長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ウソ、おれってこんなに変人? 偉大なる凡人・順平くんの受難 ~『蝙蝠と蛞蝓』2022エディション~

2022年02月27日 20時54分32秒 | ミステリーまわり
 はーいどうもこんばんは! そうだいでございます。
 いや~、いよいよ春が近づいてきたみたいですよ! 週間天気予報では、こちら山形もまだ雪だるまマークがつく日はちらほらあるんですが、なんせ太陽の光も暖かくなってきたし、空気の香りも明らかに変わってきたんですよね。春は、もうそこまで! そして花粉の襲来も、もうそこまで……カンベンしてくださいよ~。
 例年に比べて雪がずいぶんと長く続いた冬だったのですが、気がつけば2月もおしまい。ホントだったら泊りで県内の温泉宿に行く計画もいくつかあったのですが、大雪やらコロナやらで、まだ今年は行けておりません。もうちょっとの辛抱ですかね~。

 そして、待ちに待った NHK BSプレミアムの池松壮亮による金田一耕助シリーズの最新3作が、ついに昨夜無事に放送されました! よかったよかった。平和がいちばんだね。

 一時は、BS プレミアムの「短編担当」の池松金田一に「長編担当」の吉岡秀隆金田一、そして民放フジの「ジャニーズ担当」の加藤シゲアキ金田一と活気づいていた平成末期の金田一事情だったのですが、令和に入るといったん落ち着いてしまい、現行で生き延びているらしいのは、この池松金田一だけになってしまいました。そういえば、令和は「吉川晃司の由利麟太郎シリーズ」という、斜め上からの思わぬニュースもありましたね。あれ、2ndシーズンやってくんないかなぁ!?

 もうひとつ、金田一耕助まわりのニュースで嬉しいのは、角川文庫版の横溝正史作品がどんっどん復刊されてることね! そんなに大盤振る舞いしていていいんですか!?って感じで毎月のように杉本一文さん装画の文庫が出ていて夢のようなんですが、これも映像化という話題があってこそですよね。池松金田一シリーズには、ひとえに感謝、感謝!
 今の横溝ファンのわこうどらは幸せモンだよぉ。『支那扇の女』とか『びっくり箱殺人事件』とか、私が詰襟の学生だった時にゃ汗水かいて古本屋巡りをして、まっ茶色に日焼けしまくった古本を探すしか手のなかった珠玉の作品群が、すべすべまっさらの新刊本でゲットできるんだもんねぇ! いや、よれよれボロボロの古本も、いかにも隠れた秘本をひもとくスリリングさがあってステキなんですけどね。
 ちなみに、かつて昭和時代に角川文庫から刊行された横溝正史作品は、通常の推理小説の他に時代小説捕物帳、ジュブナイルもの、エッセイ、分冊版、映画化された作品のシナリオ版などもひっくるめて全部で100冊! それに対して現行の新刊レーベルでは、来月3月に復刊予定の2作までを含めて全部で48冊が絶賛リリース中! すごい勢いですね~。ぜんぶ復刊しろとまでは言いませんが、映像化も含めまして『吸血蛾』とか『仮面劇場』とかは出してほしいナ~!! ないものねだりのアイウォンチュウですか。『悪魔の設計図』は……装画が変わらないと復刊はムリか。

 さてさて、そんでもって今回の池松金田一シーズン3の内容なんですが、2月26日にいっきに3作連続で放送されたラインナップは、『女の決闘』、『蝙蝠と蛞蝓』、そして『女怪』となりました。シブいな~!!

 これまでの池松金田一シリーズを振り返ってみますと、シーズン1の『黒蘭姫』、『殺人鬼』、『百日紅の下にて』は、終戦直後の昭和二十一~二十二(1946~47)年、つまり金田一耕助の戦後の私立探偵キャリアとしてはごく初期の作品を映像化していました。続くシーズン2では、シーズン1から約10年が経過した昭和三十一~三十二(1956~57)年の事件を描く『貸しボート十三号』と『華やかな野獣』、そして突如として30分サイズにギューギューに圧縮される形で放送された、ボーナストラック的な『犬神家の一族』(昭和二十三年の事件)の3本。要するにシーズン1は初期、シーズン2は中期の金田一耕助の活躍を描くチョイスとなっていたわけなのでした。

 それで今回の顔ぶれなんですが、トップバッターの『女の決闘』は、『華やかな野獣』とほぼ同時期の昭和三十一(1956)年の秋に発生した事件。2番目の『蝙蝠と蛞蝓』は、おそらくは東京・京橋の三角ビルに私立探偵事務所をかまえていた『黒蘭姫』の直前、昭和二十一(1946)年中の事件。トリの『女怪』は、作中でも語られているように、昭和二十三(1948)年の初秋、『八つ墓村』事件の直後、『犬神家の一族』事件の直前というとんでもないタイミングで発生した事件のようです。金田一先生、傷心でキツイかもしんないけど N温泉でゆっくり休んどけ~!! ところで、伊豆に「N」から始まる読み名の温泉って、あるの? 聖地巡礼したいけど見つかんないよう! まさか横溝大先生、「熱海」か「熱川」を読み間違えたか? まさかね……ハハハ……

 さてこう見てみますと、今回は初期あり中期ありと、なんだかバラバラな印象もあるのですが、すべて過去シーズンの諸作のいずれかに隣り合っている時期に設定されていますので、決して脈絡が無いとも言いきれず……むしろ、今までの池松金田一シリーズの実績に立脚し、そこを起点にさらに新しき横溝ワールドの地平をメキメキ開拓していくぞという野心的な広がりを感じさせるものとなっていますね。初期から1作、繁忙期から1作、中期から1作というぜいたくなチョイスなわけだ! やりますね~。

 そんでま、昨晩に3作全てを無事に見届けましたので、3作全ての感想をちゃっちゃとまとめさせていただくこともできるわけなんですが、そんな、カレーとうな丼とみそチャーシューメンを一気にいただくようなもったいない所業をやっちゃあ、お天道様に申し訳がたたねぇということで、1作1作を別々に分けまして、無い脳細胞を総動員させて可能な限りじっくりとレビューさせていただこうかなぁと存ずる次第でございます。
 普通にいけば3本立ての順番通りに『女の決闘』からいくのが筋かと思うのですが、何度も言うように金田一耕助サーガにおける時間軸としては『蝙蝠と蛞蝓』が最初ですので、ここはゴリ押しで『蝙蝠と蛞蝓』から始めさせていただきたいと思います。これもめんどくさいファンのビョーキでございます!!


ドラマ『蝙蝠と蛞蝓』(2022年2月26日放送 NHK BS プレミアム『シリーズ・横溝正史短編集Ⅲ 金田一耕助、戸惑う』 30分)
 33代目・金田一耕助 …… 池松 壮亮(31歳)

 『蝙蝠と蛞蝓(こうもりとなめくじ)』は、横溝正史の短編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一作。探偵小説誌・月刊『ロック』(筑波書林)の昭和二十二(1947)年9月号に掲載された。
 文庫本にして28ページの短編である。舞台は戦後間もない日本の平凡なアパートで、「蝙蝠」とは主人公が金田一耕助につけたあだ名、「蛞蝓」は主人公が被害者につけていたあだ名である。ちなみに、この事件より時系列的に後と考えられる短編『暗闇の中の猫』(1946年11月発生の事件)において、金田一が「東京に腰を落ち着けてから最初に取り扱った事件」として『暗闇の中の猫』の事件を語っているため、本作の事件の舞台は東京以外の都市であるとする説がある。しかし、同じく『暗闇の中の猫』とほぼ同時期の物語と考えられる短編『黒蘭姫』(1946年11月発生の事件)は明らかに東京で発生した事件であるため、『暗闇の中の猫』事件の「金田一耕助東京最初の事件」という位置づけは、金田一または筆者の錯誤である可能性がある。
 JET の作画によるコミカライズ版が、月刊『ミステリーDX 』1999年8月号(角川書店)に掲載された。

あらすじ
 昭和二十一(1946)年。アパート暮らしの学生・湯浅順平は、隣室に引っ越してきた金田一耕助が蝙蝠にそっくりで気に入らない。裏に住む蛞蝓にそっくりのお繁も気になる。ある日ふと思いついて、お繁を殺してその罪を金田一にかぶせてしまう内容の小説の下書きを書く。しかし、翌日には自分の書いたものがつまらなく思え、そのうちそんなものを書いたことも忘れてしまっていた。ところが半月ほど経って、お繁が本当に殺害され、順平が殺人の嫌疑をかけられる。なぜか寝間着の右袖に血がついており、凶器は順平の部屋から持ち出された短刀、現場で犯人が血の付いた手を洗った金魚鉢に順平の指紋が残っていた。そして警察が発見した小説の下書きも殺人計画書とみなされてしまう。

主なキャスティング
湯浅 順平   …… 栗原 類(27歳)
お加代     …… 富永 愛(39歳)
山名 紅吉   …… 中島 歩(33歳)
お繁(蛞蝓女史)…… 長井 短(みじか 28歳)
制服の警官   …… 片岡 哲也(47歳)

主なスタッフ
演出 …… 渋江 修平(?歳)


 はい~。こんな感じでございまして、池松金田一シリーズでは『百日紅の下にて』と『犬神家の一族』を手がけた渋江修平さんの演出による作品です。前回に、文庫本にして400ページ強の長編を30分にまとめといて、今回は30ページにも満たない超短編なんだもんねぇ。渋江さんも大変ね!
 今回、記念すべき待望の初映像化となった『蝙蝠と蛞蝓』だったのですが、その結果はどうだったかと言いますと~!?

ちょっと~……おもしろいとは、言えないかな。

 う~ん。少なくとも、原作小説よりも面白いとは言えなかった。原作、面白いんですよ。
 原作小説『蝙蝠と蛞蝓』の面白さは、横溝正史先生自身も耳にしていたであろう、上方落語のしっとりとした語り口に近い、軽妙なテンポのきいたストーリーテリングにあります。これは、名探偵・金田一耕助が誕生する以前、戦前から横溝先生が得意としていた、いかにもハイカラな神戸育ちっぽいテクニックですよね。

 これ、渋江さん演出の前作『犬神家の一族』でも言ったかと思うのですが、そこらへんのテイストが、今回の映像化ではまるで活きていないような気がするんだよなぁ。一見、テンポ良く登場人物たちがセリフを言い合ってスピーディであるかのように見えるのですが、ともかく展開がまだるっこしいんですよね。声量の大小や間の取り方を大事にする上方落語じゃなくて、とりあえず大声でギャーギャーわめいて注目を集めようとする、二流以下の漫才みたいな感じ……とまでは言い過ぎか。
 特に中盤の主人公・順平の妄想シーンなんか、ものすっごくしつこくありませんでした? あれ、原作小説で読むとスーッと通るのに、いちいち一字一句を映像で追っちゃうし、原作にない悪ノリした文学賞の会見場みたいな妄想空間まで差し挟んじゃうから、トゥーマッチなんだよなぁ。いいじゃん、そこは順平の一瞬の妄想なんだからサラっといきましょうよ! それにしても妄想の映像表現って、作り手のセンスがもろに出ますよね。くわばらくわばら。

 また、序盤での山名紅吉との会話における病的なヒートアップぶりがステキなだけに、順平役の栗原類さんの過剰な過呼吸演技は、そこまでくらいでストップしといて充分なのです。それ以降の内的世界の描写は、人形劇みたいな感じで抑え気味にして良かったと思うんだよな。それなのに、その後も現実、妄想、どっちもおんなじ調子でハイテンションだから、違いがわかんなくて飽きてきちゃうんですよ。どんなに役者さんの風貌や衣装が奇抜であっても、勢いだけでもたせるのは無理でしょ、ドラマなんだから!
 これは、俳優さんが同じ演技しかできないのが悪いとかいう問題じゃないと思いますよ。作品世界内の区別がちゃんとついていないまま栗原さんに任せてしまった演出の采配ミスなのではなかろうかと。
 口を開けば絶叫ばっか……渋江さんは男の絶叫演技、そんなに大好きなの? いい加減にしてくださいよ……
 栗原さん、もっといい俳優さんだと思うんだけどなぁ。もったいないにもほどがあるよ! 『魔法×戦士 マジマジョピュアーズ!』の悪の幹部役はすばらしかった。

 それに、よくわかんない妄想シーンの延長で、そのままぬるっと現実世界の「金魚鉢の扱いに異常にこだわる蛞蝓女史」のくだりも描写しちゃうから、観ていて思わず見過ごしてしまうんですよね、ミステリー的にかなり大事なところなのに。いや、それは演出上のミスリードとかいう高等なテクニックじゃなくて、単に説明下手、不親切なだけなんじゃ……
 ところで、金魚鉢の水量とか位置にあそこまで病的にこだわる人が、計量中に畳をあそこまでビショビショにしても気にしないのか? そこらへんの単なる撮影段取りのいい加減さが、ものすっごく気になる。まぁ、蛞蝓女史なんだから、水分には無頓着なのかもしれないんだけど。

 今作はなんでこうも、順平の現実と妄想、過去と現在がわかりにくくごっちゃに描写されているのだろうか。渋江さんの作品で言うと、『百日紅の下にて』は、現在のシーンははどぎつい彩色の百日紅が咲き誇る屋外、過去の事件に関わるシーンは小さな劇場の簡略化された舞台のように真っ黒い屋内セットになっていて、共通して活躍する人物(演・嶋田久作)は服装も大幅に変わって非常にわかりやすい区別がなされていました。30分版『犬神家の一族』も、現在進行形のストーリーを全て犬神邸の一室セットとその周辺で行うという形にして、再現VTR 形式でひもとかれる過去の真相と明確に線引きがなされていました。ミステリーとしての分かりやすさに配慮していたはずです。
 それが、ねぇ!? 整理するまでもなく単純な事件だからとナメてかかった……わけはないでしょうけどね。
 もう一つ考えられるのは、後でまた触れますが「あえてぐっちゃくちゃにした」という判断なのですが、ミステリー作品の映像化の醍醐味と言うものは、膨大な情報の集積が意外な真相にたどり着く、あるいは既成の世界の崩壊を招くカタルシスにあると思うんです。緻密に積み上げなきゃそんなもん、知らない人がその場で思いついた作り話を聞かされるようなものですよね。

 あと、例によって冒頭で「ほぼ原作通り映像化」って言ってますけど、原作小説の構成上の落ち度までそのまんま映像化してどうすんだよ~!
 要するに、ミステリー的に大切な、順平が犯人に陥れられるきっかけとなったくだりが作中で描かれていないんですよ。あとで金田一が言い出してはじめて明らかになる要素なんです。
 そこ、原作小説でも終盤の金田一の説明ではじめて出てくるエピソードなので、確かにこれは後出しジャンケン的な、読者を置いてけぼりにした展開にはなっているんですよ。なので、唐突に出てきた感は原作由来のマイナスポイントであるわけなんですが、そこはさぁ! せっかくの映像化なんですから、事件発生の前日になんとな~く伏線として触れといてもいいんじゃないっすか? そうしないと、一つのミステリー作品として面白くなくなっちゃうじゃん! そこらへんの原作の悪いとこまで忠実に追わなくなっても、ねぇ!

