ヘヘイヘ~イ。どうもこんばんは、そうだいでございますよ~っと。みなさま、今日は日曜日でしたけど、しっかり働いてた方、いたでしょ!? 実は私もそうだったんですよ! お疲れさまでしたねぇ。
さて、そんなこんなで気がつけば、3月ももうおしまいでございます。今月も突っ走ったなぁ~、仕事に趣味にいろいろと。
実は、今月の前半は先月2月にくらべればいくらか余裕ができて(それでも更新はあまりできなかった……)一息ついていたのですが、やっぱり後半に入ってからは岡山行というビッグプロジェクトと、なぜかそれにひっつく形で激増した演劇鑑賞のために、我が『長岡京エイリアン』で語りたいのに語る時間がないという話題が山積となってしまう事態におちいってしまいました。いっつもどおりの月末になっちゃったね~、結局よう!
そいでま、前回までの記事をご覧の通り、現状ペースはやっと岡山行の鬼ノ城探訪に入るかはいらないかという状況になっているんですが、このままエッチラオッチラと時間軸に沿って話を進めていたら、リアルタイムの4月の話にいつ入ることができるのかわかったもんじゃないタイムパラドックスが生じてしまうと! ただでさえ話題が21世紀っぽくないのに、さらに時間の流れ自体が遅くなっていっちまうワケよ。
ということですので、ちょっと岡山で観たお芝居『月の影にうつる聲(こえ)』については、また鬼ノ城探訪に続けて後日に記しますが、それから千葉に帰ってきて、それ以降に東京でたて続けに観た3本のお芝居の感想みたいなものを3月中にずずずいっとまとめてしまいたいと思います。も~、どんどん記憶力が衰えていってちまってよう、最近!
劇団山の手事情社公演『ひかりごけ』(演出・安田雅弘 原作・武田泰淳) 劇場……文化学院講堂(御茶ノ水)
会場の文化学院っていうのは、不勉強なことに私は今まで知らなかったんですけど、1921年開校のそうとうに歴史のある専修学校だったんですね。それでも御茶ノ水にある校舎は14階建てのきれいなビルで、会場となった講堂ホールは13・14階に位置する場所だったわけなのです。こりはつまり、空中の劇場だよチミ!
ただし、今回の『ひかりごけ』での劇場のつくり方はさすがというかなんちゅうか、通りいっぺんではない味つけがほどこされていました。別にネタばれとかそういう話でもないので詳しく記してもいいことかと思うのですが、私なりにせっかくチケット代を払って観劇して体験した、よそのお芝居ではなかなか出くわさない演出だと感じたことだったので、ここではあえて語らないことにしたいと思います。
ただ、その~……その演出が良かったのかどうかというと、少なくとも私はあんまりピンとはきませんでした。
『ひかりごけ』の物語の前半と後半とに思いっきり距離感をつくるための仕掛けなのかと思ったのですが、観ていてさほどガラッと変わった印象を持てなかったというか。ただ、前半と後半とで登場人物がだいぶ違っているはずなのに、そこを4名の男性俳優が2役のようにして演じている以上、それほどの変化が生じないことは作り手側も折り込み済みだったはずで……う~む、よくわかんない。
私が山の手事情社さんの公演を観るのは、実に5~6年ぶりくらいでそうとう久しくご無沙汰だったのですが、それまで観た多くの公演では、1997年以降に山の手事情社さんが創出したという「四畳半」という演技スタイルが、ともかく物語を「ヘンな感じにする」異化作用に富んだシステムになっていたかと記憶しています。でも、こと今回の『ひかりごけ』に関しては、氷点下が当たり前の極寒の地で遭難してしまった物資ゼロの男たちという極限状況と、俳優の身体にかなり無理を強いているらしい「四畳半」とがかなり違和感なくフィットしてしまったために、「山の手事情社の作品」というよりも限りなく「武田泰淳の作品のそのまんまの舞台化」に近いものになってしまったような気がしたのです。後半の裁判シーンになると、遭難から助かった船長以外の登場人物は「四畳半」にとらわれないラフな演技になってたし。
『ひかりごけ』の筋は確かに非常にサスペンスフルで、皮肉に満ちた終盤のやりとりもおもしろいと思うんですが、かなり久しぶりに山の手事情社さんの公演を拝見した私としましては……ちょっと物足りなく感じてしまいました!
