どうもこんばんは、そうだいでございまする~。みなさま、本日も、そして今年2022年も、たいへんお疲れさまでございました!! 良い年、迎えられそうですか?
いや~、今年ももう、おしまいですわ。この一年間も色々あくせくしてましたが、まぁ大みそかまで来て振り返ってみれば、あっという間よね。なにはともあれ、五体満足でここまで生きてこられて良かったです。来年はもうちっと他人様に迷惑をかけずに、スマートに生きたいものです……
ごあいさつはここまでにしておきまして、年の瀬も押し迫ってまいりましたので、ちゃっちゃと本題のほうに入りたいと思います、ハイ。
ついに公開されたアニメ映画版『かがみの孤城』。監督はあの、あの原恵一監督! んまぁ~面白くならないわけがないと!!
実は今回、同じように年末興行として公開されたアニメ映画『すずめの戸締まり』(新海誠監督 東宝)もあったものですから、別に対抗馬だなんだと意識する必要もないのでしょうが、こんなん、「原恵一 VS 新海誠」という「ゴジラ対ガメラ」みたいなドリームカードを勝手に設定して観比べて楽しまなきゃソンソン♪ということで。『かがみの孤城』のほうは先に観ていたわけなのですが、今日やっと『すずめの戸締まり』のほうを観に行った次第なのでした。
それにしても、今年の年末はほんとうに幸せよ。もちろん、互いに競うことを前提に制作された作品でなかったにしろ、この2作をごくごく近い期間内に大スクリーンで観られるだなんて! 消費者として、こんなに今生きていること、そして元気に映画館に足を運べることに大いに感謝せねば。昨年からジムに通っててよかったぁ。
先に結論から申してしまうのですが、この2大巨頭対決、わたくしといたしましては『かがみの孤城』の勝ちでございました。
この2作は、どっちも大傑作という点では共通しているわけなのですが、それ以外はほぼ正反対の要素づくめといいますか、作風のベクトルがまるで違うんですね! だからこそ、あの『ハケンアニメ!』の2大アニメ対決のように、どっちも楽しんだ消費者のしあわせ感度が倍増どころか2乗くらいになってしまう効果になっているのです。いやホント、この2作を短期間内に映画館でイッキ観するの、おすすめです!! いまの日本を、日本の文化を通観することができる4時間になると思います。日本の現在、現状そして、その可能性。
『かがみの孤城』の勝ちといいましたが、この決戦(勝手に闘わせてしまい申し訳ございませんが)の勝敗は、大差でもないのですが、かといって僅差でもないはっきりした結果であると思います。
なぜ『かがみの孤城』が勝った……というよりも『すずめの戸締まり』が「負けた」と観たのかといいますと、『すずめの戸締まり』は作品に「背骨がない」といいますか、ロードムービーであることをいいことに、いろいろうやむやにしてしまっているような気がしたからなのでした。
特に気になったのは、あの白いほうの猫のキャラクターが前半と後半とでつながっていない気がしたんですね。最初は、無垢さゆえの底の知れない怖さがあるように見えたのに、終盤になるとむちゃくちゃ主人公たちにとって都合の良い役割を、自分から率先して担っちゃうじゃないですか。そんなにおとなしく引き下がっていいのか!?みたいな。中盤の、ラマンチャの男こと宗像羊朗さんとの対面でも、なんか因縁のある「あれ、もと人間?」みたいな匂わせがあったのも、キャラのスケールを縮小させるだけのように感じました。
あの白い猫のポジションって、古来から伝承のある妖怪「七人みさき」を連想させる、なかなかに恐ろしい要素だったし、それが明らかになるくだりなんか、あの水木しげる神先生の名作『やまたのおろち』のオチを連想させるこわ~い展開だったと思うのですが……それだけに、それがあれよあれよという間にあんなに都合の良いハッピーエンドにおさまってしまうのは、ちょっとどうかと。大山鳴動してミミズ1匹というところでしょうか。
ミミズといえば、作品にはっきりした「顔」がないのっぺらぼう状態というか、「これぞ『すずめの戸締まり』!」っていう新しいビジュアルがないと感じたことも気になりました。ひとつひとつすっごくきれいな日本の風景の連続で、声優さんがたも十二分にステキな演技を見せてくれるのですが、私のように、ほっといても余計なことをずらずら思い出してしまうオッサンが観てしまいますと、
あ、これジブリっぽい、ダイダラボッチっぽい、使徒っぽい、『君の名は。』っぽい、『2020年の挑戦』っぽい、伊藤潤二っぽい、そして全体的に『帝都物語』っぽい……
と、既視感だらけになってしまうのです。な~んか、いちいちどっかでもう観たような気がしてきちゃうんですよね。いや、どれもきれいな絵に仕上がっているし、単なるオマージュでなくちゃんと作品の血肉に取り込んでるんだろうとは思うのですが、新しい感動があるかというと、う~ん。
