はーいどうもこんばんは! そうだいでございます。
いや~、いよいよ春が近づいてきたみたいですよ! 週間天気予報では、こちら山形もまだ雪だるまマークがつく日はちらほらあるんですが、なんせ太陽の光も暖かくなってきたし、空気の香りも明らかに変わってきたんですよね。春は、もうそこまで! そして花粉の襲来も、もうそこまで……カンベンしてくださいよ~。
例年に比べて雪がずいぶんと長く続いた冬だったのですが、気がつけば2月もおしまい。ホントだったら泊りで県内の温泉宿に行く計画もいくつかあったのですが、大雪やらコロナやらで、まだ今年は行けておりません。もうちょっとの辛抱ですかね~。
そして、待ちに待った NHK BSプレミアムの池松壮亮による金田一耕助シリーズの最新3作が、ついに昨夜無事に放送されました! よかったよかった。平和がいちばんだね。
一時は、BS プレミアムの「短編担当」の池松金田一に「長編担当」の吉岡秀隆金田一、そして民放フジの「ジャニーズ担当」の加藤シゲアキ金田一と活気づいていた平成末期の金田一事情だったのですが、令和に入るといったん落ち着いてしまい、現行で生き延びているらしいのは、この池松金田一だけになってしまいました。そういえば、令和は「吉川晃司の由利麟太郎シリーズ」という、斜め上からの思わぬニュースもありましたね。あれ、2ndシーズンやってくんないかなぁ!?
もうひとつ、金田一耕助まわりのニュースで嬉しいのは、角川文庫版の横溝正史作品がどんっどん復刊されてることね! そんなに大盤振る舞いしていていいんですか!?って感じで毎月のように杉本一文さん装画の文庫が出ていて夢のようなんですが、これも映像化という話題があってこそですよね。池松金田一シリーズには、ひとえに感謝、感謝!
今の横溝ファンのわこうどらは幸せモンだよぉ。『支那扇の女』とか『びっくり箱殺人事件』とか、私が詰襟の学生だった時にゃ汗水かいて古本屋巡りをして、まっ茶色に日焼けしまくった古本を探すしか手のなかった珠玉の作品群が、すべすべまっさらの新刊本でゲットできるんだもんねぇ! いや、よれよれボロボロの古本も、いかにも隠れた秘本をひもとくスリリングさがあってステキなんですけどね。
ちなみに、かつて昭和時代に角川文庫から刊行された横溝正史作品は、通常の推理小説の他に時代小説捕物帳、ジュブナイルもの、エッセイ、分冊版、映画化された作品のシナリオ版などもひっくるめて全部で100冊! それに対して現行の新刊レーベルでは、来月3月に復刊予定の2作までを含めて全部で48冊が絶賛リリース中! すごい勢いですね~。ぜんぶ復刊しろとまでは言いませんが、映像化も含めまして『吸血蛾』とか『仮面劇場』とかは出してほしいナ~!! ないものねだりのアイウォンチュウですか。『悪魔の設計図』は……装画が変わらないと復刊はムリか。
さてさて、そんでもって今回の池松金田一シーズン3の内容なんですが、2月26日にいっきに3作連続で放送されたラインナップは、『女の決闘』、『蝙蝠と蛞蝓』、そして『女怪』となりました。シブいな~!!
これまでの池松金田一シリーズを振り返ってみますと、シーズン1の『黒蘭姫』、『殺人鬼』、『百日紅の下にて』は、終戦直後の昭和二十一~二十二(1946~47)年、つまり金田一耕助の戦後の私立探偵キャリアとしてはごく初期の作品を映像化していました。続くシーズン2では、シーズン1から約10年が経過した昭和三十一~三十二(1956~57)年の事件を描く『貸しボート十三号』と『華やかな野獣』、そして突如として30分サイズにギューギューに圧縮される形で放送された、ボーナストラック的な『犬神家の一族』(昭和二十三年の事件)の3本。要するにシーズン1は初期、シーズン2は中期の金田一耕助の活躍を描くチョイスとなっていたわけなのでした。
それで今回の顔ぶれなんですが、トップバッターの『女の決闘』は、『華やかな野獣』とほぼ同時期の昭和三十一(1956)年の秋に発生した事件。2番目の『蝙蝠と蛞蝓』は、おそらくは東京・京橋の三角ビルに私立探偵事務所をかまえていた『黒蘭姫』の直前、昭和二十一(1946)年中の事件。トリの『女怪』は、作中でも語られているように、昭和二十三(1948)年の初秋、『八つ墓村』事件の直後、『犬神家の一族』事件の直前というとんでもないタイミングで発生した事件のようです。金田一先生、傷心でキツイかもしんないけど N温泉でゆっくり休んどけ~!! ところで、伊豆に「N」から始まる読み名の温泉って、あるの? 聖地巡礼したいけど見つかんないよう! まさか横溝大先生、「熱海」か「熱川」を読み間違えたか? まさかね……ハハハ……
さてこう見てみますと、今回は初期あり中期ありと、なんだかバラバラな印象もあるのですが、すべて過去シーズンの諸作のいずれかに隣り合っている時期に設定されていますので、決して脈絡が無いとも言いきれず……むしろ、今までの池松金田一シリーズの実績に立脚し、そこを起点にさらに新しき横溝ワールドの地平をメキメキ開拓していくぞという野心的な広がりを感じさせるものとなっていますね。初期から1作、繁忙期から1作、中期から1作というぜいたくなチョイスなわけだ! やりますね~。
そんでま、昨晩に3作全てを無事に見届けましたので、3作全ての感想をちゃっちゃとまとめさせていただくこともできるわけなんですが、そんな、カレーとうな丼とみそチャーシューメンを一気にいただくようなもったいない所業をやっちゃあ、お天道様に申し訳がたたねぇということで、1作1作を別々に分けまして、無い脳細胞を総動員させて可能な限りじっくりとレビューさせていただこうかなぁと存ずる次第でございます。
普通にいけば3本立ての順番通りに『女の決闘』からいくのが筋かと思うのですが、何度も言うように金田一耕助サーガにおける時間軸としては『蝙蝠と蛞蝓』が最初ですので、ここはゴリ押しで『蝙蝠と蛞蝓』から始めさせていただきたいと思います。これもめんどくさいファンのビョーキでございます!!
