長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第52回 「武蔵国 赤塚城」資料編

2024年12月11日 23時06分57秒 | 全国城めぐり宣言
武蔵国 赤塚城とは
 赤塚城(あかつかじょう)は、東京都板橋区赤塚にあった城。現在、城跡は東京都立赤塚公園の一部となり、広場、梅林、桜並木などが整備されている。

 康正二(1456)年に、下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)から移った千葉自胤(1446~94年)によって築城されたと伝えられる。ただし、それ以前に源頼朝が挙兵後に徳丸(現在の東京都板橋区)を通過した際に赤塚城を立ち寄ったという伝承もあり、正確な築城年代は不詳である。
 また、赤塚郷はもともと足利直義(1307~52年)の所領であったが、観応の擾乱(1350~52年)後に足利氏一門の渋川家に与えられ、その後、足利幕府第三代将軍・足利義満が造営した京の臨済宗鹿王院に寄進された。ところが、享徳の乱(1455~83年)に際して堀越公方・足利政知の補佐として関東地方に下った渋川義鏡(生没年不詳)が武蔵国内での勢力拡大をはかり、下総国での内紛で生き残った千葉自胤が武蔵国に逃れた際に、赤塚郷を兵糧調達の名目で接収してから自胤に与えた。これに対して鹿王院は幕府に提訴し、幕府も寛正三(1462)年に自胤に退去を命じているが黙殺された。
 赤塚城は、真北にある荒川の渡し場を一望し、また武蔵国北部から南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえる、陸運・水運を掌握する要衝であった。赤塚城の千葉家は戦国時代には北条家の重臣として活躍したが、天正十八(1590)年に豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が滅亡すると、千葉家も所領を没収され赤塚城は廃城となった。

 現在、城跡の周囲は都立公園として整備されている。本丸跡を示す石碑の他には土塁、横堀、竪堀、水堀、堀切、切岸など、江戸城を除く東京都23区内の城跡の中では最も多くの遺構が残っている。天守構造は無い。

 赤塚城は中世の平山城だが、実際には砦と呼ぶべき規模であったようである。本丸は武蔵野台地北東端の段丘上に築かれており、城の北側は徳丸ヶ原と呼ばれる湿地帯だった。ふもとのため池は赤塚城の内堀だったとされるが、周囲の開墾が進んだ明治時代以降は農業用水として使用され、現在は板橋区立赤塚溜池公園となり、釣りの楽しめる池として親しまれている。現在、城域には板橋区立郷土資料館、板橋区立美術館が隣接する。
 アクセスは、都営地下鉄三田線・西高島平駅から徒歩15分。
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全国城めぐり宣言 第51回 「武蔵国 練馬城と古城の塔」資料編

2024年12月10日 23時19分40秒 | 全国城めぐり宣言
武蔵国 練馬城とは
 練馬城(ねりまじょう)は、東京都練馬区向山にあった室町時代の日本の城である。東京都指定旧跡。
 城跡は、1926~2020年に営業していた遊園地「としまえん」を経て、2023年5月に都立練馬城址公園が開園した。

 築城年代は不明であるが、14世紀末に豊島家が石神井城の支城として築いたものと考えられている。また、この城にはかつて「矢野将監」という人物がいたため(時期不明)、「矢野屋敷」や「矢野山城」とも呼ばれていたという。そのほか、「海老名左近」という人物がその後に練馬城またはその北側の谷に居を構えたという伝説も残されている。なお、『豊島名字之書立』(年月日不詳)には豊島家の人物として「ねりまひやうこ(練馬兵庫)」や「ねりま弥次郎」の名が記されているが、練馬城との関係は詳らかではない。