あと、四国の民宿で出された煮魚があんまりそんなにおいしくなさそうに見えたのと(個人の感想です)、猫の名前が「うだいじん」と「さだいじん」だったのも、私といたしましてはいただけなかった。なんじゃ、今風をきどりおって! そこは「こてらのおとど」と「あてらのおとど」でしょうが!! でも、「おとど」じゃ SNSでバズりませんやね。
ま、ともかくそんな感じでありまして、『すずめの戸締まり』は、歴史に残るほどの名作、すくなくとも『君の名は。』を超える出来には、なっていないのではなかろうかと感じた次第なのでありました。
約40年前に大ベストセラーとなった『帝都物語』では、たしか辰宮恵子というヒロインが文字通りの犠牲となって、関東大地震以上の大災害を未然に防ぎました。でも、いまどきの世間に受け入れられる作品では、観音さまのような海よりも深い「自己犠牲」というのは流行らないんですかね。それだけ「個人の愛」が尊重されるようになった令和の現在って、昭和よりも進化しているのか、それとも……
『すずめの戸締まり』ばっかで話が長くなってしまいましたが、そんなわけで、私としては「面白いことは間違いないんだけど、そんなには……」だったわけなんです。ただ、東日本大震災の話題を、あそこまではっきりと作品に取り込んだその覚悟、そしてそれを万人に受け入れられるエンタテインメントに錬成させた新海監督の手腕は、さすがですよね。結果大ヒットしたからよかったですけど、あんなにどぎつく警報アラームとか被災の状況を映像に入れるのって、そうとうな勇気が必要だったと思いますよ。新海監督の鋼のような意志の強さを感じました。
でも、『君の名は』で「くちかみ酒」という変態度MAX なアイテムを作品の主軸にドンと据えた新海監督にしては、今回のせいぜい「真・人間椅子プレイ」程度の描写どまりはまったくの肩透かしだったかと思います。そんなもんじゃないでしょ! あんなに走り回ってるんだから、汗のにおいとか、もっといろいろ倒錯しまくった展開あっただろ!! すずめなんだから、クライマックスはすずめちゃんが第2使徒リリスばりに身長15000kmくらいまで巨大化して、ミミズをさきイカのようにつままなきゃ。最後はもちろん、常世じゅうに降り注ぐ、蛭子能収もかくやという汗のゲリラ豪雨ですよね。これだったら、『かがみの孤城』に勝てたかも。
結局、やっぱり2時間サイズの映画を作りたいのであれば、それはやっぱり、お話はプロの脚本家さんにお願いするべきなのではないのでしょうか。監督も脚本も自分でやった方が、創作意図は通りやすいのかも知れませんが、2時間も整合性と緊張感を保てる物語を作りおおせるのって、その道のプロじゃないと難しいものがあるんじゃないかな~と。これは別に、新海誠監督だけに限った話ではないと思うんですが。シンガーソングライターじゃないんですから、そんなポンポンと長編映画の脚本なんて、兼業で簡単に作れるものじゃないと思うんだよなぁ。新海監督は、自身の映画の小説化も手掛けておられるそうなのですが、それはおもしろいのかなぁ。『すずめの戸締まり』の来場者特典で短編小説ももらったけど、そんな、まぁ……ふーん、っていう感じでした。
やっぱ、映像には文章の、できれば小説の形での「しっかりした背骨」がちゃんと備わってないとダメじゃないかと思うんですよ。これは、私が『世にも奇妙な物語』を夢中で観ていた小学生時代からの持論であります。オリジナル脚本は、ちと信用がおけない! いかりや長介の『おーい、でてこーい』、サイコー!!
はいはい! そんなこんなで、ここからは肝心カナメの『かがみの孤城』なのでありますけど、こっちはもう、東宝の力いれまくりの『すずめの戸締まり』に比べてしまえば、ごくごくつつましやかに見えるかもしれないのですが、それだけにまさしく「精巧無比な職人芸」のごとき大名作、辻村深月先生が原作小説に込めた魂と背骨をみごとにアニメ化したまごころの結晶であると観ました。大風呂敷なんか、広げなくていいんだ!!
前回の資料編で検証したように、アニメ映画版『かがみの孤城』は、徹底して原作小説の骨子を約2時間のアニメ映画に変換することに心血を注いでいると思います。要するに、ギリギリまでお話の軽量化にこだわっているんですね。
ただし、それは単にサイドエピソードをカットしまくればいい問題でないことは明らかで、原作小説はより低い年齢の読者層に訴えかけるために、通常の辻村ワールドよりもだいぶライトな展開になってはいるのですが(それでもしっかり重いところは重い!)、さすがというかなんというか、クライマックスの怒涛の展開に向けての伏線がまるでハリネズミのように、あの映画『ルパン三世 ルパン VS 複製人間』(1978年)の冒頭のピラミッド内の赤外線センサーのごとく張りめぐらされているのです!