ドラマ『蝙蝠と蛞蝓』(2022年2月26日放送 NHK BS プレミアム『シリーズ・横溝正史短編集Ⅲ 金田一耕助、戸惑う』 30分)
33代目・金田一耕助 …… 池松 壮亮(31歳)
『蝙蝠と蛞蝓(こうもりとなめくじ)』は、横溝正史の短編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一作。探偵小説誌・月刊『ロック』(筑波書林)の昭和二十二(1947)年9月号に掲載された。
文庫本にして28ページの短編である。舞台は戦後間もない日本の平凡なアパートで、「蝙蝠」とは主人公が金田一耕助につけたあだ名、「蛞蝓」は主人公が被害者につけていたあだ名である。ちなみに、この事件より時系列的に後と考えられる短編『暗闇の中の猫』(1946年11月発生の事件)において、金田一が「東京に腰を落ち着けてから最初に取り扱った事件」として『暗闇の中の猫』の事件を語っているため、本作の事件の舞台は東京以外の都市であるとする説がある。しかし、同じく『暗闇の中の猫』とほぼ同時期の物語と考えられる短編『黒蘭姫』(1946年11月発生の事件)は明らかに東京で発生した事件であるため、『暗闇の中の猫』事件の「金田一耕助東京最初の事件」という位置づけは、金田一または筆者の錯誤である可能性がある。
JET の作画によるコミカライズ版が、月刊『ミステリーDX 』1999年8月号(角川書店)に掲載された。
あらすじ
昭和二十一(1946)年。アパート暮らしの学生・湯浅順平は、隣室に引っ越してきた金田一耕助が蝙蝠にそっくりで気に入らない。裏に住む蛞蝓にそっくりのお繁も気になる。ある日ふと思いついて、お繁を殺してその罪を金田一にかぶせてしまう内容の小説の下書きを書く。しかし、翌日には自分の書いたものがつまらなく思え、そのうちそんなものを書いたことも忘れてしまっていた。ところが半月ほど経って、お繁が本当に殺害され、順平が殺人の嫌疑をかけられる。なぜか寝間着の右袖に血がついており、凶器は順平の部屋から持ち出された短刀、現場で犯人が血の付いた手を洗った金魚鉢に順平の指紋が残っていた。そして警察が発見した小説の下書きも殺人計画書とみなされてしまう。
主なキャスティング
湯浅 順平 …… 栗原 類(27歳)
お加代 …… 富永 愛(39歳)
山名 紅吉 …… 中島 歩(33歳)
お繁(蛞蝓女史)…… 長井 短(みじか 28歳)
制服の警官 …… 片岡 哲也(47歳)
主なスタッフ
演出 …… 渋江 修平(?歳)
はい~。こんな感じでございまして、池松金田一シリーズでは『百日紅の下にて』と『犬神家の一族』を手がけた渋江修平さんの演出による作品です。前回に、文庫本にして400ページ強の長編を30分にまとめといて、今回は30ページにも満たない超短編なんだもんねぇ。渋江さんも大変ね!
今回、記念すべき待望の初映像化となった『蝙蝠と蛞蝓』だったのですが、その結果はどうだったかと言いますと~!?
ちょっと~……おもしろいとは、言えないかな。
う~ん。少なくとも、原作小説よりも面白いとは言えなかった。原作、面白いんですよ。
原作小説『蝙蝠と蛞蝓』の面白さは、横溝正史先生自身も耳にしていたであろう、上方落語のしっとりとした語り口に近い、軽妙なテンポのきいたストーリーテリングにあります。これは、名探偵・金田一耕助が誕生する以前、戦前から横溝先生が得意としていた、いかにもハイカラな神戸育ちっぽいテクニックですよね。
これ、渋江さん演出の前作『犬神家の一族』でも言ったかと思うのですが、そこらへんのテイストが、今回の映像化ではまるで活きていないような気がするんだよなぁ。一見、テンポ良く登場人物たちがセリフを言い合ってスピーディであるかのように見えるのですが、ともかく展開がまだるっこしいんですよね。声量の大小や間の取り方を大事にする上方落語じゃなくて、とりあえず大声でギャーギャーわめいて注目を集めようとする、二流以下の漫才みたいな感じ……とまでは言い過ぎか。
特に中盤の主人公・順平の妄想シーンなんか、ものすっごくしつこくありませんでした? あれ、原作小説で読むとスーッと通るのに、いちいち一字一句を映像で追っちゃうし、原作にない悪ノリした文学賞の会見場みたいな妄想空間まで差し挟んじゃうから、トゥーマッチなんだよなぁ。いいじゃん、そこは順平の一瞬の妄想なんだからサラっといきましょうよ! それにしても妄想の映像表現って、作り手のセンスがもろに出ますよね。くわばらくわばら。
また、序盤での山名紅吉との会話における病的なヒートアップぶりがステキなだけに、順平役の栗原類さんの過剰な過呼吸演技は、そこまでくらいでストップしといて充分なのです。それ以降の内的世界の描写は、人形劇みたいな感じで抑え気味にして良かったと思うんだよな。それなのに、その後も現実、妄想、どっちもおんなじ調子でハイテンションだから、違いがわかんなくて飽きてきちゃうんですよ。どんなに役者さんの風貌や衣装が奇抜であっても、勢いだけでもたせるのは無理でしょ、ドラマなんだから!