 豊島家は文明八(1476)年に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して関東管領の山内・扇谷両上杉家と戦った。この乱において、上杉方の江戸城と河越城の中間に位置していた練馬城は、近隣の豊島家の石神井城とともに、江戸・河越城間の連絡を遮断する役割を果たした。
 翌文明九(1477)年四月十三日、扇谷上杉家の家宰・太田道灌資長は江戸城を出撃し、練馬城とその周辺に攻撃した。これに対して練馬城主の豊島平右衛門尉泰明は、石神井城にいる兄の豊島勘解由左衛門尉泰経に連絡を取り全軍で出撃し、江古田原で合戦となった。この結果、豊島方は平右衛門尉泰明が討死し、生き残った勘解由左衛門尉泰経と残兵は石神井城へと敗走した。練馬城がその後どのようになったかは明らかとなっていないが、城主の討死や兵の石神井城への敗走により無人状態となり、そのまま廃城したものと考えられる。

 練馬城は、石神井川の南岸に位置する丘陵を利用して築かれた平山城である。城域は石神井川に流れ込む湧水が形成した侵食谷によって東西を刻まれ、南北に伸びた舌状台地を利用している。台地を東西に断ち切る石神井川の急崖をもって城の北の守りとしており、台地続きの南側を防御正面としていたと推定される。かつては南方の台地付け根部分に大きな空堀が存在したとされるが、現存していないため詳細は不明である。
 1927年刊行の『東京近郊史蹟案内』によれば、内郭(本丸)の規模は東西約110m、南北約95m であったとされる。北東部には75平方m 程の平坦部があって物見櫓跡と推定されており、以前には鬼門を守る「城山稲荷」が奉られていた(現在は移築されている)。土塁の幅は10~15m で高さは約3m、土塁頂上は通路として利用されていたという。また南方では馬出の跡も確認されている。城は、太田道灌との緊張関係が高まる中で石神井城とともに「対の城」として、大掛かりに改修された可能性が高い。遺構は近年まで若干残されていたが、1989年の「としまえん」内のプール施設などの建設により完全に消滅した。建設前の発掘調査では、最大で幅約10m・深さ約4m の空堀や土塁跡などが検出されている。
 かつては、練馬城を囲むように土塁と空堀が築かれていたとされるが、地表に遺構はほとんど残っていない。

 現在、城跡は「練馬城址公園」として段階的に整備されており、としまえん時代の2003年から開業した温泉施設「庭の湯」は営業を継続し、石神井川の北側区画では「ワーナーブラザース・スタジオツアー東京 メイキング・オブ・ハリー・ポッター」が営業している。
 アクセスは、西武池袋線・豊島園駅から徒歩5分。


古城の塔とは
 1926年のとしまえん開園時から存在している建築物。設計は、初期としまえんの設計者である戸野琢磨(1891~1985年)。イギリスの古城を模した建築物で、当初は食堂として使われていたいたが、イベントホールや喫茶店など用途が変わり、近年は年間フリーパス「木馬の会」の運営事務所として利用されていた。
 2020年のとしまえん閉園後に解体される予定であったが、地元団体や日本建築学会関東支部の要望により保全が検討され、2024年現在も結論は出ていない。現在はコスプレイヤーの撮影スポットとしても知られ、JCF(ジャパンコスプレフェスティバル)で「最大の人気スポット」として紹介されている。
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全国城めぐり宣言 第50回 「武蔵国 石神井城」資料編

2024年12月08日 20時58分35秒 | 全国城めぐり宣言
武蔵国 石神井城とは
 石神井城(しゃくじいじょう)は、現在の東京都練馬区石神井台にあった城。東京都指定文化財史跡。
 平安~室町時代に石神井川流域を支配していた豊島家の室町時代の居城だった。

 石神井城の築城時期は定かではないが室町時代中期であったと考えられている。鎌倉期以降に宇多家や宮城家らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びつつ石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島家が築いた城で、以後この地は豊島家の本拠地となった。豊島家は貞和五(1349)年に石神井郷の支配を開始したものの、応安元(1368)年に関東管領上杉家に所領を一時没収されており、その後応永二(1395)年に返却されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれも応永年間の建立と伝えられていることから、石神井城もこの応永二年の返却後に築城されたとする説が有力である。