実際に、原作小説とアニメ映画版とを比較してみますと、同じ結末に向かっているとしても、その「謎の設定の仕方」においてだいぶアプローチが違っていることが分かります。原作小説は、「そんなにヒント出していいんですか!?」ってくらいに、それこそ2ページに1つくらいの感覚で伏線を出しまくっているのですが、アニメ映画版は厳選された「ビジュアル的なヒント」を、『ヘンゼルとグレーテル』のごとくポツ、ポツと巧妙に置いていってるというあんばいですね。だからこそ、原作小説もアニメ映画版も、2回以上観直す楽しみが生まれるわけなのです。
ほんと、オオカミさまじゃないですけど、『かがみの孤城』において登場人物たちがクライマックスで知らされる真相って、7人のうちの誰かがなにげなく言ったひとことでガラガラっとわかっちゃうような、砂のお城のような絶妙なバランスの上に成り立っている謎なんですよね。でも、辻村先生が生涯の師とあおぐあの小説家の諸作をみれば、まさに「本歌取り」のように見える、尊敬の念に満ちた構成だと思うのです。『かがみの孤城』は、間違いなくミステリー小説の傑作なのです。
そんな原作小説を向こうに回して、アニメ映画版もみごとに作品のスリム化に成功しおおせているわけでして、その命を懸けた職人芸的ジェンガをみるような繊細な手つきに、まず感動してしまいます。
例えば、マサムネが7人の集合期日を日付でなく「始業式の日」と言うのは、非常に賢明な脚色ですよね。伏線とエピソードの数を少なくしておきながら、クライマックスの驚きは変わらない! まるで魔法のような筆さばきです。
ただ、私が今回のアニメ映画版を観て本当に素晴らしいと感動したのは、そういった「原作小説の良さ」を伝える仕事に専念しているようでありながらも、非常にさりげなく、しかし確実に原監督ならではのオリジナリティを差し込んでいる、そのプロフェッショナルなさじ加減なのです。ガッつかず、すっごく上品に。
前回の資料編に挙げたように、原作小説と違った点は多くあるのですが、特に私が気になったのは、序盤の「東条萌の容姿がそれほどかわいくない」点と、「城に巨大なオルゴール盤がある」点、そして最後のエピローグからエンディングにかけて、「原作小説になかったある描写が追加されている」点の3つでした。
〇東条萌の容姿がそれほどかわいくない
これ、原作小説がしっかり「フランス人形みたい」とか「自宅に洋書の童話絵本がズラリ」とまで描写してるのに、なんでわざととしか思えない「可もなく不可もない」、もっと言えば黒髪の長髪ポニーテールがもっさりしてるようにさえ見える感じにデザインしているのかが、最初観ている時によくわからなかったんです。
でも、よくよく考えてみるに、アニメ映画版は東条さんを特別な存在に持ち上げたくなかったのではないでしょうか。こころや真田美織とその取り巻きのいる、雪科第五中学校一年四組の中でアイドル的な位置にいる東条さんを「いや、それほどでも……」な容姿にすることによって、こころが命に係わる大問題とまで勝手に肥大化させてしまっているクラス内ヒエラルキアを、はたから見ると滑稽なまでに「たいしたことない」感じにさらしてしまう効果を持っているのです。ほら、男女問わずクラス内のアイドルだった子って、十年くらい経って卒業アルバムを見返してみると「あれ……?」っていうことって、あるじゃないっすか。まぁ、クラスの中でゼニゴケ程度の存在でしかなかった私に、そんなこと口走る資格はないですが。
その効果は、あれほどまでにこころを苦しめていた強大な大敵こと真田美織が、物語の中で回想シーン以外にいっさい姿を現さず、挙句の果てにゃ気のない手紙で「彼氏とは別れたからゆるしてチョ。」みたいなメッセージを最期にフェイドアウトしてしまっている点から見ても明らかなのです。つまんねー退場のしかた!! まさに、「華々しく殺す価値もない」扱いにおとしめられてしまっているという、フィクションの登場人物として、これ以上に惨めな捨てられ方があるでしょうか……結局、子どもの頃の人間関係のいざこざなんて、そんな程度のもんなのです。「いじめの対象なんてコロコロ変わるんだから、いじめられて気に病んでるだけ損だよ。」という持論は、東条さん、そして辻村深月先生の諸作に通底する教訓なのではないでしょうか。
そうは言っても、作中の東条さんは終盤でこころに重大なヒントも与える役割があるし、軽くはないポジションにいるのですが、それでもあの城の住人には絶対になれないという、「学校の重力から解き放たれている」からこその哀しみを持った存在でもあります。この感じ、辻村先生の手による映画『ドラえもん のび太の月面探査記』(2019年)、というか大長編『ドラえもん』シリーズ全般における出木杉英才のポジションの悲劇に通じるものがあります。絶対に旅に連れて行ってもらえないジョーカー的存在……
ともかく、アニメ映画版での東条さんのキャラクターデザインには、「こころの中で不必要に巨大化した呪縛の正体を暴く」という、大人の原監督らしい冷徹な視線が込められているのではないでしょうか。そんな美男美女、ドラマみたいにゴロゴロいるわけねぇって!
〇城に巨大なオルゴール盤がある
これはまんま、日本語による文章のみで勝負する原作小説と違って、視覚と聴覚に訴えかけるアニメ映画の特質を利用し、『かがみの孤城』の世界観を音楽の面で体現する要素として、いかにもクラシックなオルゴール盤と、そこから奏でられるシューマンの『トロイメライ』(1839年発表 ピアノ曲集『子供の情景』第7曲)を原監督が新たに差し込んだのか、と思ったわけなのですが。
トロイメライとは、ドイツ語の「夢」ということで、まさにかがみの孤城が現実の世界でない場所にある「うたかたの隠れ家」であることを暗示しているのかと思うのですが、それが一体「誰にとっての夢なのか?」という謎を提起していて、映画を観た後に「ああ、そういうことだったのか。」と新たな感動を引き起こす鍵となっているのです。『トロイメライ』でなくてはならなかった理由も、泣ける……
この『トロイメライ』は、「城の中のオルゴール盤」という形だけでなく、のちに別の形で映画の終盤に登場し、観客の涙をこれでもかというほどに絞ります。これも当然、映画版ならではのオリジナルシーンであり、思わず「えっ、これ小説にあったんじゃないの!?」と見まごうばかりにさりげなく物語に編み込まれているところに、アニメ映画版スタッフの入魂のテクニックを感じてしまいます。うますぎ!!