これは、俳優さんが同じ演技しかできないのが悪いとかいう問題じゃないと思いますよ。作品世界内の区別がちゃんとついていないまま栗原さんに任せてしまった演出の采配ミスなのではなかろうかと。
口を開けば絶叫ばっか……渋江さんは男の絶叫演技、そんなに大好きなの? いい加減にしてくださいよ……
栗原さん、もっといい俳優さんだと思うんだけどなぁ。もったいないにもほどがあるよ! 『魔法×戦士 マジマジョピュアーズ!』の悪の幹部役はすばらしかった。
それに、よくわかんない妄想シーンの延長で、そのままぬるっと現実世界の「金魚鉢の扱いに異常にこだわる蛞蝓女史」のくだりも描写しちゃうから、観ていて思わず見過ごしてしまうんですよね、ミステリー的にかなり大事なところなのに。いや、それは演出上のミスリードとかいう高等なテクニックじゃなくて、単に説明下手、不親切なだけなんじゃ……
ところで、金魚鉢の水量とか位置にあそこまで病的にこだわる人が、計量中に畳をあそこまでビショビショにしても気にしないのか? そこらへんの単なる撮影段取りのいい加減さが、ものすっごく気になる。まぁ、蛞蝓女史なんだから、水分には無頓着なのかもしれないんだけど。
今作はなんでこうも、順平の現実と妄想、過去と現在がわかりにくくごっちゃに描写されているのだろうか。渋江さんの作品で言うと、『百日紅の下にて』は、現在のシーンははどぎつい彩色の百日紅が咲き誇る屋外、過去の事件に関わるシーンは小さな劇場の簡略化された舞台のように真っ黒い屋内セットになっていて、共通して活躍する人物(演・嶋田久作)は服装も大幅に変わって非常にわかりやすい区別がなされていました。30分版『犬神家の一族』も、現在進行形のストーリーを全て犬神邸の一室セットとその周辺で行うという形にして、再現VTR 形式でひもとかれる過去の真相と明確に線引きがなされていました。ミステリーとしての分かりやすさに配慮していたはずです。
それが、ねぇ!? 整理するまでもなく単純な事件だからとナメてかかった……わけはないでしょうけどね。
もう一つ考えられるのは、後でまた触れますが「あえてぐっちゃくちゃにした」という判断なのですが、ミステリー作品の映像化の醍醐味と言うものは、膨大な情報の集積が意外な真相にたどり着く、あるいは既成の世界の崩壊を招くカタルシスにあると思うんです。緻密に積み上げなきゃそんなもん、知らない人がその場で思いついた作り話を聞かされるようなものですよね。
あと、例によって冒頭で「ほぼ原作通り映像化」って言ってますけど、原作小説の構成上の落ち度までそのまんま映像化してどうすんだよ~!
要するに、ミステリー的に大切な、順平が犯人に陥れられるきっかけとなったくだりが作中で描かれていないんですよ。あとで金田一が言い出してはじめて明らかになる要素なんです。
そこ、原作小説でも終盤の金田一の説明ではじめて出てくるエピソードなので、確かにこれは後出しジャンケン的な、読者を置いてけぼりにした展開にはなっているんですよ。なので、唐突に出てきた感は原作由来のマイナスポイントであるわけなんですが、そこはさぁ! せっかくの映像化なんですから、事件発生の前日になんとな~く伏線として触れといてもいいんじゃないっすか? そうしないと、一つのミステリー作品として面白くなくなっちゃうじゃん! そこらへんの原作の悪いとこまで忠実に追わなくなっても、ねぇ!
ただし、どうやら演出は、そこらへんの原作小説の構成の甘さの理由を、「ひょっとしたら、これは全部、錯乱した順平の妄想の産物なのではないか?」という発想に変換して、殺人周辺の描写をわざと曖昧にしたり、登場人物たちに、まるでお化け屋敷のマネキン人形のような反復演技を繰り返させることで、「すべて順平の妄想」という解釈にもとることができる展開にしているようです。なるほどそう考えれば、蛞蝓女史と順平の雰囲気がよく似ているのも、まるで順平こそが蛞蝓であるかのように、警察の取調室にいる時に大量に流した自分のよだれで髪の毛までベトベトになっているのも(くさそう)、なんとなく説明がつきますよね。蛞蝓は自分自身だったのだ!
でも、そんな感じに今風なサイコサスペンス味を加えてしまうと、エンディングで順平は、冒頭と同じようなふつうのアパート暮らしに復帰できているので、観る人としては「あ、なんだ大丈夫なんだ、この人。」という風に肩透かしを食らっちゃいますよね。
サイコサスペンス、ねぇ。落語でおかしなことばっかり言う長屋の八っつぁんを「統合失調症のかわいそうな人だ!」と診断するようなもんでしょ。野暮なこときわまりなし!! 野暮である以上に、面白い話にすることを放棄していますよね。私の大好きな、あの古典的な表現主義映画みたいに、ラストのラストまでまともな常識人みたいに見えていた人が実は……という意外性があったら面白いんですけどね。あの演技の調子じゃあ、順平が異常であることに意外性なんか生まれるはずもありません。ぜんぜん関係ありませんが、栗原さんは眠り男チェザーレを素で演じることのできる稀有な日本人だと思います。
あと、なんてったって、
「それに第一、蝙蝠は益鳥である。」
という、原作小説の最後の一文にこめられた、落語のサゲのように洒落たユーモアが1ミクロンも活きてこなくなってしまうのです。もったいないなぁ~!! そこを捨てる選択はないだろう!?
このオチで象徴されるのは、原作の順平が、他人(この場合は金田一耕助)を見た目の印象だけで毛嫌いしたり、はたまた自分の命の恩人になってくれるとコロッと手のひらを返して大好きになるような、日和見主義のとるにたらない小市民なのだ、というつまらない事実なのです。そして、順平がつまらない人間であることが、彼を江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』のような、入ったら二度と帰って来られない「深淵」とは無縁な世界に住む幸せものなのだというハッピーエンドにつながっているんですよね。無事、これ名馬!!
