最前列ほぼど真ん中に陣取りました。やった!
 そして開演を今か今かとわくわくしながら待っていたのですが、ここでお話が始まる前にちょっとした大事件が。他人様にとっては「ちょっとした」どころか、ひたすら無に等しいことかもしれませんが、私にとっては大事件なの!

 私は早めに入場できたので、まだまだ座席が埋まらない状態の中で最前列に腰かけたのですが、最前列は小劇場の常といいますか、感覚でいうとクッションを置いただけの床に座る形式となっていまして、やっぱり上演時間2時間を過ごすとなると、おしりが痛くなりやすい最前列よりも、ちゃんと椅子がある2列目以降の座席が早々にお客さんで埋まっていくわけなんですね。
 それで、私は開演までヒマだったので後ろの埋まり具合をちらちら振り返りながら座っていました。すると、何列か後ろに、ちょっと不思議な印象を持たせる鼻筋のすらっと通った美人さんがいらしったのです。線の細さからして女優さんらしくはないのですが、そのまなざしのするどさはただの素人さんではないな、と。そうとうな城山羊の会さんファンか、批評っぽいことをされている方なのでは?
 ……とかなんとか思ってたら、他ならぬその美人さんが、すっと立ち上がってトントンと降りてきて、最前列、しかも私の隣に座ったわけよ!!

 とまぁ、それだけなんですけれどもね。なんにもないっすよ。知り合いでもなかったし。

 あのひと、なんで私の隣に座ったんだろう……いや、最終的には開演までにもちろん最前列もぜんぶ埋まったわけなんですけど、あの時点では最前列に座ろうとしても女性のお客さんの隣とか、なんだったら両隣どっちも人がいない場所に座ることもできたはずなんだぜ!? なのに、なぜ男で、しかも私の隣に……世紀の謎だ。
 結局かといってそれで鼻息をフハッと荒げるわけにもいかず、私も表向きは紳士然とした態度ですましながら観劇しおおせたのですが、あの名も知れぬ美人さん、どうもありがとうございました! なんだかよくわかんないけど、ありがとう!!
 いちいち挙げてると頭がおかしくなったと思われるので省略しますが、実は今回の東京行きって、随所でちょいちょい「ラッキーなこと」が多かったのよね……ともあれ、それらのもろもろに合わせての「となりの美人さん」襲来に、私の観劇ボルテージは否が応にも上がりっぱなしになるのでありました。

 ……そして、本題のお芝居の中身に入るまでに、以上の狂おしいほどにどうでもいい話題の羅列で4600文字あまりも費やしてしまったという、この恐怖ね。
 気分としては1文字目から感想に入りたいくらいなのに、なにがこうさせてしまうのであろうか……いやそれはもう、ひとえに観たお芝居がおもしろかったからに尽きるんですよ。


《私なりにまとめたあらすじ》
 亡くなった妻・仙子の四十九日法要を済ませた晩。中年男のイズミタカシ(演・吹越満)は、自宅の前の路上に倒れていた女性・舟木映子(演・松本まりか)を介抱する。意識を取り戻した映子に献身的な態度を見せるタカシの姿に、タカシの娘・百子(演・安藤輪子)は一抹の不安を感じるが、百子の予感は的中し、映子とタカシは一夜にして互いの肉体を激しく求めあう関係におちいってしまうのであった……
 果たして百子は、妖花・映子の虜となった父タカシを取り戻すことができるのであろうか!?


 うん、話の筋は、それだけですよね! なんというシンプルさ。シンプルにしてドロドロ! クノールのコーンスープみたい。信頼の味わいです。

 お話が進むにしたがって、登場人物はタカシの義理の妹夫婦にあたる丸山夫妻(演・島田桃依&岩谷健司)、映子に関係の深い男・舟木(演・金子岳憲)、百子のボーイフレンドの中村ヒロ(演・重岡漠)、映子の懐刀のような謎の男・高崎馬(演・岡部たかし)と増えていくのですが、おもしろいように物語はタカシをめぐる映子と百子の「をんなのはないくさ」に終始しているわけなのです。タカシはもう、全編これモテモテ!!