余談ですが、原作小説には、ひとつだけ、作中で解明されていない謎が残ることにお気づきでしょうか。すなはち、「城のクリスマスパーティで、リオンがオオカミさまにプレゼントした物は何か?」という問題です。
これ、あの用意周到な辻村先生のことですから、クライマックスであれほどたっぷりとリオンとオオカミさまの対話シーンをつづっておいて、「回収するのを忘れた」ということはないと思われます。そして、よくよく読んでみれば、プレゼントの中身が「リオンの家にあった物」であることや、クリスマス後のオオカミ様の描写などから、「たぶんこれじゃないか」と思わせる答えは推測できるようになっています。そして、そういったやり取りから、リオンがオオカミさまの正体にうすうす目星をつけていて、オオカミさまもそんなリオンの意志を受け入れたとみられる「無言のコミュニケーション」が成立しているのです。これ、言葉がないだけに非常に高度!
ただ、このプレゼントのくだりをまんま映像化せずに、アニメ映画版はこれをビジュアル的にさらにはっきりさせる手段として、まったく別の「オルゴール盤の『トロイメライ』」に換装してしまいました。この手練手管の妙に、小説家・辻村深月に伍するアニメ監督・原恵一の礼節と本気を思い知らされるわけなのです。こりゃもう、感動するしかないですよね。1シーン、1エピソードにこんなにも心血を注いで、2時間もの作品に紡ぎあげているんですから……そりゃもう、映画鑑賞後に少しでも経済的に支援できないものかと、40すぎたオッサンも思わず劇場限定グッズのミニ手鏡とオオカミさまのぬいぐるみ買っちゃうよ! 使い道ねぇ~!!
〇映画の終盤で原作小説になかった描写が追加されている
これぞ、原監督!って感じのエピローグでしたよね~!! ほんと、感動のダメ押しでした。
私が特に感動したのは、新学期の雪科第五中学校に向けて、ともに歩き始めるこころとリオンの「足元の歩調」を、かなりしっかりと時間をかけて描くという演出でした。こ、こ、これは、あの伝説的名作である映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001年)での、野原ひろしの回想シーンで、若き日のみさえさんと一緒にそぞろ歩く演出と同じでねぇかァア!! 2人の未来は、約束された!
原作小説では、こころとリオン、そして喜多嶋先生の視点から見た「その後」がつづられて終わるのですが、アニメ映画版では、彼女ら彼らを近くで温かく見つめている別の存在が、目には見えないながらも「確実にいる」ことを力強く宣言して終幕となっています。
ここ、すっごく大事ですよね。城での約一年間を通して、7人が立派に成長したことは間違いないとしても、それは自分たちだけでなく、たとえ忘れてしまったとしても彼女ら彼らを見守る「あの人」の力によるところが大きいのだということ。人はみな、自分で勝手に生きているのでなく、周囲の人々によって生かされているということを忘れてはいけない、というテーマを、はっきりと明示している演出であるわけです。劇場限定で配られている映画オリジナルのイラストカードも、そのテーマに沿った非常にあたたかいプレゼントでしたよね。
結局、城の日々の崩壊につながった「巨大なオオカミの暴走」だって、「アキがルールを破った」というよりは、「アキが生きることをやめようとした」ことへのオオカミさまの怒りが具現化したものなのじゃなかろうかと思うんですね。つまり、巨大なオオカミもドレスを着たオオカミさまも同じ存在なのですが、怒りと慈しみとが分裂した状態なのでしょう。なので、ルール違反だから7人全員を食べるというのは、そういう決まりだからとかいうゲーム的・事務的な作業ではなくて、オオカミさまの深い怒りと絶望をあらわす爆発だし、それでもこころを食べなかったというのは、一縷の希望を捨てきれなかった苦悩のあかしだと思うんです。そこを見誤ってはいけないですよね。オオカミさまにとっても、城の日々は失いたくない大切な時間なのですから。
でもそう考えると、城がなくなった後、3月31日以降のオオカミさまは、原作小説でも語られなかったし、存在の仕方もまったく違うオオカミさまであるはずなのですが、以前と変わらない姿でこころやリオンたちを見つめているのは、非常に救いのある、アニメ映画版ならではのあたたかな解釈でもあると思うのです。そこらへんは、辻村先生の『ツナグ』シリーズに通じる世界観ですよね。
ともあれ、映画を観に来た観客に対して「自分の生と、人との出逢いは大切にしなさい。」というメッセージを強く、しかし説教くさく押し付けずに印象付けるエピローグの演出は、もはやうなるしかない巧みさにいろどられていましたね。
ンもぉ~、そんな終わり方されちゃったら、『ジョジョの奇妙な冒険第6部 ストーンオーシャン』のエンポリオばりに胸を張って生きなくちゃならなくなるじゃんかよう!! 人生って、生きてるってすばらしい!!
え~、そんなこんなでございまして、本年も非常に幸せな締めとあいなり申した。辻村先生と原恵一監督の非常にハイレベルなタッグっぷりに、ひたすら感謝、感謝でございます!!
やっぱり、辻村ワールドの他媒体への変換というお仕事は、携わる方々にとって非常に魅力的で、挑戦的で、刺激的なチャレンジになるようですね。次は、どの作品が変身することとなるのでしょうか? 読者としては、それも生きる糧となるわけなのでありまして。楽しみですね~!!
今回も予想通りの駄長文となりましたし、最近は記事更新のペースもだだ落ちに落ちてしまい申し訳ないばかりなのですが、本年も、我が『長岡京エイリアン』にご来訪いただき、まことにありがとうございました! 来年は、もうちょっと多く記事を挙げていきたいと……思い、ます!!