 ただし、どうやら演出は、そこらへんの原作小説の構成の甘さの理由を、「ひょっとしたら、これは全部、錯乱した順平の妄想の産物なのではないか?」という発想に変換して、殺人周辺の描写をわざと曖昧にしたり、登場人物たちに、まるでお化け屋敷のマネキン人形のような反復演技を繰り返させることで、「すべて順平の妄想」という解釈にもとることができる展開にしているようです。なるほどそう考えれば、蛞蝓女史と順平の雰囲気がよく似ているのも、まるで順平こそが蛞蝓であるかのように、警察の取調室にいる時に大量に流した自分のよだれで髪の毛までベトベトになっているのも(くさそう)、なんとなく説明がつきますよね。蛞蝓は自分自身だったのだ!

 でも、そんな感じに今風なサイコサスペンス味を加えてしまうと、エンディングで順平は、冒頭と同じようなふつうのアパート暮らしに復帰できているので、観る人としては「あ、なんだ大丈夫なんだ、この人。」という風に肩透かしを食らっちゃいますよね。
 サイコサスペンス、ねぇ。落語でおかしなことばっかり言う長屋の八っつぁんを「統合失調症のかわいそうな人だ!」と診断するようなもんでしょ。野暮なこときわまりなし!! 野暮である以上に、面白い話にすることを放棄していますよね。私の大好きな、あの古典的な表現主義映画みたいに、ラストのラストまでまともな常識人みたいに見えていた人が実は……という意外性があったら面白いんですけどね。あの演技の調子じゃあ、順平が異常であることに意外性なんか生まれるはずもありません。ぜんぜん関係ありませんが、栗原さんは眠り男チェザーレを素で演じることのできる稀有な日本人だと思います。

 あと、なんてったって、

「それに第一、蝙蝠は益鳥である。」

 という、原作小説の最後の一文にこめられた、落語のサゲのように洒落たユーモアが1ミクロンも活きてこなくなってしまうのです。もったいないなぁ~!! そこを捨てる選択はないだろう!?
 このオチで象徴されるのは、原作の順平が、他人(この場合は金田一耕助)を見た目の印象だけで毛嫌いしたり、はたまた自分の命の恩人になってくれるとコロッと手のひらを返して大好きになるような、日和見主義のとるにたらない小市民なのだ、というつまらない事実なのです。そして、順平がつまらない人間であることが、彼を江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』のような、入ったら二度と帰って来られない「深淵」とは無縁な世界に住む幸せものなのだというハッピーエンドにつながっているんですよね。無事、これ名馬!!
 近日中に感想をあげるつもりの、同じ池松金田一版の『女怪』でも触れるつもりなのですが、昭和二十年代までの横溝正史先生の創作活動は、「いかに江戸川乱歩の影響から脱した『真の推理小説』の世界を日本に築きあげるか」という、困難なこと極まりない闘争の日々だったかと思います。その中で、『女怪』は江戸川乱歩の『陰獣』と対峙し、この『蝙蝠と蛞蝓』に関しては、乱歩も得意とした『屋根裏の散歩者』や『 D坂の殺人事件』、『猟奇の果』などの「主人公巻き込まれ型」探偵小説を相手としたのではないでしょうか。まぁ、勝敗の結果は別としましても、横溝先生にとって、これは宿命の対決だったのでしょう。
 主人公が平々凡々たる一般人であること。これが、信頼したり、愛したりていた親しい人間からこっぴどい裏切りを受けた順平に対しての、横溝先生なりの最高の救いの道だったのだと思うんです。なので、『蝙蝠と蛞蝓』の主人公を、今回の栗原さんのような明らかに「異能な容姿」の人間が、意図的に「異常な演技」で演じるのは、読解不足にもほどがあるというものなのです。私のイメージでは、だいぶ年を食っちゃってるけど、南海キャンディーズの山里さんが演じるくらいがジャストフィットの順平だったと思うんですけどね。
 栗原さんは、どっちかっていうと金田一耕助ものよりも、由利麟太郎もののほうがピッタリなんじゃないかなぁ。『真珠郎』の乙骨さんなんか、いいんじゃないっすか!? 今回の『蝙蝠と蛞蝓』でこりずに、ぜひともまた横溝ワールドに出てきてほしいですね。

 ところで、いくらスタイリッシュさを狙ったキャスティングなのだとしても、お加代ちゃんに冨永愛さんっていうのも、さすがにないんじゃなかろうか……そこはもっと、イモっぽいくらいの純真無垢な娘さんに演じてほしかった。そうしないと、あとあと……ねぇ。あの冨永さんが単なる管理人の娘で済むわけがないじゃん!

 同じくミスキャストで言うのならば、今作で蝙蝠の対になる重要な存在であるなずの蛞蝓ことお繁を演じた長井さんも、なんか存在感が非常に薄いというか、キャラクターに厚みがなかったように感じました。いや、容姿は別に何も申し上げることは無いのですが、「死にてぇ~……」って時と、「生きてるって最高♡」っていう時とのギャップがそんなにないように見えたんですよね。ただ服装とメイクが変わったってだけで、身のこなしの重い軽いもそんなに変わらないし、何よりも、ウッキウキでひとり焼き肉を楽しんでいる時の哄笑が、ぜんぜん楽しそうに見えなかったんですよ。ああいう、食べてる途中からじわじわ~と「ムフフ」が湧き上がってくるような勢いのなさじゃないはずなんですよ、生きる喜びっていうのは! もっと、舌が焼き肉のたれを、鼻孔の嗅覚器官が肉の焼けた香りを感知した瞬間に、

「んがっはっはっはっは!! 男なんか、まんまと支配したったったわ!! 米なんぞいらん、この世の肉をぜ~んぶ喰いつくしたる!!」

 という、ピナツボ火山のような大爆発が炸裂するはずなのです。それがどうだい、なんだあの、ヘビ花火のようなほくそ笑みは。
 お繁はプライベートというか、本質では確かになめくじなのでしょうが、男をゲットする時だけチーターか黒ヒョウのような肉食動物になる。このギャップ、変身っぷりが、順平にとっての「大キライ、大キライ、大キライ……大好き!! あぁ~ん♡」なポイントだと思うんですよ。それがなんだあれは、中身ちっとも変わってないじゃん。そこらへんの性というか、死んでも治らない「業」というものをちゃんと演じ分けられるお方にやってほしかったなぁ、蛞蝓女史。衣装を変えればいいって問題じゃないんですよ。


 いろいろぐだぐだとつぶやいてきましたが、結論としましては、今回の『蝙蝠と蛞蝓』の初映像化は、演出としては順平のキャラクター設定で原作の面白さを半減させてしまい、原作の欠陥を修正しないままドラマ化してしまったためにさらにそのまた半減。つまりは「平均的な横溝映像化作品の1/4の面白さ」の出来となってしまったとしか言いようがありません。え、100点満点中の25点!? キビシ~ッ。
 キャラクター設定については、まぁ渋江さんがそうしたかったんでしょ? じゃあ他人が四の五の言ったってしょうがない話なんですが、原作の欠陥をそのまんま出してるのが、惜しいにも程があるんだよなぁ。トリックに関する核心情報を、探偵が土壇場の解決編で初めて言うなんて、今どき金田一さんのお孫さんでもコナンくんでもやらない反則中の反則ですよね。まぁ、横溝先生がこの『蝙蝠と蛞蝓』を執筆したのが、我が国にとっての推理小説黎明期であったこともあるし、明らかに時間が無い状況でこの作品が脱稿されたような形跡もあるので、横溝先生自身としても多少不本意なものはあったのではないでしょうか。でも、先生得意の全面改稿長編化の大手術を施す程に体力のある大ネタでもないし……処置ナシよね。
 もしかしたら、「ほぼ原作通り映像化」という池松金田一シリーズの縛りがあるから、原作をもうちょっと面白くするための工夫もできなかったのかな? だとしたら、この『蝙蝠と蛞蝓』は、どだいこのシリーズでは選んでいけない作品だったのではないでしょうか。ほんと、順平の妄想シーンを削ってでも、トリックに関するシーンは事件発生の前のどこかで挿入してほしかった……そうしたら、解決編での金田一の推理の鮮やかさも少しは引き立ったのではないでしょうか。

 まぁ、まぁ! 渋江演出の次の作品なる期待したいなぁ、と感じた次第です。大丈夫、大丈夫。今回の池松金田一シリーズの最新3作の中で、いちばんつまんなかったわけじゃないですから……ええ~!?
 こんなこと先に言ってしまってはいけないんですが、そこの、2月26日の「池松金田一最新3作一挙放送」をご覧になったあなた、もしかして観終わった後、

「あぁ、これは3作まとめて放送しちゃったほうが良かったかもな。」

 って思っちゃったりなんかしちゃったりしませんでした、チョンチョン!?
 いや、横溝ファンとしてなんと不敬な……そんなこと感じたの、不信心な私だけですよね? 満足できなかったのは私だけであったと、信じ、たい……

 そんな感じに、ちょっぴり雲ゆきの怪しい含みを持たせつつ、池松金田一の感想はまた次回、『女怪』へと続くのでありましたァ~ん。

 あれ? もしかして、原作小説通りに「二重まわし」式のマントを着てる金田一耕助が映像作品に登場するのって、この『蝙蝠と蛞蝓』が史上初なのかな? 今までいろんな衣装アレンジが施されてきた池松金田一なんですが、今作では異様に古典的風貌なんだよなぁ。基本スタイルも、池松さんはやっぱり画になりますね!
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あの夫婦にも、昔はこんな時があったのねぇ……  ~映画『アルゴ探検隊の大冒険』本文~

2022年02月20日 21時23分06秒 | 特撮あたり
≪資料編は、こちら~。≫

 ハイど~もみなさん、こんばんは! そうだいでございます。いや~、山形のこの冬はもう雪がめっちゃくちゃ多い! バレンタインデーも過ぎて、もうそろそろ桃の節句だって言うのに、外は気持ちいいくらいの白一色でございます! いい加減にしてほしいね……仕事する前に雪かきですでにヘトヘトになっちゃってるんだもん。春が待ち遠しいよ!

 お知らせがいつ来るのかな~と首を長くして待っていた、NHK BSプレミアムの池松壮亮金田一シリーズの最新シーズンの放送日時の告知が、ついに先日出ましたね! 来たる2月26日土曜日の午後11時から1時間30分、一挙3作品連続放送ですって! え、一晩で全部やっちゃうの!? なんという大盤振る舞いか!
 大盤振る舞いっていうか、もったいなさすぎじゃないですか? 通例通り1週に1本で1ヶ月くらいもたせてもバチは当たらないでしょうに……なんてったって、『シン・仮面ライダー』にて第10代(声優を含めて)・本郷猛を演じる話題の池松さんなんですから、そのくらいの扱いにしてもいいんじゃなかろうかと。どうせ北京オリンピックの編成のあおりを受けてのものなんでしょ? いくらメインディッシュがいぶし銀の『女怪』だからって、そんなに邪険にしなくたっていいじゃねぇかよう! 非常に楽しみにしております。

 さて、それはそれとしまして、今回はお題がまったく別! 日本に円谷あれば、欧米にハリーハウゼンありと讃えられる、「ストップモーション特撮の神様」こと、レイ=ハリーハウゼンの代表作とも呼ばれる映画『アルゴ探検隊の大冒険』についてのあれこれでございます。いつも通り、映画の資料だけをあげておいて5年ぶりの本文よ! ひどいもんだなぁ。

 のっけから脱線してしまうのですが、この映画は英語圏で制作されていますので、登場人物の名前の発音は全員英語読みになっています。つまり、イアソンは作中ではふつうに「ジェイソン」と呼ばれているので、なんだか国の命運を賭けた密命を帯びたアルゴ探検隊も、リーダーがジェイソンくんだと週末のキャンプみたいなラフさが漂っちゃいますね。ヘラクレスの「ハーキュリーズ」はカッコいいなぁ!
 ちなみに、1980年代生まれの私が「ジェイソン」と聞くと、どうしてもボロッボロのホッケーマスクをかぶったスキンヘッドの大男という、ホラー映画『13日の金曜日』シリーズの名キャラクター、ボーヒーズさんをイメージしてしまうのですが、最近の若いもんは、ステイサムさんのほうを思い起こすんじゃないの? 世の中のジェイソン事情も変わってきましたなぁ。でも、「ジェイソン=パワー系」という印象は共通してるんだなぁ。もしイアソン役がステイサムさんだったら、ヒュドラなんか、かば焼きにして食べちゃいそうですよね。

 閑話休題。

 『原子怪獣現わる』(1953年)の恐竜リドサウルスや、『地球へ2千万マイル』(1957年)の金星竜イーマをはじめとして、『タイタンの戦い』(1981年)の海竜クラーケンにいたるまで数多くの魅力的なクリーチャーを創造してきたハリーハウゼンなのですが、彼に負けず劣らず、ゴジラやラドン、我が『長岡京エイリアン』では信仰の対象となっておられるおキングギドラ様といったスター怪獣たちを生んできた日本の特撮界とは、根本的に自分たちの仕事や作品に対する姿勢が違っている気がします。

 端的に言ってしまえば、ハリーハウゼンがこだわっていたのは「映像表現の可能性の広がり」で、日本の円谷英二、というか、円谷英二の後継者たちがこだわっていたのは「キャラクター世界の広がり」だったのではないかと思います。着ぐるみ怪獣だけでなく、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)での、精巧きわまりないミニチュア戦闘機による爆撃シーン、『美女と液体人間』(1958年)での、重力に逆らって自らの意思を持ち這いまわる液体といった、「不可能を可能にする表現」にこだわっていた円谷英二の姿勢は、円谷プロ時代の『怪奇大作戦』や、『ウルトラQ』とか『ウルトラセブン』で、ワクワクして観たのに「あれ、怪獣出てこないぞ……?」と肩透かしをくらった幼児体験のある方ならば、誰でもお分かりかと思います。ハリーハウゼンと円谷英二自身は、やっぱり同じ天才としてよく似ているんですね。ただし、欧米と日本それぞれの特撮界は、彼ら天才が身を引いた後の展開の方向性がまるで違っていたわけなのです。かたや技術革新の追求による CGへの道、かたや着ぐるみという伝統を固守した内世界の拡大への道、といった感じで。
 それが、文化のグローバル化、ごった煮化、均一化が激しい21世紀の映像世界では状況がだいぶ変わってきて、ゴジラシリーズしかりウルトラシリーズしかり東映ヒーローものしかり、海を渡れば DCユニバースしかりマーヴェルCU しかり……面白いキャラクターがいれば、それを何度もブラッシュアップして再登場させるのが当たり前、という商業パターンが洋邦を問わず一般化してしまったわけです。今さら、ハリウッドがゴリゴリに固太りして顔だけ小さいゴジラを作ろうが、日本がニンジャバットマンやらノブナガジョーカーを作ろうが、だぁれも驚きませんよね。
 それはそれでいいんですが、そんな今の世の中から振り返れば、思ったよりもストップモーション特撮キャラの活躍時間が少ないハリーハウゼン作品は、いかにも「もったいない! もっと活躍させてよ!」と思わずにはいられないおあずけ感覚に陥ってしまいます。面白いんだけどね! 人間、腹八分目だけれども!!