 平安時代以来、武蔵国の豪族として名を馳せていた豊島家は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉家の家宰の太田家と対立を深め、文明九(1477)年の長尾景春の乱で太田道灌資長(1432~86年)に攻められ落城した。この合戦において、当時の豊島家当主の豊島勘解由左衛門尉(泰経?)は石神井城、その弟の豊島平右衛門尉(泰明?)は練馬城に籠城して太田道灌と対峙したが、同年四月十三日に練馬城を攻撃された後に江古田原合戦で惨敗を喫して平右衛門尉は討死し、勘解由左衛門尉は石神井城に帰還した。
 翌十四日に道灌は、石神井城と石神井川をはさんで約700m の距離にある小高い丘の愛宕山(現在の早稲田大学高等学院中学部周辺)に陣を張り石神井城と対峙し、十八日に和平交渉が開始されたが、豊島家が和平条件の石神井城の破却に応じなかったことから二十一日に道灌は攻撃を再開し、勘解由左衛門尉はその夜に城を捨てて逃亡した。勘解由左衛門尉は翌年一月に平塚城(現在の東京都北区上中里)で再起を図るが、道灌の再攻撃により戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている。なお、「石神井城の落城時に城主の娘の照姫が三宝寺池に身を投げた」と伝えられているが、これは明治二十九(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』の内容が流布したものであり、照姫は全くの架空の人物である。

 石神井城は、石神井川と三宝寺池(現在の石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状台地上に位置する。ただし、同時期に築城された他城郭と異なり、台地の先端ではなく基部に占地し、堀切を用いて東西の両端を遮断している。
 現在、城域一帯は開発が進み旧態は失われているが、土塁と空堀を廻らせた内郭(本丸)の跡がわずかに残っており、発掘の結果、屈折した堀と土塁によって城内が複数の郭に区画されていた「連郭式平山城」の構造であったことが判っている。天守構造はない。
 この城の最終形が完成したのは、太田道灌との緊張関係が高まった15世紀半ばで道灌の江戸城に対抗する城として大掛かりな改修が行われた可能性が高い。

 城は東西に約1km 延びる舌状台地の西端から中央部にかけて築かれており、内郭の規模は南北約100〜300m・東西約350m で、面積は約3万坪。北は三宝寺池、南・東は石神井川という天然の水堀によって守られていた。内郭が台地の先端ではなく中央部付近に築かれたのは、豊富な水量を持つ三宝寺池に接した方が生活面においても防衛面においても優れていたためであったと考えられる。なお、人工の防御構造は全て西向きに造られており、これは北・南・東からの侵入が物理的に不可能であったことを示している。台地の西側の付け根部分は、幅約9m、深さ約3.5m(土塁頂部との高低差推定7m)、延長約300m にも及ぶ大規模な水堀によって断ち切られており、その先は小規模な空堀と土塁が内郭まで続く構造となっていた。
 江戸時代の文化・文政年間(1804~29年)に編まれた地誌『新編武蔵風土記稿』には、「櫓のありし跡にや、所々築山残れり」とあるが、現在もその名残りとして水堀跡の内側に若干の高まりが見られる。また、水堀の西と内郭の東にも何らかの付属施設があったと考えられている(東側に「大門」の地名がある)。

 1998~2003年に実施された発掘調査では、内郭の空堀が「箱堀」で、深さ約6m・上幅約12m・下幅約3m であることが判明し、人為的に一部が埋められた跡も確認されたが、これは道灌に降伏した際の処置とする説が有力である。土塁の基底部幅は16.3m、高さ約3m(城が存在していた当時の高さは推定約6m )。また、内郭の土塁内側からは1間×1間の掘立柱建築物、3間以上の総柱または庇付き建物の可能性がうかがえる柱穴が検出された。そのほかには直径約4m、深さ約3m の巨大な地下式坑が検出され、これは食料貯蔵庫の跡と推定されている。内郭への出入りは西側に「折(おり 真横から矢を射掛けるための構造)」が存在することから、木橋によって行われていたとみられる。また、土塁中からは道灌との合戦時期に近い15世紀頃の常滑焼片が出土しており、内郭は戦闘に備えて急遽増築されたものとも考えられている。内郭からは遺物として12世紀以降の陶磁器、かわらけ、瓦、小刀、砥石などが出土したが、陶磁器は日常品が少なく白磁四耳壷・青白磁梅瓶・褐釉四耳壷などの威信材が目立った。これについては戦闘前に貴重品を内郭に運び込んでいたためとする説もあるが全体的に生活痕が乏しく、そのため近年では、内郭は生活の場ではなく非常時の籠城用施設であったとする見方が有力となっており、城主である豊島家の平時の居館の位置については、内郭に隣接し土塁や空堀が配置されていた「三宝寺裏山付近」と推測されている。なお、土塁の南側に切れ込みが観察されるが、これは虎口ではなく近世に入ってから造られた通路である。
 現在、内郭は遺構保護のためにフェンスが設けられており、無許可で立ち入ることはできない。