みなさま、どうぞ良いお年をお迎えください! どうもありがとうございました。
いや~、今年ももう、おしまいですわ。この一年間も色々あくせくしてましたが、まぁ大みそかまで来て振り返ってみれば、あっという間よね。なにはともあれ、五体満足でここまで生きてこられて良かったです。来年はもうちっと他人様に迷惑をかけずに、スマートに生きたいものです……
ごあいさつはここまでにしておきまして、年の瀬も押し迫ってまいりましたので、ちゃっちゃと本題のほうに入りたいと思います、ハイ。
ついに公開されたアニメ映画版『かがみの孤城』。監督はあの、あの原恵一監督! んまぁ~面白くならないわけがないと!!
実は今回、同じように年末興行として公開されたアニメ映画『すずめの戸締まり』(新海誠監督 東宝)もあったものですから、別に対抗馬だなんだと意識する必要もないのでしょうが、こんなん、「原恵一 VS 新海誠」という「ゴジラ対ガメラ」みたいなドリームカードを勝手に設定して観比べて楽しまなきゃソンソン♪ということで。『かがみの孤城』のほうは先に観ていたわけなのですが、今日やっと『すずめの戸締まり』のほうを観に行った次第なのでした。
それにしても、今年の年末はほんとうに幸せよ。もちろん、互いに競うことを前提に制作された作品でなかったにしろ、この2作をごくごく近い期間内に大スクリーンで観られるだなんて! 消費者として、こんなに今生きていること、そして元気に映画館に足を運べることに大いに感謝せねば。昨年からジムに通っててよかったぁ。
先に結論から申してしまうのですが、この2大巨頭対決、わたくしといたしましては『かがみの孤城』の勝ちでございました。
この2作は、どっちも大傑作という点では共通しているわけなのですが、それ以外はほぼ正反対の要素づくめといいますか、作風のベクトルがまるで違うんですね! だからこそ、あの『ハケンアニメ!』の2大アニメ対決のように、どっちも楽しんだ消費者のしあわせ感度が倍増どころか2乗くらいになってしまう効果になっているのです。いやホント、この2作を短期間内に映画館でイッキ観するの、おすすめです!! いまの日本を、日本の文化を通観することができる4時間になると思います。日本の現在、現状そして、その可能性。
『かがみの孤城』の勝ちといいましたが、この決戦(勝手に闘わせてしまい申し訳ございませんが)の勝敗は、大差でもないのですが、かといって僅差でもないはっきりした結果であると思います。
なぜ『かがみの孤城』が勝った……というよりも『すずめの戸締まり』が「負けた」と観たのかといいますと、『すずめの戸締まり』は作品に「背骨がない」といいますか、ロードムービーであることをいいことに、いろいろうやむやにしてしまっているような気がしたからなのでした。
特に気になったのは、あの白いほうの猫のキャラクターが前半と後半とでつながっていない気がしたんですね。最初は、無垢さゆえの底の知れない怖さがあるように見えたのに、終盤になるとむちゃくちゃ主人公たちにとって都合の良い役割を、自分から率先して担っちゃうじゃないですか。そんなにおとなしく引き下がっていいのか!?みたいな。中盤の、ラマンチャの男こと宗像羊朗さんとの対面でも、なんか因縁のある「あれ、もと人間?」みたいな匂わせがあったのも、キャラのスケールを縮小させるだけのように感じました。
あの白い猫のポジションって、古来から伝承のある妖怪「七人みさき」を連想させる、なかなかに恐ろしい要素だったし、それが明らかになるくだりなんか、あの水木しげる神先生の名作『やまたのおろち』のオチを連想させるこわ~い展開だったと思うのですが……それだけに、それがあれよあれよという間にあんなに都合の良いハッピーエンドにおさまってしまうのは、ちょっとどうかと。大山鳴動してミミズ1匹というところでしょうか。
ミミズといえば、作品にはっきりした「顔」がないのっぺらぼう状態というか、「これぞ『すずめの戸締まり』!」っていう新しいビジュアルがないと感じたことも気になりました。ひとつひとつすっごくきれいな日本の風景の連続で、声優さんがたも十二分にステキな演技を見せてくれるのですが、私のように、ほっといても余計なことをずらずら思い出してしまうオッサンが観てしまいますと、
あ、これジブリっぽい、ダイダラボッチっぽい、使徒っぽい、『君の名は。』っぽい、『2020年の挑戦』っぽい、伊藤潤二っぽい、そして全体的に『帝都物語』っぽい……
と、既視感だらけになってしまうのです。な~んか、いちいちどっかでもう観たような気がしてきちゃうんですよね。いや、どれもきれいな絵に仕上がっているし、単なるオマージュでなくちゃんと作品の血肉に取り込んでるんだろうとは思うのですが、新しい感動があるかというと、う~ん。