 ここで気になるのが、タカシの愛情が映子に傾くことを異常に嫌う百子が、なにをかくそうタカシの娘であるという事実なのですが、これは単なるファザコンなのか、それとも父であるということを度外視した異性への恋愛感情なのか、はたまた母・仙子が亡くなったばかりだというのに不実な所業におよぶ父親への激しい憎悪のあらわれなのか。
 そのあたりについての百子自身の告白はなされないのですが、百子は常にタカシに対して「一定の距離をおきながら」強い執着心を燃やしており、シックなブラウスにスカート姿、ヘアスタイルも黒い長髪を後ろに流しているだけ、眉毛もナチュラルに太く黒い感じという少女然とした外見からも、さらにはボーイフレンドの中村くんも彼氏というよりは従僕のように冷たく扱っている態度からも察せられるように、全体的に他人との親密な、もっと露骨に言えば性的な接触を好んで行うような人物にはちょっと見えないキャラクター造形になっています。もちろん、それをもって百子が「清純な」ヒロインであるとは口が裂けても言えないことは、物語の中での中村くんに対する残虐きわまりない対応や、映子を捕まえた際に異常に手際よくソッチ系の「後ろ手縛り」の餌食にしている緊縛テクニック、はたまたタカシに襲いかかる舟木を数秒で沈黙させてしまうムチさばきからも明らかです。今回の物語で最強なのは、まずこの百子であるとみて間違いありません。

 ただし、そんなマンガチックに唯我独尊な百子でもまったく歯が立たないのがタカシと映子の濃密な恋愛関係なのでありまして、たまたま家に招き入れただけの縁もゆかりもない映子を自分の邸宅のメイドにしてしまうという強引すぎるタカシの裁定にも唯々諾々と従い、人目もはばからずむつみ合いを始めてしまう2人にも、せいぜい近くの床に倒れ込んで絶叫するくらいの抵抗しかできない非力さを露呈してしまっているのです。

 結局、百子は自分の従順なロボットである中村くんや、映子を取り戻そうと乗り込んできた舟木、妻が死んで間もない時期に正体のよくわからない映子を家に引き入れたことに不信感をあらわにする義弟の丸山を味方に取り込んで、あの手この手で映子を家から追い出そうと画策するのですが、それらは逆効果にタカシと映子の愛を燃え上がらせる結果しか生み出さず……百子の努力は悲しいくらいにことごとく失敗に終わるのでした。

 というわけで今回の作品は、おもしろいくらいに相性よくくっつくタカシと映子の愛の巣を、百子の嫉妬という動力が、あたかもかつて全国の小学校の校庭に配置されていた遊具「かいせんとう(回旋塔)」に勢いよく食いついたガキ大将のように尋常でない速度でグングンブンブン回転させていき、その結果、「おまえもまざれよ!」と強引に参加させられた周囲の無辜の人々が触れようとした瞬間に跳ね飛ばされて歯を折ったり鎖骨を骨折したりする惨劇が発生してしまうという、すがすがしいまでに「人災」な物語になっているのでした。理屈もなにもなく、ただ人間がその生を謳歌していること、それがひたすらトラブルの原因になっているのです。

 その点、私が思い起こさざるを得なかったのは、城山羊の会さんの前回公演『仲直りするために果物を』(2015年6月)が「人間が人間を超えたどうにもならない力に巻き込まれて破滅する」もようを冷徹につづった物語であると感じたことで、つまり今回は、「そうは言いつつも、どっこい人間だってそうとうにどうしようもねぇんだぜ!」という、前回公演と鏡写しの表裏一体になった返歌であると強く感じたのでした。

 実際に、わたくし自慢の牽強付会もいいところな解釈で申し上げさせていただけるのならば、今回の作品は随所で前回公演を想起させる設定や登場人物たちの言動がちらほらと顔をのぞかせておりまして、パッといま思いつく限りを挙げただけでも、

・序盤の「映子の夢」における「岡部さんが演じる役以外全員が死亡」の光景
・「仲直りのために用意された果物」がなんの役にも立たない
・百子がかつて交際していた「大学の社会学教授」

 といったあたりが、「あれ、それどっかで見たような or 聞いたような……?」と前回公演も観たお客さんの心をザワつかせるスパイスとなっているのです。
 また、物語の後半で百子が閉塞した状況を打開するために自らの身を挺した「色じかけ」で叔父の丸山から睡眠薬を得ようとする起死回生の策も、2013年冬に今回と同じ三鷹市芸術文化センターで上演された『ピカレスクロマン 身の引きしまる思い』を想起させるものがありました。もちろん、それぞれ違う展開につながっていくわけなのですが。