ただ、おしまいのおしまいに逆転した船長とそれ以外の登場人物との体の動き方、というところは、すぐに意味がつかめなくてすごく印象に残りました。こういう一刺しが大好きなのよね~!
あと、後半に一瞬だけ、戦前ドイツのサイレント映画『カリガリ博士』をほうふつとさせる演出がさしこまれたのがちょっとおもしろかったです。「なぜ、いまカリガリ?」みたいな。ただ船長役の浦広毅さんのメイクが濃すぎたからだけだったのかも知れませんが。
なかじま愛子企画『沼子と田んぼ』(演出・富永まい 脚本・西野大介) 劇場……駒込ラ・グロット
駒込ラ・グロットは、私も来るのが今回で何回目かになる地下のコンクリート空間なのですが、どうしても演技スペースの都合で客席が「最大15名くらい」になっちゃうんですよね。つまりは、演者さんが目と鼻の先。
で、私は実は冷たいコンクリート製の壁が特徴的なこの場所が、演劇を楽しむ場としてはどうかな……という気持ちをこれまで持っていました。声の反響の問題はなくてセリフはかなり良く聞こえるのですが、逆に反響がまったくないし壁の質感がなんか怖いし、多少狭く感じもするしで、たぶんここでは、よっぽどのことでなければ上演するたいていの作品がその内容にかかわらず暗い感じになってしまうんじゃなかろうかと思っていたんですね。
でもねぇ~、今回の『沼子と田んぼ』は、ある局面ではそういった雰囲気を軽くぶっとばす明るさがあったし、ある局面ではそういった周囲の暗さを実に自然に作品に取り入れる巧妙さがあったしで、会場が駒込ラ・グロットである必然性をしっかり持っている作品だと観ました。いいですねぇ~、そういう「ならでは感」! せっかくヘンな空間でやるんですからね。
お話はコンパクトな会場にあわせてか上演時間70分、役者3名というスケールになっていて、内容はまさしく「大人の寓話」というかなんというか、単純で牧歌的な設定のようでいて、次第に主人公の沼子(演・中島愛子)という女性を取り巻く残酷な構図が透けて見えるようになってくるブラックな童話といったおもむきがありました。
ちょっとおもしろかったのが、この作品を観てのお客さんによっての感じ方の大きな違いで、私はこの作品を「おもしろいながらも、話が進むにつれて笑えない恐ろしさが垣間見えてくる非常にホラーな物語」ととらえていたのですが、たまたま同じ回を観ていた女性の知り合いの方と終演後にお話をさせてもらったところ、彼女は私とはまったく逆に、「ちょっと怖いけどそれもひっくるめて楽しい、ひたすら明るい物語」と感じたと言っておられました。
なぜそこまでに観る人によって「明るさ」と「怖さ」が逆転しているのかと考えてみますと、それは男女によって、この物語のとらえ方が違ってくるからなんじゃないかと思うんですね。
主人公の沼子に感情移入すると、この物語の真相を知らずに陽気に生きる沼子の笑顔で終わるエンディングは、社会の構図がどうであろうと快活に生活していく現実世界の人々に近い生命力を感じさせるものとなります。
しかし、私は沼子と不思議な共同生活を送っている田んぼ(演・佐久間淳也)という謎の中年男性のぶざまな末路のほうに感情移入してしまったために、そんな田んぼがクライマックスにつぶやいた負け惜しみのような言葉に背筋の凍るものを感じとってしまったのです。
私はことさらに、男女で感性が違うとかそういうことを言いたいわけではないのですが、この『沼子と田んぼ』はそれほどのとらえ方の差が生じるくらいに「女の生活」と「男のロマン」との表裏一体のせめぎあいを極限にまで単純化した童話なのであり、その2者の共存に危機をおよぼす釣り人(演・田口愛)の登場によって、その対立の構造はいっきに崩壊の階段をあゆんでいくのでした。
この作品は、とにかく本公演を企画した主演の中島愛子という女優のかもしだす「ぽかぽか陽気」なくしてはまったく成立しえないものであり、そういう意味では、その味わいを利用して逆にシニカルなお芝居をつくったところに「さすが、自分の武器を知ってるなぁ~!」と感服してしまいました。「おのれを知る」って、なかなかできないことですよね。