あと、四国の民宿で出された煮魚があんまりそんなにおいしくなさそうに見えたのと(個人の感想です)、猫の名前が「うだいじん」と「さだいじん」だったのも、私といたしましてはいただけなかった。なんじゃ、今風をきどりおって! そこは「こてらのおとど」と「あてらのおとど」でしょうが!! でも、「おとど」じゃ SNSでバズりませんやね。
ま、ともかくそんな感じでありまして、『すずめの戸締まり』は、歴史に残るほどの名作、すくなくとも『君の名は。』を超える出来には、なっていないのではなかろうかと感じた次第なのでありました。
約40年前に大ベストセラーとなった『帝都物語』では、たしか辰宮恵子というヒロインが文字通りの犠牲となって、関東大地震以上の大災害を未然に防ぎました。でも、いまどきの世間に受け入れられる作品では、観音さまのような海よりも深い「自己犠牲」というのは流行らないんですかね。それだけ「個人の愛」が尊重されるようになった令和の現在って、昭和よりも進化しているのか、それとも……
『すずめの戸締まり』ばっかで話が長くなってしまいましたが、そんなわけで、私としては「面白いことは間違いないんだけど、そんなには……」だったわけなんです。ただ、東日本大震災の話題を、あそこまではっきりと作品に取り込んだその覚悟、そしてそれを万人に受け入れられるエンタテインメントに錬成させた新海監督の手腕は、さすがですよね。結果大ヒットしたからよかったですけど、あんなにどぎつく警報アラームとか被災の状況を映像に入れるのって、そうとうな勇気が必要だったと思いますよ。新海監督の鋼のような意志の強さを感じました。
でも、『君の名は』で「くちかみ酒」という変態度MAX なアイテムを作品の主軸にドンと据えた新海監督にしては、今回のせいぜい「真・人間椅子プレイ」程度の描写どまりはまったくの肩透かしだったかと思います。そんなもんじゃないでしょ! あんなに走り回ってるんだから、汗のにおいとか、もっといろいろ倒錯しまくった展開あっただろ!! すずめなんだから、クライマックスはすずめちゃんが第2使徒リリスばりに身長15000kmくらいまで巨大化して、ミミズをさきイカのようにつままなきゃ。最後はもちろん、常世じゅうに降り注ぐ、蛭子能収もかくやという汗のゲリラ豪雨ですよね。これだったら、『かがみの孤城』に勝てたかも。
結局、やっぱり2時間サイズの映画を作りたいのであれば、それはやっぱり、お話はプロの脚本家さんにお願いするべきなのではないのでしょうか。監督も脚本も自分でやった方が、創作意図は通りやすいのかも知れませんが、2時間も整合性と緊張感を保てる物語を作りおおせるのって、その道のプロじゃないと難しいものがあるんじゃないかな~と。これは別に、新海誠監督だけに限った話ではないと思うんですが。シンガーソングライターじゃないんですから、そんなポンポンと長編映画の脚本なんて、兼業で簡単に作れるものじゃないと思うんだよなぁ。新海監督は、自身の映画の小説化も手掛けておられるそうなのですが、それはおもしろいのかなぁ。『すずめの戸締まり』の来場者特典で短編小説ももらったけど、そんな、まぁ……ふーん、っていう感じでした。
やっぱ、映像には文章の、できれば小説の形での「しっかりした背骨」がちゃんと備わってないとダメじゃないかと思うんですよ。これは、私が『世にも奇妙な物語』を夢中で観ていた小学生時代からの持論であります。オリジナル脚本は、ちと信用がおけない! いかりや長介の『おーい、でてこーい』、サイコー!!
はいはい! そんなこんなで、ここからは肝心カナメの『かがみの孤城』なのでありますけど、こっちはもう、東宝の力いれまくりの『すずめの戸締まり』に比べてしまえば、ごくごくつつましやかに見えるかもしれないのですが、それだけにまさしく「精巧無比な職人芸」のごとき大名作、辻村深月先生が原作小説に込めた魂と背骨をみごとにアニメ化したまごころの結晶であると観ました。大風呂敷なんか、広げなくていいんだ!!
前回の資料編で検証したように、アニメ映画版『かがみの孤城』は、徹底して原作小説の骨子を約2時間のアニメ映画に変換することに心血を注いでいると思います。要するに、ギリギリまでお話の軽量化にこだわっているんですね。
ただし、それは単にサイドエピソードをカットしまくればいい問題でないことは明らかで、原作小説はより低い年齢の読者層に訴えかけるために、通常の辻村ワールドよりもだいぶライトな展開になってはいるのですが(それでもしっかり重いところは重い!)、さすがというかなんというか、クライマックスの怒涛の展開に向けての伏線がまるでハリネズミのように、あの映画『ルパン三世 ルパン VS 複製人間』(1978年)の冒頭のピラミッド内の赤外線センサーのごとく張りめぐらされているのです!