近日中に感想をあげるつもりの、同じ池松金田一版の『女怪』でも触れるつもりなのですが、昭和二十年代までの横溝正史先生の創作活動は、「いかに江戸川乱歩の影響から脱した『真の推理小説』の世界を日本に築きあげるか」という、困難なこと極まりない闘争の日々だったかと思います。その中で、『女怪』は江戸川乱歩の『陰獣』と対峙し、この『蝙蝠と蛞蝓』に関しては、乱歩も得意とした『屋根裏の散歩者』や『 D坂の殺人事件』、『猟奇の果』などの「主人公巻き込まれ型」探偵小説を相手としたのではないでしょうか。まぁ、勝敗の結果は別としましても、横溝先生にとって、これは宿命の対決だったのでしょう。
主人公が平々凡々たる一般人であること。これが、信頼したり、愛したりていた親しい人間からこっぴどい裏切りを受けた順平に対しての、横溝先生なりの最高の救いの道だったのだと思うんです。なので、『蝙蝠と蛞蝓』の主人公を、今回の栗原さんのような明らかに「異能な容姿」の人間が、意図的に「異常な演技」で演じるのは、読解不足にもほどがあるというものなのです。私のイメージでは、だいぶ年を食っちゃってるけど、南海キャンディーズの山里さんが演じるくらいがジャストフィットの順平だったと思うんですけどね。
栗原さんは、どっちかっていうと金田一耕助ものよりも、由利麟太郎もののほうがピッタリなんじゃないかなぁ。『真珠郎』の乙骨さんなんか、いいんじゃないっすか!? 今回の『蝙蝠と蛞蝓』でこりずに、ぜひともまた横溝ワールドに出てきてほしいですね。
ところで、いくらスタイリッシュさを狙ったキャスティングなのだとしても、お加代ちゃんに冨永愛さんっていうのも、さすがにないんじゃなかろうか……そこはもっと、イモっぽいくらいの純真無垢な娘さんに演じてほしかった。そうしないと、あとあと……ねぇ。あの冨永さんが単なる管理人の娘で済むわけがないじゃん!
同じくミスキャストで言うのならば、今作で蝙蝠の対になる重要な存在であるなずの蛞蝓ことお繁を演じた長井さんも、なんか存在感が非常に薄いというか、キャラクターに厚みがなかったように感じました。いや、容姿は別に何も申し上げることは無いのですが、「死にてぇ~……」って時と、「生きてるって最高♡」っていう時とのギャップがそんなにないように見えたんですよね。ただ服装とメイクが変わったってだけで、身のこなしの重い軽いもそんなに変わらないし、何よりも、ウッキウキでひとり焼き肉を楽しんでいる時の哄笑が、ぜんぜん楽しそうに見えなかったんですよ。ああいう、食べてる途中からじわじわ~と「ムフフ」が湧き上がってくるような勢いのなさじゃないはずなんですよ、生きる喜びっていうのは! もっと、舌が焼き肉のたれを、鼻孔の嗅覚器官が肉の焼けた香りを感知した瞬間に、
「んがっはっはっはっは!! 男なんか、まんまと支配したったったわ!! 米なんぞいらん、この世の肉をぜ~んぶ喰いつくしたる!!」
という、ピナツボ火山のような大爆発が炸裂するはずなのです。それがどうだい、なんだあの、ヘビ花火のようなほくそ笑みは。
お繁はプライベートというか、本質では確かになめくじなのでしょうが、男をゲットする時だけチーターか黒ヒョウのような肉食動物になる。このギャップ、変身っぷりが、順平にとっての「大キライ、大キライ、大キライ……大好き!! あぁ~ん♡」なポイントだと思うんですよ。それがなんだあれは、中身ちっとも変わってないじゃん。そこらへんの性というか、死んでも治らない「業」というものをちゃんと演じ分けられるお方にやってほしかったなぁ、蛞蝓女史。衣装を変えればいいって問題じゃないんですよ。
いろいろぐだぐだとつぶやいてきましたが、結論としましては、今回の『蝙蝠と蛞蝓』の初映像化は、演出としては順平のキャラクター設定で原作の面白さを半減させてしまい、原作の欠陥を修正しないままドラマ化してしまったためにさらにそのまた半減。つまりは「平均的な横溝映像化作品の1/4の面白さ」の出来となってしまったとしか言いようがありません。え、100点満点中の25点!? キビシ~ッ。
キャラクター設定については、まぁ渋江さんがそうしたかったんでしょ? じゃあ他人が四の五の言ったってしょうがない話なんですが、原作の欠陥をそのまんま出してるのが、惜しいにも程があるんだよなぁ。トリックに関する核心情報を、探偵が土壇場の解決編で初めて言うなんて、今どき金田一さんのお孫さんでもコナンくんでもやらない反則中の反則ですよね。まぁ、横溝先生がこの『蝙蝠と蛞蝓』を執筆したのが、我が国にとっての推理小説黎明期であったこともあるし、明らかに時間が無い状況でこの作品が脱稿されたような形跡もあるので、横溝先生自身としても多少不本意なものはあったのではないでしょうか。でも、先生得意の全面改稿長編化の大手術を施す程に体力のある大ネタでもないし……処置ナシよね。
もしかしたら、「ほぼ原作通り映像化」という池松金田一シリーズの縛りがあるから、原作をもうちょっと面白くするための工夫もできなかったのかな? だとしたら、この『蝙蝠と蛞蝓』は、どだいこのシリーズでは選んでいけない作品だったのではないでしょうか。ほんと、順平の妄想シーンを削ってでも、トリックに関するシーンは事件発生の前のどこかで挿入してほしかった……そうしたら、解決編での金田一の推理の鮮やかさも少しは引き立ったのではないでしょうか。
まぁ、まぁ! 渋江演出の次の作品なる期待したいなぁ、と感じた次第です。大丈夫、大丈夫。今回の池松金田一シリーズの最新3作の中で、いちばんつまんなかったわけじゃないですから……ええ~!?
こんなこと先に言ってしまってはいけないんですが、そこの、2月26日の「池松金田一最新3作一挙放送」をご覧になったあなた、もしかして観終わった後、
「あぁ、これは3作まとめて放送しちゃったほうが良かったかもな。」
って思っちゃったりなんかしちゃったりしませんでした、チョンチョン!?
いや、横溝ファンとしてなんと不敬な……そんなこと感じたの、不信心な私だけですよね? 満足できなかったのは私だけであったと、信じ、たい……
そんな感じに、ちょっぴり雲ゆきの怪しい含みを持たせつつ、池松金田一の感想はまた次回、『女怪』へと続くのでありましたァ~ん。
あれ? もしかして、原作小説通りに「二重まわし」式のマントを着てる金田一耕助が映像作品に登場するのって、この『蝙蝠と蛞蝓』が史上初なのかな? 今までいろんな衣装アレンジが施されてきた池松金田一なんですが、今作では異様に古典的風貌なんだよなぁ。基本スタイルも、池松さんはやっぱり画になりますね!
