武蔵国 赤塚城とは
赤塚城(あかつかじょう)は、東京都板橋区赤塚にあった城。現在、城跡は東京都立赤塚公園の一部となり、広場、梅林、桜並木などが整備されている。
康正二(1456)年に、下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)から移った千葉自胤(1446~94年)によって築城されたと伝えられる。ただし、それ以前に源頼朝が挙兵後に徳丸(現在の東京都板橋区)を通過した際に赤塚城を立ち寄ったという伝承もあり、正確な築城年代は不詳である。
また、赤塚郷はもともと足利直義(1307~52年)の所領であったが、観応の擾乱(1350~52年)後に足利氏一門の渋川家に与えられ、その後、足利幕府第三代将軍・足利義満が造営した京の臨済宗鹿王院に寄進された。ところが、享徳の乱(1455~83年)に際して堀越公方・足利政知の補佐として関東地方に下った渋川義鏡(生没年不詳)が武蔵国内での勢力拡大をはかり、下総国での内紛で生き残った千葉自胤が武蔵国に逃れた際に、赤塚郷を兵糧調達の名目で接収してから自胤に与えた。これに対して鹿王院は幕府に提訴し、幕府も寛正三(1462)年に自胤に退去を命じているが黙殺された。
赤塚城は、真北にある荒川の渡し場を一望し、また武蔵国北部から南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえる、陸運・水運を掌握する要衝であった。赤塚城の千葉家は戦国時代には北条家の重臣として活躍したが、天正十八(1590)年に豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が滅亡すると、千葉家も所領を没収され赤塚城は廃城となった。
現在、城跡の周囲は都立公園として整備されている。本丸跡を示す石碑の他には土塁、横堀、竪堀、水堀、堀切、切岸など、江戸城を除く東京都23区内の城跡の中では最も多くの遺構が残っている。天守構造は無い。
赤塚城は中世の平山城だが、実際には砦と呼ぶべき規模であったようである。本丸は武蔵野台地北東端の段丘上に築かれており、城の北側は徳丸ヶ原と呼ばれる湿地帯だった。ふもとのため池は赤塚城の内堀だったとされるが、周囲の開墾が進んだ明治時代以降は農業用水として使用され、現在は板橋区立赤塚溜池公園となり、釣りの楽しめる池として親しまれている。現在、城域には板橋区立郷土資料館、板橋区立美術館が隣接する。
アクセスは、都営地下鉄三田線・西高島平駅から徒歩15分。
赤塚城(あかつかじょう)は、東京都板橋区赤塚にあった城。現在、城跡は東京都立赤塚公園の一部となり、広場、梅林、桜並木などが整備されている。
康正二(1456)年に、下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)から移った千葉自胤(1446~94年)によって築城されたと伝えられる。ただし、それ以前に源頼朝が挙兵後に徳丸(現在の東京都板橋区)を通過した際に赤塚城を立ち寄ったという伝承もあり、正確な築城年代は不詳である。
また、赤塚郷はもともと足利直義(1307~52年)の所領であったが、観応の擾乱(1350~52年)後に足利氏一門の渋川家に与えられ、その後、足利幕府第三代将軍・足利義満が造営した京の臨済宗鹿王院に寄進された。ところが、享徳の乱(1455~83年)に際して堀越公方・足利政知の補佐として関東地方に下った渋川義鏡(生没年不詳)が武蔵国内での勢力拡大をはかり、下総国での内紛で生き残った千葉自胤が武蔵国に逃れた際に、赤塚郷を兵糧調達の名目で接収してから自胤に与えた。これに対して鹿王院は幕府に提訴し、幕府も寛正三(1462)年に自胤に退去を命じているが黙殺された。
赤塚城は、真北にある荒川の渡し場を一望し、また武蔵国北部から南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえる、陸運・水運を掌握する要衝であった。赤塚城の千葉家は戦国時代には北条家の重臣として活躍したが、天正十八(1590)年に豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が滅亡すると、千葉家も所領を没収され赤塚城は廃城となった。
現在、城跡の周囲は都立公園として整備されている。本丸跡を示す石碑の他には土塁、横堀、竪堀、水堀、堀切、切岸など、江戸城を除く東京都23区内の城跡の中では最も多くの遺構が残っている。天守構造は無い。
赤塚城は中世の平山城だが、実際には砦と呼ぶべき規模であったようである。本丸は武蔵野台地北東端の段丘上に築かれており、城の北側は徳丸ヶ原と呼ばれる湿地帯だった。ふもとのため池は赤塚城の内堀だったとされるが、周囲の開墾が進んだ明治時代以降は農業用水として使用され、現在は板橋区立赤塚溜池公園となり、釣りの楽しめる池として親しまれている。現在、城域には板橋区立郷土資料館、板橋区立美術館が隣接する。
アクセスは、都営地下鉄三田線・西高島平駅から徒歩15分。