実際に、原作小説とアニメ映画版とを比較してみますと、同じ結末に向かっているとしても、その「謎の設定の仕方」においてだいぶアプローチが違っていることが分かります。原作小説は、「そんなにヒント出していいんですか!?」ってくらいに、それこそ2ページに1つくらいの感覚で伏線を出しまくっているのですが、アニメ映画版は厳選された「ビジュアル的なヒント」を、『ヘンゼルとグレーテル』のごとくポツ、ポツと巧妙に置いていってるというあんばいですね。だからこそ、原作小説もアニメ映画版も、2回以上観直す楽しみが生まれるわけなのです。
ほんと、オオカミさまじゃないですけど、『かがみの孤城』において登場人物たちがクライマックスで知らされる真相って、7人のうちの誰かがなにげなく言ったひとことでガラガラっとわかっちゃうような、砂のお城のような絶妙なバランスの上に成り立っている謎なんですよね。でも、辻村先生が生涯の師とあおぐあの小説家の諸作をみれば、まさに「本歌取り」のように見える、尊敬の念に満ちた構成だと思うのです。『かがみの孤城』は、間違いなくミステリー小説の傑作なのです。
そんな原作小説を向こうに回して、アニメ映画版もみごとに作品のスリム化に成功しおおせているわけでして、その命を懸けた職人芸的ジェンガをみるような繊細な手つきに、まず感動してしまいます。
例えば、マサムネが7人の集合期日を日付でなく「始業式の日」と言うのは、非常に賢明な脚色ですよね。伏線とエピソードの数を少なくしておきながら、クライマックスの驚きは変わらない! まるで魔法のような筆さばきです。
ただ、私が今回のアニメ映画版を観て本当に素晴らしいと感動したのは、そういった「原作小説の良さ」を伝える仕事に専念しているようでありながらも、非常にさりげなく、しかし確実に原監督ならではのオリジナリティを差し込んでいる、そのプロフェッショナルなさじ加減なのです。ガッつかず、すっごく上品に。
前回の資料編に挙げたように、原作小説と違った点は多くあるのですが、特に私が気になったのは、序盤の「東条萌の容姿がそれほどかわいくない」点と、「城に巨大なオルゴール盤がある」点、そして最後のエピローグからエンディングにかけて、「原作小説になかったある描写が追加されている」点の3つでした。
〇東条萌の容姿がそれほどかわいくない
これ、原作小説がしっかり「フランス人形みたい」とか「自宅に洋書の童話絵本がズラリ」とまで描写してるのに、なんでわざととしか思えない「可もなく不可もない」、もっと言えば黒髪の長髪ポニーテールがもっさりしてるようにさえ見える感じにデザインしているのかが、最初観ている時によくわからなかったんです。
でも、よくよく考えてみるに、アニメ映画版は東条さんを特別な存在に持ち上げたくなかったのではないでしょうか。こころや真田美織とその取り巻きのいる、雪科第五中学校一年四組の中でアイドル的な位置にいる東条さんを「いや、それほどでも……」な容姿にすることによって、こころが命に係わる大問題とまで勝手に肥大化させてしまっているクラス内ヒエラルキアを、はたから見ると滑稽なまでに「たいしたことない」感じにさらしてしまう効果を持っているのです。ほら、男女問わずクラス内のアイドルだった子って、十年くらい経って卒業アルバムを見返してみると「あれ……?」っていうことって、あるじゃないっすか。まぁ、クラスの中でゼニゴケ程度の存在でしかなかった私に、そんなこと口走る資格はないですが。
その効果は、あれほどまでにこころを苦しめていた強大な大敵こと真田美織が、物語の中で回想シーン以外にいっさい姿を現さず、挙句の果てにゃ気のない手紙で「彼氏とは別れたからゆるしてチョ。」みたいなメッセージを最期にフェイドアウトしてしまっている点から見ても明らかなのです。つまんねー退場のしかた!! まさに、「華々しく殺す価値もない」扱いにおとしめられてしまっているという、フィクションの登場人物として、これ以上に惨めな捨てられ方があるでしょうか……結局、子どもの頃の人間関係のいざこざなんて、そんな程度のもんなのです。「いじめの対象なんてコロコロ変わるんだから、いじめられて気に病んでるだけ損だよ。」という持論は、東条さん、そして辻村深月先生の諸作に通底する教訓なのではないでしょうか。
そうは言っても、作中の東条さんは終盤でこころに重大なヒントも与える役割があるし、軽くはないポジションにいるのですが、それでもあの城の住人には絶対になれないという、「学校の重力から解き放たれている」からこその哀しみを持った存在でもあります。この感じ、辻村先生の手による映画『ドラえもん のび太の月面探査記』(2019年)、というか大長編『ドラえもん』シリーズ全般における出木杉英才のポジションの悲劇に通じるものがあります。絶対に旅に連れて行ってもらえないジョーカー的存在……
ともかく、アニメ映画版での東条さんのキャラクターデザインには、「こころの中で不必要に巨大化した呪縛の正体を暴く」という、大人の原監督らしい冷徹な視線が込められているのではないでしょうか。そんな美男美女、ドラマみたいにゴロゴロいるわけねぇって!
〇城に巨大なオルゴール盤がある
これはまんま、日本語による文章のみで勝負する原作小説と違って、視覚と聴覚に訴えかけるアニメ映画の特質を利用し、『かがみの孤城』の世界観を音楽の面で体現する要素として、いかにもクラシックなオルゴール盤と、そこから奏でられるシューマンの『トロイメライ』(1839年発表 ピアノ曲集『子供の情景』第7曲)を原監督が新たに差し込んだのか、と思ったわけなのですが。
トロイメライとは、ドイツ語の「夢」ということで、まさにかがみの孤城が現実の世界でない場所にある「うたかたの隠れ家」であることを暗示しているのかと思うのですが、それが一体「誰にとっての夢なのか?」という謎を提起していて、映画を観た後に「ああ、そういうことだったのか。」と新たな感動を引き起こす鍵となっているのです。『トロイメライ』でなくてはならなかった理由も、泣ける……
この『トロイメライ』は、「城の中のオルゴール盤」という形だけでなく、のちに別の形で映画の終盤に登場し、観客の涙をこれでもかというほどに絞ります。これも当然、映画版ならではのオリジナルシーンであり、思わず「えっ、これ小説にあったんじゃないの!?」と見まごうばかりにさりげなく物語に編み込まれているところに、アニメ映画版スタッフの入魂のテクニックを感じてしまいます。うますぎ!!