あと、その中島さんに寄り添う田んぼを演じた佐久間さんのバカバカしさもとっても良かったのですが、まさに遅効性の猛毒のように、観終わって家に帰ってからじわじわと「あれ、あの人おもしれぇな!」と笑えてきてしまったのが、その中島さんと佐久間さんとの生活を引き裂く役を演じた田口愛さんでしたね。なんか、非常に不可解なことをなんの躊躇もなく普通の顔をしてやりのけるところに、往年の板尾創路をほうふつとさせる危険な香りを感じてしまいました。おもしろい! あの田口さんって人、おかしいぞ!! あまりにナチュラルな狂気のさしこみ方に、思わず気づくのが遅くなってしまいました。いい3人芝居でしたね~。
テアトル・ド・アナール第2回公演『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行「およそ語り得るものについては明晰に語られ得る。しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない。」という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか? という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』(演出&脚本 谷賢一) 劇場……こまばアゴラ劇場(駒場) ※公演は来月4月7日日曜日まで上演
ツッコまねぇぞ、おれは! 誰がツッコむか、そんなもん!!
私は基本的に、そういうセンスが心の底から大っ嫌いなので、普通だったらチラシを見た時点で行くこともないお芝居のほうにササッと分類されるものになっていたはずだったのですが、俳優の榊原毅さんが出演している作品であるというそのワンポイントのみから生じた「てこの原理」で、一転して奇跡の観劇リスト入りということになりました。
それで観たんですが、おもしろかったですねぇ~、やっぱ榊原さんが。
別に、私が劇団に所属していたときに大変お世話になったからひいきしてるわけじゃないんだからねっ!? 本当におもしろいんですよ。
劇中では、登場する男性俳優5名のうち、主人公のウィトゲンシュタインをとり囲むように存在する3名の戦友が、まるで彼の磁場に引き寄せられるかのように、それぞれの好むと好まざるとにかかわらず彼の哲学的な物語の重要な歯車となっていくのですが、榊原さんの演じる、ウィトゲンシュタインら4名の兵士の上官(部隊長)という人間のみが、彼らの思索の影響をなんら受けることなく、実に能天気に第1次世界大戦ライフを謳歌しているのです。
この、「てめーら、なにグジグジ言ってんだ! 死ぬときゃ死ぬ、勝つときゃ勝つ! さぁ、戦争やんぞ!!」という異分子キャラクターが今回、よりによって生命エネルギーに満ち満ちている榊原さんの肉体を得てしまったがために、おそらく作者さんとしては重たい話にひと笑いをさしこむコメディリリーフ程度に考えていたのかもしれませんが、にもかかわらず予想を超えた異常な発育を遂げてしまい、結果としては作品全体の本筋にたいして「それを言っちゃあ、おしめぇよ。」的なメガトン級インパクトを投下してしまうトランプのジョーカーになってしまったのではないのかと感じてしまったのです。
もちろん、榊原さんの役をそれほど大きくとらえずに、戦争物によくいる「筋肉でものを考える部隊長キャラ」程度に受け流す方もお客さんの中にはいてもおかしくないでしょうし、そこ以上に悩めるウィトゲンシュタインの物語に没入するのが正しい作品の楽しみ方なのかも知れません。
でも! 私は主人公近辺のグジャグジャしたあれこれよりも遥かに!! 榊原隊長の口から出る言葉に人の耳と心をつかむ「何か」があると強く感じました。それがいくら知的でなく、どれほど矛盾したフィーリング論だったのだとしても。なんでかって……やっぱ、私がキリスト教信者じゃないから?