 今作に関して言えば、ストップモーションで動きまわるキャラとしては「青銅の巨人タロス」、「怪鳥ハーピー」、「7首竜ヒュドラ」、「7人の骸骨剣士」が登場するわけなのですが、こういったラインナップを予備知識のない現代人に見せて、「最強のラスボスキャラ、どれにする?」と聞いてみたら、おそらく9割がたの人はヒュドラにするのではないでしょうか。強そうだし、7本の首がうねうね動きまくるのなんか、いかにも画になるしねぇ。

 ところが、本作を観てごらんのとおり、ラスボスはなんと骸骨剣士なんですよ! こんなもん、下手したら最弱の「スライムのちょい上」になっててもおかしくないですよね? しかも、骸骨剣士ってハリーハウゼンさん、以前に『シンドバッド七回目の航海』(1958年)でもやってるでしょ? なんでそれがラスボス!?
 ちなみに、本作のほんとうの原作である『アルゴナウティカ』(紀元前3世紀)におけるラスボスはタロスであり、さらにそのタロスを倒すのはイアソンでなくメデイアです。ハリーハウゼンさん、映画としての盛り上がりを最優先させて物語の順番やキャラの役割をアレンジしまくりですから、ギリシア神話にご興味のある方は注意しましょう。ヒュドラ、イアソンの地元ギリシアの怪物なのにコルキスに出張させられてるし! そりゃコンディションも最悪になるでしょ。

 本作で骸骨剣士がラスボスに選ばれた理由はもう、観てもらったらわかると思うのですが、とにかく「撮影が大変」!! そうなんですよ、デカさで言ったらタロス、飛行で言ったらハーピー、迫力で言ったらヒュドラなわけなんですが、剣と剣、剣と槍といった「生身の演者との絡みと手数」が圧倒的に多い骸骨剣士をラスボスに選んだのは、「不可能を可能にする表現」に挑戦し続けるハリーハウゼンとしては至極まっとうな選択だったのでしょう。彼がこだわったのは骸骨剣士というキャラクターのガワではなく、「あいつが7人もいたら殺陣どうするよ~!?」という、そんなこと言い出さなかったら誰も苦労しなかったであろう、むちゃくちゃな難易度の設定だったのです。できあがった作品を客として楽しむ分には全く問題ないけど、制作スタッフにはなりたくねぇなぁ~!! 業界はちがえども、手塚治虫、宮崎駿、そしてハリーハウゼン……天才は、近くにいる人にとっては天災なんだなぁ。

 それにしても、7人の骸骨剣士とイアソンたち3人の探検隊員との約3分におよぶ剣劇シーンは、本当にすごい。殺陣の振付の一手一手がまず面白い上に、骸骨剣士の動きと同期して背景に映り込む影までも再現し(当然生身の人間の影と同じ角度!)、首が取れて慌てふためいたり、あばら骨の隙間に剣が入っただけなのでノーダメージなのに、生前のクセからか「ぐわーっ!」とやられた振りをしたりするような骸骨剣士のユーモアまでちゃんと差し挟んでいる、ハリーハウゼンのサービス精神の旺盛さには、心の底から頭が下がります。しかも、よく見ると骸骨剣士の見た目も全員同じではなく、盾の装飾がそれぞれ違っていたり、剣の戦士と槍の戦士がいたりして微妙な違いがあるという……どんだけ自分を追い込めば気が済むんだい、ハリーハウゼンさんよう!!
 まぁ、その骸骨剣士たちの尺的なあおりを喰らってか、かなりラスボスっぽい見かけのわりに、なんとイアソンの剣の一刺しで死んでしまうというひどい扱いになってしまったヒュドラは不憫でなりませんでしたね。黄金の羊の毛皮の守護竜(ヒュドラの弟)の代理で登場してるのに、あっけなさすぎ! 切った首が次々に再生する展開とか、もっとこう……さぁ!! 7本の首を常にランダムにくねらせるヒュドラの動きは言うまでもなく素晴らしいのですが、巨匠ハリーハウゼンの飽くなきチャレンジ魂とどM 気質をもってしても、これ以上のスペクタクルの表現は、少なくとも1960年代の段階では無理であったか。でもヒュドラの消化不良感に関しては、最後の作品『タイタンの戦い』での、もはや伝説ともいえる「魔女メデューサとの決戦」における、メデューサの頭の無数の蛇のモーションで、見事リベンジを果たしてるんだよなぁ。さすがはハリーハウゼン、ただでは転ばない漢だ!!
 この『アルゴ探検隊の大冒険』において、ハリーハウゼンは青銅の巨人タロスによる「重厚な質量感のある動き」、怪鳥ハーピーによる「激しいはばたき」、7首竜ヒュドラによる「爬虫類のぬるぬる動き」、そして骸骨剣士による「軽快なカクカク動き」と、テンポの自由自在な変化によるストップモーション特撮の可能性の拡大に挑戦したのでしょう。まさに、ハリーハウゼン魔術のショウケース! ここらへん、コロッケさんのものまねレパートリーに近い鬼気を感じますよね。

 昨今、世界の空想フィクション世界では、「ヒーローは徒党を組まなければならない」、「怪獣は強く大きくカッコよくなければならない」、「仮面ライダーはフォームチェンジしなければならない」、「プリキュアは1チーム3人はいなければならない」などの、誰が言うでもなく慣習化した「数と力のインフレ」の歯止めが利かなくなっている状況が続いていますが、これは言い換えれば、「とりま、これやっとけば人気とれるっしょ。」という安心を求める甘えの産物でもあると思います。ひとりの人間として、その気持ちはよくわかるのですが、それは、クリエイターの仕事の姿勢として、どうなんだろうか。
 もう一度いま、作り手が全てをリセットし、「自分が心から燃える課題(表現)にひたむきにチャレンジする」ための、実験精神に満ちたゼロの大地を創り出す必要があるのではないでしょうか。そうしないと、業界全体が飽きられちゃうような気がするんだよなぁ。もう似たようなキャラばっかで、そんなんだったら、まだ新しいものに挑戦する緊張感のあった10~20年前の過去シリーズ作品でいいじゃんみたいな停滞感、なくない!? 特にニチアサとか。おもちゃを売るためだけにしか、新作つくってません?
 かの西洋ねずみ帝国の植民地と化してしまった『スター・ウォーズ』シークエルの腐臭ふんぷんたる大失敗は、決して対岸の火事ではありません。あなたが幼い頃に大好きだったヒーローやヒロインが、ある日突然、「お金になりそうだから」という理由だけで、敬意の全くないタスケン・レイダーにすら劣る輩によって墓から掘り出され、無理矢理操り人形にされてしまう悪夢が、明日来ないとも限らないのです! こわいね~。
 日本の特撮界が、マンネリ化による求心力の低下によって人気の空洞化現象をまねき、怪獣の死体をネタにしたコントが「日本伝統の特撮映画でござ~い。」みたいな顔をしてのさばるような世の中にならないように、切に祈りま……あ、もうなってるか。

 過去作品に材を取った『シン・~』の流れも別にいいんですけど、とにかく作り手が燃えている作品が観たい! 燃えている人が創り出した映像なのであれば、ラスボスがお骨だろうが、いきりまくった大怪獣が剣の一突きで死のうが、なんでもいいんです!! だって、ラスボスが必ず強くなきゃいけない理由なんて、どこにもないだろ! あのヒュドラだって、たまたまあの日は風邪かインフルでめちゃくちゃ調子悪かったのかもしれないし、もしかしたら直前に闘ったアカストス王子が異様に健闘していたせいで、HP が1/90000くらいにまで削られていたのかもしれないんですよ!! そう考えれば、イアソンが出遭った時に、ヒュドラがその尻尾で捕らえていた瀕死のアカストス王子を、かなり優しく地面に降ろしてからイアソンと対決すしていたのにも得心できますね。あれはヒュドラなりの、強敵への敬意のあらわれだったのだ……
 ところで、イアソンをまんまと策略に陥れ、そのすきに先に黄金の羊の毛皮を発見した時の、アカストス王子の「ちょろいぜ☆」と言わんばかりの、世の中をナメきった表情が実にステキですね。『鬼滅の刃』の名キャラクター・サイコロステーキ先輩の偉大なる祖先だと思います。

 蛇足ですが、私は『シン・ウルトラマン』でも『シン・仮面ライダー』でも大歓迎で観に行くつもりではあるのですが、なんかあの、よくわかんない「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」っていう企画、あれなに? あれだけは絶対に許容できません。ふざけんな! 何がユニバースだ!!
 だって、『キューティーハニー』(2004年)が入ってねぇじゃん!! サトエリさんを入れろ!! ついでに『シン・キューティーハニー』だか『キューティーハニー1984』みたいな感じで新作をつくれ!! 欧米のガル=ガドットに勝てるのはサトエリさんだけだろ! 18年前のね……
 『シン・~』シリーズの原点はゴジラでもエヴァンゲリオンでもなく、キューティーハニーですよ! それを「なかったこと」みたいにする姿勢は、絶対に許せるものではありません! まぁ、それが成功したかどうかは別の問題としても、『キューティーハニー』や『仮面ライダー THE FIRST』などのチャレンジの軌跡は、未来に活かしていくべき財産とするべきものなのです。忘れ去る、黙殺するなど、とんでもない!!

 すみません、取り乱しました。

 話を戻しますが、この作品は、ハリーハウゼンの特撮技術の研鑽を、さらに一段階レベルアップさせる格好の舞台となったわけなのですが、「シンドバッド」シリーズから『タイタンの戦い』へと通じる重要な「歴史ロマンもの」の一作であり、当然ながら、ロマン作品ならばラストシーンはカッコいいヒーローと美しいヒロインとの熱い抱擁でチャンチャン、となるわけなのですが……

 イアソンとメデイア、だもんねぇ。

 映画『アルゴ探検隊の大冒険』の原作は紀元前3世紀の古典叙事詩『アルゴナウティカ』であり、『アルゴナウティカ』はメデイアを妻としたイアソンとアルゴ探検隊(アルゴナウタイ)が神器『黄金の羊の毛皮』を手に見事、ギリシアのテッサリア地方、イアソンの真の仇敵ペリアス王の待つイオルコス王国に帰国して終わるわけなのですが……問題は、『アルゴナウティカ』で語られない、その後なのよねぇ。とてもじゃないけどハッピーエンド、円満な夫婦生活にはならないという。

 帰国後、イアソンはメデイアの魔力によって悲願だったペリアス王の抹殺に成功するのですが、メデイアのすさまじい魔力を恐れたイオルコスの民はイアソンが次期国王となることを拒否し、イアソンはメデイアを連れて近隣の、ペロポネソス半島にあるコリントス王国に亡命することとなります。
 しかし亡命者とはいえ、勇気あるアルゴナウタイのリーダーであり、イオルコス王家の王子でもある英雄イアソンの血統を重んじたコリントスのクレオン王は、娘のクレウサ王女をイアソンの正室にしようと提案し、クレウサの若さと清楚な美しさに惹かれたイアソンは、メデイアとの関係を「側室か愛人」に堕とし、クレウサと婚姻しようとします。
 このイアソンの、今まで何度となく命を救ってきた自分に対する恩も、それ以上に大切な愛情のかけらも残っていない判断にブチ切れたメデイアは、イアソンへの復讐としてクレウサとクレオン王を呪い(出力フルパワー)で焼き殺し、イアソンとの間にもうけた2人の幼子さえも自らの手で殺し、絶望するイアソンを尻目に、ドラゴンの牽く戦車に乗って実家のコルキス王国へと帰るのでありました。全てを失ったイアソンは、放浪の果てに朽ち果てたアルゴ船の下敷きになって死んだとか……

 チャンチャン……じゃねぇ!!