 ただ、いろいろあると思った前回公演とのリンクポイントの中でも、特に私が注目したいのは、


・前回公演のクライマックスでほとばしった石橋けいさんの「母性」が不在になり、その「娘」が主人公になったのが今回の公演


 という、連続していると思えなくもない関係なのでした。

 いや、もちろん前回公演と今回の公演とで直接物語が地続きになっていると言及される点はどこにもないですし、前回公演の石橋けいさん演じた女性が今回の吹越さん演じる役の亡妻であると解釈するのはまったく無理があるのですが、前回のあれほどショッキングな逆境の中で、それでも母になることを高らかに宣言する役を演じた石橋さんが、今回に限ってそうとう珍しく出演されていないというのは、それだけ重大な意味のあることだと思わざるを得ないのです。
 つまりこれは、前回の物語のラストに屹立した「母」が反転ぽっかりと空洞化して、その代わりに前回いなかった「娘」が中心に躍り出るという「どんでん返し」を意味しているのではないのでしょうか。

 石橋けいさんがいない! この事実を私が知ったのは、なんと劇場の客席に座ってボンヤリと公演のチラシを眺めていた時点というギリギリもいいところな遅さだったのですが、これには私もビックラこいてしまいました。
 なんということか……今年も冬にさしかかってから、「水木しげるロス」「野坂昭如ロス」と立て続けに巨大すぎる喪失感を味わされていた私にさらに追い打ちをかけるかのような、「けいロス」!! おぉ、神は私を見放したもうたか。

 ところが、これは出演していないということに「出演している以上」の意味があるはずなのです。だってけいさんなんだぜ!?

 城山羊の会さんの諸作品における石橋けいさんの役割……これは、私が観た限りはひと言で表すのならば、すなはち「静物になりたいけどなれない動物」ということに尽きるのではないのでしょうか。外交的にどんなに淑女たらんと努力しても、結局はどこかにほころびが出て、どうしようもなく生々しいけものくささが露呈してしまう性(さが)、その色っぽさ!

 そのけいさんがいないのですから、今回の公演はまさにそのタイトルが指し示す通り、動物ではなく「植物」をその中心に配置した物語であることは火を見るよりも明らかであるわけなのです。

 うん、色っぽいです。今回の公演におけるヒロインを演じた松本さんも、とってもエロかった! ふともももおなじみの暗転ギリギリのタイミングでばっちり露出してた!
 しかし……今回の松本さん演じる映子というキャラクターは、どことなくエロさに主体性がない。動脈がたぎってつい……という動物っぽい愚かさがないのです。どこかロボット的な所作、人工物的なドライさ。映子がエロいのは、どうにも周囲にいるタカシや百子あたりのひた隠しにするエロさを本人に代わって「反射して映している」にすぎないようなよそよそしさがあるんですね。他人のエロさがその鏡体に映っているだけという、つまりは映子自身の正体は一向に見えてこないつかめなさがあるわけです。だからあなたは何なんだ!?という、磨き抜かれた鏡のような空虚感。


 ここで、今回のタイトルである『水仙の花 narcissus』というところに思いをはせてみましょう。

 水仙というのは、言うまでもなく水辺に咲くヒガンバナ科の球根植物のスイセンのことで、作中でもタカシの家には白い花びらのスイセンが花瓶に活けられていました。
 このスイセンの学名がまんまサブタイトルの「narcissus(ナルキッソス)」であるわけなのですが、このナルキッソスというのは、ギリシア神話に登場する美少年ナルキッソスに由来するのだそうです。

 むかしむかし、少年ナルキッソスはその類まれなる容姿の美しさから、人間・妖精・神・性別を問わずありとあらゆる者から求愛されていましたが、その高慢さからすべての申し出をはねつけて多くの者たちを悲しませ、恨みを買っていました。
 あるとき、森の妖精エコーがナルキッソスに恋をしましたが、エコーはかつて大神ゼウスの不倫の手助けをした罪で、ゼウスの怖い嫁ヘラから、相手の言ったことを繰り返す以外に話せなくなる呪いをかけられていました。そのため、ナルキッソスは自分の言ったことしか話せないエコーを「退屈だ。」と退けたため、エコーは悲しみのあまり肉体を失い、声だけしかない森のこだまになってしまいました。
 これを知った罰の女神ネメシスは怒り、ナルキッソスにただ自分だけしか愛せないようにする呪いをかけました。呪いのかかったナルキッソスは、水を飲もうと泉のほとりにひざまずいたときに水面に映った自分の顔にひとめぼれし、そのまま水辺から離れることができなくなり、やせ細って死んでしまいました。