なんかアフタートークでの語り口を聞いていても、作・演出の谷さんはしきりにウィトゲンシュタインの物語をいかに演劇化するかというあたりに力を入れていたように見受けられたのですが、その努力の成果はよくわかんなかったものの、ともかく、谷さんが榊原さんをキャスティングしたことだけは文句なしに称賛させていただきたいと思います。よくぞやってくださいました! それが果たして、作品全体のバランスにとって良かったのかどうかは私はかなり疑問なんですけど、それでも、作者のイメージの舞台化だけという見る価値ゼロのものにおとしめなかったんですから、それでいいじゃないですかと! 現場の化学反応、ばんばんざい!!
もちろん、榊原さん以外の役者さんがたも非常に達者だったんですけど、なんかね~。どっかの戦争映画かなんかで見たことのあるテクニックの展覧会を見せられても……って感じで。
やっぱ、魂? お芝居のどこを楽しむかっていうのは当然ながら人それぞれかとは思うんですが、少なくとも私が観たいのは、「このステージを、記憶したセリフの羅列と自分がやって安心する技術の連続だけでは終わらせねぇぞ。なんとしても、それ以上のなにかに挑戦してお客さんに喜んでもらう! なにかって、なんだかはよくわかんねぇけど!!」という、尋常でないレベルのおもてなしスピリットなんですよ。それがあれば、その輝きが一瞬でも観られたのならば、私はもう大満足。
とまぁ~、3月の5連続お芝居はこんな感じでございました。
簡単にパパッとまとめてしまいますと、私個人の満足度としましては、
1位『月の鏡にうつる聲』
2位『さくらん少女』
3位『沼子と田んぼ』
という順位になりますかね~。とにかく、総じて収穫の多い観劇ラッシュでした。
だ・か・ら! 肝心のトップの感想はいつになるんだっつぅの~!!
気長に待っててくださ~い……って、とっくに終了しているお芝居の感想を先延ばしにしているこのブログって、いったいなんなんでしょうか。
理屈を超えた不可解性、それが『長岡京エイリアン』!! ほへ~。
さて、そんなこんなで気がつけば、3月ももうおしまいでございます。今月も突っ走ったなぁ~、仕事に趣味にいろいろと。
実は、今月の前半は先月2月にくらべればいくらか余裕ができて(それでも更新はあまりできなかった……)一息ついていたのですが、やっぱり後半に入ってからは岡山行というビッグプロジェクトと、なぜかそれにひっつく形で激増した演劇鑑賞のために、我が『長岡京エイリアン』で語りたいのに語る時間がないという話題が山積となってしまう事態におちいってしまいました。いっつもどおりの月末になっちゃったね~、結局よう!
そいでま、前回までの記事をご覧の通り、現状ペースはやっと岡山行の鬼ノ城探訪に入るかはいらないかという状況になっているんですが、このままエッチラオッチラと時間軸に沿って話を進めていたら、リアルタイムの4月の話にいつ入ることができるのかわかったもんじゃないタイムパラドックスが生じてしまうと! ただでさえ話題が21世紀っぽくないのに、さらに時間の流れ自体が遅くなっていっちまうワケよ。
ということですので、ちょっと岡山で観たお芝居『月の影にうつる聲(こえ)』については、また鬼ノ城探訪に続けて後日に記しますが、それから千葉に帰ってきて、それ以降に東京でたて続けに観た3本のお芝居の感想みたいなものを3月中にずずずいっとまとめてしまいたいと思います。も~、どんどん記憶力が衰えていってちまってよう、最近!
劇団山の手事情社公演『ひかりごけ』(演出・安田雅弘 原作・武田泰淳) 劇場……文化学院講堂(御茶ノ水)
会場の文化学院っていうのは、不勉強なことに私は今まで知らなかったんですけど、1921年開校のそうとうに歴史のある専修学校だったんですね。それでも御茶ノ水にある校舎は14階建てのきれいなビルで、会場となった講堂ホールは13・14階に位置する場所だったわけなのです。こりはつまり、空中の劇場だよチミ!