 このへんの経緯は、ある意味で『アルゴナウティカ』よりも有名な、エウリピデスによるギリシア悲劇『メデイア』(紀元前431年)と、それを原作とするルイジ=ケルビーニのオペラ『メデア』(1797年初演)、それをあのマリア=カラスが20世紀に演じて復活させた縁で、いわくつきの天才監督パゾリーニの手により再びカラスがメデイアを演じた映画『王女メディア』(1969年公開)でつとに有名なのではないでしょうか。日本だったら、「世界のニナガワ」蜷川幸雄の演出によるバージョンの『王女メディア』(1978年初演)を思い出す方も多いのですよね。ひらみきの衣装とメイクがすごいやつ!
 蛇足ですが、私、あのひらみきメディアの格好を見た瞬間から、「あれ、これ、どっかで見たことあるぞ……?」とミョーな既視感を覚えていたのですが、あれ、『電撃戦隊チェンジマン』(1985年放送)の、中間管理職の悲哀をこれでもかという程に体現した悪の大幹部ギルーク司令官(演・山本昌平)の、左遷時代のフォーム「ゴーストギルーク」のデザインの元ネタなんだそうですね! この情報を知った時はしっくりきたなぁ。ちなみに『王女メディア』の衣装デザインは辻村ジュサブローさんで、ゴーストギルークのデザインは出渕裕さんです。メデイアと特撮との意外なつながりは、なにもハリーハウゼン経路だけではなかったのですな。
 でも、メデイアの美女の面を抽出したのが『アルゴ探検隊の大冒険』で、魔女の面を抽出したのが『王女メディア』系の諸作であると解釈して間違いはないのですが、パゾリーニの映画版の『王女メディア』は、うん……面白くは、ないよね! 美術や衣装風俗こそ時代考証的には正しいのかもしれないけど、ハリーハウゼンがあれほどまでに重視していた「テンポ」というものを、気持ちいくらいにかなぐり捨てているのがパゾリーニ版なんだよなぁ。ヨーロッパ映画における、芸術性と睡魔の相関関係って一体……

 う~ん、やっぱり私は、『アルゴ探検隊の大冒険』のほうが好きだな! イアソンとかメデイアとかがどう描かれているかなんかは、ぶっちゃけどうでも良くて、問題は、それを現代に語る者、その語り方に情熱があるかどうかなのだ。大事なことね……


 ってなわけで、今回も字数がこんな感じにかさんでまいりましたので、最後に『アルゴ探検隊の大冒険』を観ていて私が感じた備忘録と、パゾリーニ版の『王女メディア』の情報をまとめておしまいにしたいと思います。


・バーナード=ハーマンの勇壮な音楽と、物語のハイライトをつづっていく壁画風映像のオープニングが、まさに正統派古代ロマン時代劇という感じで素晴らしい。親子で観ても安心!
・野心に満ちた武将ペリアスのクーデターと、のちにイアソンとなる赤ん坊が助けられる一連のくだりが非常にわかりやすい。なんてったって大神ゼウスの予言なんだから、イアソンを殺せるわけがないんだよなぁ……
・私は西洋の歴史にはそんなに詳しくはないのだが、そんな私が観ても、イオルコス王国の兵士の甲冑が、たぶん1500年くらい未来のローマ帝国みたいなデザインになっているような気がする違和感はぬぐいきれない。末端の兵士にいたるまで、そんなに惜しげもなく金属は使ってないんじゃ……日本で例えれば、聖徳太子がネクタイにスーツ姿になってるみたいなもんじゃないの? ま、いっか。コロンビア映画だし。
・ギリシア神話名物「ゼウスとヘラの夫婦漫才」がさっそく炸裂! 「ヘタレのペリアスが悪いんじゃよ……」と伏し目がちにヘラに反論するゼウスが実に人間くさい。神の中の神なのに!
・イアソンの仇討ちをなんとしても助けたる!と言い張るヘラに押し切られる情けないゼウスだが、「じゃあ5回助けるチャンスをやる。」と、とんでもないルールをこともなげに設定してしまうところが地味に大神らしくてあなどれない。やるな、オヤジ!
・作中の映像時間から察するに、ゼウスとヘラのいる天界での1分間は、地上での20年間に相当するらしい。ペリアス王の栄華、1分で終わっちゃったよ!
・いくら自分の神殿を血で汚されたからといっても、20年間もペリアス王をストーキングするヘラの執念がこわい。まさに、メン……いえ、なんでもないです。
・単に川で溺れている男(ペリアス王)を救助した純真な青年のような顔をして野営の宴に招かれておきながら、口を開いたとたんに俺は前王の遺児だと言い出し、ペリアス王への復讐を公言するイアソンの目つきが非常にアブない。助けた男、どう見てもペリアス王に近いテッサリア王国の有力人物だよね(実はペリアス王本人)!? バカなのか!?
・テッサリア王国を悪政から救うために神器「黄金の羊の毛皮」を見つける冒険の旅に出るという流れが、まさに RPGの元祖中の元祖という感じでわかりやすい。ワクワクするなぁ!
・女神ヘラの加護のあるイアソンを殺せないのなら、なるべく自分から遠ざけようと画策するペリアス王の判断が実に現実的で賢い。さすが、20年間おびえ続ける男なだけはある。
・なんか、最初に登場した時からミョ~に老けたメイクをした予言者だなぁと気になってたら、あんたオリンポス十二神のヘルメスだったんかーい! そりゃ予言も当たるわ。
・コルキスへ行けとヘラに言われて「世界の果てだぞ……」とひるむイアソン。でも、コルキスなんて黒海の東岸でしょ? もっともっと世界の果てジパングに住む人間からしたら、そんなもんねぇ。日帰りの温泉旅行みたいなもんでしょ!
・大神ゼウスとオリンポスの神々の圧迫面接にも物怖じしない姿を見てもわかる通り、イアソンは天才的な特殊能力こそないものの、勇気と弁舌に長けている、劉備玄徳のようなリーダー気質のある大人物らしい。またこの後の展開から、男に異様に好かれる人望も持ち合わせているようである。その一方で女運はどうかというと……不安!!
・非常に男むさい、イアソン主催の探検隊員募集のオリンピック大会のもようを、天界から実になごやかに笑顔で観戦するオリンポスの神々。ひまか!?
・エーゲ海と黒海を航行可能な大船アルゴ号を建造した天才アルゴスだが、まばたきをして眼球が動くギミックを取り入れたヘラそっくりの船尾像をオプションで造るほどのヘラ信者とは……これにはさすがのヘラもドン引き!?
・やっぱり、実物大のアルゴ船をちゃんと海に浮かべて行う撮影は、迫力と臨場感がちがう! いいなぁ。
・ギリシアからコルキスまでの距離は、片道およそ2400キロ(日本で言うとだいたい北海道~鹿児島間)の船旅。現在は陸路で片道およそ30時間かかるそうです。まぁ、古代の海路の感覚では長旅ですよね。
・いくら船旅で体力が落ちていたと言っても、天下の英雄ヘラクレスがクレタ島のヤギ1匹捕まえられないとは……でも、ヘラクレスはゼウスの隠し子でヘラからかなり憎まれていたという神話があるので、これもアルゴ船でヘラそっくりの船尾像ににらまれ続けていたがための呪いなのか!? あわれヘラクレス!
・本作で初めてクリーチャーが登場するのは、本編が始まって35分後というけっこう遅めのタイミングなのだが、それまでのドラマが面白いことと、なによりも青銅の巨人タロスの迫力がハンパないので、まったくダレない。青銅像なので当たり前だが表情ひとつ変えず、金属的なにぶいきしみ音だけを響かせてゆっくりと機動するタロス……こわすぎ!!
・複雑な海岸線沿いに重厚に進撃するタロスの見事な合成テクニックと、ハーマンの重々しい音楽が見事に調和した特撮シーン。日本に円谷英二&伊福部昭があるのならば、西洋にはハリーハウゼン&ハーマンがいる!
・男どもが汗だくで漕ぎ進めるアルゴ船の先に、岬にまたがったタロスの青銅の股間が迫る! なんなんだ、このむくつけき映像は。
・タロスは、武器の剣を右手に持って歩くのだが、右手でアルゴ隊員やアルゴ船を捕まえようとするときには、いちいち剣を左手に持ち替えて右手を使っている。タロスをわざわざ右利きに設定する、映画には一切出てこない開発者ヘーパイストスの異常なこだわり! ヘーパイストスっていうか、ハリーハウゼンか。
・タロスが軽々とアルゴ船を海面から持ち上げて、突然興味を無くしたようにぽいっと捨てる動作が、1954年の『ゴジラ』を意識していると見るのは、日本人のひが目か? ともかく、アルゴ船の精巧なミニチュア撮影と、実際に実物大の船セットから船員たちが落下するスタント撮影との絶妙な編集の組み合わせがすばらしい!
・タロスの攻撃で難破したアルゴ船から命からがら逃げてきた船員たちと海岸で合流するヘラクレス。イアソンの「掟を破ったな!」という詰問に、迷いなく「うん!」といった感じでうなずくところが、さすが脳筋中の脳筋ヘラクレス……憎めないヤツ!
・およそ10分間にわたる機動の末に、ヘラの助言を受けたイアソンの勇気ある行動により、かかとの栓から蒸気と血だかガソリンみたいな液体を放出して倒れるタロス! 利き手があったり、機動停止の直前に両手で喉元をおさえて苦しむなど、不必要に人間っぽい動作オプションが目立つステキなキャラでした。お疲れ!
・親友ヒュラスを探すためにアルゴ探検隊から脱退するヘラクレス。情に厚い、いかにも英雄らしい判断だが……自分のせいだもんねぇ。
・登場時から腰巻ひとつで、そのだらしない中年体型を惜しげもなくさらし続けていたアルゴスだが、下船する時はちゃんとした衣服を着て露出度がグンと減ってしまうのが、節度を守っていてほほえましい。でも、船に戻るとすぐ裸になる……アルゴ探検隊のグラビア担当は彼だ!
・盲目の預言者ピネウスをすぐに殺すでもなく、足でつつく、杖を盗む、テーブルをひっくり返して食べ物を台無しにする、衣服をはぎ取るという最低ないじめを繰り返す怪鳥ハーピー! その性格の悪さが妙に印象に残る。
・実在の俳優が持っていたり身に着けたりしているはずの杖や衣服をミニチュアのハーピーが奪い取るという合成撮影の連携が実に見事! さすがはハリーハウゼン、おのれに課す特撮難易度の高さがハンパない!!
・ゼウスの仕掛けた「吠える岩」の関門を、イアソンを助けるためにいとも簡単におさえてクリアさせる海神トリトン。お前、叔父さんに逆らうのか! でも、トリトンはヘラの甥っこでもあるんだよなぁ。難しい立場ね!
・吠える岩の落石で難破したコルキス船からイアソンが助けた、水もしたたるイイ女……その名はメデイア!! あ~あ、イアソンやっちまったな! メデイアを演じるナンシー=コバックの目力がものすごい。えっ、ナンシーさん、今もご存命(2022年2月時点でおんとし86歳)? 本物のメデイアじゃないの!?
・アカストス王子との決闘で負ったイアソンの腕の傷を、薬草でたちどころに完治させるメデイアの献身的な愛……のちの2人の顛末を思えば、なぜか自然と涙が。それにしてもメデイア、ウエストほっそ!
・全身に金粉を塗りたくり、ヘカテ教ダンサーチームのどセンターを張り、恍惚のおももちで踊りまくるメデイア。その光景を見て若干引き気味のイアソンの表情が興味深い。コイツ重いな! この時のイアソンの予感は正しかったのだ……
・ペリアス王といいメデイアといい、イアソンはその人の素性を知らないまま気安く接近して本心をさらけ出してしまう悪いクセがある。お人よしっつうか、無防備っつうか。
・アカストス王子の差し金とはいえ、国賓のようにさんざんっぱら歓待しておきながら、祝宴が盛り上がったところでいきなり手のひらを返してアルゴ探検隊をひっ捕らえるアイエテス王の情緒不安定さも、娘メデイアに負けず劣らずめんどくさい。この娘にしてこの父ありか。ちょっと『お父さんは心配症』を想起させる。
・コルキス王女の身でありながら、イアソンとの愛のために国や父王を捨てることを即決するメデイア。この激しさがくせものなんだよなぁ……
・見事に骸骨剣士たちの追撃から逃れてアルゴ船に生還し、愛するメデイアと熱いキスを交わすイアソン。これをもって本作の物語はハッピーエンドに終わるのだが、天界からこの2人の様子を見て若干表情を曇らせるヘラと、ゼウスの「イアソンの冒険はまだ終わっておらんぞ。さぁ、ゲームを続けよう。」という言葉がいかにも意味深なエンディングである。さぁ、イアソンとメデイアの夫婦人生航路は、これからどうなるのカナ~!?


映画『王女メディア』(1969年 106分 イタリア・フランス・西ドイツ合作)
 『王女メディア( Medea)』は、イタリア・フランス・西ドイツ合作のファンタジー映画。古代ギリシアの劇作家エウリピデスによるギリシア悲劇『メデイア』(紀元前431年)を原作とする。監督・脚本はピエルパオロ=パゾリーニ(47歳)。主演は世界的オペラ歌手のマリア=カラス。カラスが長編映画に出演したのはこの作品のみだが、当時すでにオペラ歌手としては事実上の引退状態にあり、歌唱はしていない。
 物語の舞台の異国感を出すためにトルコ・カッパドキア地方のギョレメ岩窟教会群で撮影し、音楽には日本やイラン、チベットの伝統音楽が使われた。

主なキャスティング
王女メディア        …… マリア=カラス(45歳)
英雄イアソン        …… ジュゼッペ=ジェンティーレ(26歳 当時現役の陸上三段跳びオリンピック選手)
コリントス王クレオン    …… マッシモ=ジロッティ(51歳)
ケンタウロスのケイロン   …… ローラン=テルズィエフ(34歳)
クレオンの娘クレウサ    …… マルガレート=クレメンティ(?歳)
ペリアス王         …… ポール=ヤバラ(?歳)
メディアの弟アプシュルトス …… セルジオ=トラモンティ(23歳)


 いや、パゾリーニ版の緊張感も、たま~に観たくはなるんですけどね。なんで2時間もない映画なのに、あんなに眠くなるんだろうなぁ……これも、時を超えたメデイアの魔力かな?
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事件の真相なんか、思いっきりぶん投げて鳥に食わせちまえ  ~映画『ピクニック at ハンギングロック』本文~

2022年02月14日 00時14分37秒 | ふつうじゃない映画
≪資料編は、こちらにあってよ!≫

 はい、ハッピーバレンタイ~ン!!
 というわけで今回の記事は、めでたく2018年に TVドラマリメイク&日本語訳出版もされた、この歴史的傑作だい! ぽっぽぴ~♪

映画『ピクニック at ハンギングロック』(1975年8月公開 116分 or 107分 オーストラリア) 

 南半球のバレンタインデーなんで思いっきり真夏なんですが、これもれっきとしたバレンタイン・ムービーよね。チョコはぜんぜん出てきませんけど!!