余談ですが、原作小説には、ひとつだけ、作中で解明されていない謎が残ることにお気づきでしょうか。すなはち、「城のクリスマスパーティで、リオンがオオカミさまにプレゼントした物は何か?」という問題です。
これ、あの用意周到な辻村先生のことですから、クライマックスであれほどたっぷりとリオンとオオカミさまの対話シーンをつづっておいて、「回収するのを忘れた」ということはないと思われます。そして、よくよく読んでみれば、プレゼントの中身が「リオンの家にあった物」であることや、クリスマス後のオオカミ様の描写などから、「たぶんこれじゃないか」と思わせる答えは推測できるようになっています。そして、そういったやり取りから、リオンがオオカミさまの正体にうすうす目星をつけていて、オオカミさまもそんなリオンの意志を受け入れたとみられる「無言のコミュニケーション」が成立しているのです。これ、言葉がないだけに非常に高度!
ただ、このプレゼントのくだりをまんま映像化せずに、アニメ映画版はこれをビジュアル的にさらにはっきりさせる手段として、まったく別の「オルゴール盤の『トロイメライ』」に換装してしまいました。この手練手管の妙に、小説家・辻村深月に伍するアニメ監督・原恵一の礼節と本気を思い知らされるわけなのです。こりゃもう、感動するしかないですよね。1シーン、1エピソードにこんなにも心血を注いで、2時間もの作品に紡ぎあげているんですから……そりゃもう、映画鑑賞後に少しでも経済的に支援できないものかと、40すぎたオッサンも思わず劇場限定グッズのミニ手鏡とオオカミさまのぬいぐるみ買っちゃうよ! 使い道ねぇ~!!
〇映画の終盤で原作小説になかった描写が追加されている
これぞ、原監督!って感じのエピローグでしたよね~!! ほんと、感動のダメ押しでした。
私が特に感動したのは、新学期の雪科第五中学校に向けて、ともに歩き始めるこころとリオンの「足元の歩調」を、かなりしっかりと時間をかけて描くという演出でした。こ、こ、これは、あの伝説的名作である映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001年)での、野原ひろしの回想シーンで、若き日のみさえさんと一緒にそぞろ歩く演出と同じでねぇかァア!! 2人の未来は、約束された!
原作小説では、こころとリオン、そして喜多嶋先生の視点から見た「その後」がつづられて終わるのですが、アニメ映画版では、彼女ら彼らを近くで温かく見つめている別の存在が、目には見えないながらも「確実にいる」ことを力強く宣言して終幕となっています。
ここ、すっごく大事ですよね。城での約一年間を通して、7人が立派に成長したことは間違いないとしても、それは自分たちだけでなく、たとえ忘れてしまったとしても彼女ら彼らを見守る「あの人」の力によるところが大きいのだということ。人はみな、自分で勝手に生きているのでなく、周囲の人々によって生かされているということを忘れてはいけない、というテーマを、はっきりと明示している演出であるわけです。劇場限定で配られている映画オリジナルのイラストカードも、そのテーマに沿った非常にあたたかいプレゼントでしたよね。
結局、城の日々の崩壊につながった「巨大なオオカミの暴走」だって、「アキがルールを破った」というよりは、「アキが生きることをやめようとした」ことへのオオカミさまの怒りが具現化したものなのじゃなかろうかと思うんですね。つまり、巨大なオオカミもドレスを着たオオカミさまも同じ存在なのですが、怒りと慈しみとが分裂した状態なのでしょう。なので、ルール違反だから7人全員を食べるというのは、そういう決まりだからとかいうゲーム的・事務的な作業ではなくて、オオカミさまの深い怒りと絶望をあらわす爆発だし、それでもこころを食べなかったというのは、一縷の希望を捨てきれなかった苦悩のあかしだと思うんです。そこを見誤ってはいけないですよね。オオカミさまにとっても、城の日々は失いたくない大切な時間なのですから。
でもそう考えると、城がなくなった後、3月31日以降のオオカミさまは、原作小説でも語られなかったし、存在の仕方もまったく違うオオカミさまであるはずなのですが、以前と変わらない姿でこころやリオンたちを見つめているのは、非常に救いのある、アニメ映画版ならではのあたたかな解釈でもあると思うのです。そこらへんは、辻村先生の『ツナグ』シリーズに通じる世界観ですよね。
ともあれ、映画を観に来た観客に対して「自分の生と、人との出逢いは大切にしなさい。」というメッセージを強く、しかし説教くさく押し付けずに印象付けるエピローグの演出は、もはやうなるしかない巧みさにいろどられていましたね。
ンもぉ~、そんな終わり方されちゃったら、『ジョジョの奇妙な冒険第6部 ストーンオーシャン』のエンポリオばりに胸を張って生きなくちゃならなくなるじゃんかよう!! 人生って、生きてるってすばらしい!!
え~、そんなこんなでございまして、本年も非常に幸せな締めとあいなり申した。辻村先生と原恵一監督の非常にハイレベルなタッグっぷりに、ひたすら感謝、感謝でございます!!
やっぱり、辻村ワールドの他媒体への変換というお仕事は、携わる方々にとって非常に魅力的で、挑戦的で、刺激的なチャレンジになるようですね。次は、どの作品が変身することとなるのでしょうか? 読者としては、それも生きる糧となるわけなのでありまして。楽しみですね~!!
今回も予想通りの駄長文となりましたし、最近は記事更新のペースもだだ落ちに落ちてしまい申し訳ないばかりなのですが、本年も、我が『長岡京エイリアン』にご来訪いただき、まことにありがとうございました! 来年は、もうちょっと多く記事を挙げていきたいと……思い、ます!!
みなさま、どうぞ良いお年をお迎えください! どうもありがとうございました。