ただし、今回の『ひかりごけ』での劇場のつくり方はさすがというかなんちゅうか、通りいっぺんではない味つけがほどこされていました。別にネタばれとかそういう話でもないので詳しく記してもいいことかと思うのですが、私なりにせっかくチケット代を払って観劇して体験した、よそのお芝居ではなかなか出くわさない演出だと感じたことだったので、ここではあえて語らないことにしたいと思います。
ただ、その~……その演出が良かったのかどうかというと、少なくとも私はあんまりピンとはきませんでした。
『ひかりごけ』の物語の前半と後半とに思いっきり距離感をつくるための仕掛けなのかと思ったのですが、観ていてさほどガラッと変わった印象を持てなかったというか。ただ、前半と後半とで登場人物がだいぶ違っているはずなのに、そこを4名の男性俳優が2役のようにして演じている以上、それほどの変化が生じないことは作り手側も折り込み済みだったはずで……う~む、よくわかんない。
私が山の手事情社さんの公演を観るのは、実に5~6年ぶりくらいでそうとう久しくご無沙汰だったのですが、それまで観た多くの公演では、1997年以降に山の手事情社さんが創出したという「四畳半」という演技スタイルが、ともかく物語を「ヘンな感じにする」異化作用に富んだシステムになっていたかと記憶しています。でも、こと今回の『ひかりごけ』に関しては、氷点下が当たり前の極寒の地で遭難してしまった物資ゼロの男たちという極限状況と、俳優の身体にかなり無理を強いているらしい「四畳半」とがかなり違和感なくフィットしてしまったために、「山の手事情社の作品」というよりも限りなく「武田泰淳の作品のそのまんまの舞台化」に近いものになってしまったような気がしたのです。後半の裁判シーンになると、遭難から助かった船長以外の登場人物は「四畳半」にとらわれないラフな演技になってたし。
『ひかりごけ』の筋は確かに非常にサスペンスフルで、皮肉に満ちた終盤のやりとりもおもしろいと思うんですが、かなり久しぶりに山の手事情社さんの公演を拝見した私としましては……ちょっと物足りなく感じてしまいました!
ただ、おしまいのおしまいに逆転した船長とそれ以外の登場人物との体の動き方、というところは、すぐに意味がつかめなくてすごく印象に残りました。こういう一刺しが大好きなのよね~!
あと、後半に一瞬だけ、戦前ドイツのサイレント映画『カリガリ博士』をほうふつとさせる演出がさしこまれたのがちょっとおもしろかったです。「なぜ、いまカリガリ?」みたいな。ただ船長役の浦広毅さんのメイクが濃すぎたからだけだったのかも知れませんが。
なかじま愛子企画『沼子と田んぼ』(演出・富永まい 脚本・西野大介) 劇場……駒込ラ・グロット
駒込ラ・グロットは、私も来るのが今回で何回目かになる地下のコンクリート空間なのですが、どうしても演技スペースの都合で客席が「最大15名くらい」になっちゃうんですよね。つまりは、演者さんが目と鼻の先。
で、私は実は冷たいコンクリート製の壁が特徴的なこの場所が、演劇を楽しむ場としてはどうかな……という気持ちをこれまで持っていました。声の反響の問題はなくてセリフはかなり良く聞こえるのですが、逆に反響がまったくないし壁の質感がなんか怖いし、多少狭く感じもするしで、たぶんここでは、よっぽどのことでなければ上演するたいていの作品がその内容にかかわらず暗い感じになってしまうんじゃなかろうかと思っていたんですね。
でもねぇ~、今回の『沼子と田んぼ』は、ある局面ではそういった雰囲気を軽くぶっとばす明るさがあったし、ある局面ではそういった周囲の暗さを実に自然に作品に取り入れる巧妙さがあったしで、会場が駒込ラ・グロットである必然性をしっかり持っている作品だと観ました。いいですねぇ~、そういう「ならでは感」! せっかくヘンな空間でやるんですからね。