 石神井城跡から発掘された考古資料は現在、石神井公園近くの「石神井公園ふるさと文化館」で出土品を見ることができる(入館無料)。
 石神井城の遺構としては現在、内郭の空堀と土塁が石神井公園内に残っている。また、三宝寺池の西南端付近に空堀跡、その南側の住宅地内に物見櫓の痕跡(円形の高まり)が認められる。
 アクセスは、西武池袋線・石神井公園駅から徒歩15分。
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全国城めぐり宣言 第49回 「甲斐国 新府城」資料編

2024年10月09日 23時45分56秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 新府城とは
 新府城(しんぷじょう)は、現在の山梨県韮崎市中田町にあった連郭式平山城。別名・韮崎城。1973年に国史跡に指定され、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。2017年に「続日本100名城」の第127番に選定された。

 甲府盆地西部に位置し、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。
 石垣を使用していない平山城で、本丸・二ノ丸・東三ノ丸・西三ノ丸・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ。ちなみに本丸・二ノ丸は城主である武田勝頼の父・武田信玄の居館・躑躅ヶ崎館の本丸・西ノ丸に相当し、規模も同程度であることから、政庁機能を持つ城郭でもあったと考えられる。

 近年は発掘作業や間伐など整備がなされ、甲州流築城術の特徴である丸馬出や三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認できるようになった。また陶磁器類も出土している。支城として白山城(同市神山町)と能見城(同市穴山町)がある。

 武田勝頼時代の武田家の築城の特徴として、側面や背後を断崖や川に囲まれた台地の突端部を利用して戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流す構造が挙げられる。
 具体的には、正面の丸馬出より城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせ、そこに横矢を射て攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を排除できる構造で、同様な構造の代表的な城に遠江国では諏訪原城・小山城、信濃国では大島城がある。ただし、新府城の場合は支城である能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ、上に挙げた諸城と比べても、その規模は群を抜いて大きい。また、能見城の防塁は複雑に屈曲し、最大限に横矢を射られる構造となっている防塁が多数配置されている。
 ただし、諏訪原城は発掘調査から現在見られる縄張は徳川家が整備したことが判明しており、新府城の北側防塁も武田家ではなく天正壬午の乱時に徳川家が構築したものとの説がある。

 このように大規模な構造から、新府城とその支城群は、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提となっていたようで、実際に天正壬午の乱においては、徳川家康軍が北条氏直軍に対峙する本陣として使用されていた。
 また、新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は、江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられる。
 新府城は、使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7~8km、東西2km 周辺の自然地形全体が軍事的効果を持っていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城だった。

 戦国時代に甲斐国守護・武田家は本拠地を石和(現・笛吹市石和町)から甲府へ進出して、川田(現・甲府市川田町)に居館を移転した。
 第十五代当主・武田信虎の時代には甲斐国内を統一して戦国大名化し、古府中に居館である躑躅ヶ崎館が築かれ、家臣団を集住させて城下町を形成した。
 第十六代当主・武田晴信(信玄)の時代には領国拡張と平行して城下町の整備拡張がさらに進み、躑躅ヶ崎館は政庁の役割を持つ府中として重要な役割を果たすようになった。
 続く第十七代当主・武田勝頼の時代にも整備は行われているが、後背に山を持つ府中は防御に適しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃国、上野国西部、駿河国へと拡大した武田家の領国統治にとって不足であったため、首府の移転が計画されたと考えられている。
 新府城が位置する韮崎は甲府盆地北西端に位置しているが、戦国時代に拡大した武田領国においては中枢に位置し、躑躅ヶ崎館の府中よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられている。また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し、さらに釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、新城築造の背景にあったと考えられている。