 このナルキッソスの最期が「水辺にうつむきがちに咲く」スイセンに重なるということで学名になったのだそうですが、このつながりからなのか、スイセンの花言葉は「自己愛」「うぬぼれ」「気高い」ということで、ちょっと不名誉な雰囲気にいろどられているのです。加えてスイセンが強い食中毒を引き起こす毒草であることもイメージダウンにつながっているでしょうか。


 こういういわくありげな美のかおりのただよう水仙がタイトルで前面に押し出されていることから、一見すると物語の中でいちばん妖しい魅力に満ちた映子がナルキッソスなのかと思ってしまうのですが、松本さんが演じた、他人の言い分によって「タカシの亡妻」にも「舟木の逃げた妻」にも「舟木の妹」にも「薄気味の悪いメイド」にも「丸山キヨミの死んだ姉」にもなってしまうあの空虚な美女は、むしろ声の反復でしかその存在を主張できない妖精エコーなのではないのでしょうか。エコーだから「えいこ」だったのか! 勝手になっとく。

 つまり、この作品におけるナルキッソスはあくまでも、映子を愛するというよりは「映子や娘にこんなに愛されてるなんて、オレはどうしてこんなにモテモテなんだろう……」という状況にいることにひたすら悦に入っているタカシなのではないのでしょうか。あの、「モテる男はつらいぜ。」という苦笑いと遠い視線! 吹越さんはあんなにカッコいい中年男性なのに、どうしてこういう役をやるとひたすら違和感が前に出てきてしまうのだろう!? 物語が進んでいくにつれて、登場人物の中で最も異常なのが、正体不明な映子でもサディスティックきわまりない百子なのでもなく、彼女たちがものすごいスパークを起こしながら衝突し続ける状態をどっちもいいとこどりでなるべく長~く続けていこうと併呑して「日常化」してしまうタカシなのだということが明らかになったとき、ナルキッソスの神の怒りをも恐れない破滅一直線な日常とタカシの平然とした表情が、きれいに重なりあうのでした。怖い! このおじさんはひたすらに怖い!! 「家庭の父」としてどこかが確実に欠落しているんですよね。どこまでいってもあくまでも「個人」なのです。

 また、思い起こせば一方の百子も、「ママ(映子)と私、どっちが好き?」という単刀直入な質問をしながらも、その質問がまったくタカシの心に届かず、タカシの目をそらしながらの全く心のこもっていない「……百子?」という答えしか返ってこないことに絶望します。しかし、その無意味極まりないこだまを無為に繰り返す以外に手の打ちようのない百子の慟哭には、映子以上にあのギリシア神話のエコーに近い哀しみを見たような気がしました。ナルキッソスの前では、全てが平等に埋まらない心の空虚を与えられるということなのか……ニクいぜこんちくしょう!!

 こういった、すぐにはわからないけど実はとんでもないキャラクターであるタカシという怪物を演じているのが吹越さんであるというところが今作の最大のミソで、怪物的な人物や状況がひたすら戦慄をもたらす存在であり続けた前回・前々回公演と違って、その怪物っぷりがおしみなく観客の爆笑を誘う違和感を常に帯びているというのが、私にとっては非常にうれしいキャスティングだと感じました。恐怖とおかしさとが、今までの公演よりもさらに高い次元で結合したという精華を見たような気がしたのです。

 さすがは吹越満よ……ただ山内ケンジさんの世界の住人になるだけではなく、ちゃんと「おれが、おれだけが吹越満なのだ!」というプロの俳優としてのナルシシズムを、スキさえあれば差し込んでくる異物感というか、反骨精神がハンパありません。やっぱりこのお方に足利義昭公を演じていただいてよかった!!
 あの、映子とまぐわった空気の残るソファから身を起こしてタバコを吸おうとしたとき、ちょっと表情をゆがめながら口の中に指をやって「なんか毛みたいなの」をつまんで灰皿に捨てた演技、観た!? 誤解を恐れずに最大限の賛辞として叫ばせていただきます、「こざかしい!!」 もう大爆笑してしまいました。いや、これが山内さんの脚本に書いてあるト書きの動きだったら私の単なる勘違いなのですが、なんかこれは吹越さんのアドリブのような気がするんだよなぁ。映子さんの存在ではフォローできない部分の「性の生々しさ」を見事にキャッチしたアクションであるといたく感激いたしました。プロフェッショナルな小芝居!