お話はコンパクトな会場にあわせてか上演時間70分、役者3名というスケールになっていて、内容はまさしく「大人の寓話」というかなんというか、単純で牧歌的な設定のようでいて、次第に主人公の沼子(演・中島愛子)という女性を取り巻く残酷な構図が透けて見えるようになってくるブラックな童話といったおもむきがありました。
ちょっとおもしろかったのが、この作品を観てのお客さんによっての感じ方の大きな違いで、私はこの作品を「おもしろいながらも、話が進むにつれて笑えない恐ろしさが垣間見えてくる非常にホラーな物語」ととらえていたのですが、たまたま同じ回を観ていた女性の知り合いの方と終演後にお話をさせてもらったところ、彼女は私とはまったく逆に、「ちょっと怖いけどそれもひっくるめて楽しい、ひたすら明るい物語」と感じたと言っておられました。
なぜそこまでに観る人によって「明るさ」と「怖さ」が逆転しているのかと考えてみますと、それは男女によって、この物語のとらえ方が違ってくるからなんじゃないかと思うんですね。
主人公の沼子に感情移入すると、この物語の真相を知らずに陽気に生きる沼子の笑顔で終わるエンディングは、社会の構図がどうであろうと快活に生活していく現実世界の人々に近い生命力を感じさせるものとなります。
しかし、私は沼子と不思議な共同生活を送っている田んぼ(演・佐久間淳也)という謎の中年男性のぶざまな末路のほうに感情移入してしまったために、そんな田んぼがクライマックスにつぶやいた負け惜しみのような言葉に背筋の凍るものを感じとってしまったのです。
私はことさらに、男女で感性が違うとかそういうことを言いたいわけではないのですが、この『沼子と田んぼ』はそれほどのとらえ方の差が生じるくらいに「女の生活」と「男のロマン」との表裏一体のせめぎあいを極限にまで単純化した童話なのであり、その2者の共存に危機をおよぼす釣り人(演・田口愛)の登場によって、その対立の構造はいっきに崩壊の階段をあゆんでいくのでした。
この作品は、とにかく本公演を企画した主演の中島愛子という女優のかもしだす「ぽかぽか陽気」なくしてはまったく成立しえないものであり、そういう意味では、その味わいを利用して逆にシニカルなお芝居をつくったところに「さすが、自分の武器を知ってるなぁ~!」と感服してしまいました。「おのれを知る」って、なかなかできないことですよね。
あと、その中島さんに寄り添う田んぼを演じた佐久間さんのバカバカしさもとっても良かったのですが、まさに遅効性の猛毒のように、観終わって家に帰ってからじわじわと「あれ、あの人おもしれぇな!」と笑えてきてしまったのが、その中島さんと佐久間さんとの生活を引き裂く役を演じた田口愛さんでしたね。なんか、非常に不可解なことをなんの躊躇もなく普通の顔をしてやりのけるところに、往年の板尾創路をほうふつとさせる危険な香りを感じてしまいました。おもしろい! あの田口さんって人、おかしいぞ!! あまりにナチュラルな狂気のさしこみ方に、思わず気づくのが遅くなってしまいました。いい3人芝居でしたね~。
テアトル・ド・アナール第2回公演『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行「およそ語り得るものについては明晰に語られ得る。しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない。」という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか? という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』(演出&脚本 谷賢一) 劇場……こまばアゴラ劇場(駒場) ※公演は来月4月7日日曜日まで上演
ツッコまねぇぞ、おれは! 誰がツッコむか、そんなもん!!