 天正三(1575)年五月二十一日の設楽ヶ原合戦において、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗し、それ以降、武田勝頼は領国支配の強化に傾注した。
 天正時代に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』によれば、天正九(1581)年三月には甲斐国河内や駿河国江尻を領する武田家一門衆の穴山信君(梅雪)が、主君・勝頼に新たな築城を献策したという。
 その一方で、新府城の築城に関する史料上の初見は『長国寺殿御事跡稿』(真田宝物館所蔵文書)で、同年正月二十一日に、武田家重臣・真田昌幸が配下の国衆に人足動員を命じた記述とされる。この書状を根拠に新府城の普請奉行を昌幸とする説もあるが、昌幸は勝頼の命により人夫動員を通達したものに過ぎず、昌幸普請奉行説を慎重視する意見もある。
 中世~近世初期の古文書集『武州文書』によれば、同年九月に新府城の普請は完了したという。このため、穴山信君の献策は前年の天正八(1580年)七月のこととする説もある。
 普請が完了した同年末には勝頼が新府城へ入城し、武田家の本拠地は躑躅ヶ崎館から新府城に移転した。

 天正十(1582)年二月、武田勝頼は信濃国での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田信長・徳川家康連合軍に阻まれて帰国した。織田軍はさらに甲斐国へ侵攻し、武田勝頼は三月には重臣・小山田信茂の岩殿城に移るために、新府城に火をかけて放棄した。
 その後、勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(現・大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(現・甲州市)へ追い詰められ自害し、武田一族は滅亡した。

 武田家の滅亡後、織田家は甲斐国と信濃国諏訪に家臣の河尻秀隆を配置し、秀隆は岩窪城(現・甲府市岩窪町)を本拠としたという。しかし同年六月に本能寺の変が発生し、秀隆は混乱のなかで横死する。これにより甲斐・信濃両国の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生し、三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が甲斐国へ侵攻した。天正壬午の乱において徳川軍は新府城跡を本陣に、能見城など七里岩台上の城砦に布陣した。それに対して北条軍は都留地方を制圧し、若神子城(現・北杜市須玉町)に本陣を置くと周辺の城砦に布陣し対峙した。同年十月には徳川・北条同盟が成立し、北条家は甲斐国から撤兵する。
 これにより甲斐国は徳川家が領有し、甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした。
 天正十八(1590)年の小田原合戦により北条家が滅亡すると、豊臣政権に臣従していた家康は関東地方へ移封される。甲斐国は羽柴秀勝・加藤家・浅野家が領し、豊臣政権大名時代に躑躅ヶ崎館を中心とする城下町の南端にあたる一条小山に新たに甲府城が築城され、新たな甲府城下町が形成された。その後、関ヶ原合戦を経て甲斐国は再び徳川家が領し、近世を通じて甲府城は甲斐国の政治的中心地となり、新府城は廃城となった。
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全国城めぐり宣言 第48回 「甲斐国 白山城」資料編

2024年10月09日 22時42分43秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 白山城とは
 白山城(はくさんじょう)は、現在の山梨県韮崎市神山町鍋山にあった山城。築城年、築城者は不明(武田信義の説あり)。「白山城」の名は、鍋山の中腹に鎮座する白山権現社に由来する。別名に鍋山砦、江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』では「要害城」と伝わる。国史跡。