 この映画ねぇ、私ほんっとに大好きなんですよ!
 なにがそんなに好きって、この記事のタイトルにもしているように、「事件の真相とか、そんなのどうでもいいじゃん。」っていうオチの放り投げっぷりが、完全に確信犯的なところ! その、薩摩隼人もビックリな勇敢きわまりない決断力と、オチの欠落を充分すぎる程に埋める繊細なデティールの描写力が、バッチリ同居しているっていうものすごさなんですよね。まさに、画面の中の世界のごとくやたら「ひらひら~♡」としたフリルをまとっているだけのようでありながら、中には鋼のように硬く輝く芸術センスを隠しているって感じ!
 世の中には、お金や時間の都合や作り手の力不足で物語の流れが破綻したり、結末がよくわからない感じになってしまう、いわゆる「怪作」というフィクション作品はいろいろあると思います。それは、作り手の全く意図しないアクシデントによるものなので、プロの作る起承転結のはっきりしたウェルメイドな作品では味わえない不思議な印象を持ってしまい、「たまにはこういうのも、いいよね。」的な B級以下の出来になってしまう場合が多い気がするのですが、この『ピクニック at ハンギングロック』は、そんなほのぼのとしたものではないんです。偶然カメラのピントがズレちゃったんじゃなくて、最初っからモネやルノアールのような焦点のぼやけまくった印象画を描こうとして撮影を始めてるんだもんね! この決意の固さ……まるでこの映画の中のメンヘラ気味少女サラのようではありませんか!? そしてそれは、学校行事の最中に4人も行方不明になったというまごうことなき大不祥事を、まるで認めようとしないアップルヤード校長の頑固さにも通じると言えなくはないわけで、この映画がその2人の死をもって終幕するのもまた、非常に論理的で正しいわけなんです。生徒に優しすぎるがゆえに、ちょっぴりなあなあな関係にもなりがちなポワティエ先生のようにふわふわしたパッケージでありながらも、この映画の本質は鉄面皮な数学のマクロウ先生に近いんですよね。この二面性! それがいいんだよなぁ。

 「結末が語られない」というだけで、フィクション業界の禁じ手をやらかしている異端の作品のように見られがちなこの映画なのですが、作品の画作りからキャラクター配置まで、全てが保守的といってもいいくらいにガッチリ数学的に計算されつくしているのも魅力なんじゃないかと思います。画面の美しさについてはもう、作品を観てもらうより他はないわけなんですが、日本人の感覚で言うと「山」とも言えないような単なる岩ばっかりのロケ地を、あそこまでにミステリアスな異界に描ける想像力と、イモくさい娘ッコたちのフツーの会話をむせかえるような「あやうい」空気が満ちあふれるアップルヤード女学校の世界に変換してしまう妄想力はすばらしい!
 キャラクター配置に関しても、「サラとアップルヤード校長」、「マクロウ先生とポワティエ先生」、「マイクルとアルバート」、「ミランダとアルマ」といったように、非常に分かりやすく対立や協力の関係が構築され、その中の誰かが別のペアにちょっかいを出して波紋が広がる、といった物語の潤滑油が確実に機能しています。
 つまり、映像と物語の両面から「オチ無しでも大丈夫!」という、お客さんを最後まで引っ張っていける万全の体制が整ったうえで、この映画が作り上げられているということ。ここがこの映画『ピクニック at ハンギングロック』の、唯一無二の魅力の源泉なんですね。

 だいたい、この映画の原作小説からして、当時70歳の原作者リンゼイさんがわざわざ用意していた「4人の失踪の真相」を、こともあろうに出版社の編集担当者が「ないほうがいいっすねぇ。」と提案し、リンゼイさんも「うん、そっちのほうがいいかも。」と承諾したというんですから、この物語の面白さがハンギングロック失踪事件とは別のところ、つまりは「ある日突然に日常が崩壊していくさま」の克明な描写にあることは、映画化する以前から明らかだったのです。
 ところで、私はこの記事をつづるにあたって、2018年にやっと出版された日本語訳(井上里・訳 東京創元社創元推理文庫)を読んでみたのですが、2015年に我が『長岡京エイリアン』であげていた≪資料編≫で触れた「当時カットされた最終章」に登場した「道化師のような姿をした女」というのは、ズロース姿になったマクロウ先生のことのようです。マクロウ先生、はっちゃけすぎです!

 ここで、ミランダ、マリオン、マクロウ先生の3人が謎の異空間に引き込まれて失踪し、アルマだけが取り残されたという経緯を最後に持ってくれば、この作品はオーストラリアのアボリジニあたりの信仰する土着の山神様が、よくわかんないけどモスリン地のワンピースにヒール付きブーツという、山をナメにナメきった服装で登ってきた娘さんと、勝手にマセドン山の魅力に憑りつかれた中年女性を、うっかりお供え物と勘違いしてもらっちゃったという、日本昔話のやまんばみたいな怪談になるわけだったのですが、ここからマイクルの若さゆえの暴走捜索作戦とか、不祥事に焦るアップルヤード校長の自滅とか、帰ってきたアルマの哀しい青春の終わりとか、さすがは老練! 70歳の筆の真骨頂が始まるわけなのです。起承転、ときて、「結」だけがもんのすごいふくらんじゃってるよ、おばあちゃーん!! じゃあもう、ハンギングロック失踪事件は「転」じゃなくて「起」でいいじゃん!みたいな、決定的な路線変更があったわけなのです。編集者の方が、「失踪の真相より、女学校の崩壊のほうが百倍おもしろいわ!」と感じたのも、むべなるかな。

 あと、私は創元推理文庫版の原作小説と、カルチュア・パブリッシャーズからリリースされた116分の「映画公開版」、そしてSPOからリリースされたウィアー監督による107分の「ディレクターズカット版」を読んだり鑑賞したりしたわけなんですが、「映画公開版」が非常に原作小説に忠実であることと、「ディレクターズカット版」がマイクルとアルマ、というかマイクル周辺の物語を意図的にカットしている編集になっていることを強く感じました。
 正直、ディレクターズカット版を製作しなければならない程に映画公開版がかったるいとか、話はこびに難があるとは思わないのですが、映画公開版だと、ファーストインプレッションでマイクルが一目ぼれしたのは明らかにミランダなのに、中盤以降にロマンスが生まれるのは生き残ったアルマなので、マイクルなんやねんという腰の軽さ(別にミランダと交際していたわけでもないので浮気でも何でもないのですが)が多少気にかからなくもないのですが、それは原作小説がそういう流れなんでねぇ。それよりも、アルマが本当に自分を救助した張本人として好意の念を寄せたアルバートが、身分の違いを理由にあえて彼女に冷淡な態度をとるという愛情のすれ違いに、原作者リンゼイの筆の真価を観たような気がしました。こういうとこがいいんだよね~!!
 蛇足ですが、ディレクターズカット版でカットされたシーンの中では、ハンギングロック捜索でアルバートに発見されたマイクルが、記憶喪失に陥るほどの心身衰弱状態に陥っていたという内容の会話も含まれていました。うそ、そんなにマイクルやばかったの? ディレクターズカット版だけ観てると、そこまで命を賭けていた事情が分からなくなってしまうので、ちょっと突然のように無口になって物語からフェイドアウトしていくマイクルの様子が「?」になっちゃうんですよね。いろんな意味で不憫だな、マイクル!

 それから、こうやって何回も、この『ピクニック at ハンギングロック』という迷宮に魅せられて何度もそぞろ歩きをしてみますと、あれっ、この作品、ハンギングロック失踪事件とかよりもおいしい要素を華麗にスルーしてませんか? と気になってしまう部分があるんですよね。

 それが、「サラの死の真相」と、「サラとアルバートの関係」なんですよ。こっちのほうがよっぽど謎だわ!

 サラの死に関しては、アプ女の校舎屋上から投身自殺したような状況がラストで矢継ぎ早に語られるわけなのですが、遺体発見当日の朝に「サラが荷物をまとめて退学して行ったわ。」と校長が語るのみで、実際にそうしているサラを見た人が誰もいないこと。そしてサラの死を知らないはずの校長が、なぜかすでに喪服を着て異様な落ち着きでサラの遺体発見の報にふれるという描写。う~ん、あやしい! 果たしてサラはいつ、どういった経緯を経て、その身を屋上から投じることとなったのか……にわかに自殺とは信じがたいような。
 もっと言うと、ディレクターズカット版でカットされたシーンの中には、その前日の深夜に、「サラがいない」彼女の部屋を校長が物色するという、意味深にもほどのあるくだりがありました。つまり、ウィアー監督はサラと校長の因縁もそんなに強調したくはないのかな? だいたい、ビックリするほどあっさりとした「ナレ死」でかたづけられる校長の死に際にサラの幻影が現れるというあたりもカットされてるんだもんね。でも、映画後半のサラと校長との魂の対立は、演じた女優さん2名の実力もあいまって、この映画の第二の主軸になっていると思います。サラと校長は、本質的に似ている。だからこそ憎み合うという、このアンビバレンツ!

 そして、サラとアルバートという、映画の中ではついに最後まで一度も会うことのない2人が、それぞれの世界にいながらも、かつて孤児院で一緒に苦労を分かち合った「兄妹」として互いを想っているという、この哀しき運命よ!
 ふつう、映画というフィクションの世界ならば、だいたい2人ともそうとう近い場所で生活してるんだからどこかで偶然に再会したり、うまくいけばサラの死の真相をアルバートが知って校長への復讐を誓うといったあたりの王道の展開に突っ走りそうなものなのですが、特にそういった劇的な展開もなく映画が終わってしまうといったクールさが、ものすご~く意地悪で、ものすご~くおもしろい!! 「うぉお~い、アルバート何もせんで終わんのか~い!!」みたいな、ツッコミ待ちとしか思えない伏線の放り投げっぷりが、たまらなく豪気なんだよな~! オーストラリアだけに!!

 ほんとね~、この映画、大好きなんだよなぁ。別にウィアー監督の作品ぜんぶ好きってわけじゃないんですが、この映画は別格なんですよ。
 だもんで、あっという間に字数もかさんできましたので、これ以外、映画を観て感じた好き好きポイントは以下のように簡単に列記させていただきたいと思います。ほんとに頭っからしっぽの先まで大好きな、たいやきみたいな作品なんです。