 この他にも、登場人物のみなさまに関しては、「異常にふつうな青年・中村くん」とか「丸山キヨミさんの明治チェルシーのヨーグルト味みたいな真緑のカーディガン」とか、「突然舟木がホテルマンのような格好になって映画『シャイニング』の中盤みたいになる展開」といった気になるポイントがいつものごとく目白押しだったのですが、ただただ一言、


「今年も城山羊ワールド、ごちそうさまでした!!」


 という御礼の気持ちを胸に、満足顔で高速バスに乗って東京を後にしたことをもって締めくくりたいと思います。山内ケンジさん、吹越満さん、城山羊の会さん、そして私の隣の座席に座っていただいた美人さん、どうにもこうにも本当にありがとうございました。みなさまのおかげで、今日も私は元気に働いております!


 ……と言いつつも、実は再来週、また東京に行くんですよね。
 またぞろ何のためにって、そりゃ親友の皆さんに年末に会いに行くって目的もあるんですが、なんつったって山内ケンジ監督作品、待望の第2弾となる映画『友だちのパパが好き』を観に行くために決まってるじゃないっすかぁ!!

 今回のお芝居だけでも無論のこと大満足だったんですが、吹越さん、安藤さん、金子さんに岡部さんといった面々に加えて、あの石橋けいさんも平岩さんも岸井さんも帰ってくるという、山内ワールド版『忠臣蔵』とでも言うべきほぼオールスター総登場の陣容に今から興奮が隠せませんね。

 楽しみだなぁ~! 城山羊の会さんの次回公演が約1年後の2016年暮れという辛さもあるだけに、再来週もウキウキワクワクで新幹線に揺られるぞ~!! そんなに揺れねぇけど。
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野坂昭如、ノーリターーン!!

2015年12月10日 21時10分54秒 | 日記
 うわー!! ある意味、先日の水木超先生よりもショック!!

 こんなこと言っても証拠もなんにもないからしょうがないんですけど、私、ここ数日むっちゃくちゃ、

「野坂昭如の歌が聴きたい!! 今聴いとかなきゃ絶対いけない!!」

 という熱にうかされまして、おとといの夜中に野坂さんの CDをアマゾンで購入したばっかだったのよ!! その CD自体は大学生時代に買ったことがあったんですけど、貧窮を理由に売っぱらっちゃってたのね。

 あれは虫の知らせだったのか……ほんとにそういうことって、あるんだなぁ。いや、私、確かに野坂さんは大好きなんですが、そんなに親しいつもりはないんですが。

 『骨餓身峠死人葛』とか『てろてろ』とか、好きですねぇ。そして、歌手としての野坂さんは、ぜ~んぶ大好きでした。政治的なこともしていた全盛期のお姿は知らないんですが。

 正直いって、そんなに遠くない未来のことになるとは思っていたのですが、まさか今年だったとは……冬は老人の大敵ね!!


 今はただ、帰らぬあの日の野坂さんをあてどもなく惜しみながら、こう叫びましょう。

ノ~リタ~ン、ノ~リタァア~ァアンン!!
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ついにやった! ひとり「世にも奇妙な物語」  ~辻村深月 『きのうの影踏み』~

2015年12月03日 23時57分40秒 | すきな小説
辻村 深月 『きのうの影踏み』(2015年9月 角川書店)

 怪談には死者の「思い」が込められている。人の喪失に寄り添ってきた文学に、辻村深月が心血を注ぎ込んだ。失った「大切な誰か」を思い出して読んでほしいと願いながら。
 辻村深月の新境地! 絆を感じる傑作短編集

 「本作は全くのフィクションではなく、現実と地続きの物語です。『身近な誰かの血の通った物語』ということを大切にして書きました。」


収録作品
『十円参り』(2009年8月)
『手紙の主』(2013年10月)
『丘の上』(2012年10月)
『殺したもの』(2013年4月)
『スイッチ』(2014年4月)
『私の町の占い師』(2014年7月)
『やみあかご』(2013年4月)
『だまだまマーク』(2015年4月)
『マルとバツ』(2013年4月)
『ナマハゲと私』(2014年11月)
『タイムリミット』(2007年1月)
『噂地図』(2015年9月 書き下ろし)
『七つのカップ』(2013年11月)




《やっぱり怪談短編集はおもしろいねぇ。本文マダヨ》
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