いや~、いよいよ春が近づいてきたみたいですよ! 週間天気予報では、こちら山形もまだ雪だるまマークがつく日はちらほらあるんですが、なんせ太陽の光も暖かくなってきたし、空気の香りも明らかに変わってきたんですよね。春は、もうそこまで! そして花粉の襲来も、もうそこまで……カンベンしてくださいよ~。
例年に比べて雪がずいぶんと長く続いた冬だったのですが、気がつけば2月もおしまい。ホントだったら泊りで県内の温泉宿に行く計画もいくつかあったのですが、大雪やらコロナやらで、まだ今年は行けておりません。もうちょっとの辛抱ですかね~。
そして、待ちに待った NHK BSプレミアムの池松壮亮による金田一耕助シリーズの最新3作が、ついに昨夜無事に放送されました! よかったよかった。平和がいちばんだね。
一時は、BS プレミアムの「短編担当」の池松金田一に「長編担当」の吉岡秀隆金田一、そして民放フジの「ジャニーズ担当」の加藤シゲアキ金田一と活気づいていた平成末期の金田一事情だったのですが、令和に入るといったん落ち着いてしまい、現行で生き延びているらしいのは、この池松金田一だけになってしまいました。そういえば、令和は「吉川晃司の由利麟太郎シリーズ」という、斜め上からの思わぬニュースもありましたね。あれ、2ndシーズンやってくんないかなぁ!?
もうひとつ、金田一耕助まわりのニュースで嬉しいのは、角川文庫版の横溝正史作品がどんっどん復刊されてることね! そんなに大盤振る舞いしていていいんですか!?って感じで毎月のように杉本一文さん装画の文庫が出ていて夢のようなんですが、これも映像化という話題があってこそですよね。池松金田一シリーズには、ひとえに感謝、感謝!
今の横溝ファンのわこうどらは幸せモンだよぉ。『支那扇の女』とか『びっくり箱殺人事件』とか、私が詰襟の学生だった時にゃ汗水かいて古本屋巡りをして、まっ茶色に日焼けしまくった古本を探すしか手のなかった珠玉の作品群が、すべすべまっさらの新刊本でゲットできるんだもんねぇ! いや、よれよれボロボロの古本も、いかにも隠れた秘本をひもとくスリリングさがあってステキなんですけどね。
ちなみに、かつて昭和時代に角川文庫から刊行された横溝正史作品は、通常の推理小説の他に時代小説捕物帳、ジュブナイルもの、エッセイ、分冊版、映画化された作品のシナリオ版などもひっくるめて全部で100冊! それに対して現行の新刊レーベルでは、来月3月に復刊予定の2作までを含めて全部で48冊が絶賛リリース中! すごい勢いですね~。ぜんぶ復刊しろとまでは言いませんが、映像化も含めまして『吸血蛾』とか『仮面劇場』とかは出してほしいナ~!! ないものねだりのアイウォンチュウですか。『悪魔の設計図』は……装画が変わらないと復刊はムリか。
さてさて、そんでもって今回の池松金田一シーズン3の内容なんですが、2月26日にいっきに3作連続で放送されたラインナップは、『女の決闘』、『蝙蝠と蛞蝓』、そして『女怪』となりました。シブいな~!!
これまでの池松金田一シリーズを振り返ってみますと、シーズン1の『黒蘭姫』、『殺人鬼』、『百日紅の下にて』は、終戦直後の昭和二十一~二十二(1946~47)年、つまり金田一耕助の戦後の私立探偵キャリアとしてはごく初期の作品を映像化していました。続くシーズン2では、シーズン1から約10年が経過した昭和三十一~三十二(1956~57)年の事件を描く『貸しボート十三号』と『華やかな野獣』、そして突如として30分サイズにギューギューに圧縮される形で放送された、ボーナストラック的な『犬神家の一族』(昭和二十三年の事件)の3本。要するにシーズン1は初期、シーズン2は中期の金田一耕助の活躍を描くチョイスとなっていたわけなのでした。
それで今回の顔ぶれなんですが、トップバッターの『女の決闘』は、『華やかな野獣』とほぼ同時期の昭和三十一(1956)年の秋に発生した事件。2番目の『蝙蝠と蛞蝓』は、おそらくは東京・京橋の三角ビルに私立探偵事務所をかまえていた『黒蘭姫』の直前、昭和二十一(1946)年中の事件。トリの『女怪』は、作中でも語られているように、昭和二十三(1948)年の初秋、『八つ墓村』事件の直後、『犬神家の一族』事件の直前というとんでもないタイミングで発生した事件のようです。金田一先生、傷心でキツイかもしんないけど N温泉でゆっくり休んどけ~!! ところで、伊豆に「N」から始まる読み名の温泉って、あるの? 聖地巡礼したいけど見つかんないよう! まさか横溝大先生、「熱海」か「熱川」を読み間違えたか? まさかね……ハハハ……
さてこう見てみますと、今回は初期あり中期ありと、なんだかバラバラな印象もあるのですが、すべて過去シーズンの諸作のいずれかに隣り合っている時期に設定されていますので、決して脈絡が無いとも言いきれず……むしろ、今までの池松金田一シリーズの実績に立脚し、そこを起点にさらに新しき横溝ワールドの地平をメキメキ開拓していくぞという野心的な広がりを感じさせるものとなっていますね。初期から1作、繁忙期から1作、中期から1作というぜいたくなチョイスなわけだ! やりますね~。
そんでま、昨晩に3作全てを無事に見届けましたので、3作全ての感想をちゃっちゃとまとめさせていただくこともできるわけなんですが、そんな、カレーとうな丼とみそチャーシューメンを一気にいただくようなもったいない所業をやっちゃあ、お天道様に申し訳がたたねぇということで、1作1作を別々に分けまして、無い脳細胞を総動員させて可能な限りじっくりとレビューさせていただこうかなぁと存ずる次第でございます。
普通にいけば3本立ての順番通りに『女の決闘』からいくのが筋かと思うのですが、何度も言うように金田一耕助サーガにおける時間軸としては『蝙蝠と蛞蝓』が最初ですので、ここはゴリ押しで『蝙蝠と蛞蝓』から始めさせていただきたいと思います。これもめんどくさいファンのビョーキでございます!!