・開幕から、字幕という極端に簡素な形式で「女学生たちがピクニック中に失踪しちゃいましたとさ。」と結果を伝え、そこからおもむろにピクニック当日の一日が始まるという、まさに映画の定石をぶっ壊しまくった「ぶっちゃけ戦法」! それもきわめて静かに淡々と進むのが、たまらなくクール!! 最初の6分間で完全に魂を奪われちゃう。当然、ブルース=スミートンによるオカリナみたいな素朴な笛主体の音楽も、作品の独特すぎる雰囲気作りに大いに貢献している。とにかく最高なオープニングなんだよなぁ。
・真夏のバレンタインデーに浮かれまくり、さらには待ちに待ったハンギングロック遠足ときてテンションMAX の女学生たち。ただ、開幕であの字幕を読んでしまった観客は、「ああ、この中の何人かが、これから……」とゾクゾクしてしまうわけで、こうした画面中の楽しい空気と観客の不安感との温度の乖離は、まったくもってウィアー監督の策略通りなのである。物語の内容でなく、作品全体の大枠の演出でサスペンスを生み出すというこの作戦は、もしかしたら『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)とか『クローバーフィールド』(2008年)とかいった「モキュメンタリー映画」の系譜に連なるものなのかもしれない。そして、それらのどれよりも洗練されていて、どれよりも美しい!! 山本直樹のマンガ『レッド』(2006~18年)にも通じる超意地悪な、神視点からの演出ですよね。
・正確には制服とは言わないのだろうが、アップルヤード女学校(以下、アプ女と略称)の学生さんは全員、着る物はきつめのコルセットを巻いた上からの真っ白なモスリン地のワンピースに、こじゃれたカンカン帽風ストローハットで統一されているらしい。たぶん、校長が指定している条件に合う衣服を各家庭で用意する形式なのだろう。つまり、かなり似ていながらも、実は一人一人がそれぞれの衣装にキャラクターに沿った微妙なアレンジを加えているというわけで、ここらへんも芸が非常に細かい。昔も今も、ティーンのこだわりは細部よね! それにしても、白いワンピースと真っ黒いストッキングの対比が……露出度が低いのに、なぜこんなにやらしいの!?
・19世紀末のオーストラリアのバレンタインのプレゼント合戦は、チョコレートじゃなくてラブレターなのね! 寄宿制の女子校なので、女性同士の疑似恋愛も当たり前~! 登場して数秒でわかるワケあり生徒サラのメンヘラ気質と、サラに目をつけられた美人生徒ミランダの引きっぷりが実にリアルである。百年以上経っても、青春のドロドロは変わらないのねぇ。
・アプ女の校舎は、いかにもヴィクトリア朝のイギリス建築様式を踏襲した瀟洒な洋館なのだが、乗合馬車で町を出るとすぐに『マッドマックス』みたいな荒涼とした大地になってしまうのが、アプ女の「浮きまくった存在感」と「箱庭のようなリアリティのなさ」を象徴しているようで見事である。ちょっと離れたら毒ヘビ毒アリうようよの危険地帯って、ドラクエか!? オーストラリアあるあるなのかなぁ、これ。
・うら若きアプ女の娘ッコたちがキャーキャー言いながら行く先が、味もそっけもない標高150m そこそこの岩山なのが、なんと言うか隔世の感がある。それだけ娯楽のない時代だったのだろうし、寄宿制学校の締め付けのすさまじさの反動なのだろうが、今どき幼稚園児でも「……何ソレ。」と氷点下のリアクションを返しそうな遠足先である。『ブラタモリ』のコアなファンくらいじゃないの? ハンギングロック見て興奮するの。
・引率のマクロウ先生(数学)による、乗合馬車内でのマセドン山とハンギングロックの由来解説なのだが、数学の先生とはにわかに信じがたい情緒的な表情で語るので、異常に引き込まれる。ただの説明なのに! 演じるヴィヴィアン=グレイの実力がきらめくシーンである。
・マクロウ先生の「百万年前にできたマセドン山」という話を聞いて、「じゃあ、あのお山は百万年も、わたくしたちが来るのを待っていらしたのね~☆」とムチャクチャな論理を展開させる生徒アルマ。なんだ、このナチュラル天動説娘……若いって、こわいね!
・フィッツヒューバート家のおぼっちゃまマイクルと、その家のお抱え御者アルバートとの会話シーンで垣間見える、歴然とした身分の差がわかりやすい。人からもらった飲みかけの酒瓶の口を上着でぬぐうマイケルと、顔にたかるハエをものともせず話し続けるアルバート。対比がうまいね~。
・アップルヤード校長じきじきのマンツーマン圧迫補修授業でも、物怖じもせず自作の詩を朗読しようとするサラ。あっぱれ、中二病の鑑よ!!
・マセドン山へ遠足って、登山せずに麓の広場でバレンタインのケーキを食べてまったりするだけなんかーい!! 最高じゃないか……真夏の午後のけだるい雰囲気が実に克明にフィルムに収められている。
・御者のハッシーと、マクロウ先生の腕時計がどっちも同じ12時で止まっているという符号が、不気味な出来事の始まりを告げている。その辺の空気の持っていき方が、つくづくうまい。
・ただ昼寝をしているから動かないだけのフィッツヒューバート夫妻の脇を、元気ハツラツなアプ女の4人組が走り抜けるというだけのカットが、現世とあの世との時間の流れの違いをあらわしているようで妙にシュール。若者の「動」が向かう先があの世で、老夫妻のいる「止まった世界」が現世なのだという逆転も、面白い。
・マイクル主観の画面になった瞬間に、動きがスローモーションになるミランダ。マイクル露骨だな~! でも、それが青春。
・アプ女の4人組がマセドン山頂のハンギングロックに近づいた時点で、日差しがやや西日になっているのが、観客の不安をいやがおうにもあおる。平和な時間は、もう残り少ない!
・それにしても今さらなのだが、アプ女の指定衣服は登山に100%向かない!! 標高150m とはいえ、山をナメにナメているとしか思えない! 案外、彼女たちのそういった姿が山の神の怒りに触れたから、神隠しに遭ったのかも……日本の山でこんなことしたら、やまんばが黙っちゃいねぇぜ!!
・アプ女の4人組が登山するシーンで、いかにも危険な旅に出るといった感じのかなりドラマティックな音楽が流れるのだが……標高150m じゃん? モスリンのワンピースにヒールブーツで登ってるんじゃん? おおげさすぎでしょ! でも、お嬢様からしたら、確かに真夏の大冒険だよね。ここらへんの、ひたすらミニマムなスケールも面白い。
・他の3人と観客の予想通りに、マセドン山登山に速攻でバテて下山したいと泣き言を漏らすふとっちょ生徒イディス。やっぱり、デb ……ふくよかキャラはそうこなくっちゃ!
・きたきたきたー、黒いストッキングとブーツを脱ぐだけなのに異様にエロいしぐさ!! 4人の中でイディスだけが脱いでいないことからも、明らかにこの行為があの世に行くパスポートになっていることが示唆されている。
・イディスが太っちょキャラとして100点満点の足手まといっぷりを発揮しているのに対し、メガネのマリオンも負けじと、山頂からふもとの生徒や先生たちを見下ろして「なんだかアリみたい……生きる目的もないクセにわらわらと。」と、たいがいメガネキャラっぽい中二病発言を展開させる。こういうキャラクターの色分けの明瞭さも少女マンガっぽいよね。
・たま~に挿入される、ハンギングロックのてっぺんから4人組を見下ろしたようなカメラ視点が非常にこわい。誰? 誰が見てんの!?
・映画が始まって35分で4人が失踪するわけなのだが、ここからがこの映画の真の実力の発揮されるところである。あと3分の2を、オチなしでどうやって進めていくのか!?
・バンファー巡査部長の質問に答えるマイクルの発言が、微妙に事実と異なっているのが非常に興味深い。イディスが3人に遅れて歩いていたのは、マイクルが最初に4人組を目撃した小川の地点よりもずっと上の山頂付近のはずなのだ。ということは……? またマイクルは、なぜミランダを特別視していることをバンファーに隠しているのか……単に恥ずかしいからか? それとも……
・イディスの発言により、「赤い雲」と「ズロース姿で山頂に向かうマクロウ先生」という異常なヒントが! これ、ヒントか? 混乱するだけなんですけど!
・やめとけやめとけと言いながらも、ハンギングロックに探しに行くと言ってきかないマイクルを無下にできず手を貸すアルバート。それでこそ漢だ!! 女子には女子の、男子には男子の友情のかたちがあるんだねい。
・アリ、ハエ、セミ、トカゲ、クモ、ハデな色の鳥ときて、映画が始まって54分10秒後にしてついに、オーストラリアダンジョンの真打「こあら」が満を持して登場!! うをを~、マイクル決死の探索シーンなのに、ぜんぜん緊迫感が生まれないぜ!!
・さらに開始58分55秒後には、あのエリマキトカゲも参戦!! 盛り上がってまいりました!!
・丸2日かけたマイクルの探索も無駄足に終わったかに見えたのだが、その握りしめた拳の中には……という展開が実にうまい。ひっぱるねぇ~!!
・いくら捜索しても見つからなかったのに、失踪して1週間後に1人だけ生還するという異常事態に、ウッドエンドの町民も混乱して暴徒化の一歩手前まで行くという描写が非常にリアル。憔悴するバンファー巡査部長の視点も入れて、アプ女だけの話にしないところがこの映画の上手なところである。『八つ墓村』みたい!
・セリフもないモブなのだが、アップルヤード校長がアルマの保護を伝えた時に、サラの後ろに立っている背の高い生徒さんが非常に美人! なんちゅうもったいないことを!! なんか、なんかしゃべる役、ないの!?
・アルマが生きて帰ったことよりも、学校行事中の失踪が不祥事として取り沙汰されてアプ女の評判がガタ落ちになることを危惧する校長。血も涙もないようには見えるが……経営者はつらいのよ!!
・岩山に1週間もいたはずなのに、脳震盪と爪が全部割れてすり傷だらけの手首以外、アルマに外傷がほとんどないことをいぶかる町医者マッケンジーと、アルマが脱いだはずのストッキングとブーツが発見されていないことが気にかかるバンファー巡査部長。そしてアルマの衣服には、なぜかコルセットだけが無かった……アルマは一体、どこにいたのか? 思わず、矢追純一の UFO特番の時に死ぬほど流れていたジングル音楽(『トワイライトゾーン』のやつ)が欲しくなってしまう展開である。♪ちゃらら~!ちゃらららら~ん!!どんどん!!
・事件解決の糸口が全く見えないこの非常事態の最中に、学費を滞納しているサラを退学処分にすると言い出す校長。一見、言うことを聞かない問題児のサラに対する大人げない八つ当たりのようでもあるが、サラの分の毎日の給食も惜しくなる苦境にあるのではなかろうか。校長、大変!!
・ベッドに横たわりながら、自分のつらい身の上話をしておいて、同情するメイドのミニーの手を振り払うサラ。これだ! このめんどくささこそが青春なのだ!! サラ役のマーガレット=ネルソンさんも、うまいな~。
・数秒間のイメージショットなのだが、マイクルの寝室になぜか生きた白鳥がいるというシチュエーションが、現実なのかマイクルの夢なのかがさっぱりわからず印象に残る。マイクル「なんでいんの……?」白鳥「さぁ……?」みたいな視線のぶつかり合いが妙におかしい。
・アルマの救出後、捜索隊やら新聞記者やらカメラマンやらガキンチョやらおばちゃんやら売店やらで、事件現場なんだか観光名所なんだかさっぱりわからなくなるマセドン山の変貌っぷりが、バンファー巡査部長の苦虫を噛んだような表情と相まって、非常に生々しい残酷さに満ちている。う~ん、19世紀末にもマスゴミはいたのか!
・せっかくアルマが復帰したというのに、集団ヒステリーにおちいり1人だけ生き残った彼女を責め立てるアプ女のモブ生徒たち! しかし、激高するポワティエ先生に平手打ちされるのがふとっちょイディスだけという、この不公平な世の中よ!! イディス「やっぱ私こんな高木ブーポジション!?」
・サラに対して異常な虐待をしていたラムレイ先生といい、徐々に酒と狂気の世界に溺れていくアップルヤード校長といい、2月14日の事件を契機に日常が崩れていくさまがものすご~く怖い……神隠しに遭った4人のように、きれいに消え去れない大人たちのけがれた末路のほうが、ずっとずっと怖い。
・終盤の校長とサラの確執と、それぞれの末路。こここそが物語の核心であり、唯一の「事件」だったのかもしれない。ハンギングロックで起こったのは、あくまでも「なるべくしてなった自然の事象」であり、単なるきっかけに過ぎなかったったのかも。プライベートでもアルコール依存に悩んでいたというレイチェル=ロバーツの演技がすさまじい。


 以上、泣く泣くダイジェストでまとめさせていただきました~。ともかく、数学のように論理的に、少女マンガのようにわかりやすく「幽冥あいまいな世界」を描いているという、それこそ北半球の人間からしたら「真夏にバレンタイン!?」みたいに両極端な要素のケミストリーがすばらしいんだよなぁ。ちょっと、山岸涼子さんの世界に通じるものがあると思います。きわめて単純な描線でドロッドロの情念をえがくような。

 ところで余談ですが、私がこの作品の存在を初めて知ったのはなぜか、我が『長岡京エイリアン』ではことあるごとにその名が登場する、イギリスの伝説の TVドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズからなのでありました。グラナダ! グラナダ!!
 なんでかっつうと、このシリーズの VHSビデオシリーズを買い集めていた時に(1巻2話収録で4千円くらい、日本語吹替えなし……)、第15話『修道院屋敷』にゲスト出演していたアンルイーズ=ランバートさんの経歴紹介で『ピクニックat ハンギングロック』のタイトルが出ていたんですよ。

「なんだ、この題名は……『首つり岩』でピクニック? 気になる~!」

 当時、中学生かそこらだった私は、このタイトルが妙に引っかかっていたのです。あと、アンルイーズさんがどえらい美人だったことも、なんとしてもこの作品を観てみたいという執心のきっかけになったかも……すいません、90%アンルイーズさんがべっぴんさんだからでした!
 作中ではその名の由来はいっさい語られなかったのですが、「ハンギングロック」という名前は、いやがおうにも大英帝国に排斥された先住民族アボリジニの悲運を暗示させるナイスネーミングですよね。そこにいかにも軽率な「ピクニック」を添えるバランス感覚が、たまらなく不穏な空気を醸し出していて最高なんですよ。

 ところでどうでもいいのですが、この作品は日本でのタイトル表記が異様にバラッバラで、創元推理文庫の原作小説とカルチュア・パブリッシャーズの映画公開版DVD が『ピクニック・アット・ハンギングロック』で、SPO のディレクターズカット版DVD と2018年の TVドラマリメイク版が『ピクニック at ハンギングロック』、Wikipedia の記事は『ピクニック at ハンギング・ロック』となっております。個人的には『ピクニック at ハンギングロック』がいちばん好きですね。ほんとにどうでもいい……

 最後に、アンルイーズさんをはじめとして非常に美しく演技力のある俳優さんがたが大挙して参加しているこの作品なのですが、やっぱりこの作品の伝説化に最も寄与しているのは誰かといえば、そりゃやっぱり、アップルヤード校長役のレイチェル=ロバーツさんなのではないでしょうか。この作品の前年の『オリエント急行殺人事件』(1974年)でもいい味出してましたが、こっちでは見違えるようなプライド激高のヴィクトリア朝貴婦人になりきっていますね!

 自分の理想の結晶ともいえるアップルヤード女学校を創立し、厳しい教育を通して一流の英国淑女を生産して世に送り出すことにより、オーストラリアという(英国人から見たら)文明未開の大地を順風満帆に「開拓」している気になっていた校長。しかし彼女が人生を賭けて築き上げてきた「箱庭」は、ハンギングロックという得体の知れない自然の「ちょっとした気まぐれ」によって、もろくも崩れ去ってしまうのであった……彼女の人生とは、いったいなんだったのか。

 そういった校長の理想とその末路を考えると、酒に溺れ精神が崩壊していくその姿を真摯に演じるレイチェルの姿は、決して子どもに厳しく当たるだけのヒステリー教育者にバチが当たったというだけでは語れない悲哀に満ちていると思います。そして、この醜い最期があるからこそ、ラストのラストでポワティエ先生が思い出す、「すぐ帰ってきますわ~。」と輝く金髪をなびかせて振り向くミランダの美しさが、ひときわ観る者の心に迫ってくるのでしょう。ホントに計算され尽くしてるんだよなぁ、最後の1カットまで!

 人類が文明という武器を持って自然に立ち向かい、そしてその力の限界をまざまざと思い知らされる物語。それこそが、『ピクニック at ハンギングロック』の本質なのではないのでしょうか。だとすれば、この作品が日本にも受け入れられるのも全く無理はないのです。芥川龍之介の『神神の微笑』とか柳田国男の『遠野物語』、石原慎太郎の『秘祭』などに通じる「大いなる存在」が、そこには潜んでいるんですよね。そしてその上、ヒラヒラフリッフリのワンピースを着た美少女たちが画面狭しとはしゃぎまわるんですから、鬼にグレネードランチャーでしょ、こんなもん!