私は基本的に、そういうセンスが心の底から大っ嫌いなので、普通だったらチラシを見た時点で行くこともないお芝居のほうにササッと分類されるものになっていたはずだったのですが、俳優の榊原毅さんが出演している作品であるというそのワンポイントのみから生じた「てこの原理」で、一転して奇跡の観劇リスト入りということになりました。
それで観たんですが、おもしろかったですねぇ~、やっぱ榊原さんが。
別に、私が劇団に所属していたときに大変お世話になったからひいきしてるわけじゃないんだからねっ!? 本当におもしろいんですよ。
劇中では、登場する男性俳優5名のうち、主人公のウィトゲンシュタインをとり囲むように存在する3名の戦友が、まるで彼の磁場に引き寄せられるかのように、それぞれの好むと好まざるとにかかわらず彼の哲学的な物語の重要な歯車となっていくのですが、榊原さんの演じる、ウィトゲンシュタインら4名の兵士の上官(部隊長)という人間のみが、彼らの思索の影響をなんら受けることなく、実に能天気に第1次世界大戦ライフを謳歌しているのです。
この、「てめーら、なにグジグジ言ってんだ! 死ぬときゃ死ぬ、勝つときゃ勝つ! さぁ、戦争やんぞ!!」という異分子キャラクターが今回、よりによって生命エネルギーに満ち満ちている榊原さんの肉体を得てしまったがために、おそらく作者さんとしては重たい話にひと笑いをさしこむコメディリリーフ程度に考えていたのかもしれませんが、にもかかわらず予想を超えた異常な発育を遂げてしまい、結果としては作品全体の本筋にたいして「それを言っちゃあ、おしめぇよ。」的なメガトン級インパクトを投下してしまうトランプのジョーカーになってしまったのではないのかと感じてしまったのです。
もちろん、榊原さんの役をそれほど大きくとらえずに、戦争物によくいる「筋肉でものを考える部隊長キャラ」程度に受け流す方もお客さんの中にはいてもおかしくないでしょうし、そこ以上に悩めるウィトゲンシュタインの物語に没入するのが正しい作品の楽しみ方なのかも知れません。
でも! 私は主人公近辺のグジャグジャしたあれこれよりも遥かに!! 榊原隊長の口から出る言葉に人の耳と心をつかむ「何か」があると強く感じました。それがいくら知的でなく、どれほど矛盾したフィーリング論だったのだとしても。なんでかって……やっぱ、私がキリスト教信者じゃないから?
なんかアフタートークでの語り口を聞いていても、作・演出の谷さんはしきりにウィトゲンシュタインの物語をいかに演劇化するかというあたりに力を入れていたように見受けられたのですが、その努力の成果はよくわかんなかったものの、ともかく、谷さんが榊原さんをキャスティングしたことだけは文句なしに称賛させていただきたいと思います。よくぞやってくださいました! それが果たして、作品全体のバランスにとって良かったのかどうかは私はかなり疑問なんですけど、それでも、作者のイメージの舞台化だけという見る価値ゼロのものにおとしめなかったんですから、それでいいじゃないですかと! 現場の化学反応、ばんばんざい!!
もちろん、榊原さん以外の役者さんがたも非常に達者だったんですけど、なんかね~。どっかの戦争映画かなんかで見たことのあるテクニックの展覧会を見せられても……って感じで。
やっぱ、魂? お芝居のどこを楽しむかっていうのは当然ながら人それぞれかとは思うんですが、少なくとも私が観たいのは、「このステージを、記憶したセリフの羅列と自分がやって安心する技術の連続だけでは終わらせねぇぞ。なんとしても、それ以上のなにかに挑戦してお客さんに喜んでもらう! なにかって、なんだかはよくわかんねぇけど!!」という、尋常でないレベルのおもてなしスピリットなんですよ。それがあれば、その輝きが一瞬でも観られたのならば、私はもう大満足。
とまぁ~、3月の5連続お芝居はこんな感じでございました。
簡単にパパッとまとめてしまいますと、私個人の満足度としましては、
1位『月の鏡にうつる聲』
2位『さくらん少女』
3位『沼子と田んぼ』
という順位になりますかね~。とにかく、総じて収穫の多い観劇ラッシュでした。
だ・か・ら! 肝心のトップの感想はいつになるんだっつぅの~!!
気長に待っててくださ~い……って、とっくに終了しているお芝居の感想を先延ばしにしているこのブログって、いったいなんなんでしょうか。
理屈を超えた不可解性、それが『長岡京エイリアン』!! ほへ~。