ドラマ『蝙蝠と蛞蝓』(2022年2月26日放送 NHK BS プレミアム『シリーズ・横溝正史短編集Ⅲ 金田一耕助、戸惑う』 30分)
33代目・金田一耕助 …… 池松 壮亮(31歳)
『蝙蝠と蛞蝓(こうもりとなめくじ)』は、横溝正史の短編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一作。探偵小説誌・月刊『ロック』(筑波書林)の昭和二十二(1947)年9月号に掲載された。
文庫本にして28ページの短編である。舞台は戦後間もない日本の平凡なアパートで、「蝙蝠」とは主人公が金田一耕助につけたあだ名、「蛞蝓」は主人公が被害者につけていたあだ名である。ちなみに、この事件より時系列的に後と考えられる短編『暗闇の中の猫』(1946年11月発生の事件)において、金田一が「東京に腰を落ち着けてから最初に取り扱った事件」として『暗闇の中の猫』の事件を語っているため、本作の事件の舞台は東京以外の都市であるとする説がある。しかし、同じく『暗闇の中の猫』とほぼ同時期の物語と考えられる短編『黒蘭姫』(1946年11月発生の事件)は明らかに東京で発生した事件であるため、『暗闇の中の猫』事件の「金田一耕助東京最初の事件」という位置づけは、金田一または筆者の錯誤である可能性がある。
JET の作画によるコミカライズ版が、月刊『ミステリーDX 』1999年8月号(角川書店)に掲載された。
あらすじ
昭和二十一(1946)年。アパート暮らしの学生・湯浅順平は、隣室に引っ越してきた金田一耕助が蝙蝠にそっくりで気に入らない。裏に住む蛞蝓にそっくりのお繁も気になる。ある日ふと思いついて、お繁を殺してその罪を金田一にかぶせてしまう内容の小説の下書きを書く。しかし、翌日には自分の書いたものがつまらなく思え、そのうちそんなものを書いたことも忘れてしまっていた。ところが半月ほど経って、お繁が本当に殺害され、順平が殺人の嫌疑をかけられる。なぜか寝間着の右袖に血がついており、凶器は順平の部屋から持ち出された短刀、現場で犯人が血の付いた手を洗った金魚鉢に順平の指紋が残っていた。そして警察が発見した小説の下書きも殺人計画書とみなされてしまう。
主なキャスティング
湯浅 順平 …… 栗原 類(27歳)
お加代 …… 富永 愛(39歳)
山名 紅吉 …… 中島 歩(33歳)
お繁(蛞蝓女史)…… 長井 短(みじか 28歳)
制服の警官 …… 片岡 哲也(47歳)
主なスタッフ
演出 …… 渋江 修平(?歳)
はい~。こんな感じでございまして、池松金田一シリーズでは『百日紅の下にて』と『犬神家の一族』を手がけた渋江修平さんの演出による作品です。前回に、文庫本にして400ページ強の長編を30分にまとめといて、今回は30ページにも満たない超短編なんだもんねぇ。渋江さんも大変ね!
今回、記念すべき待望の初映像化となった『蝙蝠と蛞蝓』だったのですが、その結果はどうだったかと言いますと~!?
ちょっと~……おもしろいとは、言えないかな。
う~ん。少なくとも、原作小説よりも面白いとは言えなかった。原作、面白いんですよ。
原作小説『蝙蝠と蛞蝓』の面白さは、横溝正史先生自身も耳にしていたであろう、上方落語のしっとりとした語り口に近い、軽妙なテンポのきいたストーリーテリングにあります。これは、名探偵・金田一耕助が誕生する以前、戦前から横溝先生が得意としていた、いかにもハイカラな神戸育ちっぽいテクニックですよね。
これ、渋江さん演出の前作『犬神家の一族』でも言ったかと思うのですが、そこらへんのテイストが、今回の映像化ではまるで活きていないような気がするんだよなぁ。一見、テンポ良く登場人物たちがセリフを言い合ってスピーディであるかのように見えるのですが、ともかく展開がまだるっこしいんですよね。声量の大小や間の取り方を大事にする上方落語じゃなくて、とりあえず大声でギャーギャーわめいて注目を集めようとする、二流以下の漫才みたいな感じ……とまでは言い過ぎか。
特に中盤の主人公・順平の妄想シーンなんか、ものすっごくしつこくありませんでした? あれ、原作小説で読むとスーッと通るのに、いちいち一字一句を映像で追っちゃうし、原作にない悪ノリした文学賞の会見場みたいな妄想空間まで差し挟んじゃうから、トゥーマッチなんだよなぁ。いいじゃん、そこは順平の一瞬の妄想なんだからサラっといきましょうよ! それにしても妄想の映像表現って、作り手のセンスがもろに出ますよね。くわばらくわばら。
また、序盤での山名紅吉との会話における病的なヒートアップぶりがステキなだけに、順平役の栗原類さんの過剰な過呼吸演技は、そこまでくらいでストップしといて充分なのです。それ以降の内的世界の描写は、人形劇みたいな感じで抑え気味にして良かったと思うんだよな。それなのに、その後も現実、妄想、どっちもおんなじ調子でハイテンションだから、違いがわかんなくて飽きてきちゃうんですよ。どんなに役者さんの風貌や衣装が奇抜であっても、勢いだけでもたせるのは無理でしょ、ドラマなんだから!