 『ピクニック at ハンギングロック』のアップルヤード校長と、『北の国から』シリーズの黒板五郎さんとの違いを考えてみるのも、また一興なのではないでしょうか。人間、謙虚さは大事だなぁ。る~るるるるる~!!
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たのしい悪夢はいつ醒める?  映画『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦』 ~本文編~

2022年02月06日 17時47分29秒 | 特撮あたり
≪資料編は、こっちら~ん。≫

 みなさん、どうもこんにちは! 相も変わらずそうだいでございまする。今日もいい日ですか? コロナ、かかってませんか? 私はもうヒヤヒヤの毎日ですよ!
 さて、今日も今日とて、コロナウイルスだの北京冬季オリンピックだの夢想だにできなかった8年も前の映画の感想文でございます。こんなの、自己満足でしかないよ~! 今、昭和でも平成でもなく令和よ!? 気ィきかせて『大怪獣のあとしまつ』でも観てきてレビューすればいいのにねぇ。ただ、我が『長岡京エイリアン』では、当面かの映画を観に行く予定はまったくありません。わかっちゃいないね……どんなに迷惑だろうが、死んだら怪獣は怪獣ではない! そんな粗大ごみに興味はない。生きてこそ神秘、生きてこそ怪獣!! それに、そんなネタ、『ティガ』か『ダイナ』でとっくにやってましたよね。

 で、今回は仮面ライダーなんですけれども、あの平成ライダーシリーズの「鬼子」ともいえる禁断のお祭り作品『仮面ライダーディケイド』が開いてしまったパンドラの箱・「クロスオーバーシリーズ」! その第7弾である、映画『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』(2014年3月29日公開 98分 東映)についてのあれやこれやを、ぶつぶつつぶやいていきたいと思います。いや~、これは公開当時、かなり意気込んで観に行きましたね。
 そういえば、この作品を映画館で観た当時、私は就職に向けた修行がてらアルバイトをしていたのですが、バイト先で何気なくこの映画を観たと誰かに話をしていたら、それまでそんなに親しくもなかった職場のギャルっぽい20代前半の娘さんが、それまで見たことも無いキラッキラした瞳をさせて、

「で、平成と昭和、どっちが勝ったんですか!?」

 とグイグイ聞いてきたのには驚きました。まさか隠れライダーファンだったとは! 平成ライダーもイケメンばっかだしねぇ。

 まぁともかく、当時はあの藤岡弘、が本郷猛として初めて平成ライダーシリーズに登場するという話題性と、従来の共闘パターンでなく、真正面から昭和ライダー陣営と平成ライダー陣営が大抗争を繰り広げるらしいヨという触れ込みは、「いよいよクロスオーバーもここまで来てしまったか……」という驚愕をもたらしたのでありました。
 ただ、フタを開けてみれば、そりゃもうどっちも正義の味方であることに変わりはないのですから、どちらかが全滅するような結末もあるはずがなく、わざわざ昭和勝利と平成勝利の2パターンが撮影された本当のクライマックスにいたるまでは、多少の考え方の違いはあったとしても、昭和チームは平成チームの厳しい先輩といった感じのポジションで、若者らしい甘さもある平成チームを叱咤しつつ、両チーム共通の敵であるバダン帝国に立ち向かうのでした。ここらへんは、今までの大ショッカーやらスーパーショッカーやらを相手にしていた過去作とほぼ一緒ですよね。

 お話に入っていく前に、まず今回の敵組織・バダン帝国の重要な大幹部である、このお方についてのあれこれを。

謎のバダン帝国最高幹部・暗闇大使とは(Wikipedia より)
 バダン帝国の最高幹部。雑誌連載版『仮面ライダーZX 』第3回(1982年9月)より登場。ショッカー大幹部・地獄大使の従弟であり、通常改造人間の二回りほど大きいベルトにバダンの紋章が刻まれていること、兜の頭部中央に角があること、全身が金と銀を基調としていることを除けば、地獄大使と外見がよく似ている。演者も、地獄大使を演じた潮健児(当時57歳)である。
 冷酷無比な性格で、使命感が強い。地獄大使に見られた粗忽さがなく彼を軽蔑しており、劇中で仮面ライダー1号に「おのれ、地獄大使!」と間違えられた際には「地獄大使だと? あんな奴と一緒にするな!」と一喝する一幕を見せた。仮面ライダーの打倒が果たせなかった地獄大使に代わってその野望を果たすことで、自分の優秀さを証明しようとしている。
 右手の甲に生えた高電圧の電磁ムチと、左手のカギ爪を武器とする。また、体内には時空破断システムのコントロール装置が埋め込まれている。
 その正体は、サザエの能力を持った最強改造人間サザングロス。

 本名はガモン。アメリカ合衆国サンフランシスコのスラム街出身で、サンフランシスコでの幼少時からフランス領インドシナ半島でのゲリラ戦線に至るまで、自身より3ヶ月早く生まれた従兄のダモン(のちの地獄大使)の影武者を務めてきた。ガモンは常にダモンに利用される立場だった。
 その有能さを見込まれてショッカーからスカウトを受けたガモンとダモンだが、東南アジアの山岳ゲリラ内での仲間の裏切りに遭って重傷を負う。2人はショッカーによって改造手術を受け改造人間として蘇生させられるものの、恋人の死によるショックやダモンへの反発心もあってガモンはショッカーから逃亡して姿を消し、やがてアマゾン奥地に隠れ潜んだナチス残党と結託してバダン帝国の基礎を作り上げる。
 バダン帝国最高幹部・暗闇大使となったガモンは、ショッカー大首領が歴代の秘密組織や大幹部を使い捨てていく様子を陰から見つめるうちに、自分が逃げた理由がダモンへの憎悪だけでなく、大首領に関われば破滅すると本能的に感じていたからだと悟る。しかし結局は大首領の思念から逃れきることができず、従兄の地獄大使と同様の末路をたどることになる。
 映画『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』では、外見は映画版『仮面ライダーディケイド』でデザインが一新された地獄大使と同じ黒い鎧をまとっている。

おさらい!! 仮面ライダークロスオーバーシリーズの歴代悪の組織
1、『仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』(2009年8月)…… 大ショッカー
2、『仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010』(2009年12月)…… スーパーショッカー
3、『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』(2011年4月)…… 2011年まで存続したショッカー
4、『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX』(2011年12月)…… 財団X と超銀河王
5、『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』(2012年4月)…… ショッカー・ザンギャック連合
6、『仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z 』(2013年4月)…… スペースショッカー
7、『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』(2014年3月)…… バダン帝国


 というわけで、今回は『仮面ライダーZX 』に出てきたバダン帝国の復活であります。とは言っても、その実態は2014年までの歴代悪の組織の有名どころの再集結という、いつもの感じですよね。
 今回、オールブラックにリニューアルされた暗闇大使がかなりカッチョいいです。大杉漣さんのブラック地獄大使はいまいちピンときませんでしたが……そうそう、「暗闇」なんだから、ギラギラゴールドの昭和の原典よりも、こっちの方がそれっぽい! 演じる菅田さんも非常にハイテンションな哄笑でいい感じ。
 そんで、まぁある程度のライダーファンであれば、キャスティングを観た時点でピンとくるわけなのですが、今作での暗闇大使は非常に特殊な立場にありまして、ネタバレになるのではっきりとは申せないのですが、「暗闇大使本人」ではないんですよね。その正体が披露されるくだりは、「彼」にとって悲願のスクリーン独占だったこともあって非常に良かったのですが(それまでの『ディケイド』とかでの客演はカウントにならないよ!)、「じゃあ、いつ入れ替わったの?」というあたりについて語る尺がなかったのは実に惜しいことでした。できれば、昭和の『ルパン三世』式に、すっぱだかに縞のパンツ一丁になった本物の暗闇大使が、バダン帝国幹部着替え室のロッカーの中で、後ろ手に縛られて猿ぐつわをかまされた状態で「ムゴー!ムゴー!!」とかいってるところをコンバットロイドに発見されるくだりが観たかったのですが、しょうがないよね。でも菅田さん、本来の姿に戻ってもかなり悪役っぽかったぞ! それだけ潜入捜査は過酷だったのだ……映画『ディパーテッド』のディカプリオみたいなもんですよね。
 ところで、これだけは釘を刺しておきたいのですが、バダン帝国総統の声……そりゃまぁ似ているのかもしれないけど、ショッカー大首領とかの声を演じていた頃の納谷さんではないよね!? いらねぇっつうのよ~、ヨボヨボ味はよう!!


 この映画、いろいろ語りたいこと、気になったことはたくさんあったのですが、私としましてはおおむね楽しめたと言いますか、それまでのクロスオーバーシリーズの不満点を解消していると感じた部分がけっこうありました。単純に面白かったです。

 いちばんいいなと感じたのは、さすがに15名 VS 15名の対決なので全員というわけにはいかず数名にスポットライトを絞りながらも、現役チーム以外にも比較的丁寧な描き方がされている客演ライダーが数名いたこと。今作の場合、平成ではファイズとディケイド、昭和では1号、 X、ZX あたりが、もはや鎧武チームを喰っちゃう勢いでバンバン出てきてましたよね。コメディリリーフとして、探偵稼業を嬉々としながら続けている Wが観られたのも良かったです。
 特にファイズの扱いは、TV 本編の直接の後日譚ともいえる内容になっていて、回想シーンや亡霊の形でありつつも、あの草加雅人さんが、サブライダーならば誰でもいいようなゲスト扱いでなく、ちゃんと新規撮影で物語の重要に絡んできたのは素晴らしかったですね。ほんと、『仮面ライダー555』は愛されてるなぁ!

 また、映画の主軸となるシュウ少年と父レン(仮面ライダーフィフティーン)、母サキの親子の物語に、主人公であるはずの鎧武を差し置いてズズズイと入り込んでいくディケイドこと門矢士の存在感が、ずるいくらいに大きいのなんのって! 最後にバダン帝国に捕らわれたシュウ少年を助け出すの、ディケイドなんだもんね。しかも、その時にシュウにかける「よくがんばったな。」という言葉のあたたかさは、まごうことなき仮面ライダー1号の熱き血を継承する正義のヒーローのあかし!! もはや鎧武の映画じゃなくて『仮面ライダーディケイド』の「平成 VS 昭和の世界」編だこれ!! 本作は、ファイズの後日譚であると同時に、ディケイドの本当の「完成の物語」なのかもしれませんね。もっとも、どちらの旅もまだ終わりそうにはありませんが。
 序盤の初登場シーン、例のカメラを持った士がちらっと出て来ただけなのに「うわーヤバい奴きた! これからお祭りが始まるぞ!!」なゾワゾワ感がハンパなかったですよ。なんてったって、どんな仮面ライダーに出遭っても平然と状況を把握して「だいたいわかった。」で済ませられるお人なんですから。クロスオーバー映画のストーリーテラー役として彼以上に使い勝手のいいキャラもいません。歩き方もかなりスムーズになって余裕しゃくしゃくな感じになったし、先輩の乾巧に上から目線で「仮面ライダーの道」を諭すしで……士、というか井上さん、ほんと成長したな~!! 隣に青いストーカーがいないのが少々寂しいですが。
 現役時代以降、様々な経験を積んでここまで士がオンリーワンな存在になってしまった以上、見方によっては孤高で不気味なジョーカーでもあるそのポジションは、かつての鳴滝さんに限りなく近くなっているわけで、こうなると鳴滝さん、いらないよね。物語全体の説明、もう士がやれますから! でも、今作でも鳴滝さん、出てくるんだよなぁ。ゾル大佐とドクトルG になった分際で、よくもノコノコと……あ、漫才コンビという意味で、士には鳴滝さんが必要なのかな? だったらいっか。

 今回の映画は、シュウ少年をめぐる「過去を後悔する人々」の物語とファイズの物語が絶妙にリンクしている部分が魅力なのですが、そういったちょっと深刻になりがちな本筋をカバーするべく、「平成アップデート版本郷猛のおでまし」、「神敬介と港町の面々」、「左翔太郎のズッコケ探偵稼業」、「ディケイド VS フィフティーンのライダーものまねバトル」といった彩りもバランス良く配置されており、エンターテイメントとして結構いい感じにできあがっていると思うんですよ。本郷が大真面目に「アーマードライダーなどと浮かれてるようだが」と語る、その破壊力! この一言で、昭和が平成にケンカを売っている理由が丸わかりですよね。そりゃまぁ、立花のおやっさんと採石場で汗だくの特訓をしないとパワーアップできなかった世代からしたら、なんかよくわかんないオモチャみたいな道具でホイホイとフォームチェンジできる奴らはそう見えるか。
 また門矢士に限らず、左翔太郎も乾巧もかなりできあがっている濃い~キャラクターばっかりなので、中盤の脱線パートもなにかと楽しいですよね。過去出演陣のこういった夢の競演形式で、 TV本編の撮影で忙しい『鎧武』チームの穴を埋めるのって、便利だし豪華でいいなぁ! これが長期シリーズの強みでしょうか。細かい配慮として、翔太郎も巧も神敬介も、ちゃんと生活にバイクがあるのが心憎い! なんたって仮面ライダーだもんねぇ。

 主要キャスト以外の脇役陣を観ても、巧と敬介のいる食堂よしだやに押し入る指名手配犯の役を、今作で仮面ライダーフィフティーンのスーツアクターを務めている富永研司さんがノリノリで好演していたり、大ケガを負って敬介の医院に運ばれた漁師マサの役を、あの「ブラァーッ!!」こと岡元次郎さんが熱演していたりするお遊びがほほえましいです。スーツアクターが脇役を演じるのも、昭和ライダー以来の伝統よね! こういうノリ、まさにお祭り感があって最高ですが、これらが単なるマニア向けのサービスでなく、指名手配犯を真正面から説得したり、患者に時に厳しく接したりする敬介の生きざまを語るディティールとして機能しているのが実にうまいです。
 要するに、ただの恒例オールスター出演ものにはしたくないという意気込みが随所から伝わってくるのが、本作のいいところだと思うんですよね。ただずらずら~っと有名な歴代ライダーが出てきても子どもは喜ぶのでしょうが、もっとそれ以上の何かを目指すために、どこかに明確な照準を合わせてじっくりと語っていく。「巧と敬介」パートは特に、そういった野心的な姿勢に満ちていると思いました。こういう形の昭和と平成のカップリング、もっと観たかったなぁ~!