 所在する鍋山は甲府盆地の北西端にあたり、赤石山地北東の巨摩山地・甘利山地に属する独立峰状の尾根に立地する。標高573m。釜無川右岸地域で塩川との合流地点に近く、釜無川が七里岩の崖下に押し付けられ回廊状となった地形の末端部にあたる。前面には開削された段丘が広り、谷底平野が形成されている。
 釜無川右岸には武田信義(甲斐武田家初代当主 1128~86年?)の居館跡もあり、同じ神山町の宮地には信義の菩提寺である願成寺や武田八幡宮など、甲斐武田家にまつわる史跡が分布している。七里岩上の韮崎市中田町中條には、戦国時代末期に武田勝頼(甲斐武田家第十七代当主 1546~82年)が築城した新府城が所在している。
 白山城の南に隣接する尾根には「南烽火台(ムク台烽火台)」、北に隣接する尾根には「北烽火台」と呼ばれる山城が存在している。
 周辺の主要街道としては、信濃国方面から西郡地域を経て甲府盆地南部の河内路へ通じる「西郡路(現・国道52号線)」のほか、甲州街道の一部である「河路」や、韮崎宿から七里台上を経て八ヶ岳山麓の信濃国蔦木宿へ通じる「原路」などが存在している。

 江戸時代の地誌『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川流域に土着し、戦国時代には在郷武士団である「武川衆」となった。寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編纂した武家家譜集『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木家が領有し、甲斐武田家第十四代当主・武田信縄(1471~1507年)から第十六代当主・晴信(1521~73年)までに仕えた八代・青木信種(1481~1541年)が「鍋山城」を守備したとあり、これが白山城にあたると考えられている。その後、青木家の分家・山寺家が領したという。
 その一方で、中世の文書や記録史料には白山城に関するものは見られず、もっぱら近世の地誌類や家譜などにしか見られない。寛永二十(1643)年に江戸幕府が編纂した家譜集『寛永諸家系図伝』や、先述の『寛政重修諸家譜』においては、戦国時代に武川衆の青木・山寺両家が甲斐武田家から「鍋山の砦」の守備を任されたとしている。
 江戸時代の甲府勤番士の日記『裏見寒話』によれば、武田八幡宮の南に「鍋山八幡」の存在を記している。『裏見寒話』では、この鍋山八幡を源為朝伝説に付会した説を取り、これは現在の白山神社と為朝神社に比定されると考えられる。

 戦国時代末期の天正十(1582)年三月、織田・徳川連合軍の侵攻により甲斐武田家は滅亡し、第十七代当主・武田勝頼は居城の新府城を退去して重臣・小山田信茂の領地である郡内へ逃れる途中に、田野(現・甲州市大和町)において自害した。同年六月、本能寺の変により織田信長が死去すると、甲斐・信濃国の旧武田領を巡り「天正壬午の乱」が発生し、甲斐国では徳川家康が七里岩台上の新府城跡に布陣し、同国の若神子城(現・北杜市須玉町)に本陣を置く北条氏直と対峙した。その中で武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木家・山寺家が配置され、諏訪方面の監視を行った。白山城はその時期に修築されたと考えられている。
 江戸時代初期の寛文年間(1661~73年)に廃城となった。

 現在の白山城跡には、鍋山の山頂を中心とし中腹や背後の尾根に曲輪、土塁、横堀、堀切、竪堀などの遺構が残されており、南北に烽火台・物見台が配置された、山梨県内でも類例の少ない中世城郭の遺構と考えられている。天守閣は無かったと思われる。
 山頂に位置する本丸は約25m 四方程の方形で、南東と北西に虎口が開き、土塁が巡らされている。この南側には一段下がって二ノ丸が存在し、本丸と二ノ丸の間には横堀が掘られ、西側には堀切が2本見られる。

 白山城跡の南東には白山権現社が所在し、慶応四(1868)年に江戸幕府に提出された報告書『甲斐国社記・寺記』によれば、かつて当社には慶安二(1649)年付の徳川家朱印状が伝来し、その頃には神社としての態勢が整えられていたと考えられている。神主は大村家。
 『甲斐国志』によれば、甲斐源氏初代当主である新羅三郎義光(1045~1127年 武田信義の曽祖父)が甲斐国へ進出した時期にはすでに当社が存在していたとする由緒が伝わっている。
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