これは、俳優さんが同じ演技しかできないのが悪いとかいう問題じゃないと思いますよ。作品世界内の区別がちゃんとついていないまま栗原さんに任せてしまった演出の采配ミスなのではなかろうかと。
口を開けば絶叫ばっか……渋江さんは男の絶叫演技、そんなに大好きなの? いい加減にしてくださいよ……
栗原さん、もっといい俳優さんだと思うんだけどなぁ。もったいないにもほどがあるよ! 『魔法×戦士 マジマジョピュアーズ!』の悪の幹部役はすばらしかった。
それに、よくわかんない妄想シーンの延長で、そのままぬるっと現実世界の「金魚鉢の扱いに異常にこだわる蛞蝓女史」のくだりも描写しちゃうから、観ていて思わず見過ごしてしまうんですよね、ミステリー的にかなり大事なところなのに。いや、それは演出上のミスリードとかいう高等なテクニックじゃなくて、単に説明下手、不親切なだけなんじゃ……
ところで、金魚鉢の水量とか位置にあそこまで病的にこだわる人が、計量中に畳をあそこまでビショビショにしても気にしないのか? そこらへんの単なる撮影段取りのいい加減さが、ものすっごく気になる。まぁ、蛞蝓女史なんだから、水分には無頓着なのかもしれないんだけど。
今作はなんでこうも、順平の現実と妄想、過去と現在がわかりにくくごっちゃに描写されているのだろうか。渋江さんの作品で言うと、『百日紅の下にて』は、現在のシーンははどぎつい彩色の百日紅が咲き誇る屋外、過去の事件に関わるシーンは小さな劇場の簡略化された舞台のように真っ黒い屋内セットになっていて、共通して活躍する人物(演・嶋田久作)は服装も大幅に変わって非常にわかりやすい区別がなされていました。30分版『犬神家の一族』も、現在進行形のストーリーを全て犬神邸の一室セットとその周辺で行うという形にして、再現VTR 形式でひもとかれる過去の真相と明確に線引きがなされていました。ミステリーとしての分かりやすさに配慮していたはずです。
それが、ねぇ!? 整理するまでもなく単純な事件だからとナメてかかった……わけはないでしょうけどね。
もう一つ考えられるのは、後でまた触れますが「あえてぐっちゃくちゃにした」という判断なのですが、ミステリー作品の映像化の醍醐味と言うものは、膨大な情報の集積が意外な真相にたどり着く、あるいは既成の世界の崩壊を招くカタルシスにあると思うんです。緻密に積み上げなきゃそんなもん、知らない人がその場で思いついた作り話を聞かされるようなものですよね。
あと、例によって冒頭で「ほぼ原作通り映像化」って言ってますけど、原作小説の構成上の落ち度までそのまんま映像化してどうすんだよ~!
要するに、ミステリー的に大切な、順平が犯人に陥れられるきっかけとなったくだりが作中で描かれていないんですよ。あとで金田一が言い出してはじめて明らかになる要素なんです。
そこ、原作小説でも終盤の金田一の説明ではじめて出てくるエピソードなので、確かにこれは後出しジャンケン的な、読者を置いてけぼりにした展開にはなっているんですよ。なので、唐突に出てきた感は原作由来のマイナスポイントであるわけなんですが、そこはさぁ! せっかくの映像化なんですから、事件発生の前日になんとな~く伏線として触れといてもいいんじゃないっすか? そうしないと、一つのミステリー作品として面白くなくなっちゃうじゃん! そこらへんの原作の悪いとこまで忠実に追わなくなっても、ねぇ!
ただし、どうやら演出は、そこらへんの原作小説の構成の甘さの理由を、「ひょっとしたら、これは全部、錯乱した順平の妄想の産物なのではないか?」という発想に変換して、殺人周辺の描写をわざと曖昧にしたり、登場人物たちに、まるでお化け屋敷のマネキン人形のような反復演技を繰り返させることで、「すべて順平の妄想」という解釈にもとることができる展開にしているようです。なるほどそう考えれば、蛞蝓女史と順平の雰囲気がよく似ているのも、まるで順平こそが蛞蝓であるかのように、警察の取調室にいる時に大量に流した自分のよだれで髪の毛までベトベトになっているのも(くさそう)、なんとなく説明がつきますよね。蛞蝓は自分自身だったのだ!
でも、そんな感じに今風なサイコサスペンス味を加えてしまうと、エンディングで順平は、冒頭と同じようなふつうのアパート暮らしに復帰できているので、観る人としては「あ、なんだ大丈夫なんだ、この人。」という風に肩透かしを食らっちゃいますよね。
サイコサスペンス、ねぇ。落語でおかしなことばっかり言う長屋の八っつぁんを「統合失調症のかわいそうな人だ!」と診断するようなもんでしょ。野暮なこときわまりなし!! 野暮である以上に、面白い話にすることを放棄していますよね。私の大好きな、あの古典的な表現主義映画みたいに、ラストのラストまでまともな常識人みたいに見えていた人が実は……という意外性があったら面白いんですけどね。あの演技の調子じゃあ、順平が異常であることに意外性なんか生まれるはずもありません。ぜんぜん関係ありませんが、栗原さんは眠り男チェザーレを素で演じることのできる稀有な日本人だと思います。
あと、なんてったって、
「それに第一、蝙蝠は益鳥である。」
という、原作小説の最後の一文にこめられた、落語のサゲのように洒落たユーモアが1ミクロンも活きてこなくなってしまうのです。もったいないなぁ~!! そこを捨てる選択はないだろう!?
このオチで象徴されるのは、原作の順平が、他人(この場合は金田一耕助)を見た目の印象だけで毛嫌いしたり、はたまた自分の命の恩人になってくれるとコロッと手のひらを返して大好きになるような、日和見主義のとるにたらない小市民なのだ、というつまらない事実なのです。そして、順平がつまらない人間であることが、彼を江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』のような、入ったら二度と帰って来られない「深淵」とは無縁な世界に住む幸せものなのだというハッピーエンドにつながっているんですよね。無事、これ名馬!!