 だがだが、しかし! こうやってほめてばっかりでもいられないのがファンのつらいところなのでありまして……やっぱり本作でも、なんだか納得のいかない部分はあったんですよね。

 なんといっても一番気になったのは、本作における敵組織バダン帝国が、いったい死んでいるのか生きているのか、そこがはっきりしないところ!
 中盤で明らかになる、シュウ少年が実は〇〇だったという衝撃の展開は確かに意外なのですが、だとしたら、そのシュウ少年を利用して地下と地上とを逆転させようとするバダン帝国は何者なのか。全員、一度は仮面ライダーに敗れて地下の黄泉の国に叩き落とされた死者たちなのか、それとも、黄泉の世界の死者を利用して地上世界を混乱させ、それに乗じて世界征服を果たさんとする生者の組織なのか?
 後半で暗闇大使は、バダン帝国の侵略計画を語る際に自分たちのことを「亡者」と呼んでいるのですが、ライダーと闘っているバダン帝国のみなさんは、まず物理的に殴り合っていますし、負けるとフツーに爆死します。今までのショッカー系の「生きた」悪の組織と、なんら変わりがないのね! ということは、今回のバダンのみなさんもまた、何かの拍子に偶然見つけた「なんでもひっくり返す」超能力を持つシュウと、地下の黄泉世界に頼りっきりの他力本願なチンピラにしか見えないのですが……ま、他力本願なのはショッカー以来の伝統ですけどね。
 あえて好意的に解釈するのならば、バダン帝国総統がすでにシュウの超能力に近い機能をわずかながら手に入れていて、少しずつ身近な手駒をシコシコと実体化(再生)させて地上に送っていたからこそ、地上でライダーたちと闘う者たちはふつうに肉体を得ていた、ということになるのでしょうが……そこらへん、説明不足すぎない!? だいたい、地上と地下との見た目の違いが全然ないので、鎧武たちがどっちの世界で闘っているのかがよくわからなくなるんですよね。人が少ない以外にも、もうちょっと地下世界の特徴を出しても良かったのでは? 空の色とか。
 バダン帝国の先兵になっているレン(フィフティーン)が、顔色の悪いメイクをしているために生きているのか死んでいるのかがはっきりしないのも、地味にミスリードになっていて意地悪ですよね。彼の、シュウが地上に出てきたら母親のサキが喜ぶぞという説得の仕方も、その理屈がよくわからない。シュウが来たらサキは地下に行くんじゃないの?
 クライマックスになって地下から出てくる、そこらへんをふよふよ漂っている紫色の煙みたいな亡霊たちと、しっかり実体化しているバダン帝国の改造人間たちがどう違うのかもよくわかんないしね。ともかく、そこらへんが「うん、まぁ、雰囲気でわかってね。」みたいな大雑把なくくりになっているのが気持ち悪いんですよ! 死者の集団なんだったら、バダン帝国なんてしゃっちょこばった組織名にしないで、「故・ショッカー」にしといたらよかったのに。そういう無駄にプライドの高いとこが敗因なんですよ、総統~!!

 結局、昭和 VS 平成の噛ませ犬として登場するんだったら、設定うんぬんなんかどうでもいいという本音が聞こえてくるような気もしないではないのですが……そこらへんが、ご用とあらばいつでもどこでも復活してくる悪の組織の立場の弱いところなのよね~! でも、オリジナルに対する適切なフォローも敬意もなく「おれたちもバダン帝国ですが、なにか?」みたいな演技をさせられるジェネラルシャドウやジャーク将軍の身にもなってちょうだいよ……大神官バラオムの実にやる気のないたたずまいなんか、見ていて涙が出てきますよ!
 まぁ、TV本編で因縁のあった仮面ライダーBLACK RX に引導を渡されたぶん、ジャーク将軍は比較的マシな扱いはされていたのかもしれませんが、仮面ライダーBLACK とBLACK RX が別の人間という解釈は、平成ライダーシリーズのデフォルトなのか? 将軍、かわいそう!


 こんな感じに言いたいことをつれづれに書きつらねてまいりましたが、今回もまたいい加減な字数になってきましたので、あとはこまごま気がついた点と、バダン帝国のみなさまの活躍の記録をまとめてみたいと思います。いやぁ、なんだかんだいっても面白いポイントがそこかしこにあって、やっぱ楽しいやね!


・映画冒頭から昭和ライダー(ストロンガー、スカイライダー、J )と平成ライダー(カブト、フォーゼ、鎧武)の大混戦が展開されるのだが、既視感は否めない。開始1、2分でもうおなかいっぱいなんですが……
・シュウ少年の「なんでもひっくり返す」超能力がスタンドみたいでおもしろい。使いみちが意外と難しいが……これ、ロボット的なコンバットロイド相手に使ったらコミカルに処理されてたけど、生身の人間にやったらどうなるんだろう? 諸星大二郎みたいな上映不可能な惨事になっちゃうのか?
・変身したとたんに、なんかスリムになる仮面ライダー1号。ていうか、変身する前のほうが強そうなんですが……
・今作での戦闘員キャラであるコンバットロイドを相手に必殺技「ライダーキック」をかます1号が大人げないように見えるのだが、思えばコンバットロイドだって、1号が闘っていたショッカー戦闘員から数えて9世代目くらいに当たるわけなので、多少は歯ごたえのある強さになっているのかもしれない。たぶん、ショッカーの蜂女とかコブラ男(改造前)よりは強いんじゃないだろうか。そうでなくっちゃ、散華していった無数の歴代戦闘員さんがたのみたまが浮かばれねぇよなぁ。
・ヤマアラシロイドの平成リファインデザインがけっこういい感じにカッチョいい。相方のタイガーロイドが昭和のまんまなのは気になるが……昭和の時点で完成されてるもんね。
・バダン帝国大幹部として登場したジェネラルシャドウの声が柴田秀勝さんじゃなーい!! これはバダン帝国、負けたな。
・今作における悪の仮面ライダーこと、仮面ライダーフィフティーンのデザインは、頭の「十五」こそダサすぎるのだが、武田信玄の「諏訪法性兜」や後藤又兵衛基次の「熊毛総髪形兜」みたいな毛の生えた兜をイメージしていると考えれば、なかなか個性的で面白い。でも、ヘッドに対してボディスーツがちょっと貧相なんだよなぁ。でっかい剣も持つから、なおさらね。
・板尾さん、蜘蛛男役、電人ザボーガーの主役ときて今度は悪のライダー役ですか! やるなぁ。
・ヤマアラシロイドに「どけ!」と言われているあたり、仮面ライダーフィフティーンの新人改造人間としての立場の低さが見て取れる。映画『仮面ライダー対ショッカー』のザンジオー以来の、厳しい伝統ですよね! 悪の組織は年功序列にうるさいのだ。
・本郷猛に続いて神敬介も、 Xライダーに変身するとちょっぴりスリムになる。いい機能だな……
・昭和ライダーと平成ライダーが対峙したシーンで、仮面ライダー1号が話しかけているのが門矢士という時点で、このお話の主人公が誰かがわかりますよね。露骨!
・平成ライダーたちの死者への未練がバダン帝国を生んだという、1号の論理がよくわからない。せいぜい「バダン帝国のメガ・リバース計画を助長した」くらいじゃないの?
・数十人 VS 数十人の殺陣シーンを3分間もたせるって、制作スタッフにしてみたらとんでもないムチャぶりですよね……変幻自在のカメラワークはもちろんのこと、今回は市街戦であることに加えて、だんだん日が傾いて夕陽になって行くところが新機軸かなと思いました。お仕事ご苦労様です!!
・「めんどくさいから敵味方まとめて攻撃」という、映画『仮面ライダーV3 対デストロン怪人』のドクトルG 以来の愚策を繰り返すバダン帝国総統。おめぇがやっちゃあおしめぇよ!!
・あんなチャラチャラした格好でも、殉職の直前に「バダン、ばんざーい!!」と絶叫して散るヤマアラシロイドの実直さが涙ぐましい。ほんとはいい奴だったんだな……
・アクションの発想が面白いので観ていて楽しいは楽しいのだが、やっぱりスーパー戦隊の客演はいらねぇって……真剣勝負に水を差すっつうか、なんつうか。
・本作の目玉の強化フォーム「1号アームズ」……ねぇ……もうあれか、ダサいって思った方が負けなのか?
・昭和ライダー全員の力を結集した「ライダーシンドローム」をもってしても、1人の少年の命さえも完全に蘇らせることはできないというところに、作り手の良識を感じる。正義のヒーローだからって、なんでも願いが叶うってわけでもないのよね。
・あくまでも平成ライダーの甘さに鉄槌を下すことを忘れない1号ライダー! 大事なことなので、わざわざ変身を解除してから通告して、また変身し直しました!!
・熱い、熱すぎるぞ1号ライダー! たぶん、昭和ライダーの中でも「もう昨日久し振りにずっと闘って寝てねぇんだからさ、なぁなぁにして帰ろうよ……」と、平成ライダー以上にうんざりしている人は何人かいるはずだ!! 先輩の妙なハイテンションに付き合わされるのって、大変ですよね。
・15 VS 15の、朝日の輝く海岸での決戦は非常に絵になるのだが……徹夜で闘う身になってみれば地獄そのもの! 還暦すぎもいる昭和組に、さすがにこれはキツい!!


画面で確認できる限りの、バダン帝国のみなさんのご活躍(コンバットロイドは省略)
本編開始して
38分30秒後 …… タイガーロイド、仮面ライダーファイズに敗れ殉職
49分35秒後 …… バダン帝国大幹部ジャーク将軍、仮面ライダーBLACK とBLACK RX のダブルライダーキックで殉職
~以降はバダン帝国と昭和&平成ライダー連合との最終決戦~
70分50秒後 …… ザンジオー、仮面ライダーZX の ZXキックで殉職
71分13秒後 …… カメバズーカ、仮面ライダーZO のキックで殉職
71分17秒後 …… バダン帝国大幹部ドラス、仮面ライダー響鬼の太鼓ドンドンで殉職
71分20秒後 …… バダン帝国大幹部マシーン大元帥、仮面ライダーV3 の V3キックで殉職
73分00秒後 …… その他全員、バダン帝国総統の高熱火炎弾により殉職、っていうか、これは一斉解雇かな?
76分05秒後 …… ヤマアラシロイド、仮面ライダーバロン、斬月・真、龍玄の3体同時攻撃で殉職
86分55秒後 …… 仮面ライダーフィフティーン、仮面ライダー鎧武1号アームズのライダーキックで変身ベルトを破壊され戦闘不能

その他の地下帝国バダンのみなさん
ヒルカメレオン、十面鬼ユム・キミル、ジェネラルシャドウ、剣聖ビルゲニア、大神官バラオム、コブラ男ガライ、超銀河王
さそり男、サボテグロン、ゴースター、ジャガーマン、毒トカゲ男、ギリザメス、シオマネキング、ガニコウモル、サドンダスβ、怪魔ロボット・シュバリアンなど


 さて、2009年いらい、東映ヒーロー映画の定番となりつつあるクロスオーバーシリーズも今回で7作目となり、振り返ってみれば「昭和ライダーの復活」、「昭和の悪の組織の復活」、「タイムトラベル if世界もの」、「スーパー戦隊との共演」、「宇宙刑事との共演」ときて、ついに「昭和ライダー VS 平成ライダー」まできてしまいました。
 とかく話題性の大きいシリーズではあるのですが、はっきり言ってこれ以上に世界設定や登場キャラクターの規模を拡大するのは無理なんじゃなかろうか……実際、今作だってクローズアップされるライダーの人数は6~7人が限界でしたし、よくよく観れば、キャラクター造形の点で諸先輩がたに大きく溝をあけられていた現役『鎧武』チームの肩身が狭いという主客転倒な状況にもなっていました。経験の厚みが違うんだもの、しょうがないですけどね。
 確かに面白くはあるのですが、雑なところはとことん雑、しかもそれのあおりを食らうのはいっつも悪の組織のみなさんという、この「楽しい悪夢」は、今後一体どんな新展開を見せるのか、はたまた「も~やめやめ! 解散!!」になるのか。同じく東映のドル箱シリーズになっている「プリキュアオールスターズ」のメンバー急増化対策とともに、憂慮すべき大問題だと思います。
 でも、過去のヒーローがゲスト出演するのって、手っ取り早くお客さんを集められるカンフル剤だもんね。一度やってしまったら、そう簡単に禁じ手にはできんぞ……まさに麻薬!! おっそろしいもんだなぁ。鳴滝さんじゃないけど、これこそが仮面ライダーディケイド最大の罪ですよね。おのれディケイドぉおお!!

 余談ですが、本作をもって、平成ライダーシリーズの主人公ライダーは15名となり、サブライダー(ライダーマン)も、厳密にはもう平成に入っちゃってる時期の映画やオリジナルビデオの単発ライダーもかき集めた昭和ライダー15名と、人数で並ぶこととなりました。そして『鎧武』以降も平成ライダーシリーズは当然のごとく続くので、もはや「仮面ライダーといえば昭和だろ!」とは言えない局面に入ってしまったということなんですな。シリーズの期間にしても、昭和の「23年(1971~94年)」を平成ライダーシリーズが超えていくであろうことは、ほぼ間違いないわけです。そもそも、昭和ライダーは平成ライダーみたいに23年間ずっと TVで放送してたわけでもないし。
 そうなると、この「2014年」というタイミングは、昭和ライダーが平成ライダーに堂々と闘いを挑むことができる「最後のチャンス」だったのかもしれませんね。これ以降は数で差が出てきちゃうもんな! 私のような昭和ライダーファン(厳密には『 BLACK』とか『 BLACK RX』がリアルタイムなので半分昭和じゃないのですが)にとっては寂しい話ですが、「仮面ライダーは改造人間である。」という大前提も、歴史の1ページにすぎなくなっちゃんですよね。

 とはいえ、これからも昭和ライダーにはがんばってほしいんだよなぁ! 映画『仮面ライダー1号』やオリジナル配信『仮面ライダーアマゾンズ』シリーズの例もあることですし、これからも、手を変え品を変え、ニチアサ枠でゆる~くなった平成ライダーの面々に喝を入れてほしいところです!
 あっ、もちろん、悪の組織もがんばってね~!! ゴルゴムの3神官も、『仮面ライダーBLACK SUN 』に出るとしたら気合い入れなおせよ! 白石監督だからな!!
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