近日中に感想をあげるつもりの、同じ池松金田一版の『女怪』でも触れるつもりなのですが、昭和二十年代までの横溝正史先生の創作活動は、「いかに江戸川乱歩の影響から脱した『真の推理小説』の世界を日本に築きあげるか」という、困難なこと極まりない闘争の日々だったかと思います。その中で、『女怪』は江戸川乱歩の『陰獣』と対峙し、この『蝙蝠と蛞蝓』に関しては、乱歩も得意とした『屋根裏の散歩者』や『 D坂の殺人事件』、『猟奇の果』などの「主人公巻き込まれ型」探偵小説を相手としたのではないでしょうか。まぁ、勝敗の結果は別としましても、横溝先生にとって、これは宿命の対決だったのでしょう。
主人公が平々凡々たる一般人であること。これが、信頼したり、愛したりていた親しい人間からこっぴどい裏切りを受けた順平に対しての、横溝先生なりの最高の救いの道だったのだと思うんです。なので、『蝙蝠と蛞蝓』の主人公を、今回の栗原さんのような明らかに「異能な容姿」の人間が、意図的に「異常な演技」で演じるのは、読解不足にもほどがあるというものなのです。私のイメージでは、だいぶ年を食っちゃってるけど、南海キャンディーズの山里さんが演じるくらいがジャストフィットの順平だったと思うんですけどね。
栗原さんは、どっちかっていうと金田一耕助ものよりも、由利麟太郎もののほうがピッタリなんじゃないかなぁ。『真珠郎』の乙骨さんなんか、いいんじゃないっすか!? 今回の『蝙蝠と蛞蝓』でこりずに、ぜひともまた横溝ワールドに出てきてほしいですね。
ところで、いくらスタイリッシュさを狙ったキャスティングなのだとしても、お加代ちゃんに冨永愛さんっていうのも、さすがにないんじゃなかろうか……そこはもっと、イモっぽいくらいの純真無垢な娘さんに演じてほしかった。そうしないと、あとあと……ねぇ。あの冨永さんが単なる管理人の娘で済むわけがないじゃん!
同じくミスキャストで言うのならば、今作で蝙蝠の対になる重要な存在であるなずの蛞蝓ことお繁を演じた長井さんも、なんか存在感が非常に薄いというか、キャラクターに厚みがなかったように感じました。いや、容姿は別に何も申し上げることは無いのですが、「死にてぇ~……」って時と、「生きてるって最高♡」っていう時とのギャップがそんなにないように見えたんですよね。ただ服装とメイクが変わったってだけで、身のこなしの重い軽いもそんなに変わらないし、何よりも、ウッキウキでひとり焼き肉を楽しんでいる時の哄笑が、ぜんぜん楽しそうに見えなかったんですよ。ああいう、食べてる途中からじわじわ~と「ムフフ」が湧き上がってくるような勢いのなさじゃないはずなんですよ、生きる喜びっていうのは! もっと、舌が焼き肉のたれを、鼻孔の嗅覚器官が肉の焼けた香りを感知した瞬間に、
「んがっはっはっはっは!! 男なんか、まんまと支配したったったわ!! 米なんぞいらん、この世の肉をぜ~んぶ喰いつくしたる!!」
という、ピナツボ火山のような大爆発が炸裂するはずなのです。それがどうだい、なんだあの、ヘビ花火のようなほくそ笑みは。
お繁はプライベートというか、本質では確かになめくじなのでしょうが、男をゲットする時だけチーターか黒ヒョウのような肉食動物になる。このギャップ、変身っぷりが、順平にとっての「大キライ、大キライ、大キライ……大好き!! あぁ~ん♡」なポイントだと思うんですよ。それがなんだあれは、中身ちっとも変わってないじゃん。そこらへんの性というか、死んでも治らない「業」というものをちゃんと演じ分けられるお方にやってほしかったなぁ、蛞蝓女史。衣装を変えればいいって問題じゃないんですよ。
いろいろぐだぐだとつぶやいてきましたが、結論としましては、今回の『蝙蝠と蛞蝓』の初映像化は、演出としては順平のキャラクター設定で原作の面白さを半減させてしまい、原作の欠陥を修正しないままドラマ化してしまったためにさらにそのまた半減。つまりは「平均的な横溝映像化作品の1/4の面白さ」の出来となってしまったとしか言いようがありません。え、100点満点中の25点!? キビシ~ッ。
キャラクター設定については、まぁ渋江さんがそうしたかったんでしょ? じゃあ他人が四の五の言ったってしょうがない話なんですが、原作の欠陥をそのまんま出してるのが、惜しいにも程があるんだよなぁ。トリックに関する核心情報を、探偵が土壇場の解決編で初めて言うなんて、今どき金田一さんのお孫さんでもコナンくんでもやらない反則中の反則ですよね。まぁ、横溝先生がこの『蝙蝠と蛞蝓』を執筆したのが、我が国にとっての推理小説黎明期であったこともあるし、明らかに時間が無い状況でこの作品が脱稿されたような形跡もあるので、横溝先生自身としても多少不本意なものはあったのではないでしょうか。でも、先生得意の全面改稿長編化の大手術を施す程に体力のある大ネタでもないし……処置ナシよね。
もしかしたら、「ほぼ原作通り映像化」という池松金田一シリーズの縛りがあるから、原作をもうちょっと面白くするための工夫もできなかったのかな? だとしたら、この『蝙蝠と蛞蝓』は、どだいこのシリーズでは選んでいけない作品だったのではないでしょうか。ほんと、順平の妄想シーンを削ってでも、トリックに関するシーンは事件発生の前のどこかで挿入してほしかった……そうしたら、解決編での金田一の推理の鮮やかさも少しは引き立ったのではないでしょうか。
まぁ、まぁ! 渋江演出の次の作品なる期待したいなぁ、と感じた次第です。大丈夫、大丈夫。今回の池松金田一シリーズの最新3作の中で、いちばんつまんなかったわけじゃないですから……ええ~!?
こんなこと先に言ってしまってはいけないんですが、そこの、2月26日の「池松金田一最新3作一挙放送」をご覧になったあなた、もしかして観終わった後、
「あぁ、これは3作まとめて放送しちゃったほうが良かったかもな。」
って思っちゃったりなんかしちゃったりしませんでした、チョンチョン!?
いや、横溝ファンとしてなんと不敬な……そんなこと感じたの、不信心な私だけですよね? 満足できなかったのは私だけであったと、信じ、たい……
そんな感じに、ちょっぴり雲ゆきの怪しい含みを持たせつつ、池松金田一の感想はまた次回、『女怪』へと続くのでありましたァ~ん。
あれ? もしかして、原作小説通りに「二重まわし」式のマントを着てる金田一耕助が映像作品に登場するのって、この『蝙蝠と蛞蝓』が史上初なのかな? 今までいろんな衣装アレンジが施されてきた池松金田一なんですが、今作では異様に古典的風貌なんだよなぁ。基本スタイルも、池松さんはやっぱり画になりますね!